剣の鎖 - Chain of Memories - 第五十五話









 天へと届く石段を駆け上がり、山門を超えた先。開けた視界いっぱいに灯る魔力の火。充満した魔の気配はもはや測りきれない。
 これでなおまだ聖杯は開ききっていないというのだから、もし完全な形で降臨を見たとすれば、どれだけの魔力量に満たされるのか想像さえも出来ない。

「────」

 バゼットは革手袋を今一度引き締め、秘爪で各所にルーンを刻む。今は目の前の事だけを見ればいい。聖杯の方はあの二人に託している。彼らならば、きっと正しい形でこの戦いを終結に導いてくれるだろう。

 途中脱落となったバゼットにとって、聖杯を手中にする必要性も持ち帰る義務もない。マスターとして戦った経過を報告し、後は知らぬ存ぜぬで白を切り通せばいい。

 その行動は魔術協会内でのバゼットの立場を更に悪くする可能性もあるが、構わない。もう長居する気もない。この戦いの中で見つけた答えを探して、これからは世界を渡り歩くと決めたのだから。

 ──そして。その為の最後のけじめ。後始末。この地での未練を断ち切る為、バゼットはこの場所を訪れた。

 彼方より響く足音。視界さえも霞む魔力に満たされた境内を横切りこちらに向かい来る一つの影。
 長身。僧衣を纏い胸には燦然と輝く金のクロス。深い黒色をした瞳の奥に、強い意志を秘めた男。

 バゼット・フラガ・マクレミッツが認めた数少ない男。彼女をこの戦争へと招き入れた張本人。そして、彼女の腕を奇襲で以って切断した中立の立場にある筈の神父。

「言峰、綺礼────」

「久しいな、マクレミッツ。いや、そうでもないか? つい二週間ばかり前にあったばかりだったかな」

 まるで旧友と言葉を交わすかのように軽やかな声。いつか聞いたあの重く苦しい響きを伴わせながら、なお喜悦を滲ませている。

「ええ、そうですね。壮健そうで何よりだ」

 バゼットもまた淑やかに返す。乱れるような心はもう置いてきた。心を覆う鋼鉄は決して砕けない。

「君も変わらぬようで何よりだ。特にその“左腕”は、大丈夫かね?」

「……ええ。腕の良いルーン使いが知り合いにおりまして。今では問題なく機能してくれています」

 ぎゅっと拳を握り左腕を抱いた右腕。彼女の従者が繋ぎとめてくれた腕だ。バゼットは一度きつく唇を噛み、そして何かの合図のように踵で石畳を打った。

「──言峰。下らない挨拶はこれまでだ。私はけじめをつけに来た。貴方をこの手で打ち倒し、そして新しい自分を始める」

「そうか。私も予定が詰まっていてね。君にいつまでも拘っていられるほど暇じゃない。いつかおまえに話した、“答え”を見届けに行かねばならんのでな」

 そのやり取りを契機として、両者は互いに構えを取った。バゼットは胸の前に腕を高く掲げ、綺礼は僧衣の裾より取り出した黒鍵を左右に三本ずつ構えた。

 魔術協会の戦闘魔術師、封印指定の執行者であるバゼット・フラガ・マクレミッツ。
 聖堂教会の実戦部隊、異端審問の代行者である言峰綺礼。

 幾度となく互いが組したキョウカイの命で戦場でかち合い、また背中を任せて戦った事がある二人が、譲れぬ矜持を賭けて覇を決する。






絆の在り処/Finale V




/1


「ふっ────!」

 戦端を切るバゼットの踏み込み。ルーンを刻んだバゼットのスピードはロケットじみた加速を得て彼我の間合いを一息で詰めようと疾駆する。
 そのスタートを切った瞬間に放たれた左右六本の黒鍵。柔軟な身体をバネに見立てたしなやかな投擲は全てがバゼットの動きを縫うように放たれた。

 ほぼ同時に襲い来る剣の雨。だが、温い。バゼットはかつて英雄王の宝具掃射を目の当たりにしている。
 あの絨毯爆撃じみた乱射に比べれば、黒鍵の投擲など取るに足らない。

 持ち前の選眼と反射、鍛え上げた肉体の力を駆使して左方へと跳躍。着地と同時に再加速し、大半は空を切った中で一本だけ迫る黒鍵を叩き上げて粉砕した。

 開かれた視界。バゼットの得意とするショートレンジへと踏み込もうとしたその時に、頭上より降る刃に気が付いた。
 加えてまだ届かぬ位置に立つ綺礼の手には更に四本の黒鍵。遠慮も容赦もなく抜き放たれた刃の矢。

 バゼットは悪態を噛み締める間も無く後退を余儀なくされた。

 一瞬後にたった今バゼットのいた位置に剣が降り注ぎ、その隙間さえ縫って綺礼の手をより放たれた黒鍵が襲い掛かる。
 しかし、その投擲もバゼットは二本を回避し一本を砕き、残る一本が腕を掠める程度で終わった。

「…………っ」

 ……見誤った。英雄王の宝具掃射はいわば広範囲に及ぶ蹂躙だ。主の命により奔った剣に意志はなく、銃より放たれた弾丸のように直進するだけ。
 その一発一発が宝具となれば恐ろしいまでの脅威となるが、綺礼の投法もまた違う意味での驚愕だった。

 一度に撃ち出せる数も少なければ威力も比べるまでもない。だが、そこには綺礼の意志がある。標的を撃ち抜く精密なまでの射撃能力。
 一手も二手も先を読んだ上で繰り出される黒鍵の雨は、行動の阻害という一点においてこの上ない武器となる。アウトレンジにおける攻撃手段を持たないバゼットにとって致命的な不利であった。

「巧く避けるものだな。流石は執行者と言うべきか」

「下手なお世辞はいりません。貴方の戦闘方法は幾度か垣間見ている。この程度で仕留められるとは思っていないでしょう」

「無論だ。それでは余りに面白みがない。まあ私も、そちらの戦闘能力はある程度は把握させてもらっているからな」

 数年前に知り合った二人は互いに共通の敵を打倒する為に手を組んだことがある。その過程において二人は互いの戦力を把握している。隠しているものがないとすれば、後はいかに相手の裏を掻くかに終始する。

 間合いを取ったまま対峙する二人。綺礼は新たな黒鍵を手にし、思案顔で頷いた。

「一応聞いておくか。マクレミッツ、君のけじめとは報復か?」

 聖杯戦争開幕以前、洋館に招いた言峰綺礼の奇襲に遭い左腕を切断されたバゼット。辛くもランサーの機転により腕も修復されこうして相見える機会を得ているが、下手を打っていればあの場で脱落していただろう。
 その落とし前。復讐という行動原理がバゼットを衝き動かしたのか、と綺礼は問うた。

「いいえ。私は私に打ち克つ為に貴方を打倒する。私にとって、貴方は超えていかなければならない壁だ。背中を見せて逃げ出すわけにはいかない」

 バゼットが出逢った中で初めて認めた人間。孤高の強さを持つ絶対的な悪。神に仕える身でありながら悪と言い切れるこの男は、バゼットにとって羨望であり憧憬でもあった。弱い自分。迷っていた自分。そんなバゼットに答えらしい答えを初めてくれた人。

 だからこそ、今越えなければならない。復讐というのも動機になるだろう。英雄王を裏で繰っていた事実を鑑みれば、ランサーの仇討ちも視野に入るだろう。
 でも、そんなことの為にこの拳があるわけじゃない。バゼットが拳を握る理由は唯一つだけ。過去の清算。因縁を断ち切り、弱い自分と訣別する。

 ……その為に、言峰綺礼という男を超えなければならない。

「強くなったものだ……」

「……え?」

 一瞬だけ見せた綺礼の微笑みにバゼットは呆気に取られた。が、すぐさま巌のような渋面へと変貌した綺礼の表情は、戦闘者の顔つきになっていた。

「ならば是非もない。私は私の目的との為に、おまえはおまえの目的の為に。ああ、この構図は素晴らしい。
 互いの思想が決して合致しないが故の闘争。十年前を思い出すよ……」

 弾けるように綺礼が駆ける。手には計六本の黒鍵。それを翼のように広げ疾駆する。バゼットもまた迎撃の為に構えを強くし、相手の一挙手一投足を見定める。

 疾走の最中に繰り出される三閃。頭蓋、心臓、腹の三点を寸分違わず撃ち抜かんと放たれた矢を、バゼットは離脱を以って回避する。
 迎撃に手間取っていられる時間はない。より離脱のし易い右側へと躍り出たところで、悪手を打ったと気が付いた。

 綺礼の投擲はただ急所を狙い撃ったものではない。逃げ道を用意し、誘導の意味を付加しての射撃。回避されることを前提とした布石。
 石畳を打つ震脚が勢いに乗った綺礼の経路を無理矢理に逸脱させ、一足ばかり跳んだバゼット目掛け襲い掛かる。

 右の手には未だ三本の黒鍵。綺礼はそれらを空高く放り、一層の加速を得て肉薄する。

 互いが得手とする至近距離での殴打戦。かたやボクシングスタイルで全てを粉砕する圧倒的な力を有し、かたや絶技を極めた中国拳法の使い手。
 衝突は必然にして起こり、迎撃の構えを見せていたバゼットから繰り出された拳はもはや常人に捉え切れる速度ではない。が、相手もまた人の範疇にはない超人。真正面から受け止める愚行を犯すことなく、腕を絡め取り受け流す。

 身の危険を感じたのはバゼットの方だ。このまま主導権を奪われてしまえば腕ごと圧し折られる。肉弾戦闘を得意とする二人にとって、身体の損傷はそのまま勝敗の行方を左右しかねない。
 腕の一本、指の一本、爪の一つとしてくれてやることはあってはならない。

 絡め取られた腕を逆手に、繰り出した蹴撃で神父を穿つ。
 が、それもまた相手の読みの内。肘と膝を立てた半身でボディをガードし、鍛え抜かれた腕と脚で衝撃を吸収する。

 だがそこまで攻めてなお、バゼットは更に攻め立てる。これで綺礼は左腕と右半身の自由を奪われた。片足で大地を踏み締める左足だけが自由の身だが、全身を支える基点を防御に使えまい。

 バゼットは捩じ上げられる右腕で綺礼の左腕をしかと掴み、右足で大地を蹴り上げる。宙に浮いたバゼットの全身。
 繰り出した蹴りは寸分違わず綺礼の腹を直撃し、呻きと共に先制を奪い取った。

 が、綺礼もまた既に布石を打っている。常人であれば悶絶してもおかしくはない蹴撃を喰らってなお、絡め取った腕は決して離さずに堪えきった。
 その瞬間、降り注いだ剣の雨。先に放り投げた黒鍵がこのタイミングでバゼット目掛けて飛来した。

「…………っ!」

 引けども押せども剥がせない綺礼に腕を取られた状態で、バゼットに三本の剣を躱すだけの余地はない。甘んじて全身を貫かれる事になる筈の攻撃を、

「あぁ……!」

 まさしく、力だけで捻じ伏せた。

「はあ、はあ、はあ、……っ」

 後退し距離を取る。無理矢理に腕を引き剥がしたバゼットであったが、剣の全ては避けきれず、左腕に裂傷を負った。
 腕を貫いた黒鍵を抜き捨て、ルーンによる応急処置。呼吸を落ち着け第一ラウンドが引き分けたものと了解した。

 綺礼にしてみても、およそバゼットの行動は埒外だった。確実に取った腕を力だけで捻じ伏せられるなど、全盛期であれば有り得なかった。
 ……衰えている。知らぬ間に身を蝕んでいた過ぎ去った歳月。実力が近しいが故に露見した微々たるものではあったが、だからこそ差は大きい。

「十年か……。ふ、私も年を取る筈だ」

 ならばもはや、是非もない。
 腹部を痛ませた僧衣を脱ぎ去り綺礼もまた大きく呼吸をする。鍛え抜かれた肉体。鋼を思わせる筋肉の鎧を身に纏った綺礼の身体の一点に、バゼットは奇妙なものを見咎めた。

 左胸。丁度心臓に当たる部分に黒い渦のようなものが浮かんでいた。酷く不吉な気配を撒き散らす黒い汚泥。有り得る筈のないものが、綺礼の心臓を埋めていた。

「言峰……それは────」

 なんだ、と続けようとした言葉を遮られる。

「知っているか、マクレミッツ。蝋燭というのはな、燃え尽きる直前にもっとも大きな火を描くらしい」

「……それが何だと言うのです?」

「いや、人の命もまた同じではないかと思ってね。よく命を燃やす、というだろう。あれは中々の比喩だ。
 命を賭す、とも言うが、つまるところ覚悟を決めたその先、臨界点にだけ描かれるものもあるということだ」

 首を傾げかけたバゼットだったが、おおよそ綺礼の言いたい事が理解出来てしまい、苦渋の表情を浮かべてしまった。

「言峰……。まさか、貴方は────」

「ああ。私は十年前に死んでいる。衛宮切嗣に背後より心臓を撃ち抜かれ、なおもこうして動いているのは……ふん。つまるところこれのお陰だ」

 そうして指を這わせた左胸。どくどくと、本物の心臓のように鼓動している黒い渦。
 生身の人間は、心臓を撃ち抜かれて生きてなどいられない。対処が早ければ可能性もあるかもしれないが、綺礼は撃ち抜かれそして捨て置かれた。

 だから死んだ。死んだ……筈だった。

「私はこれを、天啓と受け取った。およそ人とは違う感性に生きる私は常に苦悶を抱いてきた。あの戦いにてある程度の脱却は出来たが、やはり根本までは覆せない。
 もし私が“生かされた”理由というものがあるのなら、すなわちこの生の解を見つけ出すことである筈だ」

 誰しもが美しいと想うものが綺礼には醜悪にしか見えず。誰しもが悲しみと嘆きを上げるものにこそ歓喜を覚える。
 人とは違う感性を持って生まれ、それでも人の中に交わろうと躍起になっていた己とは十年前に訣別した。

 いつかバゼットにも語り聞かせたように、綺礼にも美しいと想う心がある。ただ心を揺り動かされるものが決定的に違うだけ。決して相容れない断裂ではあるが、綺礼はあえて是とした。

 ただその意味……言峰綺礼という異分子が生を受けた理由。その意味を問いたい。

 人に問うても応えは得れず。神の祈りや魔道に身を窶したところで得られなかった苦悩の正体。この世に未だ存在しない決定的な解答を、綺礼はようやく、垣間見れるところまで辿り着いた。

「聖杯の中に燻る篝火。世を染める悪意の炎。生まれ出ずる前より“悪”であれ、と願われた者が導き出す生にこそ、我が生涯の答えがある」

 だからこそ綺礼は祝福する。十年前に垣間見た聖杯の中身。衛宮切嗣に否定されたものが生まれ落ちるその時を、しかと見届け福音を歌い上げるのだ。

「思えば……魔術協会より派遣される魔術師というのは私の思惑にあっては邪魔者でしかなかった。
 であるが故におまえを招き、早々に退場して貰おうと思っていたのだが……どうやらおまえは聖杯の真実までは辿り着けなかったらしい」

 誤算といえば誤算だった。向こう側へと至る儀式と信じて疑わない彼らに、実はそうではないものが混じっているなどという事を知られるのは厄介だった。
 無論バゼットを奇襲し、偵察用のサーヴァントを欲したのも事実だが、前者の方が理由としては大きかった。

 その分を鑑みれば、バゼットは綺礼の思うよりも優秀ではなかったか。いや、ただ単にそこまで詰める必要性を持たなかったということか。

 いずれにせよこの局面にあって問うべきものでもない。さて、と前置いて、綺礼は鋭い視線でバゼットを射抜いた。

「話が長くなったな。つまりだ。聖杯により生かされている私の命はもはや風前の灯だ。だからこそ、燃やし尽くせるものもある。
 この命が尽き果てるその前に、おまえを下し生まれ出ずるものを祝福する」

 それこそが綺礼の意志。たとえ悪であると願われた存在であろうとも、生まれる前のものは否定できない。だからこそ祝福を。ただ生まれたいという願いを持つ赤子に、彼は神父としての役割を務め上げるのみ。

「……なるほど。ならば私もここで引き下がる訳にはいかない。そんな話を聞かされて、容認出来るほど人間出来ていないから」

 元より対峙する他なかった彼らに決定的な断裂が生まれる。綺礼がわざわざ語り聞かせた事に一体どんな意味があったかはバゼットには知る由もなかったが、明確なまでに倒さなければならない敵なのだと認識した。

 もはや語る言葉は必要なかった。





/2


 距離を十メートル近く取った位置より、先に動いたのは綺礼だった。

 先ほどまでの黒鍵を使用した代行者としての戦闘方法ではなく、その全てを捨て去った秘門による戦闘術。アウトレンジという有利を捨て、対等の土俵に立つ事で綺礼は自身を更に追い込んだ。

 踏み込む一歩からして既に絶技。先ほどまでの動きがまるで濁流であったかのように感じられるほどしなやかに、静やかに、一本の線が通った清流の動き。
 十年前、衛宮切嗣に挑んだ言峰綺礼がここに蘇る。命の炎を燃やし尽くし、念願の元へと馳せ参じる為。

 その綺礼の動きは、およそバゼットの予測の全てを上回る。魔術的加護がほとんどない状態でありながら、彼我の距離を瞬きの間に詰め寄るなど、これまでバゼットが見てきた綺礼のどの動きよりも遥かに速かった。

 しかしバゼットとて格闘の分野においてのエキスパート。速く動けるのならその速さに対処した布石を打つまで。相手がどれだけ倍速で動けようとも、対処しきるだけの反射と経験がバゼットにはある。

 よって綺礼の初手はバゼットの防御の前に用を為さず、ついで繰り出した蹴撃による二連もまた確実に対処される。
 が、綺礼とて考えなしに突撃したわけではない。踏み込み、加速、初手、連撃。全てが布石である。

 綺礼の腕に刻まれた消費型の魔術刻印。父である璃正より託された余剰令呪を魔力に転化しての身体能力の強化を刹那に行う。
 元より人並みはずれた運動能力を持つ綺礼を、なお強靭な身体へと押し上げた令呪の加護は、次なる一撃でバゼットの防御を完全なまでに衝き崩した。

 石畳を踏み抜くほどの震脚で大地を掴み、打ち上げで放たれた掌底。前面に立てられていたバゼットの両腕によるガードを切り崩し、開けた胸へと放たれる縦拳。──金剛八式、衝捶の一撃。

 大木であろうとも一撃で粉砕しかねない威力で打ち込まれた掌打を、バゼットは呻きを漏らしながらその身に喰らい吹き飛ばされた。

 石畳の上を一度跳ね、そのまま伏すものと思われたが、バゼットは身体を回転させ靴底と掌で自らの身体を押し止めた。

「げほっ……」

 無論無傷であろう筈がない。唇の端より零れる赤い血。バゼットの様を見やり、綺礼は感嘆の息を零した。

 ────自ら跳んだか。

 打ち込まれる直前、放たれた一撃がバゼットの身体を捉える寸前に自ら後方へと跳躍し威力を減らした。それでもダメージはあったようだが、本来のものには遠く及ばない。

 バゼットの卓越した戦闘能力は、綺礼もまた見誤っていたらしい。

 しかし、状況は変わらない。倒れないのであれば、倒れるまで打てばいい。どれほど頑丈なものであろうと、一点に傷を負い続ければ何れ倒れる。

 疾駆。回復の猶予など与える筈もない。再度開いた間合いを詰め寄るべく、綺礼は境内を疾走する。応じるバゼットもまた手痛い一撃を被りながらも回避すべく跳躍。

 綺礼の蹴りが空を切ったところで、バゼットは身体を起こし反撃に移った。胸に受けたダメージは看過していいものではなかったが、後手に廻れば確実に刺し込まれる。
 攻撃は最大の防御。バゼットの戦闘スタイルもまた、見切りや防御に主体を置いたものではなく、一撃粉砕の巧手にこそ理がある。

 攻守は逆転し、迎撃の構えを取った綺礼に違和感が生じた。足元。石畳と靴底の間に光る紋様があった。
 束縛のルーン。バゼットが吹き飛ばされた時に刻んでおいたルーンが綺礼の機動力を束縛する。

 バゼットは格闘術だけでなく魔術師としても一流である。とりわけルーンに関しては群を抜いて長けている。
 言峰綺礼ほどの相手に身一つで踊りかかるなど無謀に等しい。持てる全てを以って望むのが彼女のスタイルであった。

 今の綺礼を相手取るのであれば、片足を封じただけでは生温い。一箇所でも動かせる部位があるのなら、ルーンなど石畳ごと割砕くことは造作もない。
 が、そうさせない為の全力疾走。敵に与えられる猶予がないのはバゼットもまた同じ。

 片足が封じられた綺礼はこれで回避という選択肢を失った。残る手段は迎撃一点。真っ向からの打ち合い……!

 真正面からの突撃。真正面からの迎撃。息つく暇もないほどの裂帛の攻防。一撃一撃が必殺の威力を持つ両者の拳が何度となく空を切り、何度となく互いの防御を打つ。

 片足を封じたというハンデは綺礼にはさして意味を為さなかった。せいぜいが回避を奪っただけで、迎撃ならば封じられた方の足を基点とすれば十全に拳を振るえた。

 肉薄した状態。およせ一メートルもない距離間で二人の応酬は繰り広げられる。頬を掠めた拳が肉を切り裂き、腕を掠めた掌打が衣服ごと血を撒き散らし。鋼の防御を衝き崩さんと渾身の殴打を繰り返す。

 もはやただのドッグファイト。一撃貰えばノックアウトの致命戦をギリギリのところで繰り返していた彼らに、終わりは唐突に訪れた。

「ぐっ…………」

 一瞬だけ綺礼の動きが鈍くなる。黒く渦を巻いた心臓が大きく跳ね、刹那にも満たない時間、綺礼はその予期せぬ衝動に動きを封じられた。

 奇しくもその時、地下では凛が桜の胸に刃を衝き立てた瞬間の事であったのだが、無論バゼットにも綺礼にも知る由もないことだった。

 何れにせよその一瞬は好機と隙を生み出した。振り上げられる渾身の拳。全身運動から繰り出す一撃にルーンの加護、想いの全てを相乗させたバゼットの右ストレートが、

「うああああああああああああああ……!」

「────がっ……!!」

 完全なまでにクリーンヒットした。





/3


 深く沈みこんだ体勢からのボディブロー。筋肉の鎧さえも打ち砕く鮮烈なる一撃を喰らった綺礼は、血反吐を吐きながら崩れ折れた。

「ごっ……」

 零れた血が石畳を染めていく。いかな綺礼といえど、バゼットの猛撃を至近距離、しかも無防備なままに喰らっては立ってはいられなかった。しかも束縛のルーンの影響で、吹き飛ぶ事も出来ずに衝撃は全て体内で炸裂し、全身を打ちのめした。

「────は、はぁ、はぁ、はぁ……ふ……ぅ」

 バゼットもまた鋭利と化した綺礼の掌打を幾度か身に受け、致命傷足りえるものこそ見られなかったが、随所に血の付随が見受けられた。
 しかし、もはや勝負あった。命こそ奪えなかったが、綺礼の戦闘能力は完全なまでに殺ぎ落とされた。

「私の勝ちだ、言峰。貴方はここで、朽ちるがいい」

 言ってバゼットは口元を拭った後に背を向けた。

 トドメを刺す必要性はない。動きを封じられた綺礼には何をする事さえも許されない。たとえ今から凛達の下へ走ったところで間に合う筈も無い。
 綺礼の一瞬の動きの停止。それをバゼットは綺礼を動かすものが途絶えたものと解釈していた。

 そして何よりも、この男はバゼットが認めた男なのだ。自ら手を下すのはやはり憚られるし、こうして勝敗を決した今、バゼットには綺礼に執着する心が失われていた。

「…………」

 膝をついた綺礼が、バゼットの背を見やりながら頬を歪めた。
 手緩い。綺礼は確信していた。刺せる。今ならばこの女を確実に仕留められると。更に綺礼は己が置かれた状況を正しく把握していた。

 胸に渦巻いたものの躍動。悪の衝動。これは綺礼の命が燃え尽きた故のものでは断じてない。
 目覚めようとしているのだ。生まれようとしているのだ。ようやく聖杯に水が満ち、降臨の時が訪れたのだ。

 綺礼の心臓が跳ねたのもその余波だ。地下深くで産声を上げようとする悪意に、零れ落ちた染みが同調した。ただそれだけのこと。

 故に、ここで座して待つわけにはいかない。急ぎ馳せ参じなければならない。聖杯の膝元へ。生まれ出ずるその場所へ……

「────」

 綺礼の浮かべた獰猛な笑みに呼応するように、地下より黒い汚泥が染み出した。綺礼の意志により生まれた悪意の残滓。零れ落ちたものが、己を是とする者の為に無意識化に力を与えた。

 ────手緩いぞ、マクレミッツ。相対したのなら抹殺する。それがかつてのおまえだった筈。
 強くなったと思ったのは、私の思い違いであったか。

 そんな思いを抱きながら、綺礼は黒い悪意を掬い上げる。掌から零れ落ちる闇色の塊。それを背を向け立ち去ろうとするバゼット目掛けて放てば終わる。

 この泥を身に受けて耐えられる者はいない。
 奇しくもこの構図は聖杯戦争開幕前のそれに酷似する。油断しきった背中。噛み殺せない笑み。一度は失敗したが、二度目はない。完全なまでに泥で覆い尽くし、言峰綺礼は聖杯へと辿り着く……!

「────んなことオレがさせるかよ、このクソ神父」

 次の瞬間、綺礼が感じ取ったものはおよそ有り得ない衝撃だった。胸を背後から刺し貫く朱い魔槍。血よりもなお濃い紅に彩られた穂先が、綺礼の胸を完全に貫いていた。

「き、さま……」

 振り仰いだ先。青い痩躯に鎧を着込んだ獣の姿。英雄王に殺させた筈の男が、何故……

「一番初めに言ったろう。貴様は、このオレが殺すとな」

「ふん……。やはりあの時、貴様は奪い取っておくべきだった……」

 槍が引き抜かれ夥しい量の血が撒き散らされる。異常を察知して振り仰いだバゼットはその光景に硬直し、言葉もない様子だ。

 綺礼を動かしていたものが零れていく。いつの世でも、英雄の一刺しは悪意ある者を滅するものと相場が決まっている。
 ならばあの時、しくじっていなければ。ランサーを奪い取れていたのならば、この結末はなかったのかもしれない……





/4


 バゼットの目に映る光景は、何もかもが有り得なかった。

 綺礼の周りには先ほどまではなかった筈の黒い汚泥。それを掬い、恐らくはこちらへと放り投げようとした姿勢で硬直した綺礼の姿。

 膝を屈した状態。身を屈めた状態の綺礼の背後から降る稲妻の一刺し。血とも泥もつかぬ何かを吐き出して、綺礼は完全に事切れた。

 それは、いい。綺礼がまだ何かを画策しており、それに気付けなかったのもバゼットの甘さと言える。
 だけど、何故……

「ラン、サー……?」

 何故消えた筈の貴方がここにいるのかと、問わずにはいられなかった。

「よう。相変わらず詰めが甘いな、マスター。情けをかけるような相手でもねえだろうに」

 軽口を叩き、引き抜いた槍に付着した赤い血液を払い落とす。
 槍を虚空へと消失させたランサーは、最後に綺礼が息絶えた様を見届けた後、茫然自失するバゼットへと歩み寄った。

「ラン、サー? 本当に、貴方なの?」

「オレがオレ以外に見えるってのか? それともマスターはもうサーヴァントの顔なんか忘れちまったんかね」

「そ、そんなこと……! そんな事ある筈がないでしょう! でも、だって……貴方、あの城で……」

 確実に死んだ筈だ。バゼットの施した治癒はほとんど意味をなさず、核を削り取られたサーヴァントが生きていられる筈がない。
 だからバゼットの驚きと困惑は当然といえば当然だろう。消えた筈のサーヴァントが、こんな場所に居るはずがないのだから。

「おいおい、誰のせいだと思ってる? アンタが命じたんだろう」

「……え?」

「覚えてねえか? あの城でオレの手を握ってたアンタが最後に言った言葉。願ったものが何だったか」

 思い返す。つい数時間前のことだ、思い出せない筈がない。
 冷えていく掌。零れていく命の音。もう全てが絶望的で、けどバゼットの背中を押してくれたこの男の手を握り締めて、涙を零しながら叫んだ言葉……

『…………っ! いやだ、消えるなっ! 生きろっ! 私と共に……っ!!』

 確かにそう言った。そう叫んだ記憶がある。だが、まだバゼットには理解できなかった。

「アンタは言ったろう、オレに消えるなと。生きろと。共に来いと。その叫び……ある種の祈りめいたその懇願を聞き届けたんだ、オレ達を繋ぐ令呪がな」

「……あ」

 ようやく合点が言った。つまり、バゼットの心からの祈りをあの時まだ残っていた二画分の令呪が命令として受け止めたのだ。
 消えるな。生きろ。その二つ分の命令を、形振り構わず口にしたバゼットの懇願を令呪が聞き届け、ランサーの命を繋ぎ止めた……

「ああっ……」

 気付かなかった。あの時、城を脱出した時失われていた令呪の痕は、ランサーが消滅したが故のものではなく、その前にバゼット自身が願ったが故のものだったのだ。
 無理もない。あんな別れ方をして、生まれて初めての泣き腫らすほどの出来事があったのだ。普段通りに振舞える筈もなく、そして、そんな大事な事にも気付けなかった。

「ま、あん時残ってた令呪は二画分。消えるな。生きろ。その二画分で消費されて、共に来いっつーのは叶えられなかったが、何。わざわざこうして自力で来てやったんだから勘弁してくれ」

 そのランサーの言葉が、バゼットの心を決壊させた。

「ちょ、おい……」

「ランサー! ランサーランサーランサァァ……!」

 ランサーの大きな胸板へと飛び込んで、愛おしいものに縋り付くように叫びを上げる。悲しいわけじゃない。嬉しくて。ただ嬉しくて、バゼットは声を殺して涙を零した。

 戦いは終わり、バゼットの着込んでいた鎧が剥がれ落ちた今、ランサーの目の前にいるのは年端もいかぬ少女そのものだ。
 彼の名を呼びながら、良かったと呟いてくれるその声に、ランサーもまた微笑まずにはいられなかった。

「ぁ……」

 バゼットの身体を抱き締める腕。幾つもの戦場を駆け抜けてきた逞しい腕の中に、今バゼットはいた。

 流れる涙が温かい。あの場所で消え去る筈だったサーヴァントが、この場所まで駆けつけてくれた。いかな令呪の力といえど、死に体を生き返らせる程の力があるわけがない。

 だからきっと、これは奇跡だ。偶然と偶然が重なって、一つの奇跡を齎した。バゼットを庇い致命傷を負った身体で、死にゆく身体を必死で動かし、それでもランサーはバゼットの為にこんな場所まで来てくれた。

 その一念。嬉しくない筈がない。でも何よりも、こうして生きていてくれた事が嬉しかった。たとえそれが、僅かな延命でしかないとしても……

「ああ……もう時間か」

 透けていくランサーの足元。綺礼の命を奪う為に具現化した宝具。渾身を込めて貫いた一撃。それがランサーの最後の力だった。

「ランサー……」

 その消滅を止める術はない。令呪をなくし、未だ聖杯が健在でありながら消えゆくという事は、どんな手段を以ってしても歯止めを掛けられる筈などない。
 令呪を失くし、命さえももう残っていない。綺礼の言っていた言葉を思い出す。蝋燭は燃え尽きる瞬間にこそ輝くと。ならばランサーもまた、己がすべてを燃やし尽くしてこの場所に辿り着いたのだ。

 二人の想いが紡いだごく僅かな逢瀬の時。ランサーの魂はあるべき場所へ還るのだ……

「ほい、これ。忘れものだ」

「あ……」

 ランサーの手の中には銀色のピアスが二つ。そこでようやく、バゼットは自分がピアスをしていなかった事に気が付いた。

「忘れるなよ。大切なものなんだろう?」

「はい……!」

 受け取って強く握り締める。晴々しく笑うランサーの表情に、バゼットもまた精一杯の笑顔で返す。
 もう避けようもない別離。いや……一度悲しみに暮れた別れを経験したのだ。だから今度は悔いのないように、笑顔で別れを告げないと。

「ランサー。やはり貴方は、最高のパートナーだ」

「ああ。アンタは最高のマスターだった」

 互いの健闘を称えあう。結果としてみれば決してよくはないのだろうが、そんなものはどうでもいい。二人の間にだけ理解が出来る確かなもの。確固とした絆が、今の二人にはあるのだから。

「じゃあな、バゼット。走り続けろよ」

 言ってランサーは涙を堪えて笑おうとしているマスターの顎に手を掛け、その唇を奪い取った。

「──────っ!?」

 およそ予期していなかったバゼットは目を見開いて、これ以上ないくらい間近にあるランサーの顔を見つめながら困惑するばかりだった。

「…………は、ぁ」

 離される唇。目の前にはニヤついた笑顔。

「ラ、ランサー……! あ、貴方という人は……!」

「そんな怒んなって。別に初めってわけでもないだろ。これまで務め上げたサーヴァントへのご褒美って事にしといてくれ。
 ────んじゃな。達者で暮らせよ、バゼット」

 その最後に。ランサーはそんなことをのたまいながら、逃げるように消えていった。

 夜明けが近い。山間から零れる黎明の光が未だ灯る魔力を照らし上げ、まるで光る雪が舞うかのような幻想的な境内。

「……本当、酷い人だ。奪うだけ奪って消えるなんて」

 風に透けるように消え去ったランサーの姿を見やりながら、バゼットは微笑んだ。指を這わせた唇には、まだ温かな感触がある。

 だが、本当にらしい。あの男らしい最後だった。未練も後悔も残すことなく消え去るなんて、清々しいまでにバゼットの知るクー・フーリンだ。

 本の中でイメージした男とは随分と掛け離れた気性の持ち主だったが、今はそれさえも心地よい。
 あの男こそが憧れた英雄、夢にまで見た人なのだ。

 そんな男と過ごせたこの二週間ばかりの日々は、本当に楽しかった。苦難もあった。辛い事もあった。挫け掛けたこともあった。
 けど、あの人がいたから戦えた。前に進めたのだ。

 けれどもう大丈夫。この胸を占める温かなもの。ランサーのくれた想い出を胸に、バゼットは一人でも歩き出せる。
 未だ見ぬ新天地へ。続く世界の向こう側へ。広い世界への一歩を踏み出す、確固とした決意を得たのだから。

「──ありがとう。そしてさよなら、私の大好きな人……」

 黄金に似た朝焼けの中。
 最後に見たあの笑顔。あの笑顔は間違いなく、彼女が本の中で見た、いつかの少年のようだった。













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