scene.02












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 室内に漂っていた薄靄は晴れ、視界が明瞭になる。

 切嗣が立つ召喚陣の中央には白銀の少女騎士が。
 イリヤスフィールが立つ召喚陣の中央には紫紺の魔女が、その姿を現した。

 彼方より此方へと招かれし賓客。時代にその名を残した英雄達。歴史書の中でしかその存在を知る事など不可能な筈の伝説が、綴られ終わりを告げた物語の続きを望むように……今こうして現世へと招かれた。

 召喚が成功した事による一瞬の弛緩。次いで投げ掛けられた問いに対する緊張。マスター達の刹那の感情の変化の間に、喚び出されたサーヴァント達も互いに置かれた立場を把握する。

 現世へ降りるに際し付与される知識、そして無意識に植えつけられる他のサーヴァントに対する敵愾心。それらによって互いを敵と認知してしまう上、倒すべき敵が召喚と同時に目の前に現われれば、殺気立って当然だ。

 しかしそれも数秒。警戒の色は解かないまでも、どちらもが機先を制し相手に一太刀浴びせる……などという事もなく、どころか得物を取るにすら至らなかった。
 互いの配置、マスターの立ち位置。状況。視界に映る全てのものを考慮しそれなりに思考を回す事で、両者は同じ結論へと辿り着いたようだった。

「マスター」

 口火を切ったのは白銀の少女騎士。澄んだ……それでいて揺るがぬ瞳を己を招いた男に向けながら、静かな声で確認の問いを投げ掛ける。

「あちらのサーヴァント……恐らくはキャスターと見受けますが、どうやら私と時を同じくして招かれたようだ。ならば彼女ないし彼女のマスターは、今のところ我々の敵ではないと判断しますが」

「…………」

 切嗣はすぐに答えを返せなかった。この男にしては珍しいほどの忘我だった。それほどに目の前の存在が異質なものに見えた。

 聖剣の鞘ほど明確な縁の品も他にない。現代まで完全な形で残っている聖遺物は恐ろしく希少だ。大概がマントの切れ端だったり鎧の破片レベルのものに過ぎない。
 しかし鞘は違う。現代まで現存していた本物の聖剣の鞘。傷の一つすら存在していない代物。それそのものを用いて召喚を行ったのだから。

 明確な証拠はない。目の前の少女から真名を聞くまで到底信じる事など出来ない。だがどうしようもなく、疑いの余地などなく、この少女は切嗣が渇望した英霊に相違ないと断言出来る。出来てしまうからこその、忘我だった。

 だってそうだろう……誰が信じるものか。彼の理想の王が、こんな年端もいかぬ少女であるなどと。

「…………」

 切嗣は答えぬままより深く眉間に皺を寄せる。忘我は脱したが今度はどう対応するべきかと思考を巡らせた。
 想像の埒外だった展開に光明を齎したのは、

「キリツグ」

 背に立つ愛娘の呼び声だった。

淑女(レディ)に声を掛けられたのよ? 応えてあげるのが礼儀でしょ?」

 場違いなほど軽やかな声色に、切嗣は毒気を抜かれてしまった。

 彼のアーサー王がこんな少女だったとは今もってなお信じがたいが、目の前の現実は覆せない。十年前、当初の予定通りに第四次聖杯戦争が行われていれば、この少女とはきっと最低限のやり取りで戦い抜いて行く事になっていただろう。

 切嗣は現実主義者(リアリスト)だ。たとえサーヴァントが人の形をしていようとも、それが自身が聖杯を手に入れる為に必要な道具だと割り切って物事を考える。
 道具と言葉を交わす趣味はない。道具を愛せば応えてくれるなんてのは迷信もいいところだ。物は所詮物でしかなく、それを扱う人間の手腕こそが全てだ。

 同様にサーヴァントに対しても不要な信頼関係など築くつもりは毛頭ない。こちらの思惑通りに動けばそれでいい。それで済むだけの算段があの頃の切嗣にはあったから。

 しかし、かつてと今では圧倒的に状況が違っている。切嗣がアーサー王を招来するという結果は同じでも、背後に立つイリヤスフィールと彼女が喚び出したサーヴァントの存在がある。

 これから切嗣達が臨む戦いの舞台へは、この場にいる面子全員で挑む事になる。サーヴァントを道具と割り切る思考は変わっていなくとも、最低限以上の説明の必要性については理解が出来る。
 道具を正しく運用しようというのなら、それなりの“扱い”をもって臨まなければならない。

 一つ溜息を吐き、切嗣は目の前の少女に対して言葉を口にした。

「ああ。あのサーヴァントを喚んだのは僕の娘であり、今回の聖杯戦争における共闘の相手だ。つまりはそのサーヴァントともまた悪戯に争うことは好ましくない」

「了解しました。マスターがそう言うのであれば私に是非はない」

「だそうよ。貴方も事情は飲み込んで貰えたかしらキャスター?」

 最初の問いから無言で場を睥睨していた──目深に被ったフードのお陰で視線は判別し難いが──魔女はくすりと口元に笑みを浮かべた。

「ええ、分かったわ。でもとりあえずは色々な事情の説明をお願いしたいところだけれど」

 魔女の声はイリヤスフィールを通り越し切嗣へと向けられる。事情を最も把握している者が誰であるかを見抜いたが故のものだろう。

「分かっている。これから僕らの行う戦いは通常の聖杯戦争のそれを逸脱することになるだろう。元より事情は説明するつもりだった」

 ただ一つの椅子を争うバトルロイヤルにおける共闘。そのメリットと同等以上の弊害がある事など、イリヤスフィールの提案を受け入れると覚悟した時より予見していた。
 だからこの状況も大局だけを見れば想定内。一つの大きな誤算はあったが今更そんな事に拘うつもりもない。

 たとえ相手が道具であっても語る口が必要ならば語るまで。こちらから無闇に軋轢を作ることを最大限の運用とは言えないのだから。

「じゃあとりあえず移動しない? サロンでお茶しながらにしましょう!」

 そんなイリヤスフィールの提案はにべもなく切って捨てて余りあるが、それで円滑な関係が築けるのなら容易いと、切嗣は肯定と共に一階のサロンへとサーヴァント達を伴い向かった。


+++


 一階エントランスホール脇にあるサロンでアインツベルンの侍従の淹れた紅茶で喉を潤しながら、切嗣は手早く現状をサーヴァント達に説明した。
 それに付随して真名こそ明かし合わなかったが、互いのクラス名……白銀の騎士はセイバーを名乗り、紫紺の魔女はキャスターを名乗った。

 マスター達もまた己がサーヴァントとの正式な契約を行い、共に聖杯戦争を勝ち抜く為のパートナーと認めた。
 イリヤスフィールとキャスターの微笑ましいやり取りとは裏腹に、切嗣とセイバーのそれは事務手続きじみた淡々としたものだったが、お互いに納得の上でのものなら余人が口を挟むものでもない。

「つまりは本来不可能な筈のシステムの改竄を行い、貴方とイリヤスフィールは共にマスターとなったと。そしてそのサーヴァントである私達にもその関係を同様のものとして欲しいと」

「端的に述べるのならそれで間違いはない」

 キャスターの要約に切嗣は首肯を返す。

「少なくともこれで僕達は他の参加者からは優位な立場に立つことが出来る。最優と目されるセイバーと権謀術数に長けたキャスターの連携があれば、遅れを取ることなど有り得ないだろう」

「そうね。何事もなければ最終局までは有利に事態を進められるでしょうね」

 それは棘を滲ませた言葉だった。フードの奥に微かに灯る瞳に強い意思が垣間見える。見ているものが常人の一歩先。彼女が鬼謀に長けた魔女であるのなら、当然にしてその陥穽に気付かない筈がない。

「聖杯を獲得出来るのは一組だけという触れ込みらしいけれど? それはどうするの?」

 切嗣とイリヤスフィールは同じ地点を目指しているから構わないが、セイバーとキャスターが共に聖杯に招かれてその頂を目指す者である以上、その一点は譲ることが出来ないものだ。

 聖杯を手にする資格を持つのは六人六騎を蹴落とした、ただ一組の勝者のみ。それが揺るがぬ事実であるのなら、共闘などお笑い種だ。

「特に私は最弱にも等しいキャスターよ。堅牢な対魔力を有するセイバーと最終局面でかち合えばどうなるか、語るまでもないわよね?」

 切嗣に認識出来るセイバーの対魔力は最高位。およそ現代の魔術では彼女に傷をつけることさえ叶うまい。
 如何にキャスターが秀でた魔術師であったとしても、魔術師である以上は真正面から戦いを挑んでセイバーから勝ちを掴むことは至難を極めると言えるだろう。

 それが故の険を滲ませた物言い。都合良く使い捨てるつもりならこの場で争うことも辞さないという心積もりで彼女は憤怒を滲ませている。
 そう、彼女にとって都合よく利用されることほど許容出来ないものはない。生前誰かに振り回され続けた魔女だからこそ、そんな戯言は許せない。

 綺麗事でお茶を濁そうものならどんな手段に出るか彼女自身分からない。少なくとも、この城が無事で済むとは思えない。

 場には四人が揃って以来の緊張感が走る。その原因たる表情の窺えない魔女の視線を真正面から受けながら、切嗣は普段と変わらない声色で予定通りの言葉を吐き出した。

「おまえがそう言うだろうとは予測していた。だから僕と取引をしろ」

「……取引?」

「ああ、僕らの共闘関係は互いの利害が一致している間だけで構わない。無償の協定などこっちから願い下げさ」

 切嗣は基本的に他人の誰一人をも信用していない。目に映る全ての人間は打算をもって接するべき隣人に過ぎない。
 無償の愛。利害の絡まない関係。そんなものは何一つ信用に値しない。両者にとって利益がある関係こそが望ましい。

「こちらからの提示は三つ。まず一つは、おまえにこちらの用意する拠点を一箇所貸し与える。霊地としての格は幾つかの箇所よりは劣るが、それを補って余りある広さがある。敵の侵入を感知してから接近されるまでの猶予は時間単位であるだろう。
 好きなように改造し好きなだけ罠を張り巡らせ、自分だけの庭にしてくれて構わない。必要なら資金や物資も援助しよう。それに加えて、僕達をすらその排除対象として据えてくれても結構だ」

「…………」

「二つ目は敵の誘導を行う。戦場である冬木で、僕とセイバーは出来る限り目立つ行動を取り、敵の標的になるよう仕向ける。誰もが僕とセイバーをまず真っ先に倒さなければならないと思わせるほどに。
 その間におまえは自分の陣地を好きなだけ固めておけばいい。それこそセイバーを倒す算段も含めてな」

「……三つ目は?」

「いつ僕達の背中を狙おうが構わない。その瞬間、おまえは僕達の敵となるが、それまではこちらからおまえを攻撃対象とする気はない」

「…………」

 条件としては破格、とまではいかないが、充分に検討に値するものだった。

 キャスターのサーヴァントにとって、陣地作成は必須とも呼べるものだ。己だけの城。工房。神殿。魔力をその源とし、魔術を主体とするキャスターは魔術師の延長線上に存在するもの。

 通常の魔術師とて、自陣内での戦闘と他の場所での戦闘ではその戦闘能力に大きな差がある。キャスタークラスの魔術師ともなればそれは天と地ほどのものになるのは想像に難くない。
 神殿を建造し、その中でならば、最上級の対魔力を持つセイバーを相手にしても覆せるだけの可能性が生まれる。

 ただしそれだけの神殿を造ろうと思うのなら、相応の時間が必要となる。戦争が開幕してからその建立を行っていては、いらぬ横槍に晒される可能性がある。それをさせぬ為の二つ目の条件。
 それは切嗣自身がセイバーを召喚した際に元より行うつもりだった作戦の一つだ。これを条件とする事に切嗣側のデメリットはない。

 そして三つ目。セイバーを従えた切嗣にとって、キャスターは敵として値していない。最終局になるまでキャスターが残るも良し、セイバーを打倒する算段をつけたキャスターを返り討ちにするも良し。
 それだけの自信と性能が、今の自分にはあると切嗣は自負している。

「条件を呑む呑まないは自由だ。ただし呑まない場合は、互いにとって良くない結果となるだろうがな」

「……食えない狸だこと」

「お互い様だろう」

 裏の世界に生きてきた切嗣と、人の悪意に晒され続けてきた魔女。腹の探り合いなど常套手段であり、胸を痛めるものですらない。

「ねえ、ちょっと!」

 そんな二人の間に割り入る、可憐なる少女の声音。

「キリツグったら勝手に話進めないでよね、キャスターは私のサーヴァントなんだから!」

「そうは言ってもね。この手の手合いは疑り深いのが多い。無条件で共闘しよう、はい分かりましたで話がつくような相手じゃない。
 それこそ僕とイリヤが親子の関係であっても、それが己の利益を害するものなら排除の対象とする事に躊躇などないだろう。違うか、キャスター?」

「いいえ、その通りよ」

「キャスターまでっ!」

 むぅ、と頬を膨らませるイリヤスフィール。彼女にしてみれば今の状況は何から何まで気に入らない。
 切嗣と同じマスターであるというのに彼が言葉を掛けるのはキャスターで、キャスターは己がマスターを放りっぱなしでセイバーのマスターにばかりちょっかいをかけている。

 完全に蚊帳の外。

 頭上を行き交う言葉のキャッチボールに我慢がならず、ましてやその内容たるや憤慨にすら値するものだった。
 だから言ってやるのだ。そんな見当違いの言論を交わしている二人に。

「キャスター、こんな条件呑む必要なんてないわ。だって──私が貴女の願いを叶えてあげるから」

 フードの奥。目深に被ったその奥底にある筈の瞳を見通すように。イリヤスフィールはその赤い眼差しに力と意思を込めて見上げる。

「私がみんなの願いを叶えてあげる。キャスターの願いはもちろん、キリツグとセイバーの願いだって。私ならきっと、それが出来る筈だから」

 聖杯の器にして守り手である少女は謳う。余りにも戯言じみた夢想を誰憚ることなく言ってのけた。
 この身が誰かの祈りを叶える聖杯の器であるのなら、その成就に尽くしてくれた者の祈りの全てを叶えて見せると。

「…………」

 イリヤスフィールの真実を未だ知らないキャスターにしてみれば、それは夢見る少女が期待と共に歌う空言だ。そうであって欲しい、そうしたいというだけの祈り。そこに根拠はなく意味すらも蒙昧。

 しかしその瞳に宿る色には揺らぎはなかった。言葉を現実のものとしてみせるというだけの覚悟の色。衛宮切嗣とはまた違う、されど限りなく似ている、イリヤスフィールだけの美しくも儚き覚悟を表す色がある。

「……事実として」

 切嗣は瞳を伏せたままに割り込んだ。

「世界の内側に限り作用する祈りの全てを叶えるだけの力が聖杯にはある筈だ。勝者にしか聖杯は使えないというのは外来の魔術師を誘き寄せる為の餌に過ぎない。
 文字通りに聖杯が万能の釜であるのなら、マスターとサーヴァントに加えて後一人分の願いを加えても許容量を超えることはない」

 聖杯によって生まれるのは無色の力。
 方向性なき力の渦。
 万物の願いを叶えるに足る極大の魔力は、およそ奇跡と呼ばれる現象を現実に昇華するだけの許容量を持つと考えられる。

 されど切嗣とて確信があるわけじゃない。三度の闘争を経て未だ完成に至らない聖杯なのだ、その真実を知る者は誰もいまい。ユーブスタクハイトならば知っているのかもしれないが、尋ねたところで口を割るとも思えない。

 少なくとも聖杯の触れ込みに虚偽がなければ全ての祈りは叶う筈だ。今回に限ってはイリヤスフィールという規格外の存在が小聖杯を務めているという事もある。
 ただその為に、他の参加者を駆逐しなければならないという事実には何の変わりもないのだが。

「だから信じてキャスター。貴女の願いもきっと、私が叶えて見せるから」

 そっとキャスターの手に添えられる少女の掌。怒りに打ち震えていた魔女の手を、聖女の掌が優しく包み込む。

 ただ一人の勝者を選定するのには理由がある。聖杯の成就は英霊の魂によって成されるもの。聖杯は英霊の魂を取り込む器であり、魂は器を満たす水。
 ならばその完成形は七騎全ての英霊が消滅した後にこそあり、切嗣の願いを叶えるくらいならば一騎残っていても支障はない。

 ただし二騎のサーヴァントが存命している状態で、聖杯がどのくらい機能するのかまでは分からない。だから切嗣の言葉もイリヤスフィールの言葉も裏を返さずとも無根拠な物言いに過ぎない。

 魔女の疑心を晴らすには足り得ない。

「……分かったわ、信じましょう」

 けれど魔女は、肯定の言葉を謳った。

「ただし信じるのはセイバーのマスターでも聖杯でもない。私のマスターを信じることにするわ」

「ほんとう……?」

「ええ。少なくとも貴女(マスター)がセイバーのマスターの味方である限りは、セイバーとの共闘を約束しましょう。それと、切嗣(あなた)の大事な大事なお姫さまも、ちゃんと守ってあげるから安心なさい?」

「ふん、魔女め……」

「ふふ……お互い様なのでしょう? でも二度と私を魔女とは呼ばない事ね。今回はマスターに免じて許してあげるけど、次また口にすれば消し炭に変えてあげる」

「むー……なんかこの二人、妙に仲良くなってない?」

 じと目で無愛想な顔の父と口元に妖しい笑みを浮かべたキャスターを交互に見やるイリヤスフィール。

「それとは別にさっきの条件も呑んであげるわ。その方が切嗣(あなた)も安心でしょう?
 私が神殿を造るまでの間、貴方達は馬車馬のように働いて他の連中の目を釘付けにしておきなさいな。多少の助力くらいはしてあげるから」

 セイバーという前衛があれば、キャスターの築く城は難攻不落のものとなる。切嗣の思惑とは少しずれたが、ここまではほぼ予定通り。
 切嗣が己の算段によってキャスターを選んだ事に違いはないが、それでも最低限の守りは必要だった。キャスターならば充分以上に応えてくれるだろう。

 それでも腹の底を見せていない魔女に完全に信頼を寄せるのは危険だが、その為のイリヤスフィールだ。彼女のマスター適正は過去最高であり、その身に宿す令呪も規格外。たとえセイバーであっても容易には逆らえない。

 そんな切嗣の懸念とは裏腹に、魔術師の英霊は喜色を浮かべて見上げてくる赤い瞳に小さく微笑みを零す。全てを見通したわけではない。だがそれでも分かる。この少女はかつての自身と似ているのだと。

 外の世界など知らず、完結したこの城の中で生涯を過ごすことを約束された箱入り娘。これより巻き起こる闘争にも、決して彼女自身の意思で赴くものではない筈だ。

 ……この男が、彼女を利用する為に戦地に連れ出そうというのなら……

 裏切りの魔女は心の奥底で決意を固める。自身と同じ悲劇は起こさせない。あんな悲しみはもう沢山だ。
 元より聖杯になど希うものなどない身の上だ。聖杯の所有権を引き合いに出したのは、実力的に圧倒的な不利な立場にある彼女が少しでも優位を得る為の鎌掛け、これ以上の弱みを見せない為のブラフだ。

 彼女がその心に宿している祈りは、本当にちっぽけなものでしかないのだから。

 それなりの戦果は得られた。ならば今は静観こそが正しい選択。自らの足場を固めるまでは、最優の実力を利用させて貰うとしよう。
 涼やかな面持ちで、そんな打算に塗れた策謀を魔女は巡らせていた。誰に気取られることもなく。

「話の着地点は見えたようですね」

 咳払いの一つと共に、これまで沈黙を貫いていたセイバーが場を仕切り直す。

「私自身にもキャスターとの共闘に差し挟む異論はありません。マスターの意向であるのなら尚の事だ。
 では、マスター。今度は我々の行う作戦についての詳細を聞かせて欲しい」

 切嗣が語ったのは率先して敵の目を引き付けるという事のみ。それ以上の説明はまだされていない。具体的にどのような考えがあるのかを聞いておかなければ咄嗟の時に対応が出来ないと踏んだのだ。

「少し待ってセイバー。まだ私の話は終わっていないわ」

 セイバーの進行にキャスターが水を差す。切嗣もまた同じ事を考えている筈だが、口にしないのはわざとか。あるいはキャスター自身から言葉を引き出させる為のものか。まだこの男は、キャスターを計り続けている。

「イリヤスフィールの話に乗りはしたけど、この共闘は取引を前提としたものよ。提示した三つの条件に対する、貴方の要求を聞いていない」

 共闘自体が要求である、などと単純に考えるほどキャスターは馬鹿ではない。共闘は互いの利益が合致するが故の両者の落としどころであり、提示された条件に対する要求にはならない。

 三つの条件に対する要求。それが成立して初めて共闘が約束される。互いにそれは口約束であり、文書を用いたものではない。反故にする事は簡単で、してしまえば決定的に終わってしまう。

 いつ発動するか分からない令呪による縛りがあるとはいえ、魔女の手元にはイリヤスフィール……切嗣にとっての人質がある。反対に魔女が裏切れば簡単に、造作もなくセイバーに斬り捨てられてしまうことだろう。

 それをどちらともが理解し了解している。故に口約束なれど、相応の拘束力が発生している。

「さあ……要求を聞かせて。余程の無理難題じゃなければ応えてあげるわ」

 その言葉を受け、切嗣は室内でも羽織ったままだったコートの内側に手を伸ばす。ホルスターに収められていたものを引き抜き、衆目に晒した。

 それは衛宮切嗣が魔術師殺しと仇名される原因にして根本。手に吸い付く銃把は長年の使用に耐えた証拠であり、行き届いた整備はその年月を感じさせない。微かに薫る硝煙と、そして血の匂い。

 魔銃──トンプソン・コンテンダー。

 装填弾数一発限りの切り札。より詳細を言えばこの銃本体ではなく込められる魔弾こそが切り札なのだが、それを今は語る必要性はない。

 愛用の魔術礼装を見せた上で、

「僕の要求は──キャスター、おまえにサーヴァントを殺せる弾丸を作成して貰いたい」

 切嗣はそんな、およそ考えられる限り最も愚かな事を口した。


+++


 それから一週間ほどの時間が過ぎた。

 窓ガラス越しに見える景色は相変わらずの白銀一色で埋め尽くされ、この城を世界から孤立させている。
 そんな風景を視界に入れず、白銀の少女騎士──セイバーは一人、宛がわれた個室で黙々と瞑想に耽っていた。

「んー、んー、んー」

 サーヴァントは基本的に霊体だ。マスターからの魔力供給のオンオフで実体と霊体を切り替える事が出来る。霊体は感覚面で制限を受けるが、不必要な魔力消費を抑える事が出来る為、特段の用がない限りは霊体でいるのが効率的だ。

「んんんんんー」

 だがセイバーは実体のまま椅子に座し、身動ぎもせず瞼を重く閉ざしていた。

 彼女は霊体となる事が出来ない。その事実はサロンでの一件の後にマスターである切嗣に告げられた。
 それを聞いた切嗣は眉根を顰めはしたが、今更変えられない事実に憤慨をするほど子供でもなかった。事実を事実として受け止め、善後策を検討し実行に移した。

「むーむーむぅー」

 セイバーには僅かでも魔力の消費を抑える為の策として、魔力で実体化していた武装を解き、いずれ赴く事となる冬木での適応も含めて現代衣装を与えられていた。
 彼女の服を見繕ったのはイリヤスフィールとキャスターだ。前者はともかく後者の嬉々とした口元は今もってなお忘れ難い。

 今こうして瞑想に耽っているのも彼女個人が無用な消耗を抑えようとしている為だ。戦う事が意義でもあるサーヴァントにとって、未だ戦地にすら赴いていない現状ではやるべき事がない、というのも理由の一つではあったが。

「んーーーーーーーーー」

「…………はぁ」

 一つ大きな溜息を吐き、セイバーは閉ざしていた瞳を開いた。

「先ほどから貴女は一体何を呻いているのです、イリヤスフィール」

 視線の先には招かれざる闖入者。ベッドの上で枕を抱きながらゴロゴロと転がっていたイリヤスフィールは、ようやく反応のあったセイバーにつまらなそうにその赤い眼差しを向けた。

「だって退屈なんだもん。外は吹雪だし、セイバーはずっと瞑想してるし。キリツグとキャスターは二人で何かしてるし」

「……マスターとキャスターはこの間の要求についての話し合いと作成を行っているのでしょう。邪魔をしてはいけません」

 衛宮切嗣が共闘を餌に提示した三つの条件とその対価。即ちサーヴァントをも屠る魔弾の作成。

「セイバーはそのことをどう思ってるの?」

「キャスターの手腕ならばサーヴァントにも通用する弾丸を作る事はそう難しいものではないと思います。しかし問題はマスターの方だ。
 いかにサーヴァントを殺せる弾丸があっても当てられなければ意味がない。我々サーヴァントならば発射の瞬間を視認してからでも如何様にも対応が出来るでしょう」

 どれだけ殺傷能力の高いものであれ、標的に着弾しなければ意味がない。生身の人間でも条件さえ整えば対応は可能。人間の限界を超越した英雄達なら、余程の事がない限りは銃弾程度の速度に後れを取る事などありえない。

 しかしそんな事は切嗣自身が一番分かっている筈だ。分かっているからこそ、それを覆すだけの策があるのだろうとは思う。

「マスターにはマスターの考えがあるのでしょう。彼が素人同然でそんな夢物語を謳うのならば嗜めもしますが、そうではない。
 彼からは是が非でも聖杯を手に入れなければならないという覚悟が見て取れます。ならばそこには勝算があるのでしょう。私が口を出す事ではない」

 最悪の場合はこの身を盾とすればいい。サーヴァントとして召喚された以上、この身はマスターの剣であり盾である。
 セイバー自身にも目的がある以上はマスターを見殺しにするわけにはいかない。敵の打倒とマスターの保護を同時に行う覚悟はとうに決めている。

「……なんだかセイバーってストイックなのね」

「物事を感情を差し挟んで考えられる立場ではありませんでしたから。
 マスターは我々が勝ち抜く為に思慮を巡らせているのです、それを感情論でどうこう言うのは無意味でしょう」

「つまり感情的にはサーヴァントと戦うのは反対ってことよね?」

「…………」

「ぶー。都合が悪くなるとだんまりなんてセイバーずるーい」

 じたばたとベッドの上で暴れてみてもセイバーは涼しい顔でやり過ごすのみ。これ以上の話の進展はないと見て取ったイリヤスフィールは、話題を変える事にした。

「セイバーって、あのアーサー王なんだよね」

「はい。アーサーという名は男性名ですので、正しくはアルトリア・ペンドラゴンですが」

 我の強い騎士達を纏め、国を建て直し、襲い来る異民族共を撃退する。必要だったのは強い力。お飾りの冠は必要ではなかった。それ故に彼女は素性を偽った。

 王という責務を負った彼女にとって、私情は切り捨てなければならなかったもの。ただ一つの王という名の機構であり、王権を担うに足る公平さを求められた。
 そこにアルトリアという少女はいない。国を統治する上での理想、民にとっての理想とされる王の形があっただけだ。

 時に非情に。時に冷酷に。国とその中に暮らす民を守る為、最善を選び続けなければならなかった。そうでなければ立ち行かぬ程に故国は疲弊していた。
 その為に犠牲としたものは数多く。それに倍するものを救ってきた。けれどその犠牲を許せなかった誰かがいたからこそ、彼女は王座を追われる事となった。

 ……私が為すべき事はただ一つ。この身に課せられた最後の責務を果たす事。その為ならば……

 必要とあらば全てを斬り捨てる。
 泥を啜り這ってでも聖杯の頂に辿り着く。
 この掌を無辜の民の血で濡らしてすら、求め欲するものがある。

 その悲愴な覚悟を誰に理解されなくとも構うものか。
 戦うと決めたから。
 たとえ全てを、この掌から零してしまうとしても……。

「……イリヤスフィール?」

 気が付けば足元には少女の姿。胴に回された腕は優しく包み込むように。顔は伏せられその表情は窺えない。

「セイバー今、こわい顔してた」

「…………」

 悲痛な色を滲ませた少女の声に応えず、セイバーはその真綿の雪のような髪を愛おしげに撫でる。

「んっ……」

「痛かったですか?」

「んーん、気持ちいい。もっと撫でて」

 まるで触れれば壊れてしまいそうなガラス細工を愛でるように、セイバーはその透き通った髪に触れる。櫛など必要のない柔らかな髪質。薫る甘い匂い。何よりその髪色が一際目を引いた。

「綺麗な色ですね。まるで雪のようだ」

「ふふっ、ありがと。この髪はね、イリヤがお母さまから貰った大切なものなの。特別にセイバーに触らせてあげてるんだからね」

「イリヤスフィールの……お母上は……?」

「五年前に死んじゃった。でも寂しくはないよ、お母さまはずっとイリヤの胸の中にいてくれるから。キリツグもいるしね」

「…………」

「……セイバー?」

 撫で続けていてくれた手が止まり、イリヤスフィールは顔をあげる。先程とはまた違う険しさをその表情に浮かべた剣の英霊をじっと見やる少女。

 イリヤスフィールの外見年齢は実際の年齢より三つか四つ……あるいは五つ以上下に見える。それは彼女が生まれるに際し、彼女自身を聖杯として機能させる為、母の胎内にいた頃より魔術的な調整を施されたその弊害だ。

 吹けば飛びそうな矮躯。少し力を込めれば折れてしまうであろう華奢な肩。愛くるしいまでの無垢な瞳。
 少女はその誕生を呪ってはいない。むしろ感謝しているほどだ。彼女が生まれてからのこの約二十年は、とても幸福なものであったから。

 出口のない世界。閉じた円環。白銀の地平線と聳え立つ古城だけが存在する箱庭。その中での小さくとも温かな暮らし。それだけで充分だった。満たされていた。父がいて、母がいた。それだけで彼女は幸せだったのだから。

 その幸福も間もなく終わりを告げる。閉ざされた門は開かれ、戦いの場へと足を踏み出さねばならない。

 この少女が戦場へ向かわなければならない理由をまだセイバーは知らない。分かるのは己がマスターの揺ぎ無い覚悟と、それに同調したいと背を伸ばす幼子の想い。

 だから。

「イリヤスフィール、私はマスターの剣であり盾だ。けれど同時に、貴女の剣でもありたいと思う」

 彼女を守る事はセイバーの義務ではない。大局から見れば別のサーヴァントを従えた倒すべきマスターだ。非情に徹し実利だけを見るのなら、この場でイリヤスフィールを亡き者にする選択も考慮に値するだろう。

 しかしセイバーはそうはしない。泥に塗れ汚泥を啜る覚悟はあっても、この胸に灯るちっぽけな誇りがある。自らを自ら足らしめるものを切り捨ててまで、この少女を(おか)したくはない。

 それはせめてもの矜持。一国を背負ったものとしての誇りだ。この誇りを穢そうというのなら、相応の代償を求める事となる。

「イリヤスフィール。我がマスターだけではなく、貴女の身をまた守ると、私はここに誓いましょう。共に聖杯の頂へ。そしてキャスターが貴女の言葉を信じたように、私もそれを信じてみたい」

「セイバー……」

 誓いの言葉と共に向けられたのは初めて見る笑顔。召喚からこれまで感情を表に出す事のなかった騎士の心からの微笑みだった。

「うんっ、ありがとうセイバー!」

 返された微笑みもまた同じく。
 太陽のように優しく、星のように眩い笑顔だった。


/5


 切嗣とキャスターの準備が済んだ頃合、サロンでの一件から数えて二週間にも満たない時分。
 ようやく彼らはその重い腰を上げ、戦地たる日本──地方都市冬木へと出立した。

 出立の日は幸先も良く晴れの空。見渡す限りの青空、とまではいかないが、先日までの猛吹雪を思えばこれでも良く晴れてくれたと言えるだろう。

 切嗣もイリヤスフィールも基本的に手荷物は少なかった。イリヤスフィールは元より必要なものが少ない為、せいぜいが日用品に限ったもので、軽めのトランク一つが手荷物だ。切嗣はそれに加え他人に持たせなくない物──コンテンダーくらいのものだ。

 その他に事前に用意したもの、キャスターに依頼を受けたものは既に冬木へと送られている。今頃は先立って現地入りしている切嗣の片腕──久宇舞弥が彼らの到着までに全ての準備を済ませてくれる手筈となっている。

 切嗣とイリヤスフィールは途中までは同じ経路を辿る事になるが、冬木入りするに当たり別行動を取ると取り決めている。
 事前の考えでは共に冬木入りし、一度向こうにあるアインツベルン城に立ち寄った後、切嗣とセイバーは別行動を行う予定であった。

 既に切嗣がアインツベルンからのマスターである事は正式に教会に通達を出している。他の連中──とりわけ間桐と遠坂はいち早くこの情報を入手している事だろう。警戒の矛先が切嗣に向くのはこちらとしても都合が良い。

 イリヤスフィールはただの連れ添い、雇われでしかない切嗣のアインツベルンからの監視役程度の認識に収められるだろうと当初は予測していた。
 しかし同時に切嗣もまた現在の参戦予定者を調べたところ、およそ考えられない結果が齎された。それ故の直前になっての進路変更、別行動と相成った。

 そして現在。

 イリヤスフィールとは既に別れ、切嗣はセイバーと共に冬木へと向かう列車の中にいた。

 あの冬の城を発つまでの間、切嗣はキャスターと長く時間を共にした。それは切嗣が要求した物、キャスターが要求した物の打ち合わせを含んだ時間ではあったが、事実セイバーと顔を合わせていた時間の数倍にも及んだ。

 それだけの時間を過ごしてなお、切嗣はキャスターの腹の底が見えなかった。いや、サロンでのやりとり以上にあの魔女に対する猜疑を深くした、と言うべきだろうか。

 裏の世界で生きた男と人の悪意を知る女。そんな二人の会話が微笑ましいものである筈がない。事務的なやりとりの中に差し込まれる暗喩を含んだ言葉の数々。端々に皮肉とも聞こえるような棘を滲ませた応酬。

 互いが互いを牽制し合い、腹の底に蟠るものを探り続ける日々。結果、切嗣はその最後まで自身の奥底を見せなかった。しかし同時に、相手の底さえも窺えなかった。

 裏を返せばそれは互いに探られては拙いものを抱えているという事。そう当たりを付けていたからこそ二人は探りあったわけだから、結果は一歩として進んではいないが、疑念を大きくするのには役に立った。

 コルキスの王女にして裏切りの魔女──メディア。

 魔術の神の寵愛を受け、神代の魔術を操る、最も魔法使いに近い魔術師。

 彼女の素性、来歴、歩んだ人生は余人が見れば同情にも値するほど悲惨なもの。そこに彼女の意思はなく、神の呪いと一人の男に振り回され続けただけの人生。目が覚めた後に救いはなく、残っていたのは絶望のみ。

 だから彼女は魔女となった。ならざるをえなかった。

 正直なところを言えば、切嗣にとって魔女の素性など問題ではなかった。自分の求めるものを対価として支払えるだけの魔術的素養とキャスターとしての能力さえ有していればそれで充分だった。

 ただあの女は、もしかしたら切嗣が考える以上に厄介かもしれない、と思うほどに底が知れなかったのは誤算であり、この早期に気付けたのは重畳であった。

 ……今はいい。何を企てようが現状では何も出来ない筈だからな。

 イリヤスフィールをキャスターに預けるのは確かに不安ではあるが、あの女もまた聖杯の求めに応じて召喚された者である以上、それは聖杯に希うだけの祈りを有しているという事だ。

 ならばマスターを無為に殺害しようとはすまい。特にイリヤスフィールのマスターとしての能力は破格だ。彼女を上回る適性者などいない。ならば利用しよう、とは考えるかもしれないが殺そう、とまではいくまい。

 無論、そうさせない為に監視はつけてある。イリヤスフィールの世話係、という名目で側近の侍従を二人、アインツベルンの城にも整備と称して複数名の侍従を先立って赴かせている。それ以外にも幾らかの仕掛けを施してある。

 何より、共闘の約束は交わされている。それを裏切らない保障はないが、裏切ればどういうしっぺ返しが来るか、彼女自身が誰よりも理解している筈だ。

 ……今は忘れろ。まずは目の前の事からだ。

 そう考えを切り替えた時、次の停車駅を告げる車内アナウンスが鳴り響く。冬木駅への停車を告げる、アナウンスが。

 程なく停車した列車より、切嗣はトランク一つを抱えて降りる。随伴している男装のセイバーもまた無言のまま付き従うように降車した。

 北欧のアインツベルン城では女性用の衣服を着ていたセイバーが男装しているのには理由があった。切嗣は緒戦より敵の注目を惹く為、セイバーの身なりをそれなりに目立つものとしたいと考えた。

 この日本で外国人、しかもセイバー程の美貌の持ち主ならそれだけでも充分に映えるとは思っていたが、より余人の目を集める為の手段はないかとイリヤスフィールに相談したところ、キャスターを経由し何故か男装に行き着いたらしい。

 彼女らの思考回路は着る物には最低限の頓着しか持たない切嗣に理解不能な代物ではあったが、事実として現在進行形で道行く人々から視線を集めている以上、彼女らの狙いは的を射たらしかった。

 半ば奇異とも言える視線に晒されている当のセイバーはと言えば、先を歩く切嗣に追随するだけで、視線は警戒からか周囲を窺う気配はあるものの、そこに微塵の動揺もなく、むしろ胸を張り肩で風を切って歩を進めていた。

 少年のような矮躯でありながら、その威風堂々とした佇まいがより視線を集めているとも言えるのだが、当の本人はそんな事を気にする様子もなかった。

 駅を出たところでタクシーを拾い、運転手に行き先を告げる。

 向かう先は冬木駅のある新都から冬木大橋を超えた先にある深山町。開発目覚しい新都とは打って変わって、古き良き時代の名残りが影を落とす住宅街。その一角。
 日本家屋の立ち並ぶ一帯にある、とある武家屋敷。長く住人のいなかったこの屋敷を切嗣は冬木における拠点の一つとして買い取り、整備もまた既に済ませていた。

 トランク片手にセイバーと共に門を潜る。以前買い取り交渉の為に一度訪れた時の庭は足の踏み場もないほど草木が生い茂り雑然としていたが、今は綺麗に刈り取られ、地面が顔を覗かせている。
 母屋もまた同様。人が暮らす分には何不自由ないほどに整理が為されていた。

 無論、切嗣はここで家族ごっこに興じるわけではない。風雨を凌げ、仮眠を取れるだけの環境さえあればそれで必要充分。内装にも特に拘りがあるわけでもなく、一瞥しただけで興味を失した。

「マスター、仮の拠点とはいえ念の為、内部を検めても構いませんか」

 冬の城を発ち、イリヤスフィールらと別れてからここまで一言も発さなかったセイバーがそう言った。
 切嗣は頷きだけを返し、先に運び込まれていた幾つかの荷を解きに掛かった。

 丁度その時、切嗣の胸元で携帯がなった。無論バイブ設定にしてあったので外に音が漏れる事はなかった。

「僕だ」

『無事冬木へと入る事が出来たようですね、切嗣』

 聞こえた声は感情の起伏のない怜悧な音。彼女こそが衛宮切嗣の片腕にして冬木で事前の準備を進めていた久宇舞弥だ。
 このタイミングで連絡を取れたのは、恐らく荷物に何らかの仕掛けでも施していたのだろう。切嗣が荷物を開ければ、舞弥にそれが伝わるように。

「ああ。それで、例の情報は確かなのか」

 無駄な挨拶を省き用件を切り出す。例の情報、とはイリヤスフィールと別行動を取るに至った原因。聖杯戦争の参加者に纏わる事柄だ。

『はい。現段階でも現在正式に参加表明を通達、行っているのはアインツベルン、遠坂、マキリ、そして魔術協会枠の四名のみです』

「…………」

 それは明らかな異常だった。既に切嗣はセイバーを召喚している。しかも召喚から既に二週間近く経過している。にも関わらず、御三家と協会枠以外の参加者の情報が一切ないというのはどういう事か。

 一枠はイリヤスフィールが埋めている事を考えても、残りは二枠。過去の事例からマスター適性者が見つからず、無名、あるいはそれに類するイレギュラーが紛れ込む事は考えられる。
 それでも現状で二枠もが全く情報すらないというのはやはりおかしいと判断せざるを得ない。

「……遠坂や間桐が何かを仕掛けているのか? ──僕達のように」

『その可能性は考えられます。我々と同様に二枠分の席を確保出来たのなら、わざわざそれを露見させる意味がありませんから』

「…………」

 しかしイリヤスフィールがマスターとなれたのはユーブスタクハイトの執念とイリヤスフィールの特権があったればこそだ。令呪システムを作り上げたという間桐の妖怪──臓硯ならばともかく、遠坂にそこまでの技量があるとは考えにくい。

 参加表明のされている遠坂凛は確かに何かと芸達者な様子だが、聖杯戦争の根幹を解析出来るほどの手練ではない──今はまだ。

「遠坂はともかくとしても、間桐はやはりきな臭いな。衰退の一途にあった家系に、十年前に出戻った放蕩息子の間桐雁夜がマスターだというのも含めてな」

 間桐雁夜が出戻るその少し前に、間桐は遠坂から養子を受け入れたという情報も掴んでいる。こちらとの繋がりは不明だが、間桐の翁を思えば何があっても不思議ではない。

「ここ最近の間桐と遠坂の様子は?」

『特段は何も。監視としておいてある使い魔は何の異常も感知出来ていません』

「…………」

 それは嵐の前の静けさか。あるいはより良くないものの片鱗か。

「……いずれにせよ僕達の作戦に変わりはない。舞弥、今夜仕掛ける、バックアップは任せた」

『了解です。武運を』

 それで通話は途切れた。タイミングを見計らっていたかのように、セイバーが顔を出す。

「屋敷内に異常はありません。間取りも確認しました、不意の襲撃にも対応出来ます」

 切嗣からの返答はない。道具と無為な言葉を交わすつもりは最初からないからだ。ただ必要な事は、告げるべき事は告げなければならない。

「用がなければ待機しておけ。今夜、出るぞ」

「了解しました」

 セイバーもまた無駄口を告げず、長時間のフライトや移動で疲労した身を休める為に、背を向け適当な部屋へと足を向けた。

「…………」

 切嗣にとって、これまでのセイバーの応答は不可解だった。
 当初の目算では彼の王はもっと騎士然としたものを想像していたのもあってか、より噛み合わないものと思っていた。

 戦場で光を浴びる英雄という存在。彼らの威光は民衆の目を眩ませ、憧れという名の断崖へと誘い込む。誰もが英雄になれるわけじゃない、一握りにも満たない、それこそ歴史に選ばれたかのような存在だけが輝き立てる檜舞台──それが戦場だ。

 彼らが光り輝くその裏で、何百何千、何万もの名もなき兵士がその命を落としていく。自分もまた英雄になるという憧れを胸に抱き、そんな夢を見たばかりに花びらのように儚くも命は散っていく。

 人の歴史とは争いの歴史。戦争はその最大規模の闘争の形。権力者の我欲、飢えからの脱却、価値観の相違からの発展。戦争が起こる理由は様々であり、闘争は人が人である以上は決して避けられない、血に刻み込まれた本能だ。

 英雄が悪だとは必ずしも言い切れないが、彼らの存在が民衆の目を眩ませているのもまた事実。
 平穏な日常で殺戮を犯せば凶悪犯だが、戦場で多くを殺せば英雄だ。そこにある矛盾と異常に気付きながら、それでも人は争う事を止められない。

 英雄が輝くのは周囲に突き立つ剣の数だけ。
 英雄が踏み越え剣を掲げるのは屍の山の上。
 英雄が流した血の数以上の涙が、その裏で流されている。

 それを止めたいと思った。
 止めなければならないと願った。

 その為に歴史上有数の名を持つ英雄──円卓の王を従えたのは皮肉でしかない。

 だが今のところ彼女からはそんな英雄然とした鼻持ちならなさが感じられない。切嗣の命令には唯々諾々と従い、無駄口もまた好んでいない。
 彼女本人からその真名を聞き、マスターだけが見る事の出来るステータス表にもその名が間違いなく記されている。

 それでも不可解だった。
 アレは本当に────世界に名を馳せた英雄の形なのかと。

 もっと傲岸不遜を絵に描いたような奴や自分勝手な輩こそが英雄の気質を持つ者と思っていた。ならばあれは何なのか。
 セイバーの願いを切嗣は知らない。そもそもそんなものに興味がない。切嗣は自身の願いさえ叶えられればそれでいいのだから。

「…………」

 …………まあいいさ、手綱を握るのが楽でいい。

 今はその程度の認識で充分。どの道戦いの幕はもう間もなく開かれる。その時セイバーの正体を見る事が出来るだろう。
 同時に切嗣のやり方を見たのなら、噛み付いてくるのは必然だ。ただこれまでこそが異常だっただけの話だ。

 視線を遠く投げる。空は茜に染まり行き、黄昏時を告げている。間もなく空の赤は夜の藍に取って代わられ、やがて黒へと至るだろう。
 遥か空の彼方には輝ける一番星。魔術師にとっては夜こそがその真骨頂。息を潜め日常に溶け込んでいた獣達が、その牙を剥き正体を露にする。

 今暫くの猶予を楽しむ事も惜しむ事もなく、切嗣は来る戦場へと思いを馳せ、細心の注意を払い武装を整えるのだった。


+++


 夜の帳が完全に降りる前に、切嗣は身支度の全てを整えセイバーを伴い屋敷を後にした。

 行き先は特には決めていない。切嗣が知るこの街の情報は少しばかり古い。それ故の自らの目での戦場の確認を兼ねた夜の散歩、と言った風情だ。無論、それだけではないのはセイバーもまた理解していた。

 まず向かった先は深山町の反対側。日本家屋の立ち並ぶ拠点のある区画から大通りを挟んだ対面、洋館の立ち並ぶ区画。冬木は外国人居住者が多いのもあってか、このように綺麗に区分けされている。
 全てがそうであるというわけではないし、洋館街に住まう者全てがまた外国人であるわけでもない。

 切嗣の目的はその先、間桐と遠坂の拠点だった。

 アインツベルンと並ぶ、この冬木での聖杯戦争を始めた御三家の内二つがこの冬木に門を構えている。その立地もそれほど距離があるわけでもなく、二つの館は街に溶け込むように佇んでいる。

「…………」

 どちらの屋敷の前でも立ち止まる事なく、流し見る程度に済ませてすぐに立ち去る。魔術師の拠点は外から見て異変を感じられるようなものではない。とりわけこの時期、この両家がアインツベルンに弱みを見せるとは考えられない。

 だからこれは文字通りの視察。立地と外観、異常がないという舞弥の報告を念の為自らの目で確かめただけのものでしかない。

 とって返した切嗣が向かった先は、冬木大橋。冬木市を新都と深山町の二つに分かつ未遠川に架かる大橋。まだ深夜には早い時間だからか、それなりの交通量があるが、もう数時間もすれば人影もなくなっていく事だろう。

 その橋上──丁度真ん中辺りで一度足を止め、下流へと視線を移す。穏やかに流れる未遠川。その先には海が見える。
 灯台の明かりが僅かではあれ窺え、暗い夜を照らしている。そのまま下流の新都側、深山町側の河岸を一瞥した後、無言のままに足を新都へと向けた。

 新都は静かな深山町と打って変わって現在調の町並みだ。背の高いビルが立ち並ぶオフィス街。駅前広場はこの時間でもそれなりの賑わいがある。切嗣はそこから天を衝く摩天楼の一つを見上げる。

 冬木市民会館と並んで新都のシンボルとして数えられるセンタービル。この冬木で最も背の高い建物をその視界に納めた後、南側、閑静な住宅街を通り過ぎ、小高い丘の上に立つ教会へと辿り着いた。

 冬木教会、別名言峰教会。

 表の顔は文字通り、世界最大の信徒を持つ一大宗教の数多く存在する支部の一つだが、その裏の顔はこの地で行われる聖杯戦争の監督役を担っている。

 魔術師同士の諍いである聖杯戦争──その審判を務める者は、同じ魔術師では立ち行かない。魔術師が奇人変人の集まりであっても、その中には派閥や水面下での闘争、黒い部分が多々にある。

 同じ魔術師が魔術師の仲裁を行えば、そこには思惑が絡みすぎる。それ故に敵対組織とも言える教会から監督役が輩出される。
 教会の側にとっても聖杯……神の血を受けた本物の杯ではないにせよ、万物の願いを叶えるほどの代物を野放しにしておくのは上手くない。

 戦いの行く末を見届け、魔術師にしか理解の出来ない用途──世界の外側へと至るまでを観測する。それが監督役の務めであり役どころだった。

「…………」

 教会前の広場から天を眇める。金色の十字架がその輝きを夜の暗闇の中でさえ主張している。

 この教会の神父──第四次聖杯戦争の監督役を務めるのは前回務めた言峰璃正の息子、綺礼と聞き及んでいる。
 この男の素性もまた洗ってある。十二年程前に遠坂に弟子入りをし、その後に離別。綺礼はその所属を再び教会へと鞍替え、代行者として異端の排除に専心したらしい。その忠心が功を奏したのか、父璃正の跡を継ぎ、監督役に抜擢されている。

 そこだけを切り取っても遠坂と言峰の内通は確定的だが、証拠はない。証拠があったところでそれを糾弾する意味もない。
 教会から正式な辞令として監督役を任されている以上、遠坂の手はそれだけ深く教会に根付いている。両者にどんな取引があったのかは推測の域を出ないが、いずれにせよ表向きは公平を気取るしかない。

 露骨な贔屓を行えば、それだけで足が付く。そんな愚を冒すとは思えない。凡庸な才しか持たないながらに、家門伝来の宝石魔術とこの土地の管理者(セカンドオーナー)の座を確かなものとする程度には、時臣という男は優秀なのだから。

 言峰綺礼という男に対して、思うところがないわけではない。十二年前より更に遡った過去もまた調べ上げたが故の警戒心。
 だが現状では警戒以上の事は何も出来ない。ここは中立地で相手は審判。せいぜい監督役として正常な聖杯戦争の運営を期待するといったところだ。

 ……何か一つ、綻びが出ればまた話は別だがな。

 教会に背を向ける。通例として参加者は監督役の下に顔を出す決まりだが、それも形骸化している。相手がきな臭いとなれば尚更だ。

 来た道を戻り、切嗣は駅前広場へと戻った。

 そこでふと、急に口寂しさを覚えた。久方ぶりに日本に戻り、長く街並みに触れたせいだろう。かつての名残りを求め、適当な売店へと入った。

 ……アイリもイリヤも、この匂いは余り好きじゃないと言ってたっけな。

 母子の健康を思って煙草を断って二十年。完全に辞められたものと思っていたが、そうでもないらしい。
 その匂いは硝煙と血と並ぶ衛宮切嗣にとっての戦場の名残り。まだ若く、理想を目指して直走れていた頃の残滓だ。

 長く離れていた戦場に戻ってきた。見える街並みは平穏そのものでも、この明かりの裏には既に魑魅魍魎が息を殺し潜んでいる。血に飢えた獣が獲物を狙い済ますように、網に掛かるのを待っている。

 パッケージを空け取り出した一本に火を灯す。肺を満たす紫煙は懐かしく、こんなにも苦いものだったかと苦笑した。良くもこんな不味いものを日に何ケースと空けていたものだと過去の自分に辟易とした。

 だが心は落ち着いた。目に見えない戦場の空気に当てられ若干逆立っていた気配は、この懐かしい味が取り払ってくれた。口に煙草を咥えたまま、周囲へと視線を巡らせる。音もなく付き従って来ていたセイバーにも一瞥し、頷きを得る。

 本当に夜の散歩に興じていたわけではない。戦場の確認がてらの、敵へのあからさまな挑発である。

 見るものが見ればセイバーの素性など一目瞭然。わざわざサーヴァントを実体化させて連れ歩いている者を見れば、無視を決め込む事は難しい。
 遠坂や間桐は勿論、同じく夜の哨戒へと出ているであろう連中は既に、切嗣に当たりをつけている筈だ。

 霊体化出来ないセイバーを逆手に取った挑発行為。監視はしていても乗ってくる輩がいなければ無意味だが、一匹くらいは釣れるだろうと踏んでいる。

 ……さて。掛かった獲物はどれほどのものかな。

 街は既に完全に闇に没し、人工の明かりだけが煌々と夜を染める。駅前広場も時間が時間だ、先頃に比べれば随分と人影が減っている。
 これより始まるのは魔術師の時間。聖杯を巡る闘争の刻限。奇跡をその手に掴まんと欲する者達の、熾烈なまでの宴がようやくその幕を開こうとしていた。


+++


 切嗣が戦場として当たりをつけたのは未遠川沿いに広がる海浜公園。

 立ち並ぶ樹木と整備された路面。街灯が等間隔に据え付けられ、小さな明かりを灯している。
 人影はない。冬という事もあってか虫の鳴き声もまた聞こえない。響くのは、壊れかけの街灯のパチパチと弾ける音と、闇を流れる水の音。

「マスター」

 セイバーが一歩前へと出る。遠い薄闇、目を凝らせばようやく見える程度の闇の向こうに人影を見咎める。既に簡易の人払いは構築してある。ならばこの場へと踏み込めるのはその結界を物ともしない輩──つまりは同業者のみ。

 ……なに?

 闇を切り裂き切嗣達の前に姿を現したのは、予想もしていなかった人物だった。

「遠坂時臣……」

 臙脂色のスーツ。
 整えられた髪。
 蓄えた顎鬚。
 手には極大のルビーを象眼された一振りの杖。
 細められた瞳と僅かに余裕を滲ませた口元が垣間見える。

 まず真っ先に感じたのは、何故この男がここにいるかだ。

 遠坂家五代当主遠坂時臣。現在の遠坂家筆頭。されど事実上の当主は娘の凛へと委譲を終えており、時臣はその後見を務めているに過ぎない。
 何よりこの男はマスターではない。遠坂家からの正式なマスターとしての通達は遠坂凛と届けられているのだから。

「衛宮切嗣……かつて魔術師殺しと恐れられた暗殺者。闇から闇へと跳梁する輩が何を思ってこんな人目に付く真似を行ったのかな。フフ、余程優秀なサーヴァントを引き当てたと見受けられる」

「何故ここにおまえがいる、遠坂時臣。おまえは──」

「──マスターではない筈だ、かな? 君も既に目を通したのだろう? 現在の参戦予定者名簿に。ならばそこにある不可解に思い至るのは至極当然だとは思わないか」

 切嗣と同じく時臣もまた同様の結論へと辿り着いている。しかし、それでもこの場へと姿を見せた事は理にそぐわない。
 マスターとして届出を出している切嗣はこうして衆目に姿を晒し、敵の動向を探るのはまだ理が通る。だが名簿に名前のない時臣が単身戦場へと姿を見せるのは、解せないを通り越して猜疑を招く。

 一体何を企んでいる、と。

「そんな目をしているな。ああ、その疑念は当然だろう。だが私は私の理念に沿って行動したまで。
 まずは一つ、この土地の管理者として君に忠告がある」

「…………」

「君の悪辣な手段は聞き及んでいる。それを咎めはしないが、神秘が露見するような無粋は慎んではくれないか。
 大戦の最中に行われた前回とは状況が余りに違う。今のこの冬木は平穏そのものだ。そこにいらぬ波風を立てるようならば、この地を預かる者として相応の対処を施さねばならなくなる」

 全ては神秘の隠匿が大前提。平穏に包まれたこの街で行われる闘争を、一般市民に知られる事はあってはならない、無論、予定外の事態に対応する為に教会から専門のスタッフが派遣されている。

 しかし切嗣が過去行ってきた手段を慮れば、それは当然とも言うべき警戒だ。この男は目的を達成する為ならば巻き添えを厭わない。たった一人の標的を確実に殺害する為に、乗客を巻き込み旅客機ごと爆破したとも噂されるほどなのだ。

 この地を預かる管理者として、そんな醜悪とも言えるやり口は許容出来ない。野放しには出来ない男の機先を制し釘を刺す為に、時臣はこの場に現われた。

「……そんな事を言う為だけに姿を見せたのか?」

「無論違う。私の娘──凛は優秀ではあるが、まだ戦場での経験が少なくてね。なればここは一つ、先達として教授してやるのが親の務めとは思わないか」

 魔術師は余計な魔力消費を嫌う。古典的な者ほどその傾向が顕著に現われる。時臣はそんな古い時代の魔術師だ。文明の利器に対する理解はあっても、魔術を至上とする典型的な魔術師。

 故に魔術師は不必要に己が魔術を使わないし争わない。魔術とは一種の学問だ。学者がリングの上に立つ事など滅多にあるものではない。
 ただ魔術世界には派閥があり、上下関係があり、それに伴う争いがある。身内を守る為に杖を執り、家門の秘伝を継承する為に決闘を行うなど日常茶飯事。身内で諍いを起こし消えていった名門など数え切れないほどにある。

 特に土地の管理者である時臣は、そんな権力闘争に否応もなく巻き込まれ、そして勝利を重ねて今の地位を築き上げた。
 目の前の男は壮齢の紳士に見えるが、その中身は武闘派だ。魔術師殺しの異名を取った切嗣でさえ、油断をして相手をしていい男ではない。

 切嗣は眇めた瞳で時臣を見やる。その風体は自然体。緊張の欠片もない。その様だけで幾つもの戦場を経験した勇の風格が垣間見える。
 しかしこの冬木における闘争の主役を務めるのはサーヴァント達だ。マスターなど彼らに付随する付加価値でしかない。

 遠坂時臣はマスターではない。ならばサーヴァントを連れている筈もなく、だがそれは切嗣を前にして何の安全弁にもなりはしない。
 目の前の男が遠坂の長。マスター権を持つ参加者たる凛の父だ。彼は部外者ではない関係者。マスターではない、という理由で切嗣が手心を見せる相手ではない。そんなこと、切嗣の素性を知る時臣が知らぬわけがない。

 つまり。

「管理者としての責務、先達としての務め。そしてもう一つ────」

 時臣の視線が動く。切嗣を見据えていた瞳は微かに揺れ、切嗣を庇うように半身を前に出していたセイバーを捉えた。

「こちらのサーヴァントが貴女に挨拶をしたいと言って聞かなくてね。どうか少し時間を頂けないだろうか──アーサー王」

「…………っ!?」

 驚愕は一体誰のものか。未だ素性を一切明かしていない、どころかこの冬木へ入って間もないというのに、遠坂時臣は確信をもってセイバーの真名を言い当てた。僅かに見せてしまった動揺で、より確信を深めた時臣が唇を歪ませる。

 同時。

 セイバーと同じようにマスターを庇う形で霞が生まれる。それはサーヴァントが実体化するに伴い具現化する薄靄。魔力で仮初めの身体を構築する一瞬。

「なっ……」

 肉体を構築し終えたサーヴァントを認め、セイバーは絶句した。

 当然だ。
 当たり前だ。
 その姿を忘れる事など出来る筈もなく。
 こちらの真名が割れて当然の存在。

 栗色の髪。
 涼やかな面貌。
 引き締まった体躯。
 夜の闇の中でさえ曇る事のない、白の甲冑。

 伏せられていた瞳が開かれる。
 怜悧でありながら精悍な瞳が、同じくセイバーの姿を認めた。

「お久しぶりです──拝謁の栄に浴し光栄であります、かつての王」

「ガウェイン卿……」

 理想の騎士と謳われた黒と並ぶ白の騎士。
 円卓に集いし猛者の中でも随一の実力者。

 アーサー王の片腕。
 アーサー王の影とも謳われた太陽の騎士が、夜闇を照らし今宵その姿を現した。


/6


 未遠川より吹き込む風が対峙する二つの陣営の間を渡る。

 冷たさの滲む陣風が砂塵を巻き上げてなお、セイバーは目を離せなかった。遠坂時臣を庇い立つ白騎士から、視線を切る事など出来る筈もなかった。

 ────太陽の騎士(サー・ガウェイン)

 アーサー王の片腕。アーサー王の影、あるいは王亡き後を継ぐ者とさえ謳われた忠義の騎士。身に纏う白の甲冑のように誠実で、実直で、何よりも情に厚き騎士。彼こそを騎士の体言といわずしてなんと言おう。

 共に戦場を駆け、共に国の為に剣を執った男が目の前にいる。道半ばで死なせてしまった騎士がいる。
 聖杯戦争は英雄を招来し競わせるある種のゲーム。星の数ほどある伝承、伝説、神話。その中からこうして同じ伝承に名を残し、同じ時代を駆け抜けた者が招かれるなど、どうして予想出来ようか。

 あるいは人はこの偶然を──運命と呼ぶのだろうか。

「ガウェイン卿……」

 呟いた声は風に攫われ音を失う。けれど白騎士は恭しく頭を垂れ、胸に手を置き、生前と同じ声音でこう告げた。

「お久しぶりです──拝謁の栄に浴し光栄であります、かつての王」

 それは涼やかな響きを伴った声。郷愁を覚えるほどの、聞き慣れた臣の声だった。

「…………」

 耳に馴染んだ音を聞き、セイバーは冷静さを取り戻した。目の前に立つ白騎士を認め、その存在を認め、深く息を吐いた。

「ああ……久しいなガウェイン卿。壮健そうで何よりだ」

 搾り出したのは王としての声音。生前、奇矯な魔術師が彼女に施していた偽装の魔術は解けてしまっている。素性もまたばれてしまった。それでも目の前の騎士は彼女を王と呼んだのだ、ならば応えるものは王の声でなければならない。

「このような時の果ててであれ、卿とこうして語らえる事を嬉しく思う。だが今の我々は共に剣を掲げ、国の為に尽くしていた頃の我等ではない。その程度の事、言うまでもなく卿ならば分かっているだろう」

「ええ、無論です。それを承知の上で、今代の主に無理を願い出てまで御身の下に馳せ参じた次第です。
 主に仕える剣の身に過ぎた私情、騎士にあるまじき厚顔と今もって恥じております。それでも──私は御身に告げなければならなかった」

 忠節の騎士は瞼を重く伏せる。

 主の温情があったとはいえ、これは彼自身が己に課した誓いを裏切るようなもの。私情を捨て、ただ主の剣となる事を望んだ男の、たった一つの未練。心に残る悔いを、今この機を逃せば叶わぬ願いを、己を裏切ってまで口にする。

「申し訳ありません、王よ。私は私情を捨て切れず、結果として貴女を死の淵へと追いやった。この身の不徳が円卓を瓦解させ、この身の怨恨があの男を追い詰めた。この身を焼いた私怨が、貴女を死なせてしまった。
 言葉では何の償いにもならない事など承知しております。それでも私は、貴女に伝えたかった」

 騎士道の体現者と謳われた男の唯一の汚点。人一倍情に厚かったが故、兄弟を殺された事実を国の崩壊間際になってなお引き摺り続けてしまった事が彼の悔い。
 王を守る為の剣が激情に駆られ大局を見失い、騎士達の誉れである忠義と誇りを穢してしまった。

 ようやく我に返った時には全てが遅すぎた。

 故国は二つに分裂し、円卓もまた無残に崩壊。その最期まで王を守る為に戦い抜いたものの、玉座の簒奪者の手によって無念の内に討たれてしまった。致命傷が私情に駆られ決闘を行った際に受けた古傷というのもまた皮肉な話だ。

 だから彼は願った。

 もし二度目の生というものがあるのなら。
 もしまだ挽回する機会があるのなら。
 今度こそは────主の為、自らの全てを捧げよう、と。

 しかし彼はこの時の果てで巡り会ってしまった。奇跡ですら叶えられぬと思っていた邂逅が果たされてしまった。
 今更の謝罪などでは何も変わらない。それはただ欺瞞に満ちた自己満足。騎士にあるまじき行いで、剣にあるまじき私情。彼自身が切り捨てた『己』そのもの。

 それを。

「良いのです、ガウェイン卿。それは貴方の私情などでは決してない。その心は、かつて仕えた私に対する忠節の証。貴方が恥じ入る理由など何もない」

 王は、肯定の言葉で応えた。

 意味のない謝罪と価値のない言葉の羅列。そんな過ぎた想いにも、王は真摯に答えてくれた。ああ、そうとも。彼の信奉した王はこのように高潔であり、公平であり、理想そのものの王だった。あの裏切りの騎士をもその最期には許した程の無欠の王。

 そんな王を裏切ってしまった後悔と呵責。それ故に死後、白騎士は己に完璧な騎士であり続ける事を課した。王の赦しを得ても胸に誓ったその祈りを違える事はない。より強固にその想いを貫くと、人知れず誓う。

 王は続ける。されど彼の見上げる王とは別の想いをその胸の内に隠して。

「何より貴方はその最期まで私に仕えてくれた騎士の内の一人だ。その忠義に礼を言うべきなのは私であり、悔いるべきなのもこの私だ。
 国が傾いたのも、円卓が崩壊した事も、貴方と彼の湖の騎士の間の友誼に刻まれた亀裂もまた、その発端は私にある。そう、私が────」

 ────王でなければ。
     貴方はきっと、その最期まで高潔な騎士のままで。
     彼の騎士も理想の騎士であり続け、二人は良き朋友であったであろうに。

 胸を締め付ける悔恨。
 言葉にならない想い。
 伏せた瞳に映るのは、落日の丘。
 剣の墓標が乱れ立つ、アルトリアの後悔の地。

「王……貴女は……」

 白騎士の誠実なまでの眼差しに影が映る。騎士がその言葉の続きを口にする前に、王は鋭くその舌鋒で空気を切り裂いた。

「貴方も私も、今や違う主を頂く同士。願い叶える奇跡の杯を巡り、共に競い、合い争う間柄だ」

 そう、冬木での聖杯戦争へと赴いたのはこの手に奇跡を掴む為。奇跡に希わねば果たせぬ願いを叶える為だ。
 たとえかつての忠臣が立ちはだかろうとも、決して歩みを止める事は出来ない。何をおいても、何を犠牲としてでも叶えなければならない祈りを、少女はその小さな身体に宿しているのだから。

「剣を執れ、ガウェイン卿。もはや我らの間に言葉は不要。語るべきは剣で語れ。よもやかつて仕えた主を斬れぬなどとは言うまいな?」

 逆巻く風がセイバーを包む。ダークスーツは一瞬にして戦装束──青のドレスと白銀の甲冑へと変化する。
 下段に構えた両手の中にもまた風が渦巻く。具現化したのは不可視の剣。風呪によってその刀身を隠蔽された稀代の聖剣。

「……ええ。我が剣は今代の主に捧げたもの。貴女がたとえかつて仕えた王であっても、我が行く道を塞ぐとあらば、押し通らせて頂きます」

 対するは月明かりを照り返す青白い刀身を持つ剣。セイバーの聖剣に勝るとも劣らぬ聖なる剣。
 共に最高位の聖剣を手にする騎士の中の騎士。ならばその優劣は所有者の技量によってこそ測られる。

「いざ────」

「────参るッ!」

 此処に第四次聖杯戦争の戦端は開かれる。

 奇しくもそのカードはかつて頂いた王と仕えた騎士。
 互いにその手の内の全てを知る者。
 共に最高クラスの戦力を有する至高の英雄。
 彼らほど開幕を告げるに相応しい者はなく。

 火花散らす聖剣と聖剣との激突が、
 厳かに鳴り響く鐘楼のように──開戦の合図を告げた。


+++


 逆巻く風が夜を駆ける。衝突は一瞬、共に全力を込めて放たれた初撃は極大の火花を咲かせた。
 全力で打ち付けたが故に生じる一瞬の硬直を埋める為、両者は共に飛び退き、体勢を整える。

「…………」

「────」

 たった一合剣を重ねただけで分かる互いの力量。生前において幾度か手合わせをした事はあったが、こうまで全力で打ち合った事はない。
 かたや国を率いた王そのものであり、かたやその片腕にして騎士の誉れ。轡を並べ同じ戦場を駆け巡った事は何度となくあっても、殺し合いにまで及んだ剣と剣との衝突は有り得なかった。

 その剣は国を守る為のものであり、民を守る為のもの。仕える主に向けるものでも、仕えた臣に向けるものでもない。故に互いにその実力を音に聞き、目にしていようとも、こうして己が腕で感じたのはこれが初めて。

 ──やはり、強い。

 どちらともが同じ結論へと至る。そして同時に感じる胸の高鳴り。強き者と剣を交える事に震える心の高揚。己をただ一振りの剣と断じてなお、騎士としての矜持が顔を覗かせている。

「ふっ──!」

 先に仕掛けたのはセイバー。

 その身に宿す特殊スキル──魔力放出の力を借り、体内を巡る膨大な魔力を推進力へと変え、優に十メートルはあった距離を瞬きの間に詰める。
 迎え撃つは白騎士。横薙ぎに構えた剣を大上段から襲い来る必死の一閃に合わせ打ち上げる。

「はぁ……!」

 今宵咲く二度目の大輪。一気呵成の一撃を難なく防ぎ止める。

 セイバーの手にする得物は不可視の剣。刀身どころか柄さえも視認出来ない文字通りの不可視。
 けれどこの白騎士はその剣を知っている。王の手にするその威光を何度となく己の瞳に焼き付けたのだ。見えぬ刃であれ、知り尽くした剣の軌跡ならば捉える事などそう難しいものでもない。

 セイバーとてそんな事は百も承知。見えない剣の有利は最初から捨てている。防がれる事など承知の上で放った二撃目。防がせる事すら目的の内。その真意は更なる追撃へと向かう切っ掛けに過ぎず。

「はぁああああああ……!」

 脅威の突進力で肉薄した結果、間合いの有利は共にない。ならば後は機先を制した者が勝つ。
 追撃を前提とした二撃目を繰り出したセイバーは間髪を置かず連撃を見舞う。

 上段、下段、袈裟、横薙ぎ。剣の軌跡に法則はなく、その全てが神速。瞬き一つ行う刹那に首を刎ね、胴を輪切りにし、両手両足を裁断して余りある速度と威力。並の実力者であろうとそのどれかによって致命傷を被るだろう。

 しかし相対するは同じく英雄。時代に選ばれた稀有なる騎士の一人。神速など浴びるほどに受け、その全てを跳ね返し、同様の速度で以って返り討ちにしてきた。王の片腕と呼ばれた男が、並程度の実力者であろう筈がない。

 一閃を繰り出す度に爆ぜる魔力。
 防ぎ止める程に弾ける火花。
 青い魔力の軌跡と赤い光跡が交じり合い、夜の闇を照らし上げる。

 繰り出される刃の全てが必死の威力。一撃受け損なえば致命傷に至る無刃。両の手に支えられた不可視の剣は、少女の身体から湧き上がる魔力を糧に暴威とも呼べる連撃を嵐の如く闇に咲かせる。

 受ける青刃は足を止め、守勢に回る事でどうにかその狂嵐を凌いでいた。彼の剣もまた相応の力強さを伴い流麗な剣閃を描いてはいるが、反撃の隙が見当たらない。
 セイバーの剣速は一合ぶつけ合う度に増し、今や視認すら難しい速度で縦横無尽に襲い掛かって来る。間断なく繰り出される剣の乱舞は留まる事を知らず、十二十と堆く積み上げられ、白騎士は愚直なまでにその全てを捌き切る。

 乱れ舞う剣戟。咲き誇る火の花。膨大な魔力の加護を得たセイバーの太刀は重く速く、そして鋭い。
 まるで針の穴を通すような精確さでガウェインの防御の甘い部分を狙ってくる。それを凌げているのは防御に専心しているからだ。

 反撃を試みようと思えばどうしても隙が生まれる。その好機をこの少女騎士が見逃すわけがない。
 いずれは打って出なければ状況は膠着したまま。長引けばやがて押し込まれる。しかしそれでも現状はセイバーの猛攻を押し留める事が肝要。そう判断しているかのように白騎士は防御に専心し、反転の好機を窺っている。

「…………」

 人外の戦場の外、セイバーの後方に控える切嗣は、口にしていた煙草の灰が風に攫われる事にも頓着する事無く、目の前の嵐を見据え続ける。

 人の身でありながら人の極点を越えた者。一握りですらない、天と歴史に選ばれた者だけが辿り着ける境地の果てに至った者。人はそれを英雄と呼び称え、畏怖と礼賛をもって祀り上げる。

 ああ、確かに。正直なところを言えばこれほどとは思いもしなかった。彼女達の戦いを思えば、魔術師同士の諍いなどそれこそ児戯にも等しい。
 資格なき者が踏み込めば、その余波だけで骨砕け肉が千切れるほどの死地。目で追えている剣舞だが、本当にその全てを見切れている自信がない。

 切嗣自身の衰えを勘定にいれたところで、二束三文にしかならない極地。これが英雄の高み。人々の賞賛を浴び世界に祀り上げられた英霊の座。手を伸ばしたところで届くような峰ではない。

 ……だが。

 だからこそ、切嗣は強く思うのだ。こんなにも眩しき光が傍らにある恐怖を。比類なき光に焦がれて空を飛べば、イカロスのように翼を焼かれ地に落ちてしまうのに。墜落の恐怖に勝る憧憬こそが、もっとも恐ろしい罪の形なのだと。

 人が空を飛ぶ必要はない。
 そもそも最初から飛べるように設計されてなどいないのだ。
 空を飛ぶ英雄達こそがおかしいのなら。

 ────僕は『英雄(かれら)』を、地に墜とそう。

 揺るがぬ決意。
 鉄の意志。

 衛宮切嗣はその為だけに策謀を巡らし、準備を整え、人の極点を見据えたのだ。

 全ては己の理想を叶える為に。
 人が人である事を誇れる世界であって欲しい。
 そしてその世界には、英雄なんてものは必要ないのだから。

 一際大きな炸裂音を耳朶に聞く。守勢に回っていたガウェインが連撃の隙間を縫い、肩口に刻まれた傷と引き換えにセイバーを弾き飛ばしたのだ。
 宙を舞った少女騎士は動揺もなく、銀の具足を打ち鳴らしながら、華麗に着地を決め今一度剣を握り直した。

「ふむ……流石は最優のセイバーにして彼の騎士王と言ったところか。ガウェインがこうまで一方的に押し込まれるとは」

 白騎士の後方で切嗣と同じく戦況を眇めていた時臣が嘯く。その声色には微塵の揺らぎも見られず、劣勢に押し込まれた側が持つべき焦りが見えない。

 百をも超える剣戟を交わしてなお双方の被害はガウェインの裂かれた肩口の傷のみ。それも戦局を左右する程のものではない。
 事実白騎士は押し込まれていたものの、天秤の針が僅かでも傾けば互いの立ち位置は変わっていた筈だ。

 ただガウェインをしてセイバーの放つ魔力放出は厄介極まりない代物だった。それは嵐の中心点から斬撃が降って来るようなもの。襲い来る暴風に耐えながら、より脅威な剣戟を凌ぎ続けなければならないのだから。

 良く見れば彼の身を覆う白の甲冑のところどころに傷が見える。物理的な刃と化した魔力の波動が鎧を削り取っていった証拠だ。

「…………」

 セイバー自身、手応えは感じている。このまま続ければいずれ致命的な一撃を見舞う事が可能だろうと予見している。
 ただ生前の彼と本気で剣を交えた事がない以上、憶測の域を出ない話だが戦場で見たこの忠臣は、太陽の騎士である事を差し引いても、もっと強かったような気がしている。

 流麗な剣閃、力強き一撃。その涼やかな面持ちを一切変える事なく振るわれる太陽の剣は並み居る円卓の騎士の中でも際立って輝いて見えたものだ。見る影もない、とまでは言わないが、曇りがあるように見て取れた。

「…………」

 セイバーがガウェイン本人に抱く違和感とは別に、切嗣は余裕の体を変えない時臣に猜疑の念を抱いていた。

 事実、切嗣に見えるガウェインのステータスはその全てがセイバーと同等以下。最優を誇るセイバーに匹敵していると言えば聞こえはいいが、同じ土俵で戦う者同士ならば、それが覆しようのない実力差を表しているとも言える。

 しかし切嗣の疑念はそこではない。そもガウェイン卿は太陽の騎士と謳われた傑物。その真価は日の光の輝く昼の時間にこそ発揮されるもの。
 冬木で行われる聖杯戦争は人目を憚って行われる。その性質上、昼の時間帯よりも夜の方が圧倒的に戦場を構築し易く、また戦闘が行われ易い。

 それを遠坂時臣が知らぬ筈がない。

 太陽の加護がなくともガウェインは一流の騎士だ。アルトリアがいなければセイバーのクラスで招かれていたであろう程の。
 その戦力を期待して召喚したのかもしれないが、それでも拭い切れない違和感がある。消えない疑念がある。自陣のサーヴァントを上回る可能性を持つサーヴァントと剣を交えてすら変わらぬ余裕。

 その真意は────

「こうして我らが君達の挑発に乗り、姿を見せたのはこちらも戦力を測っておきたかったからだ。想定外だったのはガウェインを上回るステータス値を誇る者がいたこと。それがかつて彼が仕えた王であったこと。
 ……いや、予感はあったかな。ガウェインが『セイバー』ではないと知った時から、この程度の事は予測していた」

 セイバーと同等のステータスと、同じく剣を得物とし近接戦闘を得手とする者でありながら、ガウェインは“剣の英霊(セイバー)”の“(クラス)”で招かれてはいない。
 真名が明らかになった今、クラス名に然したる意味もないが、彼は七騎の内一つは紛れ込むというイレギュラー、エクストラクラス。

 戦局を左右する駒に不確定要素はあってはならない。それ故に遠坂時臣はこの一戦を仕掛けた。ガウェインの名と逸話、彼の偽らざる忠義を目の当たりにしながら、それでもより確実な戦力を把握する為に。

「幾つかの不満もあるが、しかし全ては許容の範囲内。緒戦にて貴女のようなサーヴァントがいると知れたこともまた重畳」

 時臣の目が細く鋭さを増す。吹き荒ぶ風に両の耳に飾られたピアスが踊る。街灯の明かりを受け、紅玉が煌く。

「余興は終わりだ。ガウェイン、君に太陽の加護のあらん事を──令呪をもって命ずる」

「…………っ!?」

 瞬間、迸る雷光。
 稲妻は夜を斬り裂き、白騎士の身体を貫いた。

 いや、実際は何も起こってなどいない。
 そう見えただけという幻覚。
 されどその変化は一目瞭然。

 白騎士の身体に充溢する魔力の高鳴り。
 手にした聖剣の輝きもまた曇りなき太陽のそれ。
 先程までの彼は衰弱していたのではないかと疑うほどの力強きオーラ。

 夜陰の黒が支配するこの戦場において、この瞬間、ガウェイン卿だけが太陽の加護を受ける。日の光は彼のもの。灼熱の輝きは星の光を駆逐し焼き尽くす。巡る血潮は熱を宿し、心は鏡面の如く闇を照らす光。

 刮目せよ──あれなるは太陽の具現。
       彼こそが真なる太陽の騎士。

 円卓で最強を誇った騎士をも圧倒した、天道を背負いし者。
 日輪が彼を裏切らぬ限り、其は無敵を謳う魔人なり。

 “聖者の数字”

 ガウェイン卿の特異体質にしてその本領とも言えるスキル。太陽の輝く時間だけ、己の力を三倍まで引き上げるという脅威の能力。
 それを絶対命令権たる令呪の力を用い、強制的に発動させた。本来昼の限られた時間だけしか発動しないスキルを、夜が戦場である冬木の聖杯戦争とは相容れぬスキルを、令呪の強制力は可能にして見せた。

 ……やってくれる。

 切嗣は内心で臍を噛む。その令呪の使い方は予測が出来た。遠坂が“ガウェインを狙って召喚した”のだとすれば、それ以外に令呪の使い道はないと。
 読みが外れたのはこの緒戦でカードを切った事。令呪はたった三度しか使えないジョーカーだ。ここぞという時にこそ切るべきカードであり、こんな見せ付けるように切るべき札ではない。

 最初からあった違和感。
 消えない余裕。
 その正体が見通せぬまま、戦闘は再開される。

「では第二幕と行こう。ガウェイン、君の真価を見せてくれ」

「御意」

「────っ……!」

 ガウェインが答えると同時に地を蹴った瞬間、セイバーもまた同様に地を蹴り上げた。ただしその方向が真逆。敵を刈り取る為に前へと跳んだ白騎士とは逆に、セイバーはただ逃げを打つように後方に跳んだ。

 セイバーの全開の踏み込みをも凌駕する加速。直後、振るわれる剣閃。音をすら置き去りにする峻烈なる横一文字。その一撃は辛くも空を切るが、剣圧が翻ったセイバーのドレスの裾を捉える。

 バターのように切り裂かれ風に舞う一枚の布切れ。それが判断を誤っていた場合のセイバーの姿。己の直感を信じ全力での回避を行っていなければ、ああなっていたのはセイバー自身だ。

「くっ……はぁ──!」

 踏み込みの速度が既に違いすぎる。今の白騎士の加速はサーヴァント一を謳うランサーにすら匹敵する。
 太陽を背負うガウェインを相手に逃げに回るのは悪手。今の一幕は初撃だからこそ許されたもの。このまま引き続ければ時を待たずして追い詰められる。

 雷光の速度でそう判断を下した騎士王は大地を全力で蹴り上げる。
 過重に掛けられた魔力放出のブーストも相まって、公園に敷き詰められたタイルはいとも容易く砕け散った。

 神速の踏み込みからの全力での一撃。
 大木すら薙ぎ払う容赦のない一閃──それを、

「はっ──!」

 ガウェインは容易く弾き、体勢を崩したセイバーに返す刀で致命を狙う。

「ぐっ……!」

 刹那をすら置き去りにする速度で迫る青刃。伸ばした足先が地を掴むと同時に最大威力での魔力放出。硬直をすら無視しての強制的な捻転。魔力放出という名の外付けのロケットエンジンで自身の身体を捻らせ、間一髪で回避する。

 ギチギチと軋む体。ぐるぐると回る視界。真横を擦過する熱線の如き刃。触れた髪先が焼け付いたように音を上げる。
 一撃躱したところで次の瞬間にはもう横合いから次撃が迫る。だが二度その全力の打ち込みを見た。対応出来ないほどの速度ではない……!

 風を巻き上げ振るう不可視の刃。
 ガィン、という音と共に今度こそ太陽の輝きを凌ぎ切る。

 太陽の熱を纏う白騎士と青白き魔力の波動を放つ騎士の王。熱線を帯びた剣と逆巻く風を纏う剣が鎬を削る。

 類稀なる直感は、彼女に勝利への道筋を照らし出す。如何に能力を倍加させようとも、何度となく見てきた剣筋だ。ただ速く重いだけの打ち込みならば、対処は難しくとも不可能という領域ではない。

 戦場となった海浜公園を所狭しと走る影。軌跡は既に目視に耐えず、移動による余波、剣と剣とのぶつかり合いによる衝撃、高まる太陽と魔力の波動が並び立つ木々を軋ませ、街灯のランプをすら割り砕く。

 両者は拮抗しているように見えるが、その実押しているのはガウェインだ。セイバーの表情には先程まではなかった陰りが見え、頬を滑るのは一筋の雫。
 対するガウェインは涼やかな面持ちを崩す事なく、精悍な眼差しもまた揺らぐ事なくセイバーを捉えている。

 セイバーの面貌に宿るのは焦燥だ。これまで何度も繰り返した衝突の中で、その内の幾度かは確実に肉体を捉えた。上手く芯をずらされ直撃とまではいかなかったが、鎧への打ち込みは成功している。

 しかしガウェインの鎧には太陽の加護を得てからの傷はない。無数に刻まれた裂傷は全てその以前に付けられたものであり、セイバーの剣は一度としてダメージを与えるに至っていなかった。

 ガウェインに刻まれた聖者の数字。その本領は筋力や敏捷の上昇もさることながら、この鉄壁の防御能力にこそある。
 彼の身体を覆う熱はありとあらゆる外部からの衝撃を遮断し、触れる全てのものを弾き返す。

 攻撃によるダメージを気にする必要がなければ意識の大半を攻め手へと回せる。多少の被弾を無視して相手の懐へと切り込める。
 事実セイバーはそのようなガウェインの動きによって身体に傷を負わされている。直感に物言わせた回避で致命傷こそ避けているが、このまま続ければじり貧は明らかだ。

 聖者の数字の効果時間は約三時間。太陽が出ている時と効力が同じであるのなら、この騎士に傷を負わせる為にはそれだけの時間耐えるか、防御を上回るだけの一撃を繰り出すほかに手立てはない。

 ……この猛攻を凌ぎながら、三時間耐える……?

 ものの十分足らずで既に何度か手傷を負わされているセイバーにしてみれば、三時間耐え抜くという判断は狂気の沙汰としか思えない。これに耐え抜いたという彼の湖の騎士は、別格という他あるまい。

 ──太陽の加護を得たガウェイン卿が、よもやこれ程とは……!

 目にするのと実際に剣を交えるのではその余りの違いに目眩を覚える。一瞬でも気を抜けば首と胴が死に別れ、一つ判断を誤れば腕の一本を容易に失う。

 動きの先を読んですら対応する加速。極大の重みを載せた一撃とて無造作に弾かれる。剣士としては愚直すぎる白騎士の太刀筋も、全てを圧殺して余りある威力を伴うのならそこに技量の入り込む余地がない。

 それ程に圧倒的。付け入る隙は見当たらない。完成された精神性がその強さにより拍車を掛けている。揺らぐ事のない鋼鉄の意志力。胸に誓った忠義、誇りを頼りに騎士は剣を振るう。
 瞳に宿る炎は力強く。セイバーの一挙手一投足を捉えて離さず、それ故に逃れる事さえ叶わない。

 ……不味いな。

 戦場を俯瞰する切嗣は冷静に判断を下す。セイバーの実力は相当だ。並み居るサーヴァントを相手にしても後手に回るような事態は余程の事がなければ起こりえない。
 最悪なのはその『余程』が真っ先に姿を見せた事。今のガウェインを真っ向から倒すにはセイバーでは不足。最優を誇る英霊ですら不足と言わせるほどに、太陽の騎士は圧倒的に過ぎる。

 もはや自身の目論見など二の次だ。英霊の半身たる宝具に訴え勝負に出るか、逃げを打つか。あるいは奥の手を曝け出すか。

 その選択を迫られた時────

『────……ッ!?』

 その場に居合わせた全員がその異常を察知する。

 オォン、とノイズめいた音が耳朶を貫く。金属に爪を立てたような不協和音。背筋を駆け抜ける悪寒。心臓を鷲掴みにされたと錯覚する程の畏怖。
 全ては目に見えるほどの殺意と敵意の具現。全身を貫き、絡み付く凶気の波動。

 その明らかな異常を感じた瞬間、騎士王も白騎士も共に退き、己が主を庇い立ち、視線を真横を流れる未遠川へと向けた。

 そこにあったのは川面に浮かぶ闇。
 夜の黒を塗り潰すほどの闇色。
 立ち昇るように揺らめく漆黒のオーラは目視出来る憎悪のカタチ。
 深き怨念と暗き憎しみが生んだ凶気にして狂気の具現。

 その闇の向こうに赤く灯る光を見る。
 爛々と輝く、血のように赤い瞳を。

「Arrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr……!!!!」

 此処にもう一つの運命が交錯する。

 星の光を絡め取る鎖。
 逃げ場のない牢獄。
 過ぎ去った筈の彼方より来る凶獣が、その産声を上げた。


/7


「くくく……くはっ……」

 深い、緑色をした闇の中。足元を流れる汚泥と粘ついた臭気に晒されながら、間桐雁夜は独り嗤う。
 新都の地下を流れる下水道。人の寄り付かぬ暗闇の中で嗤う雁夜は右手で半面を押さえていた。

 別段傷があるわけでも苦痛が伴うわけでもない。閉じた右目が見ているものは目の前にある腐臭に満ちた空間ではなく、遥か上空──地上の光景。
 海浜公園近くの雑木林の中に潜ませた使い魔の眼を借り、雁夜は今宵戦端を切られた緒戦を観戦していた。

「ははは……まさか、こんな展開があるとはな……」

 狂気じみた笑みを浮かべながら、それでも雁夜の芯は冷静だった。彼にとっての怨敵であり宿敵……遠坂時臣の姿を目視してなお激情に駆られ無為に動く事はしなかった。

 あの男が戦場に姿を見せた事は正直予想外だった。臓硯の話によれば遠坂からのマスターは娘の凛であると通達が出されていた筈だ。それが何を思って時臣が緒戦から姿を現し、あまつさえサーヴァントを従えているのか。

「あぁ……そんなこと、俺にとってはどうでもいい。奴が俺の敵として姿を見せた……その事実さえあれば、他に何もいらない」

 遠坂の現当主とはいえ、マスターでもない男を戦場に引っ張り出すのは苦労がいる。何事にも慎重なあの男ならば尚更だ。
 胸に抱いた憎悪の矛先を向けるべき敵がいない空虚をどう穴埋めするかと煩悶としていたその時に、時臣は戦場に姿を見せた。

 サーヴァントを従えたマスターとして。聖杯を目指すのならば何の躊躇もなく斃す事の出来る敵として。
 その興奮。その高揚。十年の間鬱積していた想いの丈が爆発してしまっても誰も咎める事は出来はしない。

 ともすれば自ら戦地に赴いて罵詈雑言と共に一矢報いる事さえ脳裏を過ぎった雁夜だったが、足は今なお戦地に向かう事なく、己がサーヴァントをも差し向けてはいなかった。下水の匂いの中で、ただ只管に観戦に務めた。

 脳と胸の中を目まぐるしく駆け回る黒い奔流。サーヴァントを召喚して以来、身を苛む憎しみの闇。狂気を形にしたかのようなサーヴァントに引き摺られかねない心を必死に抑制し耐えている。

 それは真っ白なキャンパスの上にバケツで黒いペンキをぶちまけられるようなもの。自分自身というキャンパスを違う何かが犯していく恐怖は筆舌に尽くし難い。
 常人ならば即座に発狂し、人としての形すら失くした廃人となってもおかしくないほどの怨恨と怨念に晒されてなお、雁夜は自我を保ち続けている。冷静に戦局を分析し時を計っている。

 ────全ては間桐桜を救う為。

 この心は黒き憎悪に塗り潰されてなお、その誓いを覚えている。

 ただ暴れ回るだけでは彼女を救えない。遍く全てを凌駕する暴力を欲しはしたが、その力に飲まれてしまっては立ち行かないと理解している。
 感情の赴くままに暴れ狂った先に待つのは何一つの残滓さえ存在しない無残な自滅。そんな結末が欲しくて、この十年を耐え抜いたわけじゃない。

 欲しいのはたった一つ──あの子の心からの笑顔だけ。その願いだけを頼りに暗闇の荒野を歩いてきた。今更もう一度無明の闇に自分から落ちていく無様なんて許されない。向かうべき場所は陽の光の当たる場所であるべきだ。

 ただそれでも、この胸に渦巻く憎悪の奔流は全てを投げ出し、全てを破壊し尽くしたい衝動に駆られるほどに凶悪で強烈だった。不幸中の幸いであったのは、雁夜の胸に宿す憎悪は自分自身の闇をも孕んでいた事。

 後から侵入してきた黒色に塗り潰されながら、それでも己の形を見失ってはいない。それは十年の研鑽が身を結んだ賜物。蟲蔵の底で万をも超える蟲に体を嬲られ蹂躙された時を思えば、この程度の闇に心犯される事など有り得ない。

 何より想いは同じなのだ。心に宿す復讐の想念。湧き出るほどの呪詛の言葉。誰何へと向けられた殺意の波動。心を染める黒と黒は螺旋を描き、相克してより強い憎悪を生む。黒くて黒い、闇の憎悪を。
 生まれた憎悪を食らい身体中の蟲がギチギチと戦慄く。間桐の血から生まれた刻印蟲はそんな醜悪な感情をこそ好む。蟲は魔力を精製し、魔力は身体中を巡り、やがて憎悪の糧となる。

 それは無限に循環する円環。
 終わる事のない疾走。
 憎悪という名の闇が枯れ果てぬ限り、際限なく魔力を湧き出す血の泉。

『…………、…………、…………!!』

 内なる獣が声なき声で哭く。地上に輝く二つの光を憎悪し、自らを縛りつける鎖と疾走を阻む牢獄を喰い破らんと暴れ回る。
 血管の中を這いずる蟲が奪われていく魔力の高に絶叫し絶命する。すぐさま別の蟲が新たな子を産み落としその代替とする。

 雁夜の口元を流れる一筋の血。されど浮かぶは消えない笑み。

「あぁ……そろそろいいだろう。奴らに関して得られる情報は得た。後はおまえがその力を俺に示せバーサーカー。
 天に輝く星を落とし、地上に引き摺り降ろして這い蹲らせろ。貴様らの陰で消えた星の名を、今一度思い出すといい……!」


+++


 川面に佇む闇の形。夜を塗り潰す漆黒。突如として姿を現した不可思議な存在に、その場の誰もが目を奪われた。

「なんだ、あれは……?」

 セイバーは呟き目を細める。目を凝らしてなお茫洋として形の掴めない闇。漂う靄のようなものが姿形を霞ませている。焦点があっていないのか、二重三重にぶれて見えることさえある。
 唯一明確に見えるのは、闇の奥で輝く赤色だけ。それが瞳である事は、居合わせた誰もが理解していた。

「サーヴァントか……一体誰の差し金やら」

 嘆息と共に時臣は息を吐き出す。当然だ、今このタイミングでサーヴァントをけしかける理由が分からない。
 少なくともガウェインとセイバーの戦いを盗み見ていたのならそんな馬鹿げた行為をしようとは思うまい。

 如何に正攻法を得手とするサーヴァントを引き当てようとも、この両者の間に割り込ませるのは余りにも分が悪すぎる上に己が晒さねばならない札もまた多くなると気付く筈だ。大局を見る目があれば静観こそが上等、その上で対策を練るべきだ。

 現場にありながらそう客観的に分析出来る時臣だからこそ理解には至らない。このサーヴァントを差し向けた輩の真意が。
 想像出来るのは彼我の実力差を量れもしない無能か、強力な英霊を引き当て図に乗っている愚か者か、あるいは……。

「…………」

 万が一の可能性を考慮し時臣は警戒を緩めない。未だ動きを見せない魔術師殺しに対してもそうだが、今ほど現われた闇がもし何らかの意図をもって放たれたのだとしたら。時臣の想定を上回る“何か”を持っているのだとしたら。

「……もう一手、必要になるかもな」

 その呟きは誰に届く事もなく風に消え。赤いピアスだけが揺れていた。

 カタチのない闇。正体不明のサーヴァント。カチカチと震える、恐らくは金属が触れ合う音がするだけで、闇色のサーヴァントは一言も発さない。このまま睨み合う事に意味もないと思ったのか、ガウェインが静かな口調で問い質す。

「主に成り代り問いましょう。貴公は如何なる意をもってこの場に姿を見せたのか。開く口があるのなら答えて欲しい」

 その言葉に、闇はスリットの奥の瞳を揺らしてガウェインを見る。白き甲冑とそれを上回る輝きを纏う太陽の騎士を。

「Ga……」

 闇の手元にはいつの間にか得物が握られている。見る限り然して高位な剣とも思えぬ無骨な造り。異常があるとすれば剣は持ち主同様の黒色に覆われ、その上を無数に走る血管じみた赤色に染まっている事。

 ギチギチと唸る闇は、まるで獲物を見つけた猛禽のような鋭さで、川面を蹴って走り出した。

「Gaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa……!!」

 夜を引き裂く大音量。声にもならぬ金切り音を叫びながら、闇色のサーヴァントは疾走する。その速度はセイバーやガウェインにも劣らぬほど速く。抜き放たれた黒い剣は夜を斬り裂き迫り来る。

 迎え撃つガウェインは相も変らぬ涼やかな面持ちを崩さず、手にした聖剣を力強く握り締める。

「Aa……!!」

「はっ……!」

 青白き聖剣と黒の剣とが激突する。その余波は風を巻き起こし、一帯を薙ぎ払う。

 続け様に放たれる黒の連撃。凶悪なまでの重さと速さで繰り出される斬撃を、太陽の加護を未だ得たままのガウェインは、常人には視認すら難しい刃の嵐を、足を止めたまま凌ぎ切る。

「…………」

 闖入者の登場で蚊帳の外に置かれたセイバーは、警戒を緩めぬままに二人の戦場を傍観する。
 何故あの闇がセイバーではなくガウェインを狙ったのか、声を掛けたのがその理由なのかは不明だが、素性のまるで分からない敵手を観察出来る機会を得られたのは大きい。

 ガウェインに削られた傷も自動修復によって程なく治癒を終える。それまでは輪の外側にいる事も必要だ。獣のように敵に向かうだけが能ではない。戦う相手を知らねば勝てる戦も勝てないのだから。

 無尽に舞う刃の風。白と黒の騎士は先のセイバーとの剣戟にも劣らぬ勢いで共に鎬を削り合う。
 聖剣と称されるほどの名剣と打ち合う無骨な剣。並みの剣ならば一閃で芯を折られる筈だが、黒の剣は真正面から劣らぬ程の剣戟を繰り返す。太陽の熱をも遮る闇の刃。だかその異常を上回るのは漆黒の騎士の剣の冴え。

 聖者の数字を発動したガウェインに拮抗出来る英霊などそうはいない。土俵が違うのなら話は別だが、この漆黒もまた近接戦闘を得手とする者。ならばその名は歴史に深く刻まれている事だろう。

 ただしその正体を解き明かす事は誰も出来ない。時臣も切嗣も、どれだけ敵を睨みつけようとも漆黒の騎士のステータスを把握出来ないのだ。
 辛うじて見えるのはクラス名────“狂乱の座(バーサーカー)”という事だけであり、宝具はおろかスキル、パラメーターの一切を見る事が叶わなかった。

 数値は見えずとも現実に暴れ狂うものは見えている。太陽を背負うガウェインと真っ向から対峙出来る程の強者。ただそこに生まれた微かな異変に真っ先に気付いたのは、彼と剣を結んだセイバーだった。

「ガウェイン卿……?」

 セイバーと乱撃を交わしてなお一筋の汗さえも流さなかった男が、狂気に囚われた漆黒を相手にする今、確かに苦悶の色を浮かべていた。

 漆黒の騎士は確かに強い。狂気に犯されているとは思えぬほどの達者さで剣を振るい、先を読み、わざと隙を作り攻め手を限定までしている。
 ただ暴威を狂わせるのではなく、剣の一太刀に意味がある。繰り出される剣戟の全ては必死の一撃にして次の手への布石。流れるように美しく、見惚れてしまえば首を刹那に刎ねられかねない清淑の舞。

 本来バーサーカーという存在は限りない暴力を得る為のクラスだ。若輩の英雄を狂化によって、時には大英雄クラスにまで引き上げ強めるもの。その代償としてマスターからは多量の魔力を。サーヴァントからは理性奪い、それに伴い技量をさえ喪失する。

 だがこの漆黒は狂化してなお失うべき技量を維持している。言語こそ消失しているようだが、それは本来有り得ない筈の現象。極大の暴威と類稀な技術を併せ持つ──それがどれほどの異常かは事実目の前で行われている剣舞がその証左だ。

 それでも聖者の数字を刻んだガウェインならば、押し負けるどころか拮抗を自ら崩してさえ押し切る事が可能な筈だ。それ程に太陽の加護は桁違いの能力であり、彼自身の元より高いステータス値をより強力なものとしている。

 ならば目の前にある現実は何なのか。

「ア…………ァァア……ッ!」

「くっ……!」

 澱みのない剣尖は怜悧で、疾風をすら超える速度で穿たれる。セイバーの斬撃に匹敵、時には上回りかねないその一撃とて、太陽の騎士ならば無造作に防ぐ事も可能な筈。
 しかし今の彼は必死で凌いでいる。凌がなければ、致命の一撃を被るとでも言うかのように。

 その一幕を切り取るだけでも見て取れよう。押しているはバーサーカーであり、押されているのはガウェインだ。傷こそ受けていないものの、一方的なまでに攻め手を封じられ防御せざるを得なくなっている。

 合間を縫って繰り出す太刀の全てが水を切るように受け流し回避され、けたたましい数の斬撃を浴びるほどに受けさせられる。剣を切り結べば切り結ぶ程に白騎士の顔に宿る焦燥は増し、手にする聖剣の冴えが鈍っていく。

 輝ける太陽が、その熱を夜に奪われるように。

「なにをしているガウェイン……! 幾ら相手の得体が知れぬからと言って、君が遅れを取るような相手ではないだろう……!」

 遅れてガウェインの異常に気付いた時臣の叱責が飛ぶ。

「ぐっ……はぁ──!」

 それでもガウェインは押し返せない。剣先の乱れた一閃は敵を捉える事叶わず、返す刀で迫る黒刃をどうにか防ぎ切るだけ。先程までの力強さは見る影もなく、王の片腕と称された男とはとてもではないが思えぬほどの凋落。

 夜に輝く日輪は、深き闇に覆われその煌きを曇らせる。

「…………」

 なんだ、一体何が起きている……?

 セイバーをも圧倒したガウェインがこれほどに一方的に攻め立てられる事になるとは予想だにしなかった。更にはその原因が不明となれば尚更だ。

「……分が悪い、か」

 この夜の一幕はまだ緒戦。戦力確認を含めた互いの顔合わせに過ぎない。この一戦で敵を討ち取れるとは思っていなかったし、討ち取るつもりも毛頭なかった。
 こちらが必殺を期せば相手もまた必殺をもって応えるのは道理。それは余りにリスクが高く、こんなところで及んでいい事態ではない。

 ガウェインの戦力は充分に把握が出来た。彼に起きている異常についても後々問い質せばいい。まずはこの場を一旦退く。そう決めた時臣に────

 ────これまで沈黙を貫いていた、魔術師殺しが牙を剥く。

 誰もが白騎士と漆黒の騎士の戦いとその異常性に目を奪われていた裏で、衛宮切嗣は一人隙を窺っていた。これまで決して切嗣から目を離さず、警戒の網を張り続けていた時臣が気を逸らす瞬間を。

 セイバーを圧倒したガウェインを上回る存在に気を取られたその一瞬──夜陰に紛れるように身を低くし、最速でもって射程圏内へと駆け出していた。

「……っ!」

 時臣が気付く。手にした杖に象眼されたルビーが煌く。だが遅い。既に切嗣は魔銃を抜き放ち、その顎門を向け射線に捉えている。
 指先に掛かる引き鉄。後はそれを絞れば必滅の魔弾が繰り出される────

「……ダメですっ、マスター……!」

 引き鉄を引き絞るその直前、セイバーは遥か頭上──対岸に聳える摩天楼の頂点に輝いた赤い光を見咎めた。夜に煌く人工の明かりなどではない、目視した瞬間に背筋を凍らせるほど凶悪な魔力の高鳴り。
 それを視認出来たのはセイバーだけがこの場で唯一全てを俯瞰出来る立場にあったからであり、反応出来たのは彼女が最優のサーヴァントであったからに他ならない。

 夜を劈く金切り音。
 闇を引き裂く箒星。
 地上へと墜落する、遥か彼方より降る赤き流星。

 キロメートル単位を優に超える超遠距離からの狙撃。音をすら置き去りにする超音速で放たれた“矢”を、セイバーは必死のスタートダッシュから瞬時に最高速へと至り、そのまま全速力で駆け、マスター目掛けて降り注いだ凶星を間一髪で迎撃する。

「……ッ!」

 手に伝わる衝撃を噛み殺す声は響き渡る轟音に上書きされ、剣と矢との衝突は大気をも震わせ、白と黒の騎士の戦場を風嵐が荒らし猛り狂う。余りの余波に両者も剣を止め、共に天を仰ぐ。

 咄嗟の事で不十分な体勢での迎撃を余儀なくされたセイバーでは、余りある威力と勢いを完全には殺し切れず、剣で逸らす事が精一杯。
 風王結界を削りなお速度を落とさぬまますぐ傍を擦過して行った矢は、その捻れ狂う竜巻めいた余波で彼女に明確な傷を刻み込む。

「ぐっ……マスターっ!」

 不意の一撃により脇腹を抉られた格好のセイバーは、それでも状況を見誤ってはいなかった。
 壊滅的な威力を秘め、放たれた一矢。それだけ射手はこの一撃に魔力を注ぎ、一瞬の好機を窺っていた。次弾があったとしても、これだけの威力をもう一度込めるには相応の時間が必要。

 敵は“弓の英霊(アーチャー)”。見咎めた姿は遥か彼方。この距離は弓兵の間合いであり、剣士でしかないセイバーには為す術がない。時を置けば次弾が放たれるだろう。認識した以上撃ち落とすつもりではあるが、痛手を負った状態では防ぎ切れない可能性がある。
 遠隔攻撃を得手とする弓兵を相手に射手の間合いで戦う不利は、戦場に慣れている切嗣も良く知っている。

「……退くぞ」

 決断は一瞬、指示もまた簡潔。右手に引き鉄を終ぞ引けなかったコンテンダーを携えたまま、切嗣は左手でコートの裾より発煙筒を取り出しピンを引き抜き放り投げた。一瞬にして煙は辺りに充満し、誰もの視界を閉ざす。

「ガウェイン……!」

 時臣にとってもこれは好機。このまま漆黒の騎士と対峙し続ける意味はない。この場は一旦退き態勢を整える。いつ次弾が来るかも分からぬ現状で白煙に乗じて時臣を害そうと考えるほど魔術師殺しは愚かではない。

 戦場を白煙が覆った時点で既に離脱している筈。こちらも深追いする気は欠片もない。アインツベルンに遅れる形で時臣もまた離脱しようとしたが──

「GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA……!!」

 吼え狂う凶獣はそんなもの一切お構いなしとばかりに白靄の中で剣を振るう。射手を見たのは僅か一瞬、弓兵を敵ではないと見て取ったか、あるいは別の何かか。理由が不明ながら漆黒の騎士はまたしても白騎士に刃を向ける。

 弾け飛ぶ火花。裂帛の一撃を辛うじて受け止める聖剣。未だ視界を奪われているというのに、どういうわけか獣は完璧にガウェインの位置を把握している。
 もしここで白騎士が先に霊体化を果たせば次に狙われるのは時臣だ。故にガウェインは向けられる剣に応えるしかなく。

「チィ……凛……ッ!」

 正調の魔術師はこの場にいない少女の名を叫ぶ。
 刹那、再度降る赤い星。

 先の凶弾に比べれば幾らも格を落とす威力ではあったが、如何にサーヴァントとはいえ無防備に喰らえばただでは済まない威力が秘められた矢が再び夜を貫く。今度は、バーサーカーに向けて。

「ァア──!」

 白煙ごと飛来する凶弾を切り裂く黒刃。激突は一瞬、セイバーのように逸らすのではなく完璧に迎撃し無力化する。
 一瞬とはいえバーサーカーの意識が逸れた以上、時臣らの撤退を阻むものは何もない。

 矢を撃墜し凶獣が振り返ったところには既に人影はない。切り裂かれた白煙が晴れた後に残ったのは、戦闘の爪痕と行き場を失くした憎悪を迸らせる漆黒の騎士のみ。

「Arrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr……!」

 遠吠えにも似た咆哮。それは一体何に向けたものなのか。誰も知る者はなく、此処に一つの戦闘が終わりを告げた。


+++


 新都の中心に聳えるこの街で最も背の高い建造物──センタービル。その屋上、地上よりもなお強い風が吹き荒ぶ天と地の狭間に、一組の主従の姿があった。

 黒の髪を左右に結わえた少女……遠坂凛。彼女の瞳は冬の風にも劣らぬ冷徹さで眼下を見据え、対岸にある公園で行われていた戦闘の一部始終を把握していた。

 彼女の傍らには赤い外套を羽織った銀髪の弓兵。左手には光沢のまるでない黒塗りの弓を持ち、今し方矢を放ったのか、右手には何も握られないままの矢を放った姿勢で硬直していた。

「ふむ……どうやら君の父君は無事戦場を離れられたようだな」

 言葉と共に弓を下ろす。黒塗りの弓は夜の闇に溶けるようにして消えていった。

「そう」

 少女の返答は無機質だった。声に感情はなく、音には色がない。まるで自らの不始末を恥じているかのように、この赤い従者を招いてからの彼女はより心を冷ややかなものとしていた。

 それも当然、彼女にとっても誤算の連続。本来彼女が招来しようとしたサーヴァントは父が収集した触媒の中でも選りすぐりの一つを用いた黄金の君。遍く英霊の頂点に位置する王者である筈だった。

 召喚には一切の不備はなく、粗さえも見当たらなかった。完璧と呼んで相違ない入念な準備の上、父の期待を背負い行った召喚は、意中のサーヴァントを引き当てることが出来なかった。

 今、傍らに立つ弓兵は彼女──遠坂凛の喚び出そうとした黄金とは異なる者。

 何が原因でこの赤き弓兵が招かれたのかは分からない。何故黄金の君が凛の呼び声に応えなかったのかは永遠の闇に葬られたまま。
 凛は己の喚び出したサーヴァントと共に十年遅れの聖杯戦争を勝ち抜かなければならなくなった。

 予めこのセンタービルの屋上に陣取っていたのは彼女もまた己のサーヴァントの力量を把握する為だ。
 太陽の騎士を補佐に、最強を誇る黄金の君が全てを駆逐する策謀は彼女の失態によって無為に落ちた。父は落胆こそしたが、それでも現状考え得る最善手を実行する為に自ら戦地へと赴いた。

 その背を支える為の配置。騎士の戦場からは遠く離れた弓兵にだけ許された独壇場。その場にて戦力を確認するのが彼女の今宵の役目。
 父の落胆を払拭し、アーチャーの実力を確かめる為の試運転。自身の名を思い出せないなどと嘯く英霊崩れにせめて力量を披露させようという凛の思惑だった。

 遠く公園での戦闘も終了し、その場へと横槍を入れる形になったが、凛にとって見ればアーチャーの狙撃能力は良い意味で予想外のものと言えた。センタービルから対岸の海浜公園までは優に四キロメートルを越える距離がある。

 時間を掛け魔力を込め、照準を狂いなく合わせるだけの優位と猶予があったとはいえ、それだけの超遠距離でありながら、針の穴をも通す精確さでセイバーのマスターだけを射抜く一射を放って見せた。

 結果だけを見れば捕捉した標的を撃ち抜けず、最優の剣士に阻まれはしたものの、相応の痛手を与える事には成功した。
 何よりセイバーを相手にダメージを与えられたという事実は大きい。素性の不明なサーヴァントにしては上々とも言える結果だ。

 記憶がないと憚っておきながら、宝具にも匹敵する威力の矢を惜しみもなく使いこなした事に不信感も増しているが、アーチャーが使える駒である事は間違いない。ガウェインとの連携をより綿密に行えれば、脅威の戦力になるだろう。

「凛、今夜の戦闘はこれで終わりだ、我々もこの場を離れよう。留まり続ければあの狂犬はこちらまで襲って来かねん」

 誰もいなくなった海浜公園の中心で吼え狂う黒き騎士。バーサーカーであるが故の制御不能状態なのだろうが、流石にここまで追ってくるとは思えない。が、万が一がないとも限らない。

 わざわざ敵が消えるのを待ってから離脱する必要もない。アーチャーの戦力を確認し、時臣の背を援護するという目的をも果たし、父もまた戦場を去った以上この場所に長居する理由もまた、ない。

 弓兵にとって懐は射程外だ。その距離まで詰め寄られた時点で詰んでしまう。この赤い騎士を効率良く運用しようというのなら、それなりの策を練るべきだ。幸いにして近づけさせない為の壁はある。一度屋敷に戻って父と話をしておくべきだ。

「分かったわアーチャー、一旦戻りましょう」

 言って、凛は屋上の縁へと足を掛けそのまま戸惑いもなく空中へと躍り出る。身を攫う強風の只中へ、地上二百メートル近い高さからの無謀なまでの落下。余人が見れば自殺としか受け取れない墜落。

 しかし魔術師にとってこの程度の高さなど大したものでもない。質量操作、重力軽減、気流制御。幾らでも着地の衝撃を減らし、命の危険をゼロにする手段はある。
 今回の墜落に限っては凛はそのどの魔術も使用せず、アーチャーに全てを預けた。共に夜に飛び込んだ赤い弓兵は少女を支えるように傍らに侍り、言われるまでもなく着地時のアシストを行うつもりでいた。

「…………」

 地上と空の狭間。星の光の届かない(ソラ)で着地までの数秒にも満たない時間、人がその死の間際に見るという走馬灯のように刹那を永遠に偽装して夢を見る。

 唯一つの願い。

 世界の果てに至って絶望を味わった男の荒唐無稽な願いはこの世界では果たされない。目的とした場所とは余りにかけ離れた場所。近くて遠い鏡の世界。胸に抱いた希望は、傍らの少女と出会った瞬間に瓦解した。

 磨耗した心に響いた少女の名前。雷光の速度で全てを思い出した後、その違和感と差異に気付き言葉を失った。顔には出さず態度にすら見せなかったが、内心は嵐のように渦巻いてメチャクチャだった。

 冷徹な魔女。血の通わない魔術師。それは男の知る少女ではない。そう振舞いながら、心の芯に人としての情を宿していた少女はいないのだ。

 胸に芽吹いた希望を一瞬で覆い尽くす絶望。神さまがもし本当にいるのなら、余りにも酷いその仕打ち。
 万分の一に満たない確率に賭けた祈りは果たされず、寄る辺となる少女は最早別人。あまつさえ先程対峙した敵は、この男にとってもっとも縁の深い二人。

 皮肉という言葉では済まされない。たった一つ胸に抱いたこの祈りは、こんな仕打ちで返されなければならないほどに悪辣で傲慢だとでも言うのだろうか。これまでの生き方を、否定する事さえ許されないというのか。

 この何もかもが違ってしまった世界で。
 この己は、一体何の為に剣を振るうというのか。
 誰の為に剣を握るべきなのか。

 ……今はまだ答えは出せない。
 ならば自身に課された役目を全うする事こそが目先の目的。

 それでも。
 こんな世界でも、もし己に成せるものがあるとするのなら……。

 赤い主従は夜の闇の中に姿を消す。
 それぞれの思惑もまた闇の中に消え、今はただ深海に沈んだ街と同じく、深く深く沈んでいった。













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