剣の鎖 - Chain of Memories - 第五十三話









「はぁ、はぁ、はぁ、……は」

 凛が息を切らせて辿り着いた先は、広大な場所だった。見渡す限りに開けた視野。ただでさえ充満している魔力だというのに、遠くに見える高台からはより強烈な魔力が立ち昇っている。

 ────あれが、大聖杯。

 冬木における聖杯戦争の大基盤。二百年前に造られた魔法陣。
 この場所に敷設されたのには勿論理由がある。柳洞寺。その語源は龍洞に由来し、彼の寺は未遠川の伝承にある龍神調伏よりも以前に遡る。

 遠坂の管理地である冬木市内で、落ちたとはいえもっとも魔力に富む霊脈があり、この街を流れる霊脈は全てをこの場所を起点にし、またこの場所へと収束する。円冠回廊。心臓世界テンノサカズキ。
 故に大儀礼と呼ぶに相応しいこの儀式の中枢を据える場所として、これ以上の適地も他に存在しなかった。

 秘匿を常とされる魔術世界において、いかなるものであれ余人に知られてはならない。だからこそこんなにも判りにくい場所に隠匿され、これまで関係者以外の誰もが立ち入らなかったこの場所に、とうとう凛は辿り着いた。

 眼前にまで迫った半径五十メートル以上の擂り鉢上の岩肌。この岩壁の向こうに、全ての始まりと終わりがある。

「そこで止まれ、遠坂の小倅」

「────っ!」

 岩肌を超えた先、立ち昇る魔力が十字架に見立てられ、空中に磔にされた少女が凛の視界に収まった。
 イリヤスフィール。だらりと垂れ下がった首。項垂れた顔。意識などないかのように、それこそ標本に針で穿たれた蝶のようにピクリとも動かない冬の聖女の足元に、その皺枯れた老人の姿があった。

「間桐、臓硯……!」

「久しいな、遠坂の。どうじゃ? 我らが造り上げた魔術基盤の出来は」

 カカと嗤う臓硯。何故この男がここにいる。凛がもし見える敵がいるすれば、それはギルガメッシュであった筈だ。無論、相対してしまえば生き残る術などなかったが、皆が戦いに赴いた中で自分だけがのうのうと逃げ延びるつもりなど微塵もなかった。

 覚悟を決めてこの場所に踏み込んだつもりだった。だというのに、あの黄金の姿は何処にもなく、こうして目の前にいるのは間桐の頭首唯一人だった。

「一体こんな場所で何をしているの。貴方なんてお呼びじゃないわ。隠居したも同然の魔術師は、とっととこの場から立ち去りなさい」

「カカ。辛辣だな、遠坂の。だが大事な孫を想う儂の心も汲んで貰いたいのだがな」

 凛が臓硯の言葉に訝しんだその時、老人の背後に横たえられたもう一人の少女の姿に目を見開いた。

「……桜っ!」

「然様。あの言峰綺礼めが攫い、こんな場所まで連れ込んでくれたお陰で余計な苦労が増えたわい。
 ただのぅ、あやつのやり方は手緩過ぎる。もしやと思い静観を決め込んでいたのだが、こんな中途半端なモノを拵えただけで捨て置くとは、やはり儂の判断は間違いであったと言わざるを得ん」

「? ……何を」

「壊すのならば徹底的に壊して貰わねば困るというもの。此度ではなく次回を見据えておいたというのに、この局面まで来れば是非もない。──壊れてしまえ、桜」

 臓硯の手にした杖が大地を穿つ。乾いた音を響かせ、それを契機に横たえられていた少女がゆらりと立ち上がった。意志などない木偶のように。操り糸に手繰られた人形のように間桐桜が歩み出た。

「臓硯! アンタ一体何をする気!? それに、桜を壊すって……!」

「いやいや、壊すのは儂ではない。貴様じゃよ」

 振り上げられた桜の腕より奔る影。刃めいた鋭利な影が大地を疾走し凛に襲い掛かる。

「…………っ桜!」

 間一髪回避し、射殺さんばかりに臓硯を睨む凛。だが老人は何処吹く風と受け流し、嘲り嗤う。

「さあ、殺し合えよ遠坂姉妹。主らの父が危惧した禍根を儂がこの手で実現してやろう。生き残るのは一人で良い。
 ──殺せ、桜。自らの手で姉を殺し、その手を赤い血で染め上げて、心までも壊れてしまえぃ!」

「ィ……ァ、…………ッ!」

 呻きを上げながらも桜の周囲を取り囲んでいく黒い影の渦。臓硯のマリオネットと化した桜が、遠坂凛に襲い掛かろうとしていた。







姉妹を繋ぐもの/Finale III




/1


 渦を巻いた影が間桐桜の腕に収束し、振るわれた瞬間、地を這う刃となって凛を襲う。先の一撃よりなお強大な呪で編まれた架空元素。本来桜が持ち得た属性の魔術。さながら桜の負の想念を体現したかのような黒く全てを呑み込む刃だった。

「ちぃ────!」

 もはや避けられぬものとなった桜との戦いに凛は歯噛みする。こんなことをする為にこの場所に来たんじゃない。アーチャーを失って、聖杯を手にする権利を失ってなおこんな地の底へと来たのは倒す為じゃなく、助ける為だ。

「桜ぁ! 目を覚ましなさいっ……!」

 とっくに起動している魔術刻印の助力を得て桜の影の刃を相殺する。
 叫び上げた声にも桜は反応を示してくれない。目は開いているが何も映さず虚空を見つめたまま。意識と肉体が乖離しているのか、茫然自失でありながら振るう腕には一切の迷いがない。

「無駄だ。今に桜に意志などない。目を覚ますとすれば、それはおまえの死の後だ。自らの手で姉を殺した瞬間、桜は意識を取り戻す。
 そしてその背をそっと押してやるのじゃよ。おまえが姉をその手にかけた、とな。ともすれば、どうなるかは想像に易かろう」

 人殺しの烙印。実の姉を自らの手にかけた自責の念。良心の呵責は鬩ぎ合いを生み、桜の心は自壊する。
 意思を失くした空の人形。それを、あの化物は望んでいる。

「んの、クソジジィ……!」

 桜の放つ刃を相殺しつつ取り出した宝石を臓硯目掛けて投げ放つ。が、それは桜の生み出した防壁に阻まれ臓硯の元まで届きさえしなかった。

 凛は足を止めぬままに思考を一層早く回転させる。今の桜は臓硯に操られている状態と見ていい。けど臓硯への攻撃は桜の魔術により阻まれる。変幻自在の虚数魔術。まずはどうにかして桜を無効化しなければ話にならない……!

「腹括りなさい、桜! ちょっと痛い目見てもらうから! そんな蟲爺に操られる弱いアンタが悪いだからね!」

 凛がこの聖杯戦争の為に用意しておいた秘蔵の十個の宝石は、これまでの戦闘の中で半数近くを消費した。しかしまだ半分は残っている。後に残せるのなら越したことはないが、是非もない。この場で全てを使い尽くすつもりで勝負をかける……!

 逃げ惑うように岩盤上を疾駆していた凛が一転、踏み込みを強くし桜の元へと一直線に走り出す。同時に振るわれた桜の腕。生じた刃は全部で五つ。前列に三閃。その隙間を縫うように二閃。

 戦いの心得などないという顔をしながら、なるほど、中々巧く使う。だがその程度、遠坂凛に通用すると思っているのか……!

 極大のルビーを握り締め、凛は影に踊りかかる。一切加速を緩めることなく、さながら飛び込むくらいの心持ちで突貫する。

「はぁぁ……!」

 握りこんだ宝石に凛の魔力が伝導する。解放の言葉と共に放られ爆炎が影を薙ぎ払う。五つの刃の全てを消し去った凛は未だ盛る炎の中へと身を投げ込む。
 最短距離で前へ。事前に飲み込んでおいた宝石の防護効果で数秒ならばこの炎にも耐えられる。

 突破した向こう側。距離にして五メートルにまで迫り、それでなお振るわれた桜の腕。焦りか、失敗か。一閃しか生じなかった刃相手に宝石を使う必要すらない。最高速で廻り続けている魔術刻印から極大のガンドを放ち相殺する。

「桜っ……!」

 ……ごめん。

 桜には暫く眠って貰う。多少手荒い手段になるが、仕方がない。完全に距離をなくした位置まで詰め寄った凛。
 未だ四肢をだらりと下げて呆然と立ち尽くす桜の腹目掛けて振り上げられた拳が水月を捉えようとした、瞬間────

「ごっ……────」

 衝撃は自らの肉体に押し寄せた。口から零れていく赤い血。浮き立つ足。下げた視線の先には、異物が、腹から突き出たある筈のない異物が目に止まった。

「はて。確かに殺し合えとは言ったが、儂は手を下さんとは言っておらんかったと思うんじゃがな」

 ……失敗した。自らの生んだ爆炎と煙のせいで一時的に臓硯の姿を見失ったのが仇となった。いつの間に移動したのか、凛の背後に立ち手にした杖を深く刺し貫かせている皺枯れた老人。奇異な笑みを獰猛に塗り替えて、この結末に歓喜をしている。

「……ぎぃ……っ!」

 ずるりと引き抜かれる刃。血塗れとなった木片は崖下へと打ち捨てられ、虚空を睨んだままの桜の足元に、腹に穴を空けられた凛が倒れ伏している格好となった。

「ふむ。まあ悪くはないか。では、目覚めて貰おうか。余分を消し去る為にの」

 臓硯が何事かを呟くと、桜の身体に異変が生じる。電流を浴びせられたように、びくんと跳ね上がり、色を失っていた瞳に微かに光が戻った。

「…………ぁ」

「目覚めたか、桜よ。ならば、目の前の光景を活目せよ」

「ぁ、御爺……さま、────────え?」

 桜の瞳には倒れた黒髪の少女の姿が映し出されている。絹糸のように繊細な髪、しなやかなボディライン。憧れと羨望を抱いていた一つ上の先輩……否、遠く別たれた姉が、血を流して倒れている。

 真っ赤な服をなお鮮やかに染め上げて、濁々と吐き出される生命の源。うつ伏せに昏倒している凛の表情までは読み取れなかったが、とてもじゃないがまともな状況ではないと理解した。
 でも、判らない。一体何がどうなってこんなことになったのか、間桐桜には皆目見当もつかなかった。

「え、な、なんで。とお、さか先輩……? なんで、血、お腹、……穴、あい、て……」

「何を言う、桜。おまえがやったのだろう? 自らの手で姉を殺した。その手を見ろ。血で染まった赤い腕をな」

 揺れる瞳で桜は己が腕を少し高く上げた。広げた掌は真っ赤に染まっていた。身に着けている衣服までもが血糊で赤く彩られている。臓硯が凛の腹を衝いた時に降り注いだ返り血だが、桜はもちろんそんな事など知らない。

 今目を覚ました桜にとって、目の前にあるものだけが真実として認識される。倒れている姉。腹に空いた穿孔。自分の手が赤く染まっている理由。全ての現状が、揺ぎ無い結果を間桐桜に衝き付ける。

「そんな……うそ、わ、わた、わたし。そんなことしてない。そんなこと、す、する筈がないっ……!」

 桜の行動は正しい。いきなりこんな光景を見せ付けられて、しかも自分の手で姉を殺したなどという現実を許容など出来る筈もない。
 頭の中をぐるぐると何かが跳ね回り、視界は明滅を繰り返す。口を出る言葉の全ては拒絶に連なる。認めない。こんなものは、決して認められないと否定する。

「認めよ、桜。おまえはこれまで抱き続けてきたであろう? この姉への不満を。この女郎への報復を。
 家を追い出された妹の事など失念し、自らは安寧に身を埋めのうのうと生きている。誰よりも鮮やかに、誰よりも優雅に、遠坂の名に恥じぬように生きているこの女が恨めしかったであろう?」

「そ、そんな……っ、ちが、……っ!」

「違わぬ。地の底で哀願する妹の声などまるで聞く気もなく、穢された身体であることなど知る由もなく。身綺麗に純潔を保ち、あまつさえ──主が恋慕の情を抱く男にまで手を出したこの女狐にのぉ」

「………………っ!」

 知っている。あの夕焼けの校舎、桜が想いを寄せる男と重なり合っていた姉の姿を思い起こす。あれはきっと、二人がマスターであったから起こった事故に過ぎない。けど、現実として二人は確かに重なっていた。

 そしてあの神父も言っていた。間桐桜が攫われていた頃、一度衛宮の屋敷に戻った頃、家主は他の女のところに行っていたと。それがこの目の前で倒れている女ならば、全てに説明がつく。

「憎かろう、悔しかろう。ならばおまえの手でこやつに止めを刺せ。これまで抱いてきた憎悪の全てを刃に乗せて、己が力で斬り刻め。
 そうすれば、全てはおまえのものぞ、桜。あの衛宮の小倅も、自由も、何もかもが思いのままだ。
 今までおまえに不自由させてきたこの儂からの少しばかり早い誕生日祝いじゃ、受け取ってくれ」

「────」

 ざっ、と桜が一歩を踏み出す。俯いた表情からは何も読み取れない。

 その後ろで蟲が嗤っている。キィキィと囀って、念願を前にして口の端が歪むのが抑え切れないといった表情だ。
 さあ早く。早く殺せ。そしてその後でもう一度おまえの心を切開する。姉を殺した罪人として、永遠に消えない咎を背負い続けるくらいなら、その心さえも壊してしまえと囁いてやる。

 そうして心を失くして伽藍の洞となった肉体を頂く。黒き杯。この世全ての悪にして、生きた第三魔法の顕現者となった肉体を支配して、永遠を連ね続けるのだ。
 間桐臓硯は終わらない。こんなところで終わらない。永遠を。不老不死を。誰しもが夢見る不滅の肉体を、この臓硯こそが手に入れる……!

「黙って聞いてりゃ……好き勝手言ってくれるじゃない……」

 地の底から吐き出したかのような底冷えのする声音。ぴくりとも動かなかった凛が四肢に力を込めて僅かばかり身体を起こした。

「ねえ、さ……」

 震える手足を抑え付け、上げられた顔は羅刹のそれか。口の端から血を零し、殺意に濡れた瞳が見据えるのは間桐臓硯。桜の影で嗤っている害虫だ。

「まだ動けたか。フン、桜。早く殺してしまえ」

 凛は血を吐き出し続ける腹の穴を押さえて膝を起こし立ち上がった。飲み込んでおいた宝石が功を奏した。ダメージは深いが未だ動ける。魔術刻印が凛を生かそうと回転を続けてくれている。

「……安穏と生きてきた? 優雅に過ごしてきた? ええ、そうよ。わたしはわたしの為にそういう風に生きてきた。
 だけどそれを他の人間にとやかく言われる筋合いなんてないわ」

 その裏にあった努力と苦悩は本人以外決して知らない。誰にも判らない。辛いと思ったことなど一度もない。諦めようと思ったことさえ一度としてない。自らの生き方に誇りを持っているから、凛は人一倍の努力を重ねてきた。
 陳腐な物言いをするのなら、湖面を優雅に泳ぐ白鳥もまた水面下では必死に足を動かし続けている。

 それにそれは、何も全てが自分の為ではない。家訓に則り優雅たれとしてきた事も、死に掛けても魔道を諦めなかったのも、幼少の頃、全てが父から受け継いだものだからでは決してない。

 凛の視線が臓硯から桜へとずれる。見据えられて、桜は狼狽を露にした。

「桜……アンタ、どういう事なの? わたしに何か言いたい事があったの? 不満があったの? 憎悪を煮え滾らせるくらい、わたしの事なんか嫌いだったの?」

「ちっ、違……、でも、わたし……っ!」

 怯えを露にする桜。瞳には薄っすらと涙が滲んでいて、悪戯が見つかった子供のように震えている。

 一歩後退じさった桜に対し、凛が一歩を踏み出した。臓硯は二人のやり取りを見つめる他になかった。遠坂凛を殺すのは間桐桜でなければならない。でなければ、彼女の心は壊れない。

「言いたい事があるなら言いなさい、桜。面と向かって言って見なさい。全部下してやるから。全部屈服させてやるから」

 この遠坂凛に意見するということが、どんな意味を持つのか教えてやる。だから言って見ろ。腹の底に溜めに溜めた鬱憤を晒してみろと凛は謳う。
 ただ、その後までは保障しない。言うだけ言って、吐き出すだけ吐き出したら後はこちらの番。全部論破して自尊心なんてものを木っ端微塵にしてやる。

 それが、遠坂凛の生き様だ。

「何してるの、早く言いなさい。言いたいこと、あるんでしょ?」

「で、でも……だって、そんな……」

「そう、言いたくないなら先にこっちから言ってあげる。わたしはね、桜。貴女に負けたくなかったの」

「────え?」

 瞬間、時間が止まった。桜には凛の発した言葉の意味が理解できなかった。負けたくなかった? 桜に?
 そんなこと、有り得ない。だって、誰よりも優雅で、綺麗で、超然としていて、学園のアイドルとまで称される遠坂凛が、何を以って間桐桜に負けたくないなどという言葉を吐く必要がある。

 こんなにも穢れて、堕落して、臆病で言いたいことも言えない桜が凛に勝っている部分なんて何一つとしてない。
 羨ましかった。憧れだった。同じ家に生まれながら、違う環境で育ってしまった二人の子供。別たれた道の先が余りにも違いすぎて、陶酔はやがて憎悪にとって代えられた。

 羨ましいから憎い。綺麗だから憎い。羨望は負の感情に渦巻かれ、何故と問いかけ続ける事しか許さなかった。もし二人が逆の立場であったのなら、貴女もわたしのように染められていた筈だと。

「わたしはね……桜。貴女が間桐の家に引き取られていった時、決めたの。姉妹じゃなくなくなって、自由に逢う事さえ許されなくて、でもやっぱり貴女はわたしの妹だったから。わたしは貴女の姉だから。
 桜にだけは負けないように頑張ろうって、ずっとずっと思ってきた」

 だけど、違った。

 この少女ならば、たとえ立場が逆でも己を貫き通しただろう。今があるからこそ言える綺麗事。本当の絶望を知らないから言える絵空事だなんて、桜には思えなかった。
 この姉は、あの蟲倉の中でも必死に声を上げるだろう。呻きを殺してただ耐え続けることを選んだ桜とは対照的に、喉が枯れるまで吼え上げて、最後にはあの蟲の喉笛を喰い千切るのだ。

 前提が、違う。

 妹に負けまいと必死に努力を重ねてきた姉と、放り込まれた惨状から這い上がろうとしなかった妹。結果は火を見るより明らかだ。姉は己を磨き続けて光り輝き、妹は黒く絶望に染められた。

 羨望は当然で、そして決して叶わぬ願い。自ら手を伸ばそうとしない者には救いなど与えられない。待ち続けたところで誰も彼女を見てはくれない。この暗闇から、救い出してなんてくれない。

「桜……貴女が気づいてたかどうかは知らないけど、わたしはずっと貴女を見ていたわ。学校でしか会う機会がなかったけど、出来る限りは見てきたつもり。
 知ってる? 弓道場に行ったことだって一回じゃないんだから。お陰で慎二に変な誤解されちゃったけど」

「ねえ、さ……」

 もはや桜は溢れ出る涙を止める術を失っていた。見ていてくれた。誰よりも見て欲しかった人が、ずっと自分を見ていてくれた。

「たまになんだか辛そうな顔とかも見て取れたけど、何にも言ってくれないから判んなかったわ。気丈に振る舞って、ああ、桜も頑張ってるんだって思い込んでた」

 馬鹿よね、わたし……と凛は自嘲する。

「でも、アンタはもっと大馬鹿よ。辛いなら辛いって言えば良かった。苦しかったら苦しいって言えば良かった。
 痛みはね、耐えるものじゃない。訴えないと周りの人は決して気付いてくれないから」

 そうだ。桜は全ての痛みに耐えてきた。あの昏い蟲倉の底で身に刻まれたものの全てを胸の中に仕舞い込んで、何食わぬ顔で日常を廻し続けた。
 そうすることしか出来なかった。そうすることしか許されなかった。弱いから。こんなにも弱いから、桜はたった一言さえ言えなかった。

「……っ、うぁ……、ぁあっ……!」

 視界は涙で滲み、膝が震えて立っていられなくなった桜が座り込む。全身からは力が抜けていく。頬を流れる雫を止める方法さえわからず、苦しげに腹を押さえてなお微笑む姉の姿だけからは目を逸らさずに。

「さあ、桜。言いなさい。ぶつけなさい、貴女の心の内を。全部、わたしが受け止めてあげるから……」

「ひっ……ひぃぐ……、ね、ねえさ……」

 その時、これまで静観を決め込んでいた臓硯に動きがあった。凛とのやり取りでは桜の心を壊せないと見るや、その身体の支配を奪い去ろうと枯れた腕を伸ばす。

「桜っ……! 早く……!!」

「ひぃあっ……たす、助けて!! 助けてください、姉さん────!!!!」

「よく言った……!!」

 叫びにも悲鳴にも似た妹の声。地の底から吼え上げた初めての切望。その言葉を待っていた。その言葉を待ち焦がれていた。

「ぞぉおけぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇん……!」

「ぬぅ……!」

 自身の治癒さえ後回しに、虎の子の宝石の一つを用いて極限まで身体強化。同時にもう一つの宝石で氷の刃を五つばかり生み出し桜に伸びる魔の手を遮る。
 その負荷は生半可なものではない。凛のキャパシティさえ超える強化、異なる魔術の同時使用。サブの回路までフル回転させてなお、反動で意識が途切れそうだった。

「ぐっ……、ぎぃ………この、程度っ……!」

 だがここで倒れることなどあってはならない。桜が言ったのだ、助けてくれと。ようやく本心からの声を聞けたのだ。
 ならば遠坂凛の全てを賭けてその願いを叶えてみせる。聖杯でさえ叶えられないことであろうとも、必ず成し遂げてみせる。

 大切な妹の願い一つさえ聞き届けられなくて、何が姉か────!

「くっ……小娘が。この儂を舐めるな……!」

「そっくりそのまま返してあげる! わたしの妹に、何してくれやがってんだこのクソジジィ……!!」

 ラスト二つ。残った宝石を握り締めて、倍化した加速で以って肉薄する。繰り出すべきは全てを燃やし尽くす劫火の剣。禁忌である相乗の魔術を重ね合わせて、遠坂凛の渾身を振り上げる……!

「くっ、よもや……!」

「消ぃえぇ去れぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ……!」

 握り締めた拳を勢いに乗せて撃ち放つ。老いを隠しきれない臓硯には回避も防御も間に合わず、砕け散った宝石より生じた紅蓮の炎に包まれた。

「ぐっ、お……おぉ……、……おおおおおおおおおお……!」

「っ────、は、ぁ、はぁ、はあ、……っ」

 身を蝕む激痛に膝を屈してなお凛は視線を上げる。目前で燃え盛る炎。火の爆ぜる音。肉の焼ける音。爛れる音。間桐臓硯を構成する全てのものを灰へと還していく。

 断末魔とも金切り声ともつかぬ奇異な絶叫を響かせて、間桐臓硯であったモノが燃え尽きた。一片すら残さず、完全なまでの消し炭となって。





/2


「うぅ……っハァ……、これ、……は、…………まじ、めにキツかっ、た……かな」

「姉さんっ!」

 有り得ないほどの玉の汗を額に浮かべ、苦痛に顔を歪める凛は駆け寄ってきた妹の顔を見上げ、笑って見せた。巧く笑えた自信はなかったけど、精一杯の笑顔を浮かべた。
 これくらい何ともない。桜がこれまでその身に受けてきた暴虐に比べれば、この程度は何ともないのだと。

「酷い顔ね……桜。ぐしゃぐしゃじゃない」

「そ、そういう姉さんだって、傷だらけで、無理して、ひぐっ、笑って……」

「……はは。わたしのはただの強がりだから。だってほら、久しぶりに姉さんって呼んでくれた妹の前で、無様なんか晒せないじゃない」

 桜はより強く想う。ああ……この人は間違いなく自分の姉だと。意地っ張りで、頑張り屋で、一人でも生きていけるくらい強い人で。でも、優しくて。温かくて。憧れだった、世界で唯一人の姉さん……

「ねえさぁん……」

「いた、痛いってば桜……っんもう、本当、どうようもない子ね」

 抱きついてきた桜の身体を凛は受け止める。優しく頭を撫でてあげる。自分のものじゃない温かな雫が頬を流れていく。久しぶりの温もり。
 心地よさの中──別たれた姉妹はようやく、互いの遠慮を全て捨て去って、元の鞘に収まると思われた、その時。

『カカ。やってくれたな、遠坂凛』

「────っ!?」

「えっ、な、なんで……」

 唐突に響いた臓硯の声。肉体は完全に消滅し、跡形もなく消し去ったというのに。魂だけの状態で生き残れる術はない。そんな技術を間桐臓硯程度が持っている筈がない。
 何よりも、響いた声は決して虚空から聞こえたわけではない。凛の耳元。桜の口から、臓硯の声が発せられていた。

「臓硯……アンタ、まさかッ……!」

『ほほぉ、流石に察しがいいの。その通り。儂は今、桜の中におる』

 桜の表情が怯えに取って変わり、凛の表情が驚愕に濡れる。けれどすぐさま一転して歯噛みする。
 ……甘かった。今思えば、手応えがなさすぎた。いや、確かにアレは間桐臓硯だった。しかし、こうして臓硯は生きている。

 頭を廻せ。今出来るのは頭を最大に廻す事。最短で、最悪の状況を思い浮かべろ。間桐の魔術。桜の身体。慎二から聞いた情報。蟲使い。水の属性。吸収。束縛。戒め。強制。数百年を生きる化物。

「寄生──臓硯、アンタ桜の身体の中に自分を埋め込んだわね」

 他者を縛る事に特化する間桐の魔術であれば、不可能ではない。令呪という規格外の呪縛を造り上げたのも間桐だ。ならば、長らく臓硯の元にいた桜の体内に、何らかの手段で自身を寄生させていたとしても不思議ではない。

『そこまで感づくか。これはやはり、姉を貰っておくべきだったかのぉ』

 臓硯の声音には余裕がある。今自分が置かれている状況を鑑みても、なお殺されないという自負がある。その根拠までを断たなくては、桜を救い出せない。
 凛は腰に挿していた短剣を手に取った。父の命を奪った刃。言峰綺礼を殺すつもりで持ってきていたアゾット剣を握り締めた。

『儂を殺すか? 構わんよ、出来るのならばやってみるがいい。ただ覚えておけ、儂を殺すということは、桜を殺すという事ぞ』

 まだ完全に意識を乗っ取られていない桜が小さく悲鳴を漏らす。けれど凛は冷徹に、魔術師として観察を続けている。
 臓硯の発した言葉の全てから得られる限りの情報を搾り取る。

 桜の死が臓硯の死であるのなら、狙う箇所は限られている。手足では桜は死なない。人体の急所。心臓か脳。死に直結する部分に臓硯の本体がいる。

『ふん? 殺さぬか? 出来ぬよなぁ、出来るのであれば、そもそも桜を助けたりなどせんだろうからな。
 ならばそのままそこで見ておれ、妹の身体が蝕まれていく様をなァ……!』

 びくん、と桜の身体が波打って、身体のそこかしこから何かが這い回っている様が見て取れる。蟲。桜の身体の占有権を奪い取ろうと、臓硯が動き出した。

「いや、いやぁ……もう、やめっ……!」

『黙れよ桜。お主など所詮胎盤。子を孕むだけの胎盤であったのだ。それがこうして儂の為になるのであれば、喜ぶべきことであろう?』

 凛は備に桜の身体を凝視する。殺すべきは今這いずり廻っている蟲ではない。本体。間桐臓硯をこの世に繋ぎ止めている本体を殺せば全てが終わる。
 どこだ。どちらだ。脳か心臓。そのどちらかに、臓硯はいる筈なのだから。

「桜」

 身を襲う臓硯の魔手に抗っていた桜の身体を優しく包み込む凛。首筋に手を廻し、頬を寄せて抱き締める。

「姉さん……」

「ねえ桜。貴女はわたしを信じてくれる? こんなわたしを、貴女は信じて受け止めてくれる?」

 桜の頬を伝う涙が一層溢れ出した。そんなこと、問われるまでもない。聞かれるまでもない。答えるまでもない。だけど、想いは言葉にしなければ伝わらないと知ったから、桜は凛に想いを返すのだ。

「はい……! わたしは、姉さんを信じます。ずっとずっと、信じています……!」

「……ありがとう、桜」

 覚悟は決まった。想いを確かに受け取った。ならば後は、決断を下すだけだ。

 手には父の命を奪った刃。言峰綺礼の手により、無念の内に命を散らした父の遺品。この呪われた品で、桜の命を救って見せる。本当の意味での救いを。

 ────間桐桜を、遠坂凛の手で解放する。

 恐れるものなど何もない。桜の気持ちは受け取った。凛の生き様を見て、それでもなお桜は凛を信じてくれると言ってくれた。ならばその想いに報いなければならない。

 それに、桜を救うのは凛の力だけではないのだ。凛が父より授かったものは“二つ”あった。もしこの時を想定し、時臣が凛にあれを遺してくれたのであれば、感謝せずにはいられない。

 ────父さん、力を貸して……!

 高々と振り上げられたアゾット剣。凛の胸で揺れるもう一つの遺品。

 姉を信頼し、瞳を閉じた桜の胸目掛けて。

 凛は──その刃を、戸惑いもなく、心臓に突き立てた。













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