剣の鎖 - Chain of Memories - 第五十二話









 セイバーを遠く置き去りに、一足早く柳洞寺の麓へと辿り着いた凛は合流する予定の二人の姿を探したが見当たらなかった。
 まだ到着していないのだろう、と思い凛は空を見上げた。

 果てしなく天へと伸びる石段。麓より見上げれば、実際よりもその頂が遠く感じる。この石段が細く鋭利に輝く三日月へと至る硝子の階段であれば、もう一つばかりロマンティックであったのだが。

「ま、望むべくもないってね。そんな少女趣味でもないし」

 何よりも、果ての空に見える昏い光。あれは御伽噺にある夢の国に至る出口なんかじゃない。それこそ渦を巻いた闇。奈落へと通じる門に他ならない。
 濁った魔力に溢れた山門。その奥はより禍々しいものに溢れているに違いない。頬を撫でる風合いは切り裂くように冷たく、木々がざわめいて警告している。

 これより来るのは良くないものであると。

 聖杯の真実を知らない凛はこの光景を見て疑惑を抱いた。これが、無色の力なのか? これが万能の釜の所業なのかと。
 方向性のない魔力の渦。奇跡を齎す聖なる杯。その内から溢れ出したものがこんなにも黒く濁ったものであるのなら、遠坂が……これまで聖杯の奇跡に祈りを託してきた者達の戦いはなんだったのかと思わずにはいられない。

 しかし、結局のところは聖杯に直に触れてみなければ判らない。そして凛にはもはやその資格が無い。権利を有するのはサーヴァントを従えた者。衛宮士郎。彼ならば、正しい結末を下してくれる筈……

「遠坂!」

 丁度その時、その声を聞いた。凛の姿を目視したからなのか、早足に駆けて来る少年。追随するもう一人の女性。衛宮士郎とバゼット・フラガ・マクレミッツだった。

「悪い、遅れた」

「ううん、わたしも今着いたところよ」

 何故かデートの待ち合わせをしていた男女のような会話を交わしてしまい、凛は小さく笑いを零した。これより挑むのは死地であるというのに、今ので随分と気が楽になった気がする。

「……遠坂。セイバーは?」

「途中で敵と出くわしちゃって、その足止めをして貰っているわ」

 凛の言葉に二人が揃って反応した。

「凛さん、敵とは誰ですか?」

「まさか騎士王か?」

「違うと思うわ。セイバーは感づいていたみたいだけど、わたしには判らなかった。姿を隠してたし、気配すら捉えられなかったもの。
 セイバーは確か……砂漠を渡る者……とか言ってたけど」

 凛の言葉を受けても士郎は全く判らないという風だったが、バゼットは違った。ふむ、と頷いて心当たりを口にした。

「ならば敵はアサシン……ハサン・サッバーハでしょう」

 冬木の聖杯戦争において、アサシンのクラスに据えられるのは彼の名を冠した者達だけである。アサシンの語源となった暗殺教団の歴代の党首。個ではなく群としてある面貌なき死神。

「はぁ!? ちょ、ちょっと待ってよ。アサシンはもうわたし達が倒したわ。バゼットだって見たでしょう? わたしとアーチャーが、柳洞寺の山門に居たアサシンと対峙していたところを」

 無名の剣士。身の丈を超える長刀を担い、絶技に及ぶ技を披露したサーヴァント。確かにあの男はアサシンのサーヴァントであった筈。そして凛とアーチャーはあの男を倒し境内へと至ったのだから。

「ええ。ランサーからの報告でもこの山門を守護していた者がアサシンのサーヴァントであった事は聞いています。
 が、疑いの余地はない。凛さんとセイバーをして捉えきれない敵など彼の暗殺者しか有り得ない」

 これだけのイレギュラー続きである今回の聖杯戦争において、バゼットはもはや何が起ころうと動じないだけの冷静さを手に入れている。
 山門にいた男は間違いなくアサシンのサーヴァント。そして凛とセイバーを襲撃した者もアサシンのサーヴァント。

 そこにどんなカラクリがあるのかは判らないが、事実は事実としてある以上、詮索などもはや無用。敵は殲滅する。立ちはだかる者は全て倒す。その一念だけを心に留めておけば充分だった。

「…………」

 凛にしてみても気掛かりには違いなかったが、詮無き事だ。セイバーは絶対に追いついて来る。だから今は、先へと進むことだけを考えなければ。

「そうね。もうこの話は終わり。今は先へ進みましょう」

 凛とバゼットが空を見上げる。昏い魔力が滲む山門。その奥から感じられる、膨大な力の渦。まだ解き放たれていないとはいえ、それでも充分以上に驚愕に値するだけの魔力に満ちている。
 そして、その魔力に紛れるようにあるもう一人分の気質の違う存在感。

「行きましょう。聖杯は上よ」

「待ってくれ、遠坂」

 駆け出そうとした凛の足を士郎の一言が呼び止める。先ほどまではずっと空を凝視していた筈の士郎が、今は薄暗い森の奥へと目を向けている。

「どうしたの、士郎?」

「ああ、いや。違うぞ、遠坂。聖杯は上には無い。下にある」

 その言葉には凛だけでなくバゼットも首を捻った。確かに柳洞寺の奥に聖杯降臨の為の力場が生じている。この上に至ればより鮮明に理解できる筈だ。だというのに、士郎は上ではなく下だという。

「……どういうことですか、士郎くん」

「イリヤが呼んでる。イリヤはここよりずっと下にいるんだ」

 イリヤスフィールとパスで繋がっている士郎だけが認識出来る微かな感覚。衛宮士郎に流れてくる魔力は位置的にかなり下、地下より流れ込んできているイメージだ。
 イリヤスフィールが聖杯の守り手であるのなら、聖杯もまたその場所にある筈。その旨を二人に伝えると暫し黙り込んだ。

 凛は知っている。アインツベルンの森で、唐突にセイバーの魔力が満たされた事象を。それが士郎とイリヤスフィールが繋がった事に関係していると考えれば、士郎の感覚に間違いは無いだろう。
 士郎自身からイリヤスフィールを探知出来なくとも、イリヤスフィール側から何かしらの反応を示せても決して不思議な事ではない。

 それにこの地にあると伝えられている大聖杯のことも鑑みれば、結果、士郎の言を信用して下へと向かう事になった。

「士郎くん、凛さん。私は一緒には行けない。この上にはあの男が待っている」

 バゼットは虚空を仰ぐ。多大な魔力の中にあってなお損なわれない存在感。不遜を抱くあの男が、この頂にて待ち侘びている。

「そう。じゃあここでお別れね。バゼット、譲ってあげるんだから負けたら承知しないんだからね」

「ええ、必ず。士郎くん、すまない。やはり私は、あの男と決着をつけたい」

「構わないさ。最初からそういう予定で組んでただろ。後は各自が出来る最良をこなすだけだ」

 バゼットは取り出した黒の革手袋を嵌める。この二人だけを地下へ向かわせるのは心苦しいが、心配など無用だろう。二人の決意、戦う意志には一片の迷いさえ見当たらないのだから。

「ありがとう。必ず、生きてまた逢いましょう」

 一足飛びで駆け上がっていくバゼットの背を二人は見送る。さながら、闇を突き抜けていく疾風のようだった。






決戦の地へ(後)/Finale II




/1


 眠れない身体。休息を必要としない肉体を得てなお、深く深く自己に埋没する。研ぎ澄まされた集中の狭間に滑り込む知らない物語。断片的な記憶。既に過去の事象と化した夢を追体験する。

 ……その場所は、既に全てが失われた痕だった。

 天から零れ落ちた悪意の雫が野を焼き払い、家屋を倒壊させ、逃げ惑う人々の命を奪い去った。
 何も知らない無垢な民を襲う悪意。唐突に降り注いだ災厄はそのまま自然災害のそれと同じだろう。少なくとも、事情を知らない彼らにとっては人為的であれ自然的であれ、原因が不明である以上は違いに差などない。

 一帯を薙ぎ払った聖杯戦争の爪痕。生存者など見る影もなく、空は黒々とした煙で覆いつくされ、地上になお燃え盛る焔で赤く染まっている。
 ほんの数時間前までは何でもない住宅街であった筈の場所が、今ではただの瓦礫の山と化している。

 地上はなお凄惨な有様だった。煤で黒ずんだ、どこの部分だったかも定かではない巨大な岩塊が積み上げられている。圧し折れた電柱は数知れず。割れ砕け散った硝子はそこかしこに散乱し、さながら死都の様相である。
 今だ燃え盛る炎は延焼を繰り返し、その規模を拡大し続けている。雨の一つでも降らなければ終わりなど見えそうになかった。

 そんな状況下で、なお生きている者がいた。

 子供だった。ぼやけた視線は何を映しているのかわからない。親とはぐれて泣き出しそうな表情のように見えて、自分が何故こんな状況になっているのか判らないといった風でもあった。

 いや、実際は違う。彼は知っている。逃げなさいと言ってくれた人がいたから。ただ、何処へとは言ってくれなかったら迷っているだけに過ぎない。
 けれど悩んでいる暇などなかった。火の手は静まる気配などなく、この場に居続ければ自分もまた身を焼かれる結果になるのは、幼いながらに理解していたから。

 だから、少年は走った。走り続けた。行き先なんか判らない。助かるかなんて知らなかった。けど、走った。行けと言ってくれた人たちがいたから。その人たちを犠牲にしてしまったから、立ち止まる事なんて出来なかった。

 過ぎ去る景色の中に黒い物体がたくさん見える。人だったもの。もはや虫の息の人。様々だったが、それは正しく人だった。同じこの場所で暮らしていた、名前なんか知りもしない他人達。

 声が聞こえる──助けてくれ。

 叫びが聞こえる──待ってくれ。

 悲鳴が聞こえる──この子も連れて行って。

 慟哭が聞こえる切望が聞こえる哀願が聞こえる怨嗟が聞こえる憎悪が聞こえる絶望が聞こえる。聞こえる。聞こえる。聞こえる。聞こえる。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。助けて────!

『────』

 少年は、その全てを無視した。
 助けてという願いを無視し。呻き喘ぐ人を無視し。子を愛す母の希望に縋る嘆願を無視した。

 脳裏を埋め尽くす声という声を振り切って、少年は生き残る事に全力を注いだ。もはや少年には誰かを救うだけの力など残されていなかった。誰かを助けられる力なんて持っていなかった。だから、走った。

 周りの全てにごめんなさいと胸の内で叫び上げて、延々と謝罪を繰り返し続けた。

 でも結局、出口は見つからなくて倒れ伏した。灰色の空を仰ぎ、身体中から力が失われていくのを実感する。死の感触が間近にある。全てのものに懺悔を叫び続けたというのに、結局はこうして死に至る。

 なんて情けない。少年の中にあった全てのものが零れ落ちていく。少年だったものが燃え尽きていく。少年を構成していた、記憶さえも欠落していった。

 何もかもが抜け落ち伽藍の洞となった肉体。死を目前とした……その果てで、少年は奇跡を見た。

 泣き出しそうな空。さっさと泣けばいいのにと思う空の向こうから差し出された掌。温かな感触。頬を濡らす雫。雨ではない、涙。
 救われた。誰よりも救われた。その笑顔、一人だけでも見つかって良かったと笑った見知らぬ人の笑顔が、衛宮士郎の最初の記憶だった。







 そこで彼女は目を開いた。片膝を立て、剣を肩に拠りかけた状態で座していたアルトリアの視界が本当の暗闇から鈍い暗闇にとって代えられる。

 背後から零れてくる淡い光。魔法陣の起動音。大空洞の中枢にて、彼女は眠りに近い状態に陥っていた。

「お目覚めかしら、アルトリア」

 傍らに視線を滑らせる。淡雪の髪を楽しげに揺らす赤眼の少女。

「……イリヤスフィール。これは貴女の仕業ですか」

 少女はくすくすと笑い、何のことかしら、とお茶を濁す。サーヴァントは夢を見ない。ましてや、マスターとの繋がりさえもとうに断たれたアルトリアがその手のものを見る可能性はゼロだ。
 ならばこの少女が何かをしたに違いない……と勘繰った。

「本当に私は何もしていないわ。私はただ橋渡しをしただけよ」

 イリヤスフィールが何を言っているのか、アルトリアにはようとして知れなかったが、彼女の心には何の変化も見当たらなかった。

 あんなものを見せられたくらいで変わる決意ではない。覚悟ではない。むしろ理解不能だった。あの男とアルトリアは同じだ。絶望の中から見上げた空、救いを求めて伸ばした手を取ったものが何であるか、その程度の違いしかない。

 彼もまた聖杯を目の前にすれば理解する筈だ。アルトリアの祈りの意味を。同じ絶望を知るのなら、救済への渇望とて同位に違いない。
 アルトリアが在りし日の祖国の救済を望むように、衛宮士郎もまたあの大火災の結末に否を唱えて然るべき。

 本当はあった筈の平穏。滅亡ではない違う結末。もし。もしなんてものが手を伸ばせば届く位置にあるのなら、必ず縋りつく筈なのだから……

「ではイリヤスフィール。私は敵を迎え撃ちます」

 言って聖なる黒き剣を手に執る。聖杯は決して誰にも渡さない。黄金の杯に祈りを託すのは、このアルトリアなのだから。

「そう、いってらっしゃい。だけどアルトリア。シロウ以外の人が一緒に来たら此処に通してあげて」

「何故です……? 向かって来る敵は全て滅ぼす。この場所には誰も踏み込ませない」

 イリヤスフィールの嘆願を斬り捨て、立ち去ろうとするアルトリアの背に、

「ふぅん? じゃあいいのね? 聖杯が完成しなくても」

 そんな、不敵な言葉が投げかけられた。

 足を止め振り仰いだアルトリアの視線は殺気に満ちている。物事には優先順位がある。アルトリアの最上位は自らの祈りの成就である。その為ならば、この少女を斬り捨てる事とて厭わない。
 そんなアルトリアの視線を一身に浴びながらも、イリヤスフィールは余裕の体をまるで崩さない。それもそうだろう、彼女を殺せば、アルトリアの願いは叶わなくなるのだから。

「聖杯を完成する為には後一手必要なの。その為の人員としてリン……トオサカの現頭首が欲しいの。
 だからアルトリア。彼女がシロウと共に降りてきたのなら、何も言わず通してあげて」

「…………」

 優しく見上げる瞳からアルトリアは不意に視線を逸らした。

「挑みかかってくるのならば容赦はしない。ただ、私に敵対する意志がないのであれば、融通は利かせましょう」

「ありがとう」

 少女の感謝を背に、アルトリアは一人、暗闇の彼方へと消えていった。

 見送りを終え、イリヤスフィールもまた立ち上がった。向かう先は魔法陣の中心。その脇に眠らされている間桐桜の元へと歩み寄った。

 聖杯の成就に必要な最後のピース。それが間桐桜の内にある英霊の魂だ。まだ完全に孔として役割を得ていない聖杯からは既に少なからず魔力が漏れ出しているが、開き切るには足りなさ過ぎる。

 間桐桜が持つ魂をイリヤスフィールが取り込む事で此度の聖杯は完成を見る。最も手っ取り早い方法は、桜の殺害だ。殺してしまえば行き場を失った魂は収まるべき器を求めてイリヤスフィールの内へと入り込む。

 サーヴァントの消滅が聖杯降臨のトリガーであると了解しているアルトリアでも、この仕組みにまでは気が付いていない。故に、聖杯の守り手であるイリヤスフィールの言を無視し切る事が出来ない。
 アルトリアの手で出来るのは、サーヴァントを滅する事だけだ。残る一人、セイバーのサーヴァントを殲滅する。

「ま、先約があるからね。どう転ぶかまでは流石に判らない、かな。でも、これで……」

「──カカ。そう何もかも貴様の思い通りにいくと思うなよ、イリヤスフィール」

 暗闇に木霊した声。蟲の囁きが、静かに響いた。





/2


 石段の脇から林の中へと侵入し、もうどれだけ歩いたのか判らない。士郎が微かに感じるイリヤスフィールの存在感を頼りに歩くにしては、真夜中の森は薄気味悪く迷走してしまい掛けていた。

 二人がようやく入り口らしきものを見つけ、魔術的隠蔽を施された結界の先には腐敗した闇。緑色の闇が澱んでいた。
 狭く窮屈な坂道を二人は黙々と下っていく。泥濘に足を取られそうになりながら、それでも着々と降りていく。

「ねえ士郎」

 そんな中、沈黙に耐えかねたのか凛が口を開いた。先行する士郎は足を止めないままに受け止める。

「なんだ、遠坂」

「前に貴方に聞いたわよね、士郎は何の為に戦うのかって」

「……ああ」

 屋上での一幕。鮮血神殿が発動される前、凛とアーチャーの二人に問われ糾弾された事柄だ。あの時衛宮士郎は、少女の問いになんと答えたのだったか……

「これから貴方が挑もうとしている者は敵よ。それを貴方は救うという。ねえ、この意味わかって言ってる?」

 アルトリア。アーチャー、バーサーカーの両サーヴァントを下し、聖杯に並々ならぬ執着を抱く前回のサーヴァント。
 どのような言葉を交わそうと、戦うことになるのはもはや避けようも無い事実だ。戦うということは敵と認めること。そして士郎はその敵を救うと決めた。その矛盾、その意味するところは衛宮士郎の理想への対峙だ。

 決して全ては救えない。何かを救うという行為には代償が必要だ。だから、衛宮切嗣やアーチャーは少数の犠牲を是とした。少を見捨て、多くを救う。その理念、現実という壁は人である限り超えられない。

 衛宮士郎の挑もうとしているものはその壁を超える行為。悪である必要はなく、倒すべき敵であるのなら救える筈などない。その矛盾に向き合って答えを出したものなのかと、凛はこの土壇場で指摘した。

 もし知らぬまま挑もうと言うのなら、衛宮士郎は後悔する。どんな結末を迎えたとしても心に深い傷痕を残す結果となる。
 それは遠坂凛という少女の優しさ。もう一度良く考えなさいと差し出された、小さな掌だった。

 細く長い下り坂を超え、少し開けた場所に出る。さながら洞窟と言わんばかりの空洞。緑色に光る苔が視界を照らしてくれている。
 先の見えない暗闇の向こう側から流れてくる生暖かい風が頬を撫でる。聖杯は近いと身体の芯が警告していた。

「遠坂」

 少し後ろにいる少女を振り返る。鮮烈に、どこまでも自分を貫き通してここまで来た遠坂凛という憧れの少女を。

「俺の想いはもう、変わらない。走るって決めたから。壁にぶち当たったって突き破ってやる。どうしてもダメなら飛び越えてやる。
 何かを犠牲にしなければ誰かを救えないなんてのは間違ってる。それでももし。もしどうしても犠牲が必要だっていうのなら────」

 衛宮士郎は、喜んで己を差し出すだろう。

「────ああ……」

 凛が息を漏らす。そうだ。エミヤシロウはこういう奴だった。歪で捻じ曲がっていて、およそ人らしくない生き方を全うしようとする変人。自分を蔑ろにして、それでも見知らぬ誰かに手を差し出そうとする大馬鹿者。
 でも、だからこそ真っ直ぐなのだ。最初に抱いた信念を決して曲げず、天を目指して突き立つ剣のように真っ直ぐな心。それだけは、誰にも穢せない純粋なものだ。

「そっか。じゃあ、頑張れなんて言わない。どうせなら死んできなさい。それでどうせ往生するなら清々しいくらいにその子を救ってあげなさい」

 ばぁん、と背中を思い切り叩かれる。そんな激励はどうかと思いながらも、士郎は凛に感謝した。これ以上に心強い味方もない。最高の送り言葉だ。

「そんで、もし生き残ったら覚悟しときなさい。アンタのそのひん曲がった根性、わたしが矯正してあげるから」

「矯正って……馬じゃあるまいし。だけど、ああ。必ず生き残って見せるさ。軽々しく死んだりなんかしたら、遠坂に首根っこ引っ掴まれて無理矢理にでも生き返らされそうだ」

 そうして二人して笑いあう。まるでこれから戦場に赴くのではなく、学校の帰り道であるかのように。

 だがそれも長くは続かない。空洞を抜けた先は、より開けた洞窟だった。幅にして百メートル近くはある空洞の中心に、その騎士は立っていた。

「やはり来ましたか」

 仁王のように立ち塞がる黒い騎士。黒く染まった聖剣は大地に垂直に突き立てられ、その上に両の掌が添えられている。
 瞳には固い決意の炎。決して通さぬという強い意気を込めた瞳だった。

「ああ、おまえを止める為にここまで来た」

「戯けた事を。貴様程度で私を止められるなど、思い上がりも甚だしい」

「じゃあ貴女はどうしてこんな場所で待っていたわけ? 聖杯の下じゃなく、この少し手前の場所で」

 二人のやり取りに割り込む凛。アルトリアと凛はほぼ初見に近い。凛は地下聖堂でアルトリアを一度見ているが、物言わぬ彼女では意味がない。

「……貴女が遠坂凛か。相違ないな?」

「ええ、そうだけど。何?」

「貴女の討伐は私の目的ではない。マスターですらなくなった貴女を倒す意味などないからな。だが、私に仇為すというのなら容赦はしない。が、邪魔をしないというのであれば、ここを通るがいい」

 それはおよそ二人が予想していない言葉だった。凛もこの場で出くわした以上は士郎と共に戦う覚悟だったが、アルトリアは通れと言う。
 理由がわからなかった。聖杯降臨を阻止しようという凛を通す意味がアルトリアにはない筈なのに。

「遠坂、先に行ってくれ」

「士郎?」

「イリヤと桜を頼む。俺は、コイツを止めてから追いかける」

 呼吸を深く刻んで集中する。魔術回路は良好。魔力も充分。イメージは完璧。いつでもいける。これまでの中で最高の速さで最高の出来の剣を投影出来る自信があった。

「好きにしろ。たとえ凛がイリヤスフィール達を助け出そうとしても、貴方を斬り伏せた後に取り戻せばいいだけの話。何一つとして問題ない」

「そう。じゃあ通らせて貰うわ。衛宮くん、気張りなさい」

 ぽん、と最後に肩を叩いて凛は走り去る。自らの領分を弁えているからこその行為。衛宮士郎はアルトリアを救う。だから遠坂凛はイリヤスフィールと間桐桜を助け出すのだ。それで全てが終わる。

 遠坂凛の去った後。士郎とアルトリアは互いに距離を置いたまま対峙する。目算で十五メートル余り。流石のアルトリアでも一歩では詰め寄れない距離だ。投影、防御は充分に間に合う。

 アルトリアは剣を下げた姿勢のまま動かない。士郎も身構え、魔術回路に最速で投影出来る得物をストックさせたまま時を測っている。

「掛かって来ないのならこちらから行くが」

 聖剣が僅かに傾きを上げる。踏み締めた具足がより一層強く踏み締められた。

「アルトリア……いや、アーサー王。一つだけ聞かせてくれ」

 黒い騎士は返答もなく佇む。下らない問いを繰り出せば、斬って捨てると圧力を込めて。

「おまえが胸に抱いた誇りは、今なお変わりはないか? 国を守ると、民を救いたいと願った心に偽りはないか?」

「……愚問だ。だからこそ聖杯による救済を望む。だからこそ滅びを迎えた我が祖国に救いが必要なのだ」

「そうか────」

 士郎は大きく息を吸い、吐く。

「ならやっぱり止めてやる。そんな願いは、抱いちゃいけないんだっ!」

「黙れ。貴様に何が判る。貴様には、私の何一つ判るまいっ!」

 弾かれたように二人は同時に駆け出す。衝突は間近。振り上げられる聖剣。迫る死。その最中。士郎の脳裏に浮かんでいた剣が、

「────投影(トレース)完了(オフ)!」

 士郎の中でスパークした幻想が現実のものとなって刃を生み出す。そしてその言葉が、火蓋を切る合図となった。





/3


 その場所は、もはや瓦礫の山と化していた。道路は無残に切り刻まれ、近くに面していた壁面は破壊の爪痕を色濃く残す。竜巻が過ぎ去ったような破壊の痕、猛獣が爪を立てた痕のようだった。

 白靄に煙る中、煌く無数の刃。白銀の剣が燦然と突き立つ中、黒塗りの短刀もまた無数に散乱していた。

「…………ギ、……キ────、ギ、ァ」

 その中心には未だ影がある。異常に伸びた右腕は途中で千切れ、血飛沫を上げており、断絶された下半身はもはや跡形もなく消し飛ばされた。
 細い呼吸を繰り返し、なお生きているのは彼が生前施した人体改造の成果と、痛みを消す薬のおかげだ。いや、むしろこの状態で生き永らえたところで意味などあろうか。

 数刻前、暴風が吹き荒れ、暗殺者が身の危機を察し放った刃は二十に及ぶ。けれど一つとて彼の者に傷を負わせられず弾かれて、抗う術を失った白面を風が斬り裂いた。
 白面さえも割り割かれ、無貌を晒してなお挑みかかった暗殺者を粉微塵に粉砕した、あの男。アレは、化物の類の存在だ。

 風除けの呪いを身に刻む暗殺者をあえて暴風で斬り刻み、地べたを這い蹲った蟲を見下す視線を最後に投げかけていったあの男が、人である筈などない。
 神か……でなければ悪魔の所業だ。正常な感覚を持つ者が、あんなにも底冷えのする瞳を有している筈がない。

 何れにせよ、暗殺者は敗れた。戦う相手が悪すぎた。たとえそれが主の下した命であるとはいえ、最優を冠した者に挑みかかるには脆弱すぎた。
 狙うのであればそのマスター。無防備に背を晒すあの男を殺す機会は幾度もあった筈なのに、そうしなかった魔術師の思惑など、もう知る由もないが。

「────、────、────ィ……」

 無念を胸に抱いて暗殺者は呼吸を終えた。誰にその存在を知られる事もなく、白面に覆い隠した無謬なる面貌と同じく、死すら個として望めぬうちに息絶えた。














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