剣の鎖 - Chain of Memories - 第五十七話









 暗い土蔵の中に射し込む温かな光。立て付けの悪い蝶番の音がして、うっすらと瞳を開いた。

「シーローゥ!」

「うぉ……!」

 まだ寝惚け眼だった士郎の背後から忍び寄り、飛びついてきた小さな少女。何が嬉しいのか、こんな朝早くからにこにこ顔だ。

「おはよう、イリヤ」

「うん、おはようシロウ、もう朝だよ」

 えへへーと頬ずりしてくるイリヤスフィールに苦笑しつつ士郎は時計を見た。確かにいい時間だ。
 纏わりついてくるイリヤスフィールをやんわりと引き剥がし、一つ背伸びをする。

「……んーっと。よし、じゃあ朝飯作るか」

「残念でした。今日はサクラの番だから、もう取り掛かってたわ。お陰で今日はシロウを独り占めー」

「うわ、ちょ、イリヤ!」

 首にぶら下がってくるイリヤスフィールにあたふたしながらも、士郎ももう慣れたものである。こんな朝は最近じゃ日常茶飯事。酷いときには桜とイリヤスフィールのどちらが士郎を先に起こすかの揉め合いで目を覚ますことだってある。

 そして起き抜けた士郎を見やり、女性二人は揃って声を上げてしょんぼりするのだ。だから士郎は気が付いても寝ている振りをするという処世術を身に着けた。……多分、バレているけど。

「ほら、じゃあ桜の手伝いにいくぞ。ただでさえ人数増えたんだから、一人で全部任せるのも悪いだろ」

「えー、もう少しくらいいいじゃない。たまにはシロウと二人っきりでー」

「はい、ダメ。ほら、早くしないとおいてくぞー」

「あ、ちょ、シロウってばー! もう、知らないんだからー!」

 追い駆けて来るイリヤスフィールを見やり士郎も笑顔を零す。さあ、今日もまた、騒がしい一日の始まりだ。






想い出は胸に/Epilogue




/1


「悪い遠坂、醤油とってくれ」

「えーっと、これでいいんだっけ」

「おう、サンキュ」

 皆で食卓を囲んでの朝食。数週間前の戦いが始まる前までは、三人だった面子が今では五人になっている。

「それにしても、姉さんが朝から来るのは珍しいですよね。大体夕食だけじゃないですか」

「んー、そうね。基本朝は食べない主義だけど、たまにはまあいいかなって。慣れってのは怖いわよねぇ。お風呂上りが心配だわ……。
 それに……ほら。桜の料理食べる機会ってあんまりなかったから。いいかなって」

「……姉さん。え、えへへ」

「ちょ、桜。今食事中なんだから擦り寄って来ない!」

 凛と桜は終始この調子だ。間桐の呪いより解放された桜は凛を姉と呼び、凛は何かと理由を託けては桜が出入りする衛宮邸に足を運ぶようになった。

 士郎にしてみても凛の出入りは良い刺激となっている。士郎と桜の独壇場であった厨房に凛が加わり、互いが競い合って更なる研鑽を積んでいる。
 得意とする分野が各々違うので、明確な勝敗はつけ辛いのだが、それでも士郎が感嘆の息を零した様を見やる凛の勝ち誇った顔は士郎の心に火を灯し、更に熱を上げる結果となっている。

 まあ士郎の得意分野である和食にあって、桜が勢力を伸ばし始めているのもその要因だろう。
 ただでさえ家主であるのに何故か発言力が下位にある士郎にとって、厨房というカードは決して手離せないものであるのだ。

 余談ではあるが、桜の兄である慎二も、近頃ではその暴力性はなりを潜め、以前の、士郎と出会った頃の慎二のように落ち着いている。
 ただそれも、あの戦いを経て、凛と桜が急接近したが為に、ストレスの捌け口としていた桜に危害を加えようにもその後ろにちらつく凛の影が気になって、出来ずにいるのではないか、というのが専らの噂である。

 何はともあれ穏やかな事に越したことはない。たとえそれが恐怖に裏打ちされた静けさであったとしても。

「イリヤちゃん、私にも醤油とってー」

「はいタイガ。どうぞ」

「んー、良きに計らえ。つつーっとかけてぐるぐる掻き混ぜ、ご飯に乗っけていたただきまー……ぶぶっ! ちょっと! これソースじゃない! しかもオイスター!?」

「へへーんだ。この前のお返しよ、タイガ。貴女も同じ苦しみを味わいなさい」

「うわーん、しろー! ちょっとこの悪魔っ子なんとかしなさいよー!」

 朝っぱらから騒がしい大河とイリヤスフィールに苦笑しつつ士郎は黙々と箸を進める。ここで大河に『いつも俺にもやってただろ、自業自得だ』などと言おうものなら矛先がこちらにも向くので取り合わないのが最善だ。

 士郎の援護を得られないとみるや、イリヤスフィールとの間に鮮烈なおかずの奪い合いが始まったが、そこもまた気にしない。こちらの皿に手を伸ばしてこない限りは、静観が一番だ。

 また、この悶着も慣れたもので、大概イリヤスフィールが勝利する。何故かあの破天荒な大河でさえもあの魔女っ子には敵わないらしく、やり込められてしょげるのだ。
 そして士郎の役目はその最後。哀愁を漂わせ始めた大河にそっと一品差し出してやって落ち着くという、まさに日常の中の一プロセス。

「……まあ、これで損するの俺なんだけどな」

 呟いたところで誰も取り合ってくれないで、一人黙々と朝食を進めるのであった。





/2


「それじゃ行って来るけど、留守番頼むな。出掛けるなら鍵閉めてってくれ」

「うん、判ってるわ」

 大河と桜は部活があるで一足早く出立し、残った士郎、凛、イリヤスフィールの三人で後片付けを終え、彼らもそろそろ学校に向かわなければならない時間になった。
 ただ一人学校に用のないイリヤスフィールが留守番だ。主に藤村家に世話になっているイリヤスフィールだが、士郎の家族である事を主張しこの家の鍵も与えられていた。

「出掛けるのもいいけど、あんまり無理しちゃダメよ。アンタの身体、まだ完全に判ってないんだから」

「はいはい、そんな小姑みたいなこと言ってると老けるわよ、凛」

「誰が小姑よ!」

 イリヤスフィールの身体は人とは違う。元々聖杯として機能する為に造られ、人でありながら聖杯でもある彼女はその身体に様々な処置が施されている。
 それが故に身体の発育の停止などの様々な部分で弊害を起こしている。その調整、調子を見るのが凛の役目。

 生粋の魔術師である凛であれば、ある程度のことは理解出来るらしい。なので、凛がこの屋敷に出入りしているのも、単に妹に会うだけではなかったりする。

「はいはい、二人の仲がいいのは判ったから、さっさと行くぞ。遅刻しちまう」

「どこが仲がいいっていうのよ!」
「どこが仲がいいっていうのよ!」

「…………」

 そういうところがだ、とは思っても口には出さず、最後にイリヤスフィールにもう一度言ってから、士郎と凛は学校に向けて出発した。







 外に出ると温かな気配に出迎えられる。晴れ渡った青空は雲一つなく澄み渡り、街路には桜の花が舞い落ちる。

 春。

 麗らかな陽気が眠気を誘うこの季節、幾つもの出会いと別れがあった冬は終わり、新しい出会いが待つ春が訪れた。

「今日もいい天気ねー」

「そうだな。こう暖かいと授業中が大変だ」

「あら、衛宮くんってもっと真面目なタイプかと思ってたけど。やっぱり昼寝とかしちゃうんだ」

「そうでもないよ。むしろ遠坂の方が大変だろ。授業中に舟漕いでる様子でも見られたら今までのイメージがひっくり返るぞ」

「お生憎様。そんな無様は晒さないわよ。そういうアンタこそ注意しなさいよ、昨日も遅くまで土蔵でなんかやってたみたいじゃない。イリヤに聞いたんだから」

「ああ。でも俺はまだまだ未熟だからな、せめて毎日の鍛錬だけは続けないと」

 長かったようで短かったある冬の出来事。わずか二週間ばかりの間に、目まぐるしい程色んなことが起きて、驚くほどに成長したように思う。
 けど、やっぱりまだまだ未熟である事には変わりない。凛には毎度の如く叱責され、イリヤスフィールには呆れられ、桜にまで憂いの目で見られるなんてのは、未熟以外のなにものでもない。

「あれからもう二ヶ月近く立ってるのよねー」

 凛が懐かしむように空を仰ぐ。過ぎ去ったものは想い出に。引き摺る事なく胸の中に仕舞い込まれている。

「そうだな。そういやバゼットから連絡とかあったか?」

「ううん。まだあっちで色々後始末あるんでしょうね。けじめをつけてから協会から脱会するって言ってたし」

 その女性との別れを追想する。あれは冬と春の境目、三月も初旬の頃の事だ。





/3


 聖杯戦争の後始末に追われる凛のサポートとして冬木に二週間ばかり滞在していたバゼット・フラガ・マクレミッツ。
 聖堂教会から派遣されていた言峰綺礼は亡き人となり、代わりの人物が早々に着任したこともあってそれほど多くの出番があったわけでもなかったが、彼女は彼女なりの後始末をしたかったのだろう。

 その最たるものが、あの男の墓標。

 教会近くの墓地に埋葬された綺礼の亡骸。奇しくも凛の父である時臣の墓がある土地に眠ることになったのは、さて一体どんな皮肉だろうか。
 凛自身が認めたことでもあるし、仮にも兄弟子であった人物なのだ。遠坂の土地で果てたのなら、その死を悼むのもまた遠坂の頭首である凛の務め。

「本当、ムカつく奴だったけど。いないならいないで拍子抜けよね」

「ふふ。なんだかんだと言っても、凛さんも彼の事が嫌いではなかったのですね」

「何言ってんの。大嫌いよ、こんな奴。
 毎年毎年同じ服贈ってくるわ、ただ辛いだけの麻婆豆腐を食わせようとするわ、何かに託けてわたしをおちょくろうとするんだから。最低よ」

 くすくすと笑いを漏らすバゼットと、昔のトラウマを思い出してかそっぽを向いた凛。二人は聖杯戦争の後始末を終え、綺礼の墓の前に立っていた。

「まあ、でも。わたしに死者を冒涜する趣味はないから。アンタはそこでゆっくりと眠ってなさい。
 はい、これ餞別。といっても、返すだけだけど」

 墓前に突き立てたのは装飾の凝った短剣──時臣より綺礼の手に渡り、綺礼より凛へと渡されたアゾット剣。父を殺し、桜を救った形見の剣。
 中に封入されていた魔力は全て使い切られ、ただの剣としての役割しか持たなくなったその短剣を、添えるように凛は飾った。

「アンタにどんな思惑があったのかなんてのは知らないし、父さんを殺したってのも許せない。……けど、ありがとう。アンタがこの剣を譲ってくれたお陰で、わたしは大切な妹を救えた」

 それが凛なりの綺礼に対する餞。花なんて欲しがる柄じゃないだろうし、兄妹弟子であった二人には、こういうものの方が似合っている。

 最後に祈りを捧げるように凛は黙祷し、墓標に背を向けた。きっと、凛がこの場所に立つ事はもう二度とない。
 だからこその返礼。遠坂家の頭首ではなく、遠坂凛としての祈りの形。

「じゃ、わたしは先に戻ってるわ。貴女も風邪引かないうちに戻ったほうがいいわよ」

 バゼットの返事を待たず、墓地を後にする凛。その背中を見送ってから、バゼットもまた墓標へと向き直った。

「言峰……」

 掛ける言葉などない。手向けられるものなどない。彼と彼女は敵同士で、その命を奪ったのもまた彼女自身と言っても過言ではない。

 だから。

「さようなら、言峰綺礼。私は海を渡ります。貴方が諭し、彼が教えてくれた事の為に────」

 手に握り締めていた黄金の十字架を墓標に捧げ、バゼットもまた、振り返ることなく墓地を後にした。







 バゼットが冬木を去ると言い出したのは、それから僅かに三日後の事だった。

 慌しく荷物は纏められ、見送りはいらないと言うバゼットを押し退けて士郎と凛は最寄の空港へと足を伸ばした。

「本当に行くのか、バゼット。もう少しゆっくりしていけば良いのに」

「いえ。この場所は私にとって居心地が良すぎる。ですから、飛び立てなくなる前に去ろうと思いまして」

 大き目のアタッシュケース数個を持つバゼットと向かい合う形で士郎と凛が立つ。予約を入れた飛行機の時間まではそれほど残されていない。

「そうよ、士郎。彼女には彼女なりの考えがあるんだから。行くっていうのなら、笑顔で送り出してあげないと」

「ん……そうだな。頑張れよ……っていうのも変だけど、バゼット。いつでも遊びに来てくれよ」

「ええ、機会があれば」

「で? 向こうに戻ったら、すぐに抜けるわけ?」

「いえ。一応協会には私が実体験した聖杯戦争の記録を提出しなければなりませんから。
 ああ、ですがご心配なく。私の聖杯戦争はあのアインツベルンの森で終わっている。ですので、聖杯に関することや委細については一切知りませんから」

「そうしてくれると助かるわ」

 無駄に協会に真実を伝える必要性はない。もし伝えれば、イリヤスフィールの身に危険が生じかねないからだ。
 皆が認知する第五次聖杯戦争の結末は、勝者である衛宮士郎とそのサーヴァントであるセイバーが聖杯を破壊して終結した。それ以上でもそれ以下でもない。

「ああ、それと士郎くん」

 何かを思い出したのか、バゼットが士郎に向き直る。

「貴方が今後どのような道を辿るかは定かではありませんが、もし協会に……いえ、他の魔術師に関わるのなら貴方の魔術は秘匿しておきなさい。
 貴方の持つ能力は特異だ。もしバレたのなら、よくてホルマリン漬け、協会に知られれば封印指定もありえます。
 私に封印されるような事がないように、細心の注意を払って下さい」

「あ、ああ。気をつける」

 最後の方は半ば冗談交じりで言われたのだが、士郎はこくこくと頷いて、心に深くその言葉を刻んでおいた。

「あら、いいの執行者さん。今のうちに封印しておかなくて。
 コイツ、大物になるかもしれないわよ? なんてったって、このわたしがついてるんだもの。大成しない筈がないわ」

「ふふ。残念ながら今回の任務に彼の封印は入っていませんから。せいぜい彼の才能を伸ばしてあげて下さい、彼が夢見るものの為にも」

 何故か微笑みあう女性二人の間で、何か勝手に話を進められているような気がした士郎は気が気でなかったが、ここで口を挟み込むと余計に厄介な事になりそうだったので、噤んでおいた。

 そしてその折、バゼットが乗る予定の飛行機の搭乗時間を告げるアナウンスがエントランスに響き渡った。

「それでは、士郎くん、凛さん。お元気で」

「ああ、バゼットも」

「ええ、さよなら。困ったことがあれば連絡頂戴。多分、その頃にはわたしは協会にいるから」

「はい。では、お世話になりました。またいつか、何処かで逢いましょう」

 そうしてバゼットは冬木を去った。胸には二人の男より受け取った想いを抱き、耳には銀色に輝く絆の証を飾り付けて……





/4


「……あれからもう一ヶ月か。早いよな」

「そうね。でもこの一年はきっともっと早いわよ。だからアンタも早めに自分の進路を決めなさい。
 来たいっていうなら、弟子として一緒に連れて行ってあげるんだから」

 凛の進路は既に決まっている。あと一年の在学後にイギリスへの留学……とは表の顔であり、その実は時計塔へ編入である。

 魔術師の最高学府である時計塔。遠坂家の頭首である凛の実力は、バゼットが事前に知っていたことも鑑みても、多少はその名を知られているようだ。
 父の築いたもののお陰もあるだろうが、バゼットが協会に提出する報告書にもその辺りの事を一筆認めさせるあたりが、凛らしい。

 特待生として編入できるかどうかは今後の凛の努力次第。無論、本人は鳴り物入りをする気満々なわけだが。

「ああ、真面目に考えてる。俺がしたいこと、俺が夢みたものを実現する為に、出来る限りの精一杯をやっていくつもりだ」

 それが士郎の変わらないもの。そしてあの戦いの中でより確固としたもの。

 多くのものに助けられて士郎はあの戦いを勝ち抜いた。アーチャーに見せられた己の歩む煉獄の道のり。それでなお貫くと誓った理想の想い。
 同じ夢を見て、けれど違う結末を望んだアルトリアという少女。彼女の否定は士郎自身の否定だった。この道が間違っていないという、自分への証明。

 ──そして、朋友と呼んでくれたあの少年。

 結局、あの少年が士郎の中に何を見出したのかは、最後の最後まで判らず仕舞いだった。
 だけど、構わない。あの少年は士郎を認め、士郎はその想いを受け入れた。だから、それでいい。理屈じゃなくて、感情の話。互いが互いを信じ抜けたからこそ、あの最後の戦いで英雄王を打ち破ることが出来たのだから。

「何ぼうっとしてんのよ。電柱にぶつかるわよ」

「悪い。じゃあ、行くか」

「あ、ちょ! なんでいきなり走り出すのよ!」

 学校へと続く坂道を駆け上がる。立ち止まってなどいられない。前へ。ただ前へ。見えない向こう側を目指して走り続ける事。
 それが今出来る精一杯だ。過ぎ去ったものを想い出に変えて、大事に大事に胸の中に仕舞いこんで、この空の向こうを目指して駆け抜ける。

 それが約束。それが誓いだ。

 時々立ち止まったりする事もあるだろう。そんな時は、この胸に問いかければいい。必ずあるから。あいつらの顔を忘れて、姿を忘れて、思い出せなくなったとしても、士郎の胸にはずっとその剣がある。

 心に広がる錬鉄場。荒野に無限に突き刺さる剣の群れの中に、その剣は確かにある。視えないけれど、確固として大地に突き立ち天を目指す。

 だから走って行ける。どこまでも。遠くへ。

「遠坂、置いてくぞー」

「ちょ、こら。待ちなさいってばー!」

 走り抜こう────この胸に抱いたものに、恥じない自分になる為に…… 













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