scene.07












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「────……ぁ」

 深い、微睡の底から意識が浮上する。重い瞼を開き、霞んだ瞳は茫洋とした風景を映している。手足は鉛のように鈍重で動かない。覚醒と共に徐々に鮮明となっていく視界で、首だけを動かし状況を確認する。

 薄暗い部屋。差し込むのは月明かり。人工の明かりはなく、窓から降り注ぐ月光だけが室内を照らす光源。
 見覚えのある天井と壁。此処はバゼット達が拠点とした森の奥の洋館だ。どうやら、自分はソファーで眠っていたらしい、とバゼットは自己分析した。

「ようやくお目覚めかい、眠り姫」

 そんな軽口に、バゼットは手足を縛る見えない鎖を引き千切るように跳ね起きた。視界の先、言葉の主はいつかのように窓辺で腰掛け、淡い光の中からこちらに翠緑の瞳を向けていた。

「モー……ド、レッド……ですか」

「一体誰と勘違いしたんだバゼット」

 右腕を掻き抱くようにして視線を下げたバゼット。先の軽口は、彼女の良く知る男のそれに似ていた。完全に意識の戻っていなかった頭には、まるであの男の言葉のように響いたのだ。

 だが今はもう、バゼットも理解していた。左手で触れる右手の甲には、刻まれていた筈の聖痕がない。マスターの証であり、サーヴァントと繋がる令呪が、夢か幻のように消え失せていた。

「……わざと私をからかうような事をするとは、貴女も大概底意地が悪い」

「そりゃ悪かった。だがまあ、そんな軽口を返せるんなら、怪我はもう大丈夫のようだな」

 その言葉にバゼットは自分自身を走査する。

「ああ、上着は脱がせてやったから感謝しろよ。あんなスーツ着込んでちゃ寝にくいだろ」

「ええ……それは感謝します」

 シャツの中心には黒い大きな斑点。それはバゼットの心臓部より吐き出された彼女自身の血液。襟を開き胸元を覗き込めば、赤黒く凝固した血液が傷口を塞ぎ、死に至る可能性の極めて高かったイリヤスフィールに穿たれた穴はどうにか閉じられたようだった。

「身体の調子はどうだ」

「はい、多少の鈍痛はありますが問題はないかと」

 拳を握ったり指を曲げ伸ばしして感触を確かめる。腰を上げ、全身の動きに異常がないかも確かめたが、特に問題らしき問題は見当たらなかった。

「ですが、完治には程遠い」

 治癒のルーンを用い、それがたとえ特級のルーン使いであるバゼットの代物であったとしても、一昼夜で完全に回復するような傷ではない。
 怪我を弁えた上での戦闘は可能だろう。だが戦力が拮抗し、勝敗を分ける死線を潜らなければならなくなった時、このダメージは重くバゼットに圧し掛かるだろう。

「そうか。じゃあ、オレの役目も此処までだな」

「えっ……?」

 バゼットの驚きを他所に、モードレッドは窓辺を離れる。その足の向く先は、部屋の出口だ。

「……? 何を訝しむ事がある? アインツベルンの森での戦いでランサーを奪われ、アンタはマスターじゃなくなった。この十年遅れの第四次聖杯戦争における最初の脱落者──それがアンタだよ、バゼット・フラガ・マクレミッツ」

「…………ッ!!」

 言葉にされ、明確に突きつけられ、ようやくバゼットも実感した。令呪を喪失したマスターは、サーヴァントを失ったマスターはただの魔術師。

 戦いに敗れた脱落者だ。

 バゼットの意気込みや想いなど関係ない。それは明確で厳然たる事実。既に覆しようのない、真実だ。

「戦いに敗れたとはいえ、アンタは死ななかったんだ。さっさと街を離れるといい。サーヴァントを失ったマスターは教会に駆け込むのが通例らしいが、あの神父は何を考えているのか分からん。自由に動く身体があるのなら、そのまま街を出る方が懸命だと思うぜ」

 室内を横切り、モードレッドは窓際の椅子に掛けてあった赤いジャケットを掴み出口へと向かう。

「ま、待って下さいモードレッド……! 私はまだ……!」

「まだ、何だ? サーヴァントもいない、令呪もない、そんなただの魔術師を相手に、オレが一体何を待てと言うんだ?」

「…………っ」

「間違えるなよバゼット。オレとアンタらの関係は利害の一致があったればこそ。二騎のサーヴァントを擁する他陣営に対抗する為の謂わばギブアンドテイク。
 そっちから差し出されるものが急になくなったんだ、ならこっちからだけ一方的に差し出す義理が、オレにあるか?」

 部屋の出口である扉を前に振り返るモードレッド。翠の瞳は何をも映さず、冷たい色を湛えている。
 投げつけられた言葉もまた冷酷なもの。互いを対等のパートナーと認めているからこその言葉とも取れるが、そこに同情や憐憫は一欠けらも存在しない。

 誰に落ち度があったわけでもない。ただ、敵がこちらの予測の上をいっただけの話。一度目の敗走では事なきを得たものも、二度目の敗走ではそれが許されなかったというだけの話だ。

 天秤の両皿が釣り合っていたからこその共闘関係。片皿から釣り合いの取れるものがなくなったのなら、この結末は当然のもの。
 モードレッドが冷酷なのではない。最初からそうと決められていた関係性だ、今更縋ろうとするバゼットの方が筋違いも甚だしい。

 この拠点に戻るまでの記憶は曖昧だが、モードレッドが随伴してくれていた事は覚えている。ランサーとの契約が消滅したのなら、わざわざバゼットを此処まで連れ帰る理由などモードレッドにはない。

 それを承知でわざわざ森からの脱出、安全地点までの誘導をしてくれた彼女に感謝こそすれ糾弾紛いの論争など行えるものか。

 自らの不始末を己を対等として見てくれていたモードレッドに擦り付けるわけにはいかない。此処まで明確な拒絶を示したのも彼女なりの優しさなのかもしれない。バゼットは二の句が継げなかった。

「じゃあなバゼット。アンタ達と過ごした数日間、悪くなかったぜ」

 そんな別れの言葉を残し、モードレッドは洋館を去った。

 後に残されたのは傷付いた魔術師だけ。マスターとしての資格を剥奪された、最初の脱落者であるバゼットだけだった。

 急に脱力したかのように、バゼットはその身を落とし背凭れに預けた。手足はだらりと下げられ、まるで糸の切れた人形のよう。

「そう……彼女の言葉は正しい……」

 バゼットに聖杯に捧げるほど渇望する願いなどない。協会からの指令を受け、御三家の闘争に割り込んだ部外者だ。
 覚悟はあった。自信もあった。けれど、バゼットのそんな想いでは届かぬほどの祈りを胸に秘め、他の参加者は鎬を削っている。

 連綿と続く血の系譜。その誇りを穢さぬ為、積み上げた歴史の正しさを証明する為、彼らは命を賭している。

 家に背き、故郷で埋もれるように死んでいく事を恐れ外の世界に飛び出した己に、逃げ出した己にはなかったものを彼らはきっと持っている。
 目を背けず向き合った先、たとえそれが地獄のようなところだったとしても、なお祈り叶えよと叫ぶだけの強さがあった。

 どんな言い訳を並べたところで、敗北した事実は変わらない。任務の失敗はバゼットにこの依頼をした上層部からどのような叱責を被る事になるか分からないが、後は結末を見届け協会に報告書を提出すればそれでいい。

 数多くこなす依頼の内の一つを失敗しただけ。何食わぬ顔をしてロンドンに戻り、次の依頼を手配して貰えばすぐさま任務に忙殺されるようになる。
 何も考えずひたすらに任務をこなせばいい。その内、この一件も記憶の奥底に沈み、いつか思い返した時にそんな事もあったな、と思えるようになるだろう。

「だけど……っ、私は────!」

『──よう、アンタが、オレのマスターかい?』

 その言葉を、覚えている。

『バゼットね。りょーかい。んじゃバゼット、これからよろしく頼むぜ?』

 あの笑顔を、覚えている。

 遠い昔、幼少の頃に夢見た英雄。
 本の中で見た、祖国に今なお語り継がれる英雄譚。

 何にも関心を抱けなかった己が唯一没頭できたもの。本を読んでいる間だけは、時間を忘れる事が出来た。幾度となく読み返し、諳んじる事の出来るくらい、この胸に刻まれた誰かの記述。

 憧れの英雄。決して出逢う事の叶わない、遠い存在。その出逢いを叶えたのはこの地の聖杯、聖杯戦争だ。
 聖杯戦争の事情を知った時の高揚を、今も忘れる事など出来ない。任務だという事を忘れるくらい胸を高鳴らせ、この地を踏んだ。

 出逢った本物は知れば知るほど本の中の英雄とは違っていて、自分の理想ともかけ離れた男だったが、傍にいて安心出来たのは確かだった。
 今この胸にぽっかりと空いた穴。イリヤスフィールに穿たれた肉体の穴よりも、心に空いた空洞の方が胸に痛い。

 己が不甲斐無いばかりに、こんな結末を迎えてしまった。彼の力を活かす事が出来ずにリタイアするはめになってしまった。
 心の穴を擦り抜ける寂寞。埋める事の出来ない哀惜。不本意な別れに、自分はこんなにも────

「…………?」

 そこでふと、モードレッドとの会話を思い出す。彼女は何か、妙な言い回しをしなかったか。

『……? 何を訝しむ事がある? アインツベルンの森での戦いでランサーを奪われ、アンタはマスターじゃなくなった。この十年遅れの第四次聖杯戦争における最初の脱落者──それがアンタだよ、バゼット・フラガ・マクレミッツ』

 そう、ランサーは消滅したのではなく──奪われたのだと。

「…………ッ!」

 わざわざモードレッドがそんな嘘を吐く筈がない。理由がない。ならばそれは事実で、ランサーは戦いに敗れ消滅したのではなく、何者かに奪われたのだ。

 であればランサーは生きている。どのような姿であれ、まだ、この世界にいる。

「…………」

 バゼットは静かに立ち上がった。血の凝固したシャツを脱ぎ捨て、ジェラルミンケースから替えの下着とシャツ、スーツを取り出し着替えていく。
 姿見の前でネクタイを締める。頼りない月明かりが照らす己の姿に、先程までの弱さはない。淡い輝きを受けて、耳を飾るルーンのピアスが煌いた。

 気が動転していながらも、どうにか森から持ち出していたラックを背負い、バゼットは拠点を後にする。

 鬱蒼と生い茂る森。見上げた空には星が瞬く。夜を渡る風は、バゼットの心に灯った熱を奪い去る事は出来ない。

「──こんな時間に何処に行こうってんだ、怪我人」

 街へと繋がる森の途中。
 闇の中から響く聞き慣れた声。

「決まっています、ランサーの下へ」

「行って何をする? 令呪のないアンタじゃたとえランサーを取り戻したところで再契約なんて無理だろうさ。
 何よりそんな身体で、己が身一つで、サーヴァント共がいる戦場に挑むつもりか」

「はい。無謀など承知の上。死など元より覚悟の上。それでも私には──取り戻さなければならないものがある」

 ざっ、と木々を揺らす風が吹く。バゼットは顔にかかる髪を気にする事もなく、ただ前だけを見据えている。

「命を賭けてまで取り戻したいもの……それはなんだ、バゼット・フラガ・マクレミッツ」

「彼の誇りを────私が不甲斐無いばかりに穢してしまった彼の誇りを、取り戻しに行きます」

 静寂を取り戻した森の中に、一つの溜息が生まれた。次いで、闇に閉ざされた梢の先から金髪碧眼、赤いジャケットの少女が姿を見せた。

「……ったく。頑固な女だなぁ、おい」

「モードレッド……」

 現われた少女はそっぽを向き、ガリガリと髪を掻きながら、

「まぁ……なんだ……オレも勝てるだとか何だとか、でかい事言っておいて、このザマだしな……それに……服を買って貰った恩もあるか……」

 言い訳めいた事を口にするモードレッドが可笑しくなり、ついバゼットは笑いを零してしまう。

「あ、おい! 何がおかしいッ!」

「ふふ……いえ、すみません。それでモードレッド、貴女はどうしてこんな場所にいるのですか?」

「今更それ、聞くのかよ……」

 見栄を張って別れを演出した手前、どうにも落ち着かずモードレッドは僅かに頬を紅潮させている。夜の闇の中、その赤みが良く見て取れた。モードレッドは一つ嘆息した後、言葉を続けた。

「生憎とオレは死にに行く人間に付き合うつもりはない。死に急ぐ輩にもな。けどアンタがまだ戦う事を諦めてないってんなら、付き合ってやっても良い」

「ええ。私一人では困難を極める。貴女が手を貸してくれるのなら、それより心強いものもない」

 いつかのように、バゼットは掌を差し出す。

「一応言っとくが、勘違いするなよ。アンタがただの魔術師だったなら本当に此処までだった。けど、アンタの切り札は有用だ。そこに利用価値があるから、今回だけは付き合ってやるんだからな」

 おずおずと、モードレッドはもまた掌を差し出した。

「なるほど……これが様式美、というものですか」

「何の話だッ!」

「いえ、こちらの話です」

 誓いの握手を終え、モードレッドは切り出す。

「けど、本当に間違えるなよ。ランサーを取り戻す事は出来ない。サーヴァントを奪われた時点で、アンタの聖杯戦争は既に終わっている。此処から先は、バゼット──おまえ個人の戦いだ」

「承知しています」

 令呪を失ったマスターは極稀に聖杯より令呪の再分配が行われる場合がある。だがそれに賭けるには余りにも望みが薄い。
 何より、そんな甘えた事を言ってサーヴァントを御するマスター達からランサーの誇りを奪い返すなど至難を極めよう。

 だから、彼女達がこれから臨むのはランサーを取り戻す為の戦いではない。ランサーの誇りを、彼の魂を取り戻す為の戦いだ。

「じゃあとりあえず、拠点に戻ろうぜ」

「は……? 今からランサーのところへ行くのではないのですか?」

「莫迦を言え。ランサーを奪ったのはキャスターだぞ? ガウェイン達と共闘しても森の結界は崩せなかったんだ、オレ達だけで森に挑むのはただの無謀だ」

 ランサーという戦力が減じているばかりか、キャスターに使役され敵対する可能性が極めて高い。最悪三対一を強いられる事になる。そんな無謀には流石のモードレッドも付き合えない。

「森での戦いからこっち、バゼットはずっと眠りっぱなしで碌に情報交換も出来なかったからな。オレの知る情報とアンタの知る情報を突き合せて策を練るべきだろう」

「そうですね……」

「それに森での戦いからまだ一日も経ってない。何処かの陣営に動きがあるとするならもう少し後だろう。来るべき時の為、身体は休めておけ」

「ええ。貴女もですよ、モードレッド。彼の円卓の王と最強と謳われた騎士を相手に立ち回ったのです、疲労もそれなりにあるでしょう?」

「宝具を使ったわけでもなし、そこまでの疲労はないが……まあ、言われるまでもなく休むさ」

 後に控える大一番の為、無駄な力の消耗は避けておきたい。

 バゼットに組するのは感情論だけではない。今や戦いの天秤のバランスは崩れている。このまま事を進められてしまえばアインツベルンの優位性は揺るがない。
 ならば残った陣営は使える札は全て使い、彼の一角を崩すべきだ。その為に、バゼットの有する切り札は有用だ。

「ところでモードレッド。前から気になってはいたのですが……」

 拠点へと戻る道すがら、バゼットは不意に問いかけた。

「なんだ?」

「いえ、ただの好奇心ですので別に答えて貰わなくてもいいのですが」

「だから何だって。もったいぶるなよ」

「……モードレッド。貴女はマスターもなしにどうやって現界しているのですか?」

 それは根源的な問い。いる筈のない八人目。いてはならない八人目。それがモードレッドだ。

 サーヴァントがマスターと契約するのは現界の楔とする為だ。マスターを現世に繋ぎ止める依り代として機能させ、その維持はマスター自身からの魔力供給、そして聖杯からの供給によって賄われている。

 だからこその不可解。マスターもなく、単独で行動し、宝具の使用をすら可能とするモードレッドの異常。アーチャーが有するクラススキル『単独行動』であっても、ここまで自由な活動は不可能だ。

 十年分の余剰魔力。たとえそれが八人目の召喚を可能とし、事実モードレッドを現界させ続けているのだとしても、マスターのいない彼女は現世に留まる為の楔が欠けている。どれだけ魔力があったところで、留め置く楔がなければ現界は叶わない筈。

「ああ……なんだそんなことか」

 何でもない事のように、

「オレを現世に繋ぎ止めているのはオレ自身の祈りであり、あの王であり──そして、聖杯だ」

 そんな、語られぬ真実を口にした。


/32


『そうか……師は、身罷られたか』

 アインツベルンの森から帰還したその夜。

 戦場であった森はキャスターの魔術により昼を夜に偽装されていたが、凛達が遠坂邸へと戻ったのは夕刻頃。それから実に六時間ほど後の今現在。
 凛は宝石仕掛けの通信機を通し、言峰綺礼へと森の戦いの顛末を説明した。

 重く沈黙が降る。

 凛にとっては実の父を喪失し、綺礼にしても十年以上の間、師と仰いだ男がこの世を去ったのだ、思うところが何もないわけではないだろう。

「お父さまの最期の言葉は……貴方も聞いていたでしょう?」

 時臣の耳を常に飾っていた紅玉のピアス。それは音声送信専用の宝石細工であり、その仕掛けを通じて綺礼はある程度の戦場の状況を常に把握して来た。
 流石に音だけで一部始終の全てを把握するのは難しく、凛は森での戦いの一連の流れを綺礼に説明していた。

「お父さまは最期にこう仰られたわ。遠坂に、聖杯を──と」

 その最期まで、遠坂時臣という男は魔術師として生き、そして死んだ。たとえ一パーセントだろうとあった筈の己が命を救う可能性を捨て、凛の手の中に、勝利し得る可能性を遺した。

 凛が首から提げている赤い色の宝石。凛が虎の子する宝石達と同等か、それ以上の魔力を貯蔵された切り札。凛の手腕とこの宝石があれば、死の淵に瀕する者であろうと救えるだけの可能性を持つ。

 時臣はそれを自身の救命に使う事を拒絶し、これより熾烈化する戦いへと赴く事になる凛に託した。それがどういう意味か、今更論じるまでもない。

「私は聖杯を手に入れるわ、綺礼」

 手の中のペンダントを握り締める。

 これまで、目の前の戦いにおいて勝利を得る事だけを見てきた凛。聖杯は勝利に付随するオマケ程度にしか見ていなかった。
 手に入れてしまえば使い道を色々と考慮しただろうが、手に入れる前から皮算用をするほど凛は酔狂ではない。

 ただそれが僅かに変化した。勝利を掴む大原則は変わらずとも、聖杯を得る事──そして遠坂の悲願を達成する事が、凛の中で明文化された。
 これまで漠然としていた勝利への道筋が確固たる意思となった。微々たる変化ではあっても、確かにそれは、この世を去った五代当主の跡を継ぐ、六代当主の宣誓だった。

『そうか……凛、おまえの成長を師も御喜びになられている事だろう。とはいえ導師とて命を奪われるほどの闘争だ、今後更に激化する事を思えば想い一つで容易く乗り越えられるものではあるまい』

「そうね。でも、こっちの戦力的な痛手はそう大きくないのが幸いよ」

『ああ、ガウェインを律する令呪は未だ三画。導師という戦力以外に、アインツベルンの森で遠坂が失ったものは何もない』

 ガウェインのマスターは初めから綺礼だった。中立を謳う教会の人間、ましてや監督役が一参加者であるという情報を公にするメリットは何処にもない。
 その為、綺礼の代わりに時臣はガウェインの仮初めのマスターとして戦場に立ち続けてきた。彼自身の提案によるものとはいえ、時臣はあくまで、偽装の為の代理マスターに過ぎない。

 時臣が使用したように見せかけていた令呪も偽装工作によるもの。真実は彼の耳を飾るピアスを通して、綺礼が遠く教会から令呪を発動していたのだ。

 更に、綺礼は監督役という特性上、過去三度に渡り持ち越された未使用令呪をその腕に宿している。前任者である父──言峰璃正より譲り受けたその令呪は、任意によって他者に譲り渡す事を可能とした。

 綺礼はこれを使い、時臣が使用した三度の令呪を補填している。つまり、ガウェインを律する為の令呪に欠損はない。栄えある太陽の騎士の頭上には、いつでも、何度でも太陽が輝くだろう。

『それで、どうするつもりだ凛。ガウェインはその消滅を免れたとはいえ、マスターと認識されていた導師は死んだ。これをおまえはどう扱う?』

「どうも何も、今まで通りよ。まさか綺礼、アンタが前線に出張るわけには行かないでしょう?」

 中立者にあるまじき一陣営への肩入れ、マスターである事を隠蔽した事実、そして職権の乱用による令呪の補填。
 一つ一つが重罪であり重なれば言わずもがな。公になれば監督役の地位を剥奪されるばかりか綺礼自身が相応の罰則を与えられるだろう。知りながら加担した、むしろ推奨した遠坂もただでは済まない。

『ふむ……では私の存在を隠し通したまま、ガウェインとアーチャーを運用すると?』

「ええ。聖杯のバックアップがある状態なら、私なら二騎のサーヴァントを従える事も不可能じゃない。幸い宝石のストックは山ほどあるし、魔力枯渇の心配もない。私のスペックを知っている魔術師なら、疑問に思っても納得するしかない」

 一拍の後続ける。

「たとえ偽装がばれても、アンタに辿り着ける奴が何人いるかしらね。アンタにしたってバレないように細工はしているんでしょう?」

 綺礼の令呪は右腕にびっしりと刻まれた余剰令呪に紛れるように現われている。僧衣の袖が令呪群を覆い隠しているし、たとえ見られてもどれが本物なのか分かるわけもない。何故ならその全てが、本物なのだから。

 ばれたところで知らぬ存ぜぬを貫き通せば良い。証拠もなく監督役に矛を向ければ、それこそこちらの思う壺だ。

「だからこれまで通りアーチャーとガウェインを使うわ。ガウェインの令呪の使用タイミングはこれから私が報せる。アンタも今まで通り監督役面してそこで踏ん反り返ってればいいわ」

 これより激化を辿る事になるだろう戦いにおいて、有用な戦力であるガウェインを隠し持つ意味などない。ランサーがキャスターに奪われた事でより隠匿する必要性が薄れた。アーチャー単独でアインツベルン相手に立ち回るのは分が悪すぎる。

『それがおまえの結論であるのなら、そうするがいい。私から異論はない』

「とは言っても、どうしたものかしらね。アインツベルンに仕掛けるのは現状自殺行為。かといって、他に手を出してアインツベルンに漁夫の利を持ってかれるのも気に食わないのよね」

 戦力バランスの拮抗が崩れた現状、優位にあるのはアインツベルン。ましてや森の大結界に再び挑む事は無謀に等しい。
 どうにかしてアインツベルンを森から引き摺り出さなければ、打つ手のなくなった他陣営が玉砕紛いの特攻をしかけ順次狩られるはめになりかねない。

 あるいは先の凛の言葉のように、他陣営同士が争い漁夫の利を掻っ攫われるか。どの道にせよ上手くない。何かきっかけがあれば良いのだが……。

「あ、そうだ綺礼」

 未だ途切れていない通信装置の向こうにいる綺礼に、凛は思い出したように問いかける。

「アンタ、夕方頃いなかったの? 一度連絡したけど反応なかったんだけど」

『ああ、所用で少し外していた』

「所用って何よ」

 アインツベルンの森で戦闘が行われたのだから、先の戦いのような大規模な隠蔽工作は必要ない。となれば、当然綺礼の出番もない。戦いがほぼ終息していたとはいえ、無断で綺礼が通信機の前を離れるほどの何かがあったのか、とそう凛は問うた。

 それに綺礼は無機質な声で答えた。普段と変わらぬ、何にも関心を抱かぬ声で。

『何、小五月蝿いハエを払っただけだ』


+++


 凛との通信を終え、綺礼は自室へと戻りソファーへと身を預ける。

 頼りなく揺れる蝋燭の明かりが照らすのは、テーブルの上にばら撒かれた数枚の紙。衛宮切嗣の経歴を記した書類だ。

 監督役という立場上、綺礼は表立って動けない。中立を謳う者として、一個人として戦場に立つ事は許されていない。

 特に衛宮切嗣ならば、既に綺礼がガウェインのマスターである事にほぼ確実に感付いているだろう。それでも手を下せずにいるのは、綺礼の立場があるからだ。
 監督役に矛を向ける事、敵対する意味。その後に下される罰則。そういう計算もあるだろうが、何より綺礼が切嗣の思惑を見抜いている事を、切嗣は恐らく理解している。

 互いに下手に動けばその失策を利用する腹だ。故に両者は無関心を装い、かたや一参加者として、かたや監督役として、闘争の渦の只中に居続けている。

 綺礼の思惑が叶う時。
 切嗣の眼前にこの狂える男が向き合うのは──

 ──恐らく、全てが叶うその直前。

 誰の横槍もなく。
 全ての祈りを踏み躙った先。
 黄金の杯が天に輝くその時こそが、約束の刻限。

 いずれ来るその瞬間を心待ちとし、神父は闇の中で静かに微笑む。

 そう──既に賽は投げられたのだから。

「マスター」

 不意に、虚空より響く凛とした声音。闇の中に涼やかな風が吹き込んだかのように錯覚する。

「ガウェインか」

 扉の方を振り仰ぐ綺礼。そこには白の甲冑を纏いし、遠坂時臣のサーヴァントとしてこれまで戦場に身を置き続けてきた、綺礼のサーヴァントの姿があった。

「何用だガウェイン。私はおまえを呼んだ覚えはないが」

 綺礼は召喚からこっち、ガウェインとほとんど会話をしていない。召喚直後はそれなりに言葉も交わしたが、あくまでそれはマスターとサーヴァントとしてのもの。互いにその境界線を割り切っていたからこそ、何の問題も生じなかった。

 綺礼は遠坂に組するマスターとしてガウェインを派遣し、ガウェインは己がマスターの剣である事を頑なに守り、主の命を遂行してきた。
 最初に命じた『遠坂時臣をマスターとし、その命令を第一とせよ』という綺礼の言葉の通りに。

 だが今、この場にガウェインがいるのは綺礼の命令ではない。時臣が命を落とし、新たなる命令を授かりに訪れたとも取れるが、これまでの綺礼の行動を鑑みれば、そのまま凛の指揮下に入るのが正しい選択だと気付けないほど、この白の騎士は愚かではあるまい。

 だからこその問い。

 誰が相手であろうと見下す事もしないが、仰ぎ見る事もない綺礼だからこそ、不可解な動きを見せた己が従者に問うのはある種当然と言えよう。

「マスター。貴方に一つだけ問わせて頂きたく、こうして参上した次第です」

「…………」

 不可思議だ、と綺礼は思った。

 まるで木偶のように、オウムのように、下した命令に全てイエスと答え続けてきた騎士が問うと言う。
 この白騎士にとっての忠義とは、主の命令を疑わず、過たず遂行する事にあると綺礼は見ていた。だからこそ何の苦労も背負う事はなかったが、ならば何故此処に来てそんな言葉を口にするのか。

「ほう……? 珍しい事もあるものだ、太陽の騎士。己をただ一振りの剣と断じておきながら口を開くと、そう君は言うのかな」

「…………」

 押し黙るガウェイン。彼もまたそれが、この場にいること自体が正しいのかどうか、判断を下せずにいるように思える。

「まあいい。問いがあるというのなら答えよう。無論、私に返せるものであれば……の話だがな」

 白騎士の心変わり。鉄の忠誠心を揺らがせたものが何であるか、綺礼は知らない。ただその変化を面白いと思う。死の淵で無念と悔恨に涙を流すほどの想いを束ね、己を剣であると誓いを立てた男に生まれたその変化。

 その正体を見てみたい、と。

「マスター、貴方にとって私は如何なる存在ですか」

「…………」

 幾つかの問いを予想していた綺礼だったが、それは嘆息に値するものだった。

「愚問だなガウェイン。私はマスターであり、おまえはサーヴァントだ。それ以上でもそれ以下でもあるまい?」

 二人の間に信頼と呼べるほど強固な関係性などある筈もない。遠坂を勝者とする為にサーヴァントを求めた綺礼と、ただ己の心の中にある理想の主に忠義を尽くすガウェイン。両者に歩み寄る余地はない。

「正直なところ、おまえがいようがいまいが私にとって差異はない。監督役という立場もあり、表立って動けぬ人間にサーヴァントは過ぎたるものだ」

 そして何より、と綺礼は続け、

「私は聖杯に希うものなど何もない身だ。命を賭け、死力を尽くし合い争う他のマスター達とは毛色が違う。
 私が求めているものは唯一つ────」

 この救いなき身に答えを齎せる者との邂逅のみ。

 誰が聖杯を手にしようが、勝ち残ろうが、己がサーヴァントが消え去ろうが、その大目的が達成されるのであれば他はいらない。
 そして綺礼の中には一つの絵図が見えている。たとえこの未来予想が外れたとしても、ならばあの男はそれまでの男だったという事。

 やはり己は何かの間違いで生れ落ちた屑なのだと、再確認するだけの事だ。

 綺礼は何も求めない。
 既に世界を達観している。

 善行よりも悪行を尊び。
 正道よりも外道に組し。
 美しきものより、醜いものにこそ恋焦がれる。

 そんなあるべき倫理観から外れた男に、その在り方に諦念を覚えてしまった男に、何かを期待すること自体が間違っている。

「私におまえが理想とする王の姿を重ねようとするのなら、やめておけ。私に王の素質などあるわけもなく、たとえあったとしてもそう振舞うつもりなど毛頭ない。王の影を私に着せ取り繕おうとしても無駄だ、すぐにボロが出る」

「…………っ」

「ガウェイン。何がおまえの心を変えたのかは知らないが、私から言える事は何もない。私におまえの行動を制限する気はない。名目上のマスターは私だが、実際に指揮を執るのは遠坂の人間だ。
 質問には答えた。もう用がなければ戻るが良い。万が一にも教会を出るところを見られるような無様はやめてくれ」

「…………」

 これ以上の会話は不毛の極地だ。どれだけの言葉を並べ連ねようと、綺礼の心には響かない。
 上辺を滑る耳障りの良い言葉が聞きたいのであれば幾らでも吐き出せる。だがガウェインはそれを求めていない。だから全ては綺礼の本心。

 この男は──心底からガウェインに興味がないのだ。

 ガウェインをサーヴァントとしたのも、夜が戦場となりやすい冬木において令呪の使用回数の制限が緩い綺礼だけの特性を利用しようとした時臣の進言によるもの。
 マスターとサーヴァントの相性を度外視した、縁の品による強制召喚。本来ならば軋轢の生まれやすいこの召喚形態でもこれまで何の問題も生じなかったのは、線引きの出来るガウェインの在り方があってのもの。

 剣としての在り方に疑問を覚えた己が従僕の心を導くだけの誠実さが綺礼にはない。この高潔たる騎士の心を暴き見たところで、綺礼が悦楽を覚えるほどの濃い闇を覗き見る事は叶わないのだから。

 ソファーの背凭れに身を埋め瞳を閉じた綺礼。最早言葉を交わす必要もないという明確な意思表示。
 ガウェインは己がマスターへと目礼し、霊体化しようとしたその直前──

「私情にて剣を振るった事を悔い、主の命じるままの剣となると誓ったはずのおまえが、今一度私情にて剣を執ろう言うのなら──」

 ガウェインが振り返る。綺礼は瞳を閉じたまま、何をも見つめず最後の言葉を告げた。

「そこに悔いを残したままでは、同じ過ちを繰り返すだけだ。それそのものが過ちであると気付かなければ、何度でもな」

「…………」

 ガウェインは僅かに目を見開き、口元に笑みを浮かべた。言葉は必要ない。礼などこの男は求めてはいない。だから先と同じく、静かに目を伏せ、現われた時と同じように、白の騎士は闇の中に溶けていった。

「……全く」

 綺礼だけが残された室内で、彼もまた笑った。

「らしくもない事をする。ああ……それほどに、この心は高揚しているのか」

 何にも関心を抱けなかった心に熱が灯っている。

 誰に知られても蔑みの目を向けられる在り方を隠し通してきた長き日々。悟られる事もなく過ぎし追憶。その終焉はもう間もなく。問い続けた日々の苦悩も、諦めに至った後の日々の無為も、ようやく報われる時が訪れる。

「────聖杯の眼前にて、汝を待つ」

 静かに。
 告げるように。
 言祝ぐように。

 神父は揺らめく闇の中、そう謳い上げたのだった。


/33


 時は遡り、夕暮れ時。

 一台の自動車が深山町の一角に構える武家屋敷の正門前で停車した。

 ハンドルを握っていたのは衛宮切嗣。助手席にはセイバーの姿がある。二人は言葉もなく降車し、仮初めの宿へと再び訪れた。

 アインツベルンの森での激戦の後、善後策を練った三人の結論は、拠点を森からこの屋敷へと移す事で合意された。

 鉄壁にも等しい森の大結界。事実二度の襲撃に耐え、撃退した結果がその城壁の高さを示している。ただやはり、憂慮されたのはイリヤスフィールの存在。
 間桐臓硯の手に落ちた彼女を捨て置き、来るかどうかも分からない敵を待つのは消極策に過ぎると言うもの。

 森の中で待ち構え続ければ、まず間違いなく勝利を掴めるだろう。アインツベルンを除く三つの陣営全てが結託でもしない限り、あの森は不落を貫くと想定される。ただ、その恐れるべき協定も、間桐と遠坂の因縁がある限り困難を極めるものとなろう。

 しかし篭城を続ければ、敵がどんな手に打って出るかは不明瞭。最悪、アインツベルンの手に聖杯が渡る事を忌避し、ならば誰にも渡らぬ方がまだマシだとイリヤスフィールを殺害する可能性さえも有り得る。

 故にこうして彼らは不落の城を無人のまま残し、前衛拠点へと移動した。最低限の警告結界しか敷設されていない、魔術師の工房にあるまじき四阿。此処を敵の襲撃に耐えられる強度に造り替える時間的余裕はない。

 魔術師にあるまじき開けた屋敷だからこそ敵の目を欺き、簡素な結界しかないからこそ敵の盲点にもなりうる。
 何もしない事も一つの防衛策。敵の襲来があったとしても、サーヴァント達がいる限りそう易々とは突破される事もあるまい。

「悪いけど、少し出掛けるわ」

 先に屋敷へと霊体となって移動していたキャスターが、庭先へと入った切嗣と目を合わせるなりそう言った。切嗣は続きを促す。

結界(もり)の中だからこそ可能だった事も、此処(そと)じゃ簡単には出来ませんもの。特に転移は森のように自由自在にとは行かないわ。
 土蔵を帰還基点とした跳躍は可能なように細工をしたけれど、他にも幾つか仕掛けておきたいから」

「好きにするといい。ただ、敵への警戒は怠るな」

「言われなくとも分かっているわ。あーあ、誰かさんが余計な事をしなければこんな苦労も必要なかったのだけれど」

「…………」

 切嗣は答えず縁側から母屋へと入って行く。ふん、と鼻を鳴らし、キャスターはローブに包まれるようにして虚空へと掻き消えた。

 森での一件以降、二人の関係は目に見えて悪化している。元々二人ともが疑念を持って互いを見ていたところはあるが、他陣営への対処という名目の下、力を合わせていたのもまた事実。

 今もそう、表面上は悪態をついたり無視したり、以前にはなかった兆候が見られるが、足並みが崩れているかと言えばそうでもない。先の展開を優位なものとする為、目に見える協力はなくとも互いに最善を尽くしている……ようだ。

「…………」

 はぁ、とセイバーは嘆息する。

 板挟みになる身にもなって欲しい。先の城での会議という名の水面下での足の蹴りあいのような、針の筵に座らせられるような事は二度と御免被りたい。

 ただ、セイバーも思うところがないわけではない。

 キャスターの磐石を期した足場が崩された苛立ちも、切嗣の何を犠牲としてでも目的を成し遂げるという意思も、セイバーには理解が出来る。

 何が正しく、何が間違っているかを論じるだけの時間はない。場を諫める程度の事はしても、セイバーは己を剣と断じる者。個人の意思は二の次だ。全ては、結果によって優先される。

 切嗣の目論んだ策が結実するかどうか──ようはそこに全てが懸かっている。

 先に屋敷へと踏み入った主を追い、セイバーも敷居を跨ぐ。

 切嗣の姿は居間にあった。居間には何やら機械の類が幾つも置かれ、その配線が地を這っている。
 他には銃器の整備用品など、かつてはなかった筈のものが散見される。切嗣が持ち込んだものでなければ、彼がその助手である舞弥に用意させたものだろう。

 当の切嗣は立ったまま、携帯電話を耳に押し当てていた。

「…………」

 長く続くコール音。セイバーが居間へと踏み入るその前から鳴り続ける電子音。いつもなら取り決めの通りツーコールで出る筈の舞弥が、電話に出ない。

 ……まさか。

 切嗣の脳裏に良くない想像が過ぎる。衛宮切嗣の助手にしてこの男よりもなお機械めいた女。そんな舞弥が、切嗣からの連絡に出ない。それそのものが異常だ。

「…………」

 無言のまま電話を切る。足早に、切嗣は外へと歩き出す。

「マスター、外へ出るなら同行します」

 切嗣は振り返らず、一瞬だけ足を止め、直後無言の肯定を以って歩き出そうとした時──

「…………ッ!?」

 切嗣の左手の小指に激痛が奔る。

 それは“一つの結末”を告げる痛み。衛宮切嗣の小指には呪的処理を施された舞弥の頭髪が仕込まれている。
 髪の持ち主に命の危機に関わるような事態が起こった時、自動的に燃焼し相手へと伝える仕組みとなっている。

 どれだけ待とうと繋がらないコール。瀕死の場合にのみ発動する呪的連絡。二つの事柄が指し示すのは、久宇舞弥の窮状に他ならない。

 切嗣が把握している舞弥の潜伏先までは、どれだけ急ごうと十分以上はかかる。いや、セイバーのみであれば彼女の下へ飛ばすのは不可能ではない。
 令呪の力を用いれば、もし仮にまだ舞弥が生存していれば助けられるし、襲撃者の正体も見当がつけられる可能性がある。

「マスターっ!?」

 突然顔を顰め指を押さえた切嗣の行動の理由を知らないセイバーは、ただならぬ事態が起こったとだけ認識するしかない。全ての決断は切嗣個人の裁量に委ねられている。

「…………」

 短く息を吐き、切嗣は外へと向かう。

 令呪は使わない。三度しか許されないブースターを、生きているか死んでいるか分からない相手を助ける為に使う愚行は犯せない。
 連絡が取れてその最中に起こったのならまだしも、既に毛髪が燃え尽きた以上、生存の目は少ない。

 助けられるかもしれない人間を見捨てる事に躊躇はない。たとえそれが長く連れ添った相手であったとしても、衛宮切嗣の心は揺るがない。
 既に娘の命すら理想を叶える為の生贄として差し出したのだ、今更人並の情で心の矛先を変える事など、どうして許されようか。

 だから衛宮切嗣は静かに、久宇舞弥の死を受け入れた。

 そしてその死を看取る為ではなく、少しでも情報を得る為に、車のハンドルを握り隠れ家の一つへと急いだ。


+++


 鼻を衝く血臭。
 噎せ返るような血の匂い。
 壁一面の赤。

 舞弥の潜伏先であった隠れ家の扉を開いた切嗣の目に飛び込んできたのは、壁を背に頽れた久宇舞弥の姿。

 だらりと下がった腕。
 投げ出された足。
 目は閉じられ、口からは一筋の血が垂れている。

 呼吸を確かめたり、脈を測り生死を確かめるまでもない。
 死因と思しき胴──心臓の傷口から零れたのであろう赤い血が、彼女の下に水溜りのように広がっている。

「これは……」

 遅れて室内へと踏み込んだセイバー。彼女の瞠目を他所に、切嗣は膝を折り舞弥だったモノの検分を始めた。

 下手人の姿など無論なく、死因は剣のような刀身の長い得物か。背を突き抜け、壁に痕跡を残すほどの膂力で以って舞弥は心臓を一突きにされたようだ。剣と思しき凶器が引き抜かれた際に崩れ落ち、今の格好となったと思われる。

 近くにコンバットナイフが一振り落ちている。それも抜き身の状態で。
 であれば、舞弥は無防備に殺害されたのではなく、抵抗したが及ばず息の根を止められたのだろう。

 そもこの街に切嗣以外に舞弥の知人はいない。セイバーとてこれが初面識。唯一可能性があるとすれば如何なる手段を用いてか、連絡を取ったらしいキャスターだが、彼女が襲撃者であれば舞弥が抵抗の意思を示すとは思えない。

 あの魔女の事だ、何らかの目的を持ち舞弥を殺害し、切嗣を欺く為の工作を行った可能性も考えられるが、今回に限ってはその線も薄い。

 舞弥の膝の上に、わざと目につくように置かれた一枚の紙。その紙の上にはこう記されていた。

『聖杯の眼前にて、汝を待つ』

 無機質な筆致。特徴の何もない文字の羅列。わざとそう書かれた襲撃者による切嗣宛てのメッセージ。

 ならば襲撃者は切嗣と舞弥の関係性を知る者。切嗣自身は無論有り得ず、セイバーにも不可能。キャスターでさえないのなら、可能性を持つ相手は、唯一人。

 ────言峰綺礼。

 唯一人、舞弥に辿り着けるとすれば奴しかいない。この街に潜伏する教会スタッフを手足のように使える監督役という立場。
 常に教会に監視の目を置かせていた事に気付いていたのなら、中立にして公平を謳う教会に猜疑を抱く輩がいると唆し、調査を行わせていても不思議ではない。

 ならばこれは切嗣の失策。

 有益な情報を何一つ引き出せず、警戒だけをし続けた代償。動きを封じる為の監視が逆にこちらに協力者がいる事を悟らせ、暴かれ、付け狙われた。

 久宇舞弥は、衛宮切嗣の愚かさ故にその命を失った。

「マスター、外を警戒します。まだ襲撃者が近くに潜伏している可能性もありますので」

 切嗣の肯定を待たず、セイバーは部屋を出て行く。

 襲撃者──言峰綺礼が近くにいる可能性など皆無だ。気を利かせたのかもしれないが、そんなものは余計なお世話だ。

 切嗣に悲しむ資格はない。詫びる資格などある筈もない。いつか切り捨てるまで、都合良く使い潰すつもりの女が予定よりも長く持った──そして今、ようやく終わった。ただ、それだけの事だ。

 そっと伸ばした掌。血に塗れ、何を掴む事も許されないと思い続けた掌を、死んだ女の頬に添える。
 まだ温かい。人の温かさがまだ、この身体には残っている。失われていく体温。やがてこの温かさも消え、文字通りの屍へと変わってしまう。

 それを止める手段はない。止める理由も見当たらない。そもそもとして、止められる筈などない。既に失われた命は、何をどうしようが還る事はないのだから。

「舞弥……ご苦労だった」

 悲しむ事も、詫びる事も許されぬのならば……せめてこれまでの働きを労うくらいは許されてもいいだろう。

 それが別れ。
 それが終わり。

 衛宮切嗣と久宇舞弥の別離は──こうしてその幕を閉じたのだった。


+++


 後始末を終え、手筈の全てを整え終えた切嗣は、セイバーと合流し深山町の拠点へと戻るべくハンドルを握る。

 死んだ人間の事をいつまでも引き摺るような切嗣ではない。今、真っ直ぐに前を見つめるこの男の脳裏には、襲撃者である言峰綺礼の事だけが浮かんでいた。

 言峰綺礼は何を想い、久宇舞弥を殺害したか。

 舞弥を殺したのは恐らく、ついでのようなもの。あの男の目的は切嗣のバックアップを奪う事でも、奪った事で動揺を誘う事でもない。

『聖杯の眼前にて、汝を待つ』

 このメッセージを切嗣に見せる事。ただそれだけが、目的だった。

 現場に自身の痕跡を何一つ残す事のなかった男が残した、唯一の証拠。わざと残していったメッセージであるのなら、他に理由は考えられない。

 未だ全サーヴァントが存命しているこの状況下で、既に終幕を見据えたメッセージを残した意味。このタイミングで舞弥を排除した綺礼の狙い。

 それが意図してのものか、そうでないのかは不明ながら、切嗣も此処に来てようやく現状を正しく把握した。

 この戦いはもう長くは続かない。

 拮抗していた天秤はバランスを崩し、これまで溜まりに溜まった目に見えない力が、坂道を転がるように終局に向けて落下している。この聖杯を巡る戦いに関わった全ての者を巻き込みながら。

 膠着は終わり、誰もが終わりを見据えて動いている。失ったもの、手に入れたもの。それぞれが手の中に残ったものを全て使い、己が目的を果たさんとして。

 ……ならば僕もまた、全てに決着を着けよう。

 窓の向こうに見える空は灰色。
 雨の到来を告げる鈍色だ。

 その果てから忍び寄るように迫る暗雲。
 それはまるで──彼らの行く末を暗示するかのように……。


/34


「これが……聖杯……?」

 アインツベルンの森での戦いを終えたその日の夜。間桐邸へと帰還した彼ら間桐の人間は薄暗いリビングに一同に介していた。

 森で臓硯を回収した折、彼の者が抱えていた少女の正体。キャスターのマスターを人質として攫ってきたものだと思っていた雁夜は、臓硯の言葉に唖然とした。

 だってそうだろう、目の前のソファーに横たわるのはただの女の子だ。雪のような白さの髪と、透けるような肌の白。身を飾る気品溢れる衣服も相まって高貴な雰囲気を纏っているが、どうみても年端もいかぬ少女そのもの。

 この少女が聖杯を隠し持っている、という話ではない。この少女自身が、聖杯の器それそのものなのだ。

「錬金術に長けたアインツベルン製のホムンクルス。彼の者らは聖杯の守り手としての役を担い以前の闘争にも随伴しておった。だが三度目の争いの際、聖杯の器はその完成を待たず破壊されてしまった。
 その反省を活かした自己防衛能力を有する生ける聖杯。ホムンクルスに聖杯を宿すのではなく聖杯に手足を付随するとは、あやつの発想には儂も舌を巻くわい」

 カカ、と嗤う臓硯。しかし雁夜はこの少女を仕組んだ誰かにも、その仕組みを知ってなお泰然としている目の前の悪鬼にも、吐き気を覚えるほどの邪悪を見た。

 まともな倫理観でこんな事が出来るものか。容認出来てたまるものか。幾ら造られた命とはいえ、それを弄び、己が目的の為の玩具とする事を、肯定出来る訳がない。

 ただ、雁夜は安堵もした。自分はこんな腐りきった魔術師とは違うと。命を玩弄する輩にまだ怒りを覚えられる人間なのだと、そう安堵した。

 ──その醜さを、浅ましさを、知る事もなく。

「で、この子をどうするんだ」

「どうもせん。というよりもどうにも出来ぬ」

 じくじくと、臓硯の足元より数匹の蟲が這い出した。蟲はソファーを這い登り、イリヤスフィールに取り付こうとした瞬間、

『ギィ……!』

 気味の悪い断末魔を残し、一匹残らず消滅した。

「魔術的干渉を行おうとするとそれに反応して迎撃を行うよう設定されておるらしい。この小娘自身の判断か魔女の入れ知恵かは知らぬが、賢しい真似をしてくれたものよ」

 魔術による干渉が不可能であれば、正直なところ臓硯にはイリヤスフィールをどうこうする事も出来ない。自分の都合の良いように操る事もその詳しい生体についての調査も出来ない。

 せめて令呪を剥奪し、キャスターを消滅させられればとも思ったが、これではそれも至難を極める。

 物理的な干渉は此処まで運べた事からも可能だと思われるが、下手に肉体に損傷を与えて聖杯の機能に不具合を起こされてはたまったものではない。
 その身は機械より精緻でガラスよりも脆い芸術品。扱い方を間違え、これまでの苦労の全てを水の泡とするような愚かな真似は出来ない。

 臓硯自身、正直なところイリヤスフィールの存在を既に持て余し始めている。聖杯の器を手中にしているという事実は今後の局面を優位に運べる好材料となりうるが、同時に器に傷をつける事が許されないのであれば人質としての意味を為さない。

 逆に言えば、衛宮切嗣によって押し付けられた可能性をすら考え始めている。

 最終的に手元に戻ってくるのならばそれで問題ないと。一時的に敵の手に預けたのは、逆にイリヤスフィールをこちらのネックとする為の策なのではないかと。

 幸いにしてイリヤスフィールが目を覚ます様子はない。自分自身を人質に暴れ回られるような事態になられては面倒極まるが、自己防衛を優先する為の眠りに落ちていると見るべきだろう。

 とはいえ、衛宮切嗣の手によって間桐臓硯へと贈られたトロイアの木馬。それがこのイリヤスフィールになりかねないは事実。

「お爺さま」

 その時、これまで沈黙を保っていた桜がその口を開いた。以前と変わらぬ幽鬼のような立ち姿。長い前髪の向こうの瞳は、微かにしか窺えない。

「なんじゃ、桜よ」

「お爺さま。もしお爺さまが“それ”をいらないって言うのなら──私に下さい」

「桜ちゃんっ!?」

 雁夜は無論、臓硯にしても桜の嘆願には驚きを隠せない。間桐の家へと迎えられてからこっち、彼女自身が何かを求めた事など一つもなかった。
 身の丈に合わぬものを望めば、鋭い鞭が飛んでくるとでも言うかのように。桜はただ、臓硯の言いなりになるばかりの人形だった。

 人形が願いを口にした。動かぬ筈の口を動かし言葉を発した。脅えて肯定の意を返すのではなく。自ら、望むものを手に入れようと。

「ほぅ……? 珍しい事もあるものだ。して、桜よ。仮に儂がイリヤスフィールを貴様に譲り渡したとして、どう扱うつもりだ?」

「決まっています。彼女が聖杯の器であるのなら、その器に(みず)を注ぎ、捧げるだけです」

 この街に集う今回の聖杯戦争における生贄──聖杯の器にくべられるべき英霊の魂の数は八。本来は七つで満ちる杯に、十年の遅延が生んだ余分が一つ。
 されどその器には未だ一滴の水も注がれていない。全てのサーヴァントは存命し、戦いの行く末は未知数。

 この段階で聖杯を聖杯として機能させる術はない。桜の言葉は、戦いの行方を見守るのと何ら変わらないもの。それではわざわざ臓硯が桜に聖杯を託す理由はない。

「いいえ。抱え続けても満ちるその時まで邪魔になるものであるのなら、いっそ最初から捧げてしまえばいいんです。
 聖杯の器を欲しがるのは、何も私達だけじゃないんですから」

「ほう……? つまり桜よ、貴様はイリヤスフィールを他の連中を戦場へと誘う餌にしようと?」

「はい。今回の降霊の地が既に判明しているのであれば、そこに導くだけでいいんです。勝ち残らなければ意味がないのなら、わざわざ危険を冒して聖杯の器を持ち続ける理由もないと思います」

 聖杯の器を手に入れたとするのなら、誰もがその死守に全霊を傾けるだろう。いずれ訪れる終焉の刻限、その時に聖杯が手の内にある優位性は語るまでもない。

 しかし、臓硯の分析が正しいのなら、扱いに困る聖杯の器を未だ脱落者のないこの段階で持ち続けるだけの理由は少ない。
 衛宮切嗣がわざと臓硯にイリヤスフィールを引き渡したのだとすればなおの事。彼奴の策を崩す意味でも効果的だ。

 聖杯の器が既に降霊の地にあると聞けば、こぞってその確保を目論む連中が押しかけるだろう。
 その状況を作り上げるという事は、これまで常に先手を奪い続けてきたアインツベルンの思惑の裏を掻く事にも繋がる。戦場の優位性を確保する事が出来る。

 森に引き篭もっていれば勝利はほぼ確定的なアインツベルンも、これでは戦場に出てくるしかない。

 衛宮切嗣とてイリヤスフィールの無事は確保しておきたいだろう。自らの与り知らぬところで戦いが行われ、そして聖杯の器が誰の手に渡るのか、どのような状態かも分からないような状況は避けたい筈で、ならば出張ってくるしか他にない。

 守り抜こうとすればするほど弱点を露呈させる聖杯の器も、扱い方次第で幾らでも状況を動かせる駒になる。

 この発想は桜だからこそのものだろう。物欲がなく、執着もない彼女ならではの策。聖杯に、自らの祈りの成就に、並々ならぬ執着を持つ臓硯ではこんな使い捨てるような策略に思い至らないのも不思議ではない。

「ふむ……悪くはない。カカ、孫が初めて爺に物をねだったのだ、くれてやるのも良いかもな」

 時を置けば衛宮切嗣が何かを仕掛けてくる公算は高い。その前に、動くのなら早いに越した事はない。

「良いぞ桜よ。イリヤスフィールはお主の好きにせい。だがくれぐれも丁重に扱えよ? もし聖杯が機能不全を起こすような事があれば──」

「大丈夫です、お爺さま。私にだって、聖杯を手に入れなければならない理由はあるんですから」

 糸に操られるだけだった人形を動かす理由。それが成長と呼ばれる類のものであったとしても、臓硯には微塵の興味も惹かれない。孫の成長を喜べるほど、この翁は人としての情を既に残してなどいないのだから。

「それで、お爺さま。今回の降霊の地は何処でしょうか」

「ああ……本来三つある霊地が順繰りに廻り、今回は一番初めの地点……柳洞寺だと推測されていたが状況が変わっておる。今回は新たに生まれた四つ目の霊地──新都の中心にある冬木市民会館が降霊の地じゃ」

 聖杯戦争を行う上で手を加えられた霊脈は、此処に来て異常を来たし、本来霊地ではない場所に最大級の力の瘤を形成するに至ってしまった。

 霊地としての格は当然ほかの三つに劣るが、六十年周期で満ちる筈のものに十年を上乗せされた結果、第四位の地点が他の霊地をも上回る魔力量を蓄えている以上、降霊の場所は変える事が出来ない。

「冬木市民会館……? 本当に新都のど真ん中じゃないか! あそこは周囲も住宅街で密集している。そんな場所で降霊を行うのか!?」

「何を危惧する雁夜よ。今更になって巻き込まれるかもしれぬ無辜の人間共の心配か? だとすれば遅すぎるな。
 この戦いの初めからこの街に住む者の命は危険と隣り合わせよ。これまで省みる事のなかった貴様にそんな世迷言を吐く資格などあるまい」

「くっ……!」

「だが安心せい。冬木市民会館はセンタービルと並ぶこの市の恩恵を授かった建築物よ。敷地面積は広大を誇っておる。よほどの事がなければ問題などあるまいよ」

 その『よほど』が起こり得る聖杯戦争だからの危惧。対城レベルの宝具を有する英霊が激突すれば、その被害は甚大に及ぶだろう。

 ただ、雁夜がしたような危惧を他の連中もしないわけではあるまい。特に正規の英霊達ならば、周囲への被害を慮るくらいの高潔さは持ち合わせている筈だ。

 逆を言えば、そのお陰で市民会館付近での広域殲滅型の宝具はその使用を封じる事が出来る。
 対人戦特化のバーサーカーにとっては優位な戦場を形成できる可能性もあるだろう。

 まあそれも希望的観測を含んだもの。聖杯を掴む為、祈りを叶える為と、他の全てを犠牲に出来る輩がいないわけがないのだから。

「じゃあ、雁夜おじさん。聖杯の器を運んで貰えますか」

 話はそれで終わったと、桜は行動に移る。

「本当に……やるのか?」

「はい。やるなら早い方がいいです。でないと、アインツベルンが何かを仕掛けて来ないとも限らないので」

 雁夜はまだ戸惑っていた。桜の余りの変わりように。

 森の戦い以前と、その後ではまるで別人だ。何が彼女を此処まで駆り立てるのか、雁夜には皆目見当もつかない。

「……分かった」

 それでも、彼女が自分の意思を口にしてくれるのは嬉しかった。人形のように唯々諾々と命令に従うだけの彼女は見るに耐えなかったのだ。
 たとえそれが聖杯を掴む為の策であろうと、彼女自身の意思で彼女が動いている事が、雁夜には嬉しかった。

 ……ああ、きっと俺達は勝てる。勝って、この地獄から抜け出して。

 その先に、幸福があるように──

 そんな、遠い夢の向こうを想う。
 今目の前にある、足元にある現実から目を背けるように。

 自らを騙る、欺瞞から目を逸らして。


+++


 そして雁夜はイリヤスフィールをその腕に抱き、間桐邸を去った。

 まだ誰の手も入っていない降霊の地へと。誰もがその確保を最優先とする筈がないこの時期だ、雁夜の道行きを阻むものは何もない。

 桜は残り、臓硯と今後について話し合う手筈となっていた。桜の策を了承したが、臓硯にとって桜は全てを託すにはまだまだ未熟。アインツベルンや遠坂に足元を掬われぬよう手解きをしてやろうと思った矢先──

「ライダー、『他者封印・鮮血神殿(ブラッドフォート・アンドロメダ)』を強制展開──令呪を以って命じます」

「ッ!?」

 瞬間、世界は血の色で覆われる。本来十日ほどの時間を掛けなければ構築出来ない魔法にも等しい大結界。それを令呪の強制力で、桜は強引に間桐邸内に展開した。

「──何を考えておる、桜っ! 血迷いおったかっ!?」

「いいえ、お爺さま。これが正しい選択です。この家に棲まう蟲のその悉く、一滴の魔力も残さず吸い尽くしてあげます」

 鮮血神殿はその内側に存在する魔力を有する存在を溶解し吸収する。並の人間ならば数分も保たず意識を失い、やがて全てを血液の形へと分解され吸収されてしまう。
 魔術師ならば自身に無意識に防護を行い、即座に分解されるような事はないが、結界内に居続ければ同じ道筋を辿る事になるだろう。

 臓硯自身が耐えられても、この家に蠢く無尽にして無数の蟲はそうもいかない。間桐臓硯の子飼いの蟲はそれ自体が魔力の塊。使い魔としてはサイズも小さい。
 人間大のものを溶解するには数分の時間が必要でも、蟲を溶かし切るのには数秒と時間は掛からない。

『ギィィィィィィ…………アァァ、ァァッッ!!!!』

 地の底から響く断末魔。腹の底へと響く雄叫び。自らの甲殻を溶かす血の霧に咽び、奪われていく魔力に身を捻じ切る。
 今頃間桐の修練場である蟲蔵は文字通りの血の海と化しているだろう。数万、数億にも及ぶ蟲が溶解した赤い海。純粋な魔力で満たされた、地獄の底に生まれた原初の世界。

「ォ、ォ、ォ、ォォ、ォォォ……!」

 蟲の絶命に伴い臓硯の表情が変わる。五百年を生きる化生も、まさか全ての蟲を一瞬で無に帰されるような事態は想定していまい。

「さ、くら……! 貴様ァ……!」

「うるさいですよ、お爺さま。そんなに叫ぶと、ほら──」

 桜の最後から臓硯目掛けて飛ぶ刃。ジャラジャラと鎖を打ち鳴らしながら、ライダーの得物である釘剣は臓硯の首へと巻きつき、引き戻す反動でその皺枯れた首を捻り切り落とされた。

 ごろり、と臓硯だったものの頭が床に転がる。それを見下すように桜は眇め、首を落とされてなお睨む瞳に鋭き眼光を宿す祖父の頭蓋を──

 ──その足の底で、踏み砕いた。

 じくじくと溶ける臓硯の身体と頭。蛆が沸いたように這い出す無数の蟲は、地下の仲間達と同じように鮮血の神殿に溶かされ、悲鳴を残して消え去った。

「最初から……こうしておけば良かった。そうすれば……」

 全てが終わった場所で桜は呟く。後に続く言葉は、誰の耳にも届かない。

「サクラ……」

「うん……大丈夫だよライダー」

 間桐臓硯がこれで確実に死んだという保障はない。

 常人に数倍する長い年月を生き、人の身体を捨ててでも延命を図った蟲なのだ、桜や雁夜の叛旗を予想していなかったとは思えない。
 それでも、この家に棲まう蟲の全てを消し去ったのは事実、間桐臓硯の力を削いだのは事実だ。

 たとえ生きていたとしても、何も出来まい。かつてと同じ力を取り戻すには相応の時間が必要だろう。たとえ対策を打っていたとしても、今すぐに復活出来るような手緩い奇襲をかけたつもりはない。

 臓硯が生きているのなら、その力を取り戻す前に決着を着ける。

 間桐桜はその覚悟で──あの悪鬼に初めての叛逆を行ったのだから。

「行こう、ライダー。全部、終わらせてしまおう」

「はい、サクラ。私は常に貴方と共に」

 臓硯の魔手から逃れない限りは桜に幸福な未来はない。だからライダーはこの奇襲に加担した。

 懸念すべきは、その血に濡れた掌で、幸福を掴めるのだろうか。先の見えない暗闇の向こうに、主の望む未来が待っているのか……。

 それはライダーには分からない。

 それでも、今出来る最善を。
 マスターの望む道を征く。

 それが彼女の在り方。
 この身が地獄に落ちようと、望みが叶うのならばそれでいい……。

 悪鬼の手から逃れた主従が夜を進む。
 誰もが予期し得なかった先陣を切り、聖杯の向こう側へと、辿り着く為に。


/35


 今夜はいつものように空に煌く星が見えない。どんよりとした分厚い灰色の雲が遥か彼方からゆっくりと迫り、果てまで続く夜空を覆い尽くしていく。

 遠坂邸の屋根の上。
 哨戒を任ぜられたアーチャーは一人、呆とそんな空を見上げていた。

 彼の心に渦巻く想いは如何なるものか。自分の知る世界とは余りにかけ離れてしまった世界。何が原因かも分からないこの世界。唯一変わらないと信じた少女の心は見通す事すら叶わず、ならばこの手に握る剣は一体何の為に振るうべきか。

 生前、迷う事なく果てを目指し走り続けた。たとえその先に破滅しか待っていないと理解しても、それでもがむしゃらに走り続けた。

 果ての先にあったのは無念と悔恨。自らの愚直さを呪い、胸に刻まれた呪いを恨み、渦巻く憎悪だけを糧として一縷の望みに全てを賭けた。

 ああ、それはもういい。此処が己の望みの叶わない世界ならば、いつまでも引き摺り続けるような無様はあってはならない。
 永遠を延々と繰り返せばきっと、己が願った世界へと至る事は可能だから。万に一つで足りないのなら、億に一度の奇跡に賭ける。

 この心がどれだけ磨り減り擦り切れようとも、その願いは今でもまだ心に残っている。

 だからそれはもういい。すっぱりと諦め、切り替える。今彼の心にあるのは一人の少女の面影だけ。冷徹な魔女として振舞い続ける、遠坂凛の幻影だけだ。

「アーチャー」

 不意に、横合いからかかる凛とした声。振り向けば、そこにはガウェインの姿があった。

「何を呆けているのですアーチャー。それでは哨戒の意味などないでしょう」

「ああ、耳に痛いな……」

 先日まではガウェインが哨戒についている時に色々とちょっかいを出してきたアーチャーだ、今自分が逆の立場に置かれて、そしてこの距離までガウェインの接近に気付かなかった迂闊さは、弓兵にあるまじき失態だ。

「それで、何用かなガウェイン卿。まさか私に喚起を促す為にわざわざ屋根の上に登ったわけではあるまい?」

「それも一つの理由ですが。ええ、アーチャー。先日の続きを……いえ、答えを貴方に告げる為にこうして参じた次第です」

 アインツベルンの森での決戦前夜、二人は今と同じく屋根の上で問答を繰り広げていた。

 アーチャーは言った。ガウェインの剣には意思がないと。彼の在り方を指し、自らの意思でその太陽の剣を振るっていないのだと。

 ガウェインは森での戦いでその意味を思い知った。理性を消失し狂える獣に成り果てたかつての盟友。そんな男が振るった意思持つ一閃。
 それは太陽の加護を得たガウェインの最大の一撃を斬り裂いた。生前ですら叶わなかった奇跡を、幸運を、意思の力で成し遂げた。

 ただ王の為──その一念が太陽の輝きを上回った。唯々諾々と主の命に従うだけだった白騎士の剣を凌駕したのだ。

「なるほど……その答えは、是非聞かせて貰いたいな」

 ガウェインが一度この屋敷を離れた事は承知している。恐らく、本当のマスターである言峰綺礼の下へと向かったという事も。
 であればこの白騎士はそこで答えを得たのだろう。あの神父がどんな言葉を囁いたのかは知らないが、ガウェインの顔を見れば分かる。

「いや、やはり止めておこう。その答えは君のものだガウェイン卿。私が聞いて良い資格などない」

「何故ですアーチャー。貴方が幾度となく私に問いを投げ掛けてくれていなければ、この答えを得る事も叶わなかったでしょう。資格がない、などという事は有り得ない」

「では告白させて貰うが、私が卿を焚き付けていたのは君を思ってのものではない。ただの八つ当たりだよ」

 永遠の王。
 少年王。
 いつか蘇る王。

 今なお呼び声高き彼のアーサー王を知る一人として、この現世で巡り会った王に仕えし騎士に苦言を呈していたに過ぎない。

「彼の王の高潔さを知っている。気高さを知っている。だからこそ許せなかった。王の心を解さず、彼女の心にあんな祈りを抱かせた君達円卓の騎士が」

 王は人の心が分からない、とは誰が言った言葉だったか。

 だが同時に、王に仕えた騎士達もまた王の心の内を理解しようとは思わなかった。王の迷いなき裁断や揺ぎ無き統制を身を持って味わい、王と自分達は根本的に違う生き物なのだと畏怖を抱いた。

 人の身では有り得ない無情。
 一切の手心なき断罪。
 私を殺し公の為に手を汚す王。

 人は理解の及ばないものに恐怖する。騎士達にとってまさに王は恐怖の象徴。海の彼方から襲い来る異民族達と何ら変わらない異物に見えていた事だろう。

 それでも王は結果を示し、戦果を示し、騎士の不安を抑え付けた。
 たとえ理解の及ばない怪物であったとしても、事実として国を守る為の役に立つのなら致し方ない、と。

 けれど頭ではそうと理解が出来ても心まではそうもいかない。自分の上に立つ存在がそんな人間離れした存在だという事を心底認められる者などそう多くはない。心から忠誠を誓える騎士は一握りにも満たない。

 だからこそ叛乱は起きた。
 だからこそ祖国は滅びた。

 人の心の分からぬ王に忠誠など誓えるものか、と。
 いつかその心無き刃は自分達へと向けられるのではないか、と。

 だがそれは逆に言えば騎士達も同様に王の心を理解しようとしなかったという事。

 無慈悲に見える決断の裏にあった軋るような痛みを誰も知らない。
 情なき裁断の裏にあった苦渋の思いを誰も知らない。

 王が王であり続ける為に封殺した少女の心を──誰一人理解しようとはしなかったから。

「たった一人でもいい。あの時、あの時代。彼女の心を理解する者がたった一人でもいてくれていたのなら、彼女はこんな戦いに臨む事はなかった。
 血染めの丘の上で咽び泣くように零した、あんな悲痛な願いなど、宿す事はなかった筈なのだから」

「アーチャー……貴方は……」

 まるで見てきたかのように語るアーチャーにガウェインは驚きを隠せない。少なくともガウェインの記憶にアーチャーと合致する風体の騎士は見覚えがなかった。
 だというのにこの赤い騎士は知り過ぎている。当時の円卓の面々は勿論、この戦いの中で知るまで思いも至らなかった情報を知っている。

 その正体についての猜疑が再び鎌首をもたげる。誰も名を知らぬ英霊。円卓の騎士でさえ知り得なかった王の心を解す者。共通項なき不明さが、なおその疑念に拍車をかける。

 しかしガウェインは『いや……』と心の中で首を振った。

 今更この弓兵の正体を論じる必要はない。たとえ問いかけたところで不都合ならば答えないだろうし、それを知りたいと思うのは欲深いというもの。
 知る必要があるのはこのガウェインではない。そしてそんな余分を気にかけていられるほどの余裕があるわけでもないのだから。

「これで分かっただろう? 私は利己的な憤りで君を唆した。あの王の傍らにありながら何をも為さなかった君達円卓の騎士を言外に糾弾したも同然だ。
 その苦悩を知ろうともせず、ただ悪戯に戦火を肥大化させ、あの血の結末を齎した不甲斐無い騎士へとな」

 皮肉めいた口調と共に口元を吊り上げるアーチャー。挑発と受け取られかねないその物言いは、けれど王の心を慮ったものだ。
 当時の騎士達の誰もが省みなかった王の心。それを理解するが故の。

「今更貴方が敵役を演じる必要などないでしょうアーチャー。貴方の言葉は全て真実、当時の我々が王の下一つになっていれば、あんな結末は有り得なかった。
 王の理想を砕き、地に貶めたのは他でもない我ら円卓の騎士だ。特にこの私が己が私情にて剣を握らなければ、救えたものもあった筈です」

 だからこそ死の淵で願ったのだ。
 今度こそは、と。

 叶わなかったものを叶える機会があるのなら。
 踏み躙ったものに報いる機会があるのなら。

 今度こそは間違えないように──と。

「私はまた同じ過ちを犯そうとしていた。それを糺してくれたのは他ならぬ貴方ではないですかアーチャー。
 己の罪を清算する為に、今一度見える事の叶った王を蔑ろにしかけた我が心に光明を齎したのは貴方だ」

「……押し付けがましい救済を人は独善と呼ぶ。私のそれはもっとたちが悪い。先にも言ったが私のそれはただの八つ当たりだ」

「独善であろうと、八つ当たりであろうと、それでも私はそこに答えを見た。であればそれは、間違ってなどいないでしょう」

「────」

 はっとしてアーチャーはガウェインを見た。普段と変わらない柔和な笑み。そこにはかつてない意思が窺える。
 なにものにも揺るがぬ鋼の心。たとえアーチャーの言の全てが憤懣から来るものであったとしても、己一人では得られなかった答えを得られたのだから、それは何も間違ってなどいないのだと。

「貴方の想いの発端がどのようなものであれ、結果である私の意志にもう揺らぎはない。だから貴方に感謝を、アーチャー。
 ええ、私の意志を聞く気がなくとも、この想いだけは受け取って欲しい」

「……頑固な事だ」

 はぁ、と弓兵は嘆息を零す。

「それは貴方もでしょう、アーチャー。お互いままならないからこその今でもある」

「違いない」

 そして二人は小さく笑った。未だ戦火に満ちるこの戦場の中で、心からの笑みを浮かべあった。

「では次はこちらの番だアーチャー。貴方の顔に見て取れた曇り、その心を晴らす手助けをさせて欲しい」

「いや、その必要はない。私の迷いも今のやり取りで晴れた。卿の手をこれ以上煩わせる必要もない」

 自分自身が口にした言葉は、ガウェインという鏡に反射され己の心を突き刺した。押し付けがましい救済も、独善も、今に始まったものではない。
 アーチャーは初めから『そう』であった筈だ。小器用に立ち回る術を覚えてからはなりを潜めていたが、本来この男はそんな機微に疎い愚鈍な男であったのだから。

 他人の理由など知ったことか。救いを求めようと求めなかろうと、瀕した相手が視界にいれば助けるのがこの男の在り方。自己犠牲を厭わぬ偽善の塊。それをよしとして道の果てへと駆け抜けたのではなかったか。

 ならば、上っ面を飾る仮面など脱ぎ捨てよう。この心に正直に、為すべき事を成し遂げよう。でなければきっと、あの分厚い仮面で心を覆い隠した少女に、この想いは伝わらないから。

 前へ。ひたすらに前へ進む。己の願望など叶わぬ変わり果てた世界の中で、それでも守りたいと願ったものがあるのなら。

 そう二人がようやく、己の心と向き合ったその時────

 ずん、と目には見えない重さが肩に圧し掛かるような衝撃と、夜の黒を塗り替える赤が世界を覆った。

「なん──」

「これはっ──!?」

 夜空を覆う赤い天蓋。アーチャーやガウェインの目がおかしくなったのではなく、文字通りこの街全体が何か得体の知れないものに覆い尽くされている。

「アーチャー! ガウェイン!」

 異常を察知したのか、邸内から凛が躍り出てくる。二人の騎士は庭へと降り立ち、少女と向き合った。

「何が起きたの、二人とも」

「いえ、我々にもそれは分かりません、レディ・リン。哨戒をしていた折、突如世界が赤く染まったのです」

「…………ライダーの仕業だな」

 困惑を滲ませる凛とガウェインを他所にアーチャーは冷静にそう告げた。

「森から帰還した際に告げた通り、間桐の擁するライダーは神代の怪異メドューサだ。これは彼女が持つ石化の魔眼、天馬を繰る手綱に次ぐもう一つの宝具──」

 ────他者封印・鮮血神殿(ブラッドフォート・アンドロメダ)

 結界内に存在する者を溶解、魔力へと変換し吸収する鮮血の神殿。生きたままその血を飲み干す吸血種の持つ特性、その具現。

「少なくともこの街に鮮血神殿を形成し得る基点は一つも見つかっていなかった。であればこれは、令呪による強制発動だろう」

 長い時間を掛けなければ組む事すら叶わない高位魔術式。その規模ゆえに基点を構築すれば魔術師ならば容易に発見する事が出来る。
 その解呪が熟練の魔術師を以ってしても容易ならざる難易度だとしても、これまで誰の目にも留まる事なく構築し終えていた……などという事は有り得ない。

 構築過程を短縮しうる唯一にして無二のもの──それが令呪だ。

「ライダー……つまり桜の仕業ね。どういうこと? あの子、まさかこの街の人間全員を消し去ろうとでも言うの?」

「いいや、それもどうだろうな。本当にそのつもりなら既に我らの身にもその重圧が襲っている筈。先に感じた結界発動による魔力の波動以外は感知出来ていない、魔力はまだ奪われ始めていない」

「ではアーチャー。ライダーの目的は魔力を奪う事ではないと?」

「最終的にはどうか分からん。今のところはまだ、という話だ」

「いいえアーチャー。良く分かったわ。悪いけど、屋根の上まで運んでくれる?」

 アーチャーは頷き、凛をその腕に抱え壁面を蹴り上げ屋上へと戻る。ガウェインも随伴する。

 魔術的に強化した瞳が映すのは見渡す限りの赤い世界。空も地上も、一面の赤。常軌を逸する規模の結界展開。まさしく冬木市全体をこの結界は覆っている。

「やっぱりね。この結界、完全じゃないわ」

 街一つを覆い尽くす程の規模の結界を令呪の一画で構築してしまえるとは思えない。令呪とて万能ではないのだ、限定空間内ならばまだしも、半径にして優に数十キロメートルを超える市全体をカバーするのは不可能だ。

 令呪に出来るのはマスターとサーヴァントの魔力を合わせた範囲内に限られる。治癒能力がない者の傷は一瞬では癒せないし、次の攻撃は外すなと言われても必中能力のない攻撃は外れる可能性がある。

 この結界はそれらとは違い、ライダーの能力を拡大したものだ。だから不可能ではなく実際に発動しているが、短期的命令ではなく長期に及ぶものほどその効果を減衰する。
 結界の目的が極短期的な魔力の蒐集ならば可能でも、結界の維持がその目的であった場合は効果の減衰は否めない。

「令呪を使って桜が行使したのは結界の展開まで。その発動は注文に入っていない」

 だからこそ今なお結界は維持されているし、魔力の搾取は行われていない。起動状態に入ったがゆえに魔的なもの見る目を持つ者には世界は赤く染められているが、現状では魔術師への被害は極軽微、一般の人間への被害も最小限と予測される。

「ねえアーチャー? 桜は何でこんな真似をしたと思う?」

「……体の良い人質、と言ったところか。街全体、全ての住人を人質に何かを行おうとしている」

「そ。で、ガウェイン。これは誰に対する人質だと思う?」

「無論それは聖杯戦争の参加者全員でしょう。しかしあえて特定人物に限定するのなら──レディ・リン、貴女しかいない」

「……でしょうね。正直、ここまでやるとは思わなかったけど」

 起動状態に入った結界内の人間は、何もしなくともその体力を奪われ続けていく。防護手段のある魔術師には効かなくとも、何の対策も持たない一般人は気だるさを覚え、やがて昏睡に至るだろう。

 溶解が起こるのはその後。起動から発動に切り替わった後。

「桜があと何画令呪を残してるかは知らないけど、最低一画は残っている筈よ。もし私が桜のところへ辿り着けないようであれば、きっと」

 残った令呪を使い結界を発動する。そうなれば全てが終わりだ。街の住人は全て血液へ溶解され無人となり、聖杯戦争どころの話ではなくなる。明日の朝日を拝める冬木市住民は誰もいなくなる。

 それにこれだけの規模の結界だ、霊脈にも著しい傷を残すと思われる。最悪今後の聖杯戦争を執り行えなく可能性さえもあり、そもそも街を無人にするような不始末を行えば凛は審問を受ける事間違いない。

 六十年後の心配より、数日後の心配。数日後の心配よりも明日の心配。そして明日の心配をするくらいなら、今全てに決着を着けるべきだ。

「綺礼、聞こえているんでしょう? 令呪を使ってガウェインに太陽の加護をお願い」

 耳を飾るピアスへと語りかける。この事態は教会も把握している筈。ならば凛の声はきっと届くだろう。

 程なく、ガウェインの身体に光が宿る。夜にあって輝く太陽の祝福。白騎士の身体に力が篭る。

「ガウェイン、先行して頂戴。私は少し準備があるし、他の陣営がこの機に仕掛けて来ないとも限らないから、アーチャーには一緒に来て貰わないとならない」

「了解です」

「それと、これ持って行って。簡易な魔力信号弾よ。もし桜かライダーを見つけたらそれを打ち上げて。他の敵とかち合った場合は、対処は任せるから。
 もう一つ。こちらが見つけた場合も同様に信号弾を上げるけど、援護は必要ないわ。こっちはこっちで始末をつけるから。貴方は他の陣営への警戒をお願い」

「承知しました。レディ・リン、アーチャー、武運を」

 白騎士は目礼を残し闇へと飛び込む。屋根を伝い疾風の速度で消えて行った。

「アーチャー、下へお願い。準備と、一応綺礼にも連絡を入れておかないと」

「了解した。私は外で待っている」

 凛を地上に降ろし終えたアーチャーは再度壁を登る。鷹の目を持つアーチャーであれば結界の基点の幾つかを発見出来る可能性もあるし、運良く桜かライダーを捉える事も出来るかもしれない。

 とはいえ、そんなものは楽観だ。これが凛に対する挑発、脅しの類であればそう簡単に見つけられるようなところに潜んではいまい。
 そもそも室内に潜まれていれば外からの目視は絶望的なのだから、あくまで凛が準備を整え終えるまでの猶予時間を無駄にしない為のものだ。

「アーチャー!」

 階下から怒声を聞く。思ったよりも随分と早かった。それだけ、この結界の危険性を凛は把握しているという事だ。

「準備は終えたか」

 地上へと降りる。

「ええ。本当は貴方にも先行して桜達を探して欲しいところだけど、他の連中の襲撃や桜の狙いが私とアーチャーの分断にある可能性が考えられる以上は、悪いけど一緒に行動して貰うわよ」

「ああ」

「それと、今回は邪魔をしないで」

「…………」

 森での戦い。凛は桜を追い詰め、後一歩にまで迫っていた。それを押し留めたのがアーチャーであり、結果、桜は倒せず時臣は殺され、今の状況を作り上げた。
 直接的ではなくとも間接的な要因として現状はアーチャーにも過失がある。あの時、桜を亡き者としていれば……などという回顧には意味などないが、また同じ事をされては敵わない。

「私達の因縁を貴方に邪魔立てされる謂れはないし、今回はそれ以上に一人の魔術師としてあの子は許してはならない」

「…………」

「魔術は秘匿されるべきものであり、悪戯な犠牲を拒むもの。結界はまだ発動していないけれど、実際に被害は出るだろうし見過ごせばより甚大なものとなる。
 これは遠坂と間桐の問題以前の魔術師としての問題。この地の管理を預かる者としての責務の話よ。分かった?」

「承知している。要は犠牲者を出す前にライダーを斃せばいいだけの話だろう」

「ちょっと、ちゃんと話聞いてる? ライダーを斃すのは前提だけど、私と桜の邪魔をするなって言ってんの」

「知らんな。今回のオーダーはこの結界の解除が至上命令だろう? ならば最優先討伐目標はライダーであり、当然私もそれを優先とする。
 しかしその後の事まで束縛されるのは気に入らない。どうしても私の行動を縛り付けたいのであればその令呪で戒めるがいい」

「そう──じゃあ命令するわ、私の邪魔をしないで」

 思考の隙間もなく、冷徹に凛はその命令を令呪を用い下した。

「────ッ」

 アーチャーの身体を奔る電流のような痛み。凛の意思に逆らう行動を取れば強制的にその身を戒めようと今のように痛みが奔る。

「フン……そのような命令の為に貴重な令呪を一画無駄撃ちするか」

「無駄ではないでしょう? 現に顔色、少し悪いわよ?」

 画一的な命令でない分、その威力は押して知るべしだが、凛の魔術師としての能力の高さが災いしてか、アーチャーを縛り付けるコマンドは強力な枷となった。

「別に貴方の能力を信用していないわけじゃないわ。むしろ弓兵としてはその応用力の高さに驚いたほどよ。剣とか槍も出してたし。
 真名もこれまでに明かしてないんだから言いたくないんでしょう? なら聞かないし興味もない。有用なその能力を私が聖杯を手に入れる為に使いなさい、そして私の邪魔をしないで。分かった?」

 反抗の意思を示すだけで鋭い痛みが身体を襲い、ステータスにまで影響が出る。アーチャーは嘆息と共にせめてもの皮肉を口にした。

「……了解した。地獄に落ちるがいい、マスター」

「言われなくても分かってるわよ、私の行き先が地獄だって事くらい。でもね、地獄に行く前に片付けておかなきゃならない事が山積なの。だからその為に、力を貸しなさいアーチャー」

 強化した脚力で地を蹴り上げ、向かいの民家の屋根へと登る。無駄な時間を浪費した。一刻も早くこの広い街から桜を探し出さなければならない。
 悠長に地面を走っている暇はない。ショートカットして魔力の濃い地点を目指す。そこにこの結界を構築している基点がある筈だから。

 魔女には地獄の底が似合いだろう。だがその前に果たすべき責務がある。やり遂げなければならないものがある。

 赤い従者を従えて、冷徹な魔女の仮面を被った少女は進む。
 父の形見である紅玉の杖をその手に、その手で実の妹に断罪を下す為に。


+++


 同刻、深山町の一角に構える武家屋敷。

 その庭には衛宮切嗣を筆頭にセイバー、キャスター、そしてランサーが集っていた。

 この結界が誰の手によるものか、というのはアーチャーのように明確に断じられるだけの要素が彼らにはない。ただ、残る面子から考えればライダーであろう、という仮説は立てられた。

 これだけの規模の結界を構築出来る可能性があるのはこの場にいるキャスターを除けばライダーしかいない、というのがその根拠だが、外れている可能性は極めて低いと誰もが認識していた。

「それで、どうするのかしら」

 今後の動きについてをキャスターが問う。

「まだ結界は起動待機状態、構築されただけにも等しいけれど、いつ本格的な搾取が行われるか分からないわ。
 本当、呆れるほど愚かな手ね、たとえこんな手段が可能であっても、実際に行えばどうなるかなんて分かるでしょうに」

 キャスターも時間と資金が潤沢にあるのなら、同規模の結界を構築するのは不可能ではない。事実として、アインツベルンの森一帯を神殿化している。

 ただキャスターならばこんな愚かな一手は打たない。街全体を人質に取るのは有用であっても、リスクに対してリターンが割に合わない。
 魔力が欲しいのなら静かに、少しずつ街全体から搾取する。こんな一夜で全滅紛いの結界を張れば敵も当然にして動くし、四面楚歌へと追い込まれるのは明白だ。

 こうしてアインツベルンが対策を練っているように、他の陣営も同様だろう。

 幾ら街が広くともいずれ追い込まれる。追い込まれて人質を人質として使えず、結界を発動してしまえばそれで終わり。多大な魔力を得ても結果が死では意味がない。この結界を構築した時点でほぼ詰んだも同然だ。

 ただ、警戒すべきなのは──敵の目的が勝利ではない場合、だ。

「キャスター、イリヤは今何処にいる?」

 切嗣はイリヤスフィールの服に発信機を仕込んでいたが、間桐邸でロストしている。敵もそこまで無用心ではないとは思っていたので問題はない。イリヤスフィールとパスを繋いでいるキャスターであればほぼ正確な位置も把握出来る。

「きっちりとした位置までは分からないけれど、新都の中心付近ね」

「…………」

 そこにあるのは住宅街と冬木市民会館が主な建造物。そして後者は今回の降霊の儀式の場だ。偶然にしては出来すぎている。

「イリヤの状態は確認出来るか?」

「異常は今のところない、という程度ね。後、私達の誰かがイリヤスフィールに接触しない限りあの子は目覚めないわよ。そういう風に『教えて』あるから」

 切嗣の目を盗みイリヤスフィールに何かを吹き込んだという事か。だがそれはイリヤスフィールの安全を危惧してのものだろう。自らの手元を離れた場合の対処策。入念な事だ、と切嗣は思う。

「……僕達がすべき事はこの結界の解除──ライダーかそのマスターの排除と、イリヤの無事の確保だ」

「あら? 自分から手離しておいて今更心配?」

「状況が変わった。それだけの事だ」

 流石に切嗣も間桐がいきなりこんな突飛な行動に出るとは予想出来なかった。間桐臓硯の入れ知恵か他の要因かまでは分からないが、打って出るだけの思惑、あるいは勝算があるのは間違いない。

 敵の目的など切嗣は興味がない。自らの道を阻むのなら排除する……思考としてはそれで完結している。

「キャスター、おまえはランサーと共にライダーとそのマスターを探せ。こちらはイリヤを確保する」

「……一応訊いておくけれど、何故貴方達が確保なのかしら」

「イリヤがまだ間桐の手にあるのは間違いないが、そこにライダー達も一緒にいる保証はない。ならば索敵に長けたおまえと速力のあるランサーを、姿の見えない敵を探す為に使う方が効率的だ」

「…………」

「イリヤの方は確実に護衛がいる。恐らくはバーサーカー。最悪の場合そこにライダーもいる可能性があるが、セイバーならば単独でも後退するくらいは出来るだろう」

「はい。ライダーが持つという石化の魔眼(キュベレイ)も私なら抵抗(レジスト)出来ます。バーサーカーの方も手の内は分かっているので遅れを取る事はありません」

 そしてバーサーカーはあの森での戦いの直前にセイバーに対し誓いを立てている。同盟が事実上破棄された現状、どう出るかは不明ながら、その辺りも状況を優位に動かせる可能性を有している。

「如何に従えているとはランサーに単独行動はさせたくない。キャスター自身も対魔力持ちとかち合う可能性を思えば同様だ。であればこの配役に文句などないと思うが?」

 横目で魔女へと視線を向ける切嗣。その先には妖艶な口元。この結論を初めから分かっていてわざわざ説明させた事が窺える。

「そうね、異論はないわ」

 言って、魔女はローブを翻す。

「念の為、霊脈を使って街全体に薄い催眠を掛けておくわ。結界の効果で直に衰弱するとしても、その間に問題は起きかねないし、完全に発動してしまえば全部お仕舞いだもの。上手くこの夜を無事に越えた場合の保険は必要でしょう?」

「ああ、助かる」

 気だるさの原因はただの疲労の蓄積と誤認し、昏睡者を目撃したとしてもその目撃者自体も直に昏睡するかキャスターの催眠に掛かり眠りに落ちる。
 その辺りに間桐は頭が回っているのかいないのか、理解していてあえて無視しているのかは不明だが、これで結界の完全発動までは街の住人に混乱は起きにくくなる。

 後はターゲットを始末し結界の解除を行うだけだ。

「じゃあ先に行かせて貰うわ。ランサー、付いて来なさい」

「あいよ」

 気だるげに言ってランサーは浮遊するように塀の外へと向かった魔女に随伴する。庭に残ったのは切嗣とセイバーだけ。

 白銀の少女が見上げた空は赤い色。
 真夜中だというのに夕焼けよりも濃い血の赤だ。

 この赤さが見えているのは彼らだけ。魔術を知らない一般人には何の変哲もない夜として映っているだろう。
 知らない内に体力を奪われ、合図一つで身体を血の塊へと変えられる地獄にいるとは、夢にも思う事はなく。

「ではマスター、我々もイリヤスフィールの救出に向かいましょう」

 武装したセイバーが振り仰ぐ。けれど切嗣は悠然と縁側に腰掛けた。

「マスター……?」

 コートの懐から煙草を取り出し火を灯す。吐き出した紫煙は風に揺らめいた後、空に吸い込まれるように消えて行った。

「────イリヤは、助けない」

「は……?」

 突然の切嗣の宣誓にセイバーは瞠目する。今、この男は何と言ったか。イリヤスフィールを助けないと、そう言ったのか。

「……説明を求めます」

 先程の作戦説明を根本から覆す切嗣の言葉。であれば当然、その行動の理由を問うのは筋だろう。

「イリヤを助ける必要はない。放っておけばいい」

「何故です……! 先程貴方は助けるとそう言ったではないですか!」

「…………」

 切嗣は答えない。元よりセイバーとの会話を極力避けているような節がある切嗣だ、無理に迫っても答えを引き出す事は無理だ。

 だからセイバーは考えた。切嗣の言葉の意味を。これまでの発言から想定出来る、この男が一体何を目的としているのかを。

 イリヤスフィールを間桐へと差し出したのは切嗣自身だ。けれど今現在の展開は予想外の筈。だからこそセイバーも先の作戦を了解した。
 敵の懐に潜り込ませたトロイアの木馬も、こちらの思惑と違っては上手く機能しない。ゆえに一旦手元に戻してから次の機会を窺うものだと。

 だが切嗣は必要ないと、そう言った。木馬は木馬のままでいいと。敵の手の中にあっても何ら問題などないのだと。

 此処から推測される切嗣の狙いとは何だ。イリヤスフィールを使い何を目論んでいる?

「いや……」

 そもそも本当に、切嗣はイリヤスフィールを何かしらの策略の為に利用するつもりがあるのか? 逆に手元にイリヤスフィールがいない事……それそのものが切嗣にとって都合が良いとすれば?

 イリヤスフィールがいないからこそ可能な事とはなんだ。そもそもこの推測が正しいという確証は何もない。答えは切嗣以外は持ち合わせていない。

「マスター、貴方の思惑がどのようなものであれ、この事態は想定外の筈だ。その上で御息女を守ろうとしない理由が、私には分からない……」

「…………」

「ですがこの身は彼女の剣となる事をも誓った身。森の戦いの折は策の為というマスターの言葉を信頼し静観していましたが、これ以上は見過ごせない。
 無為にイリヤスフィールを危機に晒しておく事は好むところではない。マスターが赴かずとも私が──」

「セイバー、許可なくその場を動くな──令呪を以って命ずる」

「なっ……!?」

 セイバーの足を縛る目には見えない茨の鎖。まるで石膏か何かで塗り固められたかのように彼女の足は動かない。地に根を生やし、地下から見えない腕で掴まれているかのように令呪は彼女を大地に縛り付けた。

「マスターッ、貴方は……!!」

「囀るなセイバー。その口も令呪で縫い付けて欲しいか」

「くっ……!」

 セイバーの対魔力の高さを警戒してか、切嗣は令呪発動直後から己が従者に回す魔力を最小限に制限している。
 単一の命令であるがゆえにその効果は凄まじく、魔力さえも絞られては抗えない。本来逆らえるだけでも破格というもの。じりじりと足を動かしているセイバーの意志力と対魔力は異常に過ぎる。

 とはいえ、どう足掻こうが切嗣の解除命令がなければこうしてミリメートル単位で動く事しか出来ない。抵抗が出来てもその抵抗自体が無意味では何の意味もない。

 セイバーの動きは封じられたも同然。まさか本当に口を封じる為に令呪を使うとは思えないが、有り得ないとも言い切れない。思惑の読めない主の前で、無様にもがき続けるしかない。

 ……イリヤスフィールッ! キャスターッ!

 セイバーの心の吼え声になど気付くわけもなく、切嗣はホルスターから抜いた愛銃に一発の弾丸を装填した。

 煙草の先から燻る紫煙が、鈍色の空へと消えて行った。


/36


「で、何処かアテはあるのかいキャスター」

 青い豹が夜を駆ける。既に戦闘態勢に移行したランサーは赤い槍を手に、屋根から屋根へと跳躍しながら前を行く魔女を追う。

 強制的に契約を結ばされたとはいえ、それが与えられた任務であり仕事であるのなら、愚痴も言わずこなすだけの甲斐性を持っている。もっとも、その心の内が外面と同様であるかどうかは彼自身にしか分からないが。

「これだけの規模の結界ならば、最低でも支点が六つ以上、基点が一つある筈よ。解除を狙うのなら支点は全て無視して基点だけを狙うのが好ましいけれど」

 基点とはその結界の中心部分。家屋で例えるのなら大黒柱だ。支柱が全て残っていても中心の大黒柱がなくなってしまえば脆くも瓦解するのは当然だ。

「でもどうせ解除は無駄ね。相手に令呪がある以上、下手に解除しようとすれば発動される恐れがあるし、解除出来る保障もない」

 神代の怪異であるメドゥーサが組み上げた魔術結界。同じく神代を生きたキャスターならば解除のしようもあるかもしれないが、基点を発見後即座に解除とはいかない。

 キャスターの持つ契約破りの短剣、魔を破却する短刀も、この結界が宝具によるものであれば通用しない。どれだけ低ランクであろうとも、ルールブレイカーでは宝具を初期化出来ないのだ。

「だからやっぱり狙うのならマスターとサーヴァントの方。まあ、基点を探すのは悪い事ではないわ。そこにライダー達がいる可能性が一番高いから」

「結局は虱潰しって事か」

「そうでもないわよ? 付近に幾つか点をすで見つけたわ。それが支点か基点かは偽装されていて行ってみないと分からないけど」

「はっ、仕事が早いねぇ。だったらこっちもちょいと気張るとするか」

 キャスターの示す方角へとランサーは勢い良く屋根瓦を蹴り上げる。先導していた魔女を追い越し、小高い木々が立ち並ぶ林道を跳躍で以って飛び越え、着地目標は未遠川沿いに広がる海浜公園。

 その一角へと着地しようとしたランサーへと、

「────っ!?」

 横合いから、高速で回転する剣が迫り──

「はぁ……!」

 それをランサーは目視よりも早く認識し、手にした朱槍で一閃の下に薙ぎ払った。

「矢避けの加護を持ってるオレに投擲なんざ通用しねぇって事くらい分かってるだろう。なぁ、モードレッドさんよ」

 着地したランサーの前方。弾き飛ばした剣が地に突き立った地点。そこには全身をフルプレートで固めた少女の姿があった。

「…………」

 そして、その傍らにはスーツの女。バツが悪そうに、ランサーはそっぽを向く。

「あら、誰かと思えばサーヴァントにサーヴァントを奪われた愚かなマスターじゃない」

「っ、キャスター……」

 遅れて到着した魔女がふわりと着地する。挑発めいた軽口に反応し、バゼットはその視線に怒気を込めた。だがそれも数秒。頭に血を上らせたままで立ち回れる相手ではない事など痛いほど理解している。

「わざわざ私達を待ち伏せていたの……?」

「いや? 此処で逢ったのは偶然だぜ。アンタらと同じように結界の基点を探してたらばったり、ってなだけだ。まあ、こっちが基点を探してた理由とそっちが探してた理由が同じとは限らんがな」

 言って、モードレッドは剣を引き抜く。夜の中にあって何処までも白く銀色を輝かせる剣を。

「……今がどういう状況か、勿論分かっての発言よね?」

「ええ。この結界がどのような効果を持ち、実際に発動した場合の被害もまた理解しています。だが、その解除は私達の役目ではない」

 結界を張った誰かの意図。釣り糸を垂らし、釣り上げようとしている獲物が一体誰であるのか。そこに理解が及んでいるからこその発言。下手に結界の主を刺激し、発動を許すような事になっては目も当てられない。

 少なくとも即時発動しなかったのだから獲物が掛かるまでの猶予はある。そして、その獲物にはこんな愚かな暴挙に出た魔術師に裁断を下す義務がある。ならば、部外の魔術師が首を突っ込む必要はない。

 これは彼女達の戦いであり、その決着の為の舞台。
 そしてバゼット達にとっての決着の舞台が、此処である。

「なあキャスター。オレにはおまえがそんな魔術師としての当たり前の義務や正義感からこの結界の解除を行うような輩には到底見えん。一体何を企んでいる」

 モードレッドの不躾な問い。それに魔女は妖しげな笑みを口元に浮かべるだけで、何も答えない。

「まぁいいさ。そっちの理由なぞ知らん。オレ達にはオレ達の目的があるんでな」

「キャスター、ランサーは返して貰う」

 モードレッドは剣を、バゼットは拳を構える。既に二人は臨戦態勢。街の置かれている状況など知った事かと、私情にて武器を執る。

「……で、どうするよ」

 最低限の警戒を行ったまま、ガリガリと髪を掻きながらランサーは指示を仰ぐ。今の彼のマスターはキャスターだ。令呪の束縛もあって私的な行動は許可されていない。

「…………」

 一度こうして見えた以上、逃げを打とうと何処までも追い縋って来るだろう。サーヴァントを失いただの魔術師となりながら、それでも死地に赴いたのだ、生半可な覚悟である筈がない。

 そして当然、キャスター自身にも思惑がある。結界の解除が本当の目的ではない、というのは事実。人々に魔女と蔑まれた女に正義を求めるのは酷というものだ。
 死するその時まで民衆の望む魔女として振舞い続けた彼女は、死んだ後もそう振舞い続けるしかない。

「……いいわ、遊んであげなさいランサー。貴方もしがらみを抱えたままでは私の傀儡にはなりきれないでしょう?
 だからその手でかつてのマスターを──愛しき女を殺しなさい。これは命令よ」

「…………」

 魔女が空に舞う。戦士は槍を構える。

「……悪いが。加減は出来ん」

「そんなものがいるか。殺す気で来いよランサー。でなきゃオレの剣がおまえの首を刎ね飛ばす」

 モードレッドがバゼットを庇うように前に出る。

 バゼットが如何に優秀な魔術師であっても、怪我もあって真っ向からランサーと戦うのは分が悪すぎる。
 この決戦における前衛はモードレッドでありランサー。その背後には人の身に余る切り札を持つ女魔術師と神代の魔女が並ぶ。

「──バゼット」

「はい、モードレッド。約束は、忘れていません」

 この戦いの意味。
 その向こう側にあるもの。

 失くしたものは戻らない。
 零れた砂は戻らない。

 それでもきっと、取り戻せるものがある。
 取り戻さなければならないものがある。

 だから────

「はぁ……!!」

 この戦いに命を賭す。
 命よりも尊いと思うものを、取り戻す為に────


+++


 薄暗い空間。最低限の照明だけが広大なコンサートホールの一部と舞台の上を照らしている。

 間桐雁夜は冬木市民会館にいた。桜に言われた通り今回の降霊の地であるこの場所へと無事、聖杯の器たるイリヤスフィールを届けたのだ。

 彼女は今、舞台の中心に横たえられていた。これまでの道程でも同様だったが、起きる気配が微塵もない。ここまで来れば自然な睡眠状態ではなく、故意に眠り続けているものと思われる。

 いずれにせよ、騒がしくなくていい。下手に起きて動かれては雁夜も対処せざるを得なくなる。だが今の彼に、そんな余裕は何処にもなかった。

 雁夜は舞台横に据えつけられたホールへと降りる階段の上に座っていた。薄暗い照明は彼を照らさず、暗闇の中で沈黙を保ち続けている。

 今この街が置かれている状況、桜が行った事も全て雁夜は知っていた。無論、それは桜自身が一度この場所を訪れ説明をして行ったからだ。
 今はもう桜はいない。彼女は自身の戦いへと赴いた。その先にある破滅を厭う事なく、全てに決着を着ける為に。

「…………くそ」

 止められなかった。
 何も出来なかった。

 絶望に染まった昏い目をしたあの子に、手を差し伸べる事さえ出来なかった。

 人形であった桜の心に芽吹いた意思。自らの言葉で話す彼女に希望を見た雁夜の夢は、夜明けを待つ事なく瓦解した。

 間桐臓硯というストッパーを失い、自らに味方する強大なサーヴァントを得た事で、桜は止まる術を失った。
 雁夜の言葉など届かない。どれだけ嗜めようと意味などなかった。行く先が望む場所ではなく奈落だと知っても、あの子は自らその先へと踏み込んだ。

「……思えば、時臣が死んだ時に全てが決まっていたんだろう」

 実の父からの明確な否定。落胆。
 実の姉からの容赦のない蔑み。殺意。

 唯一希望と残されていた陽だまりに、彼女の居場所などなかった。誰もあの子を迎え入れてはくれなかった。

 絶望の色が濃ければ濃いほど、希望に縋った後の絶望はより鮮明となる。桜の痛みや苦しみを雁夜は理解してやれない。身体を鞭打つ過酷では負けていなくとも、心が折れるほどの軋みを味わった事のない雁夜には、桜の気持ちが分からない。

 どんな気持ちであの子は、この戦いに臨んだのだろう。
 どんな気持ちであの子は、父と姉の前に立ったのだろう。
 どんな気持ちであの子は、父をその手にかけたのだろう。

 どんな気持ちであの子は、破滅への道を進んで行ったのだろうか。

「葵さん……貴女が、生きていてくれさえすれば……」

 時臣の伴侶。
 凛と桜の母。

 今は亡き、かつて恋心を抱いた人。
 報われぬ恋をした思い人。

 彼女が生きていてくれさえすれば、こんな結末はなかった筈だ。

 桜を間桐へと養子に出した時だって、彼女ならば涙を流してくれたに違いない。凛を今のような冷徹な魔女へと変えた時臣の教育に異を唱えてくれたに違いない。実の姉と妹が殺し合う様を、きっと止めてくれたに違いない。

「……ははっ」

 乾いた笑いが零れる。

 だって全ては推測。所詮雁夜の願望に過ぎない。

 人並の幸福を捨て、魔術師の妻となる事を選んだ女の心など、振られた男には分かるわけがない。

「ああ……本当に。俺は何も知らなかった……」

 好きだった女の心も。
 救いたいと願った少女の心も。

 何も分かっちゃいない事を理解したのが、こんな時だというのも皮肉なものだ。いや、こんな時だからこそ、なのだろうか。

 その時、雁夜の眼前に不意にバーサーカーが実体化する。

「バーサーカー……」

 雁夜の周囲に監視の蟲を放つ程度はしているが、より強力なセンサーはサーヴァントそのもの。パスを遮断せずにおいたのは、バーサーカーに敵の襲来の感知を報せて貰うつもりだったからだ。

 とはいえ、二人の間に明確な意思の疎通が出来ているわけではない。ただ単に、バーサーカーにとっても退けぬ戦いがあり、その敵手が接近した場合は実体化するだろう、と踏んでいただけだ。

 闇よりも濃い黒の具足が鋼の音色を打ち鳴らす。

「行くのか、バーサーカー……いや、ランスロット卿」

 雁夜の声に、狂戦士は答えない。答える声を彼の騎士は持っていない。

「その身を汚辱で染めながら、それでも己が心と向き合ったおまえのように、俺も、覚悟を決めなければならないか……」

 揺らめくように立ち上がる雁夜。
 虚空へと差し出した右手に宿るのは残る二画の令呪。

「餞別だ。俺からの供給では足りないだろう魔力を、好きな時に好きなだけこの令呪から持って行け」

 令呪のバックアップさえあれば、アロンダイト使用を視野に入れたバーサーカーの全力での戦闘時間は飛躍的に延びる。この戦いに招かれたどのサーヴァントを相手に回しても対等以上の戦いが出来るだろう。

「じゃあな理想の騎士。ロクに話も出来なかったが、おまえが俺のサーヴァントで良かったと思う」

 ゆっくりとコンサートホールの出口へと向かっていた黒騎士の足が止まる。そして彼は低く唸るような声で、

「MA……s、……r……」

 そんな、言葉にもならぬ音の羅列を発した。

「ああ……」

 頭ではなく、心にこそその音は響いた。意味のない言葉も、理由のない言葉も、けれど意思が篭っているのなら、誰かの心に届く事もあるだろう。

 そして黒騎士は去り、己が戦場へと赴いた。

 だからこそ雁夜も、己が敵と向き合う決意をした。

「そこにいるんだろう、間桐臓硯。アンタがそのくらいじゃ死なないって事くらい、誰よりも知ってるぜ」

『カカ……』と耳障りな嗤い声を闇に聴く。

 何度となく蟲蔵の底で聞いた声。もがき苦しむ雁夜を十年間、嘲笑い続けた声だ。

 声はすれど、姿はない。

 いいや、居場所など分かっている。いかに臓硯が不死身に近い化生といえど、その身体の大部分を構成する蟲のほとんどを奪われては復活は容易ではない。
 桜も伊達で十年もの間、間桐の屋敷で暮らしていたわけではない。彼女の奇襲は確実にあの悪鬼から不死身性を奪い去った。

 誤算があったとすればその生き意地の汚さ。
 生にしがみつく怨念めいた執着の深さへの理解だ。

 その業をもっとも理解出来るのは同じ間桐の血の流れた者だけだ。
 雁夜が間桐の血統の中でも比較的まともな方だとしても、その根底に流れているのはあの化け物と同じ血だ。

 だからこそよく分かる。もし自分が臓硯であった場合、どのように対処をするか。恐怖で組み敷いた者達からの叛逆に遭った場合の再起の手段。
 聖杯という奇跡を前に、長きに渡り悲願とした永遠を前に、指を咥えて見守るような無様は許されない。

 再生は最短にして最速を。
 間桐の腐肉がもっとも良く馴染むのは、当然にして同じ血の流れる間桐の身体。

 ならば────

「──アンタは俺の心臓に巣食っている。そうだろう、間桐臓硯ッ!!」

『カカッ! 腐っても間桐の後継者よ! だが気付いてなんとする? 貴様が何かをする前に、その身体──全て儂が貰ってやろうッ!!』

 間桐の因縁。
 その清算。

 間桐雁夜にとっての救いを賭けた戦いが、聖杯の眼前にて始まった。


+++


 夜を走る白。

 凛より先行を託されたガウェインは既に新都へと進入していた。

 道中、幾つか結界の支点と思しきものを発見はしていたが、ガウェインにはどうする事も出来なかった。
 多少の心得があった程度でどうこう出来るレベルの術式ではなかったからだ。

 だから白騎士はすっぱりと支点の破壊を諦め、ライダーとそのマスターの捜索を続けていた。

 けれど、今以って彼女達の姿形どころか影すらも掴めていない。それは当然といえば当然で、何故ならガウェインには全くアテがなかった。
 だからやっている事は虱潰し。せめて高所から地上を俯瞰し、凝らした目で索敵を続けるが、効果のほどは今一つだった。

 しかしガウェインも分かっているのだ、凛の意図が。

 彼女がガウェインに先行を任じたのは、本当に彼に桜とライダーを見つけさせる為ではない。結界の主達を追う者の排除、自らが決着を着ける為、横槍を入れさせない為の先行索敵なのだと。

 それでも律儀に周囲への警戒と索敵を続けているのは、これがこの騎士の性分だからだ。

 今更簡単には生き方を変えられない。
 だからこそ愚直に、騎士としての本懐を果たそうとしている。

 新都中心部と立ち入り、住宅街の屋根の上から遠景を眺めていた折、遠く、遥か彼方の空に咲く火の花を見咎めた。

 それは恐らく凛が打ち上げた信号弾。色の意味や識別は分からなくとも、屋敷を出る前に彼女が提示した通りの行動だ。

 ならば凛とアーチャーは標的を発見したのだろう。この血の要塞を仕掛けたライダーとそのマスターと接触を果たしたとみるべきだ。

 後は任せておけばいい。此処から先は彼女達の領域だ。信号弾の打ち上げ地点は橋を挟んだ向こう側。この距離では援護に行ったところで戦いは恐らく終わっている。

 であれば白騎士の取るべき行動は外敵の排除。彼女達の戦場に敵を近づけさせぬ事だ。

 そして、ガウェインにもまた、越えなければならない壁がある。心に宿した誓いを果たす為に、乗り越えていかなければならない絶対の敵が。

 特に理由があったわけではない。ただ、己の心の信ずるままに足を向けた。それは彼の幸運が呼んだ偶然か、あるいは定められた運命なのか。

 辿り着いたのは新都の中心──冬木市民会館。

 その前庭で、二人は向き合った。

「ランスロット卿……」

「…………」

 広い空間。周囲には剪定された庭木が並び、左右に伸びる道路には木々が立つ。戦闘を行う上でそれらは邪魔にはならない。広さも充分。此処はまるで、誂えられたかのような決闘場だ。

「決着を着けましょう、ランスロット」

 白騎士の手には太陽の輝きを宿す青の聖剣。
 対する黒騎士は既に姿を歪め霞ませる霧を纏っておらず、その手には黒く染まった魔剣が握られている。

「我が太陽の輝きを払った貴公の一閃。あの一撃によって我が心は打ち砕かれた。迷いなどないと信じていた誓いに、迷いが生じた」

「…………」

「肩を並べていた騎士の言葉にも耳を貸さず、愚直に己を信じ続けたその果ての敗戦。覆しようのない敗北だった」

 主の下す命に従うばかりの盲目の剣。意思なき剣は狂える獣の意思ある剣の前に敗れ去った。

「騎士の敗北とは即ち死。されど我が身は未だ生きている。ならば生き汚く足掻き、この心に宿りし『意思』を言葉にしよう」

 灼熱を宿す剣を、白騎士は黒騎士に向けて突きつける。

「祖国救済を願う王……そしてその王の願いを肯定した御身の祈り。私はそれを──否定する」

「…………」

「高潔にして公正にして無欠の王が、その死の間際に夢見た悲痛な祈り。そんなものを抱かせた我ら円卓の騎士が何を言うかと、何処かの誰かは嘲笑うかもしれない。謗るかもしれない。
 それでも私はこう言いましょう──王の願いは、間違っていると」

 王として生き、王として死んだ彼女は、その誇りを抱いて眠るべきだ。国を救えなかった悔恨と無念が生んだ願いは、時代を生きた者達の否定だ。

 王の目には、失われたものしか見えていない。彼女が救ったもの、守ったもの、誇るべきものが何一つ見えないくらいに曇っている。

 それほどに失ったものが多すぎたのだろう。だからと言って、全てをなかった事にする事が許されるのか。王の為に身命を賭した騎士の勇敢を、王を崇敬していた民の心を、踏み躙る権利があるのだろうか。

「王の為の剣──そう己を律するのであれば、時には諫めの言葉も必要だと、私はようやく気が付いた。
 王を絶対視し、王に全ての責任を押し付けていた事こそが我ら円卓の罪。なればこうして再び王に謁見を許された騎士の一人として、今一度王の御前にて膝を折り、この胸の内を詳らかにしましょう」

「…………」

「ランスロット……我が古き盟友よ。貴公は本当に、王の祈りが正しいと信じているのですか? 王が王であった事実を消し去り、あの時代の全てをなかった事にする事が、本当に正しいと信じているのですか?」

「…………」

「語る言葉を持たない貴公との問答が無用である事など百も承知。それでも訊いておきたかった。我らが手にする剣にて、雌雄を決するその前に」

 ランスロットが何を想い、王に膝を折ったのかはガウェインには分からない。けれどきっと、心は同じだと信じている。全ては王を思ってのものだと。生前果たす事の出来なかった想いを、手に入れた二度目の戦いの中で果たす為に。

「私は卿を越え、その先で王に諫めの言葉を申し上げる。交わらぬ道ならば、後は剣にて雌雄を決するしかないと思いますが、如何に?」

 ガウェインの言葉に、ランスロットが賛同する事など有り得ない。そんな事が罷り通れば黒騎士の誓いが嘘になる。王に嘘を吐いて膝を折った事になる。黒騎士もまた、全てを覚悟してその心に誓いを立てた筈。

 王の為の剣として、王に組する道を選んだ黒の騎士。
 王の為の剣として、王に仇名す道を選んだ白の騎士。

 二つの道。
 交わらぬ対極。

 それが唯一交わる瞬間、それは剣を交える瞬間に他ならない。

「円卓の騎士──ガウェインとランスロットの名において、承認を請う!」

 高らかに、ガウェインが謳い上げる。

「我らが望むは決闘の舞台! 尋常なる勝負を此処に! 在りし日の王城よ、今こそ顕現せよ──!」

 瞬間、周囲を奔る炎の道。二人の騎士を中心に円を形取る炎の輪。やがてそれは空高く垂直に伸び、炎の決闘場を創り上げる。

 炎の向こう、霞む陽炎に見えるのは絢爛たる王の居城。
 今なお語り継がれる王と騎士達の物語の始まりの場所。

 “聖剣集う絢爛の城(ソード・キャメロット)

 円卓の騎士二名の同意か、熟練の魔術師のサポートによって成立する決着術式(ファイナリティ)

 周囲に聳える炎の壁、王城の城壁はあらゆる外敵を寄せ付けず、如何なる者の進入をも拒む絶対防壁。決着が着くまで解除の許されない決闘術式。生きて炎の壁を、城門を越えられるのは、唯一人のみ。

「…………」

「…………」

 この決闘が成立した今、もはや言葉は不要。
 語るべきは剣で語り、己の正しさを信ずるのなら勝つしかない。

 それはまさに伝説の再現。
 円卓にて一、二を争う太陽と湖の決闘。

「行くぞ、ランスロット……!」

「Ga、aaaaaaaaaaaaaaaa……!」

 互いに王の為の剣を担い、在りし日の王城にて雌雄を決す。













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