剣の鎖 - Chain of Memories - 第五十一話









 綺礼が間桐桜を抱きかかえ、柳洞寺に戻るとそこに、黒い騎士が一人待っていた。細い光を一身に浴び、風の中に身を晒しながら。

「言峰綺礼。その女性を渡して貰います」

 感情の色など無い声。押し殺した声で囁かれたアルトリアの言葉に、綺礼は微かに肩を竦めた。

「それは、イリヤスフィールの命令か?」

「いいえ。彼女から頼まれただけです。私は誰の命令にも従うつもりはない」

 そうか、と頷いて綺礼はアルトリアに間桐桜を引き渡した。未だ深く眠るように息を沈めている少女を最後に一瞥し、綺礼は感慨を捨て去った。
 にべも無く立ち去ろうとするアルトリアを視線で追い、綺礼は厳かに口を開いた。

「セイバー。どうだった、おまえの望んだものの正体は。その眼でしっかりと見てきたのだろう?」

「…………」

 両の腕の中に少女を抱いたまま、アルトリアは振り仰ぐ。

「別に何も。見せられたものはただの魔術基盤だ。その規模や緻密さに驚きこそ覚えはしたが、聖杯として顕現していないものを見たからといって、それ以上の感慨など浮かんでくる筈もない」

「そうか。だがもうすぐおまえの欲するものに手が届くのだぞ? 十年前、衛宮切嗣に否定されたおまえの願いを叶える聖杯が今一度姿を現す。ならば多少の感情の揺らめきくらいは見せて欲しいのだがな」

「……ふん。貴様に見せるものなど何一つしてない。貴様の手など借りずとも、私は自ら聖杯を手にしてみせる」

 言峰綺礼に対するアルトリアの態度は終始この調子だ。イリヤスフィールに見せた優しさは嘘のようになりを潜め、冷徹な視線だけが突き刺さる。
 アルトリアは綺礼のことを覚えてなどいない。にも拘らず、こうして敵意を垣間見せるのは直感か、あるいは残滓か。

「……まあいい。では下のことは任せるぞ」

「……? 貴様はここに残るつもりか? 何が願いかは知らないが、貴様も聖杯を望んでいたのだろう」

「違うな。私はただ祝福するだけだ。生あるものに我が祈りを。生まれ出ずるものに聖なる福音を。中立である監督役として、神父として謳うだけだよ。
 故に──聖杯はおまえのものだ、セイバー。願えよ、祈りを。貴様の祈りは、かくも美しいのだから」

 たとえその尊き願いが間も無く穢されるとしても、綺礼は願わずにはいられない。むしろその瞬間こそを見てみたい。

「……ふん。私の祈りは私だけのものだ。貴様に言われずとも、必ず成し遂げるさ」

「それでいい。ではな、セイバー。私は露を一つ払ってから後を追う。君の願いが成就する瞬間を、見逃したくはないからな」

 そんな神父の戯言を背に、アルトリアは石段を下っていった。







 淡く発光する地面。敷かれた巨大な魔法陣が起動している。暗い空間を照らし上げるその起動式のすぐ傍に一人の少女がいた。人工的に造られた崖の淵に腰掛け、ぼんやりと見えない空を仰いでいる。

 どこまでも広大で、どこまでも陰湿な大空洞。聖杯を降ろす場所なのだから、もう少しこう格好のつく神殿とかあればいいのに、と呟いてみたところでくすくすと笑う。

「無理ね。ここまでの大掛かりな儀式を敷くだけでも人の目につく可能性があるのに、そんなものを作ったらすぐにバレちゃうもの」

 円蔵山をまるまる刳り貫いたような規模を誇るこの大空洞は直径で数キロに及ぶ。入り口は秘匿されており、常人では目にもつかない。けれど、何を拍子に迷い込むか判らない。さながら、妖精の国に迷い込む稀人のように。

 人目を避けて設けられた儀礼の中心。敷設された魔法陣は崖の上に作られ、今なお聖杯たる少女の頬を淡く染め上げている。

 ぶらぶらと足を揺らすイリヤスフィールは、端的に言って暇だった。せっかくアルトリアにこれを見せてあげたのに、全然驚いた様子も無かった。
 まあ彼女は魔術師ではなく王様で、欲しいのは魔法陣じゃなくて聖杯だ。ならば仕方がないことかな、と思うことにしておいた。

「ねえ、ユスティーツァ様」

 あまりに暇すぎて、少女はつい後ろに声を掛けてみた。魔法陣の中心にして中枢、聖杯戦争の基盤を形作る原初の天才。始まりの聖女、ユスティーツァ・リズライヒ・フォン・アインツベルン。

 眠るようにして横たえられた彼の聖女に話しかけてみたが返事はもちろんなかった。ユスティーツァは既に二百年も過去の人であり、彼女はもうここにはいない。
 ただ自らの身体を組み込んだ式の中で、組み上げた式を廻すだけの存在。肉体としての彼女はここにあれど、精神はイリヤスフィールの中にある。

 といっても、それは記憶だけだ。代々受け継がれるアインツベルンの系譜。人ならざる彼女らが継承する記憶の欠片。
 イリヤスフィールの中には全てがある。魔導翁の立会いの下行われた最初の儀礼の瞬間の記憶から、歴代の聖杯の守り手が見守ってきた戦火。そして母が見た四次の記憶さえも。イリヤスフィールにではなく、アインツベルンに組み込まれた血の遺伝子。

 第三魔法の成就を願う、狂信者の呪い。

「アインツベルンの悲願はまもなく成就します。ユスティーツァ様が創造した儀礼は二百年の時を越えて、私の代で完成します」

 返る言葉などないと知ってなお、それでも少女は語り続けた。

「でも、変な話ですよね。最初に夢見たものを、今や誰も覚えていない。なぜ聖杯を悲願したのか、なぜそんな奇跡に拠らなければならなかったのか、もうほとんど記憶から薄れてしまっている」

 それを覚えているのは彼女だけ。原初、ユスティーツァがその身を捧げてまで造り出した聖杯は、もはや争いの火種と成り下がっている。
 互いに手を取り合った筈の三家は血で血で洗う闘争を五度繰り返し、外来の魔術師は彼らの甘言に踊らされ半ばで朽ちていく。

 一度として完全なる降臨を見ていない聖杯。それを、イリヤスフィールが形にする。たとえその結果が、最初の人達の望んだものと掛け離れた結果を生んだとしても。それが聖女としての生を受けた少女の宿業だ。

「でも私は、賭けてみたい」

 何を、とは言わなかった。ただ虚空を見上げて、返らない声を待ち続ける。

 そんな中、湿った暗黒を切り裂いてアルトリアが姿を見せた。まだ遠い崖の下、間桐桜を抱いたままゆっくりとこちらに向かってくる。
 さて、これで一応の準備は整った。が、まだイリヤスフィールの杯に英霊の魂は満ちていない。半分は桜の中にある。このままでは儀式はならず、聖杯は降臨を見ない。

「早く来なさい。貴方達が来なければ、何も始まらず終わらないのだから」

 その最後に。

 ────待ってるよ、シロウ。

 そう呟いて、イリヤスフィールはまた闇に閉ざされた虚空を眺めた。






決戦の地へ(前)/Finale I




/1


 刹那にも似た時間の中、駆け抜けるようにその夢を見る。さながら、夢の主人公が駆け抜けてきた時間を共有するように。

 王家に生まれながら男子ではなかった彼女。望まれながらも望まれた形として生まれられなかった彼女は、半生を王の下ではなく老騎士の下で過ごす。
 けれど彼女は健やかに成長し、厳格な老騎士の教えを真摯に受け止め、女性の身でありながら騎士としての志を胸に抱いていく。

 手にするものは剣。戦乱にあるこの国を救えるものが王だけであるのなら、誰に言われるでもなく剣を振るうと胸に誓って。

 十代も半ばに差し掛かる頃、とうとう訪れた予言の日。新たなる王を決めるその日、数多の騎士達は馬上戦で決めるものと疑わなかった。一国を治める者ならば誰より強くなければならない。最も強き者がこのブリテンの王になるのだと。

 しかし、選定の場に用意されていたのは一振りの剣だけ。岩に突き刺さった絢爛な剣の柄には、こう記されていた。

“この剣を岩から引き出した者は、ブリテンの王たるべき者である──”

 その銘に従い多くの騎士が剣を掴んだ。けれど誰一人として剣を引き抜くこと叶わず、やがて騎士達は闘技場に赴き、予め用意しておいた馬上戦による王の選定を勝手に始めてしまった。

 まだ騎士見習いだった少女には、馬上戦の資格など無い。
 周囲からは人気が絶え、遠く喧騒の声を聞きながら、少女は選定の岩に近づくと、躊躇うことなく剣の柄に手を伸ばした。

『いやいや。それを手に取る前に、きちんと考えた方がいい』

 振り向くと、この国で最も恐れられていた魔術師がいた。魔術師は語る。その剣を抜いたが最後、おまえは人ではなくなると。
 その言葉に、少女は頷くだけで返した。王になるとは、人ではなくなると言う事。そんな覚悟、生まれた時から出来ていた。国を守る為に。民を守る為に多くを殺す、人ならざる王になる決意など。

 それでも引き止める魔術師。その剣を抜いた先に描かれる栄光と破滅、彼女の辿る運命を見せてなお、少女は揺るがなかった。いや、微笑んでさえいたのだ。

『──多くの人が笑っていました。それはきっと、間違いじゃないと思います』

 それが、答え。彼女の下した、少女としての最後の答えだった。







 それから彼女は王となった。王に性別など関係ない。ただ王として機能さえすれば、王の風貌など誰も気にかけず、一顧だにされまい。
 仮に王が女性だと気付く人間がいたところで意味も無い。王として優れているのなら、なんら問題にはなりはしなかった。

 現に、彼女は誰よりも巧く王をこなした。

 選定の剣を引き抜いた瞬間から少女の成長は止まり、幾年月を経ても容姿は変わらなかった。それを不気味がる騎士もいたが、多くは王の不死性を神秘と讃え上げた。

 ────そうして。
 後に伝説にまで称えられる、王の時代が始まった。

 新たなる王の戦いは、まさに軍神の業だった。
 王は常に先陣に立つ。数多の騎士を率い、誰よりも壮大に戦場を駆け抜けた。若き少年王を、誰一人として阻める者などいなかった。

 赤き竜を背に、十の歳月に十二の大戦を経てなお常勝無敗。王として、騎士として、彼女は誰よりも絢爛に戦場を駆け抜けた。

 一度も振り返らず、一度も汚れず。彼女は王として育ち、その責務を全うしたのだ。

 ただ、その過程で失われていったものも少なくはなかった。誰もが王を持て囃したのは最初だけ。
 王の国を守る為ならば自国の民さえも犠牲にする様を残虐と罵り、一切の手心のない執政を恐怖と謳い、寸分の狂いなく咎人を罰する王をやがて騎士達はこう評した。

“アーサー王は、人の気持ちがわからない”と。

 王が最も信頼を寄せ、最も重用した朋友とも呼べる騎士が、キャメロットを離れる際に残したその言葉は、正しく呪いであった。
 無双の騎士が王城を離れたのを契機に、王の在り方に疑問を抱いた他の騎士達もやがて王の下を去っていく。けれどそれでも王は揺るがず、騎士の離反さえも当然の出来事として受け入れ、統治の一部として組み込んだ。

 王にとって、それは当然の結末だ。人ではなく、王となった時点で感情を測る術など失った。ただ国を統べる者として、民を守る者としての最善を尽くす、王という名の機巧へと成り果てている。

 彼の騎士の言葉は正しい。
 王には最早、人の心を推し量る少女の心がなかったのだから。

 されど、それは少女の決意。選定の剣を引き抜く瞬間に抱いた心。遠く悠久を想い、多くの笑顔で彩られた祖国の為ならば、誰に理解されずとも構わない。裏切られ、恐れられようと構わない。

 少女はただ皆を守りたかった。そしてその為には、“人々を守りたい”という感情を捨てなければならかった。
 全ては覚悟の上だった。在りし日の少女の心を封殺し、手にした剣で多くを殺し、けれどその結果としてより多くを救えるのならば、構わないと。

 その気高い誓いを、誰が知ろう。

 ────戦うと決めた。

 何があろうと、たとえ、その先に、

 ────それでも、戦うと決めた。

 避けえない、孤独な破滅が待っていても。







 そして、その終わりがあの丘だった。

 カムランの戦い。王の遠征の留守を襲い、玉座を簒奪した一人の騎士の手によって、彼女が守りたかった国は二つに分かれて殺し合った。
 逆賊に組したかつて自身が従えていた騎士を悉く斬り伏せ、自身が守ってきた土地に攻め入った。

 かろうじて自分に付き従ってくれた騎士達も戦いに散り、自身の身体も、傷ついて動かなかった。

 彼女はこの結末を知っていた。剣を引き抜く瞬間、全てを魔術師が見せてくれた。それでもなお走り続けてきたのは、信じ続けていたからだ。
 だから後悔などない。あるとすれば無念だけ。遠くに在りて想う、荒れ果てた祖国の姿。

 血染めの掌。数多を斬り殺してきた聖剣を手に、膝を屈したのは黎明の丘の上。
 薄墨に染まった空と、亡骸に覆われた朱の丘。重く立ち込めた雲は去り、戦いは終わりを告げていた。

 その果てに──彼女が最後に願ったものは、唯一つの澄んだ祈りだった。





/2


 そこで夢より醒めた。一人の少女、一人の王が駆け抜けた生涯。見果てた先で、士郎に浮かんだ感慨は、酷く悲しいものだった。

「ああ……なんて、バカなんだろう」

 一人で全部を背負って、誰にも相談なんか出来なくて、皆が望む王で在り続けたというのに、その最後は信じたものに裏切られたなんて。
 アイツの周りにいた騎士達にしてもそうだ。全部押し付けて、知らぬ顔で王を非難するだけの大馬鹿野郎達。

 たった一人でいい。たった一人だけでいいから、アイツを支えて、アイツを理解してやれる奴がいたのなら。誓いを胸に誇り続けたその果てに、あんなにも哀しい祈りを、抱かなかったかもしれないのに……。

 今更だ。今更過去の人達のことを怒っても意味なんか無い。けど腹は立つ。だから今、この現代で俺がアイツを止めてやる。
 敵わないなんて知らない。届かないなんて知ったことか。踏ん張って、立ち上がって、アイツの眼前に立って言ってやる。

 あの少女がきっと、最も言って欲しかった言葉を、必ず言ってやるんだ。

「ちくしょう……」

 頬を伝う涙を拭い、士郎は立ち上がる。時計を見れば大分いい時間だ。立ち止まっている暇など無い。後はもう、駆け抜けるだけなのだから。







 士郎が結局起き抜けたのは予定時刻の一時間前。睡眠時間は充分とは言い難いが、体調はいつにも増して良好だ。身体を支えるものが精神であるのなら、今の士郎はまさしく十全と呼んで差し支えない。

 軽く道場で汗を流しシャワーを浴びる。さっぱりしたところで台所に立つ。バゼットも間も無く起きてくるだろう、その前に食事の準備をしておく。夕飯の食事風景を見てまあ、多少複雑な心持ちだったが、手は抜かない。

「おや。早いですね、士郎くん」

 完成を見る直前にバゼットが居間に姿を現す。ジャスト。読み通りの時間にバゼットは起きてきた。

「おはよう、バゼット。よく眠れたか?」

「おはようございます。ええ、問題なく。そういう貴方の方は?」

「大丈夫だよ。力有り余ってるくらいだ。あ、そうだ。飯食うだろ。食いすぎもどうかと思うけど、何も食わないのもあれだろ」

 出来上がった料理を順々にテーブルに並べていく。といっても朝食レベルの軽いものがほとんだ。これから戦いに行くというのに、重すぎるものを食べて腹を殴られでもしたらたまったものじゃない。

「ええ、いただきます」

 言ってさっと席に着くバゼット。こちらも対面に座して箸をつける。
 いただきます、と口にした瞬間から目の前で流れている光景は未だ以って信じがたいことだが現実なのだろう。
 その華奢な身体の一体どこにそれだけの量が入るのかと不思議に思わずにはいられない速度で、バゼットは料理を平らげていく。

 まあ人の食べ方にとやかく言うのもあれなので、士郎は自分のペースで食事を始めた。







 片づけを終え、指定された時間までをゆっくりと過ごす。と言っても作戦の再確認をしたりもしていれば、時間はすぐに過ぎ去っていく。
 時を刻む針を見上げる。時刻は間も無く午前三時半を指そうとしている。

 一度客間に戻ったバゼットが居間に再度戻ってきた。戦場で見えた時と同じ格好。先程までのラフな格好を正した姿だった。士郎にはとりわけ準備するものが無かった。あるとすれば、それはこの心だけだ。

「行くか」

「ええ。凛さんとは柳洞寺の麓、石段下で一度顔を合わせる手筈になっています」

「よし。じゃあ行こう。これで、全てを終わらせる」

 決意を灯し、二人は衛宮の屋敷を後にした。





/3


 衛宮士郎とバゼットが屋敷を出る少し前。遠坂凛とセイバーもまた遠坂邸を後にし、目的の場所……柳洞寺へと至るべく行動を開始していた。

 朝と夜の間、本来なら人が活動する時間ではないこの時刻。無論、相手とて本来ならば身を休めている時刻だ。サーヴァントに休養は必要ないとは言っても肉体的な疲労は蓄積する筈。よってその隙を衝ければと思っていたが、そう巧くはいかないだろう。

 向こうもこちらの動きを察知していると考えて動くべき。予定に支障なく休息を得られた事から考えて、完全にこちらの思惑を把握しているわけではない。が、むしろ誘っている可能性もある。
 こちらに残る最後のサーヴァント、セイバーの存在。あちらが最後の仕上げとして欲するものはセイバーの首級……魂だろう。

 これまで出逢ったサーヴァントのほとんどの消滅を確認しているが、まだ残っている者がいる可能性もある。
 視野を狭めることなく、最大限の注意を払わなければならない。

 灯りの絶えた町を往く。深海を思わせる暗闇を照らし上げるのは無軌道に灯り続ける街灯のみ。まだ遠い柳洞寺にも肉眼で捉えられる灯りはない。けれど、それ以上に禍々しい魔力が立ち昇っている。

 儀礼はいつ始まるともしれない。完全な起動を見る前に、残る敵の打倒と攫われた二人の救出が急務だった。

「うーん。やっぱり変よね」

「何がですか?」

 そんな中、凛が口を開いた。降る沈黙に耐えかねたとばかりに。

「いやね、この段にもなって綺礼が桜を匿ってる理由。慎二に電話して聞いてみたけどまだ戻らないって話だから、絶対柳洞寺にいると思うんだけど」

「桜さんが従えていたサーヴァントは消え、聖杯戦争ももはや最終局。この段階で聖杯を手にする権利を失ったマスターを捕えておく必然性が無い、と」

「そ。あの教会の地下で綺礼はわざわざわたしに桜の身の保障の話までしてきたから、わたしを誘う囮としての役割も考えられるけど……」

 それもまた現実性のない話だ。アルトリアが綺礼の側ならアーチャーの消滅も伝わっている筈。なら凛もまたマスターとしての権利を失っている事も知っている。
 聖杯の成就が綺礼の目的ならば、凛など眼中に無いだろう。枠の外に置かれた者をわざわざ誘う必要など無い。凛が柳洞寺に向かうのですら私闘に近いのだから。

「その答えもまた僕らには判らない。全ては柳洞寺に行けば判ります」

「そうね。全てを解き明かす為にも、わたし達はあの場所に──」

 続けようとした言葉がセイバーに遮られる。凛の歩を止め、セイバーは辺りを窺うように注意深く視線を配った。

「……敵? 嘘、気配なんて全く感じない……」

 微弱な魔力の漏れ、微かに零れる息遣い、隠そうとも決して隠し通せない殺気。そのどれもが感じられない。警戒を強め、センサーを張り巡らせてなお凛は何一つ感じ取る事が出来なかった。

 夜の闇。灯る街灯が視界を染め、暗闇に歌う虫の息遣いだけが耳朶を打つ。セイバーは忙しなく視線を動かし、敵の位置の把握に躍起になっていた……が。なかなか尻尾を掴ませてくれない。

「凛さん。先に行ってください」

「え? でも……ていうか、誰なの? もうわたし達を狙うような輩なんていないでしょうに」

 そう、凛の困惑は当然だ。たとえこちらを窺う敵がいようとも、こんなに気配を隠し通せる筈が無い。臨戦態勢に入った凛やセイバーの網にかからないなんて有り得ない。

 綺礼ならば魔力で気付ける。アルトリアやギルガメッシュであればそもそも姿を隠そうとすらしないだろう。ならば未だ存命するサーヴァント──凛が予測する限り、生き残りがいるとすればキャスター──か。

「違います。これはキャスターなんかじゃない」

「じゃあ誰だって言うのよ。まさか外来の魔術師?」

「いいえ。これは……酷く臭い。埃にも似た微かな不快感。目に付かなければ気付かないのに、一度気が付くとやたらと気になってしまう。
 風と砂。砂漠を渡るものが染み付かせる……その匂いだ」

 セイバーは一振りの剣を引き抜いて、より視線に……いや、嗅覚に神経を集中する。どんなに隠そうとも消せない匂い。肌に染み付いた匂いは決して拭い切れない。風を纏いて砂を渡る、暗殺者の気配。

「凛さん、早く行って下さい。どうやらこの敵の狙いは僕のようだ。貴女はマスターと合流して、先へ」

 敵の気配すら感じ取れない凛にとって、この場で出来る事など何もない。むしろ邪魔になる。完全な死角からの強襲に遭えば、身を守る術とて無い。

「わかったわ。けど、貴方も早く追ってきなさい。今更作戦の変更なんて出来ないんだからね」

「ええ。すぐに後を追います」

 セイバーの心強い返事を背に、凛は柳洞寺を目指し駆け出した。

 その背を警戒するセイバー。もし凛に手を出せば、その瞬間に敵を斬って捨てるという威嚇を込めて。

 凛の姿が闇の彼方に消え去ってからも、セイバーの周りには奇妙な気流が生じている。敵は最初からこちらを誘っていた。セイバーにだけそれと判るように気配……匂いを飛ばし注意を惹き付けていた。

 ……ならば敵の狙いはセイバーの足止め、か?

「ふん、暗殺者の分際で敵に気配を悟らせるなんて愚かにも程がある。でもその覚悟があるのなら、姿を見せたらどうだ?」

 セイバーの声に返るものはない。しん、と針を思わせる冷たい空気に、微かに混じる砂の匂い。

 誘いにも乗ってこないところから見ても、敵は完全な足止めが狙いらしい。姿はなく、けれど何処かにいると思わせている以上、背は見せられない。攻撃に移る瞬間ならば絶対に殺気を漏らすだろうが、その刹那は遠すぎる。
 ましてや暗殺者に背を見せるなど、一番の愚行だ。

 それから数分の間、セイバーはじっと動かず気配を探り続けた。風の流れから遡る匂いの源流、押し殺した気配の残り香。何か一つでも掴めればと思い神経を研ぎ澄ませたが、やはり何も捉えられない。

 なるほど、ならば敵は一流の暗殺者。わざと自らの存在を仄めかしておきながら、ここまで尻尾を掴ませないとは相当の手練。
 動けず、捉えられず、進めなければ退けもしない。八方塞。標的の足止めという戦略において、ここまで理に適った行動を取れるものはそうはいない。

 しかし。だからこそその失態に気付けない。匂いを残した。気配を悟らせた。存在を仄めかせた。その行動自体が既に、自らは標的に劣る、戦闘能力では及ばないのだと宣言しているのと変わらないことに。

「やだなぁ、近所迷惑になるからこの手は使いたくなかったんだけど。僕がぐずぐずしていると凛さん達が殺される恐れがあるから、もう手段は選ばない」

 赤い歪みが生じ、一振りの“奇妙な剣”が現れる。手にした瞬間、セイバーを中心に微かな風が立ち昇り始めた。敵の漏らす匂いすら巻き込んで、目に見えるほどの風が渦を巻いていく。
 逆巻いた風はセイバーの姿を覆いつくし、更なる風を引き寄せ勢いを増していく。

「覚えておけ、暗殺者。戦いとは、こういうものを言うのだ」

 全てを粉砕する風が渦を巻き、天高く昇っていく。
 赤色の風。地上に咲いた黄金の光より放たれる紅の暴風が、迫る決着に先んじて戦いの狼煙となって夜を染めた。













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