剣の鎖 - Chain of Memories - 第五十四話 「づっ……、っああ……っ!」 目前に迫る死に両手に担った剣を合わす。衝撃。重量。速度。全てが士郎の想像を超えていた。 交叉させた剣で聖剣を防いだ次の瞬間には下段から更なる剣戟。並の剣士なら一撃目を堪えきれずに両断、熟練の戦士ならば二撃目までは反応できるだろう。 だがそこまで。続く三撃目で姿勢を崩され、防御さえ間に合わずに袈裟に斬り裂かれて勝負あり。それが騎士王……アルトリアの力量だ。 しかし今の士郎は、そんな絶殺を十度耐え受け流す。 「はっ────、はぁ……!」 身体が自然に動き反応する。脳は常にスパーク状態、アドレナリンが過剰分泌し続けている。本来なら一手さえも凌ぎ切れない剣戟を、今の士郎は十手、二十手先まで読み切り対応する。 手にした夫婦剣は宝具の質としては決して高くない。けれどその硬質さと相性の良さは衛宮士郎にとってこの上なく手に馴染む。 此度の聖杯戦争で衛宮士郎は本来あるべき自分の数段先を行く能力を手に入れた。今のレベルでは到底届かない程の高み。階段を三段飛ばしで駆け上がった今、あの赤い弓兵にさえ匹敵する。 されどそれは士郎自身の力量が増したわけではない。答えは武器。手にした剣にこそ意味がある。 衛宮士郎の行う投影魔術の基礎工程。 創造理念を鑑定し、 基本骨子を想定し、 構成材質を複製し、 製作技術を模倣し、 成長にいたる経験に共感し、 蓄積された年月を再現する。 今衛宮士郎が手にする剣は赤い弓兵の手にした剣とほぼ同位。彼が剣を手に戦った経験さえも再現し、剣に蓄積された技術までをも模倣する。 無論、そんなものは衛宮士郎の手に余る。半端者に出来る事はただ一つだけ。こんな力の使い方は暴走に近い力技だ。 剣はアーチャーが手にした時と同じ剣筋を辿り、身体もまた反応するが、未熟な士郎の身体はその動きに耐えられない。経験を偽装し、戦術を模倣しても、衛宮士郎は衛宮士郎に違いはない。 筋力、反射、柔軟性……その他身体能力の全てまでは誤魔化し切れない。 だから士郎は剣を振るうのではなく、振るわれている。経験だけを頼りにアルトリアの剣を受け、弾き、いなす夫婦剣の意志のまま、せめてその軌跡を邪魔せぬように肉体を酷使し続ける。 届かぬ先。未だ見ぬ高みへと至る為──身体を壊す事も辞さずして、アルトリアと鬩ぎ合う。 君に伝えたいこと/Finale IV
/1 「…………チ」 そんな裂帛の中、アルトリアは小さく舌打ちを漏らした。当然だ、目の前の男……衛宮士郎の不可解なまでの戦闘能力。 直接剣を交え合う戦闘において、アルトリアは他の英霊達にも一切の引けを取らない自負がある。ブリテンを背負って立った戦場は十二を数え、その全てを勝利の内に終わらせてきた。 それが何故、この男一人倒せない。初撃で殺せた筈だったのに。一魔術師でしかないこの男に、剣の英霊たるアルトリアの剣を受け切るだけの技量などある筈もなく、また資格さえもない。 サーヴァントの相手を務められるのはサーヴァントだけだ。だというのに、防戦一方とはいえこの男は耐えている。一撃貰う度に苦痛に顔を歪ませ、次いで繰り出した剣にまで合わせて来る。確実に獲りにいった三撃目を、無理矢理に酷使した腕で防ぎ切る。 「………………」 判らない。この男を衝き動かすもの。そうまでして、アルトリアに抵抗する意味が理解できない。 ──そこではたと気が付いた。衛宮士郎の欲するもの。衛宮士郎を衝き動かすもの。それはきっと、アルトリアと同じものなのだと。 一際大きく剣を振るい、彼我の距離を突き放す。無為な鬩ぎ合いは時間の浪費。一度仕切り直して次で仕留める。 「は────、はあ、はあ、はあ、……ふぅ」 アルトリアに弾き飛ばされたのを逆手に後退し士郎は更に距離を取る。十メートル近く間合いを空け、肺に溜まった熱を吐き出した。 手には剣の感触。脳は未だ廻り続け、いつ襲い掛かられようとも対応できる。ただ目が少しチカチカして、妙な耳鳴りが聞こえる。 「────っ」 代償か。衛宮士郎の身を超えた魔術の反動。酷使した身体は既にそこかしこで悲鳴を上げている。一度膝を屈せば、もうきっと立ち上がれない。 でも、まだ負けていない。むしろ付いていけた。あのアルトリアの剣筋に。剣戟に。防戦ながらに戦えたことが、士郎に一種の高揚感を齎した。 「ようやく理解できた。貴方がそこまでして私に立ち向かう意味を」 そんな昂ぶりを一閃する冷たい声。士郎の視界は剣を若干さげた姿勢で構えたままのアルトリアだけを捉えている。 「……ならもういいだろう、剣を収めてくれ」 「何を馬鹿な事を。余計に戦う意義が生まれたというのに。シロウ──貴方もまた、聖杯を欲しているのでしょう?」 「──────」 アルトリアの言葉は、およそ士郎が想像し得ないものだった。どういう経緯を経てそんな結論に至ったのか、士郎にはまるで理解できなかった。 「貴方にもまた、聖杯を欲する理由がある筈だ。十年前の大火災、貴方が全てを失ったあの悲劇をなかったことにする為に……」 「────な」 瞬間、頭が真っ白になった。何故それを知っている。衛宮士郎の心の咎。正義の味方に救われた、あの日の出来事を。 「ならば貴方と私は同じ筈だ。過去の改竄、過ぎ去った悲劇を消し去り、もっと良い未来を築き上げる。 滅びではない、誰もが悲しまない歴史を。誰もが笑っていられた筈の世界を」 それがアルトリアの祈り。滅びを運命付けられた祖国に救済を願う王の誇り。国を、民を守ると決めた原初の誓い。 「……ふざけるな」 だというのに、士郎が発した声音は酷く低く重かった。手にした剣が震えている。痛みではない。怒りで、士郎は打ち震えている。 「そんな願いは間違ってる。終わってしまったものはもう変えられない。過ぎ去ったものは変えてはいけないんだ。 だからおまえの願いは、途轍もない間違いだ」 「……フン。貴方とて同じだろう? 私に挑みかかってくるのも、自らの身体を限界以上に酷使してでも戦い続けるのは、この先にある聖杯を欲するが故だろう。ならば同じだ。貴方の欲するものと私の祈りは同一だ」 「一緒にするな。俺は、聖杯なんて求めちゃいない!」 「な、に……?」 怒号一声、士郎の否定の言葉にアルトリアは訝しむ。声を張った程度で頭を押さえるほどの半死人が、一体今何を喚いたのかと。 「っ……。俺がここにいるのは、おまえを救う為だ。その間違った願いを否定して、在るべき心を取り戻させてやる。 そしておまえを救ったその後に、後ろにある聖杯もぶち壊す」 「────ク」 突如としてアルトリアが声を荒げた。笑う。声を高らかに響かせて笑い続ける。 「……傲慢だな、シロウ。私を下して聖杯を破壊する? 夢想もそこまで行けば大概だ、力もないくせに理想を謳わないで欲しい。 それに、この私を救うなどと、まだ本気で言っていたのか。ならば聖杯に我が祈りを託させろ。それで私は救われる」 「いいや。それじゃおまえは救われない。願って、たとえ実現したとしても、後に残るのは後悔だけだ」 そんな末路を迎えた奴を、一人知っているから。皮肉屋でバカで、だけど真っ直ぐで。己を貫き通したその果てに、憎悪に取り憑かれた英雄を。 その時、アルトリアの手にしていた聖剣が大地を打った。 「驕るな……! 救う救うと、そんな一方的な押し付けで一体何が救われる! 貴様は神にでもなったつもりか!」 「────違う。俺は正義の味方になるんだ」 「…………ッ」 もはや無益。どれだけ口で言い合ったところで、二人の主張は噛み合わない。ここは戦場であり、互いの手には剣がある。ならば雌雄を決するのは戦いの中でいい。 その実現出来もしない夢を語るおまえの口を、現実という名の刃で封殺してやる。 「構えろ。加減などない。語るべきものは剣で語れ」 アルトリアの身体が沈みこむ。合わせて、士郎もまた双剣を前面に構えた。 「アーサー王。おまえの願いは間違いだ。おまえのやろうとしている事は、冒涜だ」 「……ッ黙れ!!」 アルトリアが弾ける。初速から最高速。十メートル程度の距離など無きものとして士郎に一瞬で、肉薄する。 応じる士郎もまたもはや人の身では有り得ない。打ち込まれる剣戟の全てを防ぎきり、血反吐を吐きながら互角に比する。 鬩ぎ合う剣と剣。意志と意志。互いの想いを乗せた剣を交えて、散りゆく火花の向こうに敵を見る。 「アーサー! おまえには本当に判らないのか!? 歴史の改竄、過去の修正は、その時代を生きた人達への冒涜だと。精一杯生きて、そして死んでいった者達に対する裏切りなんだと!」 「黙れッ! だから私は救うのだ。私の執政で死ななくても良かった筈の人達を救う。滅びを衝き付けられた者達に、今一度平穏を与えるために!」 「……バカヤロォ!」 裂帛の交叉を、渾身の力を込めて弾き飛ばす。 「ぐっ……ぁ、…………ふ、んぐっ」 士郎の腕がだらりと下がる。喉を込み上げた血塊を飲み込んで視線だけは前へ。震えている足。崩れ折れてしまいそうな膝を、意志の力だけで支えている。 「なぁ……違うだろ。それは違うだろアーサー王。おまえは本当に、判らないのか。誇りを貫いて。誓いを守り通して。その果てが滅びであったとしても、おまえは精一杯時代を駆け抜けただろう……」 「ああ、そうとも。私は自らを貫いて、誰より速く駆け抜けた。ただその結果が、滅びであるのは許容出来ない。 だからこそ聖杯を求める。だからこそ救いを求めているというのに。何故それが、貴様には判らない?」 士郎の視界が霞み始める。反動による磨耗もあるが、これはそんなもんじゃない。ただ哀しくて。ただ虚しくて、士郎は目尻に涙を浮かべた。 もはやアルトリアの懇願は妄執のそれだ。是が非でも、何を捨て去ろうとも救いを手にするという強靭な意志。全てが達成されたその後でしか、その後悔に気付けないのではないかと思えてしまう。 だがそれでも士郎は諦めない。偽善。押し付けがましい救済。ああ、そうとも。衛宮士郎はそれでいい。 ただ信じたものが、胸に抱いたものが本物であれば、他の全てなど偽物で構わない……! 「アァァサァァァ……!」 士郎がアルトリアに踊りかかる。動かぬ足をなお前へ。霞む視界で彼女だけを捉えて。信じて。貫いて。否定を。その間違った願いに否を唱える。 「おまえは一体何の為に剣を執った……! あの選定の剣を手にした瞬間、思い描いた決意は嘘なのか!」 「違う……! だからこそ救いを、だからこそ聖杯を! 皆に笑顔を取り戻させる為に、私は救済を求めている……!」 「ならば! おまえは何一つ救えなかったって言うのか!? おまえは誰一人の笑顔も守れなかったって言うのか!? 違うだろ! お前は戦った。おまえは守った。おまえは救った。なのに……おまえのやろうとしている事は、その笑顔を裏切る冒涜だ────!」 「────っ!?」 そう、アルトリアが剣を手にしたのは、皆が笑っていたからだ。己が王となることで、多くの人が笑顔を誇れるようになるのなら、構わないと。 ならば今アルトリアが胸に抱く救済の祈りは、一体誰の為のものなのだろう。 「おまえが王で良かったって笑ってくれた人がいただろう。おまえが王だからこそ最期まで付き従ってくれた騎士がいただろう。 なのにおまえは、何一つ見えちゃいない! 結果だけを見て絶望して、その過程で掬い上げて来たものが、何一つ映っていない──!」 「ぐっ……ぎぃ…………!」 押し込まれる。これまで決して崩せなかった王の剣が、人の剣に競り負けている。有り得ない。そんな事はあってはならない。 衛宮士郎の心の強さに、アルトリアの決意が圧されている。ふざけるな。ふざけるなふざけるなふざけるな……! 「アアアアアァァァァァァ……!」 腕に込めた渾身の力で巻き返す。囀るな。煩いんだ、おまえの声は。勝手な事ばかり口にして、何も知らないおまえが、このアルトリアに否を唱える資格など、ない……! 「がっ……、はぁ────!」 士郎は交叉させていた剣を弾き飛ばされ、無防備な胸を晒す。その隙をアルトリアは見逃すことなく一閃。袈裟に士郎の胸を斬り裂いて、血飛沫を上げながら倒れ伏した。 「はあ、はあ、はあ、はあ、……ぁ」 アルトリアは肩で息をし、剣で身体を支える。勝負あった。確実に致命傷、もはや立ち上がることさえ出来る筈が…… 「………………は、ぎ……っ」 「バカな……」 困惑に濡れるアルトリアの瞳が映し出す士郎の姿。四肢をついて、胸から血を吐き出し続けてなお立ち上がろうとする様には、戦慄さえ覚えた。 狂っている。何故そうまでして立ち上がる。何故そうまでして邪魔をする。死に掛けているくせに、何故まだ立ち向かう意思を瞳に宿す……! 「げはっ……」 苛立ちをぶつけるようにアルトリアは士郎を蹴り上げた。ボールよりも軽く宙を舞い、叩き付けられて呻きの声を漏らす。 もう立ち上がるな。倒れていろ。生きているのなら、そうすればまだ、生き残れる可能性だってあるだろうに。何故…… 「ぐっ……」 ……まだ、立ち上がるのだ。 立てた腕が身体を支え切れずに折れ曲がる。そしてまた血を吐いて、それでも士郎は必死に立ち上がろうと身体を動かす。震える手を突き立て。崩れそうな足を突き立て。顔を上げて、まだ挑みかかる気でいる。 呼吸は小さく細い。目は半分程度しか開いていないし、口元は血糊でべとべとだ。動くだけで血溜まりが出来、恐らく激痛がその身を苛んでいる筈。なのに、何故。何故まだ、立ち上がろうとするのだ。 「……なあ。そんな、悲しいこと言うなよ。おまえが剣を執って、覚悟を決めたのは、こんなものの為じゃない。聖杯による救済。そんなものに頼るなら、最初からおまえっていう存在は要らないだろ。 さっき、おまえ言ったよな。神になるつもりかって。そのまま返すよ。アーサー王、おまえは、神にでもなるつもりか」 聖杯という奇跡に託す祈り。もう既に過去の事象と化したものをなかったことに、滅びを回避する行為。それは修正、歴史の改竄だ。 そんなものは人でも王でも手に余る所業だ。それこそ、神の御業でなければ達し得ない奇跡の魔法。 アルトリアの願いとは、そういうものだ。自身が王として駆け抜けた時代に否を唱え、天から賜れる神の御業に縋り付く愚か者。選定の剣を手にする瞬間、胸に抱いた誓いを蔑ろにする、理想への裏切りだ。 「…………っ」 この瞬間、アルトリアに初めて迷いが生じた。決して曲げなかった祈りの成就。立ち塞がった全てを斬り伏せてでも欲した聖杯に託すものが、本当にそれで良かったのかと思ってしまった。 斬り伏せてなお立ち上がろうとする士郎の姿に。彼が吐き出す否の言葉に。アルトリアの夢見たものが、揺ぎ無い決心が貶められていく。 「……それでも私は、聖杯を手に入れる」 搾り出した言葉。駄々を捏ねる子供のように呟いたアルトリアの言葉には、もはや先程までの力強さは微塵もない。 だが士郎もまた、アルトリアと斬り合えるだけの力などもう残されてはいない。未だ立ち上がる事さえ出来ず、蹲っている士郎に、アルトリアの剣を受け止められるだけの力などない。 なのに必死に立ち上がろうとしている。無様で、滑稽で、死に掛けているくせに、絶対に救ってやるという意志だけは、決して折れていなかった。 「……何故だ。何故そこまでして立ち上がる。何故そうまでして私に立ち向かう。おまえには何の関係もないことだ。 たとえ私が聖杯に祈りを託したところで、一体に何の害がある。何の不満がある。おまえは一体何が、気に食わないと言うのだ……」 「そんなの、決まってるだろ……」 腕を支えに身体を起こす。近くにあった莫耶を支えに、膝をつくまで身体を起こせた。 「俺は……正義の味方になるんだ。その為に、たった一人の女の子さえ救えなくてなれる筈もないだろ。だから、立ち上がる。立ち上がれる。絶対におまえを救う。そうしなきゃ、きっと俺は後悔するから」 震える腕に力を込める。剣を支えに、ようやく立ち上がった。そして顔を上げて、言ってやる。衛宮士郎の答えを。アルトリアがきっと、一番欲しがっている筈の答えを今、くれてやる。 「────その道が。今までの自分が、間違ってなかったって信じてるから。 信じたものが、本物だって誇れるから。だからせめて、その理想に恥じないように……」 ────俺は、最期まで俺自身を張り通す──── 「────」 それが答え。衛宮士郎の、そしてエミヤシロウの答えだ。行き着く先がたとえどんな場所だって、一番初めに抱いた心が本物であるのなら屈しない。 誰に理解されずとも、誰に裏切られようとも。最期の時まで自分自身が信じ抱いたものを張り通す。 たとえ十年前の悲劇をなかったことに出来るとしても、衛宮士郎は決して首を縦には振らない。亡くしたもの、失ったもの。あの地獄の中で生きたいと願い、そして叶わず死んでいった者の怨嗟を一身に背負って今を生きる。 救えなかったものの全てにごめんなさいと謝罪を告げて、もう二度と振り返ったりはしない。重すぎる咎も。零した涙も。胸を抉る痛みも。目を背けたくなる冷たい現実さえも受け入れて。 過ぎ去った全てを抱えて前に進むことが、失われたものを残すのだと頑なに信じて……衛宮士郎は胸を張り続ける。 それが、衛宮士郎の理想の答え。 正義の味方なんて戯けた夢を心に描いた、大馬鹿野郎の見つけた唯一つの答えだ。 /2 「………………」 アルトリアは強く唇を噛み締めた。血が滲み出る程に噛み締めて、手は聖剣をなお強く握り締める。 死に体で、それでも告げた士郎の言葉がアルトリアの胸を抉る。 駆け抜けた郷愁。アルトリアは多くを救う為に、多くを殺してきた。けれど殺した以上に多くを救い、たくさんの笑顔を築いた筈だ。 王として心を失くした彼女の瞳には、それが映っていなかった。ただどうすればより多くを救えるか。どうすれば祖国を救えるかと、そんなことばかりを考え続けてきた。 本当に守りたかったものは何だ? 国か? 土地か? 違う。民を、精一杯に生きる民に笑顔を齎す為に、アルトリアは剣と執り王となった。 ただその為には、犠牲が必要だった。民の住まう国を守る為には、どうしても排除しなければならない村があった。賊軍に荒され、退廃の憂き目に遭うくらいならばと、率先して自らの手で間引いてきた。 必要な事だった。多くを守る為に、彼らには犠牲になって貰うしかなかった。その王の決断に騎士達は否と唱えた。それでも王は自分の在り方を変えようとはしなかった。 それは何故だ。 それは、正しいと信じていたからだ。放っておき余計な犠牲が出るくらいならば、先に必要悪として斬り捨てる。王となり、少女の心を置き去りにしたアルトリアにとって、それは胸を痛めるものにはならなかった。 だからこそ、騎士達は言ったのだろう。王は、人の心が判らないと。 だがそれでも、悼むことはあった。涙を流す事さえもあった。落日の丘。未だ留まり続けるあの場所で、アルトリアは嘆きを上げた。 何故だと。何故このような結果になるのだと。救う為に、守る為に、笑顔を築く為に剣を執ったというのに、こんな結末はあんまりだ。 ──しかし。その結末は、覚悟していた筈だ。 選定の剣を引き抜く瞬間、魔術師が見せた運命の道筋。辿り着く果てが破滅であると知ってなお、アルトリアは剣を引き抜いたのではなかったか。 ならば今アルトリアが胸に抱く救済は誰の為のものなのだ。 本当に、民を想ってのものなのか? 国を憂慮してのものなのか? ただ単に、この破滅が許せないだけではないのか? ……あるいは。こんな結末しか築けなかった自己に対する救済ではないのか。 「…………」 失ったものには意味がある。無くしてきたものにも意義があった。正当化する気などないが、それでも必要だった事だ。 だから王である彼女はその全てを背負わなければならない。痛みに耐え、悔恨を嘆き、見捨ててきた全てのものを悼む事こそが償いではないのか。 救済。聖杯に託す祈り。その果てに、もし彼らが救われたとしても、アルトリアは胸を張って王で在り続けることが出来るのか。 駄々を捏ねた赤子のように奇跡に縋り、現実から目を背けた末に手に掴んだ仮初の楽園に一体どれだけの意味があるというのか…… 「……今更だ。気付くには、遅すぎる……」 手には黒く染まった聖剣。身体を覆うのは負の想念。ただ聖杯を掴むと、その一身でここまで駆け抜けて来たアルトリアに、もはや引き返す道などない。 たとえその先が、第二の破滅であったとしても、走り続けることしか、許されないのだから…… アルトリアが一歩を歩み出る。士郎が小さく呻きを上げて膝を折った。もう戦える身体ではない。それこそアルトリアが手を下さずとも、衛宮士郎は勝手に崩れ落ちていく。 だがアルトリアは手を下さなければならない。己の祈りをなお信じるのなら、目の前の男が投げかけた問いに否と唱えるのなら、それは避けては通れぬ必然だ。 だからアルトリアは、更なる一歩を踏み出した。 「────ふん、無様よな。その程度で膝を屈するか」 その時、暗闇の彼方から第三者の声が木霊し、同時に、白銀に輝く剣が闇を斬り裂いて飛来した。 「…………っ!」 膝を折った士郎の頭上を通り過ぎ、アルトリアへと襲い掛かった数本の剣を叩き落す。暗闇の向こうから、黄金の風が吹き荒んだ。 「貴方は……ギルガメッシュ?」 黄金の鬣。黄金の甲冑。紅蓮の双眸。アルトリアの知る英雄王の立ち姿。違いがあるとすれば、その気配。そして髪型くらいのものか。 呼吸を荒くしている士郎が振り仰ぐ。瞬間、腕に激痛が奔り残った二画分の令呪が赤く輝いた。共鳴している。そして、理解した。 「おまえは、セイバー……いや、ギルか?」 衛宮士郎のサーヴァント。今回喚び出された中で最後まで生き残ったセイバーのサーヴァント。だが、その姿は士郎の知るセイバーとは違いすぎる。 まだあどけなく、幼さを残していた少年ではない。炎のように赤い瞳に、全てを凍てつかせる冷たさを湛えている。 「いかにも。我はセイバーのサーヴァントとして招かれた、英雄王ギルガメッシュに他ならない」 士郎はそうか、と一人納得した。 どうしてそんな姿になっているんだとか、つい数時間前に電話で話した時は前の声だったじゃないかとか、色々問い詰めたかったが諦めた。 そんな余裕はないし、実際どうでもいいことだ。この黄金が士郎のサーヴァント。その事実があれば、他に必要なものなどない。 黄金の男の視線が士郎へと向けられる。 「覚えているか? 我が貴様に投げかけた問いを。あの時とは姿も声も違うが、あれもまた我に他ならん。忌々しいがな」 「……ああ。覚えているとも」 次に出会うのは戦場で。そしてその時こそが、見極める時だと。 「ふん。だというのに、貴様はこんなところで何をしている。膝をつき、血塗れで、死に体で貴様は一体何をしている」 士郎には、意味が判らなかった。何が言いたいのか理解できなかった。元から難しい物言いをする奴だったが、姿が変わったせいか輪をかけて判り難い言い方をする。 「何が言いたい……?」 「貴様が吐いた言葉を貫けと言っている。あの女を救うとほざいたのだろう? ならば、せめてやり遂げてから死ね」 黄金の男は言うだけ言って立ち去ろうとする。しかも、向かう先は入ってきた洞窟ではなく、大聖杯の安置されている大空洞に繋がる方だ。 「ギルガメッシュ……! 貴方は……!」 「剣を向けるなよ、騎士王。おまえの相手は我ではない。そこな雑種だ」 アルトリアを視線だけで射竦め、男はなお歩みを止めず暗闇の彼方に消えようとする。その少し前に。 「────追いかけて来い。せめて、我と比肩したいと欲するのならば」 視線すら傾けることなく。そんな事を言って、一陣の風のように黄金は去って行った。 /3 アルトリアには理解が追いつかなかった。一体あの男は何をしに現れた。あの言葉に一体どんな意味があったというのか。 「くく、……くはははは、あははははははは……!」 だというのに、今度は士郎までもが奇異な行動を見せる。腹を抱えて、高らかに笑い声を上げる。血塗れで笑うその様は、酷く不気味だ。 「……ああ、くそったれ。どいつもこいつも、好き放題言いやがって……」 莫耶を突き刺し膝に力を込める。 「ぐっ……、ぎぃ……!」 身体は多少楽になっている。どんな魔法かは知らないが、衛宮士郎の傷は有り得ない速度で修復される。しかし酷く治りが遅い。ああ、だけどそんなこと知った事ではない。今立ち上がらずして、一体いつ立ち上がる。 黄金の男……セイバーは言った。貫けと。口にした以上は成し遂げろと。そしてそれから死ねばいいと。 ああ、全く。全く以ってその通りだ。衛宮士郎はアルトリアを救う。その為だけに、こんな地の底まで追いかけて来た。 それに、最後のあの言葉は何だ。追いかけて来い? 何様だ。一体あいつは何様だ。でかくなったからっていきなり態度まででかくなって、あまつさえそんな言葉を残してさっさと立ち去るなんて、有り得ない。 ああ、有り得ない。有り得ないが────あいつの言葉は、最高の激励だ。 ぶっきら棒に、酷く偉そうに、見下しながら、それでもセイバーは衛宮士郎の背中を押してくれた。 こんなところでへばっている場合じゃないだろう、さっさとそいつを救って追いかけて来いと、あいつは士郎を認めたのだ。 「……くそっ。本当、どいつもこいつも自分勝手だ」 アーチャーは言った。追いついて見せろと。 セイバーは言った。追いかけて来いと。 畜生。ふざけやがって。追いついて見せろ? 追いかけて来い? ふざけろ。 「ああ……追い越してやるよ。おまえらなんか、二人まとめて────!」 もう背中を見るのは飽きたんだ。あの背中を超えて、衛宮士郎はその先へ行く……! 「は、ぁあ……っ!」 だからさっさと立ち上がれ。まだ死んでない。まだ終わっていない。まだ立ち上がる足があるくせに、死んだフリして浸ってんじゃねぇ……! 「ぐああああああああああああ……!!」 そうして衛宮士郎は立ち上がった。血塗れの身体。虚ろな瞳。けれど、確固とした意志を宿して。 アルトリアもまた、剣を握り締めた。是非もない。もはや引き下がる事など出来る筈もない。意地を貫き通して、聖杯へと至らなければならないから。 「決着をつけよう、アーサー王。まだおまえが聖杯に縋るなら、俺は絶対に否定してやる」 「いいだろう。もはや私にも戻れる道はない。貴方を倒して、聖杯を手に入れる」 もし本当に救いなどがあるのするのなら、それはきっと、この激突の向こう側だ。だから互いに剣を執る。 剣に生きた者と、剣と共に在る者が、最後の戦いへと身を投じる…… /4 深く腰を落とした衛宮士郎は、空いていた手に干将を投影する。 そして更に、剣に込められた全ての情報を引き出す。アーチャーがこの剣を主武装とした理由。仮にも英雄たるあの男が担うと決めた剣だ。ならばまだ、先がある。衛宮士郎の知らない先が。 「────、────、────っ」 断線しかかる意識を歯を噛み砕いて耐え続ける。もっと深く。もっと遠く。暗闇の向こう側、届かない先へと手を伸ばせ。でなければ、あの敵を救えない。 「…………づぃ、あ……」 届く。届いた。朦朧とした意識だが、まだなんとか繋がってくれている。目の前の敵もしっかりとこの目で捉え切れている。ならば、挑もう。この敵へ。最強を倒し、その先へと至る為に。 「はぁ……!」 二刀の投擲。真円を描いてアルトリアを中心点としてクロスを刻む軌跡で、夫婦剣が空中を疾駆する。 次いで投影。全く同じ双剣を手に担い、アルトリアへと踊りかかる。 先に到達した二刀が、アルトリアの一刀にて斬り捨てられる。造作もなく。軽々と。だがそんなものは織り込み済みだ。士郎は一直線にアルトリアへと突撃し、干将を振るう。 「ぎっ……!」 だがそれも、難なく弾き飛ばされる。握力が足りていない。先ほどまでは凌げたはずの一撃を、今の衛宮士郎は耐え切れない。 しかしまだ攻撃は続けられる。手にした莫耶に導かれ、アルトリアの背後より再度舞い戻る一投目の干将。同時に、左手に干将を再投影し、右手の莫耶を振り上げる。 「はぁああ……!」 前後からの同時攻撃。それさえもアルトリアは凌ぎ切る。舞い戻った干将、手にした莫耶の両方を叩き折られ、士郎の手には投影したばかりの干将が一振り。 しかし士郎は既に布石を打っている。一投目の莫耶が、今度は干将に惹かれ舞い戻る。この一撃さえも、アルトリアなら防ぎ切るだろう。 だがその先。決死を撃つ四撃目。人体の構造上必ず生まれる一瞬の隙。その隙を衝く四撃目の双剣を投影しようとして、 「がっ…………、あぁあああ…………っ!」 これまでにない激痛が士郎を襲った。当然だ。本来届かない場所で無理矢理酷使していた身体を、更にその先へと踏み込ませた反動は生半可なものではない。 明滅する視界。焼け焦げていく魔術回路。神経は断裂し、血管はもはや何処が繋がっているのかすら不確か。 身に余る魔術は術者を滅ぼす。その教えが、この土壇場で士郎を襲った。 「は────、ぁ……」 辛うじて投影した莫耶で、硬直を脱したアルトリアの一撃を受け止める。否、受け止めることさえ許されず、一方的に吹き飛ばされた。 「げはっ……、げ、…………ご、ふ……」 血反吐さえももう吐けない。喉から出てくるのは胃液ぐらいだ。過剰投影による肉体の消耗。魔力は並々以上に供給されても、衛宮士郎の魔術回路が壊れかけている。 「とう、え────」 それでも士郎は屈しない。アルトリアも手は抜かない。迫る敵を視界に収めたまま士郎が思い描くのは、これまでの戦いの中で見た最強の宝具。 もう鶴翼三連を繰り出すだけの投影は不可能。持って後一回。それで、衛宮士郎は砕け散る。だから、最強の宝具をこの手に…… ──想像し、創造するのは 込める弾の名は斬撃。 アインツベルンの森の攻防でバーサーカーが放った最強宝具。 ……しかし剣に特化する衛宮士郎では、そのままヒュドラの弓矢を投影し切る事など出来ない。だから投影すべきものは、バーサーカーの剣技。大英雄ヘラクレスが昇華させた剣による九連撃を投影する。 蓄積された経験、鍛え上げられた筋力、振るうに辺り必要不可欠の要素を全てこの一瞬で築き上げる。 落ちる撃鉄。二十七、整然と並んだ撃鉄が順に落ちて火花を散らす。同時に、衛宮士郎を破壊していく音だ。 構わない。やり遂げて、救った先で果てるのならまたそれも必然だ。ここで膝を折ることだけは絶対にあってはならない。 示すのだ。この道は間違ってなどいないのだと。胸を張って、挫けかけても理想を貫き通したのなら、それは誇っていいものなのだと、教えてやるのだ。 だから、この一撃に全てを乗せる…… 「────っ!?」 突如としてアルトリアに直感が走り抜ける。死に体で、血塗れで、ぜいぜいと息を吐いてだらりと腕を下げている衛宮士郎から、これ以上は近づいてはならないと警告が発せられている。 先の連続投影も肝を冷やしたが、今度のそれはその上を行く。揺らめき立つ魔力の波。不明瞭な視界でこちらを窺いながら、それでも士郎は何かを画策している。 ならばアルトリアの応じる手は唯一つ。全てを無に帰す聖剣の全解放で、繰り出される一撃を迎撃する。 「────はぁ……!」 距離を離し、両手でしかと握り締めた聖剣を振りかぶる。収束する魔力。吹き荒れる風が髪を巻き上げる。膨大な力が彼の剣に収束し、解き放たれる瞬間を待つ。 「 先に動いたのは士郎だった。士郎が担うには大きすぎる斧剣。岩塊じみたその剣は、バーサーカーが手にしていたものだ。 …………愚かな。本来の持ち主であるバーサーカーが放った技でさえ凌ぎきったアルトリアに、紛い物の剣で一体何を挑むという。 高く振り上げた互いの剣。何一つとして発せられない士郎の剣と、黒いフレアを帯びた聖剣が相打つイメージなど、アルトリアには浮かばない。 この剣こそが最強。聖剣というカテゴリーにあって、最強の名を欲しいままにする星の鍛った剣なのだ。あんな、出来合いの剣に負ける道理など、ない……! 最高潮に達した魔力が吼え上げる。今か今かと発動の瞬間を待ち望む。応えるように、アルトリアもまた深く大地を掴み手に力を込め── 「 ──全てを滅す光が解き放たれた。 「全工 遅れることコンマゼロ以下。士郎もまた専心を以って絶殺の奥義を振り下ろした。 全てを呑み尽くす黒き奔流と刹那に斬殺する九連撃。 その衝突を見る瞬間、士郎は手にした剣を放り捨て駆け出した。ただ前へ。自らの斬撃を追いかけて。黒光の渦の只中へ。 アルトリアには士郎のその行動は愚か以外のなにものにも思えなかった。確かに、人の身でありながらヘラクレスの剣技を模倣し尽くした技量は賞賛に値する。 だが、それだけだ。 射線上にある、ありとあらゆるものを薙ぎ払う対城宝具に対人宝具を放った時点で勝敗は決している。バーサーカーの宝具ならいざ知らず、士郎のそれはただの剣技。人を殺す為の技だ。 アルトリアの宝具、エクスカリバーには到底太刀打ちできない代物だ。あるいは、あの連続投影の最中に放てていたのなら、別の結末もあったのかもしれなかったが。 降り注ぐ光。九つの斬撃は僅かに抗いを見せ、そして同時に呑み込まれる。堪えたのは一瞬、身を投じた士郎の命を一秒ばかり引き伸ばしただけのこと。 間も無く全てが終わる。衛宮士郎を下し、アルトリアは聖杯へと至る為、今一度大聖杯の膝元へと舞い戻る。 「────────ハ」 息を吸い、吐く。そんな時間さえもう残されていない刹那の中、引き伸ばされた超感覚の中で手を伸ばす。 人が死の間際に見るという走馬灯。時間がスローになる感覚。今、士郎が感じているのはきっとそんな感覚だ。 頭上には黒い光の束。放った斬撃は少しだけ衛宮士郎の命を引き伸ばして消え去った。一瞬でも有り難かった。 走る。前へ。考える時間なんてもう残されていない。だから、ただ前へ。この黒い光を抜けた先に救うべき人が待っている。 胸に抱いた理想が余りに尊く、高潔すぎて、一滴の泥の妄執に犯された悲しい人が待っている。衛宮士郎が救うのだ。正義の味方が救うのだ。 だから、前へ。向こうから吹く風を突っ切って。あの赤い背中を追い越して。この光の渦の先へと手を伸ばす──── その瞬間、唐突に光が生まれた。眩いばかりの光。アルトリアの放った黒い光を遮り、全てを包み、全てを護る黄金の光が士郎を包み込んだ。 「────な……バカ、な……」 アルトリアは驚愕した。終わる筈の光景の向こう側──死に体の衛宮士郎が手を伸ばした先に掴むもの。 黄金の地金に目も醒める青の刺繍を織り込んだ鞘。アルトリアの持つエクスカリバーを収める鞘。失われた筈の──絶対の護り。 「何故ッ……! 何故おまえが かつて、アーサー王が所持していた剣と鞘。湖の貴婦人より託された聖剣の真価は剣ではなく、鞘にこそあった。 所有者に不死の力を与え、ありとあらゆる物理干渉を防ぎ、五つの魔法さえ寄せ付けない究極の一にして、この世界に存在する最強の護り。 ────其の名を アーサー王の手を離れ、紛失した筈の鞘。アインツベルンの手により発掘され、アイリスフィールの命を守り、衛宮切嗣の命を守り、そして衛宮士郎を救った宝具が──今、本来の所有者の前に展開されている。 その身に収めるべき聖剣の光さえを遮断し、衛宮士郎を守る為だけに展開されたアヴァロン。その光景に、アルトリアは吼え上げずにはいられない。 「何故だっ……! おまえまで私の祈りを否定するというのか────!!」 もはや慟哭に近い叫び。かつて共にあった半身が、今はこうして牙を向く。 アルトリアの理想に否を唱え、衛宮士郎を是とするように、アヴァロンは現在の所有者を護るべく、その光を顕現させていた。 温かな光に包まれていると認識して、霞む視線の先が気が付いた。振り注いだ黒流は左右に分断され、士郎を避けて大地を穿った。 開けた道。剣を振り下ろした姿勢で硬直するアルトリアの表情は、悪戯がばれた子供みたいだった。 なんだ、そんな顔も出来るんだな……とまだ考えられた事に驚きつつ、士郎は更に一歩を踏み込んだ。もう敵は目の前。伸ばした手がようやく届く位置に辿り着いた。 だが、衛宮士郎にはもう針の一本すら投影する力も残っていない。崩れた魔術基盤は手の施しようさえもなく、今こうして立っていられる事が不思議だった。 だけどもう、ここまでだ。アルトリアに想いを叩きつけられるだけの力が、何処にも残っていない。 ようやく辿り着いたのに。ようやく、目の前に立てたのに。後一撃でいい。後一撃分の力が欲しかった。 「…………は、ぁ」 くそったれ。気が付いた。一体アイツは、どこまでお節介な奴なんだ。なんでそこにあるんだ。なんでそこに突き立っているんだ。 セイバーが初めから手にしていた不可視の剣。それが、士郎にだけ捉えられる位置に突き刺さっていた。 「くっ────!」 手を伸ばす。何もない空間を握り締めれば、確かな感触が伝わってくる。剣の柄。アイツが何度となく握り、士郎を守ってきた剣を託し、あの男は去って行った。 ならばもう、後は全ての想いをぶつけるだけだ。この場所に来るまで、多くのものに支えられた。多くのものを託されてきた。その全部を使い切って、衛宮士郎はアルトリアの眼前に立った。 ……ありがとう。全てのものに感謝を告げ、士郎は最後の刃を振り上げる。 「アルトリアァァァァァァァァァァァ……!!」 /5 振り下ろされた剣。風を斬り、空を裂き、士郎の渾身の力を以って打ち下ろされた不可視の剣は、寸分違わずアルトリアを斬り裂いた。 「──────」 声もなくアルトリアは倒れ伏した。胸より吹き上げる血飛沫。 衛宮士郎の手にした剣がアルトリアの理想を砕き、衛宮士郎を守護していた鞘がアルトリアの闇を祓った。 まさしく渾身の力を使い果たしたのか、士郎もまた崩れ折れるように倒れ伏した。アルトリアに折り重なる形で、士郎は意識を失い力尽きた。 ……勝敗は決した。 どちらが勝者などと、わざわざ判ずる必要はない。アルトリアは衛宮士郎の想いの前に敗れ去った。ただ、それだけだ。 「思えば、シロウが胸の内を吐露した時、既に勝敗は決していたのかもしれません……」 あの瞬間、確かにアルトリアは胸に迷いを抱いた。その迷いの結果が勝敗を分けたのだろう。迷いを抱えたままなお聖杯に縋りつこうとするアルトリアを、聖剣の鞘が否と答えを齎したのだ。 奇跡ではない。必然だ。最後まで胸を張り通した者と、最中で迷ってしまった者。その差が、この結果の差だろう。 そう、アルトリアの抱いた祈りは間違いだった。選定の剣を引き抜いた瞬間の想い……皆が笑っていられる未来を作る為にアルトリアは王となった。 その過程で多くを救い、多くを殺した。殺した以上に多くを救い、確かに国に笑顔を齎した。 そして、見捨ててしまった者を救うことなど出来ない。過去は変えられない。変えてはいけないのだ。 失ったものを想い出に変えて、確かに胸を張って生きることが、アルトリアに科せられた咎なのだ。それをなかったものにして救済と呼び称えるなど、死者に対する冒涜だ。 深く抉った傷痕も、重い枷も、零れた涙も、胸を締め付けた悔恨も、全てを胸に抱いて前に進む。それが、残された者の精一杯。 そして、置き去りにしてきたものへの鎮魂だ。 アルトリアは自分に出来る精一杯をやり遂げた。たとえその果てがあの落日の丘の慟哭でも、孤独な破滅であっても。 ────戦うと決めた。 その決意に嘘はなく、一生懸命に走り抜けたのだ。 「……ああ」 頬を伝う涙。胸を満たす温かなもの。 欲したものは全てあった。最初から、全部あったのに。ただ見えていなかっただけ。見なかっただけだ。この胸に抱いた誓いは、精一杯に走り抜けたアルトリアの生涯は、決して間違いなんかじゃない。 ……胸を張って誇っていいものなのだと、この少年が、命を賭して教えてくれた。 「貴方の勝ちだ、シロウ。そして、私の敗北だ」 アルトリアが自身の祈りを否定した今、彼女を蝕んでいた呪いもまた消え去った。聖剣の鞘の加護は、この世全ての悪などものともしない。 かつてあった清廉なる輝き。青の装束に金の刺繍。銀の甲冑を纏い、戦場を駆け抜けた覇王の姿。風に揺れる美しい金糸の髪。全てを見通す、聖緑の瞳。 在りし日の騎士王の姿が、この現代に蘇った。 十年前、アルトリアは泥を飲み干したわけでも払拭したわけでもなかった。彼女が抱いた一つの祈り。何よりも尊く美しいその祈りに、悪魔が憑いた。 その祈りは正しいと。おまえの願いは真実だと。優しい悪魔が囁きかけた。それが故の妄執。泥に犯されたのは彼女自身ではなく、胸に抱いた祈りだったのだ。 だが今はもう、どうでもいい。誓いと誇りを取り戻した彼女にとって、そんなことはもうどうでもいいことだ。 「……シロウ?」 気に掛かったのは士郎の方。全く返事がないその様に、何かおかしなものを感じてアルトリアは視線を滑らせた。 「──────」 衛宮士郎はもう、動かなかった。瞳を閉じて、死んだように眠っている。微かに鼓動は感じたが、生気がまるで感じられない。 ならば全ての力を使い果たしたのだ。魔術回路を焼き切って、神経をズタズタにして、身体の至る所を破壊し尽くした衛宮士郎から、命の火が消えかけている。 なのに、アルトリアは微笑んだ。かつてないほど優しく、聖母のように。 「……大丈夫です、シロウ。私の為に命を賭してくれた貴方を、こんなところで死なせはしない。貴方の身体の中には私の鞘が宿っている。ならば、私の魔力を直接注ぎ込めば、鞘が必ず守ってくれる」 霊媒のように士郎の胸へと沈み込んでいくアルトリアの掌。士郎と既に一体化している鞘に触れて、アルトリアは自身に残った魔力の全てを注ぎ込んだ。 見る間に士郎の傷は癒えていき、呼吸も穏やかな寝息のそれになる。もう大丈夫。そう思って微笑んだ時、アルトリアの身体が透け始めた。 明確なマスターもなく、聖杯の泥により生かされていたアルトリアからはもう泥が取り払われた。その意味するところは、消滅。この世に繋ぎ止める楔もなく、供給される魔力も途絶えた以上、サーヴァントは現世に留まれない。 あとはただ消え去るのみ。でも、それでいいのだ。もう答えは得た。この少年から、充分すぎるほど貰ったから。 「ただ、残念なことがあるとすれば……貴方に感謝を伝えられない事だろうか」 士郎はまだ目を覚ます気配はない。疲れ果て、翼を休める鳥を叩き起こすほど無作法でもない。伝えきれない感謝は胸に仕舞って、静かに消えていけばそれでいい。 でも、ほんの少しだけ感じた未練。思い残したくはない感謝を詰め込んで、アルトリアは士郎に口付けをした。 頬に手を添えた、触れ合うだけの優しいキス。女性として好意を伝える最初で最後の口付けを。 「ありがとう。そして、さようなら……シロウ」 ────風に透けていく中。 アルトリアは、最後にとても綺麗な笑顔で微笑んだ。 web拍手・感想などあればコチラからお願いします back next |