剣の鎖 - Chain of Memories - 第八話









 校庭に出ると、そのあまりの騒々しさにしばし閉口した。人の立ち入らない深い森林のような静けさの漂っていた校内とは違い、校庭は盆と正月が同時にやって来たかのような賑やかさに満ちていた。
 肌が感じる体感温度は室内の方が高い筈なのに、外はそれを凌駕する喧騒に溢れている。
 うん、元気なのはいいことだ。だがしかし。悲痛な叫び声まで聞こえてくるのは流石にどうだろう。

「……てか陸上部の練習って、あんなにハードだったっけ?」

 ひゃー、と声なき声をあげながらレミングスのように走る一年生達。
 それを後ろから追い立てる肉食獣こそ、

「ほぅら、次400を六本! 走れ走れ走れ死ねー!
 そこ、遅れるぐらいなら前のヤツを倒せ! 負けこれ即ちスプリンターとしての死と心得るべし!」

 自称・穂群の黒豹、走る為だけに生まれてきた女・蒔寺楓である。

 なるほど、悲鳴の元……もとい悲鳴の元凶はこの人のようだ。屋上にいた時からその音は聞こえていたんだから、相当なしごきをしているらしい。
 同情するぞ、一年生。だが悪い先輩に捕まったと思って諦めてくれ。

 かくいう俺はそんな陸上部連中とはそれほど仲が良いというわけではないが、悪くもないという関係だろうか。
 穂群原のブラウニーなどと称され、機材の修理などでたまに駆り出されるからな。見知っているのは当然といえよう。
 一成あたりはあまりいい顔をしないんだけど。生徒会長である一成は運動系の部活とは対立関係にあるからな。更に特に見返りを求める事無く手伝う俺に「衛宮は欲がなさすぎる」と説法の如く申し付けてくれる。
 心配してくれるのはありがたいが、俺自身がそうしたいと思っているから手伝いを引き受けてるわけだし、出来ない事は断ってるから問題もない。

 思考が脇に逸れたな。
 で、そんな練習風景───逃げなきゃ地獄を見る事を練習と呼んで良いのかは定かではないが───を他人事のように見つめているのは隣にいるギル。
 なぜそんなにムキになって走っているんだろうか、といった具合の微妙な表情で校庭を眺めている。
 ギルがいつの人間かは知らないが、陸上競技などない、あるいは無縁の世界で生きてきたのだろう。ならその不可解そうな顔も頷ける。あくまで俺の勘だけど。

 と、ギルの視線が暴走する黒豹と追われる草食動物達から逸れ、一人の少女にロックオンされる。その少女とは両手にボトルのたくさん詰まったカゴを持ってふらふらと校庭を右往左往している……陸上部マネージャーの三枝由紀香か。
 栗色の髪にちょっと垂れ目のほにゃっとした笑顔が特徴の女子生徒。
 彼女はそのほんわかした雰囲気のせいか、中々男子連中に人気が高い。保護欲をそそられるというか、なんというか。

「………………」

 まあそれはさておき、ギルの瞳はその三枝を捉えたまま離さず、左右に揺られながら移動する彼女の後を追うように顔を動かしている。
 それを同じように追っていたが………あれはマズイんじゃないか? 三枝の足元が定まっていない。許容量以上に詰め込まれたボトル入りのカゴに三枝の華奢な身体が振り回されている感じだ。
 あのままだと────

「────あっ」

 と、俺が声を発するより早く。
 ぶおん、と風が巻き起こり化け物じみた速度で隣にいた筈のギルが校庭を疾駆する。風の如き速さで誰の目にも留まる事なく、ただ一直線に駆け抜ける。
 声を発する直前、俺が見たのはカゴのあまりの重さに耐えかねた三枝の身体が崩れ落ちようとする姿だった。






純然たる人/One day III




/1


「────きゃあ………っ!」

 三枝の体勢が崩れ、突然の事に驚きの声が彼女の喉から漏れる。
 だがそれよりも早く、この事を予期していたかのような速さでギルは三枝に駆け寄り、倒れる寸前で彼女の身体を抱き起こした。
 手に持っていたカゴは横倒しに倒れ、中に入れられていたボトルが大きな音を立てて辺りに散らばった。

「えっ……ぁ、ふぇ?」

 目を丸くする三枝。
 何が起きたのか、まったく理解出来てないって感じの顔だ。
 無理もない。ついさっきまで三枝の周りに人影はなく、体勢を乱したのならそのまま硬い地面へと打ちつけられる筈だった。
 だが三枝の身体は倒れることなく、抱きかかえられるカタチで空中に停止しているのだから。
 …………と、俺も追いかけないと。

「大丈夫ですか?」

 ギルが腕の中の少女に訊ねる。

「え、ぁ……あ、はいっ」

 緊張を孕んだ声でそう返事をする三枝。
 だが条件反射のようなものなのだろう。目はギルに向いているが、口は半開きでまだ状況をよく飲み込めてないのが遠目にも見て取れる。

「それは良かった。
 でもあんなにたくさんの量を一人で運ぶのはちょっと無茶だ。無理だと思ったら分けて運ぶか、誰かを頼ればいい」

「え、あ、はい。そう……ですね……ごめんなさい」

「ううん、謝る必要なんかない。次から気をつければいいんだから」

 …………ええと。
 近づくには近づいたけど、なんだかとんでもなく入りづらい雰囲気。
 容姿は子供のくせに三枝を諭すギルのそれは妙に大人びて聞こえる。三枝もそうなのだろう、何故か敬語になってるし言葉にも素直に耳を傾けている。

 ────と、そこへ。

「由紀っち!」
「由紀香!」

 蒔寺と氷室が俺と時を同じくして三枝達に駆け寄ってきた。

「────む?」
「────ほう」

 だが二人の様子を見るなり蒔寺は驚愕に顔を歪め、氷室はしたり顔で何やら頷いている。
 まあ……その反応もわからなくはない。だって傍から見れば二人は抱き合ってるようにも見えるからな。
 蒔寺と氷室の視線に気づき、そこでようやく三枝はいま自分がどうゆう状況に置かれているのかが理解できたらしく、

「ひぃあああああああああああああ! ご、ごごごごごめんなさい、ありがとう!?」

 と困惑のままよくわからない言葉を発しギルから飛び退いた。
 ギルはそれを止めることなく手を離し、氷室達の方へと移動した三枝とは対照的に俺の方へと一歩後退した。

「怪我がなくて本当に良かった。ですよね、お兄さん」

「ん? ああ、そうだな」

 何故そこで俺に振るのか。とりあえず適当な返事をして前を見れば微妙な表情の三人娘の姿がある。
 そりゃまあそうだよなぁ。三枝が倒れる瞬間を見ていたのは俺達だけだろうし、物音を聞き駆けつけてみれば三枝と金髪の子供が抱き合ってたんだからな。俺もその状況だけを見ていたら疑問符を頭に浮かべるだろう。

「………ふむ。
 状況がよく掴めないのだが、とりあえず困惑している由紀香に代わり礼を言おう、少年」

 だが氷室は事情が分かっていないながらも、ある程度の察しがついているのだろうか。こちらと三枝を見比べてそう言った。

「いえ、女性を助けるのは男性の務めですから。当然のコトをしたまでです」

 うわ、さらりと恥ずかしい事言うな、ギル。
 だが当の本人はまさしく当たり前だといわんばかりにいつもと同じ微笑を湛えている。
 そんな中、蒔寺が訝しげにギルではなく俺を見ている事に気がついた。

「おい、衛宮」

「なんだ?」

「……そいつ、おまえの知り合いか?」

 怪訝そうな目でギルを見る蒔寺。何故かは知らないが、蒔寺は妙にギルを警戒しているようだ。外人に免疫がないんだろうか。いや、俺も昨日今日あったばかりだから免疫なんてないけど。
 さりとて一部始終の説明をしておくべきか。氷室はともかく蒔寺はあらぬ吹聴をしそうではあるし、いらぬ誤解を招くのは俺もギルも本意じゃない。

 というわけで俺とギルとは知り合いであり、学校案内中によろめく三枝を見かけ、ギルがそれを察し助けた事を話した。
 多少嘘も混じっているが全部が嘘でもないので、さしあたって疑われるようなことはないだろう。

「へぇー、生徒会長の腰巾着に外国のお坊ちゃんの知り合いだとぅ? なんつーか衛宮には似合わねー」

 説明後の第一声がそれか、蒔寺。あと俺は一成の腰巾着ではないぞ。

「確かに意外な組み合わせではあるが、衛宮某にも私達の与り知らぬ事情があるのだろう。蒔、あまり突っ込んでやるな」

「だけどよー、おかしいじゃんよー。
 穂群原のブラウニー、偽校務員、文連の修繕担当、弓道部の掃除機、生徒会長のオプション装備が外国人の知り合いだぞ? 氷室も本当は気になってるんだろー?」

 いつの間にそんなあだ名が増えたのか。追求したくなったが気持ちを抑えて、ぶーぶー吼える蒔寺と窘めている氷室を横目に何やら仲良くなってる二人の様子を窺う。

「ありがとう、ギルくん。本当に助かったよ」

「気にしなくいい。由紀香が無事ならボクはそれで充分だ」

「ううん、それでも。
 助けられちゃったからにはちゃんとお礼を言わないと」

 柔らかく微笑む三枝。その笑顔はなんだかこっちまで顔が綻ぶような純朴な笑顔。邪気の欠片すら有り得ない。
 ギルも俺と同じようなモノを三枝から感じ取ったのか、

「由紀香は純粋なんだね。うん、そういうのは凄く良い。ボクのイメージにぴったりだ」

「え? ギルくんのイメージ?」

「ああ、気にしないで。こっちの話だから」

「うん。それでね───………」

 と、いった具合に話に花を咲かせるギルと三枝。
 そのやりとりはさながら姉弟のような感じでとても微笑ましく、ウチのダメ虎に見習わせたいくらい三枝はお姉さん然としている。
 俺と藤ねえじゃあ、こんなアルバムに収めたくなるような一ページはありえまい。……言ってて悲しくなってきた。

 さて。そんな二人の間へ割って入るのは実に忍びないんだが、こちらもこちらで少々マズイことになってきているので仕方なく声をかける。

「ギル」

 そう小さく呼んで、振り向いた顔に向かって周りを見るように、くいっと顎で示す。
 辺りには騒動を聞きつけた陸上部員が輪を作るように俺達を取り囲み、一際目を惹くギルを見ながらざわざわと騒ぎ出している。藤ねえならともかく他の教師に見つかると色々と面倒そうだし、これ以上騒動を大きくするのはもっと拙い。
 幸いもう間もなく下校の時刻だ。抜け出す理由は幾らでも作り出せる。

「ごめん、由紀香。もう行かなくちゃいけないみたいだ」

「あ、そうなの? ごめんね。引き止めちゃって」

「ううん。ボクは由紀香と話せて良かった。
 じゃあ最初にも言ったけど、あまり無茶はしないで次からは気をつけてね」

「うん、ありがとうギルくん。
 わたしもギルくんと話せて嬉しかったよ」

「じゃあね、由紀香」

 俺も三枝、氷室ついでに蒔寺に軽く挨拶をし、三枝に手を振るギルと共に人ごみを掻き分けて弓道場の方へと抜ける。
 振り返った目に映ったのは、名残惜しそうにこちらに向かって手を振る三枝の姿だった。





/2


 陸上部は騒動の後、なし崩し的に解散となったらしく俺達が弓道場を出る頃には校庭に人影はまばらだった。
 時刻は五時。太陽は空を茜色に染め上げて、今日という日の終わりを告げるようにゆっくりと闇色に近づけていく。

「あ。そういえば美綴、慎二のヤツはどうしたんだ? 今日は姿が見えなかったけど」

 弓道場の前。部員が全員外に出たのを確認してから、最後の戸締りをしている美綴に話しかける。

「アイツはサボリ。新しい女でも出来たのか、最近はこんなもんよ」

 なんでもない事のように言って、美綴は校舎の方へと足を運ぶ。
 ああ、そういえば昨日会った慎二はやけに機嫌が良かったな。そのせいか。

「じゃあね。あたし、職員室に用があるから。
 アンタも色々あったみたいだけど、とりあえずお疲れさん」

「ああ、そっちこそ」

 それだけの言葉を交わして部室のカギを指で弄びながら、弓道部主将は一足先に去っていった。

 ───そうして正門。
 藤ねえと桜、それにギルと一緒にみんなと別れる。藤ねえを茶化す部員達に騒がしく見送られながら、四人で坂道を下り始める。

 ギルの事は昼間に二人にも話してあるし、了解も得ているので特に気にする必要もない。
 俺と桜が並んで歩き、少し後ろに距離を置いて藤ねえとギルがいて、なにやら雑談しながら俺達のあとをついてきている。

 ギルは切嗣の知り合いの子、という設定で話してある為、突っ込んだフリをくらうと本当の事がバレる可能性もあるが、そこはギル。口は非常に巧いのは俺が身を以って体験済みであるので、ちょっと切嗣の過去話をしたらすんなりと己の過去まで偽造してみせた。

 相手が同じレベルの論者なら話は別だが、藤ねえ相手ならそれで充分見破られる心配はない。何より藤ねえがそんな細かい事を気にするタチではない事を俺が一番よく知っているからな。

 ただ少し気掛かりがあるとすれば、

「どうした桜。具合悪いのか?」

 隣を歩く桜に声をかける。桜はずっと俯いていて、時々思い出したように後ろを振り返りギルと藤ねえの姿を一瞥してまた俯くという奇妙な行動を取っている。

「いえ、なんでもありません」

「なんでもないわけないだろ。体調が悪いなら言ってくれた方が俺も助かる」

「本当に大丈夫ですから。気にしないで下さい」

 儚げに笑ってそう言われては返す言葉もない。
 だが確かに呼吸は乱れていないし、苦しそうな雰囲気もない。ただ何か、酷く怯えているような印象を受けるのは………俺の気の使いすぎなんだろうか。







 それは、二つの勢力の容赦のない鬩ぎ合いであった。互いが互いの持てる力の全てを総動員し、相手の勢力を潰し自軍へとその力を吸収していく戦い。

「むぅ? むむむ」

 優勢は白軍。その戦場のほとんどを白の軍隊が埋め尽くし、黒の軍隊を包囲していた。だがこれはそう簡単に雌雄を決する戦いではない。いかに優勢を保ち続けようとも、終戦のその時まで勝利がどちらに転がり込むのか判らないのだ。

「むむぅ? ぬぅぅぅぅぅぅぅ」

 それは白軍の誤算だった。序盤よりその戦場の大半を制圧し、相手の国力を確実に削ぎ落としていたというのに、ここ終盤に至って思いもよらぬ反撃を受けている。しかもただの反撃ではなく、こちらから攻撃をさせぬ一方的な攻め。まるでこうなる事が最初から判っていたかのように、黒軍は白の軍勢を攻め落としていく。

「むむむむむむむむむむむむむ。これでどうだ!」

 それは一縷の希望。防戦を余儀なくされた白軍にようやく訪れた攻勢への転機。ここを逃しては瞬く間に漆黒の軍勢により白色の我が軍は飲み込まれよう。
 指揮官が手を翳す。死中に活路を見出すために、己が軍に鼓舞を呼ぶ。

「はい、これでボクの勝ちです」

 だがそれすらも黒軍を律する指揮官の読みの内。あっさりと、盤面は黒一色に染め上げられた。

「そ、そんなバカなあぁぁぁぁああ!? 五戦連続全部取られて負けって一体どういうことなのよぅ!? ちょっとギルくん強すぎよぉぉぉぉ!!!!」

「………何やってんだか」

 ギャホーッと奇声をあげる藤ねえを尻目に俺と桜は夕食の準備中。
 帰り道に意気投合したらしいギルと藤ねえはどこからかオセロを引っ張り出してきて、勝負に興じているらしい。
 だが藤ねえはギルに全敗完敗大敗を喫しているようだ。

 オセロは手軽に出来るゲームだが突き詰めれば結構頭を使うゲームでもある。勘と運だけで戦う藤ねえじゃ、その系統のゲームは絶望的に向いていない。
 他にも顔に出やすいゲームも藤ねえには向いてないな。完全な運で戦うゲームなら藤ねえの独壇場なのだが。

「ギルくんなんでそんなに強いの!? さっきルール説明したばっかりなのに長年やってるわたしが負けるなんてありないわよぅ」

 そういえば俺も藤ねえと何度かやったことはあるがあんまり負けた記憶がないな。だが確かに初心者とも言うべきギルがそこまで完勝するなど通常ならありえないだろう。

「何故強いか……ですか? うーん、難しい質問ですね。
 強いて言えば、大河さんは打ち筋が単純なので誘導しやすいせいでしょうか。思うように打ってくれるので、ボクとしても常に理想の展開でゲームを進められましたから」

「ぐぅは!? こんな子供に読まれるわたしの打ち筋って一体!?
 士郎、士郎を持て! ここは我が弟として姉上の仇をとってしかるべしーっ!」

 何故か時代がかった言葉を使う藤ねえに、

「今調理中。夕飯遅くなってもいいならやるけどな」

「よしっ、もう一回よギルくん!」

 シークタイムゼロセコンド。やはり己の仇より飯の方が大事らしい。実に藤ねえらしいけど、もうちょっとくらい悩んだらどうだと思わなくもない。
 ジャラジャラジャラと盤面をひっくり返す音が聞こえ、しかる後またパチンパチンと白と黒の一方的な戦いが始まった。後ろは見えないけど、ギルは苦笑している気がする。

「藤ねえも懲りないな」

 嘆息してそう呟く。

「そこが藤村先生の良いところだと思いますけどね」

「……うん、まあな。
 っと桜、出汁の準備は大丈夫か? 具材の処理は一通り終わったけど」

「はい。そうですね…………うん、大丈夫だとは思いますけど一応先輩も味見してもらえますか?」

 言って出汁のよそわれた小皿を受け取り、味見をする。
 ……うん。これならなんら文句のつけようもない。もう和食も危ういな。俺も精進しないと。

「美味い。よし、じゃ具を敷き詰めていきますか」

「はいっ。ちゃちゃっとやっつけちゃいましょう」

 桜とそんなやり取りをしながら調理を進めていく。
 帰り道では様子のおかしかった桜も家に戻ってくるといつも通りの桜に戻っていて、俺の感じた違和感もきっと杞憂だったのだろうと思えるようになった。





/3


 夕食は鍋。

 日本の言葉に『同じ釜の飯を食う』というモノある。皆で同じものを一緒に食ったらなんとなく仲良くなる筈だ、みたいな言葉だったと記憶しているが、それ故かギルを伴っての最初の夕食は鍋にしようと藤ねえが提案したのだ。

 いやまあ昼に同じ弁当の飯を食ってるし、鍋じゃなくても同じ炊飯器からよそわれた飯を食うのだから鍋である必要もないのだが、結局のところ藤ねえが単に鍋を食いたかったんだろうと自己完結した。

 だが冬に鍋をするのは別段おかしいものでもないし、みんなでわいわい言いながら鍋を突っつくのも悪いものではない。事実、若干ギルと距離を置いていた風の桜も夕食後にはなんとなく打ち解けたように見えた気がした。

 藤ねえの打算なき行動が思わぬところで効果を発揮したのである。打算がないというのは俺が確信をもって言える事で、もし打算なんてあった日には俺は藤ねえというホモサピエンスをなんら理解できていなかった事が明らかになってしまう。

 まあそんなこんなで晩飯、ひいては片付けも終え、食後ののんびりとした時間を過ごしている時に、桜が「そろそろ帰りますね」と立ち上がったので、だらけきっていた藤ねえに送っていくように頼んだ。
 コタツで丸まる虎をなんとか説得し、最後に藤ねえは「ちゃんとギルくんの面倒を見るのよ」なんて保護者然として申しつけ、それに頷いたのを満足そうに眺めてから桜と二人この家を後にした。

 ────そして時刻は九時を回ろうかという頃。

 後は風呂に入って鍛錬をして寝るだけかな、と思っていると

「お兄さん。ちょっと道場の方へ来てくれますか」

 どこに行っていたのか、ひょっこり顔を出したギルがそう言った。

「ああ、わかった。すぐ行く」

 俺の返事を受け取るとすぐさまギルは道場の方へと歩いていった。
 さて。今度は一体どんな用件なんだろうかね。

 ひんやりとした床が足元から身体を冷やしてくれる。冬の澄んだ空気がこの場所だと一層澄んだものに感じられ、呼吸をする度に身体の中すらも凍らせていくよう。

 ────そんな静謐さの漂う道場の中心に。
     片手に二本の竹刀を持った少年が一人、佇んでいる。

「お待ちしてました」

 にぱっと微笑むギル。
 そして手の中にあった竹刀の一本をこちらに向かって放り投げてきた。
 それを受け取り、

「………打ち合いでもするのか?」

 向かい合う形で対峙し、そう訊ねる。

「お兄さんは今日、戦う事を決めましたね」

「ああ」

 二言はない。その決意はもう変えることも変える気もない俺の意思。
 最後まで貫く覚悟はある。

「ですが決意だけで生き抜けるほど聖杯戦争は甘いものではありません。
 昨夜アーチャーに襲われて、身を以ってその苛烈さを知っているとは思いますけど」

「………ああ」

 知っている。
 人にあって人ならざるヒト。
 二度その戦いを目にし、二度その存在に追い詰められたんだから。

「ですからこれからそれをより深く知ってもらいます。
 実戦では相手は殺す気で来ますから二度目はありません。しかし、この竹刀でボクとの鍛錬なら痛い目は見るかもしれませんが、死ぬ事はないでしょう」

 つまり。

「俺を鍛えてくれるっていう事か?」

「はい。まあボクは剣の技量はそれほどでもないですけど、生身の魔術師相手に負けるほど弱いつもりもありません。
 お兄さんにはその身を以って、サーヴァントと人間の違いを知っていただきます」

 すっとギルの目が細くなり、凍りついた空気を切り裂くように竹刀の切っ先がこちらに向けられる。
 魔術師としては未熟。マスターとしての知識もない。そんな俺に出来る事。

 その一つがギルの言うように身を以ってその力を思い知る事。短期間で力量が上がるとは思えないが、心構えくらいは出来る。
 ランサーに追われた時やアーチャーに襲われた時のような無様さはもう見せられない。鍛錬を積めば、たとえ勝てなくても生き残る足掛かりくらいにはなると思う。

「よし、わかった。本気で行くぞ」

 竹刀を正眼で構え、眼前に立つギルを睥睨する。

「ええ、お兄さんは本気でなければ意味がない。
 そもそも手加減なんていうのは、手加減を出来るくらい力量のある人だけが使うべき言葉ですから。
 ───じゃあ手加減しますので、一分くらいは耐えてくださいね」

 微笑が消え、その赤い双眸が俺を射抜く。
 言ったな、このヤロウ。

「─────行くぞ!」





/4


 ────人気の絶えた深夜。

 その場所を見下ろす月は明るく、切りつける風は異様に冷たい。
 冬の夜、世界は凍りついたように静かだった。

 開け放たれた窓や扉から錆びた鉄の匂いと腐乱した空気が漏れ、夜空に煙る。
 不自然な闇を照らす淡い色の光の中、一寸先も見えない通路を抜け、その月明かりの下に現れたのは赤いコートを纏う少女。
 少女はくん、と自分のコートの匂いをかいだ。

「……クリーニングに出さないとダメね」

 ぎしりと歯が音をたてる。
 それはお気に入りのコートに血の匂いが移ったからではない。
 今彼女の出てきた密室となっていた空間。
 その部屋の床という床に散乱していた五十人もの人間に血を吐き出させた異常者への激昂からである。

 彼女はそれ以上感情を表に出す事無くビルの屋上から遠い夜の闇を眺望した。
 その背後に。
 彼女────遠坂凛の従者たる赤い外套を纏った騎士が姿を現す。

「それで? やはり流れは柳洞寺か?」

「……そうね。奪われた精気はみんな山に流れていってる。新都で起きてる昏睡事件はほぼ柳洞寺にいるマスターの仕業よ。マスターがどれだけのヤツか知らないけど、こんなのは人間の手に余る。
 可能だとしたら、キャスターのサーヴァントだけでしょうね」

「柳洞寺に巣食う魔女か。───となると、些か厄介かな」

「キャスターのクラスは七騎のサーヴァントの中でも最弱に類する。
 だけど───いえ、だからこそ搦め手で他のサーヴァントに対抗しようとする。この大規模な魔力の蒐集もその一環かしらね」

「だろうな。ならばこそ、力を蓄えられる前に叩き潰すのが定石と言えるが……」

 さて、どうするかね。と凛の脇へと移動したアーチャーが目で問う。
 その鈍色の瞳を見つめ返したが、口は開かず黙考する。
 キャスターの気配はまだ残っている。今から追えば尻尾くらいは掴めるかもしれない。
 何より、魔術師のルールを逸脱した振る舞いを自分の管理する土地で行う“敵”に怒りが沸き起こっている。

「やめとくわ」

 だが彼女の口から零れたのはその感情を押し殺す言葉。
 冷風に揺れる黒髪を艶やかに払って、告げた音は友人の誘いを断るような気軽さだった。

「賢明だ。先の戦いで君は疲れているだろうし、その手の輩相手に深追いは厳禁だ。自ら火中の栗を拾う必要もあるまい。
 それに逃げに徹する魔女を捕らえるのは骨が折れる。古代より魔女の逃げ足は速いものと相場は決まっているからな」

「そういうもん?」

「そういうものだ」

 ふーん、と一応の納得を見せ、彼女は自分の足取りを僅かに目で追う。
 視線の先にあるのは血に煙る灰暗い一室。思い返すのはそこに至るまでに行われた戦い。

 通路に夥しく蠢いていた骨作りの雑魚ゴーレム達。その全てを、彼女は一人で破壊し尽くした。

 事実、その程度の軍勢にアーチャーの力を借りる必要などなかったし、そんな事でアーチャーの能力を晒け出す気もなかった。
 ただ外道を行く敵に怒りがあっただけ。だから戸惑いすら見せず、徹底的に敵勢を粉微塵に砕いた。
 ……その骨の材料がつい先日まで生きていた誰かだとしても、一切の情をかけることなくこれを滅した。

「──────」

 その戦いで彼女が負った傷はない。
 ただ一つ。
 必死に、吐き気を堪えながら戦った代償に、唇を噛み切ってしまっただけ。

 傷はない。消耗もない。
 ならば何故、彼女は敵を追うことをしないのか。

「今判っている敵は四人。単独行動をするランサー。柳洞寺に巣食うキャスター。学校に結界を仕掛けた何者か。
 そして────」

 もう一人。昨夜、セイバーのマスターとなった衛宮士郎。

「────ほう? 学び舎の結界とキャスターは無関係と睨むのか?」

「ええ。キャスターは外道だけど、最後の一線は守ってる。この場所の人達も誰一人死んでなかったし。
 でも学校の結界を張ったヤツは畜生よ。際限を知らない。
 それに街全体から魔力を吸い上げられるのに、わざわざ学校に結界を張るのも変だわ。根こそぎ吸い取る気ならとっくにやってるだろうしね」

「くく。魔女には勿体無い評価だ」

 アーチャーは喉を鳴らして笑った。
 これはあくまで推測。だがもしどちらもキャスターの手によるものだったとしても結果は同じだ。なら敵は複数いると考えて動く方が足元を掬われ難いだろう。

「キャスターの動向も気になるけど、目下の敵は学校の結界の主と衛宮士郎。
 だから今日はこれでお終い」

 昨日のアーチャーの言が正しければ衛宮士郎は素人。しかし今日一日という時間は決断するには充分すぎる時間だったはず。
 戦う事を拒むなら良し。敵が一人戦わずして消えてくれる。
 だがもし戦う事を選択したのなら。明日、敵として出会うことになったのなら。

「………アーチャー。明日もし衛宮くんが敵としてわたしの前に立ちはだかったら、セイバーの相手をお願いするわ」

「心得ている。元よりこの身でなければセイバーの相手は務まるまい」

「ええ。サーヴァントの相手はサーヴァントに任せる。だからその間にわたしは自分の戦いをする」

 サーヴァントがサーヴァントと戦うのなら、マスターはマスターを打倒する。
 どちらが先でも問題ない。
 アーチャーが先にセイバーを倒せばマスターである衛宮士郎には令呪を放棄させるだけでいい。先に凛が衛宮士郎に勝てばセイバーは自然消滅するだけだ。

 結果が判るのは明日。
 衛宮士郎がどう出るかは今日の段階では想像の域を出ない。
 それでも。
 おそらく敵が決意を固めているように、こちらも決意を固めたのだ。


『たとえ相手が誰であろうと、わたしの前に立ちはだかるというのなら』


「……帰りましょう、アーチャー。もう夜も遅いわ」

「ああ。では行くとしよう」

 天高く聳え立つ摩天楼より夜に飛び込む。
 アーチャーは主の身を包むように手を添え、凛は己の従者を信頼しその身を預ける。



 星空は遥か遠く、地上も悠遠の彼方。
 ────夜に沈む深淵なる闇を、赤き主従が翔けて征く。













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