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scene.06












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 間桐臓硯がアインツベルンの森に姿を現したのは、昨日バゼット一行が撤退したその少し後の事だった。
 たった一人で魔女の森に踏み込みながら、その姿は悠々としたもので、気負いも緊張も感じられない様のまま、結界を越えた辺りで周囲を睥睨し喉を鳴らした。

『聴こえておるのだろうアインツベルン。こちらに敵意はない。古き盟友と少々話をさせて貰いにわざわざ足を運んだのだ、まさか無碍にはすまい?』

 間桐の大老。五百年を生きる老獪なる妖怪。間桐臓硯の良からぬ噂を少なからず耳にしていた切嗣にしてみれば、水晶球の向こうに見える老骨は斬って捨てて当然の存在。話を聞くことすら不要だ。

 ただ、現在の状況がそれを許さない。バゼット一行を撃退し、遠坂凛のサーヴァント──アーチャーによる予想外とも言えた狙撃によって少なからずキャスターはダメージを負っている。この森が彼女の工房である以上、数時間も休めば回復する程度のものだが、逆を言えば数時間分の猶予を稼がれた。

 その為にバゼット達を取り逃がし、遠坂との接触を許してしまった。勝利を勝ち取る上で最上の舞台に敵を引き入れてなお逃した不始末は、今もって尾を引いている。

 間桐臓硯がわざわざこのタイミングで、間隙とも言うべき瞬間を狙いアインツベルンに接触を図ったのも偶然ではない。偶然である筈がない。

 マスター権を所持していない部外者。御三家に連なる者であろうとも、輪の外にいる筈の翁。けれどこの老獪は虎視眈々と聖杯を狙っている。自らが送り出した二人のマスターを手繰り、他の参加者全てを轢殺し聖杯を掴もうという意思が透けて見える。

 今まで裏に潜んでいたこの男が表舞台に姿を見せたのは、それだけの理由があるに違いない。間桐雁夜や間桐桜では叶わぬ一手を楔として打ち込む為に、こんな僻地へと足を運んだのだ。

 事実、ここで臓硯を無碍にしては先の展開がある一つの結末へと収束する。つまり──アインツベルンを除いた三勢力による結託。森の結界を有し現在優位にある切嗣らに対して包囲網を敷かれてしまう可能性が極めて高い。

 如何にセイバーの能力と魔女の結界があろうと、サーヴァント六騎を相手に回して勝ちを拾えるなどとは驕れない。セイバーと同等以上の力を有するガウェインやランスロット、未だ正体すら不明なサーヴァントもいる。これだけの敵を相手にしては、単純な物量、力で押し切られてしまうだろう。

 遠坂とバゼットの同盟が考えられる以上、残る一勢力である間桐はその身の振り方を如何様にも変える事が出来る。静観も、何処かに組するも胸先三寸。現状はどう足掻いてもこの翁の掌の上。バゼット達を逃がしてしまった以上避けられなかった展開だ。

 間桐臓硯の用件は恐らく、切嗣の想像の通りのものに違いはあるまい。何を画策しアインツベルンの手を取ろうというのか、その真意までは流石に見通せないが、相手の掌の上で踊るなんて真っ平だ。

 これまで戦端を率先して開き、主導権を握り続けてきたのはそれが最も効率的に戦いを優位に運べると計算してのもの。であるのなら、此処で他人に、ましてや切嗣に数倍する年月を生きた化生といえど、体良く利用されるなんてのは御免被る。

 ……いいだろう間桐臓硯。おまえの掌の上で僕が踊っていると、思っていれば良い。踊らされているのが自身だと、気付かぬままに。僕は僕の思惑を成し遂げる為、おまえを利用させて貰う。

 斯くして。

 遠坂とマクレミッツの同盟に対抗するアインツベルンと間桐の協定が交わされた。

 四つに分かれた陣営は手を取り合い二つとなり、四人と四人のマスター、四騎と四騎のサーヴァントに分かれ、人の立ち入らぬ仄暗い森の中で、広大な森の闘技場にて、今まさに雌雄を決さんと激突していた。


+++


 森を疾走する一つの影。夜霧が閉ざす森の中を、鋭敏化した感覚と研ぎ澄まされた集中力でノンストップのままにバゼットは駆け抜ける。
 追っ手はない。妨害もない。彼女の道行きを邪魔立てする全てのものは後ろに残してきた者達が引き受けてくれた。

 森の突破とはすなわち城の陥落。城主であるキャスターのマスターを討てば、それでこの一戦は終わりを告げる。
 未だ姿を見せぬ魔術師殺しが気には掛かるが、より強大な敵を引き受けてくれた皆の為にも、単独で城を攻め落とすとバゼットは森の中心へと急ぐ。

 やがて遠く霞む夜の向こうに黒以外の色を見る。木々の天蓋よりも高い白の尖塔。そのままラストスパートとばかりに地を蹴り上げ、駆け抜けた先、開けた空間に屹立する古城を捉えた。

 古めかしい白の城壁。天を衝く異様。御伽の世界に紛れ込んだと錯覚するかのような、中世に実在した本物の城をバゼットは見上げる。
 その威容はアインツベルンの権力の誇示だ。手を取り合いながらも決定的に敵同士であった遠坂や間桐と己達は違うのだと、聖杯を手に入れるべきなのは自分達なのだと見せ付ける為だけにこの城は移築された。

「……プライドも、ここまで見栄を張ればある種の畏敬を覚えてしまいますね」

 ふぅ、と僅かに乱れた呼吸を正し、バゼットは革手袋をきつく絞る。今まさに目の前に聳え立つものこそが敵の本拠地。立っている場所は敵の膝元。いつ何処からどんな手段で不意を打たれるか分かったものではない。
 張り詰めらせていた緊張の糸をなお引き絞り、覚悟を抱いて一歩を踏み出す。

 見渡す限り、特に異常と思えるものは何もない。霧も薄く掛かってはいるが、後方の戦場ほど濃くはない。
 城への侵入経路も幾つか考えられるが、バゼットは迷う事無く城門、巨大な正門へと足を向けた。

 どうせ此処まで足を踏み込んだ事は知られている。変に機転を利かせても恐らく意味はない。であれば、堂々と真正面から踏み込み城の主を討つ。それが最も手っ取り早いと確信しバゼットはいよいよ門を開いた。

 重く軋む扉を押し開けた先、目に飛び込んできたのは広大にして絢爛なエントランスホールだった。

 白磁で統一された内装。華美(いやみ)にならない程度に設置された装飾品。足元から伸びるレッドカーペットはホール中心を貫き、その先にある大階段へと届いており──

「ようこそ、アインツベルン(わたし)の城へ。歓迎するわ、協会の魔術師さん」

 その最上段に二人の侍従を侍らせた、赤い目をした年端もいかぬ少女の姿を見咎めた。

「貴女がキャスターのマスターですね」

 ふわりとスカートの裾を摘み、恭しく歓迎の挨拶を述べた少女に対し、バゼットはホールの中ほどまで歩みを進めながら、簡潔にして無機質な声音で問い質した。
 少女は己の挨拶を無視されてなお柔和な笑みを崩さず、城主としての厳かな声を響かせ名乗りを上げた。

「ええ。アインツベルンのマスターが一人──イリヤスフィール・フォン・アインツベルンよ。どうぞお見知りおきを」

「私の所属を知っているのなら当然素性も調べてあるのでしょうが、名乗られたからには名乗り返させて貰いましょう。バゼット・フラガ・マクレミッツです。貴女の命を頂きに参上した」

「ふふ──正直なのね貴女」

「ええ。回りくどいやり取りは好みではありません。無駄話に興じる趣味もない。早速で申し訳ありませんが、その命──刈り取らせて貰う」

 胸元の高さに硬化のルーンを刻んだ拳を構える。ボクシングスタイルのような構えと共に戦闘態勢に入ったバゼットに呼応してか、イリヤスフィールの傍に控えていた二人の侍従の内の一人が、無言のまま主を庇い立つように踏み出した。

 その手には巨大な金属の塊。斧と槍の特性を併せ持つ斧槍(ハルバード)
 旧時代の武装だが、身の丈を超える鉄塊を軽々と持ち上げ振るう能面の侍従は、易い相手ではないとバゼットは直感する。

 庇われた格好の主──イリヤスフィールは明確な敵意に晒されてなお赤い瞳と口元に無邪気な笑みを絶やさない。まるで獲物を嬲る猫のようだ。

「正直なところ、私の戦闘能力じゃきっと貴女には敵わない。だからリズ(これ)を卑怯だとは言わないでくれると助かるわ」

「元より尋常な決闘など期待していませんので。これは命を賭けた戦い、戦争だ。勝つ為に手段を選ばないのはむしろ当然の行い。敵の優位が確立している場所に踏み込んだのはこちらだ、劣勢は承知の上」

 その上でなお勝ちを奪い取る。その為に此処まで来たのだ。

「そう……じゃあ少し遊んであげなさい、リズ」

「ん」

 短い返事とコクリと頷き、ハルバードを携えたリズと呼ばれた侍従が跳んだ。二階ほどの高さから、エントランスホール中心に立つバゼット目掛けて襲い掛かる。
 頭上に揺れるシャンデリアに届かんとする程の大跳躍と、全身を弓なりに絞ってからの全霊での振り下ろし。バゼットの脳天をかち割るばかりか頭の天辺から股下までを一刀両断にせんとする無慈悲な一撃。

 それを、

「ふっ────!」

 軽やかなステップ。見え見えの敵の攻撃を容易く回避する。大理石の床へと叩きつけられた鉄塊は易々とそれを砕き、破片を周囲に撒き散らしながら下手人は着地する。
 着地の隙、一瞬の硬直による隙間を縫うように、後退したバゼットは即座に踏み込む足に力を込め、敵の懐へと潜り込む、

「……ッ!!」

 つもりであったが、敵の常識外の行動──深々と大地を抉った筈のハルバードを無理矢理に引き抜きながらの薙ぎ払いを見咎め、間一髪で踏みとどまった。
 自らが生み出した破片と土煙を薙ぎ払い、白の侍従は無機質な瞳を敵手に向けた。

「…………やはり、ホムンクルス」

 人の身では叶わない、無理な駆動を可能とする体構造。サーヴァントにも匹敵する人外の膂力。色のない瞳。感情の欠落した表情。
 恐らく戦闘用に調整された弊害か、イリヤスフィールの傍に立つもう一人の侍従には見える生気(いろ)がこの敵からは感じられない。

 無機質な、ただ主の命を遂行するだけの人形。主の生命を守護する為に鋳造された人工生命。より深く接すればまた違うのかもしれないが、現状そう捉える他にない程度には目の前の敵は機械めいていた。

 アインツベルンは錬金術の大家。その産物であるホムンクルスとは一度、かつて戦った事がある。廃棄予定だったホムンクルスに、当時未熟だったバゼットの腕を差し引いても苦戦を強いられた。

 目の前のホムンクルスは以前のそれとはレベルが違う。
 戦闘を行う事を前提として造られたこのホムンクルスは恐らく、以前対峙したものより数段強力であると予測が出来る。

 更には背後にもう一人と、キャスターを従え、この森の結界を維持構築させるだけの供給力を持つマスター。その実力は未知数だが、侮っていいものではあるまい。

 味方の援護は期待出来ない。此処までの道を開いてくれただけでも充分すぎる働きを彼らは見せてくれた。であれば、目の前に如何なる困難があろうとも、打ち破り勝利を持ち帰るのが己の務め。

「ホムンクルス。貴女に恨みはありませんが、邪魔をするというのなら壊させて貰う」

 肩に掛けたままだったラックを放り、身軽となった身体で再度構えを取る。巻き上げられた土煙の晴れた視界の先、片腕でハルバードを操る人形が、言葉を発する。

「させない。イリヤは、わたしが守るから」

 言葉少なに、されどその言葉に宿る言霊は本物。人の身ではない人を模しただけの人形であれど、彼女にもまた意思というものがある。
 聖杯戦争とは他者の願いを、他者の祈りを踏み躙り、礎に変えて天に輝く杯へと手を伸ばすもの。マスターではなくとも、立ち塞がる敵を打ち砕く事に戸惑いを抱くなどあってはならない。

 何よりスイッチの入ったバゼットもリーゼリット同様の戦闘機構。目の前の敵を粉砕するだけの機械となる。
 そこに同情の余地はなく。それでも主を守るという意思(ねつ)を宿す彼女に敬意を評し、全霊で以ってこの障害を突破する。

 森の最奥にて行われる最後の戦い。
 その火蓋が今、切って落とされた。


+++


 振るわれる刃は旋風。触れる全てを断つ鉄の檻。長大なハルバードを軽々と振るい、エントランスホール中心でリーゼリットは踊る。
 対するバゼットは足を使って周囲を駆け回り、懐に潜り込む隙を窺っている。

 二メートル近くもあるハルバードとただの拳。二人のリーチには決定的に差がある。遠隔からの攻撃手段を持たないバゼットは、どうにかしてハルバードの間合いに踏み込まなければ勝機はない。

 得物が長く大きい分、一回の攻撃に掛かる時間と引き戻しに必要な時間は増す。その為攻撃後の隙を衝いて接近を試みるバゼットであったが、幾度目かの失敗を経て、少しばかり距離を取った。

 人外の膂力で鉄塊を振るうリーゼリットには、本来ある筈の硬直がない。いや、僅かではあれ硬直はあるのだろうが、バゼットをして付け入る隙が見出せない程にリーゼリットの動きに余分が見られない。

 ホムンクルスとしての長所──人と似た構造でありながら、決定的に違う形ゆえの、人には限られる動作の制限を撤廃されている。痛みを伴う捻転も痛覚を排せば意味を為さず、反射をすら凌駕する機能を以って肉体は駆動する。

 封印指定の執行者として人の域を逸脱した魔術師を幾人も相手にしてきたバゼットだが、純粋に人を上回る性能を有する敵と拳を交えた数はそう多くない。その手の役目は執行者よりも教会の代行者の専門だ。

 ……やりにくい相手ではありますが、全く勝機が見えないわけではない。

 例えるのなら、リーゼリットは擬似的なサーヴァント。人の創造の域に収められた劣化サーヴァントだ。
 神域に立つ英雄(かれら)は余りに遠い存在だが、目の前の存在はその模倣。幾つもの機能を制限した上で獲得した超常性。付け入る隙は必ずある。

 唯一懸念があるとすれば、未だ沈黙を保つ階上の二人。三人掛かりで仕掛けられてはさしものバゼットも危ういが、何を思ってか彼女達は階下の戦闘を見守るばかりで何も仕掛けて来ない。

 侍従の方は冷徹な視線で階下を眇めており、少女の方はにこやかな笑みを崩していない。

「あら、どうしたの? もう抵抗はやめたのかしら。それとも、私達が気になって集中出来ない?」

 バゼットの思惑を見透かしクスクスと笑う無邪気な少女。此処が戦場でなければそれは微笑ましい光景なのだろうが、今に限ればその無邪気さは、何処か空恐ろしささえ感じる場違いなものだ。

「安心していいわバゼット。貴女がリズを突破しない限り、こちらからは手を出さない。せっかく足を運んでくださったお客さまだもの、簡単に(つぶ)しちゃったら、もったいないじゃない?」

 邪気のない笑い声がホールに響く。無邪気ゆえの無垢さが、酷く心を逆撫で爪弾く。

「…………」

 意図の見えないイリヤスフィールの言葉。城に踏み込んだ者を圧殺して余りだけの罠を仕掛けていると思っていたバゼットにとって見れば、少女の言葉も現状も拍子抜けもいいところだ。

 何が狙いかは分からないが、イリヤスフィールは遊んでいる。バゼットを侮っている。あるいは、リーゼリットに篤い信頼を寄せているのか。

 いずれにせよ好機には違いない。敵の言葉を鵜呑みにするつもりはないが、それでも一対一の状況で負けるようであればどの道先はないのだ。何としてもリーゼリットを突破し、イリヤスフィールに王手を掛けなければならない。

「状況は再確認しました。ではイリヤスフィール、一つ宣言をしましょう。次の攻防で私はリーゼリット(かのじょ)を突破します。畏れるのであれば、三人掛かりで仕掛けて来ても一向に構いませんが?」

「────」

 少女は沈黙し赤い瞳を細めた。戦闘が始まってまだ数分。互いに様子を窺う程度の接触しか果たしていない。
 それだと言うのにバゼットは憚った。もう攻略の糸口は見つけたと。リーゼリットを退けイリヤスフィールにこの拳を叩き込むのは、何も難しいものではないのだと。

「へえ──言うじゃない」

 無邪気だった視線に明確な敵意が滲む。
 遊んでいるのはこちらのつもりだったというのに、遊ばれていたとも取れる挑発を差し向けられて少女は酷く苛立ちを露にした。

「いいわ、その安い挑発に乗ってあげる。リズ、手加減は不要よ! そいつの頭をかち割りなさい……!」

「了解」

 突風の如き踏み込みからの大上段。大きく振りかぶったハルバードは力任せに大地へと叩きつけられる。
 触れれれば命を丸ごと刈り取るだろう凶刃を跳躍によって躱し、先と同じように硬直すらなく再度薙ぎ払われるハルバードを、

「っあぁ……!!」

 身を低くしてからの、伸び上がりと共に繰り出されるアッパーカット。硬化と強化の相乗が重ね掛けされたバゼットの拳が捉えたのは、斧槍の斧の部分。唯一表面積の広い斧の側面を、下から叩き上げるように撃ち貫いた。

「…………ッ!?」

 ハルバードの重心は先端にあり、遠心力で薙ぎ払いを放ったリーゼリットはバゼットの渾身の一撃によりその体幹、重心をずらされた。
 本来回避されてもそのまま手元に戻ってくる筈の刃は堰き止められ、足は俄かに浮き足立つ。

 その一瞬、外せば首が飛ぶ覚悟を以って敵の得物を弾き飛ばしたバゼットは、重心が崩れ踏鞴を踏むリーゼリットの懐へと──己の間合いへと踏み込み、

「ふっ────!」

 人体の急所の一つ、鳩尾を正確に撃ち抜いた。

「っ、ぁ……!」

 声にならない音を発しリーゼリットが舞う。
 人と違う構造をしていようと、無防備に胸の中心を高速の鉄塊で強打されたも同然のバゼットの拳に打たれては抗う術はない。

 壁面を叩きつけられたリーゼリットを尻目にバゼットは一直線に大階段へと向かう。

 元よりバゼットの目的はリーゼリットを斃す事ではない。あくまでも本命はイリヤスフィール。キャスターの支配を封じる為にマスターを討つ事に他ならない。

 渾身の一撃を受けてなお絶命していないであろうホムンクルスを相手にしていては限りがない。イリヤスフィールにはリーゼリットほどの頑強さはない筈だ。であれば、その首を落とすのは鶏の首を刎ねるよりも容易い事。

 文字通り斃すのではなく突破したバゼットと、リーゼリットが攻略されるとは思ってもいなかったイリヤスフィール。両者の違いは明確で、階段に足を掛けたバゼットの行く手を遮るものはなく──

「私を忘れて貰っては困りますね」

 冷徹に場を俯瞰していたもう一人の侍女が、その行く手に立ちはだかる。

 とはいえ、彼女もまたリーゼリットとは違う、人よりも長けた知識を有するが故に脆弱な肉しか持たない本来の仕様に近いホムンクルス。
 如何に精緻で肌理細やかな魔術回路を有していても、それが魔術師と変わらぬものであればバゼットの土俵。

 簡易な詠唱で放たれた、極大の風呪の魔術。叩きつけるような暴風と切り裂くような大嵐を、前面に立てた腕で防ぎながら休める事無く前へと踏み込む。

 硬化されていた拳以外の腕の部分が切り裂かれ、スーツは愚か肌をすら蹂躙した風の刃を受けてなお、腕を血塗れしてなおバゼットは止まらない。一撃で命を奪い取る類のものでなければ気合と根性で耐え切れる。

「なっ……!」

 まさかそんな力技で自らの魔術を捻じ伏せられると思ってもいなかった侍女は、容易くその間合いに踏み込んだバゼットによって意識を刈り取られ地に伏した。

「後は──」

 視線の先、動揺から立ち直った少女を見据える。その時バゼット自身の後方、エントランスホールから瓦礫の崩れ落ちる音が聴こえた。
 それは吹き飛ばされたリーゼリットが、今一度立ち上がった証拠。主の危機に本能的に察し、先に数倍する速度で迫り来る。

 だが遅い。

 イリヤスフィールはバゼットのすぐ目前。二歩も踏み込めば届く距離。対して広大なホールの壁面へと叩きつけられたリーゼリットは、数メートル以上の距離がある。どう足掻こうが、それこそ転移でもしない限り届かない。

「流石にやるわね」

 バゼットが、己が命を刈り取ろうとする敵手を目前にしてなお、イリヤスフィールは揺るがない。柔らかな微笑みこそ消えたが、今の彼女の面貌に宿るのは冷ややかな色。口元だけが、僅かに吊り上っている。

「最後に一つ、教えてあげる」

 未だ余裕を崩さないイリヤスフィールに疑念を覚えたが、既に状況はチェックメイト。何かを口にしようとする少女を無視したまま、後方より迫る刃が届かぬ事を理解した上で、バゼットは無慈悲に、その拳を振り下ろす──

「私は聖杯よ────私を殺せば、聖杯は手に入らない」

「…………っ!?」

 ──つもりだった凶手が、事実振り下ろした拳が、イリヤスフィールの末期の言葉に、鼻先数センチで止まった。

「がっ…………」

 そして戦場に華が咲く。
 血の色をした赤い華が。

 それはバゼットがイリヤスフィールの頭蓋を砕き生んだものではなく。
 イリヤスフィールがその手にした、何の変哲もない針金がバゼットの身体を貫き、その背に赤い薔薇を咲かせていた。


/24


「バーサーカーと話がしたい……?」

 アインツベルンと間桐が同盟を締結させた夜の事。

 朝日と共に森へと踏み込んで来ると予測されるもう一つの連盟──遠坂・マクレミッツの同盟を迎え撃つ為、間桐家のマスターである雁夜と桜はアインツベルン城に逗留し一夜を過ごす予定だった。

 与えられた一室。客人用に設えられた、主の部屋にも見劣りしない豪奢な部屋で休息を取っていた雁夜の下に訪れたセイバーが唐突にそう告げた事に、彼が当惑を露にするのも無理からぬ話だ。

「冗談なら笑えない話だが……」

「いいえ、私はただ本当に彼と話をしたいのです」

 椅子に座した雁夜を見つめる誠実な瞳。背筋を伸ばし屹立したその様は、一枚の絵画のよう。狂いなく迷いなく、彼女こそ最優の英霊に相応しき者。それを体現するかのように、微塵の害意もなく少女は敵であるマスターと向き合う。

 本来ならば馬鹿げた話だと切って捨てるところだが、少女の揺るがぬ意思に気圧されたせいか、雁夜は嘆息と共に口を開いた。

「話になどならないと思うがな。アンタも知っての通り、俺のサーヴァントはバーサーカー──狂いの御座に招かれた英霊だ。
 狂化のランクはそう高くないが、言葉を発する事は出来ないし、理性にも制限をかけられている」

 隠蔽の宝具のお陰で雁夜以外誰もバーサーカーの詳細なステータスを窺い知る事は出来ないが、別にばれて困るものでもないと雁夜は一部の情報を開示した。
 バーサーカーの狂化のランクは『C』相当。魔力消費と能力上昇が高ランクのそれと比べて抑えられる分、完全に理性は剥奪されないが、複雑な思考が困難となり言葉を発する事が出来なくなる。

 通常、このランクでも並のサーヴァントならば雁夜のバーサーカーほど卓越した技を振るえなくなる。思考能力の低下は戦時の戦況判断能力の低下をも意味し、当然技の冴えを鈍らせる。

 一瞬の判断ミスが命を脅かす戦場において、それは余りに致命的な欠点。それを補う為の能力値上昇でもあるのだが、雁夜のバーサーカーにはその低下が効果を為さず、それがかつてセイバーやガウェインを苦しめた御業の正体だ。

 秘匿されたままのスキルの一つが、狂化されてなお彼の剣から冴えを奪わず、濁りさえも落とさない。理性を奪われてなお積み上げられた武錬に劣化などなく、生前最強を謳った騎士の剣技を完全に再現している。

 とはいえ、あくまでそれは戦闘状態に限定されたスキルだ。剣に曇りがなくとも、理性が低下している事には違いはない。

「そも話をしたいと言うが、バーサーカーは喋れないんだ。会話になどならないだろう」

「それでも良いのです。彼から完全に理性が消えていないのなら、私の声は届く筈だ。彼からの応えはなくとも、私の声に耳を傾ける事は出来る筈」

「そいつもどうだかな……。確かに声を聞き、理解するくらいは出来るだろうさ。だが問題は、バーサーカーが耳を傾けるかどうか。
 事実、今もアイツは狂い吼えている。目の前にアンタが現われて以来、まるで檻を引き千切らんばかりに暴れているんだ」

 現界の為のパスをシャットアウトし何とか抑え込んではいるが、気を抜けば意識ごと持って行かれかねない狂いようだ。
 それがバーサーカーの闇。畜生に落ちてでも果たしたかった復讐の想念の深さ。雁夜をして蒼褪める程の業。

「本当なら、今すぐ目の前から消えて欲しいくらいなんだセイバー。アンタが近くにいるだけで、こっちは酷く消耗を強いられる」

「ではなおの事話をしなければならない。そのような状態で明日、足並みを揃えて敵を迎え撃つ事など不可能でしょう」

「む……」

 同盟を結んだ相手がよもや主の手綱を振り切って味方を襲うような事態になれば、何もかもが台無しだ。せっかくの同盟が無為になるばかりか、布陣が崩れてしまえば一気に押し潰されかねない。それは雁夜も避けたい展開だ。

「……話をすれば、コイツを宥められるって言うのか?」

 相手にガウェインとモードレッドがいる以上、こちらも円卓の二人で迎え撃たなければ勝機はない。最悪令呪の使用で抑え付ける事も考えていた雁夜だが、使わなくても済むのならそれに越した事はない。

 今の雁夜にとって令呪はまさに命綱だ。一つの無駄も避けて行かなければ、聖杯には辿り着けない。

「それは話してみなければ分からない。試すだけの価値はあると思いますが?」

「…………」

 試した結果、駄目なら令呪の使用も考慮すればいい。セイバーが雁夜を罠に嵌めようとしていない限り、この交渉で雁夜が失うものはない。

「一つ、聞かせてくれ。これは、衛宮切嗣の発案か?」

「いいえ、私の個人的なものです。誰にも話していないし、誰の知恵も借りてはいません」

 清濁併せ呑む強かさはあるものの、この戦いに招かれた英霊の中で一、二を争う高潔さを持つセイバーだ、まさかその言葉が虚言である筈もない。
 これがあの外道や魔女の入れ知恵であるのならその思惑を勘繰り、裏を掻かれる憂慮を思い、切って捨てる事も辞さなかったが、本当に彼女個人の意思であるのなら乗るのもまた一興か。

「分かった。ただし、俺は責任を持てないぞ。現界を許した瞬間、アンタに襲い掛からないとも限らないんだからな」

「ええ、その程度は承知の上です。パスを繋いでくれさえすれば後はこちらでなんとかします」

「そうか……じゃあ好きにすると良い。ああ、流石に城の中は拙いだろう。やるなら外にしてくれ」

「了解しました、では先に向かいます。間桐雁夜──貴方に感謝を」

 軽く会釈をしセイバーは雁夜の前から立ち去った。
 雁夜自身もセイバーとバーサーカーとの間にあった……今なお残る因縁と確執をそれとなくは知っている。

「さて、どう転ぶか。バーサーカー……いやランスロット卿。おまえは一体、今何を想っている──?」

 答えはない。
 響くのは心に沁みる唸り声だけ。

 間桐雁夜の言葉はバーサーカーには届かない。
 同じ闇を共有しているだけの主と従ではその闇を晴らせない。
 闇の底に落ちた者に救いの手を差し伸べられるのは輝く星の下に立つ者の掌だけだ。

 ただ、それでも。

 救いを求めぬ者の手は、どうやっても掴めない。
 天に手を伸ばさぬ者の手は、誰にも捕まえられないのだ。

 雁夜は自ら奈落に落ちる事を良しとした。
 自身の救いを捨て、誰かの幸福を願った。
 その果てに、尽きぬ憎悪に身を焼かれると知っても。
 この想いは間違いではないと、今でもそう思っている。

 では、あの黒騎士は……?

 その答えは────


+++


 月と星だけが照らす森の中心。深い闇に囚われた荒野で、白銀の少女と黒の騎士が対峙する。
 吹き荒ぶ風は肌を裂くように冷たく。少女は消えない炎をその瞳に宿し、闇よりも濃い黒を見据えている。

 現界を許されて後、黒騎士は赤い瞳を輝かせて低く唸り続ける。手足に込められた力は傍から見ても分かりやすく、まるで号砲を待つスプリンター。きっかけが一つあれば、即座にセイバーに襲い掛かるのは明白だ。

 対する少女は改めて黒く染まってしまったかつての同輩を見やり、その柳眉を顰めた。輝かしき栄光を手にした誉ある騎士の余りに変わり果てた、痛々しいまでの姿。人の心の分からぬ王と謗られた彼女であっても、その悲痛は理解が出来た。

 何せ彼が、ランスロットがあんな姿になってしまった原因は己自身にあるのだから。彼を苦しめ、悩ませ、追い詰めたのは、他ならぬ自分であるのだから。

「ランスロット卿」

 心を鎮め、胸に手を置き静かに風に言葉を乗せる。

「どうか、私の声に耳を貸して欲しい」

「Arrrrrrrrrrrrrrr……!」

 そうセイバーが口にした瞬間、黒騎士は大地を蹴り上げ一気に間合いを詰め、手にした漆黒に染まった剣を少女へと叩き付けた。

「ぐっ……!」

 セイバーは不可視の剣を呼び出す事なく、クロスさせた手甲で斬撃を受け止めた。黒騎士の一撃は非凡なるもの。たとえそれが彼だけに許された剣でなくとも、セイバーの防御の上から数歩分をも後退させるくらいの威力を伴っていた。

 それは言葉を発せぬ黒騎士からの返答。貴様の声に耳を貸すつもりなどないという、明確なまでの拒絶の意思。それでもセイバーは、めげる事なく声を上げる。

「今更許しを請うつもりはありません。膝を屈し頭を垂れ、その剣に貫かれれば貴方の積年の恨みが晴れるのだとしても、私は此処で斃れるわけにはいかない」

 止む事なく繰り出される刃の雨。一太刀一太刀に込められた憎悪はセイバーの芯を崩さんとばかりに無慈悲なまでに叩きつけられる。
 それでも少女は剣を手にし応戦しようとはしなかった。されるがままに剣を受け、身を固め防御に徹し変わらぬ声音を吐き続ける。

「私にはまだ為すべき事がある。恥も外聞も金繰り捨て、今にも頽れてしまいそうな膝を叱咤し、無様にこうして貴方の剣を受けているのには、理由があるのです」

 尽きる事のない斬撃に白銀の手甲が軋みを上げ、悲鳴を上げ、こそげ落ちていく。破壊された端から魔力を回し修復し、繰り返される暴挙に耐え続ける。
 聖剣を手にすれば避けられる魔力消費の無駄を厭わず、自らに戦意はないのだと証明するかのように、ただただ少女は耐え続ける。

「Ar……thur……!」

 黒騎士の喉奥から搾り出した声。己の名を忘れ、矜持を忘れ、ただ復讐を果たす為だけに駆動する獣と成り果てても、彼にはまだ僅かに残る理性がある。
 意味を為さない文字の羅列。本能が叫んだその名こそが、彼に灯る理性の火の証明に他ならない。

 だがそれも一瞬の事。目の前の誰かが己が想いの矛先だと過たず認識する為のものでしかなく。事実振るう腕に込められた力には一切の容赦はなく、繰り出す斬撃には躊躇というものが見られない。

 かつて仕えた聖君、理想の王に抱いた畏敬も礼賛もなく。朋友と呼んでくれた彼女への信頼も誇りもないままに。ただ身を焦がす憎悪に任せ、目の前の敵を切り倒さんと黒騎士は剣を振るい────

「ランスロット──どうか貴方に聞いて欲しい。私が聖杯を求める理由を。この胸に抱いた祈りを」

「……っ!」

 ────止む筈のない剣の雨が、その言葉によって堰き止められた。

「Arrrrrrrrr……!」

 次の瞬間には、暴威はより強大に吹き荒れ蹂躙を再開する。

 一瞬とは言え止まった斬撃。それが何に起因するのかはセイバーには分からない。分かるのは、バーサーカーに己の言葉は届いているという事。獣と化した彼の心に、まだ響くだけの想いがある。

 ならば謳おう、誰にも理解を求めないと誓った、この胸の祈りを。
 ならば告げよう、己に課した王としての最後の責務、黒騎士の心の迷いをすら晴らす願いを。

 そして求めよう。
 贖罪は遠く、罰は道の果てに。
 聖杯の頂に至り全てを叶える為、あの惨劇の丘の上で夢見た、唯一つの救いを。

 鎧は砕かれ、手甲は削がれ、肉体に傷がついてない箇所はない。最強の暴威を相手に防御に徹したとはいえ、晒され続けたその代償は余りある傷を彼女に刻み付けた。
 流れ落ちる血を構わず、切り裂かれていく肉体を厭わず、遂には胸板を守る板金をすら粉砕されてなお、一秒後の死を認識してなお、少女は剣を執る事はなく。

「──────」

 ただ──少女は語る。

 胸に抱いた荒唐無稽な祈りを。
 歪な形をした願いを。
 高潔にして公正な王が、その今際のきわに願ってしまった、全てを裏切るにも等しい救済の夢を。

 いつしか剣戟の音は止み、夜の森を渡る冷たい風の音だけが木霊する。軋む木々の音は誰も耳朶にも届く事はなく、少女はただ訥々と胸の内を語り、騎士は蒸発した理性で末期の祈りを聞き届けた。

「ァ……ァァア……!」

 狂える獣が戦慄いた。無防備に胸を晒す怨敵を前に振り下ろす事が叶わぬばかりか、手にした剣は滑り落ち、大地へと打ち付けられて、からん、と乾いた音が響いた。
 黒く染まった剣はバーサーカーの手を離れた事で憎悪の黒と血走った赤は消え失せ、本来の色合いを取り戻し、ただの剣へと立ち返る。

 しかしそんな余分を誰も気にしてなどいない。少女は目の前の黒く覆われた闇の向こうで揺れる赤い眼を直視し続け、剣を取り落とした黒騎士は搾り出すような声を呻きに変え、直後、森を揺るがす慟哭をあげた。

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■────!!」

 最早言葉にさえもならぬただの振動。喉を震わせ意味を持たない音を、バーサーカーは天を割かんとばかりに張り上げた。

 誰が知ろう、彼の身を襲った衝撃の規模を。僅かに灯った理性が消えかけるほどの本能の雄叫び。心の底から沸き上がる感情を言葉に出来ないからこその慟哭。今ほど彼は、己の不甲斐無さを呪った事はない。

 理想と謳われた王。民の為に身を粉にし、国の為に私を殺した王の中の王。時に残虐と謗られた執政も、全ては理由あってのもの。先を見通せない愚か者共は異議を唱えたが、戦果によって己の正しさを証明し続けた聖君。

 正しさの奴隷、王という名の機構、理想を体現する人ならざる畏怖の対象。ああ、そうだろう。事実彼女はそういうものだった。そうでなければ国を守れないほどに、あの時の祖国は疲弊していた。

 幾度となく海を渡り襲い来る異民族を撃退し、決して広くはなく肥沃でもない土地を拓き国を豊かに変えるには、そういうモノでなければ立ち行かなかった。
 優しいだけの王では国を守れず、暴虐に塗れた王では民に疲弊を強いるだけ。彼女は決して、誤った道を選んでなどいなかった。

 ああ、だというのに。ならばその祈りは何なのか。王の口より零れ落ちた願いは、時代に生きた全ての者を否定するもの。余りに間違った願いだった。
 完全にして公正にして高潔なる王。その王が最期に夢見たものが、そんなものであっただなんて、どうして信じられようか。

「…………、…………ッ!!」

 搾り出す声に意味はない。どれだけ残った理性を掻き集めようと、喉を衝くのは形を得ない音だけだ。
 それは駄目だと諫めたくとも言葉には出来ず。それは間違っていると正したくとも想いは形にはならない。

 自らの憎悪を晴らす為に狂える獣に成り果てた今、彼の言葉は誰にも届く事はない。そも言葉は言葉として認識される事はないのだ。
 それが狂乱の檻に囚われるという事。身に宿した復讐の想念を剣に込め、ただ暴れ回るだけの暴虐の化身に、そんな余分は必要ないのだから。

 そもこうして思考を可能としている事こそが奇跡にして異常。低ランクの狂化とはいえ複雑な思考を不可能とする狂気に犯されてなお思考が出来ているのは、彼にとって彼女の言葉が余りにも衝撃的だったからだ。

 誰に、どんなに蔑まれ、虐げられても忘れなかった王への畏敬。騎士としての己を捨てられず、獣に堕したこの己がようやく忘却できた筈の想いを、再度想起させるほどの響きを伴い、王の願いを聞いてしまった。

 王がただ我欲で聖杯を欲していてくれればどんなに良かった事か。それならば己もまた自らの狂気に殉じる事が出来たのに。

 ああ、そんな願いを宿せないと、誰よりも知っていた筈だ。
 個人としてのアルトリアを殺し、王としてのアーサーとして生きると覚悟していた少女は──王は王のまま死に、理想に殉じるのだろうと。己にはなかったもの、果たせなかった強さを持っていたから。

 だから聞きたくなんかなかった。
 聞くべきではなかった。

 王がその最期に夢見てしまった、祈りの正体など。
 その余りにも痛ましい願いを、聞くべきではなかったのだ。

 だって────

「Ar……thur……」

 悲しいまでに無垢な願い。
 たとえその果てに自分自身の存在の全てが、これまで歩んだ軌跡が一片たりとも残っていなくとも。

 構わない────それで、救えるものがあるのなら。

 王は最期まで王だった。
 騎士が傍らに仕えた時と変わらぬ王のままだった。
 この時の果てですら、彼女には迷いはなく。

 それに比べてこの己はどうだ。
 復讐の憎悪に自らを明け渡し、ただ刃を打ち付けるだけの獣と成り果てた。

 その根底にあるのは彼の愛した女に対する深い想い。
 愛した女に永劫の涙を流させてしまった男の、全てを金繰り捨ててでも果たしたかった想いだ。

 いや、それもただの言い訳だ。女が流した涙は王への贖罪と騎士への懺悔の形。彼女はきっと王への復讐など望んでいない。
 彼女もまた弱かった人の一人。王の高潔な理想を担いきれなかった自責が、王の后でありながら騎士を愛し、二人を分かつ亀裂を刻んでしまった。

 愛した女の涙を理由に、王への憎悪を盾に、自らの弱さを正当化しようとしたこの己こそが最悪の罪人。全てを手に入れようとして、掌から零してしまった愚か者。

 ああ、なんて罪深き咎人。
 王は、こんな己が手に掛けていい人ではない。

 刃を突き立てられるべきなのはこの己であり。
 裁かれるべきなのはこのランスロットだ。

 もしあの時──声高にそう叫べていたら。
 そんな詮無い思索に意味はなく。
 過去をやり直すなんて夢を、この己は抱けない。

 だから──

「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■────!!」

 今一度森を轟かす慟哭。獣の咆哮じみた魂切る絶叫。曇りを晴らす金切り音。セイバーは深き憎悪の闇に霞む赤い瞳に光を見た。零れ落ちる、一筋の光を。

 そして黒き騎士は決断する。

 王を打ち倒す為だけに呼び声に応えた獣が、騎士へと立ち返る。

 騎士としての生き方しか出来なかった、余りにも弱い男。それゆえに王を裏切り女を裏切った男が、畜生に堕ちる事で生前果たせなかった想いを果たそうとした男が、狂いながらに一つの克己を形にする。

 この身に王を討つ資格などない。
 悲痛な願いを宿しながら、それでも自らの信じた道を歩む彼の君を、己が欲望に沿って荒れ狂うだけの獣が穢していい筈がない。

 狂える己に諫めの言葉は紡げない。
 騎士としての諫言も、朋友としての助言も、誇りを捨てた獣の声では届かない。

 狂乱の御座に身を置いた己では、王を救う事など叶わない。
 ならば共に行こう。

 たとえその果てが断崖絶壁であろうとも。
 奈落へと転ずる道であろうとも。
 共に転がり落ちていく事こそが贖罪であるとでも謳うかのように。

 その身を復讐の想念に焦がされてなお。
 理性を消し飛ばす狂気に犯されてなお。

 ただ、この剣は────王の為に。

 想いを言葉に出来ない狂戦士は、己が身一つで以って、心に誓った決意を形にした。

 輝かしき王の御前にて、恭しく膝を折る。
 宮殿で、叙勲を受ける騎士のように。

 夜の闇の中、二人のいる場所だけはまるでステンドグラスから降り注ぐ淡い陽光に満たされたかのように、光の雫が舞い散った。

「────ありがとう」

 王の言葉。
 それ唯一つで報酬は充分。他に何もいらない。

 狂気の奥底、自らが願った本当の祈りを思い出した理想の騎士。
 黒き狂気に犯された騎士は、手に掴んだただ一粒の光だけを頼りに、無間地獄の底を征くと覚悟を決めた。


/25


「Arrrrrrrrr……!」

 夜霧を切り裂く黒の斬撃。触れる全てを両断する必死の刃が戦場となった深き森、その最前線にて無尽に舞う。
 狂気に染まってなお手にした一粒の光。生前果たせなかった夢、その最期まで王と共にあるという誇りを手にした獣が、王の道に立ち塞がる敵を討たんと、容赦も呵責もなくかつての戦友へと剣を叩きつける。

「ふっ……、はぁ──!」

 受ける白刃は太陽の熱を纏う清純の剣。夜の闇が支配する森の中で、彼だけを照らす中天の煌きがある限り、その剣に曇りが生まれる事など有り得ない。

 裂帛の気迫を放ち、鎬を削る白と黒。共にアーサー王の片腕と呼ばれ、円卓を代表する騎士として称えられた英傑。
 闇の中に裂く火花は刹那に散華する仇の華。かたや最強と謳われた理想の騎士。かたや太陽を背負いし王の影。両者は一歩をも譲る事なく剣戟を交わす。

 恐るべきはやはり、バーサーカー──ランスロットだろう。太陽の加護を得て三倍の能力値を獲得したガウェインを相手に、狂化しているとはいえ自分自身の能力だけで拮抗に持っていけるのは、並み居る英霊の中でも彼くらいのものだろう。

 ガウェインをしてそれは驚愕に値するものだった。

 生前の決闘、死の要因を受けるに至ったランスロットとの決闘は、己の心に乱れがあったからこその敗北だと思っていた。
 私憤に塗れ、王の為に剣を担う騎士にあるまじき執着からの敗着。三時間もの間粘り切られ、焦りが生んだ手痛い失態の隙を衝かれる事で敗北したのだと。

 だと言うのに実際はどうだ。今のガウェインの心に曇りはない。騎士の誇りを重んじ剣としての生き方を得た事で、心には一滴の穢れさえも有り得ない。
 黒く染まってしまったかつての盟友に思うところがないわけではないが、それとこれとは話が別だ。心は澄み渡る水面もように清らかで、かつて激情に駆られた時のような憎しみは一切ないと断言出来る。

 だと言うのに攻め切れない。
 だと言うのに振り切れない。

 私情にて王を裏切り、あまつさえ狂える獣に堕した男をすら討ち取れない。そんな無様を許せるだろうか。令呪の加護をも得、時臣に後を託されたというのに、そんな無様をこれ以上晒す事は許されない……!

「はっ、あぁぁあ……!」

 黒く血に染まった剣を今宵最大の一撃を以って打ち払う。僅かに空いた防御、黒く霞む憎悪の霧の向こうにある漆黒の鎧へと向けて峻厳たる一突きを繰り出す。

「Gaaaaaa……!」

 しかして相手もさるもの。人外の膂力で打ち払われた右手の剣を引き戻す事なく、咄嗟の判断で左腕を前面に盾として差し出し、今や鉄をすら両断する灼熱を宿す太陽の剣を、軌道を逸らす事で見事にいなした。

 武芸の極地。到達点。一つの時代において最強の名を欲しいままにした騎士の慧眼は理性を制限されてなお狂いなく。譲れぬ誇りを胸に抱きし白騎士を相手にしてなお一歩をすら譲らなかった。

「……解せませんね」

 直撃こそ叶わなかったが、黒騎士の鎧の一部を剥ぎ落とした白騎士は一度距離を取った。

「海浜公園での戦い、オフィス街での戦い……二度、剣を交えて感じたのは獣の如き荒々しさ。狂化してなお失われない武錬であっても、生前の貴公にはなかった濁流のような奔流が感じられた」

 生前の彼の剣は清流の如き静寂。風の凪いだ澄んだ湖の水面そのもの。打ち付ける剣の全ては軽くいなされ、緩やかに見える剣筋であっても、気が付けば喉元に突きつけられている──そんな剣であった。

 事実、その剣は今も健在。愚直とも取れる太刀筋を能力の後押しで振るう太陽の剣は、その清流の剣によって阻まれている。
 それでも以前の黒騎士には濁りがあった。狂化による凶暴さの増幅、全てを破壊する力強き剣、復讐を果たさんとする憎悪があった。

 それが今はない。いや、薄れている。身を焦がす憎悪を果たす為だけに狂戦士になった筈の男から、何故その根源とも言うべき憎しみの心が失われているのか。

「一体どのような心境の変化があったというのです、ランスロット卿。王を討ち、害す為だけに騎士としての誇りを捨てた狂える獣よ。
 先に聞いた彼の君の言葉──王の意を汲んだというのが、今の貴公とかつての貴公の差異の原因なのか」

「…………」

 黒騎士は答えない。応えるべき言葉を持っていない。月明かりの下で交わされた王と騎士の誓い。それを知るのは彼らだけ。誰にも理解を求めない、破滅が約束された無間地獄の最果てへと至る旅路。

「どのような理由であれ、かつての盟友の落ちぶれた姿を見るのは忍びなかった。貴公が失ったものを、捨て去ったものを取り戻したというのなら僥倖。これで、私も迷いなく本懐を果たす事が出来るというもの」

 狂気に堕した獣を諫める必要はなくなった。ならば後は目の前の敵を、主の道行きを阻む敵を討ち倒す事だけに専心すればそれでいい。
 これ以上語るべきものはない。後は剣が口に成り代わり、互いの主張を張り通す。

 いざ、第二幕を開かんと地を蹴りかけたところで、

「ッ……、ちぃ……!」

 広場の反対側で同じく剣を交えていたモードレッドが、弾き飛ばされたのか地を滑りながらガウェインの傍へと着地した。

「ハッ、流石は円卓を束ねし王。スペックが同等でも、真っ当な打ち合いじゃこっちの分が悪いか」

 具足についた砂を払いモードレッドは立ち上がる。

 モードレッドはアーサー王の息子、妖姫モルガンの姦計によって生み出されたホムンクルス。
 言ってしまえば王のコピー品。素体となった王と同等のスペックを有する、王を打ち倒すその為だけに産み落とされた部品だ。

 アーサー王と同様に、彼女の身体にも竜の血が流れ、その心臓は魔術師と一線を画す魔術炉心を備えている。少女の細腕で全盛期を誇る英雄達と切り結べるのは荒れ狂う魔力の猛りの賜物だ。

 とはいえ、どれだけ基本の能力値が同じであっても、その後に積み上げられた研鑽、努力という名の修練は一人ひとり違うもの。
 全く同じ才能を有する双子が全く同じ生育環境で育っても差異が生まれるように、王と背徳の騎士では地力に差が生じている。

 どのような相手であれ真正面から打ち倒す事を誉れとする騎士の剣と、飄々と振る舞い相手の意の裏を掻く事に特化した変幻自在の剣。

 どちらが優れているという話ではない。
 単純に、然程広くもなく遮蔽物もないこの戦場においては、真っ当な打ち合いを得意とする王の剣の方が勝っているというだけの話だ。

 ガチャリ、と白銀の具足が大地を踏む。遅れて現われたセイバーは涼やかな顔を崩す事なく、黒騎士の傍へと戻ってきた。

 それぞれの敵を定め、二つに分かれていた戦場が再び一つへと収束する。
 この後に待つのは四者入り乱れた乱戦か、再度二極化をするのか、誰もが場の推移を窺っていたその時、

「丁度良い、王に一つ問わせて頂きたい事があります」

 モードレッドが、剣ではなく言葉で先の先を打った。

 先ほどついた悪態とは打って変わった慇懃な物言い。王に叛逆の意を示し実行に移したとはいえ、彼女は王を王と認めていなかったわけではない。むしろ誰よりも王の在り方を崇敬していた。彼女が王を下に見る事はない。それゆえの、言葉遣い。

「…………」

 セイバーがマスターから課された役目はモードレッドとガウェインの足止め。打ち倒せれば尚の事良いが、戦力は拮抗している。同スペックを有する王とその子、最強とそれに比肩する太陽。

 千日手、とまでは言わないが、天秤の針を傾けようというのなら相応の犠牲を払わねばならなくなる。相手から時間を消耗してくれるのなら好都合。セイバーはモードレッドの話に乗る事にした。

「良いでしょう。私に答えられるものであれば答えましょう」

「なに、そう難しい問いではありません。王よ、貴女は何を願い聖杯を求めるのです」

 それはサーヴァントに対する根源的な問い。何を求め主の召喚に応じたかという原初の問いだ。
 その問いは、アーサー王が招かれたと知ったときからモードレッドが心に秘めてきた問いでもある。

「……答えるのは吝かではありません。が、であれば、まず貴女が己が願望を詳らかにすべきではないのですか」

「ご意見ごもっとも。ええ、我が願いは誰に憚るものでもない。ゆえに声高らかに謳わせて頂きましょう。
 私の願いは、王よ──貴女が引き抜いたという選定の剣に、私もまた挑ませて欲しい、ただそれだけです」

「なっ…………」

 それはセイバーをして予想外の祈りの形だった。

 生前の叛乱を思い返しても、モードレッドが王位に、玉座に執着を持っていた事は窺い知れる。
 ただその願いは、聖杯に賭けるにしては余りにも迂遠なもの。万物の願いを叶える奇跡であれば、彼女を王座に就かせる事など造作もあるまい。

 だというのにモードレッドは自らを王にせよ、と願うのではなく、王を選定した剣に挑ませて欲しいと、謳い上げたのだ。

「結果だけを手に入れたところで意味などありません。聖杯の力で王の椅子を勝ち取ったところで納得など出来ない。
 私が欲し求めるのは自らの力の証明。貴女が終ぞ認めなかったオレを、これ以上なく認めさせてやることだ────!」

 元を正せば彼女の叛乱も、王の嫡子であるにも関わらず後継者と認められなかった事に端を発する。
 疎まれ、忌み嫌われる出自であっても、公正にして高潔な王ならば色眼鏡で見る事なく己を見てくれるものと信じた。

 末席とはいえ円卓に名を連ね、誰にでも誇れるだけの研鑽を積んできた自負があったモードレッドの心は、王の無慈悲な拒絶によって壊された。

「……モードレッド、貴女は私が最後に告げた言葉を、忘れたのですか」

 カムランの丘。死屍累々にして剣の墓標が立ち並ぶアーサー王の終わりの地。その頂で行われた王と背徳の騎士の一騎打ち。
 国崩しを成し遂げ、王に怨嗟の言葉を投げ掛けたモードレッドに対して、無表情に放たれた王の言葉。

『私は一度も貴公を憎んだ事はない。貴公に王位を譲らなかった理由は唯一つ。────貴公には、王の器がないからだ』

 その最期まで王に何一つを肯定されないまま、失意の内に斃れた少女。聖槍に腹を貫かれながら、それでも王に致命の一撃を与えはしたが、そこまで。
 何一つ欲したものを手に掴めぬまま、アーサー王の伝説に後ろ足で泥を掛けた稀代の叛逆者は戦場に散った。

 それがモードレッドの終わり。

 そして彼女の願いは死してなお揺らぐ事のないものだった。生前では叶わぬ願い。時の楔から解き放たれた今ならば叶えられる祈りを胸に、少女は今一度戦場に立ったのだ。

「ええ、王の末期の言葉……忘れもしませんとも。ですが私に王の器がない、というのは貴方の主観でしかない。王の証明が選定の剣を引き抜く事であるのなら、それに挑む事さえ許されなかった私の器を一体誰が量れるものか」

 王の幕下にあっても、王の留守を託される程度には政を治めていた。剣の腕も、その能力も、王に何一つ見劣りしない己が、王に相応しくないなどという事は有り得ない。王に出来て己に出来ない筈がない、という想いが、彼女を駆り立てる動力だ。

「モードレッド卿」

 これまで沈黙を貫いていた白騎士ガウェインが少女を見る。普段と変わらぬ涼やかな面持ちもまた変わらず、純粋な疑問を投げ掛けた。

「貴公は選定の剣への挑戦を聖杯に望むといいましたが、その結果、引き抜けずとも納得出来るのですか」

 並み居る騎士の誰もが引き抜けなかった岩の剣。アーサー王となる前のアルトリアだけが手にする事の出来た剣だ、ガウェインやランスロットでさえ確実に引き抜けるという保証はない。
 そも剣を抜くのに王の器なるものが必要ならば、一騎士でしかない彼らには引き抜ける道理はない。

 ガウェインの問いに、モードレッドは鼻で笑う。

「愚問だな太陽の騎士。このオレに、引き抜けない筈がないだろう……?」

 圧倒的なまでの自負。滲み出る自信。自らの力を一切疑っていない証拠。事実として王位を簒奪するに至った歴史が、彼女にここまでの自尊を与えている。

「さて、私の願いは語り終えた。王よ、貴女の祈りを聞かせて頂きたい」

 公正にして高潔にして完全なる王。誰よりも尊く理想に生きた、過ちを犯さなかった聖君が、死後に迷い出てでも欲する聖杯に託す祈り。その正体が今、かつて王と肩を並べた騎士達に向けて明かされる。

「私の願い……私の王としての最期の責務──それは私よりも王に相応しき者にあの時代を託す事。祖国の破滅を防ぎ、繁栄を齎せる者にこそ王位を明け渡す事。
 そう──私が王でなければ、私が選定の剣を引き抜かなければ、あんな滅亡(おわり)になどならなかった筈だから」

『──────』

 セイバーがその胸の内を語った後、痛いほどの沈黙が降り注いだ。森を渡る風は止み、遠くこの森の何処かで行われている別の戦いの余波も届かない。
 無音の世界。音の消えた森。その静寂を引き裂いたのは、王に問いを投げた張本人であるモードレッドであった。

「私の聞き間違いでなければ……王よ、貴女は今、こう仰ったのですか。選定の剣を引き抜く直前まで時間を戻し、己ではなく他の誰かの手に王権を委ねると」

「ええ、その通り。私と同じくあの時代を駆け抜けた貴方達なら分かる筈だ。あんな終わりを認めてはいけない。あんな終わりなどあってはならない。誰一人救われる事なく幕を閉じた王の治世など、最初からあってはならなかったのだと」

 円卓の崩壊、あるいは王妃の不義に端を発する王国の滅亡。その終わりは国を二つに分けての大戦。王とその子による王座を賭けた争い。何処にでも転がっている、ありきたりな物語で、ありきたりな結末。

 勝者も敗者もないただの滅亡。二分された円卓の騎士達の大半は戦死し、最期の一騎打ちとなったアーサーとモードレッドもまた、後者は王の剣によって斃れ、前者は瀕死の重傷を負った。

 その結末に救いはない。後に残ったものなど何もなかった。残ったのは、王の目に焼き付けられた死に行く大地の姿だけ。赤く染まった空と、血の河が流れる屍の丘。そんな悲惨な結末だけだ。

 国の為に己が身を捧げ、剣を執った。海の彼方より襲い来る異民族を迎え撃ち、国を豊かに変える為に身命を賭した。
 しかしその結果はどうだ。彼女に報酬として与えられたのは、目に映る赤い丘と、守りたかった国の崩壊、民の嘆き。掌で掬い上げようとした全ては、一滴残らず滑り落ち、何一つ残りはしなかった。

 国を守る為に犠牲にした民がいた。
 王の栄光の陰で涙した女がいた。
 騎士としての誇りを貫けぬまま、死んでいった者がいた。

 幾つもの犠牲を払い、残ったものがこんな光景では、あんまりだ。
 何を以って許しを請えば良い。
 何を償いとすればいい。
 どうすれば、こんな終わりを誇れるものか……!

 王は全ての終わりの地であるカムランの丘の上で、血に染まった祖国を眺め思ったのだ。

 ────ああ……ならば、私は間違えていたのだと。

 国を守る為と犠牲にした多くの命。それを駄目だと咎めた騎士達の言い分こそが正しかった。だってそうだろう、犠牲にしたものに報いる事の出来なかったこの己に、王としての資格など、最初からなかったのだから。

 だから心の底から求め欲し、そして願った。
 血染めの丘の上で、頽れそうな身体を剣を支えにして、天を睨み付け、そして──

「私は、王になどなるべきではなかった。私よりも相応しい者がきっと、あの時代にいた筈だ。民を犠牲にする事なく戦果を勝ち取り、国を繁栄させ、騎士達の信頼をも得て、万人に称えられる王が」

 アルトリアがその掌から零してしまった全てを掬い上げられる者が。いて欲しい。いなくてはならない。でなくては、余りに救いがない。

「これで分かったでしょう、モードレッド。私の言葉の意味が。私より生まれ、私の血を継いだ貴女に、王の器などある筈がない」

 自分自身を、その終わりで省みたからこその言葉。国を崩壊へと誘った王の息子に、王としての素質などある筈がない。
 特にモードレッドはアーサー王の模造品。全てを似せて造られたホムンクルス。たとえ王権を手にしたところで、その終わりは見えているも当然だ。

「は……はは………クハハハ……アーッハッハッハッ……!!」

 不意に、天を衝く哄笑が森に轟く。産声のように高らかに響き渡る笑い声の主は、誰あろうモードレッドだった。

「何がそんなに可笑しいのです、モードレッド卿」

「何が……? ハッ、そんなもの、全てに決まっているだろう王よ! 高潔にして公正にして誇り高き王が、よもや自分は王に相応しくなかったなどと……!」

「その評価は間違っている。貴女を含めた多くの騎士が私を玉座から引き摺り下ろそうとしたように、私は皆に認められ、祝福されて王になったわけではない。
 全ての不満を戦果によって抑え付けてきただけの事。勝ち星を挙げ続ける限り王座に居座る事を黙認されてきただけの王に過ぎない」

 誰にも引き抜けなかった選定の剣を引き抜き、国一番の魔術師の後援を得る事で手にした玉座。
 認められていたのは勝利だけ。王としての在り方も、年を取らぬその異様も、畏怖される事はあっても心の底から忠誠を誓った騎士はそう多くなかった。

 王妃ギネヴィアを連れ王城を離れたランスロットに付き従った者、王座簒奪を目論んでいたモードレッドに組した者。アルトリアが真に王に相応しき者ならば、彼らの離反はなく国は安寧に包まれていた筈だから。

「私が王でなければランスロット卿の悲劇はなかった。ガウェイン卿は盟友と共に騎士の道に奉じる事が出来た。そして、貴女も──」

 全ての悲劇はアルトリアが王権を手にした時から始まっていた。であれば、その始まりを覆す事で全てをなかった事に出来る。
 王としてのアーサーの存在は歴史より抹消され、ただのアルトリアとしての生がそこにある。

 しかし彼女は己の安寧など心の底から望んでいない。ただ全ては国の為、民の為。王に相応しくなかった己の代わりに国を治める者を求めて、聖杯を手にする為にこんな時の彼方での戦いに挑んでいる。

 己に課した王としての最期の責務──国を救う未だ見ぬ誰かを求めて。

「……なあ、おいガウェイン卿。アンタはどう思うんだ忠義の騎士。今の王の言葉に思うところがあるのなら言ってもいいんだぜ」

 水を向けられた白騎士の顔に、今はいつもの涼やかな笑みはない。宿るのは巌のように硬い表情。柳眉を寄せた真剣な眼差しで、王と背徳の騎士のやり取りを見守っていた男はこう告げた。

「騎士の口は王の代弁。王の不在に成り代わり、王の意思を示すもの。であれば、私から申す事は何も」

 王の在り方を信じ疑わなかった騎士の中の騎士。
 たとえ私情を殺し王としての生き方に殉じるのが年端もいかぬ小娘であっても、己の心を捧げた主に向ける言葉はない。騎士はただ王の命を信じ遂行するもの。そこに疑いを抱いては、立ち行かなくなる。

 王の末期の願いがどのようなものであれ、口出しする事は出来ない。ただ一振りの剣である事を己に誓った忠義の騎士に、今更諫めの言葉など掛けられる筈もない。

「ええ、王に問うべきものは何もない。ですが、ランスロット卿──貴公には問い質さなければならない事がある」

 王の傍らに控え、言葉を持たない獣でありながら、場を静観していた黒騎士へと白騎士が視線を向ける。茫洋と霞む漆黒の鎧。灯る赤い瞳。顔色も感情も一切が見通せない狂戦士に向けて、ガウェインは言い放つ。

「王への憎悪に狂っていた貴公が今そうして王の傍らに侍るのは、今の言葉を、王の願いを聞いたから。間違いはありませんか」

「…………」

 黒騎士は答えない。応えるべき言葉を持たない。しかしその姿が雄弁に物語っている。あれほど王への憎悪に狂い、執着していた男がその対象と肩を並べる理由など、他に考えられもしない。
 無言こそがその肯定。語る口は持たずとも、その在り方が全てを示している。

「貴公は王の願いを聞き、それを叶えるべきものと見定めて付き従うのですか。理性の大半を剥奪されたその身で、それでも王の祈りを肯定し味方すると」

 王を裏切り、王の治世に消えない亀裂を刻んだ黒の騎士。彼の後悔は推測する事しか出来ない。己の不実をもなかった事に出来る王の願いに賛同したのか、自らの憎悪を掻き消される程の何かを感じ取ったのか。

 それはガウェインには分からない。言葉を紡ぐ事の出来ない、出来なくなっても良いと覚悟して狂気に身を堕としたかつての盟友の心の内など、想像する以外に知る術などあろう筈もない。

 ならば────

「──ランスロット卿。やはり貴公とは相容れない。貴公の闇を、この太陽の聖剣の輝きで以って晴らして見せましょう」

 横薙ぎに構えられる青の聖剣。灼熱を宿す太陽の剣は、何処までも高くその熱を高めていく。

「ッ、おい! おまえまさか──!」

「モードレッド卿、私の聖剣の威力は貴女もまた知るところ。巻き添えを食らいたくなければ早急にこの場を離れる事を勧めます」

 涼やかな声とは裏腹に、高まり行く炎に際限はなく。白騎士の顔に宿る表情もまた無機質なもの。何が彼の心の琴線に触れたのかは定かではないが、既に紐解かれた聖剣を止める手立てなどなく。

「くっ……!」

 ガウェインの言葉を聞き終わる前に後方へと撤退したモードレッド。対峙する二人の王と騎士には同じ選択は出来ない。

 白騎士の聖剣の威力は絶大だ。解き放たれれば周囲一帯を焼き尽くすだろう。そしてそんな破壊が森の中で起これば、当然張られた結界にも異常を来たす。
 結界の性能低下、ないし消失はキャスターの戦力ダウン、ひいては防衛側の大幅なダメージとなる。

 今も何処かで繰り広げられてる戦い。その最中にそんな異常が襲い掛かっては、さしもキャスターも対応し切れず一気に押し切られる可能性がある。
 ゆえに此処は迎撃の一手。太陽の聖剣を相殺しなければ、それだけで大勢が決してしまいかねない。

 でなくとも、セイバーに命じられたのは此処での足止め。敵の凶手を止める手段があるにも関わらず、むざむざと背を向けるわけにはいかない。

 最高位に位置する聖剣を迎え撃つには、当然同等の威力を有するものが必要になる。であれば此処は、セイバーが手にする星の聖剣を今一度解き放つ以外に方法は──

「ッ……ランスロット卿……!?」

 今まさに風の封印を紐解かんとしていたセイバーの前に、漆黒の鎧が歩み出る。今や大気をも焦がし、息苦しささえ覚える空間へと変貌した広場。地上に燃え盛る太陽の前に、湖の光輝が立ちはだかる。

「いけない、貴方の剣では彼の聖剣に対抗出来る筈がない……!」

 ランスロットの手にする稀代の剣は、王の剣や白騎士の剣のような周囲へと向ける能力を有していない。対軍、対城と呼ばれる宝具群ではなく、自分自身を高める対人宝具。圧倒的な威力の前に、その輝きは陰りを見せる。

 広範囲への攻撃手段を有する相手に対してランスロットの取り得る最善手は、そも使わせない事に尽きる。どれだけの威力を有する業物であろうと、その真価を発揮出来ないのであればただの名剣と違いはない。

 並の使い手ではそんな所業は困難を極めるだろうが、彼こそは当代最高の騎士と謳われた傑物。太陽の輝きを背負った白騎士を三時間に渡り封殺し勝利した男。この男にとっては常人には不可能なものであっても可能なものでしかない。

 しかし今は状況は違う。既に太陽の輝きは紐解かれた。数秒の後に具現化するのは、文字通り地上に落下する太陽の如き灼熱。
 ありとあらゆるものを消し炭さえも残さず燃やし尽くす、エクスカリバーと対を為すもう一振りの星の聖剣。

 黒騎士の技量が如何ほどのものであれ、解き放たれた聖剣の前に為す術はない。今更、どうしようとその結末は揺るがない。

「────」

 揺るがぬ敗北を前に、それでも黒騎士は王をその背に庇い立つ。

 彼の周囲に漂っていた黒き霞が霧散する。正体を隠蔽していた宝具が解除され、在りし日の騎士の姿が露になる。
 霧の向こうから現われたのは華美に走らず、無骨に堕ちず、それは機能美と豪奢さを紙一重のバランスで両立させた完璧な全身鎧(フルプレート)

 彼にだけ許された剣と同じく、彼のみが装着を許された荒々しくも流麗な、匠の粋を集めて造られた戦装束。無数に刻まれた傷さえも、彼の武勲を物語る勇猛の華。王の傍らに常にあった騎士の姿。

 霧散した霧は黒騎士の手の中に再度集まり、一つの形を具現化する。

 遂に明かされる黒の宝剣。エクスカリバーと起源を同じくする神造兵装。湖の貴婦人より賜れし、当代最高の騎士のみが手にする栄誉を許された稀代の名剣が、日の下にその姿を現した。

 その剣に在りし日の清純さはない。狂気に堕した担い手と同じく、同輩の騎士の血を吸い魔剣と化したその剣は、生前のそれと似て非なるもの。
 されどその刀身に曇りはなく。切れ味には微塵の衰えもない。決して毀れる事のない剣と謳われた、その剣の名こそ──

 ────無毀なる湖光(アロンダイト)

 理想の騎士ランスロットのみが手にする最高の光輝。

 超新星の爆発のように今にも決壊しそうな太陽の前に、ただ一振りの剣を担い王の騎士は立ちはだかる。
 ガウェインの静かな怒りの対象が己であるのなら、王の手を煩わせるのは筋違いだとでも言うように。

「観念した……というわけでもなさそうですが、我が太陽の輝きの前に立つ意味、ならばその身を以って知るがいい──!」

 生前の黒騎士ですら恐れ、決闘の際にはその使用を封じるべく立ち回った男が、燃え盛る太陽の前に立ち剣を構える。
 彼の心の内は読み取れない。何を考えこんな無謀に挑むのかは理解が出来ない。

 それでも。

 王の祈りを聞き、その膝を折った騎士に全幅の信頼を預け、セイバーは静かに事の推移を見守ると決意した。
 彼女の知る彼の騎士が、勝算もなく戦場に立つ筈がないと。勝利と栄光を欲しいままにした理想の騎士に、敗北などある筈もないと。

 今やその背に宿る、かつての輝きを信じて。

「“────転輪する勝利の剣(エクスカリバー・ガラティーン)……!”」

「Aaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa……!!」

 太陽の写し身と化した青の聖剣が抜き放たれる。アーサー王のエクスカリバーが指向性のある光の波濤であるのなら、ガラティーンは周囲一帯の全てを地獄の釜へと変貌させる炎熱の具現。

 周辺被害を考慮しない、平地限定での使用を前提とされた殲滅兵器。下手を打てば味方すら巻き込む炎と熱の波濤。
 触れる全てを消滅させる太陽の輝きを前に、アロンダイトを手にした黒騎士は高らかな吼え声と共に駆け出し、死地の中で一閃を振り抜いた。


+++


 夜を覆う霧の魔術は、地上に現われた太陽の熱によって全てが溶かし尽くされた。地に走る炎。燻る煙。

 周囲に突き立っていた木々の姿はない。遠く霞む煙の向こうに、聖剣の薙ぎ払いを免れた森が広がっている。ガラティーンの射程内に存在した樹木は全て燃え落ちた。消し炭すら残す事なく。

 これが最高位の聖剣の威力。王の聖剣、エクスカリバーと同等の出力を有する太陽の聖剣の威力だ。

「馬鹿な……」

 だから、その存在こそが予想外。

 全てを薙ぎ払った筈の荒野に立つ、一人の騎士の姿。
 手にした剣を振り抜いた姿勢のまま、その背に背負った王と森をすら守り抜き、黒騎士は依然健在。

 黒の鎧を焦がした炎もやがて消え、傷一つない魔剣は月明かりの下で湖の光輝を湛えている。ランスロットは太陽の聖剣の真名解放を耐えたのではない。

「ガラティーンの灼熱を、まさか切り裂くとは……」

 生前の黒騎士にすら不可能であった御業。回避だけならばまだしも、迎撃という至難を果たせたのは強運と彼の積み上げた修練の賜物だ。

 十年の猶予を得た雁夜からの魔力供給で生前の能力値を取り戻し、狂化により更に数値を強化させた。
 元より高い幸運に加え、王を護るという名分を得る事により発動した精霊の加護によって更なる幸運を引き寄せ、アロンダイトの能力上昇、判定強化の達成を以って完成された至玉の一閃。

 襲い来る炎の波を一刀の下に斬り伏せ、その背に頂く王と森を守護して見せた。

 ガラティーンの輝きは森を半円状に斬り裂いたに留まった。驚異的な威力であったのは間違いはないが、太陽の剣はその目的を果たせなかった。ランスロットに、この戦いの軍配は上がったのだ。

「…………」

 絶対の一撃を見事に凌ぎ切られたガウェインに、告げられる言葉はない。胸に去来したのは感服と賞賛。狂気に堕した男は、確かにかつての輝きを取り戻した。王の為に剣を振るう──その一念の前に、白騎士の剣は敗れたのだ。

 昨夜、遠坂邸の屋根の上で赤い弓兵に投げ掛けられた言葉を思い出す。

“君はこの戦いで、唯の一度も自らの手で剣を振るってなどいない。そんな曇り切った手で握られては、その手に輝く太陽の名が泣こう”

 戯言だと切り捨てた筈の言葉。己の心に誓った誇りに間違いはないと思っていた。ただ主の為に尽くす剣。剣に意思は必要ない。ただ王命を全うする事こそが騎士の本懐だと。

 ならば目の前に立つ男は何だ。我欲に溺れ私情に塗れ地に堕ちた獣。されど王と共にあるという誓いを取り戻した騎士。
 未だその身は狂える獣であれど、黒騎士は意思なき剣ではない。自らの意思を以って、残った理性を掻き集めて、王の剣になると誓った獣。

 語る言葉は持たずとも、自らの身体一つで意思を体現し実行した誇りある騎士。赤い弓兵の言葉が真実であるのなら、白騎士の意思なき剣は、黒騎士の意思ある剣に敗れたというのか。

“ならばこの心に誓った誇りこそが、間違いだというのか”

 晴れた筈の心に掛かる薄い靄。自らの在り方に疑問を抱いたガウェインの前で、黒騎士は僅かにその身を傾げた。

「ッ……ランスロット卿……!?」

 セイバーが駆け寄り倒れ掛けた黒騎士の身をその腕で抱き止める。

 彼自身の身体には傷の一つもない。だが、彼に魔力を供給しているマスターが同様に無傷である保証はないのだ。
 ただでさえ魔力を多量に食らうバーサーカーであるというのに、所持する二つの宝具を封印する事で解き放たれる魔剣を振るったのだ、その魔力消費量は常軌を逸する。

 並の魔術師であればそれこそ魔力の限りを搾り取られ、ミイラ化して絶命していてもおかしくはない。
 その辺りの対策も充分に練っていた筈の雁夜であっても、彼自身もまた戦闘中であったのなら、その消耗はより加速度的に増している事は想像に難くない。

 黒騎士が勝利の代償に手にしたのは消滅を早めるカウントダウン。零れ落ちるだけであった砂時計の器に、亀裂を刻むようなもの。残された時間は、一気に少なくなった。

 しかしまだ終わらない。

 これが十年前、何の予備知識も対策もないままに雁夜に召喚されていれば此処で終わった戦いも、与えられた猶予が砂時計の砂の落下を鈍らせている。

 とはいえ、これ以上の無理な戦闘は今後に支障を来たすどころか消滅を早めるだけの自滅行為。黒騎士の姿が霞み、解けて掻き消えていく。

「後は任せて下さい、ランスロット卿。どの道この森での戦いもそろそろ佳境を迎える頃合だ。貴方が切り開いたこの時間を、無駄にはしない」

 低い唸り声を残し、黒騎士は王の腕の中からその姿を消した。これより先にある、戦いに備えて。

 後に残ったのはセイバーとガウェインのみ。拓かれた森の中、地を這い宙を舞う炎の只中に二人は静かに佇む。

「ガウェイン卿。貴方にまだ余力があるというのなら、私が相手を務めますが」

「…………」

 聖剣の一振りを放った今、余剰魔力はそう多くない。マスターからの供給を鑑みても、全力のセイバーを相手にするには太陽の加護を得ていたとしても厳しいか。
 エクスカリバーを抜かれればガラティーンで対抗するしか術はなく、二度の宝具使用に耐えられるかどうかは未知数だ。

 幾らかの沈黙が流れ、どちらともが剣を手にして動かない、そんな硬直が続いた時。

『…………っ!』

 不意に、森の奥から轟いたのは爆発音。夜を染める赤い炎が、霞む空の向こうに窺えた。

「状況は変わったようですね。ガウェイン卿、三度決着を持ち越すのは私としても不本意ですが、これも勝利の為。
 貴公が今後も私の前に立ちはだかるというのなら、何度でも剣を合わせ戦いましょう。私が聖杯を掴む、その時まで」

 鋼の具足を鳴らし、王は戦場に背を向ける。一足飛びに森へと消え、やがてその姿は見えなくなった。

「……化け物だな、あの男は。流石は最強の騎士と謳われただけの事はあるか」

 セイバーと入れ替わる形でモードレッドが広場へと戻ってくる。彼女にも傷はない。どうやらガラティーンの射程範囲から無事逃れていたようだ。

「遅かったですねモードレッド卿。もう一足早ければ、違う展開もあったものを」

「有無を言わさず宝具を解放したのは誰だって話だよ。オレのクラレントや王のエクスカリバーとは違って、アンタのそれは範囲攻撃な分逃げるのに時間を食うんだ」

「それにしては帰還が遅すぎた。まさか、狙ってこのタイミングで姿を現した、王が去るのを待っていたわけではないでしょう」

「さてね。ご想像に任せする」

 飄々とした態度を崩さないモードレッドにガウェインは鋭い視線を向けるも、頭部を覆うフルフェイスヘルムに阻まれ表情は窺い知れなかった。

「とりあえず進もうぜ。何やらキナ臭い感じがする」

「……それは勘ですか」

「ああ、まあオレの勘は悪い方に良く当たるからな。バゼット達に何事もなければいいが」

「待ってください」

 歩き出そうとしたモードレッドの背に、ガウェインは問いを投げた。

「モードレッド卿、貴女は王の祈りを聞き、何を思ったのですか」

「…………」

 黒騎士は王に剣を捧げる誓いを立てた。
 白騎士は口を閉ざし、王に仕える騎士に剣を向けた。

 ならば、背徳の騎士であるモードレッドは何を思うのか。王の実子にして国を崩した張本人。王にあの祈りを抱かせたのは、彼女自身だと言っても過言ではない。
 己に王の器がないと、王が言い放ったその根拠をすら聞いてしまった彼女は、今一体何をその心に描いているのか。

「……オレの願いに変わりはない。聖杯を手に入れ、選定の剣への挑戦権を手に入れる。そして証明する。この身の存在を。天地の全てに、遍く民に。そして他でもない、あの王にその証明を見せ付けてやる」

 去り行く背中。少女の身には重過ぎる鎧を打ち鳴らし、モードレッドは戦場の奥へと消えていく。

「…………」

 白騎士は静かに思った。
 少女の背に宿った感情を。
 僅かに滲んでいた声色に。

 憤慨と、悲哀。
 赫怒と、屈辱。

 相反する想いをその心に抱き、口にする事もなくひたすらに前へと進む少女に。

「……モードレッド卿。貴女はもしや、涙したのですか。王の祈りに。その、余りにも悲痛な願いに」

 確たる証拠はない。ただ、なんとはなしにそう思っただけの事。そもあの少女はランスロット以上に王の意思に背いた者。同情の余地や憐れまれる立場にはない。

 己の内に降って湧いた感傷を振り払い、白騎士もまた森の奥へと足を向ける。
 自らの心さえも分からないのだ、誰かを気に掛ける余裕などない。

 ただ今は、前に進むのみ。
 ままならない心を抱えたまま、終わり行く戦いの予感を確かに抱いて。


/26


 騎士達の戦場から遠く離れた森の中心付近。闇に染まった森の中を駆ける二つの影。薄く引き伸ばされた霧を七色の閃光が晴らし、全てを飲み込む闇色の刃が地を走る。
 遠坂時臣と間桐雁夜の戦場となった開けた場所より幾らか離れた森の中を、遠坂凛と間桐桜はその身に宿した魔の業を詳らかにしながら疾走する。

 乱立する木々の隙間を縫い、ギアを一切落とす事なく地を駆け抜け、両者の間には魔術の衝突による絢爛たる花が咲き誇る。

 間桐桜にとって、今この状況は望んだものではなかった。戦端が開かれた瞬間、遠坂凛はポケットから抜き放った小粒の宝石を空にばら撒き、乱舞の如き閃光を桜目掛けて撃ち放った。

 初撃から容赦も呵責もない連撃。一撃の威力よりも数にもの言わせた波状攻撃で、先手を奪い機先を制した。
 結果、桜はその迎撃に追われ、少しでも消耗とダメージを減らす為に身を隠しやすい森の中に逃げ込むしかなく、時臣と雁夜の戦場から強引に引き離されてしまった。

「情けないわね間桐さん。逃げ回るしか出来ないの? あのビルの屋上で息巻いた貴女は何処に消えたのかしら」

「くっ……!」

 状況は凛の優勢。疾走を止めないまま、凛は正確無比に梢の隙間を縫い桜目掛けて宝石を放ってくる。桜はその迎撃と回避に追われ続けている。

 宝石魔術の特性の一つである一工程(シングルアクション)からの魔術の発動短縮。
 更には刻印によるバックアップにより、凛はほとんどタイムラグなく魔術を発動し、桜の行動に先んじて鉱石の煌きで夜を染める。

 対する桜の虚数魔術には、どうしても詠唱が必要になる。無論一工程での発動も可能ではあるが、威力が大きく減衰する。それでは事前に魔力を仕込まれた宝石の即時発動を相殺する威力には足りない。

 その為、木々を壁とし時間を稼ぎ、隙を見て影の刃を放つ事に終始する。終始させられている。刻印のバックアップのない桜では、どう足掻いても魔術発動の速度で凛を上回る事が出来ないのだ。

「……ッ、Es befiehlt(声は遥かに)──」

Anfang(セット)

 ピン、と指で弾かれた宝石が、今にも腕を振るおうとした桜に先んじて放たれる。単純な速度の問題だけではない。凛は桜の行動をすら予測し、動きを計測し、常に一歩先んじて動いている。
 詠唱の有無によるロスですら致命的であるというのに、そんな化け物じみた行動予測まで行われては、

「っ……はっ……ぁあ……!」

 弧を描き襲い来る氷の魔弾。咄嗟に振るおうとした腕を止め、影の盾を敷くのが精一杯の抵抗。しかし相殺すら許されず、防御ごと桜は吹き飛ばされた。

「かはっ……」

 野太い木の幹に背中を強かに打ち付けられ、桜は肺の中に溜まった空気を無理矢理に吐き出させられた。ずるずると腰を落とし、咳き込んだ息には血が混じっている。内臓の何処かをやられたらしい。

「呆気ないものね」

 悠然と歩み寄ってくる凛を、桜は重い腰を上げながらに睨みつける。身体は動く。手足には力が込められる。ならば此処で、膝を屈する理由はない。

「どれだけ睨んでも戦力差は覆らない。魔術戦の究極は、積んだ研鑽の高さを競うもの。どれだけの過酷を耐え抜いたかを示すもの。貴女の十年と私の十年──その重みは同じじゃない」

「っ……私の苦痛を、知りもしないくせにっ……!」

「知らないし、知る必要もないわね。修練は自らに積み上げるもの。誰かにひけらかす為のものじゃないし、誰かに理解を求めるものでもない。そんな事も知らずに、貴女は魔術師になったの?」

 凛に手心など一欠けらもない。ポケットから掴み出した宝石を指の間に詰め、大胆に間合いを詰める。完全に目の前の敵を葬り去る為に、確実にかつて妹と呼んだ少女を抹殺する為の間合いへと踏み込んで来る。

「なりたくて……なったわけじゃない……! それは、姉さんだって知ってるくせにッ!」

「私を姉と呼ばないで。虫唾が走るわ」

 小指の先ほどの宝石が凛の手からは放たれ、瞬間、中空に渦を巻いて圧縮された風の針を形作る。大気を裂く空気の牙は未だ体勢の整わない桜の左腕を貫き、大木に磔にした。

「ぐっ……ぁあ……!!」

 解けた風の後に残った空洞から、濁々と血が流れ落ちる。指先へと滴り、やがて大地に赤い斑点を描いていく。

「お父さまが言っていたでしょう。強い才覚の持ち主は、魔道の庇護なくしては生きられない。どうあれ貴女は魔道に足を踏み込むしかなかった。それか、自らの可能性の芽を潰し逃げ出すか」

 間桐桜はその選択肢から目を背けた。受け入れる事も、逃げ出す事も選ばなかった。ただ状況に流されて今に至る。覚悟を以って魔道に生きると決意した凛との間には、埋めがたい明確な溝がある。

「貴女は一体何がしたいの間桐さん。貴女には覚悟がない。意思がない。そして何より力がない。そんな中途半端な様で私に勝てると息巻いていたのだとしたら、お笑い種ね」

 凛が足を止める。確実に桜に止めを刺せる間合いに踏み入り、冷徹な魔女は変わらぬ色を湛える瞳を、その無機質な瞳を妹だった少女に向ける。

「…………」

 凛の腕が上がる。言葉はない。敵にかける情けなど、この少女にはないのだ。末期の祈りも遺言も、聞き届ける義務もなければ義理もなく。ただ、己の前に立ちはだかる障害を、それこそ行く手を遮る壁程度にしか見ていない。

 そう、だから。

 冷徹にして非情にして鋼鉄なこの魔女の、唯一の隙がそこにある……!

Schatten(影よ)────!」

「…………!」

 これまで二小節以上の詠唱で影の刃を使役してきた桜が見せる、一工程での魔術式。威力を大きく落とし込むその術式では、凛の宝石魔術は破れない。そんな事は桜とて既に承知済み。

 自分の力量が姉に劣っている事などとうに分かっている。研鑽の量を比べ合えば劣るなど当然だ。
 魔術を忌避してきた己が、魔術を受け入れた者に真正面から勝てる道理はない。ならば頼れるのは己の頭脳。機転と不意打ち、それが絶対の自負と正道の力を有する凛に対抗する唯一の手段。

 ただ闇雲に逃げ回ってきたわけじゃない。劣る自分がこの相手に勝る為に、必要な準備は既に済んでいる……!

 起動の呪文と共に、闇に沸き立つ影の檻。

 それは桜が凛と戦う事を、あるいは時臣との戦いを予測し、事前に仕込みを済ませておいた術式。アインツベルンとの共闘によって地の利を確保出来た事で打てた布石の一つ。戦場となりえる可能性のある場所に、あらかじめ魔法陣を描いておいたのだ。

 この場所は桜が追い詰められて辿り着いた場所ではなく、わざと誘い込んだ決闘の地。幾つか用意した戦場の一つ。
 地に描かれている魔法陣も、夜の闇と立ち込める霧が覆い隠し、森に充溢する魔力が陣から零れる魔力を覆い隠す。

 此処に仕込みは結実する。凛が踏み込んだ地点が彼女にとっての必殺の間合いであるのなら、同時に桜にとっても必勝の間合い。

 虚数の魔術は在るがないものとされる負の魔術。それを桜は影として行使する。触れる全て、呑み込む全てを現実の裏にある虚数空間へと誘い塵一つ残さず消し去る、五大属性(アベレージ・ワン)と同等の価値を持つ希少属性(ノーブル)

 遠坂時臣をして最後まで頭を悩ませた、凛と正反対でありながら同等の素質を持つ桜だけの魔術特性。

 影の檻が地より沸き立ち、凛を四方から包囲し包み込む。生まれたのは黒い球体。人間一人を覆うほどの巨大な球体だ。それもやがて規模を縮小し、最後には点をすら残さず消滅する。中に呑み込んだもの諸共、跡形もなく。

「はっ……」

 桜は短く息を吐く。黒い影に囚われた遠坂凛は、後数秒もすればその存在ごと消し去られる。相手に油断がない以上、こちらも手心を加えられる理由などなかった。

 今桜が構築出来る最高の魔術式。
 その完遂を以って、姉と呼んだ人は、この世から完全にいなくなる。

 いつも完璧で、優雅で、人々の羨望を集め己とはかけ離れた立ち振る舞いをする麗人。敵と定めた者に対し、たとえそれがかつて妹と呼んだ相手であろうと明確な敵意を向けられる非情なる魔女。

 だけど、今黒い球体に囚われた人は、間違いなく桜の姉だった。

 あの日の事を、昨日の事のように覚えている。
 あの日──間桐の家へと迎えられる事になった時の事を。

 今も桜の黒髪を結ぶ、姉より送られた淡い色のリボン。それが、唯一これまで桜の心を支え続けた拠り所だった。

 あの頃の姉はもういない。桜が間桐の家で過酷な修練を受け、暗い影を落とす少女に成長したように。遠坂凛は、あの幼少の頃に抱いていた人としての温もりを、忘れてしまったのだ。

 吐き出した言葉は届かない。想いはどれだけ口にしても、鉄の心に響きはしない。魔術師として完成してしまった遠坂凛に、人の痛みは理解が出来ない。
 これも一つの結末。父には落胆され、姉にも見放された孤独な少女は、生きる糧を失くしても、生きる意味を失っても──

「────funf(五番),schneiden(斬撃)

 夜を真横に走る光の刃。黒い球体の内側から放たれた、闇を払う虹の煌き(アレキサンドライト)

 切り開かれた闇の檻の中に、魔女は依然健在。凛の所有する宝石の中でも希少な一つを用いての脱出。
 桜が事前の仕込みを行ってまで編み上げた影の檻は、いとも容易く破られた。

「……ッ、Mein Blut widersteht Invasionen(私の影は剣を振るう)──!」

 しかし桜はいち早く動いている。

 己の未熟さを過たず理解し、姉の力量を正しく推し量ったのなら、たとえ影の檻で捕らえたとしても、抜け出される可能性は考慮すべきだ。
 事実、凛は抜け出した。光の斬撃で闇を斬り裂き、今一度夜の下に這い出てくる。

 桜が狙ったのはその瞬間。

 檻を破り、桜を今一度認識し、確実に首を刎ねる一撃を凛が繰り出す一瞬前。裂けた影の檻が崩壊するよりも早く。光の斬撃が振るわれた直後。
 檻の裂け目より覗く凛の胸元に向けて、最速で編み上げた影の剣を、その無防備な胸に突き立てる為に。

 呪を紡ぎ、一歩を踏み出し、闇色の刃を、かつて姉と呼んだ誰かに向けて繰り出した。

 生きる糧を失くしても、生きる意味を失っても──それでも、死ぬのが、何よりも怖いから。

 今自分が蹲る、闇の堆積する奈落の底の、更なる下に落ちていくなんてイヤだから。復讐を糧に動き出した人形は、人として当たり前の恐怖から逃れる為、実の姉の胸に必死の刃を突き立てた。

「────それで、貴女の抵抗は終わりかしら?」

 直後、響いたのは硬質な音。突き立てた筈の刃は、鈍い音を響かせ砕け散る。如何に最速で編み上げたといっても、並の刃物よりは何倍もの強度を誇る魔術の刃だ。まさかただの繊維服の前に折れるなんて事は有り得ない。

「戦場に臨む以上、準備は万端にしておくべきでしょう? 貴女が罠を仕掛けていたように私は私なりに最善を尽くしている」

「ぁ……」

 相手が如何なる者であれ、舐めてかかるなんて愚をこの魔女は犯さない。ポケットには詰め込めるだけの宝石を詰め込み、万一に備え虎の子の幾つかも持ってきている。

 桜の一撃を防いだのも、凛が事前に宝石を飲み込み体内で作用させた身体強化と硬質化によるもの。
 鋼とて突き通させぬ、目には見えない強固な鎧。サーヴァントの攻撃とて一撃ならば耐え抜ける程の代物を、凛は出し惜しむ事なく使い桜の牙を折ったのだ。

「きゃっ……っぁ!?」

 か細い悲鳴を上げ、桜は地に蹴り倒される。相手の横っ面を打ち抜くハイキック。ミニスカートを翻す、その一撃に相手を慮る気持ちなどある筈もなく、伏臥させた桜の頭蓋を、次の瞬間には無慈悲に靴底で踏みつける。

「ぁ、ぁ、あああぁ……!」

 ギチギチと軋む骨。地に押し付けられる力は緩む事なく、魔女は手に宝石を掴み取る。相手の自由を奪い、詠唱の隙さえも与えぬ密接距離。逃げる事も、抵抗さえも許さぬまま、凛はトドメの一撃を繰り出そうとしたその時──

「やめろ」

 突如響いたのは、第三者の声。凛の凶行を押し留める、静かな声だった。

「アーチャー」

 桜への警戒を怠らぬまま、凛は僅かに傾けた目の端で現われた者の姿を確認する。闇に浮かぶ赤い外套。手傷を負っているのか、衣服が乱れている。手にしているのは白と黒の中華剣。弓兵にあるまじき武装だが、今気にするべきはそこではない。

「……幾つか気に掛かる事はあるけれど。アーチャー、何故止めるの?」

 凛が最も不可思議に感じたのはそこ。己の命を奪おうとする者、敵と断じる者を斃す事を止めるなど、正気の沙汰とは思えない。
 何より桜は聖杯戦争に参加しているマスターだ。殺し殺される事を了承し、サーヴァントを従えたマスターだ。いずれ殺さなければならない相手に、今此処で慈悲を与える意味などない。

「やめろ凛。それは、君のやり方ではない筈だ」

 必要以上に相手を痛めつけるやり方。敵を慮らないその無慈悲さを指して、アーチャーはらしくない、と諫めの言葉を口にした。

 既に勝負は決している。今も呻き声を上げ続けている桜からは、抵抗の意思が失われている。不用意に動けば凛の足に込められる力が増すと、何の感慨もなく頭蓋を踏み砕くと、無意識の内に桜は理解しているのだ。

 優しかった姉はもういない。今自分を地に這い蹲らせているのは、文字通り血も涙もない魔女なのだ。

 そんな魔性に、命乞いなど無意味なもの。気に障ればそれこそ次の瞬間には脳漿を撒き散らし、眼球が飛び出ているかもしれない。
 桜に今出来るのは、醜く呻きの声を上げるだけ。終わり行く自分の命に恐怖しながら、何かの偶然を希う事しか許されていない。

 アーチャーは、そんな二人を冷めた目で見つめている。涙さえ零し始めた桜と、その呻きを煩わしいとでも言うように、足に込める力を増す己がマスターを。

「私の知る遠坂凛は、敗者に鞭打つような趣味の持ち主ではない。戦いの最中であれば容赦も加減もしないが、勝敗が決すれば僅かばかりの慈悲を与えられる人だったはずだ。今君のやっている事に、慈悲があってたまるものか」

 確かに愉しんではいないだろう。死に行く者の悲鳴を愉悦とするほど、遠坂凛は歪んではない。しかし何もかもがやりすぎだ。抵抗の意思のない相手ならば、令呪を奪えばそれで済む話を、跡形もなく消し去ろうなんてのは、余りにも行き過ぎている。

 かつて、森の郊外で見た少女の奥底にあると願った美しい輝きが最早見えない。凍りついた心の奥にあると思った、温かな光の芯が霞んでしまっている。
 目の前にいるのはアーチャーの知らない女。冷酷で無慈悲な、血の通わない魔女だ。

「前にも言ったと思うけど。らしくない、なんて言われるのは心外だし、遠坂凛は最初からこういう生き物よ。
 一体どんな幻想を抱いていたのかは知らないけど、お生憎様。私はねアーチャー、こういう生き方を選んだのよ」

 魔女としての生き方を。

 誰に誇るでもなく、誰に言われるまでもなく。父の跡を継ぐと己の意思で決め、誰にも頼る必要のない力を身につける為に血反吐を吐く思いをして修練を積み上げた。
 魔術師として生きると覚悟した時、他の全てを擲った。遠坂を去った妹の事を諦観し、当たり前の平穏を捨て、孤独の道を歩くと決めた。

 生温いやり方で、果てを目指せるほど楽な道のりなんかじゃない。甘えや弱さが邪魔にしかならないのなら、心を鉄で覆い隠して、冷徹な魔女の仮面を被り前へと進む。誰よりも魔術師らしい魔術師に。人々の蔑みさえも糧とする、魔女になるのだと決めたのだ。

 それが凛の唯一の誇り。積み上げた修練だけが、彼女の強さの拠り所。

 必要のない慈悲を与えて足元を掬われるのは馬鹿のやる事だ。凛は今も一切の警戒を緩めていない。桜が指一本でも動かす兆しでも見せれば、即座に宝石を放てる体勢を維持している。

 それでなおこうしてアーチャーと会話を続けているのは、仮にも相手がサーヴァントであるからだ。ましてや、まだ続く戦いを共に駆け抜ける必要のあるパートナー。いらぬ軋轢は凛も好むところではない。

 とはいえ、余りにも執拗に食い下がってくるのなら、凛にも札を切る準備がある。手の描かれし三画の令呪。絶対命令権を行使して、屈服させるのも必要とあらば断じるだけの覚悟がある。

「…………」

 凛のその意思が、視線に乗ってアーチャーにも伝わっているのだろう。赤い弓兵も不用意には動かないし、更なる言葉を重ねる真似はしなかった。

 ただ、胸に去来した感情だけは、どうする事も出来ない。あの森の郊外で感じた、何もかもが変わり果てたこの世界で、唯一変わらないと信じたものさえ、失われてしまっているのだとしたら。

“オレは一体、何の為に────”

 手にする夫婦剣に力が篭る。魔女の仮面は、アーチャーが思う以上に凛に深く影を落としている。その心に、茨の如く絡みついている。
 あの、天に輝く星の光にも似た鮮烈さを誇った少女を、太陽のような眩さに目を細めた少年の日の憧憬を、根底から覆してしまう程に。

「……いや、これ以上の問答は止めよう。それよりも凛、一つ悪い報せだ」

「そうね。何かあるとは思ってたけど。それで、何があったのアーチャー。昼夜逆転の結界が解けていないところを見ると、キャスターを斃せたようには思えないけど?」

 アーチャーにはランサーと共に森の主であるキャスターと正体不明のライダーの相手を任せていた。よもや意味もなくこの弓兵が凛の下を訪れたとは考えられない。彼自身が言ったように、良くない事が起きたのは間違いがない。

 そしてその問題は火急を告げるもの。でなければ、わざわざ戦場を放棄してまでアーチャーが戻ってくる筈などないのだから。

 そしてアーチャーは語った。
 一つの戦場で起きた顛末を。

「キャスターにランサーが奪われた。早急な撤退を提案する」

 そんな、戦いの趨勢を決するにも等しい、結末を。


/27


「…………ッ、ぎっ」

 胸を貫く鈍色の鉄線。自らの胸を貫き、背中へと突き抜けて赤い血の華を咲かせたイリヤスフィールの手にした針金。
 明滅する視界。脳が痺れ、身体から力が抜けていく。血と一緒に、生きる力が失われていくのが、バゼットには感覚的に理解出来てしまう。

 何度も踏み越えてきた死。死と隣り合わせの戦場に常に身を置き続けてきた己に遂に訪れた終わり。余りにも呆気なく、唐突な終焉。せめてもの救いは、戦場でその終わりを得られた事だろうか。

 長く引き伸ばされた思考。ずっと終わりの来ない数秒間。思考の速度と時の流れが乖離している。これが人が死の間際に見る走馬灯と呼ばれるものであるのなら、自分は此処で斃れるのだろう。

 何も為せず。
 何も手に掴めず。

 ただ、がむしゃらに走り続けたその先に、何を見る事も叶わずに。

「────っ、………ァ!」

 そんなのはイヤだ。そんな終わりを求めて、こんな場所まで走ってきたわけじゃない。伸ばし続けた手は、自分でもまだ良く分からない何かを、いつか願った何かを掴み取りたかった筈だ。

 こんなところでは終われない。
 こんなところで終わってたまるものか。

 背中から零れ、抜け落ちていく命を押し留める術はなくとも、ほら、この足は、この手はまだ、動くから。

「ぁ……ぁぁぁああああッ……!」

 踏み締める足に力を込め、寸前で止めた拳に喝を入れる。

「っ──うそっ……!?」

 赤い瞳をした少女が驚きに目を見開く。よもや心臓を貫いた人間が動き出すとは夢にも思ってはいまい。
 だからこれはある種の奇跡。生き足掻く人間だけが持つ、命の輝きだ。

 そんな予想外の動きに、勝利を確信していた少女は対応出来る筈もなく。

「────ぁ……」

 バゼットの放った渾身の拳に、イリヤスフィールは声を上げる間もなく頬を穿たれ、二階吹き抜けの端に聳える壁へと叩きつけられ、その意識を刈り取られた。

 イリヤスフィールは聖杯であるが故に殺せない。それが事実であろうと嘘であろうと、聖杯を持ち帰る事が任務であるバゼットには、その真偽を確かめるまでこの白雪の少女を殺せない。

 事実を知り加減した事と身体から力が抜けていた事もあり、イリヤスフィールは昏倒しただけだ。全力で打てば人の頭蓋など軽く吹き飛ばせるバゼットの拳を受けて、首から上が繋がっているのがその証拠だ。

「っ────、はぁ、は、っぁ──!」

 そこで力を使い果たしたのか、バゼットもまた膝を付く。生きているのがおかしい程の傷をその身に受けたのだ、呼吸を刻めるだけでも儲けもの。

 だが戦いはまだ、終わりを告げていない。

 階下から猛然と迫り来る白の侍従。鉄塊じみた凶器をその手に、リズと呼ばれた侍従が主を傷つけた敵手の首を刈り取らんと襲い来る。

 しかしバゼットにはもう迎撃するだけの余力が残されていない。今此処で無理に動けば本当に死ぬ。命の砂時計に残された砂は、一握にも満たないもの。
 無駄を打てば死ぬ。下手を打てば死ぬ。何か一つを間違えれば、本当にバゼットの命は音もなく消えてしまう。

 ゆえに取るべき最善の選択は治癒のルーンを傷口に刻む事。死んでいないのなら、この心臓がまだ鼓動を刻んでいるのなら、きっとまだ癒せる。

 ただ、その回復を眼下の侍従は待ってくれないだろう。バゼットがルーンを刻み終えた瞬間、その首を刎ね飛ばされる未来は容易に想像が出来た。

「…………ッ」

 それでもバゼットは己に治癒のルーンを刻む道を選んだ。それ以外に先が見えないのであれば、一瞬でも生き残る可能性を掴み取る為に。震える指先で血を滾々と吐き出す傷口に触れ、治癒のルーンを確かに刻む。

 リーゼリットの振るう刃が何かの間違いで外れてくれれば、即座に令呪でランサーを呼び寄せ迎撃が出来る。立場を覆す事が出来る。その逆が不可能である以上、バゼットは一縷の可能性に全てを賭けた。

「────良い足掻きだ。それでこそ人間よ」

 処刑人の手にする刃が罪人の首を刈るその直前、白亜のエントランスホールに響く何者かの声。バゼットのものでも、リーゼリットのものでもない、皺枯れた男の声。

「動くでないぞアインツベルンの侍従よ。動けばお主の主人の首を手折るとしよう」

「っ…………!?」

 その男は、いつの間にかそこにいた。バゼットが吹き飛ばしたイリヤスフィールの傍。倒れ込んだ少女の首下に、筋張った手を掛けた状態で。
 リーゼリットの動きが止まる。膝を屈したバゼットへと迫りに、今まさに断頭の刃を振り下ろさんとしていた女の手が、止まった。

「…………マトウ、ゾウケン」

 振り上げていたハルバードを地に落とし、階下へと退いたリーゼリットがその名を呟く。

 その名はバゼットも聞き覚えがあった。協会でも要注意人物の一人と目される、五百年を生きる老獪。間桐家の現当主。
 そしてバゼットの与り知らない事ではあるが、このアインツベルンと間桐の間の協定を持ちかけた人物でもある。

「……何故、邪魔をするの……?」

 両家の間には一時的な同盟が結ばれている。そんな状態で、敵であるバゼットを助けるばかりかイリヤスフィールを手にかけるような真似をするなど理解が及ばない。
 戦闘能力の向上と引き換えに知性の幾らかを犠牲にしたリーゼリットからすれば、その疑問は当然のもの。常人どころかバゼットさえも困惑する状況に純粋なまでの疑問を投げ入れる。

「何故……か。ふむ……端的に答えるのなら、そう……これが儂にとって最も都合が良い状況だから、かの」

「…………」

 リーゼリットは勿論、バゼットにも理解不能。何がどう都合が良いのか、どんな思惑をその脳裏に描いているのか、その落ち窪んだ瞳からは何一つ読み取れない。
 この男が姿を見せた理由も、同盟相手を裏切るような真似をしている理由も、誰にも理解など出来る筈もない。

「何が……目的です、間桐臓硯」

 喉奥から迫り出す血塊を拭い、荒い呼吸を吐きながら、僅かながら回復を始めた身体を押してバゼットは問い質す。

「イリヤスフィールが……本当に今回の、……っ聖杯の器であるのなら、手の内に収める意味もあるでしょう。だが……それは、私を助ける理由にはならない」

 イリヤスフィールが目的であるのなら、リーゼリットがバゼットの首を刎ね飛ばした後に姿を見せれば済んだ筈だ。あのタイミング、神懸り的な間隙を狙ったのは、バゼットを生かす意思がなければ有り得ない。

「そんなにも死にたかったか、赤枝の女騎士よ。お主が生き延びたのは偶然でも奇跡でもない。イリヤスフィールが急所を外しておらなんだら、お主は儂が介入する間もなく死んでおったであろうよ」

 心臓を抉った一本の針。意識的にか無意識的にか、イリヤスフィールはその芯を僅かに外した。それでもバゼットが魔術師でなければ、その身に刻んでいた防御用のルーンの守護がなければ死んでいた程の傷であったが、命の糸は千切れる事なく繋がれていた。

 一瞬の間隙を衝いた致死にも至る一刺し。もし貫かれると同時に意識を手離していれば文字通りに死んでいた筈の命。繋ぎ止めたのはバゼットの生に対する執着だ。

「カカ、やり口は父親に似て悪辣だが、詰めが甘いの。いや、父親ほど冷酷にはなれなんだというところか。いずれにせよその拾った命、大事にするがよい」

「っ……、貴方は私の質問に答えていない……! 何故だッ、何故私を助ける……!?」

「二度同じ事を口にするのは好かんがの。その方が都合が良い──ただそれだけよ。そして覚えておくが良い。お主は、儂に生かされたのだとな」

「…………ッ!」

 ぎょろりと、黒い汚泥のような瞳がバゼットを見る。ぞわりと背筋を走る寒気。単純な戦闘力で比較するのなら、万全でさえあればバゼットの方が勝るだろう。だがこの男からは得体の知れない怖気を感じる。

 サーヴァントとマスターの集う死の森の中、唯一部外の人間が紛れ込んでなお己にとって都合の良い状況を演出する妖怪。
 この男は恐らく、バゼットや他の参加者連中とは違うものを見ている。あるいはその先にあるもの、見通せない闇の奥を。

「さて、早々に退かせて貰おうか。いつ誰が襲い掛かってくるともしれんのでな」

 背を折った姿でありながら、間桐臓硯はイリヤスフィールを小脇に抱えて一歩退く。リーゼリットは動けない。主の命が握られている以上、迂闊には動けない。バゼットも当然完治には程遠い。今抗ったところで幼子のようにあしらわれるだろう。

 仮に体力が戻ったところで、バゼットにはイリヤスフィールを助ける理由がない。臓硯の言動から確かにイリヤスフィールと聖杯の器に関連性があるようだが、その確保は今でなくとも良い。

 酷なようだが、バゼットにとってみればイリヤスフィールもまた斃すべき敵の一人。命を賭して助け出すだけの理由は、何処を探しても見当たらない。

「アインツベルンの侍従よ、そこな女騎士は殺すでないぞ。それと衛宮切嗣に伝えておくがいい。イリヤスフィールの無事は保障すると。お主らが、余計な事をしなければな」

 闇に没する廊下の奥へと消えていく臓硯とイリヤスフィール。この場にいる誰にも、その撤退を妨げる事は出来なかった。

「…………」

 臓硯がその姿を完全に消した後、バゼットはゆらりと立ち上がった。傷は完全には癒えていないが、ある程度の行動を可能とする程度には回復出来た。まともな戦闘など望むべくもないが、このまま此処でいつまでも膝をついているわけにもいかない。

「……貴女は、どうするのですか」

 振り仰いだ先の階下には、感情の失せた瞳を虚空に泳がせる白い侍従が一人。守るべき主を守り通せなかった彼女の心は、如何なるものか。

「…………」

 リーゼリットは答えない。彼女の情報処理能力では、現状を打破するだけの決定が下せない。後を追うのは簡単だ。だがそうしたところで一体何が出来るという。
 臓硯の手中にイリヤスフィールが落ちた時点で、既に敗北は決定付けられていた。追い縋ったところで人質を盾にされては何を救う事も叶わない。

 これは彼女の落ち度ではない。リーゼリットは主の意思に従い主の敵を討とうとした。不測があったとすれば臓硯の動きを読み切れなかった事。同盟者の裏切りを予測出来なかったアインツベルンのマスター達にこそ非があろう。

 今もって姿を見せない衛宮切嗣。あの男が今何処で何をしているかなど、この場にいる二人には知る由もない。

「…………」

 動きのない侍従から視線を切り、バゼットは呼吸を整える。血に染まったスーツの乱れを正し、これからの行動を思考する。

 バゼットの目的は失敗に終わった、キャスターのマスターであるイリヤスフィールを討つという目的は果たす事が出来なくなった。

 まともな戦闘力さえも失った己は、戦場において足手纏いにしかならないと正しく把握している。自身の現状をも鑑みるのなら、此処は撤退こそが最善だ。
 いずれにせよランサーかモードレッドとの合流を急ぎたい。森の入り口付近に残してきたモードレッドよりも、ランサーの方が位置的には近いだろう。

 まだ走れるだけの体力は戻っていない。それでも緩やかに歩み出そうとしたその時──

「痛ッ……!?」

 突如、右腕に走った鋭い痛み。脳髄へと突き抜ける正体不明の痛みに一瞬怯んだバゼットが、その正体を探ろうと革手袋を外したその手の甲には、

「────なっ」

 そこに描かれているべき赤い紋様が、彼女と彼を繋ぐ唯一の令呪が、バゼットの身体から完全に消失していた。

「……ランサーッ!?」

 バゼットは震える足を叱咤し階下へと走る。軋む心臓に鞭を打ち、頽れそうな膝を強引に前へと進ませる。

 令呪が失われた意味。
 消えてしまった理由。

 幾らでも推測が出来、想像が出来る可能性の全てをシャットアウトしバゼットは森へと向かう。

 何かの間違いであって欲しいと。
 そんな筈があるわけがないと。

 そんな──絶望的な希望だけを、血に濡れた胸に抱いて。


+++


 地を覆い尽くす化外。肉のない骸と足の生えた樹木。戦場となった広場を埋め尽くす雑兵の群れ。世に名を連ねる英霊にとってみれば物の数でもないそれだが、

「チィ──! おい、テメェなんとか出来ねえのかッ!」

 朱色の槍が夜の闇と霧を横薙ぎに払う。力任せに放たれたその一撃で、十の骸と一の巨木が夜に散った。

 一瞬後には開いた空間は即座に別の化外が埋め尽くす。森の彼方より押し寄せる木と骨の大軍。十や二十ならば問題にならない。百や二百でもどうとでもなる。だがそれが千や万に上れば、さしもの英雄達とて苦戦を強いられる。

「泣き言を言う暇があるのなら一体でも多く敵を倒せ。そら、次が来るぞ……!」

 弓兵でありながら両の手で双剣を担い、迫り来る大軍を押し留めるアーチャー。既に戦いが始まってどれくらいの時間が経過したか、どれだけの敵を切り倒したか、そんなものはランサーもアーチャーも覚えていない。

 数えるのも馬鹿らしい数の敵を屠り、襲い来る敵の打倒のみに専心する。結果、ただの一撃たりとも致命傷を負う事なく善戦している。しているように見える。

 見通せない森の奥の何処かで量産されている骸の兵士が、暗闇の中から次から次へと現われ、樹精もまた、骸ほどの数はなくともその巨大さで視界を遮りうねる蔦が鞭のように襲い来る。

 倒せど倒せど尽きる事のない悪性。まるで切った端から増殖するアメーバのよう。
 何よりも過酷なのは、終わりの見えないこの戦いそのもの。体力が尽きるよりも先に精神が参る。

 どれだけの敵を倒せば終わりが来るのか。
 そもそもこの敵は本当に尽きるのか? 

 そんな疑問と戦いながら、ただひたすらに二人は剣と槍を振るい続ける。

「ふふ……」

 その遥か頭上、星の天幕に腰掛けた魔女は一人、妖艶に微笑み、終わりのない戦いを強いられている剣闘士を眺めている。

 そもそも魔女にはこの戦いを終わらせるつもりなど更々なかった。安価な竜牙兵と、結界の力とその内に満ちる魔力で動員可能な樹精を用いた消耗戦。

 アーチャーやランサーが何を仕掛けようと思っても、頭上を制圧している以上は即座に反応が出来る。たとえ宝具に訴えようとしても、それをさせまいと魔力弾の雨をいつでも撃てるよう砲身に弾は装填している。

 事実、現状を打破しようとして眼下の二人が動いたのは一度や二度ではない。その度にキャスターは致死にも至る魔力弾を浴びせ、そしてこの戦場には、もう一人の英霊が存在している。

 キャスターの行動に呼応するだけでなく、不規則に襲い掛かってくる間桐桜の従えているライダー。紫紺の髪を夜に靡かせ、まるで蛇のように骨と木の大海をすり抜け、手にする釘と鎖で結ばれた奇怪な短剣を、広場の中心で踊る二人に繰り出す。

 その一撃は凡庸で、対処の難しいものではない。問題は、いつ仕掛けてくるのかまるで分からず、身動きの取れない二人と比べてて変幻自在に襲い掛かってくる事。
 そしてヒットアンドアウェイでの一撃離脱を戦法としており、深追いの出来ないこの状況では一方的にされるがままであり、厄介な事この上なかった。

 更にはライダーの素性や能力は未だ不明。魔眼の保有者である可能性が極めて高いが、戦端が切られてから一度としてその眼帯の奥に輝く瞳は月の下に晒されていない。
 能力の分からない相手に不用意には仕掛けられない。数を減らさない雑兵と魔女の目もある事から、槍兵も弓兵も頭上に居座る魔女の掌で踊る事を余儀なくされていた。

「────おい、このままじゃ埒があかねぇ」

 とはいえ、いつまでもこうしているわけにはいかない。森の入り口でセイバーとバーサーカーを抑えている二人や、奥へと進んだマスター達が敵を打倒し加勢に来てくれるのを期待するのは柄じゃない。

 此処は二人に任されたのだ。であれば、現状を打破しキャスターを討つのは彼らの手でなければならない。

雑魚(した)はやるから魔女(うえ)をやれって言ったら、出来るかアーチャー」

「…………」

 一帯の敵をとりあえず排除し、広場の中央で背中合わせに武器を構える赤と青。包囲網はすぐさま狭まり、数秒もすればまた骸と木を相手に消耗を強いられるばかりの無駄な戦いをしなければならない。
 これはその間隙。十秒にも満たない時間に開かれた、たった二人の作戦会議。

 これまで仕掛けようとして失敗に終わった原因の一つに、それぞれが個々に包囲を突破しようとした事がある。
 足並みの揃わない状態での強行策は、曲がりなりにも連携しこちらの足と手を止めに来るキャスターとライダーの前に敗れ去った。

 アーチャーとランサーは互いをこの一戦、敵視してはいないまでも、完全に背を預け合う事をしていない。無意識の反発。反りが合わない。それほど面識があるわけでもない二人だが、互いが互いをやり辛い相手だと認識している。

 それゆえの不揃い。自らの力に対する自負もあるのだろうが、背を預ける相手に信頼を置かぬ状態ではこの包囲を突破する事は出来ないと、そう結論に至るにはそれほど時間は掛からなかった。

「……逆だ。私が雑魚を相手取る。君はキャスターを狙え」

 ランサーにしてみれば、遠距離狙撃を可能とするアーチャーの方が天に居座る魔女を撃ち落としやすいと思いそう提案したつもりだったが、僅か数秒の黙考の後、アーチャーが弾き出した回答は真逆のものだった。

「へっ──そうかい。じゃあ雑魚の相手は任せるとすらぁ…………!!」

 ランサーはアーチャーの能力を認めている。真っ当にやり合えば自分が勝つのは揺ぎ無いと見ているが、この弓兵を単純な戦闘力で測るのは間違いだ。
 足りない力を知恵で補い、積み上げた研鑽で以って覆す。端的に言って、戦のやり方が巧い。どんな修羅場を潜り抜けてきたのかは知らないが、相当に場数をこなしているのは見て取れる。

 そんな男が現状を打破する上で最善のプロセスを最短で弾き出したのだ。ならば後は己自身をただ一振りの槍に変え、目標を貫く事だけに集中すればいい。

 会議の終わりと共に襲い来る骸の群れ。それを薙ぎ払い、その勢いで地に円陣を描く。陣に記されたのは神代のルーン文字。描かれた魔法陣は淡く発光し、小規模の結界として成立する。

 アーチャーを信用していないわけではないが、キャスターの妨害やライダーの横槍を防ぐ為の守護結界。そう長く保つ代物ではないが、アーチャーの加勢もあれば宝具を解放する時間程度は稼げる。

 そう思い、やおら槍を構えようとしたその時────

「ッ────!?」

 全身を駆け抜ける一筋の電撃。
 耳の内側で轟々と鳴り響く警報。

 レイラインで結ばれた先から送られてくるその火急を告げるシグナルは、マスターの身に異常が起きた事を告げるサイン。

 魔力線で結ばれたマスターとサーヴァントは、ある程度の距離内であれば互いの位置を知覚する事が出来る。
 今、ランサーに降り注いだシグナルはその最上級。マスターの身に死の危険が迫った時のみ奔る、距離の概念を無視した第六感。虫の報せとも呼べるもの。

“バゼット、まさか──!”

 最早予感を超え確信となってランサーは思い知る。森の奥へと向かったバゼットの身に危機が迫っていると。一秒でも早く主の下に馳せ参じなければ、取り返しのつかない事態になると。

「おおおおおおおおおおおおおおおおっ……!!」

「っ──ランサー……!?」

 裂帛の気迫を放ち地に身体を沈める青き豹。しなやかなバネを誇る四肢を四足動物の如く撓らせ、構えられた槍は穂先は大地を削り、獣の眼光は空に居座る怨敵を睨む。

 遅れて、雑兵の始末に追われていたアーチャーがランサーの異変に気付く。

「チィ……!」

 既にスタートを待つスプリンターのように宝具を放つ姿勢に移行したランサーを押し留める術はアーチャーにはない。であれば、いま己に出来る最善手を模索し、一秒の後に実行に移す。

「────投影(トレース)……!」

 瞬間、広場の上空に現われたのは無数の剣群。洋の東西を問わず、刃先を地に向けた剣の群れが、主の号砲に従い雨となって刹那の内に降り注ぐ。

 地を埋め尽くす骨の大軍が砕け散る。小気味の良い音を立て、竜の牙で形作られた兵士がその身体を切り刻まれ塵となって消えていく。樹精はその蠢く足を縫い止められ、振るう枝をこそぎ落されて行く。

 一瞬の内にして広場に犇いていた雑兵共は沈黙した。森の奥には未だ幾千もの竜牙兵が待機しているのだろうが、彼らが広場を埋め尽くすまでには数秒の猶予がある。

 邪魔者は消えた。これで心置きなくランサーはキャスターを狙い穿てる──そう楽観する事はまだ、許されない。

 砕け散った骨の残骸、霧に霞む塵の向こうに、立ち尽くす黒と紫紺の女を見る。鋼の森の奥──傷を負った様子のない女は、片手には釘のような短剣を、そして残る片腕は封じられた眼帯へとその指を掛けていた。

 アーチャーが次の一手を仕掛ける寸前、届かぬ刹那の間に、遂にその瞳は開かれた。

 水晶のような眼球。
 四角い瞳孔。
 虹彩は凝固している。
 億にいたる網膜の細胞はその悉くが第六架空要素(エーテル)で出来ている。

 その色のない瞳で見つめられた時──否、その瞳が世界を見つめた時、全ての生物はその活動を止めた。

「ぐっ……!?」

 不意に身体へと圧し掛かる重圧。抵抗(レジスト)を無為にする強制力。見るもの全てを、視界に納めた全てのものを石へと変える、黄金をも凌駕する宝石と呼ばれし魔眼。
 神代の怪異──メドゥーサがその身に宿したとされる悪魔の瞳が、今現代へと蘇り古の英雄達へと再び牙を剥く。

 アーチャーとランサーの身を襲う重圧。低ランクの魔力値の者ならば即座に石へと変えられているところだが、ランサーは敷いたルーンの結界で、アーチャーは弓兵にしては高い魔力値のお陰で判定を逃れ、二人は石化するには至らなかった。

 とはいえ、瞳に睨まれてから身を苛む重圧は消えてくれない。メドゥーサの魔眼は石化を逃れた者をさえ捕らえ、その動きを低下させる。

 そして魔眼が開かれたの同時、多重展開された魔法陣が一面の夜空を埋め尽くし、装填された魔力弾がレーザーの如き照射を開始した。

 降り注ぐ光の雨。突き立つ剣の森を蹂躙する一斉掃射。こと此処に至りライダーもまた打って出る。手にした釘剣を投擲し、鎖は蛇のようにうねり夜を渡る。

 それを防ぎ止めるのは弓兵の双剣。その身を襲う重圧に耐えながら、ライダーの横合いからの攻撃とキャスターによる頭上よりの掃射の両方を捌き、弾き、いなし、迎撃する。

 宝具解放の体勢に入ったランサーを、庇うかのように。

「“突き穿つ(ゲイ)────”」

 それを知ってか知らずか、あるいは全幅の信頼を預けてか、ランサーは手にした魔槍の真名を紐解く。

 ルーンの守護陣は弓兵の迎撃を抜けてくる魔力弾を防ぎ、魔眼の重圧をすら和らげる。ましてや彼は随一の英雄。怪物退治は幾度となく経験している。相手が魔に属する者であれば臆するにあたわない。

 怪物殺しは英雄の誇り(サガ)であり代名詞(サーガ)。人々を守る英雄が、人々を食らう怪物の前に敗れ去る事など有り得ない。

 目標はあくまで頭上の魔女。月を背に妖しげな口元を湛える森の主。

 大気より魔力を食らい発動の糧とする魔槍。この森の支配者はキャスター。であるのなら当然、森に満ちる魔力もまた魔女の思いのまま。掠め取った魔力は、通常時より遅れてではあるが槍に満ち、必要充分に達している。

 たとえこの一撃を外そうとも、キャスターの意識を逸らす事が出来ればバゼットの下へと辿り着ける。

 守るべき主を見捨てて手に入れる戦果に意味などあろうか。キャスター討伐は大目的であれど、その為にマスターを犠牲にしては本末転倒もいいところだ。

 そして何より、恐れる事など必要ない。彼の手の中で貪欲に魔力を貪り、拍動を刻む魔槍こそは、一度放てば心臓を必ず貫くと言われた名高き槍。王を打ち倒す王の槍。

 キャスターを斃し、バゼットを助ける──この一撃は、そんな不可能を可能とする……

「────ようやく隙をみせたわね」

 残る一節を謳い上げ、空に向けて槍を放てば全てが決する瞬間。引き絞った槍が今まさに放たれんとしたその、刹那。
 天を見上げていたランサーの視界から魔女が掻き消える。何の前触れもなく、それこそ幻か何かのように。

「…………ッ!?」

 気配を察し視線を後方に流したその時、そこにあったのは紫紺のローブ。目深に被ったフードの奥で、三日月に嗤う魔女の姿。

 敵が必殺を期した一撃を今まさに放たんとし、意識の全てが一点に集中する間隙を狙った空間転移。転移先も逃亡を狙っての後退ではなく、首を刈る為の接近。これまで一度として敵の接近を許さず、接近を行わなかった魔女が打った秘の一手。

 その手には、奇怪な形をした短刀が握られており────

「“破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)”」

 既に宝具を放つ体勢に入っていたランサーは、予期し得なかった魔女の間近への転移に対応する術はなく。
 石化の魔眼(キュベレイ)の重圧と魔力弾、ライダーの迎撃に手を割かなければならなかったアーチャーが介入を行う隙などある筈もなく。

 魔女の手にした折れ曲がった短刀は、滑らかにランサーの背へと突き立てられた。

 一度放てば心臓を穿つ槍──ランサーの手にしたその槍は、放つ事さえ許されず、夜の中で沈黙した。


+++


 空から降り注ぐ魔力弾の爆撃は止み、大地を覆うのは巻き上げられた砂塵。夜の黒と霧の白に混じり、視界不良に拍車を掛ける。

 そんな中、その光景だけは誰からも見えていた。射竦めるように見つめた先──青い背中に突き立てられた、魔女の短剣。

 魔女の短剣には殺傷能力などない。奇怪な形、折れ曲がった刀身。稲妻の形を描いたそれは、少し力を込めれば折れてしまいそうなほど脆く見える。
 折れこそしなかったが、ランサーの背に差し込まれたのは刃先だけ。心臓を刈り取るほどの威力など当然にしてある筈もなく、事実毛ほどの傷しかランサーは付けられていない。

 だが、それだけでこの戦場の空気が一変した。何が変わったわけでもない。戦闘の痕跡こそ無数に点在しているが、異常と呼べる異常は、誰の目にも映ってはいない。

「テメェ……何をした?」

 その中で唯一、刺されたランサーだけがいち早く異常を感じ取る。先程までの鳴り響いていた警告音、マスターの窮地を告げるシグナルが刺された直後に鳴り止んだ。
 そして己の身体に流れ込む魔力の源流が変化している。遠く、微かに感じ取れていたバゼットの気配を察する事は出来ず、代わりに、充溢する魔力を槍兵の身体に注ぎ込むのは、彼の背に立つ魔女に他ならない。

「簡単な事よ……貴方の契約、それそのものを破戒させて貰っただけ」

 魔女の短剣は、ランサーの肉体を斬り裂いたのではなく──彼とそのマスターを繋いでいた契約を断ち切り、新たに自分自身へとその矛先を塗り替えた。

 神代に生きた裏切りの魔女。人々の望むままの魔女を、その生涯演じ続けた非業の王女の生涯を具現化した裏切りと否定の剣。
 ありとあらゆる魔を破戒する、彼女にこそ相応しき契約破りの短剣だ。

「貴方はこれで私のもの。さあランサー、まずはあの目障りな男を排除なさい」

 魔女の言葉は重くランサーを縛り付ける。

 身を縛る言葉の重圧。新たなマスターとなったキャスターの言葉はランサーの言動を縛り付ける。

 サーヴァントがサーヴァントを従えるという、本来ならば有り得ない契約。それを可能とするのはキャスターが魔術師のクラスの英霊だからであり、そしてただの言葉だけで重い戒めを施せるのは、彼女が規格外の魔術師であるからに他ならない。

 ただの魔術師と比して、彼女の言葉は重みが違う。神代の言葉をも謳うその唇から放たれる一言一言は、それぞれが鎖となって従者を締め上げる。

「そいつぁ……聞けない相談だな」

 ただこの男が、そんなものに屈する筈はない。確かに下手を打った。まさか契約を破られるばかりか主まで変えられるとは予想だにしなかった。
 ああ、認めよう。この己は魔女の策の前に敗れ去ったのだと。守るべき主の下へと参じる事も叶わぬ愚か者だと。

「マスター面してオレを顎で使おうなんざ許せるわけがねぇだろう……!」

 だからと言って、新しい主の命令にはい、そうですかと頷いてやるわけがない。契約は結ばれただろう。主に従う義務もあるだろう。
 しかしそんな建前で、この男の誇りを折れるものか。頭は垂れても尻尾は振らない。それがせめてもの意地というものだ。

「そう、なら令呪を以って命じるわ──私に従いなさい」

 魔女の手の甲に輝くのは赤い二画の紋様。バゼットの手に輝いていた筈の剣の形を模した令呪が、キャスターの手の中で輝きを灯している。
 そして謳い上げられた文言。絶対遵守の命令は、より強力な縛鎖となってランサーを羽交い絞めにする。

「ぐっ……!」

 令呪の強制力に耐えられる程の対魔力の持ち主など、サーヴァントの中でもセイバーのクラスくらいのものだ。
 ましてやマスターがキャスターであるとすれば、最高位の対魔力持ちでなければ抗う事すらも許されない。

 どれだけ抵抗の意思を滲ませようと、身体は脳の命令を無視して勝手に動く。魔女を穿つ筈の槍は、赤き弓兵の心臓へとその矛先を向けた。

「ふん……似合いの末路だなランサー。こうも容易く鞍替えを受け入れるとは、所詮犬は犬か」

「…………ッ」

 アーチャーの軽口にランサーは応えない。ランサーの誇りを侮辱するも当然の挑発を受けてなお、青き槍兵はただ静かに刃を軋ませるだけ。
 ただ、その瞳に込められた感情は、視線に乗せられた憎悪は、果たして誰に向けられたものか。唇から血を流すほどに歯を噛んで耐えているのは、ただの屈辱ではない事を、アーチャーは知っている。

「さあ、終わりよアーチャー。後は貴方を斃せば趨勢は決する」

 赤い騎士にとって、状況は最悪の四面楚歌。
 広場を埋め尽くし始めた雑兵。
 上空へと舞い上がった魔女。
 石化の重圧は緩まず、手にした釘剣の鎖をじゃらじゃらと打ち鳴らすライダー。

 そして眼前には朱色の槍を担う、たった数瞬前まで肩を並べて戦った男の姿がある。

「────体は剣で出来ている(I am the bone of my sword)……」

 アーチャーが詠唱を始めた瞬間、キャスターの魔力弾が空より放たれ、ライダーは釘剣を投擲し、ランサーは地を蹴った。

 赤い弓兵の謳い上げた言葉こそ、彼自身を現す呪文。■■■■■■の、本質を体現するたった一つの言葉。
 その身は剣。無限の剣を内包する、たった一振りの剣。その骨子が捻れ狂おうとも、その身は大地に突き立ち、天を目指して屹立する。

 たとえそこが死地であろうとも────彼が、己の在り方を違える事など有り得ない。

 刹那の後、顕現したのは無数の剣。先の爆撃にも匹敵する、古今東西ありとあらゆる剣と呼ばれし業物達が、威風を纏いその刀身で月明かりを照り返す。
 同時に具現化するのは一枚の盾。花弁にも似た形を持つ三枚羽の盾だった。練成の速度を重視した結果、その盾は本来の性能から大きく劣化している。

 ただアーチャーの目的を鑑みれば、それで必要充分だという判断だった。

 生み出された盾はランサーの進路を遮り、降り注ぐ光弾をその身で弾く。無数の剣はその矛先を定めぬままに地へと降り注ぎ、雑兵を蹴散らしライダーとランサーの足を一瞬だけ、しかし確実に止めた。

 剣と盾が生んだ一瞬の間。瞬きの後には盾は容易く破られ、剣はただ行く手を遮るだけの障害になるだろう。
 しかしアーチャーは、この一瞬だけを手に入れられればそれで充分だった。

 不意に、広場に爆炎が巻き上がる。大地に突き立てられた無数の剣──その内の一本が自壊し、その身に秘めた神秘を拡散し爆発となって解き放たれたのだ。

「なっ……」

 その規模は広場の半分を覆い尽くすもの。剣に込められていた神秘の量は、並の宝具にも匹敵している。
 それは壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)と称されるもの。英霊が手にする半身、宝具を自壊させ一度限りの破壊を撒き散らす不可逆の幻想。

 アーチャーはそれを無作為に行った。突き立った剣の数は優に三十を超え、連鎖的にその内の幾本かを爆破させていった。

 広場を覆う白煙。英霊とて直撃を被ればただでは済まない幻想の崩壊の連続行使。ただでさえ視界の悪い森の中、燃え盛る炎と立ち昇る煙は一帯を覆い尽くし、アーチャーへの追撃など、当然にして三者には不可能なものだった。

 そして白煙が晴れた先。未だ地を走る炎と、爆破を免れた幾本かの剣が突き立つ広場の中に、

「鮮やかな引き際ね。スマートではないけれど、してやられたわ」

 アーチャーの姿だけが、忽然と掻き消えていた。

 地を眇める魔女の瞳には、鈍い輝きを放つ剣が突き立っている。宝具にも匹敵する剣群を無数に持ち、躊躇なく破壊してのけるその異常。
 今もって名の知れぬ錬鉄の英霊。その正体に、キャスターは少し惹かれるものを見た。

“手に入れるのなら、あっちの方が面白そうだったかしら”

 後の祭りだが、くすりと魔女は微笑んだ。

 アーチャーの追跡など簡単な事。この森は魔女の庭。今までこそ己が目的を達成する為に細心の注意を払い、眼下の戦場に意識を傾けていたが、その気になれば森の中の全てを手に取るように把握出来る。

 ともあれ、アーチャーが巻き起こした爆発は彼自身をも巻き込んで行われた。それがゆえに不意を打たれたが、あの男も間抜けではない。致命的な手傷を負ってなくとも、少なくはない傷をその身に受けたと考えられる。

 ランサーを強奪した事でアインツベルンと間桐の側に戦力の天秤は傾いた。押し切るのなら今。足場の優位もあるこの森で決着をつけるべきだ。

「…………サクラッ!?」

 不意に、眼帯で再び石化の瞳を覆ったライダーが振り仰ぐ。鮮やかな紫紺の髪が揺れ、彼女は弾かれたように森の中へと消えていく。

 それは恐らく、ランサーと同じく主の窮地を察してのもの。魔女の瞳には、地に這い蹲らされた間桐桜の姿が見えている。少女の軋む頭蓋に足を掛けているのは遠坂凛。冷徹な魔女の姿。

 アーチャーが逃亡を図った先は恐らく凛の下だろう。ランサーが奪われた以上、戦力差は明確で、真っ当なやり方では勝利は掴めない。
 どのような選択を行うにしろ、マスターとの合流を図るのは妥当だろう。

「ランサー、貴方はアーチャーを追いなさい」

「…………」

 青の槍兵は応えず、視線を上げて魔女を一睨みした後、軽やかな跳躍で森の奥へと消えていく。

「さて……と」

 とりあえず第一目標を達成した魔女は、今一度森を俯瞰する。

 既に森の入り口で行われていた円卓の騎士達の戦いは終結し、セイバーはこちらへと向かっている。間桐と遠坂の戦いも、終わりは近い。後は────

「…………ッ!?」

 その時、魔女が捉えた映像は、彼女の想定外のものだった。それは事前に立てた作戦を覆すもの。あってはならない異常だった。

「何を考えているの、あの男は……!」

 常に妖しげな笑みを湛えていた魔女の口元が歪む。振り仰いだ先、遥か後方──森の中心より更にその向こう。
 魔女がその瞳で見たものは、同盟者たる間桐臓硯によって、連れ攫われていく己がマスターの姿だった。


/28


 夜に燃え盛る紅蓮の炎。
 闇を飛翔する黒き甲虫。

 遠坂時臣と間桐雁夜の戦場となった空間は、他者の入り込むの余地のない死地へと変貌していた。

 地を走る炎の波は足の踏み場を失くすほど燃え広がり、水気の防御膜でその身を覆った数百、数千の蟲の群れは、森に現界した炎の海を渡り、敵手たる時臣の首を刈り取らんと鋭利な牙を逆向ける。

 炎に対する適性を獲得した雁夜の蟲を炎術で焼き尽くすのは至難を極めた。雁夜の十年の集大成として結実した対時臣用の甲虫。鋼鉄の弾丸をすら容易く溶かし尽くす炎をすら、その蟲は意に介さず戦場を蹂躙する。

「チィ……!」

 よって時臣は、自身の資質から外れた魔術を以って蟲の迎撃を余儀なくされた。炎に対する適性を強化しすぎた弊害か、蟲は他の属性に対しては酷く脆い。
 時臣は掴み取ったエメラルドを、自身の魔術適性による炎として行使せず、鉱石の特性を利用し大気をすら切り裂く風の刃として振るい、襲い来た蟲の一団を殲滅した。

 その宝石の使い方は時臣に負担を強いる。娘の凛のような五代属性持ちならば宝石の力を損なう事なく最大限の行使が可能であるが、時臣のような単一属性しか持たない者が他の属性を操ろうというのなら、攻撃の選択肢は狭まり、消耗は倍加する。

 自らの腕に、これまで積み上げた研鑽に対する自負に揺るぎはない。だが、このまま消耗戦を強いられれば、敵に対する明確な策を用意していた雁夜に軍配が上がるのはそう遠くない未来にある結末だ。

「……正直なところ、驚きを隠せないな雁夜。たとえ十年の研鑽があろうとも、それよりも長く魔道を歩んで来た私に、こうまで匹敵出来るとはね」

 雁夜の周囲に滞空する未だ数百を下らない蟲の大群。蟲が炎に対する適性を有していようとも、雁夜自身はあくまでただの魔術師だ。地に走る炎に阻まれ、時臣に近付く事は叶わない。

 それゆえに両者は距離を保ったまま、戦闘が始まってからこれまで遠距離での攻防を繰り広げてきた。互いに決め手を欠いたまま、されど消耗の度合いで言えば、炎以外の属性を宿す宝石が確実に目減りしている時臣の方が大きいか。

「戦闘における汎用性を捨て、ただ私に対してのみ特化した蟲の精製と行使……ああ、その執念だけは認めよう。そんなにも君は、私が憎かったか」

「……当然だろう。俺の十年は、貴様を屈服させる為にあったも同然だからな」

「分からないな……なぜそうまで私を敵視する。そんなにも桜を間桐に送った事が気に食わないのか?」

「何度も言わせるなッ! あんな地獄の先に、彼女の望む幸福など有り得ない……! そんな地獄へと突き落とした貴様は、断罪されて当然だろうがッ!」

 魔術師として娘の才能の開花、それに伴う栄華ある人生を慮るのは、親としての当然の務めであると時臣は考えている。ただ生きているだけの、呼吸を刻んでいるだけの人生に一体どれほどの価値がある。

 だから時臣には雁夜の言葉が分からない。

「では君は私にどうすれば良かったというのかな。桜の才能を潰し、希少な魔術回路を徹底的に破壊し、ただ家族として接していれば良かったと? 魔道に生きる遠坂にあって、唯一人普通の人間として生かすべきだったとでも?」

「……少なくとも、桜ちゃんはそれを望んでいた筈だ。父と、母と……姉と。生まれた家で家族と共に暮らす事──そんな当たり前をあの娘は望み、願っていた筈だ」

 人としての幸福。当たり前に人が持ち得るもの。温かな陽だまりの中で、生きていければそれで良かった。
 魔道なんてものを継ぎたいと思っていないし、欲しいとも思っていなかった。桜が心から求めていたものは、そんな当たり前で──それを、父が奪い去ったのだ。

「それは家畜の生だよ、雁夜」

 娘の求めた当たり前の幸福を、父は一言で切って捨てた。

「ただ生きているだけの人間に価値などない。誰かに生かされているだけの人間に意味などない。
 安寧の中で肥えた豚のように生きて、一体何の意味と価値がある。与えられる幸福を貪る家畜を人間の生とは私は認めない」

 人生とは、苦難を積み上げその先にある栄光を目指すもの。始まりから全てを諦め放棄した生など、人が歩む道ではない。ただ生まれ、ただ生きて、ただ誰かから与えられるものだけで動いている人間を、本当に生きているとは言える筈がない。

「欲しいものがあるのなら、手にする為の努力をすれば良い。人は生まれを選べないが、生き方は選べるのだから。
 私は桜の未来を想い、道を提示した。それが不服であったのなら、自らの力で望むものを掴み取るべきだった」

 一拍を置き、時臣は続ける。

「今もって桜が間桐に居るのはあの娘がそう選択した結果だ。選ばない、というのも一つの選択。今を変える努力をしなかった桜に、どんな願いを心に想ったところで、現実にする事は叶わない」

 今よりも悪化する未来を恐れ、足を踏み出さなかった者に、微笑む女神など何処にもいない。栄冠が輝くのは、いつの世も足掻き続けた者の頭上だけだ。

「それは力ある者の結論だ。おまえには、足掻く事さえ許されない地獄がある事も、手を伸ばしてさえ掴めないものがある事を知らない」

「知っているとも。私とてただの凡夫。どれだけ足掻こうと、血反吐を吐くほどの研鑽を積もうと、届かない頂がある事を知っている。高みに指を掛けようとし、死ぬよりも悲惨な地獄を何度となく味わった。
 それでも私は諦めなかった。自身で叶わぬものであるのなら、我が子にその道を継いで欲しいと願い、形にした」

 凛の才能と力量は二十を前にして時臣を凌駕している。その為、時臣は遠坂の秘門たる魔術刻印を既に譲渡し、名目上の当主の座に甘んじている。道は何も一つではない。見方を変えれば幾らでも先は広がっている。

 そんな未来から目を逸らし、過去にナスタルジックな想いを抱き続ける者の想いなど、汲んでやる謂れなど何処にあるものか。

「家畜の安寧……ああ、結構だとも。だが我が遠坂の血を継いだ者に、そんな怠惰は許されない。欲しいものがあるのなら、必死に手を伸ばせ。自由を掴み取る為に、飢えた狼のように足掻き続けるべきだ」

 遠坂の家訓たる常に余裕を持って優雅たれ、という教えも、あくまで人の目のあるところでの話だ。その裏で流された血と涙を誰にも悟らせず、苦痛と悲鳴を押し殺して、威風を纏い生きるもの。

 それが遠坂の人間のあるべき姿。六代に渡り受け継がれてきた、彼らの魂だ。

「…………」

 雁夜は反論すべき言葉を口に出来ず、沈黙した。

 時臣の言葉は裏を返せば、桜が心から遠坂に帰りたかったのであれば、その為の努力を尽くすべきだったと言っている。奈落の底でただじっと身体を打つ鞭に耐えるのでなく、その地獄から這い上がるべきだったと。

 そうして桜が再び遠坂の門戸を叩くのであれば、その想いが真実時臣の眼鏡に適うものであったのならば、彼女が望んだ幸福を、失った筈の陽だまりを手にする事も出来たかもしれないのだと。

 それは、時臣なりの優しさなのかもしれない。千尋の谷から我が子を突き落とすも同然の所業だが、谷を這い上がる気概をすら見せぬ者を一顧だにしない冷酷さはあれど、谷を這い上がってきた者を蹴落とすほどこの男は狂ってはいない。

 桜は前者。谷の底で、じっと助けが来るのを待つばかりだった獅子。自らが持つ爪を、岩壁にすら突き立てなかったからこその今なのだと。

 ただ、それでも。

「やっぱり俺には、おまえが理解出来ないよ時臣。子を持たない俺に、親の心は分からないが、おまえのそれが正しいとは思えない。
 悲しみに暮れる娘を前にしてなお揺るがぬおまえが、絶望に沈む我が子の現状を知ってなお見過ごす貴様は──どうしようもなく魔術師だ」

 間桐雁夜が心底から嫌うもの。父であり祖父でもある、間桐臓硯と同じ生き物。腐臭を放ち世界の裏側を生きる、この世で最もおぞましい生き物。

「甚だ不本意だが今は君もその魔術師だろうに。私に抗する為、桜の現状を変える為に、君は一度は逃げ出した魔道と向き合ったのだろう?」

「間違えるな時臣。俺は確かに魔道を背負うと覚悟したが────俺はただの人間だ」

 少女の涙を救う為。今一度陽だまりへと連れ戻す為。あの頃──母と姉に囲まれて、無邪気に笑っていたあの頃の彼女に、もう一度あの笑顔を見せて欲しいから。

「俺をおまえらみたいな薄汚い魔術師と一緒にしないでくれ。俺が心に誓った約束を、おまえ達の欲望と同列に語ってくれるなッ……!」

 沸き立つ甲虫。空を走る黒の一団。煌く炎の海を渡り、ステッキを構えた時臣の首を目掛けて襲い掛かる。

「我らの宿願……聖杯による根源への到達。それを薄汚いと、浅ましいと罵るのであれば──」

 荒れ狂う風の刃が蟲を蹂躙する。吹き荒ぶ風は地を走る炎の勢いを増し、陽炎と夜を染める。

「──命を賭けろ。ただ人の身で魔術師の闘争に挑むのであれば、命くらい賭けずに勝利を掴む事など不可能だ」

「貴様に言われるまでもなく、俺は十年前からこの命を賭しているッ──!」

 この命はただ、あの子の為に。

 その想いが何処から湧き出たものかなどと、振り返る暇もなく、ただずっと走り続けてきた。身を苛む苦痛に耐え続けてきた。
 全てはこの戦いに勝利する為。あの子の笑顔を取り戻す為。自らの命を擲って、間桐雁夜は聖杯の頂へとその手を伸ばす────

「…………が、ぁっ!?」

 不意に、水気を纏う甲虫を操作していた雁夜の顔が苦痛に歪む。

 それは常軌を逸した量の魔力が一度に吸い上げられた為に起こる激痛。人の生命力、原動力とも呼べる魔力を、何かが根こそぎ奪い取って行った。

「ッ──、バーサー、カー……」

 その消費量は狂える獣が王の為、真なる宝具を抜いた証。雁夜が己だけで賄い続ける魔力消費が、底を尽きかねない程の速度で奪われていく。

 雁夜は臓硯の提案を蹴っている。桜に負担を強いる事も、赤の他人を食い物にする事も嫌い、その背に全てを背負うと覚悟した。
 だって彼は人間だから。救うべき誰かに重荷を預ける事も、見知らぬ誰かを犠牲にする事も、人間である雁夜には許せない。そしてそんな事をして得た結果では、彼女が笑ってくれないと信じているから。

 とはいえ、その消費量は雁夜の想像を超えていた。今すぐ底を尽く事はなくとも、これではまともな戦闘など望むべくもない。
 バーサーカーが消えては意味がない。雁夜が死んでも意味がない。ならばやるべき事は唯一つ。

「そんなにも魔力が欲しいのならくれてやるさ……バーサーカー! この身に宿る令呪を一つ、おまえにくれてやる!」

 雁夜の右腕に灯る赤い光。三画ある令呪の一画が昇華され夜の闇に消えていく。令呪とはサーヴァントを縛る鎖であり、同時に強化をも為し得るブースター。
 雁夜はその小さな奇跡を純粋な魔力へと変換し、バーサーカーが消費する魔力を令呪の消費で賄ったのだ。

 たった三度しか使えない切り札。雁夜が最後までバーサーカーを御し切る為の鎖。その一画の消費を以って、戦闘の続行を可能とする程度の残存魔力量を確保した。

 ただ、今まさに彼がいるのはその戦闘の最中。こちらの立て直しを待ってくれるほど相手はお人好しではない。一時的に制御を失った蟲は時臣の繰る風の刃に微塵に裂かれ、雁夜が苦痛に顔をゆがめていた間に、次なる行動へと移っている。

Intensive Einascherung(我が敵の火葬は苛烈なるべし)──」

 静かな声で謳われた呪文。これまで宝石で雁夜の繰り出す蟲を迎撃していた時臣が、手にしたステッキを振るい呼び起こす地獄の業火。
 紅蓮の腕は夜に逆巻き、その規模を大きくしていく。空へと向かって伸びた炎の腕は、一転地上への落下を開始し、雁夜をその顎門で飲み込まんと殺到する──

 その、直前。

「────っ、ぁ……」

 時臣の胸を背後から貫く銀の衝撃。意識の大半をこの戦場に傾けていた時臣の隙を衝いた狙撃。
 制御を失った炎が空中で四散し炎の雨となって降り注ぐ。それを雁夜は水気の鎧を持つ蟲を盾のように展開し防ぎ、目の前で起こった異常をより深く思考した。

 森の奥──見通せない闇と霧に覆われた遥か彼方。強化した視力で以ってしても捉え切れない程の距離の向こう。僅かに見えたのは鈍色の光。闇に浮かぶ黒鉄の銃口と、そこから立ち昇る白煙。

 そして梢に潜み、銃把を握る男の姿。

「衛宮、きりつぐ……」

 時臣が喉奥からせり上がった血が零れる事も厭わず、視線を傾けた先。姿を目視したわけではない。だが、こんな手段を講じる輩は奴をおいて他にいない。その確信が、時臣にその名を吐き出させた。


+++


「キャスターに、ランサーを奪われた?」

 アーチャーが語った彼がいた戦場での結末。魔女の短刀は背後から槍兵を刺し、その契約を破戒し新たにキャスターをマスターとして再構築された。

 とはいえ、そんな事態は流石の凛も想定していなかった。はぐれサーヴァントとマスターが契約するくらいはあるかもしれないと思っていたが、よもやサーヴァントがサーヴァントの契約を破り従えるなどと。

 だから凛がアーチャーの言葉をすぐさま理解出来なかった事に彼女の落ち度はない。足元でその頭蓋を踏みつける、かつて妹だった少女へと意識を傾けていた事もあり、直後に起こった異変に対応する事が出来なかったのはむしろ当然の帰結だった。

 金切り声のように響く破壊の音。森を揺るがす程の衝撃。遥か闇の奥より、超高速で迫る光の塊。並み居る木々を薙ぎ倒し、木っ端に変えながら、ソレは一秒の後に凛達のいる広場へと到達した。

「……凛ッ!」

 アーチャーが駆け出し手を伸ばす。瞬時に手の中に組み上げられたのは長柄の槍。刃先の根元を手で掴むように具現化し、直後、全力で以ってその槍は、柄を先端として凛へと向けて放たれた。

「…………っ!?」

 脳内に湧いた疑問と、足元の妹。そして僅かに目の端に映った光とアーチャーの奇行。その全てを一瞬にして同時に処理するのは凛をして困難を極め、結果、凛はアーチャーの繰り出した槍をその腹に受け吹き飛ばされ、直後、森を蹂躙した光の塊は、凛のいた場所をその暴威を以って蹂躙した。

「…………くっ、」

 木の幹へと強かに打ちつけられた凛。体内で作用させていた宝石の効果もあり、身体に大きな損傷こそないが、背を打った衝撃には顔を顰めざるを得なかった。
 凛の視界に映るのは巻き上がる粉塵と大地を抉り取った何かの跡。巨大な球体が地に接したまま長く引き摺られたような跡が、森の奥からこの広場まで伸びていた。

 ほどなくアーチャーが凛の下へと駆けつける。その手には双剣。木の根元に腰を下ろしたままの凛を庇い立つように、紅の従者は粉塵の向こうを見据えている。

 やがて晴れていく粉塵の向こうに、その正体を見る。白い翼を持つ一頭の馬。既にこの世界より姿を消した筈の幻想種。神話に語り継がれ、今なおその姿を数々の書物の中に残すその存在は────

「……天馬(ペガサス)

 御伽の中の存在。天翔ける有翼馬。その背に手綱を握るライダーと、間桐桜を乗せて、天馬はその翼を夜に羽ばたかせる。

「…………」

 一瞬の沈黙。眼帯の奥に灯る瞳は何も語らず、ライダーは天馬の背を撫で、応えた天馬は踵を返すように夜の向こうへと消えていった。

 戦場に戻る静寂。斃すべき敵は戦場より姿を消した。凛に落ち度はない。落ち度があるとすれば、凛が刺そうとしたとどめを妨害したアーチャーにあるだろう。

 あの場で桜を亡き者にしていれば、最後の力を振り絞ったライダーとの戦いは避けられないものだったと思われるが、それでも一人のマスターを脱落に追い込む好機を逃したのは事実。凛の内心たるやどんな感情が渦巻いているか、分かったものではない。

「……言い訳はしない。叱責があるのなら後で聞こう。今はこの森を脱出すべきだ」

 戦いは既に佳境。戦力バランスも崩れている。このまま戦い続けてもじり貧になるのは目に見えている。キャスター討伐の目的を果たせなかったのは覆しようもない敗北だが、収穫がゼロだったわけではない。今は一旦退き、体勢を整えるべき時。

「……ええ、そうね。お父さまと合流を。それと──」

 立ち上がった凛が、森の奥へと視線を向ける。背にしたアーチャーにその視線を向けぬまま、

「助けてくれてありがと。ほら、急ぐわよ」

「…………」

 森の奥へと走り去っていくマスターの姿。その背を見つめ、アーチャーは呟く。

「凛……本当の君は、どちらなんだ」

 魔女の冷徹な仮面の隙間から、時々顔を覗かせるアーチャーの知る凛の表情と言葉。魔術師として完成した彼女は未だ、その心にかつての面影を残しているのか。それとも、それすらアーチャーを体良く利用する為の冷酷な判断なのか。

 アーチャーには凛の心が分からない。どちらが彼女にとっての仮面なのか、明確な判断が下せずにいる。

「……今は」

 そう、今は。この森を生きて脱出する事を優先する。死んでしまっては何も残らない。何をも為せぬまま、斃れる事を良しとは出来ないのだから。


+++


 森の遥か上空。地上よりも雲に近い高さで、その背に乗る二人を労わるように穏やかに天馬は滞空する。

「らい、だー……」

 決して広くはない天馬の背に横たえられた桜が、弱々しくその手を伸ばす。何をも掴めなかったその掌を、確かにライダーは掴み握る。

「申し訳ありません……サクラ。貴女を救うには、ああする他になかった」

 天馬の高速突進は、その風圧で桜の身を斬り裂いた。無論出来る限りの減速を行い、被害を最小限に留めるようライダーも配慮したが、桜の身体には明確なダメージとなって刻まれている。

 ライダーには一刻の猶予もなかった。凛の殺害の意思は本物で、それゆえに鳴り響いたシグナル。
 悠長に地を足で駆ける暇も、釘剣で敵の気を逸らす暇も、有り得なかった。己の持つ最高速を用いての奇襲。それ以外に、確実に桜を助ける方法を、ライダーは捻り出せなかったのだ。

「ううん……いい、よ。ありがとう、ライダー。私を、助けてくれて……」

 弱々しく、けれど優しげに桜は微笑む。桜もライダーの接近に気付き、直前に防護の盾を敷いていた。天馬の突撃に耐え得る程の強度など望むべくもなかったが、緩衝材程度の役割は果たしてくれた。

 身を襲った明確な死の恐怖。奈落の底でさえ感じた事のなかった、本物の殺意。それを桜に向けたのが実の姉であった事に、今更になって怖気が走る。
 自分の覚悟など甘っちょろいものだった。復讐だの殺すだの口にしながら、何処かでまだ救いの手が差し伸べられるんじゃないかと期待していた。

 幼かった日々の記憶。姉との約束。父の背中。母の微笑み。

 それが全部嘘だったのでないかと思うほどに、あの姉は怖かった。本当に、何かが間違っていれば、あの場で殺されていた。

 救いなんて何処にもないと知っていた。この十年で、嫌というほど思い知っていた筈なのに。

「…………っ」

 まだ何処かで期待していた己が愚かだった。絶望の底で見上げた、一筋の希望に夢を見ていた。
 伸ばした腕は何も掴めないどころか、逆にその手を払われた。希望の糸に縋った結果、待っていたのはより昏い絶望だった。

 父にも姉にも間桐桜は見捨てられた。落胆と殺意を以って、淡い期待は踏み躙られた。弱かった自分を今更後悔したところでもう遅い。嘆き悲しんだところで此処より底はないのだから。

 だったら────

 喉から零れそうになる嗚咽。眦を滑る雫。胸の奥底からせり上がる想いに、蓋をするように心の扉を閉ざして。

「ライダー、雁夜おじさんのところへ、お願い」

 軋む身体を起こし、ライダーの背に掴まる。

「サクラ……?」

 眼帯の奥の瞳を己の背にいるマスターへと向けるライダー。彼女がその目に見たものは。


/29


 穿たれた穴より零れ落ちていく血液。閉じる事のない空洞。衛宮切嗣の狙撃は、過たず遠坂時臣の心臓を撃ち貫いた。

「とき、おみ……?」

 斃すべき敵から流れていく命の証。口元を伝う赤色。苦悶に歪んだその表情が、何よりも雄弁に死の到来を告げている。

 雁夜にも、その光景が瞬時には理解出来なかった。だってそうだろう、雁夜の十年の研鑽はこの男を打倒する為のものだ。桜を救う為に、蟲蔵の底で血の涙を流し耐え抜いて手に入れたものだ。

 この身に刻んだ魔の薫陶で、時臣を斃す為だけに高みを目指し、組み上げ精練した我流の秘術で、娘を地獄の底へと追いやった悪鬼を地に這い蹲らせるのは、この──間桐雁夜の筈だったのに。

「がっ────……」

 装填された次弾。撃ち出された鋼の弾丸。夜の森の中、視界も悪く遮蔽物の覆いこの森の中ですら、魔術師殺しの照星に揺らぎはなく。撃ち出された二の弾丸は、時臣の脇腹に二つ目の風穴を開けた。

「あ、ああああああああああああああああああ……!!」

 雁夜の絶叫が木霊する。同時に、初撃で傾いでいた時臣の身体が、次撃を食らい地に倒れ伏す。生み出される血の泉。大地を炎よりも赤い色に染めていく。

 時臣の身体にはもう魔術刻印がない。術者を延命する為の補助機能は娘へと委譲されている。心臓を精確に撃ち抜かれては、流石の魔術刻印でもその延命は難しいと思われるが、それでも可能性のあった未来は、無残にも打ち砕かれた。

「衛宮……衛宮切嗣……!!」

 揺らめく炎と闇の向こう、微かに窺えたその姿も、既に掻き消えている。二発目の弾丸の着弾を以って、標的の死は確実だと判断した結果なのだろう。たとえ僅かな息を残していても、その絶命は不可避なものだと。

 斃すべき目的を見失い、雁夜は判断を迷った。姿を消したとはいえ、あの魔術師殺しが次の標的を己に定めないとも限らない。
 警戒を露に周囲を見渡す。燃え盛る炎と闇の向こうに広がる森。何処から銃弾が放たれても対応出来るだけの体勢を維持していた雁夜の前に、

「──────え?」

 森の中から姿を見せたのは、遠坂凛とアーチャーだった。

 時臣と雁夜の対峙していた広場の横合いから炎の走る戦場へと踏み込んだ少女の目にまず真っ先に映ったのは、伏臥した父の姿。臙脂のスーツを赤黒く染めた、状況説明を必要としない、明確な死の淵にいる父の姿だった。

「りん、ちゃん……これは────」

 自らに父親の殺害の疑いを掛けられると思ったのか、雁夜は言い訳じみた言葉を口にしかけたが、凛はそれを意に介さず、勢いを弱め始めた炎を避けて、父の元へと走っていく。

「────」

 間近で見下ろした父の背中。二つの風穴をその身に空けた、弱々しい父の姿。

 凛は何も言わない。父の身体を支えあげる事も、生死を確かめる事も、治癒を施す事もしなかった。だってそれが、既に助からない命だと理解してしまったから。

「…………り、ん」

「……お父さまっ!?」

 風に霞みそうなほど小さな声。うわ言のように時臣の口から零れ落ちた言葉を拾い、凛は初めてその膝を折って父の容態を確かめた。

「…………っ」

 その結果は己の判断が間違っていなかった確信を得ただけ。たとえ凛が最高位の治癒術を修めていたとしても、時臣の命は救えない。凛に出来る最期の救いは、その末期の祈りを聞き届けるだけだ。

 ……いや、まだ手はある。その命が枯れ落ちていないのなら、救えるかもしれない可能性が一つだけ、凛にはある。

「……まち、がえるな、凛……」

 父の言葉に凛の意識が引き戻される。成否の判定が確定的でないものに、切り札の一枚を消費する無様を父が諫める。
 たとえ時臣を救えたところでその戦力は大幅に低下し、復調する頃には戦いの結末を迎えているだろう。その為に遺した切り札を使わせる事は出来ない。そんなことに使う為に、あの宝石を託したのではないのだと。

 時臣が立ち上がる。凛を下がらせ、身体に大穴を空け、心臓を撃ち抜かれながら、所持していた宝石の幾つかを使い、ほんの僅かな時間だけの猶予を得る。
 立ち上がったといってもその足は震え、顔面は蒼白。当然だ、生身の人間ならば即死する傷を負い、死に至らなかった事が奇跡なら、今こうして動いている事すらも奇跡だ。

 たとえ魔術師であっても、宝石の援助を用いても、覆せぬ死に立ち向かうその姿は。彼がその胸に誓った、誇りある己を最期まで貫くという意地であった。

「……道を、拓く。凛……遠坂に、聖杯を──」

 身体を支えるステッキに残った魔力の全てを込める。遠坂時臣の生涯を掛けて魔力を貯蔵した極大のルビー。炎を扱う事だけに特化する事で、凡夫でありながら他の魔術師にも劣らぬ火力を手にした時臣の常在武装にして切り札。

 その輝きがかつてないほど高まり行き、

Es flustert(声は祈りに)──Mein Nagel reist Hauser ab(私の指は大地を削る)

 その魔力が炎となって爆発する寸前──虚空より響いた少女の声。
 闇に振動したその音は、暗闇を削り、刃と化し、最期の力を振り絞った時臣の身体を、四方から貫いた。

「──────」

 凛も、アーチャーも、雁夜でさえも、動く事の出来なかった刹那。影の刃にその身を裂かれた時臣が、僅かに視線を傾けたその先──星の天蓋を背に、白き天馬に跨った、かつての娘の姿。

 全身を痛々しい傷で覆われながら、その瞳は正しく時臣だけを見ていた。冷たい瞳。色のない視線。殺意も敵意も害意もない、ただ路傍の石ころを眺めるような、そんな眼差しを向ける間桐桜の姿を。

 そんな娘の姿をその網膜に焼き付け────今度こそ本当に、遠坂時臣は、その命脈を絶った。

 程なく、天馬が地に下りてくる。状況に頭の追いつかない雁夜の傍へと、天翔ける白馬は着地する。

「さくら、ちゃ──」

「乗ってください、雁夜、おじさん。この森から、出ましょう」

 痛々しい少女の声。身体の傷はまるで癒えていない。先の魔術行使も相まって、より微弱な生命力へと落ちている。ただ今の彼女を、ライダーと天馬という守護者がいる限り、誰も害す事など出来ない。

 優しげな声とは裏腹に、蟲めいた無機質な目を守るべき少女に向けられ、雁夜は頷く他になかった。どの道雁夜の目的は消えてしまった。遠坂時臣は、その命を散らしたのだ。ならばこの森に留まり続ける理由は既にない。

 天馬が羽ばたく。凛にもアーチャーにも、彼女らを止める事など出来ない。この場でのこれ以上の戦闘は、凛達も望むところではないからだ。

「桜────」

「────気安く呼ばないでくれますか、遠坂先輩」

 ようやく搾り出した凛の声に、桜は見下すような瞳と共に言った。

「それじゃあ、さようなら。また何処かで、会いましょう」

 そんな言葉だけを残し、桜達は去る。戦場に残ったのは、未だ燻り続ける炎と、赤い主従と、そして冷たくなっていく誰かの遺体。

「アーチャーッ!」

 森から響く、再三の第三者の声。遥か前方で戦いを繰り広げていた筈のガウェインとモードレッドが、此処でようやく彼女らに合流した。

「っ──これは……」

 ガウェインが目を剥き、倒れ伏した時臣を見る。モードレッドもまた、細めた瞳で一瞥した後、

「おい、悪いがオレは先に行く。どうせもう、まともな戦いなんて何処の陣営も出来ないだろう。アンタらも一旦退いた方がいいと思うぜ」

 モードレッドは返事を待たず森の奥へと消えていく。彼女もまた良くないものをその身で感じているのだろう。
 共同戦線を放棄するも同然の独断専行だが、アインツベルンと間桐もまた足並みを揃えているとは思えない。誰も全身鎧の少女の道行きを止める事はしなかった。

「時臣……」

 ガウェインがその膝を付き、主の前で瞳を閉じた。

 主君の窮地に馳せ参じる事が叶わぬばかりか、その死に目を看取ることすらも出来なかった。彼に託された想いをすら、果たせなかった己の不明を恥じ入るばかり。白騎士の背負いし太陽は、何を照らす事もなく地に堕ちた。

「ガウェイン、悪いけどどいてくれる?」

 感情の読めない表情を浮かべ、凛は退いたガウェインに代わり父の傍に立つ。その亡骸の横に転がっていたステッキを掴み、呪文と共に振り抜いた。

 瞬間、巻き起こる炎。時臣の亡骸を優しく包み、燃え上がらせる浄化の炎。このまま遺体を放置しておけば、キャスターに利用されないとも限らない。かと言って連れ帰るだけの意味もない。

 全ての継承を既に終えていた時臣の遺体に、価値はない。まさか自身の死を見越していたとは思えないが、それでも遠坂時臣は、一魔術師として果たすべき責務の全てを果たし、眠りについたのだ。

 魔術師に墓はいらない。ただ、その身を包む炎が、娘から父へと送る最期の手向けが、父にとって少しでも慰めになればいいと、鋼鉄の仮面を被った少女は想った。

「行くわよアーチャー、ガウェイン。キャスターやセイバーが襲ってこない保証はない。一刻も早く離脱しましょう」

 此処は戦場。父が死の間際に警戒し、活路を拓こうとしたのもそれを危惧したゆえ。どのような理由からか、アインツベルンの追撃はないが、空間を渡る術を持つキャスターならばいつ姿を見せてもおかしくはない。

 今はただ──この敗走に甘んじて、次の戦いへと備える。

「お父さまが死んでも、戦いはまだ終わらない……何一つ、終わってなんてないんだから」

 そう──これは始まり。

 一人の魔術師の死を契機に始まる、終焉へと至る序曲。
 坂道を転がるように加速していく、戦いの宴。

 二人の騎士をその背に従え、父の形見であるステッキを手に──遠坂凛は戦場に背を向けた。


/30


 遥か天空を翔ける有翼馬。その背に都合三人を乗せながら、形無き空を踏み締める蹄鉄の力強さは変わりなく。
 手綱を手にしたライダーの指示の元、誰の手も届かぬ空を行く。

「桜ちゃん……」

 防護膜でもあるのか、かなりのスピードで移動してなお身を襲う風は柔らかなもの。春に吹く微風とまでは行かないが、身も凍るほどの寒風に晒される事はない。

 そんな中呟いた雁夜の声は、当然桜の耳元へと届いている。

「雁夜おじさんは、大丈夫ですか……?」

「あ、ああ……俺に傷はそれほどないよ。それよりも、桜ちゃんの方が──」

 雁夜は服が煤け、幾らか破れているものの、身体へのダメージは然程ではない。魔力をバーサーカーに根こそぎ持って行かれたのは凶悪な痛みとなって全身を苛んでいるが、令呪の援護もあり今すぐ死ぬようなものではない。

 見た目だけならば、桜の方がよほど重症だ。凛との間にどんな戦いがあったのかは知らないが、全身に傷の付いていない箇所はなく、左腕の損傷が特に酷い。

 いや、今はそれよりも、あの事を問うべきなのだろうか。

 天馬に跨った桜が、空から放った魔術は死の寸前にあった父を貫いた。その後に雁夜が目にしたものは、これまで見た事もないほど、感情を希薄化させた桜の瞳。世界の全てを諦めたかのような、絶望の眼差しだった。

「…………」

 ただ、今の桜の瞳にそんな色は見られない。苦痛に顔を歪めているのも、ライダーの腰に手を回している姿も、雁夜の良く知る桜と変わらないものだった。

 だから雁夜は問えなかった。何があったのか、と。何を見て、桜はあんな目をするようになってしまったのか、と。

「あ、ライダー、待って。帰る前に、お爺さまを回収していかないと」

 ふと思い出したように桜は言った。桜にとって畏怖の対象であり象徴でもある祖父を、忘れ物をしたみたいな気軽さで。

「あんな爺、捨て置けば良いさ。どうせ殺したって死なないんだ、放って置いても勝手に帰って来る」

 この森にいる臓硯は恐らく、本物ではない。本体ではない、と言うべきか。五百年の時を生き、生に並々ならぬ執着を持つあの妖怪が、わざわざ戦いの最前線へと何の準備もなく赴く筈がない。

 良いところで影武者のようなものか、いずれにせよ本体は命の危険のないところでのうのうと蠢いているに違いない。
 その本体の居場所を今以って知り得ないからこそ、サーヴァントを従えて圧倒的力量差を獲得してなお、雁夜達は臓硯に従い続けている。

「そんな事言っちゃ、ダメですよ。それにお爺さまにも、お爺さまの目的があったみたいだから」

 ────それを、確かめておかないと。

「…………ッ!?」

 それを口にした瞬間の桜の顔から、得体の知れない恐怖を感じて雁夜は目を見開いた。特に何か重要な言葉を口にしたわけでもない。それなのに、身の毛もよだつ寒気を感じてしまった。

 ……何かがおかしい。なのに、何がおかしいのか分からない。

 異常がない事が異常……そんな矛盾が成立してしまいそうな程に、今の桜からは危うい感じがする。

 ともあれ、聞くべき事は聞いておかなければならない。今後の為にも、桜の為にも。

「桜ちゃんは……どうするんだい?」

「……え?」

「……時臣は死んだ。凛ちゃんは……きっと、君を温かくは迎えてくれない。君が帰りたいと望んだ居場所は、もう──」

 ──この世にはない。

 そう続けようとして、雁夜は唇を噛んだ。

 自分達が抱き続けてきた祈りなど、泡沫の夢に過ぎなかったのだと思い知った。この十年間は、間桐だけでなく遠坂にも致命的な何かを齎した。
 最早道が交わる事はないだろう。後に待っているのは、姉と妹の熾烈な戦い。皮肉にも時臣が望んだ展開だけだ。

「桜ちゃんが此処で降りるというのなら、俺は全力でそれを援護しよう。臓硯だって説き伏せて、君の無事を確保したいと思う」

 それは諦めるという事ではない。桜がこれ以上血の道を歩く必要はないのだ。
 桜を失う事による間桐陣営の戦力低下は著しくとも、バーサーカーの力があれば充分に勝ち抜ける。

 かつて程凶悪に魔力を吸い上げる事をしなくなったこの獣を御し切れれば、雁夜単独でも聖杯を掴むチャンスはある筈だ。

「降りませんよ。私はこの戦いを続けます」

 そんな雁夜の淡い期待を裏切るように、桜はそう口にした。

「私にも目的が出来ましたから。中途半端で終わらせるなんて事、出来ません。それに、ライダーもいてくれるしね」

 騎兵の腰に回した手をそのままに、こつんとその背に頭を預ける。確かな感触。エーテル体とは思えない、実際の人間と変わらない体温。
 間桐桜を守る盾であり、間桐桜の為の剣──それがこのライダーだ。

「私はサクラを守ります。どんな困難があろうと、絶対に」

「……うん。知ってる」

 それが彼女の誓い。
 揺ぎなき心の証。

 その誓いが何に起因するのかは雁夜には分からない。だが、その心だけは本物だと、疑いようもなく信じられる。

「……分かった、じゃあもう止めない。必ず聖杯を手に入れよう。そして、君を必ず救ってみせる」

 この暗闇から、せめて掬い上げたいと。かつて居た陽だまりに戻る事は叶わなくても、新しい居場所を作って上げたいと。
 遠坂時臣への復讐を半端なままに終わらせてしまったからこそ、この約束だけは違える事はしないと、雁夜はそう心に固く誓った。

 行く先に広がるは暗雲。
 鼻を衝く雨の匂い。

 天馬の羽ばたきは力強く。
 空へと響く嘶きと共に、彼女達は次なる戦いの舞台を目指す。


+++


 胸に渦巻いた悪い予感を振り払うように、モードレッドは森を疾走する。奥へと進むほどに霧は薄くなり、視界がより開けてくる。

 明確な位置は把握出来ない。霊的パスを通していないモードレッドでは、バゼットの位置を掴む事は出来ない。
 ただ先の凛達との合流も、彼女の直感に従って導いたもの。であれば、悪い予感のする方へと直走れば、いずれその原因ともぶつかるだろう。

「…………? あれは……」

 霞む木々の向こうに見える白い尖塔。アインツベルンの居城と思しきその影を、見る事の出来る距離まで迫ったモードレッドは、

「ッ……おい、バゼット!」

 胸を押さえ、苦しげに呻き、木の幹に身体を預けたバゼットの姿を見咎めた。

「……っ、モード、レッドですか……」

 スーツの胸の部分を赤黒く染め、隠し切れない痛みを覗かせるバゼット。城からそう離れていないこの場所で、一体何があったのかをモードレッドは問い質す。

 バゼットは痛みに耐えながら語る。キャスターのマスターであるイリヤスフィールを討つ事に失敗した事。間桐臓硯に彼女が攫われた事。そして自らの腕に刻まれた、令呪が唐突に消えた事を。

 治癒のルーンで表面上の傷は癒えていても、その内部はまだぼろぼろだ。令呪が消えた事で城を脱し、ランサーの姿を求めて森へと踏み入ったが、程なく限界を向かえこんなところで立ち往生していた。

「…………」

 モードレッドは無言のまま、ぐいとバゼットの腕を持ち上げる。確かにそこにあった筈の、剣の形を模した令呪が跡形もなく掻き消えている。
 ランサーはキャスターとライダーの前に敗れ去ったのか? それとも……。

「いや、今は一刻も早く森を出るぞ」

「っ、けど、ランサーが……!」

「そんな身体で一体何が出来る。たとえランサーが生きていたとしても、そんな様でアンタは一体何をするつもりだ」

 冷酷で、非情なる声。バゼットの嘆願を切って捨てる少女の諫言。立っているのもやっとな様で、パスを切られ、生きているかどうかも分からないランサーの姿を求めて森の中を彷徨い歩くなど正気の沙汰ではない。

 今はまず生き残る事。この森から無事脱出する事。生き永らえて、傷を癒し、全てはそれからだ。

「これだけ言っても無茶したいってんなら止めないぜ。無駄死にしたければ好きにすれば良い。生憎と、オレはそんな心中に付き合う気はないけどな」

「っ────……」

 バゼットも頭では分かっている。ただ、心が理性に従ってくれないのだ。ずっと憧れ続けてきた英雄の背中。絵本の世界で夢見ていたもの。
 叶わぬ筈の逢瀬の果て、こんな余りにも理不尽な別離を受け入れる事を心が拒んでいた。

「分かり、ました……今は、貴女に従います」

 そうする以外に選択肢はない。敵の陣地の中、死に体にも等しい己を守りランサーを探せと頼めるほど厚顔でもなければ、少女に義務もない。あくまでモードレッドはバゼットにとっての協力者。彼女の立ち位置はランサーとは違うのだ。

「歩けるか……? 無理そうなら手を貸そう」

「いいえ、不要です。僅かにですが休息は出来ましたから。これなら、走る程度は可能だ」

 言ってバゼットは森の奥、入り口へと向けて駆けて行く。その背を見つめ、少女は一人呟いた。

「情けないな大英雄。守るべき主君に槍を向けなかったのは上等だが、掛ける言葉もないとはな」

 視線を流した先。鬱蒼と生い茂る梢に身を潜めるように、青い槍兵の姿を見咎める。彼はアサシンほどではないが気配を殺していた。それを発見出来たのは、持ち前の勘の良さと嗅覚の賜物だ。

「……うるせえ。今更どのツラ下げてアイツに会えってんだ」

「ハッ──オレが知るか。で、どうするんだ。まさか隙を衝いてオレを殺そう、なんて算段をしていたのだとしたら、見下げ果ててるところだが」

「してねぇよ。何やら新しいマスターは忙しいようでな。こっちに気を回している余裕はないらしい」

「……なるほど。つまり今なら逃げやすいと」

 ランサーに下された命令はアーチャーの後を追え──ただそれだけだ。躍起になって追うつもりなど毛ほどもなく、アーチャーがいたらしい場所まで着いたところで強制力は目に見えて落ちた。

 その為、ある程度の自由を得たランサーは、こうして影ながらバゼットを見守っていたのだ。

「フン……まあいいさ。こっちはこっちで好きにやらせて貰う。安心しろよ、拠点に帰るまではバゼットの身の安全は保障してやるから」

「…………」

 ランサーは応えず、もう用はないとばかりに背を向ける。敵の軍門に下った己に、彼女の言葉に水を差す資格がないとでも言うかのように。

「最後に答えてくれランサー。アンタは、その魂までをも魔女に売り渡したのか」

 契約を破棄され、斃すべき敵の従者となった槍の騎士。その身を縛り付ける令呪の鎖は強力で、緩い命令だったからこそ今は自由に動けるが、目の前で魔女にバゼットを殺せと命じられれば、抗えるかどうかは分からない。

「この槍はオレの誇りだ。この誇りを穢されて、黙ってられる筈がねぇ」

 モードレッドの求めた答えからは幾分外れた言葉だけを残し、ランサーは去った。少女は一人、フルフェイスのヘルムの下で微かに口元を歪ませた。

「さて……いつまでも此処にいちゃバゼットにも怪しまれる」

 たん、と軽く地を蹴り、バゼットの向かった方角へと跳ぶ。その間際、振り返った先にはもう闇しか見えない。
 彼女がその最後に求めたのは、肩を並べた騎士の幻影か。あるいは、悲痛な願いをその胸に宿した、王の面影か。

 誰もその答えを知る事なく──背徳の騎士モードレッドは戦場を去って行った。


+++


「説明をして貰うわよ」

 時間は前後し、切嗣が時臣に二発の銃弾を撃ち込んだその少し後。森の中に沈み、行方を眩ませた衛宮切嗣の前に、空間に割り入るようにキャスターが姿を見せた。切嗣に驚きはない。この展開は想定していた。

「貴方は一体此処で何をしているの。貴方の役目はイリヤスフィールの守護だった筈でしょう……!」

 事前の打ち合わせでそう取り決めが為されていた。キャスターは自らの宝具を切嗣に明かし、いずれかのサーヴァントを奪い取る算段を事前に打ち合わせていた。
 その折、この森での一戦での切嗣の役目は、城を守るイリヤスフィールの警護であると決めた筈。侍従だけでは心許ないと、切嗣自身が買って出た事でもある。

 それが一体どうしてこんなところにいる。狙撃銃を携帯し、森に息を潜めて獲物を狩るのは彼の役目ではない。彼は敵を斃すのではなく、娘を守るべきだった筈なのに。

「…………」

 切嗣は答えない。その必要がないとでも言うかのように。

「間桐臓硯の裏切りも予測はしていた筈でしょう。おめおめと娘を攫われておきながら、一体────」

 そこではたと、魔女は気付く。キャスターの詰問にも揺るがず、イリヤスフィールを攫われたと知っても動じない、この男の心の在り方に。

「…………貴方は私を、騙していたの?」

 切嗣の顔に宿るのは色のない能面。感情の機微をまるで感じさせない、仮面のような空虚さだ。

 全てを知っていなければこんな顔は出来ない。全てを予見していなければ、ここまでの揺れのなさは有り得ない。

 つまり、切嗣にとって現状は予定調和。キャスターがランサーを奪い取った事も、時臣を亡き者にした事も──そして、イリヤスフィールが攫われた事も。全て、この男が最初から描いていた通りの絵図。

「……何を企んでいるのかは知らないけれど。こんな真似をして私達の間の共闘が今後も継続すると、思い上がってはいないでしょうね?」

 そして、その問いすらも切嗣の想定の範囲内ならば。

「マスターッ!」

 梢の奥から姿を見せる白銀の少女騎士。キャスターの戦場で巻き起こったと思われる爆発を機に森の奥へと戻り、その戦場へと立ち寄った後、こうしてセイバーは切嗣の下へと帰参した。

「一体これは、どういう……?」

 ただ、セイバーの目に映ったのは予想外の光景。フードの奥から剣呑な気配を撒き散らすキャスターと、それを何処吹く風といなし、煙草に火を灯す切嗣の姿だった。

「イリヤスフィールが攫われたわ。この男が、己の役目を放棄したお陰でね」

「なっ……!?」

 それは瞠目して余りあるもの。セイバーも聞き及んでいた事前の策の根底を覆す結末。何を思い衛宮切嗣がイリヤスフィールの傍を離れたのか、彼が何も語らない以上は答えが出ない。

「いいわ、問答は後にしてあげる。まだあの男は森の中にいる。今から追えば充分間に合う──」

「────追わなくて良い」

 キャスターの言葉を遮り、切嗣はようやく口を開いた。

「マスター……? 何を──」

「間桐臓硯は追わなくて良い。イリヤを助ける必要もない。あの男にイリヤは殺せないし、キャスターとの契約を切られる心配もない」

 令呪の創始者である間桐臓硯。彼の手に掛かれば並の令呪ならば簡単に剥がし移植する事も叶うかもしれない。ただ、イリヤスフィールだけは別だ。

 彼女の令呪は規格外の代物。全身の魔術回路と同化した、無理に剥がそうとすれば命さえ危ぶむもの。
 イリヤスフィールが聖杯の器だと知っている臓硯が、聖杯が壊れる可能性を考慮せずにイリヤスフィールの令呪に手を掛ける事はない。

 その仕掛けはどれだけ強大なサーヴァントでさえも御し切る為にユーブスタクハイトが仕組んだものであり、聖杯の成就を見るまでイリヤスフィールを守るサーヴァントを剥離させない為のものだ。
 アインツベルンの手が入っている分、臓硯とてその解析は難しく、そんな手間暇を掛けるだけの時間もメリットもありはしない。

「ですがマスター、イリヤスフィールを敵の手に残しておくのはどういうつもりですか。キャスターの転移があれば追いつけるのなら、取り戻すべきでしょう」

 真実臓硯にイリヤスフィールが殺せないのであれば、人質としての価値はない。どれだけ脅しを掛けようと、実際に殺せないのあればそんな脅迫など滑稽なだけだ。
 リーゼリットが手を止めたのは、彼女はイリヤスフィールの真実を知っているからだ。真実を知らぬ者に、イリヤスフィールは殺せない。

「殺せない人質にも価値はある。大事に守られるだけのお姫さまではないんだ、イリヤにも役に立って貰う」

「貴方は……!」

 自らの勝利を、祈りを叶える為に。
 聖杯をその手に掴む為に。

 衛宮切嗣は娘の命をすら利用する。敵を陥れ、味方をすら欺き、確実に葬れる敵から一匹ずつ刈り取って行く。
 非情で冷酷で冷徹な暗殺者。今の衛宮切嗣はそんな生き物。彼の目には、戦いの向こうにある祈りしか映っていない。

「…………」

 此処に一つの亀裂が生まれる。

 誰かに利用されるだけの人生だった王女メディアの心に、消えない軋みが刻まれた。
 切嗣の判断は人々に望まれるまま魔女として生き、死んだ悪女の心に残る善性に、爪を立てた。

 それを顔に出す事はしない。目的の為に父を慕う娘の心を弄ぶ悪徳に、どれだけ苛立とうとも、此処で牙を剥くのは得策ではないと、冷静な自分が諫めるから。

「分かりました……貴方の判断に従います。けれど、まさかこのままイリヤスフィールを放置するつもりではないでしょうね?」

「ああ、時を置けばイリヤの秘密を解き明かされる可能性がそれだけ増す。それは僕も望むところじゃない」

 今仕掛ければ間桐の一派を纏めて葬る事も出来るかもしれない。ただ切嗣にも幾つか憂慮がある。
 その最たるものを見極める為、わざわざキャスターの不審を買うと理解しながら、遠坂時臣を殺害した。

 未だ舞台に姿を見せぬ役者を、無理矢理に引き摺り上げる為。
 最後の演者を、ライトの照らす舞台の上へと引き摺り出す為に。

 ────さあ、どう出る言峰綺礼。

 衛宮切嗣が唯一その行動を予測し切れない狂信者。
 遠坂時臣の影に潜んでいた、本当のマスター。

 未だ脱落者のない七人八騎のバトルロイヤルは、彼の登場を以って終局へと加速する。

 終わりは近く、果ては遠く。
 十年遅れの第四次聖杯戦争は、如何なる結末を迎えるか。

 それを知る者はまだ、誰もいない────













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