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scene.08












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 間桐桜とライダーが何処に潜伏しているか。

 結界の基点にいる可能性がもっとも高いが、だからこそこちらの意図を外してくる可能性がある。
 あるいはこの戦いの始まりにおいて、凛と桜が最初に出会った場所。センタービルの屋上も考えたが、そんな目立つ場所であれば他の者達に見つかる可能性が極めて高く、これも却下。

 全く理由のない、それこそ港にある倉庫街のような人気のない場所も選択肢の一つに入れてはいたが、この結界の起動が桜が凛を誘き出す為のものであるのなら、虱潰しは効率が悪すぎる。

 故に結論は、桜と凛の両者にとって縁のある場所。凛が想定しうる、桜が想定しうる共通項。交わらぬ道を行く二人が、いつも肩を並べていた場所は、この街にはたった一つしかない。

 ざっ、と乾いた砂を踏む。草臥れた校門。慣れ親しんだグラウンド。毎日のように通った校舎。
 この戦いが始まってからは一度も足を踏み入れなかった穂群原学園────そこには確かに、桜とライダーの姿があった。

 凛は校庭の中心に立つ二人を閉ざされていた校門の外側から見咎め、ポケットから取り出した信号弾を打ち上げた。これでガウェインにこちらが敵と接触した事は伝わり、あの誠実な騎士ならば横槍を入れてくる事もない。

 閉じられた門を飛び越え、そして両者は対峙する。

「待っていました、遠坂先輩。貴女ならきっと、私を見つけてくれると思ってました」

「単刀直入に言うわ。間桐さん、この結界を今すぐ解除しなさい」

 桜の柔らかな声を無視し、凛は毅然とした声で告げた。

「貴女の目論見が何であろうと、これは少しやりすぎよ。こんな結界が発動したらどうなるか、まさか分からないわけじゃないでしょう?」

「勿論分かっています。街の人たちはみんな消える。だけどそれが何だって言うんですか? ……全部消えてしまえばいい。何もかも。なくなってしまえばいい」

 垂れた前髪の奥の瞳は見通せない。けれど、放たれた声に宿る憎しみを、実際の痛みのように肌で感じ取る。

「貴女が憎いのは私達『遠坂』でしょう。無関係な人達を巻き込むのは止めなさい。仮にも魔術師を名乗るのなら、その程度の節度は弁えて欲しいわね」

「無関係……? いいえ、無関係なんかじゃありません。この街の住人がみんな消えてしまえば、当然この街の管理を預かる誰かさんは責任を追及されますよね。
 そんな事になれば管理者の責を解かれ家名は没落。道行きは不透明で未来は暗闇の中。長く続いた遠坂の歴史も、貴女の代で終わるかもしれませんね」

「桜……アンタ……」

「……全部、失ってしまえばいい。何もかも、一つ残らず。
 私は全部失いましたよ。肉親も、居場所も、生きる意味さえも。だから姉さん──貴女も私と同じところまで堕ちてくるべきでしょう……!!」

「アーチャーッ……!!」

 赤い風が砂塵を巻き上げ走る。その手には既に一対の夫婦剣。同時に、中空に二本の剣が顕現し、ライダー目掛けて襲い掛かる。
 同時に凛も走り出す。時臣の形見であるステッキから一工程で炎を生み出し、一直線に桜目掛けて撃ち出した。

 ライダーは手にした釘剣で射出された二本の剣を打ち払い、直後迫ったアーチャーからの斬撃を二本の釘剣を繋ぐ鎖を盾として迎撃する。
 そのままアーチャーは踏み込み連撃を見舞い、再度空中に具現化した剣を避けるようにライダーは後退し、アーチャーはその後を追う。

 桜は撃ち出された火球を地よりせり上がった三枚の影の盾で勢いを殺し、その隙に校舎へと逃げ込んでいく。凛は当然その後を追うしかない。隙を見せれば、時間を与えれば、本当に桜は令呪を使い結界を発動しかねない危うさがあったからだ。

 駆け出す足に力を込める。最早交渉の余地はない。間桐桜は魔術師としての禁を破り、無関係な人々を巻き込もうとする害悪。
 遠坂の名を継ぐ者として、この地の管理を預かる者として、これ以上は見過ごせない。

「────」

 パチン、と脳の奥でスイッチが切り替わる。胸に刃が突き立てられたような感覚。同時に視界はより鮮明に、手足は無駄を排除した動きで意思に付随する。情などかける気は最初から微塵もなかったが、これで容赦の必要性も完全に消えた。

 玄関口を潜り校舎の中へ。当然電灯などついてる筈もなく、頼りになるのは薄暗い空から差し込む僅かな星明りだけ。それも魔術的に強化された視力を以ってすれば、暗視スコープなどなくとも充分な視界が確保出来る。

 桜の姿を再度捉えたのは下駄箱を越えた先。左右に伸びる一階廊下の右側。玄関と二階へと続く階段のその中ほど。

「ノロマな姉さん。そんなに愚鈍だと、本当に令呪を使っちゃいますよ?」

「安い挑発ね。切り札は使わないからこそ切り札に成り得る。確かに結界を発動させれば私を破滅させるくらいは出来るでしょうけど、当然アンタ自身もタダで済むとは思っちゃいないでしょうね?」

「そうですね。きっと私は姉さんの手でズタボロにされるんでしょうね。けど、さっきも言ったように、私にはもう生きている意味もないんですよ。自分の命と引き換えに、姉さんを同じところまで引き摺り下ろせるならそれもいいかなって思います」

「…………」

 そう言いながら桜はまだ令呪を使っていない。この距離ならば凛が追いつくよりも早くライダーに命令を下す事は可能な筈なのに。無論、使えばそちらに気を取られた桜に凛は接敵し、一撃の下にその意識を刈り取るだろう。

 桜が形振り構わないのであれば、とっくの昔に結界は作動し街の住人は全て血液に変えられている筈。

 それが今もまだ行われていないのは、凛がうろたえる様を愉しんでいるからなのか、あるいは。

 凛の頬を一筋の汗が伝う。

 いずれにせよ、下手を打つ事は出来ない。使わないからこそ切り札に価値はあると凛自身が言ったように、街の住人の命が桜の手の中に在るのは事実なのだ。
 凛は冷酷な魔術師だが、魔術師であるが故に許容出来ないものもある。全てを犠牲にする覚悟はあっても、その倫理観を裏切る事は出来ない。

「さあ姉さん、遊びましょう? 昔みたいに鬼ごっこをしましょう。もし姉さんが私を捕まえられたら、令呪は使いません。というか多分使わせて貰えませんし。もし捕まえられなければ、全部台無しにしてあげます」

 そんな桜の口上を凛は鼻で笑い飛ばす。

「……本当、馬鹿な子。私が憎くて仕方がないなら、そんな口上を垂れる前に令呪を使ってしまえばいいのに。命が惜しくないんでしょう? 何も失うものがないんでしょう? だったら早く使いなさいよ。それが貴女の覚悟なの?」

「クスクス……やっぱり姉さんは姉さんですね。強がって、ハッタリばかりで。決して相手に弱みを見せようとしない。内心びくびくしてる癖に、よくそんな事が言えますね」

 桜の声から色が消える。底冷えのする、冷たさだけが残る。

「でも私は、そんな姉さんに憧れていました。でもそれもお終いです。私の憧れていた人はもう、いない」

「…………」

「姉さんを地に這い蹲らせて、泣いて乞わせて、その上で全部を奪ってあげる。貴女が守りたいと思うものその全て……私が台無しにしてあげますッ!」

 翳された腕。奔る暗闇の槍。桜自身の影が四つに分裂し、左右の壁と天井と床を伝い渦を巻くように凛へと迫る。

「────Anfang(セット)

 凛は手にしたステッキを腰に差し、ポケットから掴み取った四つの宝石を放ち影の槍を相殺する。

「いいわ桜。鬼ごっこ、付き合ってあげようじゃないの。でも忘れたの? 貴女、私に一度でも勝った事があったかしらね」

「何度負けても、這い蹲っても、たった一度だけ勝てばそれで充分。この戦いに勝てば、私は姉さんを越えた私として、死ねるんだからッ!」

 夜の校舎を舞台に姉妹の戦いの幕が上がる。

 全ての因縁に清算を。
 鎖のように強固で、糸のように絡み合う因縁の決算が今、始まった。


+++


 ライダーがアーチャーに追われるがままに逃げ込んだのは弓道場の裏手にある雑木林だった。

 速力で勝るライダーとはいえ、剣の射出からの面制圧能力の高いアーチャーを相手に、遮蔽物の何もないグラウンドで戦りあうのは上手くないという判断からだった。

 事実、雑木林に入ってからはアーチャーはライダーへの追撃の手を緩め、迎撃に重きを置いている。
 蛇のようにするすると木々の合間を抜け、四方八方からの攻撃を可能とするライダー相手に同じ土俵で戦う必要はない、という判断だろう。

「ライダー、君は何の為に戦っている」

 不意に、アーチャーはそう問いかけた。手には双剣。弧を描いて襲い来る釘剣を払った直後の事だった。

「無論、サクラを守る為です」

 声はすれども姿は見えない。響くのは地を駆け抜ける蛇の足音と、舞い上がる枯れ葉の音だけ。舞う枯れ葉からも位置が特定出来ないよう、ライダーはそれこそ縦横無尽にアーチャーの周囲を駆け回っている。

「主を守る為に剣を執る……実に職務に忠実なサーヴァントだ」

「……貴方は違うとでも言うのですか?」

 交わる剣戟。直後、風が逆巻いたかのようにライダーの姿が掻き消える。夜の闇も味方して、鷹の目を以ってすらその視認は難しい。

「いいや? 私も君と同じだよ。従僕の役目などそれ以外にはあるまい」

「ならば何故このような無意味な問いを──」

「君が本当に、主を守っているようには見えないからだ」

 響いていた枯れ葉の擦れる音が消える。無音の静寂。ライダーは姿を隠し息を潜め、決定的な瞬間を窺っている。
 アーチャーはそんなライダーの狙いを看破しながら、素知らぬ顔で言葉を続けた。

「街一つを人質に取るような真似をし、魔術師としての禁を犯そうとしている君のマスターを、ならばその従僕は嗜めるべきではないだろうか」

 その果てに幸福など存在しない。行く先は断崖絶壁。エンジンをフルスロットルのままブレーキも踏まないチキンレース。辿り着く先は深い闇。奈落へと転ずる底なしの闇だ。

「主の未来に破滅しかないと分かっていながら、今この刹那だけを見つめて守る事に一体何の意義がある。
 私を斃し、凛を斃し、それで君のマスターが幸福になれるとでも? 街の住人全てを犠牲にして手に入れた幸福の上に胡坐をかけるような図太い神経の持ち主には、君の主は見えんがな」

 ライダーからの反応はない。アーチャーは嘆息を一つ吐き出し、結論を告げる。

「分からんか。このままではおまえのマスターは死ぬと言っているのだ」

 父に拒絶され、姉に疎まれ、生きる意義を失くした少女。こんな余りにも無謀な暴挙に出たのは投げやり以外の何物でもない。
 遠坂凛に対する為の布石とも考えられるが、その果てには何もない。体良く凛に勝利しえても、桜にはもう目的意識が欠如している。

「おまえは何を以って主を守ると口にするのだライダー。主の意に沿い破滅の道を共にする事が、おまえにとって主を守る事だとそう言うのか」

「全てはサクラの命に優先する……それだけの事です」

「命さえ無事なら他の全てを擲っても良いと? 父だけでなく姉すらもその手に掛けた自責の念を抱き、街の住人を皆殺しにした十字架を背負い、それでも彼女に生きていけと、おまえはそう強いるのか」

 そんなものは無理だ。今の桜にそんな重荷は背負えない。今彼女を衝き動かしているのは凛に対する深い憎しみだけ。全てが終わり我に返った後、彼女は己の手を濡らす返り血を見つめ──恐らくは、その命を絶つだろう。

 縋る希望がなければ何処までも強固だった心の鎧も、一度夢見た希望にその手を払いのけられた今となっては罅割れ、ガラスよりも脆い、剥き出しの心と変わらない。

 間桐桜を今なお衝き動かしているのは遠坂凛に対する深い憎悪だけ。その憎悪がなくなれば、憎悪を向ける対象が消えてしまえば、桜自身からも動力が失われるのは当然だ。

「間桐桜を生き永らえさせたいのなら、凛を殺してはいけない。凛への憎しみを失った間桐桜は自壊する。それほどに、おまえの主は今危うい天秤の上にいる」

「……何が言いたいのですアーチャー。そも貴方が私のマスターを気にかける理由はないでしょう。貴方は一体、私に何を求めようと言うのです」

「決まっている。手を退けライダー。おまえがいては、間桐桜は救われない」

「…………」

「おまえ自身分かっているだろう? この街を包む結界も令呪によるもの。であればおまえの意思では解除は出来ん。この結界が在り続ける限り、間桐桜は自滅のスイッチを手にしているも同然だ」

 自らのこめかみに銃口を突きつけながら、その引き鉄は自分自身には何ら害を為さないと錯覚している。
 たとえ撃ち出された銃弾が間桐桜自身に傷をつける事がなくとも、引き鉄を引いたという事実が、取り返しのつかない事態を生む。

「マスターの意思を尊重するのは構わんがな、行く先が破滅と分かっていながら止めない事を尽くすとは言わん。ライダー、此処が分水嶺だ。引き際を誤れば、後は坂道を転げ落ちるしかなくなるぞ」

 闇の奥に棚引く紫紺の髪を見る。梢から姿を現したライダーは、何をも見通せない眼帯の奥から突き刺さるほどの殺意を放つ。

「どのような言葉を並べようと無意味です。そもサクラをあそこまで追い詰めたのは遠坂の人間でしょう。そこに組する貴方が耳障りの良い言葉を並べ立てたところで、信用などされると思っているのですか」

「……耳に痛いな。だがそれでどうするライダー。凛を殺し、間桐桜を衝き動かす憎悪が消えた後に、あの少女が一人で歩いていけるだけのものがあるというのか」

「────聖杯」

 静かな、けれど良く通る声で女は言った。

「聖杯の奇跡を以ってすれば、不可能などないでしょう。たとえ此処でトオサカリンを殺しても、サクラは止まりません。いえ、だからこそ聖杯を手に入れなければならなくなる」

「…………」

「幸いにして聖杯の器は我らの手にあります。此処で貴方とそのマスターを斃した後、残る全サーヴァントを斃せばそれで済む話。
 聖杯の奇跡を用い、サクラが生きるに足るものを手に入れる。必要とあらば、この命をすら差し出しましょう」

 自己犠牲を厭わぬ他者の救済。ライダーが何を想いそれほど間桐桜に入れ込むのかはアーチャーの埒外。けれど、その答えは鼻で笑うに値するものだ。

「……皮算用もいいところだな。この戦いがそんなに都合良く動かせられるようなものであれば、此処まで混迷を極める事もなかっただろうに」

 そしてライダーには決して見通せぬ落とし穴がある。この戦いの結末に用意された、最悪のシナリオ。流した血と涙の全てを無為に帰す、極上の絶望が。

「良く分かった。これ以上は水掛け論にしかならんか。まあ、それも当然か。遠坂と間桐の因縁の前に、我らは殺し合う事を前提とされたサーヴァント。私とおまえが手を取り合うような事は有り得なかったのだから」

「…………何を」

「────I am the bone of my sword.(体は剣で出来ている)

 アーチャーが呪文を唱えたその瞬間、周囲の空気が変質する。冬の夜気が満ちる雑木林の中に、一瞬だけ不可解な熱を感じ取った。

「終わりにしよう、ライダー。全力で来るがいい。私もまた、全霊で以って君の意地に応えよう」

 刹那の内に中空に浮かび上がった剣群は十を越え、なおその数を増していく。ライダーは静かに眼帯へと指をかけた。封じられた宝石の瞳が今再び、開かれる。

「貴方は彫像にしても飽き足らない。その欠片まで粉微塵に変えて、貴方のマスターの前へと連れて行きましょう」

「────っ!」

 石化の魔眼。その瞳が見たものの悉くを石へと変える現代では失われた大魔術。蛇の眼光に射竦められた瞬間、周囲に立ち並ぶ木々諸共、アーチャーの足は即座に石像のように凝固する。
 アーチャーの魔力ランクではレジスト出来る確率は五割ほど。以前成功した事を思えば今回の失敗は当然のもの。自らの運のなさを嘆きな悲しむ余裕はない。

Unknown to Death.(ただの一度も敗走はなく、) Nor known to Life.(ただの一度も理解されない)

 紡がれる詠唱。繰り出される横薙ぎの剣の雨。

 周囲の木々と同様、ライダーに見つめられた剣群は空間に停止したかのようにその疾走を阻まれ、地へと落下し砕け散る。
 しかし次の瞬間にはまたも無数の剣が生まれている。間断なく降り頻る雨粒のように、際限なく隙間なく剣が生まれ凝固し砕け散る。

 ライダーが地を蹴る。石の森と化した雑木林の中をアーチャーへ肉薄せんと疾走する。地に突き立った石の剣と木を避け、足元から襲い来る石化の侵攻に苦悶に顔を歪めるアーチャーへと。

 それを阻むは剣の壁。十重二十重と連なる剣群は、石と化しても地に突き立ち、ライダーの進路を妨害する。

「チィ……!」

 ライダーが苛立ちと共に釘剣を払う。伸びた鎖が石の剣群を破砕し道を拓くも、次の瞬間彼女の目に映ったのは、頭上を埋め尽くす鋼の雨。
 かつてアインツベルンの森で雑兵を薙ぎ払った多重投影。ライダーの足を止める為に、鋼の檻となって降り注ぐ。

 漆黒の騎兵が後退する。剣を石に変えるのは容易であっても、殺傷能力が完全に失われていない石の剣の直撃を被るわけにはいかなかったからだ。

 アーチャーは間合いを維持する事に終始している。その証拠に、一定以上の距離を置けば深追いをして来ない。弓兵の目的は詠唱の完遂。それを阻害するライダーの行動を邪魔立てしても、剣の乱舞で討ち取ろうとは考えていない。

 とはいえ、朗々と紡がれる呪文の完成を、座して待つ事など出来る筈もなく──ライダーは、手にした刃で自らの首を掻き切った。

 大動脈から溢れ零れる膨大な血。それは意思を持つかのように蠢き、形を成し、主の眼前に魔法陣を構築する。

 瞳のような、蜘蛛のような、神代の怪物の血で描かれた召喚陣。刹那の後に、発光、空間を裂き割るように現われたのは白き翼持つ天馬。

 顕現した天馬へと跨り、白き極光となって道行きを阻む全てを蹂躙する。

 石となった木々も、石となった剣群も彼女らの疾走を止められる筈もなく、繰り出される剣群も石となる前に天馬によって蹴散らされていく。
 最早その疾走を阻むものはない。後はただ、標的を轢殺し主の下へと帰るのみ。

 数秒も待たず現実となる筈だったそれに意を唱えるように、アーチャーが口の端を吊り上げる。

「■■■―――unlimited blade works(その体はきっと剣で)

 林を駆ける白き極光の暴力的な破壊音に紛れるように、静かに謳い上げられた最終節。直後、暗闇に奔る二重の炎。アーチャーを中心に円を描く炎は、まさにライダーの光がアーチャーを飲み込むその直前に完成し────

 ────世界は裏返る。

 赤茶けた土。
 煤の匂い。
 鉄錆の風。
 炎のように燃える紅蓮の空。
 中空に浮かぶ巨大な歯車。
 奏でるのは、まるで鉄を打つ残響。

 そして足元に突き立つのは無数の剣。剣。剣。

 地平の彼方までをも埋め尽くす鋼の森。
 それこそまるで、銘なき墓標。
 担い手のいない剣は静かに並び立つ。

「…………これは」

 ライダーが感嘆と共に呟く。

 天馬の突進がアーチャーを飲み込みかけた瞬間、世界卵はその表と裏を入れ替え、同時に互いの立ち位置さえをも入れ替えた。
 ライダーの一撃はアーチャーを飲み込む事なく何もない空間を蹂躙し、眼下、この赤い世界の中心に立つ男を天馬の背から見下ろしている。

 固有結界。
 心象風景の具現。
 魔術における一つの到達点。
 およそ弓兵が持ち得る能力ではない。

 全ての疑問を飲み込み、ライダーはただこの煤けた世界を俯瞰した。

 生き物の息遣いは彼らをおいて他になく、鉄と炎と剣だけが存在する無機質な世界。
 これがアーチャーの心象風景であるというのなら、彼の心はまさに荒涼であり寂寞。

 唯一人──この赤い世界の中心で、孤独に剣を握る。

 この世界には何もない。
 だが不思議と、その寂寞を哀しいとは思わなかった。

 それはこちらを見上げている男の瞳に宿る力強さゆえのものか。自身の心に何一つ存在しない世界を抱えながら、それを当然と受け入れている。あるいは、彼にとってこの世界にこそ、彼が望んだ全てがあるとでも言うのか……。

「固有結界……確かに驚きに値するものですが、これで私に勝てると思っているのですか」

 世界を空中から見つめるライダーの瞳は、既にこの世界自体に亀裂を刻み始めている。見たもの全てを石へと変える魔眼。最高位の魔眼は、大地を石に変え、突き立つ剣を石へと変え、そして世界そのものを石へと変えて破壊する。

 アーチャー自身の身体もまた、石化は解除されず腰ほどにまで侵攻している。如何に世界を塗り替えたところでアーチャーはその場から一歩すら動けない。如何に強力な能力であろうと、動きを封じられては為す術もあるまい。

「ああ──勝てる。勝つ為に、こうして世界を塗り替えたのだからな」

 だがアーチャーは断言した。最早動く必要もないと。この世界を構築し終えた時点で、勝利は確約されたも同然だと。

「…………」

 確かに、この世界はアーチャーの切り札なのだろう。

 構築に呪文の詠唱を必要とし、時間が掛かる為にこれまで機会の逸していたとしても、この局面で切った札ならば相応の自信も頷ける。
 けれどライダーは口元を僅かに綻ばせた。アーチャーが切り札を秘して来たように、ライダーもまた、最後の一枚を残している。

「──いいでしょう。ならば此処で決着を。私は貴方を斃し、サクラの下へと戻り、そして聖杯を掴み取る」

「────」

 アーチャーは答えず、空を見上げる瞳を更に鋭く尖らせる。ライダーが手を打った瞬間に反応が出来るように。

 そしてライダーは最後の札を曝け出す。血の要塞、石化の魔眼、天馬──そして、天馬を繰る手綱を。

 天馬はライダーの宝具ではない。幻想種としては破格の年月を生き、格を一つ繰り上げてはいてもその性質は天馬に準じる。天馬とは本来心優しき生き物だ。今も数々の本の中で描かれるように、気性の大人しい幻想種である。

 ゆえにその力は常にセーブされている。そのリミッターを外し、防御能力を数倍にまで高める手綱──それこそがライダーの秘して来た最後の宝具。

 ライダーは静かに我が子の鬣を撫でる。心優しきこの子を強制的に支配し、敵を薙ぎ払う兵器へと変貌させる事はライダーも望むところではない。

 だが、全ては桜の命に優先される。

 それが彼女の誓い。守ると誓ったマスターの為、心を鬼神へと変え手綱を繰り、行く手を塞ぐ全ての敵を駆逐する。

 手綱を引けば、力強き嘶きと共に天馬は旋回し、形なき無空を踏み締め空の彼方へと昇っていく。
 手綱で能力を引き上げられた上に更に重力による落下の速度を加え、まさに地に堕ちる流星とならんと空を駆け上がる。

 雲を下に見る遥か高空で停止し、羽ばたきは一度だけ。後はそう──引力に引かれるままにアーチャーの下へと墜落するのみ。

「……お願い」

 桜を守る為に、力を貸して欲しい。

 その想いを汲み取ったかのように、自らを戒める手綱を受け入れ、天馬は空を蹴って、墜落を開始した。

 その遥か下方、世界の中心に立つアーチャーは静かに時を待つ。視界より姿を消したライダーであっても、鷹の目と耳は即座に反応を感知する。

 雲を突き抜け落下する白き極光。綺羅星の如き輝きを身に纏い、天馬と一体化したライダーは流星となって落ちてくる。
 その速度は測るのも馬鹿らしく、天馬の強大な防御能力も合わさって、まるで巨大な壁が超高速で落下してくるようなもの。

 しかもアーチャーは足を封じられ逃げ場はない。固有結界を解除すれば互いの位置をある程度自由に出来る事から、この一撃を躱す事は可能だろう。
 けれどこの弓兵はそれを望まないし行う気もなかった。ライダーが全ての札を切って勝負を賭けように、アーチャーにとっても此処が天王山。

 真っ向からの勝負など、本来全力で戦う場合は避けるべきもの。固有結界という規格外の能力を持っていても、アーチャーは本人が認めずともあくまでも搦め手と不意打ちを得手とする男だ。

 真っ当な英霊が持つ究極の一を持たないがゆえの汎用性の高さと器用さを活かして立ち回り、隙を突いて勝ちを拾う。
 仮に円卓の面々と正面からやり合う事態になっていれば、固有結界の展開すら許されず袈裟に斬られていたかもしれない。

 だからといってライダーが弱いわけではない。あくまでも戦いの相性や戦場の状況も相まって、上手く歯車が噛み合ったに過ぎない。

 ただ、この敵だけは真っ向から迎え撃つ。
 でなければその勝利を誇れないと確信出来る。

 自らの胸に宿った想いを成し遂げる為には、ライダーは越えねばならない大きな壁だ。

 雲を割り襲い来る白き巨星。轟音は世界に残響する鉄を打つ音をすら掻き消し、この世界そのものを破壊せんとばかりに一切速度を緩める事なく落下してくる。

 確かに固有結界内ならば周囲への被害を考慮する必要はない。だが何もそれは、ライダーだけの特権ではないのだ。

 左手を静かに前に突き出す。
 この世界が完成した時点で、自らに語りかける呪文の詠唱は不要。
 此処には全てを構築する要素がある。
 ならば後は、想い一つで紡ぎ上げる事など造作もない。

 その上で、高らかに謳い上げよう。
 アーチャーが心の残滓から掬い上げるその盾の名は────

「“────熾天覆う七つの円環(ロー・アイアス)……!!”」

 二つの光が衝突し、弾ける。

 中空に咲く七枚羽の盾。まるで花弁を髣髴とさせる薄桃色の盾は、ありとあらゆる投擲宝具を防ぐアイアスの盾。アーチャーの誇る最硬の守り。

 けれどライダーと天馬は止まらない。白き巨星は七つの城壁にも例えられるアイアスの盾を前に僅かにその速度を落としただけで、微塵の揺らぎも有り得ない。

 恐るべきはその突進能力。

 攻撃性を持たない天馬が持つ強大な防御能力に物言わせた力押し。強力無比な盾を超高速でぶつければ何者も行く手を阻む事の出来ないという猛進。勇猛を通り越したごり押しであれ、事実アイアスは順にその花弁散らしていく。

 如何に投擲宝具が相手ではないとはいえ、その防御能力は折り紙付き。こうも容易く破られるのは、魔眼によるステータスダウンが効果を発揮している所以だろう。

 石化の魔眼は対象を石に変えるだけでなく、レジストを行った相手にも能力のワンランクダウンを押し付ける。
 中途半端にレジストしているアーチャーは石化の侵攻を遅らせてはいるものの、そのランクダウンもまた同時に食らう羽目になっている。

 天馬を繰る手綱と石化の魔眼。
 その両方に対処するには、アイアスの盾だけで不十分。

 ゆえにアーチャーは最後の札を切る。
 元より此処までの展開は想定内。
 ライダーのような敵を圧殺する盾を持たないアーチャーは、敵を斬り伏せる為の剣がなければ勝利しえないのだから。

「────切り札は、最後までとっておくものだ、ライダー」

 言葉と共に世界(こころ)から掬い上げたのは、黄金の剣。
 居並ぶ剣群とは一線を画す、煌く刀身を誇る一振りの剣だ。

 盾が一枚砕け散る度に激痛が身を襲う。
 左腕の筋繊維は断裂し、血が噴き出している。
 アイアスの維持に魔力を回し、その上でもう一つ──自身の破滅を招きかねない黄金を手に掴んだ代償は、

「はっ────、がぁ……!」

 身体の内側で弾ける痛みの刃。
 刃先で肉を一枚一枚削がれるような激痛。
 万にも上る剣にその身を貫かれたと錯覚とする苦悶。

 この身が英霊に引き上げられてからは感じる事のなかった痛み。身体の内側で刃と刃が擦れ合う懐かしい残響を聴く。
 永遠にも思える痛みの檻は、真実刹那の内の出来事。花弁が一枚消されたかどうかというほどの一瞬。

 血に塗れながら、黄金の剣を振りかぶる。足が固定されているのは、むしろ都合が良かった。下手をすれば、崩れ落ちてしまいかねない痛みと眩暈。ぎちりと石と化した足に力を込め、純白の光と桃色の光の衝突点を見据える。

 振り上げた手に握られた黄金は、この世で最も尊い光。
 世に遍く人々の想いを織り込み造り上げられた祈りの結晶。

 あの日──暗闇の中で踊る月の雫よりも美しく、尊いと信じたもの。
 今なおこの心に焼き付いた、忘れる事の出来ない運命の夜。

 遠い日に見た赫耀に、心奪われた少年が紡ぐ模造の奇跡。

 この聖剣が敗れる事など有り得ない。
 たとえそれが偽物であろうと、模造であろうと、型落ちであろうとも、あの尊き黄金の名を冠した剣に、敗北は許されない。

 ゆえに全霊を。
 魂の一片をすら込め、この一撃に全てを賭ける。

 その真名を解き放った先に待つのは分かりきった結末。
 身に余る奇跡の代償はいつも一つ。

 ライダーは『未来』を語った。
 けれどアーチャーは『現在』に賭けた。

 血の一滴をすら絞り上げ、目の前の敵の撃破に全霊を傾けた者と。
 目の前の敵をただの通過点と捉え、全力ではあっても先を惜しんだ者と。

 これはきっと、それだけの違いで。

「“────永久に遥か黄金の剣(エクスカリバー・イマージュ)”」

 静かな声と共に。

 遥かなる王の剣が、振り下ろされた。


+++


 夜を走る七色の光。黒髪を左右に結った少女の手から放たれる宝石の数々は、闇を味方につける影の刃の悉くを駆逐する。

 四角い廊下を縦横無尽に走る影。床、壁面、天井と、森での戦いでは為しえなかった三次元空間を用いたラッシュ。

 左右同時に襲い掛かった二本の槍はルビーの炎に焼き尽くされ、地よりせり上がった無数の棘はエメラルドの風によって切り払われ、天井から落下した影の洪水も、サファイアの輝きが生んだ氷の乱舞に防がれる。

「っ──、本当、節操がないですね姉さん! お金に飽かせた物量での強制的な正面突破だなんて……!」

「はっ、宝石魔術師ってのはね、宝石の質と量がものを言うのよ。勿論技量があればある程度は補えるけど、行き着く先は結局そこ。要は金持ちの方が強いのよ──!」

 逃げ惑いながら影を繰り出し姉の首を取らんとする妹へと、全力で駆けながら襲い来る全ての攻撃を相殺し続ける凛。
 森での戦いで証明された通り、純粋な魔術戦では桜は凛に及ばない。地形的有利があっても、それを全て吹き飛ばすだけの戦力が凛にはあるのだ。

 桜が間断なく攻撃を続けているのは凛に反撃の隙を与えない為。今の凛は重戦車だ。生半可な攻撃は全て往なされ、攻撃の手を緩めれば大砲が飛んでくる。

 幸いにして今は夜。閉鎖空間内であり、どんよりとした雲間から覗く僅かな月明かりによって影が生まれている。ゼロから影を生み出すのではなく、既にある影を利用し矢継ぎ早に攻撃を繰り出して凛の進行を僅かでも押し留める。

「っく……!」

 とはいえ影の乱射にも限度がある。桜が影を使役し放つより、凛が宝石の輝きを生む方が徐々に速度で勝っていく。
 後方に注意を払いながら前に進まなければならない桜と、ただひたすらに前へと突き進むだけの凛の差だ。

「手が遅れてるわよ──eins(一番)zwei(二番)drei(三番)……!!」

 結局、桜は凛の繰り出す宝石乱射の前に詠唱を遮られ、転がるように真横にあった教室へと飛び込んだ。

「痛っ……」

 居並ぶ机を薙ぎ倒しながら転がった桜が立ち上がった折、脛に鈍痛が走る。教室へ飛び込んだ際、凛の放った宝石の刃が桜の足を掠めていったのだ。

「此処で鬼ごっこも終わりかしらね。その足で、まさか私から逃げられるとは思っていないでしょう?」

 教室前方の入り口に立つ凛。中ほどで中腰のままの桜を射竦めるように見下ろしている。

「どんな状況を用意しようと、手を尽くそうと、貴女じゃ私には勝てないって、まだ分からない?」

 積んだ研鑽の量も、受けた教練の質も、凛は桜に遥かに勝る。水の合わない池で育った魚が、水の合った池で育った魚に勝てないように。
 宝石魔術を扱う為に必要な素質の全てを持って生まれ、最適な師を持った凛と。自らの属性に適さない家門で、適性を持たない師を持った桜の、埋めがたい明確な溝。

 唯一桜に出来る事は、彼女が行おうとした通り、自らの破滅と引き換えに姉にも同等の破滅を見舞ってやる事。
 勝利出来ないのならせめて相打ちを。地を這いずるしかない星が天に輝く星を堕とそういうのなら、それくらいの代償がなければ難しい。

「…………」

 そんな事、桜自身よく分かっている。だからこそこの街に結界を仕掛けた。桜が唯一凛を相手に対等な足場に立てるだけの、最悪な仕掛けを冷静な頭で指示したのだ。
 決して、何もかもを失い自棄を起こしたのではない。間桐桜はまだ、壊れかけてはいても完全に壊れる事を良しとはしていない。

 だって彼女は────……

「姉さんは……何故聖杯を求めるんですか」

 不意に、桜は俯き加減にそう訊いた。

「……治癒の為の時間稼ぎなら他所でやって欲しいところだけれど。答えてあげるわ。お父さまを、見殺しにしたからよ」

「────……っ」

 元より凛には聖杯への執着などほとんどなかった。目の前に戦いがあり、自分がその参加者に選ばれたからこそ参戦しただけ。戦う以上は勝利は当然。聖杯は勝利に付随する副賞のような扱いに過ぎなかった。

「弾痕から見ても、下手人である衛宮切嗣の狙撃によって瀕死の重傷を負ったお父さまだったけれど、その時点ではまだ私には救うだけの手立てがあった。
 けれどお父さまは私の治療を拒否されたわ。お父さまの命を救う代償に、私が失うものを天秤にかけてね」

 言って、凛が胸元から取り出したのはペンダント。鎖の先に輝くのは三角形の赤い色の宝石。見るものが見れば、その宝石に込められた魔力量に目を剥くだろう。
 遠坂時臣がその生涯をかけて魔力を貯蔵したステッキに象眼されたルビーには些か劣るものの、十年、二十年単位の魔力がその宝石には込められている。

 極大の魔力と凛の手腕、魔術刻印のサポートまでがあれば、死んでいない人間の、死に掛けている人間の命を繋ぎ止める事などそう難しいものではなかった。

 けれど時臣は拒絶した。そんな事に使う為に、そのペンダントを託したのではないと。死を覚悟していた今まさに死に行く誰かを救う為ではなく、遠坂の悲願を成し遂げる為にこそそれを使えと、そう遺して。

「お父さまはその最期まで気高い魔術師であられたわ。そして私に聖杯を掴めと遺してこの世を去った。
 五代遠坂家当主時臣の跡を継ぐ六代当主としての最初の務め──それが聖杯を手に入れること。私が自身に課した義務よ」

「…………」

 根源へ至る事は魔術師の願いであり義務だ。けれど凛は聖杯の力を行使して世界の外側に至る事に正直に言えば疑問を持っていた。
 確かにこの聖杯戦争は遠坂も一枚噛んだ大儀式だ。聖杯の所有権はあるだろうし、事実として手に入れたのなら誰かがそう願うのも否定しない。

 だが凛にとっては、これはただ用意されたものに過ぎないのだ。自分の力が関与するのは全ての前提に介入する余地がない、一参加者としてのものだけ。二百年も前に敷かれたレールの上を走り、目的地に辿り着くようなもの。

 ああ、これまで時臣の敷いたレールの上を走り続けた己が何を言うかと、誰かは嘲笑うかもしれない。
 それでも、魔術師として生きると覚悟を決め、冷酷な魔女の仮面を被ると決心したその時から、せめてそれだけは自分自身の手で掴み取りたいと思っていた。

 実際、聖杯を手に入れた後の事は凛にも分からない。目の前に万能の奇跡が降って沸いた時、その奇跡に縋らない保障は何処にもない。
 遠い、余りにも遠い道の果て。その場所へとショートカット出来る手段が手の中に生まれた時、その誘惑に抗えるかどうかは定かではない。

 いずれにせよ、聖杯を手に入れることは凛の中で決定事項だ。その後のことは後になってからまた考えればいい。
 手の中にないものを空想し悦に浸る趣味もない。今はそう──目の前の敵を一人ずつ蹴散らし、勝利への歩みを進めるだけだ。

「そういう貴女はどうして聖杯を求めるの? いえ、全てを破滅させようって考えてる貴女だもの、今更そんなものに興味はないのかしら」

「……欲しいに、決まってるじゃないですか」

 搾り出すように、桜はそう口にする。痛んだままの足を引き摺り、転がる机を支えに立ち上がる。

「ええ、聖杯を手に入れるのは私です。でないと、あの人を手に掛けた意味がない……!」

「…………」

 桜の言うあの人、というのは無論時臣の事だろう。瀕死の重傷を負っており、捨て置いても死に行く命だったとはいえ、最期の一押しをくれたのは間違いなく間桐桜だ。
 未だ逡巡の中にあった凛の思考を切り裂き、最期の力を振り絞り道を拓こうとした父の命を奪ったのは、他ならぬ彼女なのだから。

「……今更、救われたいとは思っていません。私の願った救いはもう、この世界の何処にもないんですから。
 ええ、だから私も、姉さんと同じですよ。姉さんがあの人を見殺しにしたから聖杯を求めるように──私もあの人を殺したんだから、せめて聖杯くらい手に入れないとならないんです……!」

 決別の言葉を言い渡されようと、落胆の顔を見せられようと、桜にとって時臣は間違いなく実の父親だった。
 幼き日のことを覚えている。まだ陽だまりだけが世界の全てだと信じていた頃、その大きな背に強い憧れを抱いたことも鮮明に思い出せる。

 間桐へと送られることになったあの日までの温かな記憶だけが、桜を今もこうして繋ぎ止めてくれているから。

 捨てられたも同然とはいえ、時臣は時臣なりの考えによって桜の幸福を望んでいたのだろう。何の因果か送られた先が最悪の地獄だっただけの話で、時臣だけが元凶とは言い切れない。

 実の父親をその手にかけ、育ての親すらも手に掛けた。あの悪鬼はまだ生きている可能性はあるが、今はそんな些細な事はどうでもいい。
 間桐桜は自らの意思で二人を殺害したのだ。ならば重ねた罪の分だけ報いを受けなければならない筈で、もう止まる術を持たないブレーキの壊れた車は、落ちると分かっていても断崖絶壁に突き進むしかない。

「そして私は……これから姉さんもこの手に掛けるんですよ。ね、ほら、聖杯くらい貰わないと、割に合わないでしょう?」

 この身を誰かが裁くまで、間桐桜はひたすらに走り続けるしかない。奈落へと通じる坂道を、泣きそうな顔のまま、転げ落ちるしかない。

「本当に、救いようがないわね……桜」

「さっきも言ったじゃないですか。今更、救われたいだなんて思っていません」

 救いを求める時間は終わった。天から垂らされる蜘蛛の糸にも興味がない。地を這う蟲が天を望めないというのなら、

 ────ああ、ならばその終わりまで、醜く足掻き続けるだけだ。

「私はッ! 姉さんを殺してッ! 聖杯を手に入れるんだからッ……!!」

 桜がその懐から取り出したのは数枚の紙切れ。無論ただの紙切れなどである筈もなく。

「……っ、呪符……!?」

 凛が宝石を放つのに先んじて、空を舞う呪符。それは森での敗戦を受け桜が用意した即席の簡易礼装。自らの髪を貼り付けただけの代物。

 女の髪は強い魔力を宿すと言われている。魔術師のものなら尚の事。高位の女魔術師が長く髪を伸ばすのは、その方がより強い魔力を溜め込めるからだ。
 髪は女の魔術師とって最後の切り札。埋めがたき溝が存在し、実力では埋められないのなら、埋められるだけのものを用意すればいい。

 詠唱は簡略。一小節で事足りる。魔術刻印を持たないが故に必要だった詠唱の時間を短縮し威力を増幅する為の呪符だ、簡易ではあっても女の切り札を用いたのだから、その効力はお墨付きだ。

「くっ……!」

 桜の放った影は四散し、呪符を貫き威力を増幅させて凛の前方で弾け飛ぶ。教室内の椅子と机を無造作に吹き飛ばし、噴煙を巻き起こし、その隙に桜は廊下へと躍り出る。

 森での戦い以上の攻撃手段を持たないと侮った凛は一手遅れて廊下へと飛び出す。既に桜は遥か前方。コーナーを曲がり三階への階段へと足を掛けようとしている。

「逃がすかっての……!」

 指を突きつけ放つはガンド。相手を指差し体調を崩させるという北欧の呪い。単純な呪いであり直接的なダメージは本来有り得ないが、凛ほどの術者が放てば文字通り質量を有し弾丸の如き威力を誇る。

 夜の闇を切り裂く黒の弾丸はコーナーを前に若干速度を落としていた桜の足を狙い放たれた。凛が先に傷つけた脛のダメージは抜けていない。同じ箇所を狙い完全に足を止めようとするえげつない一撃は、

 くすりと微笑んだ桜がはらりと舞い落とした呪符より生じた影の盾に阻まれ、何を貫くこともなく消滅する。

 如何に現実の銃弾ほどの威力を誇るとはいえ、宝石を用いた一撃に比べれば遥かに格を落とす。曲がりなりにも宝石を相殺する影を操る桜を相手に詠唱すらも不要なガンドでは傷をつける事さえも叶わないの道理と言えよう。

 幾ら教室で煙に巻かれたとはいえ、凛がその程度の事に頭が回らない筈がない。ガンドの利点は移動しながらの攻撃にも耐えること。詠唱が不要であり凛が持ち得る札の中で最速であること。

 対して桜はコーナーを曲がる途中だった事もあり、一瞬だが足を止めた。わざわざ挑発めいた笑みさえ残したのだ、差は確実に縮まっている。

 僅かに遅れて凛がコーナーを曲がる。その時、目に飛び込んできたのは、

「な、何をしている……!?」

「えっ……!?」

 薄暗い廊下を照らす懐中電灯。その持ち主は桜ではなく、壮年の男性だった。

 丁度階下から上ってきたのだろう。下から突如差し込んだ明かりに目を細める。光の向こうに微かに窺えるその身なりから想像出来るのは警備員か宿直の教師か、いずれにせよ聖杯戦争とは何の関係もない一般人。

 桜が戦場と定めたこの場所で、血の要塞の基点にもっとも近いこの場所で、まさか未だ意識を保っている人間がいるとは想像だにしなかった凛の思考は、確かに一瞬だけ麻痺を起こし、

「──Auf Wiedersehen(さよなら)

 その隙を、間桐桜が見逃す筈もなく。

「このっ……!」

 凛は半歩を一瞬にして警備員へと詰め寄り、容赦もなく階下へと蹴り飛ばした。

 直後、一瞬前まで警備員がいた場所、つまり今現在凛がいる場所に、頭上より降るのは影の槍。階段をすり抜けるように降った影の雨は無造作に凛の身体を貫き、ようやく体勢を戻した凛が一歩を退いた時、既に跡形もなく消えていた。

「やって……くれるわね桜……!」

 凛の身体に傷のついていない箇所はない。咄嗟に魔術刻印を回し防護の網を張ったが、警備員を蹴り飛ばした為に一手確実に遅れを取った。
 赤い上着には血が滲み、裂かれた頬からは血が零れ落ちていく。足にも被弾し機動力を奪われた。

 凛の魔術師としての在り方を理解し、どう行動に及ぶかを完璧に理解していたからこそ叶った奇襲。
 あの警備員はわざと結界の影響が出ないよう細工を施されていたのだろう。此処でかち合ったのが偶然か桜の仕込みかまでは不明だが、一杯食わされたのは間違いない。

 桜が全力で逃走を試みているのだとすれば、既に追いつけるような距離ではあるまい。凛は息を一つ吐き出し、階下へと向かい踊り場に転がる警備員の症状を確かめる。幸いにして気絶しているだけだ。打ち所も悪くはない。

「巻き込まれたのは不運だけど。串刺しにされなかっただけ有り難いと思って欲しいわ」

 凛が咄嗟に蹴り飛ばさなければ脳天から串刺しで今頃はこんな安らかな寝息を立てていられなかった筈だ。桜は凛が必ず庇うと分かった上で容赦のない一撃を見舞ったのだ、彼が生きているのは偶然ではなく必然だ。

 警備員を横たえ、歩みを再開する。予想だにしなかった手を打たれ、充分に距離を離され標的をさえ見失った。
 このまま三階に上がったところで反対側の階段に逃げられてしまえばいたちごっこ。終わらない鬼ごっこを延々と続ける羽目になる。

「────Anfang(セット)

 まともに鬼ごっこをしているのなら、それに付き合うのも良いと思っていた。地力で勝る以上は相手の土俵で戦うのも悪くないと。しかし桜は一線を越えた。凛が庇うと想定していたとはいえ、一般人を直接戦いに巻き込んだ。

「先に形振り構わない手を打ったのはそっちよ桜。だったらこっちも容赦なんてしてあげないから」

 手には父の形見のステッキを。象眼されたルビーが起動の呪文に呼応しその輝きを増していく。

Triff einen Boden und ist Flamme(地を満たせ、炎よ)

 瞬間、リノリウムの廊下を奔るは炎の道。二階廊下の全てを炎で埋め尽くし、その火の粉は舞い上がり更なる延焼を続けていく。

 踊り場に転がる警備員には火の手は及ばない。階段を境に結界を構築し遮断している。とはいえ、長く時間を置けば校舎自体が焼け落ち彼もその崩落に巻き込まれるだろうが、そこまで時間を掛けるつもりもない。

 これで下へと至る道は封じた。警備員と凛がかち合った時、桜の声は頭上から響いた。なら間違いなく彼女は上の階層にいる筈で、彼女自身がこの校舎を鬼ごっこの舞台に指定した以上、窓から校庭へと飛び降りれば敗北だ。

 桜にとって凛は負かさなければならない相手。決闘の場を用意しておきながら尻尾を巻いて逃げるような愚を犯しはしまい。凛に背を向ける事──それが今、桜がもっとも忌避する事の一つなのだから。


+++


 三階を踏破し、その更に上、立て付けの悪い扉を越えて、凛は屋上へと踏み入った。

 火の手は三階を延焼している最中であり、此処まで届くにはもう幾許かの猶予がある。そして屋上へと辿り着いた凛の目に入ったのは、その中心で空に手を伸ばす妹の姿。

「どれだけ手を伸ばしたって、アンタに星を掴む事なんて出来ないわ」

「知ってますよ、そんな事。姉さんにだって、出来ないでしょう?」

「舐めないでくれる? こんな場所から手を伸ばしても掴めないけど、本当に星を掴みたいのならまず自分が星の高さに至ればいい。星を引き摺り下ろして掴みたいアンタには一生無理でも、私ならきっと出来るわ」

「それは強者の理論ですよ。誰も彼もが姉さんみたいな強さを持ってるわけじゃない。自分を星の高さに引き上げる強さを持ってなんかいない。
 だから自分より高い場所で輝く星に嫉妬して、引き摺り下ろしたいと願うんですよ」

「弱さを盾に己の浅ましさを他人に押し付けないで欲しいわね。怠惰な者の手に望んだものは手に入らない。そんな事、誰だって分かってるでしょうに」

「ええ、分かっていますよ。それでも欲しいものは欲しいし、憎いものは憎い。人間ってそういうものでしょう?」

 何を掴む事も出来なかった手を戻し、桜は凛と向き合った。

 叶わぬ願いと知りながら、地を這う星は天へと手を伸ばし続ける。救いを求める為ではなく、この地の底に誰かを引き摺り下ろしたいが為に。

「今度こそ、鬼ごっこは終わりよ。此処が私たちの戦いの終着点。花はないけど、まあそれくらいは許してあげるわ」

 天に輝く星に、地を這うしかない星の心は分からない。ただ、自らの行く手を阻むものを薙ぎ払い、願った先へと進むのみ。

 そこから先は最早、死力を尽くした総力戦。

 屋上に舞う七色の光。
 風に舞う呪符を貫く影の乱舞。

 所狭しと地を駆け、宝石の輝きを、影の槍を、実の姉妹に向けて殺意を乗せて繰り出すだけ。

 語るべきを語り終えた二人の間に、問答はない。
 掛ける言葉も、掛ける情けも存在しない。

 ただ、目の前の敵を駆逐する──その為だけに、彼女たちは腕を振るう。

「あ、あああああああああ……!!」

 呪符を五枚、並べで空中に固定。殴りかかる勢いで放った影の槍は一枚呪符を貫く度にその威力と速度を増し、五枚全てを貫き終えた槍は魔槍の如き異形の大きさとなって凛へと襲い掛かる。

「──Paradigm Cylinder(煌け、七色の光)

 空中に舞う七つの宝石。その輝きをカットによって七色に変化させる宝石の真骨頂。大師父によって残された課題──その末端も末端を紐解き編み上げた凛の奥の手。
 この場所を戦いの終着点と定めた以上、出し惜しみはなしだ。秘蔵の七つを用い、完膚なきまでに間桐桜を捻じ伏せる。

 先を思い、力を残して倒れることなどあってはならない。獅子は兎を狩るのにも全力を尽くすという。遠坂凛もそれは同じ。敵対者に対して、彼女が容赦した事など一度足りとてありはしない……!

 七つの宝石は互いの力に干渉し増幅し合い、この世にはない色を発現させる。それはまるで、万華鏡のよう。あらゆる色を持ち、顔を変える宝石の極点。いずれ凛が至るべき高き峰の上に咲く一輪の花の如し。

 鈍色の空を染め上げる極光。闇よりもなお黒々とした巨大な柱めいた槍は、僅かな鬩ぎ合いの後、全てを照らす万華鏡の輝きの前に霧散し──

「ああ……」

 今自身が放ち得る最大の一撃を苦もなく消し去った七色の光を見つめ、桜は再び思い知らされた。

 ────やっぱり、姉さんは強いなぁ……。

 間桐桜が持ち得なかった強さ。高い才覚を持ちながら、それに胡坐を掻くことなく修練を積み上げなければとてもではないが届き得ない高み。
 地を這い、渋々と受け入れ続けてきた自分とは余りにもかけ離れたその強さは。

 憧れを抱き、嫉妬し、憎悪し、恋焦がれたもの。

 人が自分にはないものを他者に求める生き物であるのなら、桜にとっては凛こそがその象徴だった。
 もっとも身近にいながら、もっとも遠くに感じていた存在。手をどれだけ伸ばそうと、決して掴み得ない遠い背中。

 迫る光。
 全てを溶かす万華鏡。
 抗う術も、抗う意思も失った桜は、静かに瞳を閉じ、その終わりを受け入れた。

「死にたくもないくせに、死に場所を探す真似はもう止める事だな」

「────……え?」

 抗える筈のない死の奔流を目前に、何処かで聴いた声を聴く。全てを呑みこむ筈の光の乱舞は、突如現われた赤い背中によって阻まれる。

「アー……チャー……?」

 刹那にも満たない時間の中、見つめた背中は満身創痍。赤い外套はより濃い血によって覆われ、無手のまま、凛の放った万華鏡の輝きの前に立ちはだかる。

 何故。
 どうして。

 遠坂凛のサーヴァントであるアーチャーが、間桐桜を庇う理由はない。空に手を伸ばしてた最中に消えた令呪から、ライダーの消滅は窺い知れたが、こんな展開は予想の外。敵のサーヴァントが敵である自分を主に逆らい守るなど、まるで意味が分からない。

 いずれにせよ、桜を呑み込む筈だった光の奔流は赤い騎士の手によって阻まれた。極光が消え去った後に残ったのは、愕然と見つめる遠坂凛と、呆然と視線を彷徨わせる間桐桜。そして、瀕死でありながら、膝をつきながらなお存命し続ける弓兵の姿。

「アーチャー……!? 貴方、なんで……!」

「ふん……我ながら驚くほどに生き意地が汚いな。だがそれも限界か。流石にもう長くは保たん」

 足の先から、指の先から光の粒になっていくアーチャーの姿。自らの消滅をかけた黄金の剣を振るい、サーヴァントにさえ通ずる凛の一撃を受け止めたのだ。生きているだけ奇跡であり、残されたのは僅かな時間。

 零れ切らなかった砂が、ただ落ちていくのを待つだけの猶予。だがそれでも、まだ完全に消えていないのなら出来る事もあるだろう。

「凛、君の戦いは此処で終わりだ。もう聖杯を掴む事は叶わない。よもやサーヴァントを失った身で、戦い抜けると思い上がるほどには腑抜けてはいないだろう」

「なんで……令呪で命令したでしょうに。私の、邪魔をするなって……」

「死に掛けの人間は、どうやら想像以上に足掻けるものらしい。元よりそう強力ではない命令だ、面と向かってどけとでも言われなければ、拘束力も弱まるというものさ」

 そもアーチャーは己の命を度外視していた。凛の命令が戒めとなって手足を縛ろうと、ステータスの低下を気に掛ける必要がないのなら命令に意味などない。それこそ、彼自身が言ったように目の前で直に命令を告げられない限りは。

「何故そこまでして私の邪魔をするの……? そんなにも、私が気に入らないかしら」

「いいや、私は君が思う以上に君を気に掛けて来たつもりだ。だからこそ何度も私は諫言を口にした。マスターが二度とは戻れぬ道に踏み込む事のないように、と」

「…………」

「妹をその手に掛け、父の為に聖杯を掴む……? 呆れるな、自分自身の行動の理由を他者に求めるとは君らしくもない。
 そんな強迫観念めいたものに衝き動かされた結果に手に掴んだものに一体どれだけの意味がある。ふと振り返ってみればそこには何も残っていない。轍となった者の怨嗟だけが残るだけだ」

 言ってアーチャーは自嘲する。どの口がそんな戯言を謳うのかと。強迫観念に衝き動かされ、遂には世界の外側へと至った大馬鹿者が一体何をほざくのかと。自分自身の全てを棚に上げ、弓兵は続ける。

「まあ……どれだけ説教を述べたところで、君の心に響かない事はもう分かっているさ。ただ、君が譲れぬものをその心に宿すように、オレもまた譲れないものがあったと、それだけの事だ」

「そんなにも、私が桜を殺す事が気に食わなかったの?」

「当然だ。姉妹が殺し合うなど救いがないにも程がある。手を取り合えとは言わないが、殺し合う理由がなくなれば君は手を引くしかない」

「…………」

 ライダーは消滅し、街を覆う結界は解除された。アーチャーは深手を負い、もう幾許もない命。
 凛も桜も、互いにサーヴァントを失った脱落者。姉妹の殺し合いの前提は聖杯を巡る争いにある。

 ならばその戦いから脱落してしまえば、聖杯を賭けて争うという名分がなくなれば、姉が妹を手に掛ける理由はなくなるのだ。

 ライダーを消滅させ、自分自身もまた消え去る。それがアーチャーが企てた目論見の正体であり、姉妹の争いを止める為だけに、画策された今である。

「私は……死ななきゃならないんですよ……」

 アーチャーの背で、ぽつりと呟かれた桜の言葉。

「お父さんをこの手で殺め、お爺さまも殺したんです。私なんかが、生きていていい理由なんかないでしょう……!?」

「先にも言ったが。死にたくもないくせに、死に場所を求めるのはもう止せ、間桐桜。生きていく事に理由が必要なら、オレでも凛でも好きに恨めばいい。それが生きる糧になるのなら意味もあろう」

「────……っ」

「そんな泣きそうな顔で死に場所を探すくらいなら、俯いたままでも生きてみろ。それでも死にたいのなら、自分の喉元に刃でも突きつけてみるがいい。死を恐れる君が、自殺など出来るとは思えんがな」

 俯き、眦に大粒の雫を溜めながら、吐き出すように桜は言った。

「ひどい……人ですね……」

 それに弓兵は苦笑を返す。

「ああ……そうとも。オレはそういう人間だ。決して英霊などと崇め奉られるようなものではなく、ただの──」

 多くを救い、少数を切り捨ててきた殺人者。
 望むと望まないとに関わらず、死に瀕した名も知らぬ誰かを救い、この胸に宿る理想の為に走り続けただけの大馬鹿野郎。

 ただ、正義の味方に憧れただけの、弱い人間だ。

 それでもこのちっぽけな掌で救えるものがあると信じた。多くを救う為に、より多くを取り零していた男が末期の夢で願った小さな願い。
 生前、取り零したものを掬えたかもしれないのなら、この変わり果てた世界に生きた意味もあるだろう。

「────凛」

 消えかけの身体で、失われていく視界の中、愛しい人の名を呼んだ。

 その最後まで冷酷な魔女の仮面を脱がせる事は叶わなかったが、その仮面の奥から時折覗くアーチャーの知る凛の顔を信じている。
 森での戦いで桜を殺めなかった事も、この学園での戦いでも倒しきれなかった事も、全て彼女の良心が願った結果なのだと。

 止められない強迫観念を、止めてくれる誰かを信じて、あの一撃を見舞ったのだと。

 全ては憶測。アーチャーの願望だ。結局最後まで心の内を理解出来なかった主なのだ、全部分かっているなどとは口が裂けても言えないが、彼女ならば、もう間違える事はないだろう。

 欠けた瞳で視線を遠く投げる。
 冬木を分かつ未遠川のその向こう。
 鈍色の空の下で輝きを強める黒き太陽。

 この戦いが十年のずれを引き起こしていようとも、アレがアーチャーの知るものと同位なのであれば、起こり得る結末は想像が及ぶ。
 真に正義の味方を標榜したかったのなら、あの輝きこそを止めるべきだったのだろう。この世の地獄が産み落とされる事こそを、止めるべきだったのだと。

 いや、この戦いで接点こそ余りなかったが。

 ────オレは、信じている。

 この心に理想を刻み付けた誰かと。
 この心が尊くも美しいと信じた誰かを。

 このちっぽけな掌で救えなかったものを、彼らならば救ってくれると心から信じて。

 小さな笑みを浮かべ……
 赤い外套を纏いし弓の英霊は──静かに、この世を去って行った。


+++


 後に残されたのはサーヴァントを失ったマスター達。御三家のマスターであるが故に手の甲からは令呪こそ失われていないが、再契約には逸れサーヴァントが必要だ。この局面、街を覆う霊気からしても、そんな都合の良い物件が転がっている筈もない。

 彼女達の戦いは終わった。

 多くを失い、手に掴んだものは何もない。けれど、此処で歩みを止める事もまた許されない身の上ならば、全てを受け入れて前を向いて進むしかない。

「何処へ……行くんですか……」

 背を向け、階下へと通じる扉へと歩み出した凛を止める桜の声。崩れ落ちた姿勢で、睨むように見据えている。

「何処って、後始末よ。アンタを追い詰める為に学園に火を放ったから、それをせめて始末しておかないとマズイもの」

「なんで……なんでですかっ!? さっきまで私をあんなに殺したがってたくせに、もうどうでもいいんですかっ!?」

「ええ。アーチャーが言ってたように、私にはもう貴女を殺すだけの理由はないわ。街の結界も解除されて未遂に終わった。お父さまの事は残念だけれど、参加者を参加者が殺したところで罪に問うのは筋違いだから」

「聖杯はっ……!」

「サーヴァントもなしに残る参加者を倒せるなんて思い上がっちゃいないし、都合良く逸れサーヴァントがいる保障もない。
 分の悪い賭けは嫌いじゃないけど、負けの見えてる勝負にベットするほど狂ってもいないつもりだから。それに──」

 この肌を刺すような感覚。街全体を包み込む、血の要塞とは毛色の違う悪寒。どうにも何やらきな臭い。

 アーチャーが最期に見つめていた場所。遠く新都中心付近には何か黒い穴のようなものが望めている。あれが聖杯と関わりのあるものならば、凛でさえも知らない何かが起ころうとしているのは間違いない。

「私は結末を見届けるわ。貴女はどうするの、間桐さん? 此処で這い蹲って、涙を流したままでおしまい?」

「────……っ」

「死にたいのならお好きにどうぞ。止めはしないし邪魔もしない。でもね、貴女が罪を負うべきだと思っているのなら、生きなさい」

「──────」

「死は救いにも罰にもならないから。生きること──それがきっと、貴女に課せられた罰だと思うわ」

 そして凛もまた同じ罪を背負う。父を見殺しにし、その遺志を果たせなかった罪は、彼女が生きて己の力で果てへと辿り着く事で清算する。
 泣いて乞う真似も懺悔も必要ない。過ぎ去ったものと踏み越えたものに胸を張って、少女は道の彼方を目指していく。

「……生きていく理由のない人に生きろだなんて……誰も彼も、辛辣ですね……」

「当然よ。この世界は残酷だから。ただ生きているだけで苦しいし、呼吸を刻むのは辛いもの。でもそれが、生きるってことでしょう?」

 救いなんてのはあったとしても一握り。大半は苦痛と悲嘆に彩られている。それでも、死ねないのなら生きるしかない。どれだけ苦しくとも、理由などなくとも、その心臓が鼓動を刻み続ける限り、その足で歩き続けなければならない。

「────桜」

 階下へと通じる扉の前で、振り返る。今までにない、柔らかな声音で凛が呼ぶ。崩れ落ちて、声を上げる事もなく屋上の床を見つめるだけの妹の名を。

「どうしようもなくなったら私のところへ来なさい。私は貴女を救うつもりなんてこれっぽっちもないけれど、悪いようにはしないから」

「……ねえ、さん……?」

 それだけを残し、姉は去って行った。

 その言葉の真意は分からない。けれど、背を向けるその刹那に見えたのは、口元に湛えられた柔らかな笑み。
 あの遠い日、陽だまりの中で見続けてきた背中が後を追う少女へと振り返り、差し出された手を掴む時に見た笑みと同じもの。

「ねえ……さん……」

 まだ失われていないものがこの世界にはあった。
 温かな記憶の在り処は、変わらずずっとその場所にあったのだ。

「うぁ……」

 それが彼女にとっての救いとなるかは分からない。

 明確なのは、絶望の底にいた少女はこの時、生まれて初めて声を上げて泣いた事。
 薄暗い闇の淵で、声を押し殺して泣く事しか出来なかった少女が、誰に憚る事もなく幼子のように大きな声で泣いた。

 それはまるで──産声のように。
 今は見えない、遠く輝く天の星へと、届けとばかりに。


/38


「はぁ──!」

「──らぁ!」

 裂帛の気迫と共に振るわれる白銀の剣。夜の闇をも照り返す意匠深き剣は、血よりも濃い朱で彩られた槍の旋回に阻まれる。
 未遠川沿いにある海浜公園。その一角で、手を取り合った筈の二人の騎士は、互いの首を刎ね落とさんと、容赦のない剣戟を繰り返していた。

 キャスターによってバゼットとの契約を破壊され、魔女の手に落ちたランサーと。
 脱落者となった女魔術師に肩入れし、女の相棒だった男と切り結ぶモードレッド。

 空から降り注ぐ天然の光源はなく、彼らの舞台を彩るのは街灯の明かりだけ。薄暗い闇の中、幾度となく繰り返される剣と槍の応酬が無数の火花を生んでは弾け、死地にありながら口元に笑みを浮かべる彼らの顔を照らし上げる。

 一撃交える度に溢れる脳内物質。視界は明滅し太刀筋のみが目に焼き付く。時間を置き去りにし、高速の剣と槍は当事者以外の認識を超えていく。
 剣を執り、戦乱の世を駆け抜けた英傑。強者との鬩ぎ合いは彼らの本質にも等しく、互いの目的を度外視し、今目の前にある心躍る狂騒に溺れ続ける。

「────っ、と!」

 かに思えたが、歴戦の古強者たる彼らが戦に狂い、目的を見失う無様は有り得ない。本来剣を交える事の叶わない筈の相手と競い合える宴の場だ、その心の高揚は大きくとも、今宵の一戦は彼等の為の戦いではない。引き際を誤っては魔女に足元を掬われてしまう。

 モードレッドは手にした剣をくるりと回転させ、神速の打突を放つランサーをいなし、一足跳びに距離を離す。
 全身を鎧で覆っているとは思えないほどの身軽さで間合いを離したモードレッドは、兜の奥でくつくつと笑いながら言った。

「流石は名高きアイルランドの光の御子。噂に違わぬ槍捌きだ。忌々しい同輩連中と比しても引けを取らないばかりか上回るかもな。
 ああ、味方の内は頼もしかったが、敵には回したくない類の輩だよアンタは」

「ハッ、抜かせ。飄々とオレの槍を捌き切った輩が何をほざく。奇妙な剣を使いやがってやりにくい事この上ない。
 だがまあ、そっちの評価と同じものをこっちも返すぜ。ここまで人を小馬鹿にした剣を振るう奴はテメェが初めてだよ」

 足を止め、神速の槍を振るうランサーと、身軽なステップと型に嵌らない剣筋を以ってその槍をいなし続けたモードレッド。
 肩を並べていた間は気付かなかったものが、こうして刃を交える事で見えてくる。

「酷い言われようだが、オレは別に誰も馬鹿になんかしちゃいない。型に嵌められるってのが昔から気に入らなくてね、要は勝てばいいんだよ」

 上段から振り下ろされると踏んだ剣が、奇怪にも一瞬にして横薙ぎに変わり、体勢の維持を無視した回転を用い裏を掻き、右手に握られていた筈の剣がいつの間にか左手に持ち替えられている。
 そんな余りにも常識を逸脱した剣こそがモードレッドだけの剣術。型に嵌らない型、とでも呼ぶべきだろうか。

 だが結局のところ、奇策は初見だからこそ有用に働く。槍術の基本にして奥義のような槍捌きを行うランサーを相手に、この遮蔽物のない場所で真正面から戦うのは正直なところモードレッドに旗色が悪い。

 森での戦いでセイバーに押し切られたように、純粋な暴力の鬩ぎ合いでは彼女は真っ当な担い手に一歩劣るところがある。
 彼女自身もそれは理解している。このまま剣と槍を単純に交え続ければ、いずれ対処され迎撃が間に合わなくなる。剣を交えたのが今夜が初とはいえ、何度か同じ戦場を駆け抜けた相手だ、その対応は他の連中よりも早いだろう。

 だけど今は。

「どちらが上か決める事なんかに意味はないと思うが。せめて一太刀くらいは浴びて行けよ──!」

「フン、なら倍にして返してやらぁ……!」

 再度地を蹴り、二人だけの戦場へと奔る青と赤の英霊達。激突は突風を巻き起こし、他者の介在を許さぬ嵐を生む。

 そう……今この場で戦いを繰り広げているのはランサーとモードレッドのみ。

「…………」

 モードレッドの後方、張り詰めた弦のように緊張を緩めないまま戦場の推移を見つめていたバゼットが空を振り仰ぐ。今は見えない星でも、暗く厚い雲を眺めようと思ったわけでもない。

 戦闘が巻き起こるその前から滞空する紫紺の魔女。鈍色の空を背負い、鈴を鳴らす錫杖を手にしたキャスターは、表情の窺えないフードで顔を覆い隠したまま遥かな高みから戦場を俯瞰している。

 ……一体何を考えている?

 バゼットの予測では、キャスターは彼女に仕掛けてくると踏んでいた。空を飛べないバゼットでは戦いの相性は最悪で、唯一サーヴァントを屠り得る切り札もまた魔女にだけは通用しない。

 この冬木の戦場において、マスターとしては破格の戦闘力を誇るバゼットがもっとも戦いたくない相手がこの神代の魔女であり、そんな思考を容易く見透かすキャスターならば当然にして弱者から始末をつけるものと思っていた。

 如何なモードレッドといえどランサーを相手に、手負いのバゼットを守りながらキャスターの相手をも務めるなど不可能に近い。
 それでも覚悟を以って戦場に臨んだバゼットを嘲笑うかのように静観を決め込む魔女に不信感を抱くのは当然と言えよう。

「────」

 バゼットの視線に気付いたのか、キャスターがこちらを見る。即座に戦闘態勢に入ったバゼットだったが、キャスターは微かに窺える口元を妖しく歪めるだけで攻撃は仕掛けて来なかった。

 森での戦いほど自由に魔術を扱えずとも、現代の魔術師など赤子の首を捻じ切るよりも容易く手を下せる筈の魔女が何も仕掛けて来ない。
 不信は疑惑に変わり、やがて警戒を強める結果となる。それでも、魔女は動かない。神代の指先は、中空に何を描く事もなく静かに握り締められている。

 ……魔女の思惑は分かりませんが、こちらにしても好都合。何かを狙っているのだとしても、やるべき事は変わらない。

 敵にサーヴァントを奪う手段があると知った今、モードレッドもただでその罠を踏む真似はすまい。ならば後は覚悟一つ。命よりも尊いと信じたものを取り戻す為、この身を捧げ剣と為そう。

「モードレッドッ……!」

 バゼットの怒号が飛ぶ。それに呼応し死地で切り結んでいた鎧の少女は、片手で担っていた剣を両手に持ち替え、赤き一閃を渾身の力で弾き飛ばす。

「よぉ……こうして遊んでるのは楽しいが、時間も惜しい。そろそろ本気でやろうぜ」

「…………」

 モードレッドの軽口に、ランサーは答えず槍の穂先を沈める。

 ランサーにとっての全力とは、相手を殺すか自分が死ぬかの二択となる。そして槍に付与された呪いにも等しい魔力は、確実に敵対者の命を奪うもの。
 それをバゼットもモードレッドも知っている。なのに、その上で全力で掛かって来いとは何を考えている。

「それは……オレの宝具の能力を知った上での発言か」

「ああ。来いよランサー、オレがおまえの全霊を受け止めてやる」

「…………」

 ランサーの視線がモードレッドを越え、その後ろに佇む女を見る。険しくも、真っ直ぐな瞳。覚悟を宿したかつてのマスターの力強き瞳を見て、ランサーは吐息と共に小さな笑みを零す。

「ハッ、いいだろう。死んでから文句言うんじゃねぇぞ」

「オレがこんなところで死ぬもんか。オレにはまだ為さなきゃならない事があるんでな。おまえ達の為に死んでやるつもりなんか毛ほどもない……!」

 顔を覆い隠す兜が割れ、その素顔が白日の下に曝け出される。モードレッドの握る白銀の剣──クラレントが血を浴びたかのように真紅に染まる。
 邪悪に満ち、憎悪に焦がれ、異形の邪剣へと変貌していく。彼女の立つ足元から、血の川が流れ出るように大地をも赤く染め上げていく。

 対する青き槍兵は地を擦る程に穂先を沈め、蠕動し拍動する槍は貪欲に周囲の魔力を貪っていく。
 凶悪に魔力を食らうその様は、周囲の熱をも奪い去り、凍るように冷たい夜気が満ち満ちていく。

「────」

 カラン、と海浜公園のタイルの上を転がる鉄筒。モードレッドの後方、バゼットもまた肩に下げていたラックから一つの球体を取り出し、構えに入る。

 肩ほどの高さに掲げた拳の上に球体は浮かび、短剣の刃のようなものが顕現し、バチバチと迸る電気じみた魔力を纏い始める。
 それこそがバゼットが有する切り札。神代より現代にまで受け継がれ続けてきた正真正銘の現存する宝具。サーヴァントをも一撃の下に屠り得る、究極の迎撃礼装。

 本来ならば彼女自身が純粋な戦闘能力で相手から切り札を引き出さなければ真価を発揮し得ない礼装だが、今回は前衛にモードレッドがいる。
 彼女の言葉と、今大地を満たす憎悪の血に塗れた破滅の一撃に対するには、ランサーもまた全霊で以って迎え撃たばなければ勝機はない。

 サーヴァント戦の極地。行き着く先は結局のところ互いの担う宝具による一撃滅殺。矛を交え機先を読み合う事など所詮は児戯。共に宝具発動の隙を窺うだけの前哨戦。

 今この瞬間こそが──戦いの極点。全てを決す刻限だ。

 唯一の懸念は、キャスターの動向。三者が全て臨戦態勢に入った今もまだ、魔女は指先一つを動かさない。不可解を通り越した奇妙に過ぎる静寂。
 思惑の読めない敵が頭上を専有している状況で、明確な隙を生む宝具による激突を行って良いのかと一瞬頭を掠めたが、

「覚悟を決めたんだろバゼット。今更引き返したいだなんて口にするのなら、オレはアンタを軽蔑する」

「…………」

 そうだ。魔女にどのような狙いがあれ、踏み越えて先を目指すと誓ったのだ。激突の先にある一瞬、暗闇の荒野の先にある光を目指し、命を賭して魂を捧げると。

 全ては──彼の誇りを取り戻す為に。

「モードレッド。貴方に全てを託します」

 少女は傾けた視線だけで頷きを示し、今や獰猛な獣の如き殺意を撒き散らす朱の魔槍を担う男を見つめる。

 もはや言葉は不要。
 後は互いが信頼を置く一撃に全てを賭けるのみ。

「“刺し穿つ(ゲイ)────”」

「“我が麗しき(クラレント)────”」

「“後より出でて先に断つもの(アンサラー)────”」

 三つの詠唱。
 重なる言葉。

「“────死棘の槍(ボルク)……!”」

 されど真名を解き放たれたのはその一刺しのみ。
 対峙するモードレッドは詠唱を止め、横薙ぎに構えていた異形と化した剣を引き戻し両の手で握り直す。

 ランサーの真名解放に遅れる事一拍。
 究極のカウンター礼装がその牙を露にする。

「“────斬り抉る戦神の剣(フラガラック)”」

 ただ撃ち放つだけでは低威力しか発揮し得ないこの剣は、敵の切り札に反応し発動する事でその真価を見せる。
 敵が攻撃を放った直後に発動し、敵の攻撃が着弾する前に敵を撃ち貫く戦神の剣。

 故にその名は後より出でて先に断つもの。後出しでありながら強制的に先手を奪う時を逆行する魔剣。

 神速で以って放たれた朱の魔槍。それに遅れる形で発動した時の魔剣は運命を逆行し、後出しという結果を捻じ曲げ先に発動したという因果に書き換え、何よりも先んじて敵に着弾したものとして時間を改竄する。

 収斂された針のような一撃。もっとも凶悪な暴力は余計な破壊を撒き散らすものではないとでも言いたげに、フラガラックは神速の魔槍に先んじて、ランサーの心臓を正確に撃ち貫く。

「────」

 使用者が倒れれば宝具は発動しない。故にフラガラックが発動し着弾した時、相手の攻撃はなかったものとしてキャンセルされる。
 それはこの青の槍兵をしても同様。宝具を発動する前にまで遡って敵を撃ち貫く魔剣に対する手段は、そも宝具が発動してしまった時点で対処する術はない。

 が、彼の手にする魔槍だけはその例外。

 真名解放のその前に、既に『心臓を貫いている』という結果を作り出した後に放たれる彼の槍は、逆行する時の剣を以ってしても、その発動を押し留める事は叶わない。

 使用者が倒れようと、真名の解放を妨げられようと、既に生まれている結果を覆す事は何者にも許されない。

 故に──心臓を貫くという因果を背負った槍は、使用者の手を離れても、その結果を導き出す為に直走る。

「────はっ」

 標的は無論にしてモードレッド。彼女が真名の解放を留め置いたのは、この結果が予見出来ていたからだ、両者相打つ命運を斬り抉る逆光剣は、因果を繰る魔槍までをも斬り抉る事は出来ない。

 心臓を貫く槍を相手に赤雷を放つ魔剣を繰り出したところで意味がない。ランサーはバゼットの一撃で致命傷を負い、その後にクラレントが消し炭に変えたところで朱の魔槍は止まらない。

 モードレッドの役目とは、最初からその因果に打ち克つ事。
 必滅の朱槍の、王者を貫く王の槍の運命を打破する事。

 自らの目的の為。この先にある願いの為。こんなくそったれな殺し合いに臨んだ意味と答えを見出すまでは、死んでたまるものか……!

「お、お、あああああああああああああああ……!!」

 地の底に沈んだかと思いきや、即座に跳ね上がり、通常では有り得ない軌道で襲い来る槍を相手に、心臓を狙ったその槍を両の手に担った剣で以って鎬を削り火花を散らす。

 本来この槍と鎬を削る事など不可能だ。因果を定めた後に放たれる槍は回避も防御も不可能。活路は槍の運命を上回る幸運を引き寄せるか、槍の間合いから逃れるか、そも発動させないかの三点に尽きる。

 モードレッドにはそれほどの幸運値はなく、既に槍は放たれ間合いの中。それでも彼女が直撃を避けられたのは、彼女が背負う運命によるもの。

 定められた運命に抗い続けた者だけが持つ強さ。
 避けられぬ死に叛旗を翻す者の力。
 自らの望むものを、たとえ世界の全てを裏切ってでも手にするという叛逆者の呪い。

 己はこんなところで死すべき運命にはないと心の底から信ずるからこその異常性。
 運命を打ち破るのは、いつだってそれに抗う者の一念だ。

 理想の王の治世を、王の理想を打ち破りし稀代の叛逆者。
 彼女は今再び──覆せぬ筈の運命を、己が力だけを頼りに切り拓く……!

 火花を散らし、心臓を射抜く事なく過ぎ去った筈の槍は、反射でもしたかの如くその軌跡を折り曲げ、長柄の特徴を完全に無視したまま、標的の心臓を背後から再び襲う。

 避ける事は叶わない──たとえ避けても何度でも槍は襲う。
 迎撃は間に合わない──たとえ間に合っても同じ繰り返し。

 槍の呪いを、運命を、乗り越えなければ避けえぬ死。

 だったら──

「オレはッ! こんなところで死ねないんだ……ッ!!」

 その運命を越えて行こう。
 覆せぬ終わりを覆そう。

 その為だけに、その為にこそ、この身はこの戦いに身を投じたのだから。

 そして────

「がっ──はっ……っ!」

 遂に槍はその進行を止めた。
 心臓を穿つ魔槍は、

「越えてやったぞ……運命を……!」

 標的の心臓を抉る事なく、モードレッドの右胸に着弾した。

 モードレッドは槍の運命を上回った。
 幸運に頼るでもなく、間合いから逃れるでもなく、第四の手段によって。
 運命に抗う力と、その身に刻まれた“呪い”によって、運命に打ち克ったのだ。

「────」

 槍を放った青き戦士は、その勇姿に笑みを零す。
 収斂された一撃で心臓を破壊された彼の者は、消え行くのを待つだけの運命。

 抗えぬ死。
 覆せぬ終わり。
 壊れた砂時計の器はもう二度と元には戻らない。

 ああ、されど。

 こんな姿を見せられて、黙って消えてしまって良いのか?

 いいわけがない。
 許される筈がない。

 ああ、彼女達はランサーを縛り付けていた魔女の呪縛から解き放った。その身を戒めていた凶悪な呪いは、死に行く者には作用しない。
 この身の不甲斐無さが生んだ結末を、この命の終わりと引き換えに、失われた誇りを取り戻してくれたのだ。

 ──ああ、だったら、ちゃんと礼をしなきゃならねぇ。

 力を失くしていく手足に力を込める。倒れそうになる足に踏ん張りを利かせ、たった一つの言葉を謳い上げよう。

「“突き穿つ(ゲイ)────”」

 引き戻した槍に今一度力を込める。その拍子に足元が崩れた感覚が襲い体勢を崩す。だがもう体勢を維持する必要はない。地に倒れ伏そうとするその中、気合だけでその身を捻って天を仰ぐ。

 そこには空に座す魔女の姿。
 獣の如き赤き眼光が、間違いなく“標的”を見据える。

「…………っ」

 魔女がこちらの狙いに感付く。だがもう遅い。森の結界がないこの場所では、一瞬での転移も不可能。そのタイムラグは、刹那にも満たない一瞬は、永遠にも等しくランサーの味方をする。

 ────借りを返すぜ、魔女さんよ。

「“────死翔の槍(ボルク)”」

 静かな言葉と共に。
 倒れ行く戦士の手を離れ、朱の魔槍は投げ放たれた。

 同時に。
 魔女は身に纏うローブに包まれるようにしてその姿を掻き消す。

 既に槍の呪いは発動している。
 投擲された槍は標的を追い、何処かへと消え去った。

 だん、とランサーの背が地を叩く。

「ランサー……!」

 駆け寄るバゼットと、ゆっくりと歩みを進めるモードレッド。

 かつての主に消え行く身体を抱え起こされた槍兵は、視線をモードレッドへと投げた。

「悪ぃ……手間掛けさせた」

「ふん、まったくだ。だがまあいいさ。こっちにも収穫はあったからな」

 モードレッドはあの槍の呪いに打ち勝ったのだ。であればやはり、この身はあの王と雌雄を決するべき命運にあるのだと確信する。
 彼女の運命の終着点はあの場所だ。全ての終わりの地。全ての始まりの丘。果たせなかった願いを果たす為、彼女は孤独に最後の戦いへと臨む。

「モードレッド……ありがとうございました」

 己の役目はこれで果たしたと、鎧の少女は背を向ける。その背に投げ掛けられたバゼットの感謝の言葉に、少女は手を振って応えた。
 しみったれた別れには興味はない。たかだか一協力者に過ぎなかった者を相手にして、その腕の中の男を蔑ろにするのは本末転倒だとでも言うように。

 血に塗れた剣を担い、茨の道を歩む少女は、惜しむ別れもなく、一つの戦場を去って行った。

 去り行く背中を目で追う事もなく、彼女が残してくれた僅かな逢瀬を悼むように、バゼットは腕の中の男を掻き抱いた。

 砂が零れるように光となって消えていくランサー。手足は既になく、身体は何処もかしこも透け始めている。

「……すみません。私は、不甲斐無いマスターだった」

 詫びるようなその言葉に、もしまだ腕が残っていたらランサーは拳骨の一つも見舞っていただろう。
 不甲斐無さで言えばランサーも同様。主の火急に焦りを滲ませ、事を急いたせいでキャスターに足元を掬われた。

 それでもこうして誇りを取り戻してくれた主を、どうして責め立てる事など出来ようか。

 英雄の末路は非業なものと相場が決まっている。
 国を背負い、たった一人で抗い続けた男は、誓いを破らされ自らの手にした槍で腹を貫き絶命した。

 それでもこの男には後悔はなかった。二度目の生になど興味はなく、ただ一人の戦士として全力で腕を競い合えればそれで満足だった。

 その願いは結局、果たされたのだろうか。自らの槍の運命を凌駕したあの小娘との戦いも悪くはなかったが、その発端を思えば満足のいくものでもない。

 報われぬこの身。
 救いなど元より求めた覚えはないが、それでも惜しむ気持ちは僅かにはある。

 ああ、それでも。

 この終わりを、気に入った女の腕の中で逝けるのならば、そう悪いものでもない。

 消え行く身体にはもう力が残されていない。言葉は泡のように消え、上手く発する事が出来ない。

「……達者でな、バゼット」

 それでもどうにか、その言葉だけを口にした。

 告げたかった多くの想い。
 万感の想いを、上手く笑えたか分からない笑みとその言葉に乗せて。

 ────静かに。
 一人の戦士が、女の腕の中でその息を引き取った。

「──貴方も。英霊の御座にそのような概念があるかは分かりませんが、どうか健やかに」

 女は憧れた英雄に別れを告げる。

 元より叶う事のなかった筈の逢瀬。
 一時の夢、白昼夢を見たの同じだ。

 それでもこの腕は、確かな温かさを覚えている。
 傍らにあった心地良さを、確かに覚えているから。

「さよなら、クー・フーリン──貴方は、私にとって最高の相棒(えいゆう)でした」

 だからこそちゃんと別れを告げる。
 これより続く彼女の歩み。
 前へと進む為に。

 その胸の内に蟠っていた澱を、拭い去ってくれた彼へと向けて。


/40


 静謐に包まれた住宅街に、一発の乾いた音が木霊した。

 衛宮切嗣が拠点と定めた武家屋敷。
 闇の降りた庭園。
 その片隅に佇む土蔵。
 開け放たれた扉。

 土蔵の中を染め上げる極光。
 それは転移の証。
 キャスターが基点と定めたこの場所へと、逃げ帰るように跳んだその先で。

「──────ぁ……」

 胸の中心を貫く重い感触。
 破れた臓腑より湧き出し、口元より零れる赤い血液。


 魔女が視線を傾けた先、開け放たれた扉の向こうには、黒鉄の銃身をこちらへと向ける下手人の姿。
 夜の中で良く目立つ、白い硝煙が、その銃口から立ち昇っており、

「……マスターっ!?」

 セイバーの当惑を孕んだ叫びも意味を為さず。
 キャスターは、衛宮切嗣の手によって放たれた銃弾が、自身の胸を撃ち貫いたのだと理解した。


+++


 トンプソン・コンテンダーに装填されていた銃弾は、切嗣がキャスターに依頼して作らせた対サーヴァント用の弾丸だ。
 アインツベルンが長い年月を掛けて掻き集めた礼装、聖遺物の中でも選りすぐりの高位の神秘を宿すものをキャスターの手腕により魔術的に弾頭に加工した代物。

 本来ならばサーヴァントを相手にしては何の役にも立たない筈の機械の産物、人類の叡智は、魔女の手によって神秘を纏う怪物をすら貫く銀の魔弾へと変貌した。

 皮肉なのは──加工した張本人が、その弾丸の標的にされた事だろうか。

 切嗣は素早くリロードを行う。秒を切る速度で再装填された銀の弾丸が、確実に魔女を屠り去ろうと引き鉄を絞られるその直前。

 甲高き金切り音と共に、夜の彼方より飛来した赤き稲妻が、土蔵の天井を貫き魔女の心臓へと突き刺さる。

「が、ぁ……ぁあああ……!」

 その身に帯びた呪いを完遂する為ならば、地の果てまでも追い回す赤き魔槍。主の手を離れてなお、その牙は消えた標的を追い、その心臓を喰らい、体内に千の棘を撒き散らし、この場所でその役目を果たし終えた。

「…………」

 さしもの切嗣もこの展開は予想していなかったが、手間が省けた。が、念押しに、再装填された銀の魔弾を未だ残る魔女の顔面へと向け、

「────……」

 石榴のように弾け飛んだ魔女の頭を始まりに、その身体は、身を貫いた槍と共に夜に溶けるように消えて行った。


+++


 静寂が戻る武家屋敷。

 衛宮切嗣は土蔵から背を向け、コンテンダーから薬莢を取り出した。さも、何でもないかのように。

「マスター……貴方は、最初からこれを目論んでいたのですか」

 未だ動きを封じられたままのセイバーは、己がマスターの非道を詰るように怒気を孕んだ視線を向ける。

「キャスターにその弾丸を作らせたのも、初めから彼女を撃つ為に使うつもりだったのですか。己が聖杯を掴む上でいずれ邪魔となる者を、自らの手で排除する為に」

「…………」

 衛宮切嗣は答えない。
 が、セイバーの推論は遠からずも近からず、といったところか。

 確かに自らの手でキャスターを屠る展開は切嗣も想定はしていたが、そう上手くいくものではないとも思っていた。
 キャスターはイリヤスフィールを守る為の存在。戦場から遠ざけておく為に切嗣が用意した駒だ。

 だがキャスターが切嗣の思惑を読めば、いずれ敵対する事もまた想定していた。切嗣は自らの性質を良く理解している。
 それゆえに、似た性質を持つキャスターのクラスをイリヤスフィールのサーヴァントにしたのは、その結末を予期してのものだった。

 誤算があったとすれば、キャスターの力量が切嗣の想定を上回っていた事。森に敷設された神殿は幾度となく侵入者の歩みを阻み、あまつさえランサーをすらその手駒に変えて見せた。

 要は、キャスターはやり過ぎたのだ。

 切嗣の想定を凌駕した神代の指先。いずれ仇となるものをこれ以上は野放しにはしておけないと、今夜の策に乗り出した。

 森の中では万が一にも勝ち目がない以上、街中へと引き摺り出す必要がある。間桐桜によって展開された血の要塞は好都合であり、その状況を体良く利用したに過ぎない。

 キャスターが撤退を試みる状況になるのなら、必ず一度この場所に帰還しなければならない。土蔵に仕掛けられた魔法陣はアインツベルンの森との唯一の直通路。
 街中に仕掛けた魔法陣は全て緊急退避かこの場所へと戻る為のものであり、一瞬で森に転移しようとするのならキャスターとてこの場所を通じなければ不可能だったのだ。

 だから切嗣はこの場所で待った。

 セイバーが随伴しては、万が一にもキャスターが撤退するような事態は起こり得る筈もなく、令呪を使ってまで押し留めたのはその為だ。

 暗殺者にとって、もっとも必要なのは待つ事。たとえそれが無意味なものとなったとしても、根気強く待ち続ける事。
 一瞬の隙を狙い撃つ為に、他の全てを犠牲にする事だ。

 キャスターが敗走してくる可能性は決して高くはなかった。上手く敵サーヴァントを消し去って行ってくれるのなら、何食わぬ顔でまた別の機会を待つつもりでもあった。
 だが結果は、キャスターは何がしかの理由により土蔵へと撤退し、切嗣によってその背を撃たれ、この世から消え去った。

 後に残るのは結果のみ。過程などどんなものであろうと構わない。結果としてキャスターは消えたのだから、切嗣の思惑は此処に完遂を見た。

 ──ただ、気に掛かるものがあるとすれば。

 二発目の銃弾でキャスターの頭蓋を吹き飛ばすその直前。
 はだけ落ちたフードの奥、振り仰いだキャスターが苦悶を滲ませながらも浮かべていた笑み。

 そして。

 ──わたしの、かちよ。

 言葉にもならない唇だけの動きであったが、キャスターがそう口にしたような気がするのは単なる思い過ごしなのだろうか。
 読唇術の心得もないではないが、明確な答えは分からない。間近に迫る死に震える口元がそう見えただけに過ぎない可能性の方が高い。

 それでも。
 笑みを浮かべていたのだけは間違いがなく。

 そしてそんな益体のない思考を一笑に附し、

「そうだ。僕は初めからキャスターを使い潰すつもりでイリヤに召喚させた。で、それが何だ。
 聖杯を手に入れられるのは唯一組。ならば一時手を取り合った相手とはいえ、いずれ倒さなければならない敵には違いはない」

「イリヤスフィールは言っていました。私達皆に、聖杯の奇跡を分け与える事も出来るだろう、と。貴方もそれに同意していた筈ではないのですか」

「聖杯が触れ込み通りのものであればの話だ。未だかつて明確な勝者なきこの戦争、聖杯を実際に使用した者が一人としていない現状で、そんな不確定要素を鵜呑みする方が愚かというもの。
 聖杯に託す祈りがあるのなら……何を犠牲としても叶えなければならない願いがあるのなら、確実を期すのは当然だろう」

 一拍を置き、不動のまま立ち尽くす己が従者に無機質な瞳を向け切嗣は続ける。

「おまえの祈りは他者と分け合えるかもしれない、という程度の浅い祈りなのか? 是が非でも叶えたい願いではないのか?」

「…………っ」

 切嗣の言葉は正論だ。類推を含むイリヤスフィールの言を信じるよりも、明確に唯一組の勝者となる方が祈りの実現性は高い。
 後になって願いを分け合う事は出来ないなどと判明したら、それこそ血で血を洗う闘争に発展しかねないのだから。

 相手が他者の裏を掻く事に特化した魔女だ、最後の最後で手痛い裏切りに遭う可能性もゼロではない。危険の芽は事前に摘んでおく。利用するだけ利用し必要がなくなったら使い捨てる切嗣の判断は、合理の極地でもある。

 合理性を突き詰めるという事は、感情を排斥するという事。かつて王であった時代にセイバーがそうして来たように、切嗣もまた己が悲願の為に人として大切な何かを切り捨ててこの場に立っている。

 甘い事を言っていたのはセイバーの方。余りにも酷いその非道は──まるで鏡を見ているかのような錯覚をし、徒に噛み付いた。

 けれど目はもう覚めた。

 どれだけ切嗣を問い質してもキャスターが消滅した事実は揺るがないし、マスターがなければ現界の叶わない身の上ではどう足掻こうとも意味がない。
 何より──切嗣の言うように、セイバーの抱える祈りは尊きもの。他の全てを踏み躙ってでも叶えなければならないと信じるものだ。

 己が聖杯に手を掛ける為に、轍に変えたものが一つ増えただけの話。今更、綺麗事で取り繕ったところで浅ましくも聖杯を欲するこの心は変えようがない。報いるのなら、せめて聖杯を掴み取らなければならない。

「言葉が過ぎました、マスター。ですが、イリヤスフィールについてはどうするつもりですか。彼女は未だ敵の手中。まだ救出の必要性はないと?」

「ああ……救い出す必要はない。が、僕達が向かうべき先にはイリヤがいる」

 キャスターの消滅と同時にランサーの槍が消え去った事からも、少なくとも二騎のサーヴァントが今宵戦場を去った事になる。
 そして立ち込める暗雲と、肌を刺す街全体を包む魔力の高鳴り。推測だが、既に過半数のサーヴァントが倒れていたとしておかしくはない。

 舞弥がいればもう少しマシな状況を把握出来たのかもしれないが、ないものをねだったところで何も出ない。
 現状を把握する為にも、一度イリヤスフィールの居場所──今回の降霊予定地である冬木市民会館を目指すのは必要な事だ。

 ────僕の勘が間違っていなければ。

 今夜の内に全ての決着が着くだろう。
 膠着状態は崩れ、事態は急速に終息へと向かっている。

 ならば後は、残る敵手を撃滅し、聖杯の頂に手を掛けるのみ。

「────行くぞ」

「はい────」

 令呪の戒めを解かれたセイバーを従え、衛宮切嗣は戦地へと赴く。

 これまで積み上げて来た骸に報いる為に。
 轍と変えたものの全てに、意味があったと証明する為に。

 その胸に宿した、余りにも尊い祈りを叶える為に──


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 闇に没した大ホール。

 休日にイベントが催されれば、二階席まで埋まる事もある冬木市民会館コンサートホールも今は暗闇。入り口付近を照らす非常灯の明かりだけが、薄暗く灯っている。

 誰もいない筈の深夜のホールの中は本来ならば静寂に包まれているものだが、今は男の呻き声が残響する。

「お、お、お、……うっ、あぁぁ……!」

 ステージ横の階段から転げ落ちた間桐雁夜は蹲り、自らの身体を侵す異常に苦悶を浮かべる。

 血管の中を這いずる無数の蟲。臓腑を貪るキチキチとした鳴き声。視界は明滅し汗は滝のように滴り落ちる。人間の身体の中に本来あってはならないものを飼っていた雁夜だが、今はその制御を奪われ、身体の自由をすら奪い取られようとしていた。

『カカ! 辛そうよな雁夜よ。いい加減抵抗を諦め素直に身体を明け渡せ。さすればその死にたくなるほどの痛痒から逃れられるぞ?』

 声は雁夜の喉の奥から響いてくる。雁夜自身が漏らす呻きとは別の、良く聞き慣れた声が自分自身の内側から聞こえてくる事に酷く不快なものを覚える。
 しかし、その不快感をすら上書きする体内の異常。自分自身の身体が、自分自身の存在そのものが、一分一秒と消え、書き換えられていく恐怖に勝るものはない。

「誰、が……貴様なんぞに……!」

 雁夜が体内に寄生させていた刻印蟲も、元はといえば臓硯の子飼いだったもの。制御を覚えてからは自分の力で蟲を精製し入れ替えたが、その程度でこの男の魔の手から逃れられると考えていたのはやはり甘すぎた。

 一体、いつから臓硯が雁夜の体内に潜んでいたのかは、雁夜自身もまるで把握出来ていない。単に、あの悪鬼が生き延びているとすれば、己の内側以外にない、とそう思い至ったに過ぎない。

 どれだけの長い期間潜伏していたのかは定かではないが、現に雁夜の制御を乱し奪い取るほどに刻印蟲を掌握しているのなら、それこそ初めから、雁夜が間桐を継ぐと宣誓したあの日から、臓硯はそこにいたのかもしれない。

『ふむ……存外耐えおるな。腐っても十年、儂の教練を耐え続けただけはある……』

 並の人間、あるいは熟練の魔術師であっても、身体の内側から肉体を乗っ取られるような状態になれば抵抗は極めて難しい。相手が臓硯ともなればその難度は更に跳ね上がる。
 雁夜が耐え凌げているのは十年の間に培った蟲に対する適性と抵抗力があったことと、間桐の血が皮肉にも臓硯の侵攻を押し留める助けとなっていた。

『のう、雁夜よ。少し話をしようか』

 不意に、臓硯はそう切り出した。まるで世間話でもするかのように。今この状況とは場違いなほど、穏やかな声で。

『この十年、儂は貴様を見続けてきたが、憐れでならなんだものよ』

「貴様に、憐れまれる……筋合いなど……っ!」

『ほう……? では問うが、貴様は本当に桜の為にこの十年を耐えてきたのか?』

「っ……なにを……」

『お主はことあるごとに桜の為だとか、桜を守ると口にしておったが、儂にはそれが自分自身に言い聞かせておるように聴こえてならなんだものよ』

「────」

 臓硯の声がやけに脳に響く。喉奥から漏れる別の誰かの声という違和感も、今や気にならず、ただ、その言葉の意味だけが残響する。

 桜を守る。桜の為。ああ、雁夜はそう自分に言い聞かせ続けてきた。自らが背負うべきものに背を向けた結果、身代わりとして奈落に引き摺り込まれた少女を救いたいと欲する事に何の不思議がある。

 雁夜が最初から間桐の家門を背負っていれば、逃げ出していなければ、少なくとも臓硯の魔の手にあの子が掛かる理由はなかったのだから。

 背を向けたものを背負う覚悟……嫌悪し、忌み嫌い、唾棄すべきものを少女の為に背負うと決心したのだ、言い聞かせ続けなければ立ち行かないのも道理だろう。その克己心こそが雁夜の原動力になっていたのだから。

 だから、臓硯の言葉には何の意味もない。

 だけど、その先を聞いてはならないと何かが警鐘を鳴らしている。
 続く言葉は雁夜の積み上げて来たものの根幹を破壊するに足る、と。

「ぁ……、が……っ……っ!!」

 されど、体内を蹂躙する蟲の蠕動は止むことなく、雁夜を蝕み続けている。声を絞り出そうにも漏れるのは呻きだけで、音は言葉にはなってくれない。

 そして────

『雁夜よ。お主の本心は桜にはあるまい?』

 ──やめろ

『お主が見ているのは、桜に残る母の面影──』

 ──やめてくれ

『未だ初恋の女を諦められぬ、浅ましい男の慕情』

 ──それ以上は

『禅城葵──手に入れられなかった女に対する、未練だろうて』

「あああああああああああああああああああああああああああああ……っ!」

 雁夜の絶叫がホールの中に木霊する。

 心の奥底に沈めていたもの、覆い隠してきたものが、心を蝕む悪鬼の手によって、この闇の中で詳らかにされていく。

『カカッ! 良い年をした男が未だ初恋を忘れられぬとは、初心なものよ。女を食い散らかし、次代の為の胎盤としか見なさなかった間桐の嫡男とは到底思えぬ初々しさよ』

 臓硯の愉快そうな声音がくつくつと囀る。

 間桐雁夜にとって禅城葵は幼馴染であり、恋焦がれた人だった。遠坂時臣に対する憎しみの根源は、彼女を奪い取られたことに起因している。桜を捨てたことも当然怒りの理由にはなっても、葵を掻っ攫われたことが無関係とは口が裂けても言えない。

 とはいえ、雁夜は自分から身を引いたのも事実。間桐の魔術を知り、間桐に迎え入れられた後の彼女を想い、時臣ならば彼女を幸せに出来ると信じて受け入れた。

 だが結果は時臣は所詮魔術師でしかなく、娘の一人は間桐に送られ、葵は早くにしてその人生を終えた。彼女の死因を雁夜は知らない。間桐と遠坂の間に結ばれていた不可侵の条約もあり、正式に間桐を継いだ雁夜は葬儀に訪れる事も叶わなかった。

 後に残ったのは憎しみだけ。葵を幸せに出来なかった、その家族を引き裂いた男に対する深い憎悪だけだ。

 けれど雁夜は時臣と戦場で出会った時、葵の名を口にはしなかった。

 まるで隠すように。
 遠ざけるように。

 必要以上に桜を引き合いに出し、葵に対する想いに、蓋をするように。

 ああ、それは当然だ。既にいない人よりも、今を生きる人の幸福を願う。それは人として当たり前で、正しいものだ。
 泣いて縋っても亡くした人は戻らない。過ちをやり直す事も許されない。だからこそ、葵よりも桜の為と、声高に吼え上げた。

 ────それは、本当に?

 蓋をした筈の想いの底から漏れ出す声。自分自身へと還る糾弾の鏡。真実桜の為と嘯くのなら、臓硯の言葉にあれほどの動揺をする筈がない。

『お主は桜を救いたいのではない』

 だからそれはきっと、真実で、

『桜に残る禅城葵の幻影を追いかけておるに過ぎず』

 だからそれはきっと、真実で、

『そんな女を手に入れたくて、少しでも気を引きたくて、こんな愚かな蛮勇に出たのであろう?』

 それもまた、雁夜が水底に沈めた筈の真実だ。

『カカカカカっ! のう雁夜よ、儂が以前お主に桜を宛がうと話した時のことを覚えておるか? 儂はようく覚えておるぞ。期待と興奮、動揺と焦燥の綯い交ぜとなった、お主の顔をの』

 臓硯の下卑た嗤い声は留まる事を知らず、何処までも雁夜を追い込んでいく。

『雁夜よ、所詮貴様も間桐の血筋よ。年端もいかぬ幼子に欲情した挙句、声高に叫んだ言葉は全て偽り。
 十年の苦痛は桜の為などではなく、自分自身の為のもの。果たせなかった想いをその娘に重ね、成就しようとした鬼畜の所業よ。ああ、貴様はどうしようもなく愚かしく、救いようのないクズよな! これでは桜が救われぬも当然だろうて!』

 雁夜の抵抗が弱まるのを境に、臓硯の侵攻はその速度を増していく。足の末端から自由を剥奪され、違う色へと染め替えられていく。

 自分自身に言い聞かせ続けてきた言い訳は白日の下に晒され、偽りの想いは暴かれた。この手が救いたいと願ったものは、奈落の底に繋がれた少女などではなく──浅ましくも愚かしい、この己の心だったのだ。

「は、はは、はははははは……!」

 蹲ったまま哄笑を喉の奥から漏らす雁夜。既に抵抗は止み、後数分もすれば臓硯に身体の全てを奪い取られる事となる。

 魂は引き裂かれ、空っぽの器に臓硯が居座る。魂の劣化に伴い腐り落ちていく肉体を繋ぎ止める為、夜な夜な人々を食い散らかしてきた悪鬼の犠牲者がまた一つ増えるだけ。

 ただ同じ間桐の血肉で編まれた雁夜の肉体は臓硯の魂と良く馴染む。赤の他人の肉を乗っ取っても一年も保たないが、間桐の肉ならば数年は持つだろう。

 既に今回の聖杯戦争も佳境。空中分解したも同然の間桐陣営では勝ち抜くのは難しい。雁夜の身体を乗っ取った後、まだバーサーカーが生き残っているのなら抗ってみるのも一興だが、勝ちの目は少ないと見ている。

 故に臓硯はその先、戦いの向こうを既に見据えている。如何に損耗を減らし、次の戦いに備えるか。聖杯を巡る闘争は今回が最後ではない。また六十年の後に巡り来る。いや、今回のイレギュラーな事態を鑑みれば、早まったとしてもおかしくはない筈だ。

 チャンスはまた巡り来る。勝機の芽のあった今回を敗戦で終えることは甚だ不本意ではあるが、覆しようのない結末に固執し取り返しのつかない展開は避けなければならない。

 この手に永遠を掴み取る。老いに怯える事も、腐り落ちていく肉に悲嘆する事もない真実の永遠。その為ならばどれだけの月日であろうと待ち続けよう。何度でも繰り返し、幾度でも織り成そう。

 終わらぬ連鎖を。
 途絶えぬ嘆きを。

 全てはこの手に、永遠を掴み取る為に。

『気でも触れたか雁夜よ。ああ、別に構わぬ。お主の意識もどうせ儂にとって替えられるのだ、その魂も精神も不要。肉体だけがあれば何の問題もない』

 臓硯が雁夜の体内に潜んでいたのも全てはその為。万が一、雁夜と桜が敗戦した場合を想定し、劣化を続ける魂の器として最も相応しい間桐の肉体を求めていた。
 赤の他人を食い繋いでいくだけでは、次の戦いを迎える前に魂の損耗が限界を越える可能性もあった。

 けれど間桐の魂に間桐の肉体ならば、劣化の速度は減速する。間桐臓硯が間桐臓硯のまま生き続けるには、間桐の魔術師の肉体が必要だった。
 雁夜が無事聖杯を掴み取っていれば不要なものだが、この展開から勝利をもぎ取るのは至難を極めよう。ゆえに方針を転換し、生存を第一に優先する。

 次がある。
 明日がある。

 いずれ来る勝利の日の為、闇に潜む事には慣れている。

 雁夜の身体の大半の制御を奪い取った臓硯は消え行く息子の醜態を見届ける。その心を暴かれ、支えとしたものを折られ、抵抗の意思を失くした人形を。

「ああ……アンタの言う通りだ。俺は桜ちゃんの為、と声高に叫びながら、本当は……自分のことしか考えていなかった、どうしようもないクズだ」

 それは諦めか、悟りか。自らの罪を懺悔するように、雁夜はか細い声でそう言った。

『何、それを恥じる事はない。人は誰しも自分が一番可愛いものよ。自分自身と他人を天秤にかけ、後者を迷いなく選べるような者は狂人だ。
 それは魔術師であれ人間であれ変わりはない。自己を優先するのは人として当たり前の本能よ。嘆く事はない』

 息子にも等しい雁夜を食い物とし、自分自身の延命を望む臓硯とてそれは同様。間桐の秘術を伝えていくだけならば雁夜に全てを託せば事足りる。けれど臓硯が望んでいるのは果てる事のない生。

 魔術師としての究極や根源への到達など既に度外視。日に日に腐り落ちていく肉を押し留め、変わる事のない永遠を謳歌する事こそが命題。その為に、血を分けた家族を食らう事にも躊躇はない。

 人として外れた化生だが、その本質は未だ人のまま。自己の保存を最優先する何処までも人らしい魔性を、間桐臓硯という。

「ああ……俺は、どうしようもなく人間だ。だけど俺は──貴様のような、腐りきった魔術師じゃない」

『────なに?』

 雁夜の腕が動く。既に臓硯の支配は頭部を残し大半の自由を奪い取っているというのに、臓硯の意思に反し、雁夜の意思によって腕が動く。

 滑り込ませたポケットから掴み取ったのは、何の変哲もない一振りのナイフ。そこらの店で売っているような、普通のナイフだ。
 暗闇の中に刃の鈍い輝きが灯る。震える手で、ギチギチと体内の蟲が蠕動する腕を振り上げ、雁夜は自身の心臓に刃を向ける。

『雁夜、貴様……!』

「見たくないものから、背を向け……視線を逸らし……逃げ出した……偽物だらけの俺の人生だったが」

 ────最期くらい、本物になってみたっていいだろう?

 そうして。

 雁夜は残る力の全てを振り絞り、臓硯の妨害を振り切り、渾身の力を込め、自分自身の心臓を突き刺した。

『アアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァァ……!!』

 けたたましい蟲の鳴き声が木霊する。

 どれほどの怪物であろうと、その身はただ一匹の蟲。蟲を一匹殺すのに、ご大層な魔術なんぞ必要ない。
 切れ味の悪い鈍らなナイフだろうと、覚悟と勢いを以って突き立てれば、充分な殺傷能力となる。

 五百年の時を生き、永遠に執着し続けた化生の末路にしては呆気ない幕切れ。極大の魔術戦の果てでもなく、聖杯を巡る闘争の終焉でもない、その道半ばで。間桐に巣食っていた悪鬼は、人間の手によって葬られる。

『お、お、お、おおお……雁夜、貴様、なんということを……!』

 それでもそう簡単にくたばるような易い命ではない。心臓に巣食う本体をナイフによって引き裂かれながら、それでもまだ間桐臓硯は生きている。

「臓硯……間桐の因縁は、此処で、全部終わらせよう……」

 血を吐き出しながら、それでも雁夜は突き立てた刃になお力を込める。刃先より伝わる生き汚く足掻き、のた打ち回る蟲の息の根を完全に止める為に。

 持って生まれた逃れられぬ宿命から背を向け、恋慕を抱いた相手にすら手を伸ばせなかった弱い人間。それが間桐雁夜という男であり、その薄弱な心の奥にはそれでも消せない想いがあった。

 自らの弱さを隠す為、好きだった女の娘を理由に剣を執った。ああ、本当に。どうしようもなく浅ましく、ずるい男だと雁夜は思う。
 でも、その心の全てが偽りだったわけじゃない。そんな浅ましさだけで十年の地獄を耐え抜けた筈がない。

 だからこの心にはきっと、一欠けらの本物がある。

 あの蟲蔵の底で声を殺し泣いていた少女を掬い上げた時の気持ちを確かに覚えている。この子を守りたいと願った想いを、今でも忘れてはいない。
 それすらもまた、自らの慕情から端を発したものの可能性はあるだろう。何処までいっても、虚飾に塗れた事実は変えようがない。

 だからこそ、最期に望んだものはたった一つ。

 救いたいと声高に叫んだあの子の為に。
 嘘も偽りもない、唯一つの真心でそう願ったから。

 彼女を蝕む間桐の闇を──自らの命と引き換えに、断ち切るのだ。

「救いようのない、クズの……俺にも、……救えるものが……ある、のなら」

 誰に誇るでもなく。
 誰に認められる必要もない。

 ただ──彼女の未来に幸あれ、と願うから……!

「ぞう、けん……おまえは、ここで、俺と共に、たおれろ……!」

『──────っ……!!』

 声にもならない断末魔の悲鳴を上げ、間桐臓硯の本体が両断される。柄まで深く沈みこんだ刃は確実に心臓に巣食う蟲を断ち切った。

「ご、っ……ぁ」

 自らの心臓を貫いた雁夜は喉からせり上がる血を止める術もなく、それでも、皮肉げに笑った。

「なぁ……臓硯、……あんたのほんとうは、何処にある……」

 最早虫の息の雁夜は、死の間際に穏やかな声で問いかけた。後数秒もない命で、聞こえているかも分からない相手へと。

「永遠……不老不死……それを、願ったアンタの心は、何処にある……」

 ナイフで両断されながらも、醜くもがいていた蟲にその声は届いていた。

 永遠を求めた理由。
 不老不死を願った理由。

 理由のない願いはない。何の目的もなく不老不死など求めはしない。人として死を忌避し恐れるのは当然の感情だが、臓硯のそれは常軌を逸している。
 五百年の時を生きる為に食らってきた人間の数は途方もなく、日々腐り落ちる肉に恐怖しながらそれでも永遠を求め続けるその執念の原点。

『ああ……』

 それをもう、思い返すことは出来ない。

 長い年月を生きた代償に、想いは擦り切れ、願いは忘却の彼方。分かるのは、いつの間にか手段と目的が入れ替わってしまったということ。
 最初から永遠が目的だったわけじゃない。永遠を求めたのは、何かを成し遂げたかったからだ。

 その『何か』は、この擦り切れた魂では、もう思い出すことも叶わないが。

 それが──この矮小な命を賭けるに値する、永遠にも勝る尊い輝きだったことは、覚えている。

『儂は……わたし、は────』

 望んだものを掴めず、望んだものが何であったかを思い出せないまま、間桐臓硯は、その長く苦難に満ちた生の幕を閉じた。

「さく、ら──ちゃ……」

 そうしてもう一人、間桐雁夜もまた重く瞼を閉じる。

 言葉では表せなかった沢山の想いを秘めたまま。
 これより続く彼女の道の先に、少しでも多くの幸福があって欲しいと願いながら──

 自分自身の為にしか生きられなかった男は、その最期に──誰かの為に、その命を投げ出したのだった。


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 灼熱の光輝を纏った一閃が夜に閃く。受ける黒刃は夜よりもなお暗き黒に染まり、全てを照らす太陽の輝きとさえ拮抗する。

 冬木市民会館前の広場に展開された決闘場──“聖剣集う絢爛の城(ソード・キャメロット)”内にて二人の騎士は火花を散らす。

 周囲に立ち昇る炎に陽炎の如く揺らめくのは在りし日の王城。一人の王の下に集った幾多の聖剣使いが轡を並べたキャメロット。
 王の御前、自らの正しさを証明する為に剣を執るのに、騎士の決闘を行うのに、これ以上の相応しき場所も他にない。

 決闘場から出る事を許されるのは唯一人の勝者のみ。王の御前へと面通しを叶うのは、かつての同輩を斬り捨てた白か黒の一人のみ。

「はぁ……!」

 マスターである言峰綺礼からの令呪ブーストで、ランスロット相手にも聖者の加護は狂いなく発動し、円卓一を誇った最強に拮抗する。
 攻め手は緩めることなく、ひたすらに足を前へ。自らの意思を乗せた剣戟を、目の前の相手へと叩きつける。

「Ga、aaaa……!」

 しかし相手は人々の崇敬と羨望を集めた国一番の猛者。荒々しき灼熱の波濤を、月の光を照り返す湖面のような美しさを損なうことなく捌きに捌く。
 狂化してなお揺るがぬ無窮の武錬は、より強大な力強さを伴い無数の花を夜に咲かせては散らせていく。

 蒸発した理性の中、それでも僅かにだけ残る思考能力でランスロットは不審に思う。

 かつて、三時間もの間耐え抜いた筈の太陽の斬撃が、徐々にその激しさを増していく。裂帛の気合を乗せた一閃が、少しずつ黒色の鎧を削いでいく。

 手を抜いているわけではない。ましてや、この身は狂化されることで生前を上回る能力値を獲得している。であれば状況は拮抗などする筈もなく、本来ならば黒騎士の側が押し込んでいなければならない。

 なのにバーサーカーは押し込まれる。間近で弾ける太陽の熱に目を細めるように、じりじりと後退を余儀なくされている。

「腑に落ちませんか、ランスロット」

 一切苛烈なる剣戟の手を緩めぬまま、黒騎士の内心を見透かした白騎士が問いかける。その表情に涼やかな笑みは既にない。剣を担う誰もと同じ、険しくも力強い眼を黒騎士へと叩きつける。

「かつて貴公に戦いを挑み、破れた私は私憤に駆られ、私怨に呑まれ、激情に任せて剣を振るった。けれど今は違う。
 この身が剣を振るうのは私自身の意思によるもの。この身に課した役を果たす為、貴公という壁を越える為に剣を振るう一人の騎士。あの時と同じと思われては困る……!」

 容赦のない一撃がランスロットの首を狙う。剣を盾に見立て、左腕を添えてその一閃を黒騎士は受け止める。ギチリ、と剣が嘶く。決して毀れることのない名剣と謳われたアロンダイトが軋みの声を上げる。

 兄弟を殺された怒りと、王を裏切った失望により心を憎悪で埋め尽くし、怒りに任せて剣を振るっていたかつてのガウェイン。その敗北は必定であり、心乱れた状態で斬り伏せられるほど最強の名は安くはない。

 けれど今は違う。裏切りに走った盟友に対する想いは完全に払拭は出来ていなくとも、今の白騎士の心に曇りはない。
 彼が剣に乗せる意思は騎士として王の為を想う心一つ。悲しいまでの願いを宿し、そんな願いを宿させてしまった己が不明を恥じ入るからこそ、旧友を斬り伏せてでも王の下へと辿り着くという信念をより強固なものとしている。

 意思なき剣が意思宿す剣に破れるのならば、共に意思を宿すのなら、より強い願いの方が勝つ。

「ランスロット。貴公は王の為、王の剣となると誓ったようですが、今はその剣に迷いが見える……!」

「…………っ!」

 夜を焦がす灼熱の大斬撃。巻き起こる熱波は周囲に踊る炎と遜色なく、がぎん、と一際大きな音を立てて打ち付けられた太陽の剣に、受けた漆黒の騎士の具足は深く地面へとめり込んだ。

「今一度問いましょう、我が盟友よ。貴公は本当に、王の願いが正しいと思っているのですか。王の祈りが、王という存在そのものを消し去ってまで与えられる救済が、本当に正しいのだと信じているのですか……!」

 叩きつけられる剣の重みに言葉の重みが上乗せされ、より強力に、より熾烈なる一撃となって黒騎士へと襲い掛かる。

 王の祈りを肯定し、王の願いが正しいのだと心の底から信じているのなら、剣に迷いなど生まれはしない。この完璧と湛えられた騎士が迷いを抱かぬのなら、如何に太陽の加護を得たガウェインであってもその牙城は崩せない。
 手にする剣に乗せる意思が共に譲れぬ想いであったのなら、地力で勝る黒騎士の勝利は揺るがない筈だった。

 それが今、一撃交える度に揺らいでいる。かつてない威力を込められた太陽の斬撃。騎士としての在り方──その答えの一つに辿り着いた白騎士の剣が尋常ではない力強さを誇るのも当然だ。

 騎士という型に自分自身を押し込めていた男が、今は逆に自分自身に騎士の想いを重ねている。

 騎士とは“こうあらねばならない”という考えではなく、“こうありたい”と彼自身が願ったから。王の為に、王の行く道に付き従うだけだった男が、王の行く末を案じられる心を手にしたのだから。

「ランスロット……! 卿の心は何処にある! 何を見て、何を想い、何を願い、王の祈りに膝を折ったのです!」

 狂乱に囚われながら、それでも王の為の剣となったバーサーカーの誓いは常軌を逸するほどの異常だ。何より、王を討つ為だけに畜生に堕ちることを容認したのだ、生半可な心変わりである筈もない。

 しかしそこには迷いがある。逡巡がある。理性と本能の鬩ぎ合いなどとは違う、全く別の葛藤が恐らく、この黒騎士の心の中にある筈なのだ。

「語る言葉がなくとも、御身にはその手に握る剣がある筈だ。王の為に振るう剣──そこに迷いがあるのならば」

 その隙を突かせて貰う。ガウェインは今一度王の下へと馳せ参じなければならない。泥を啜り土を食らい、這ってでも前へ。

 己の誇りを後生大事に守り、王の下へと辿り着けない無様は許されない。たとえ相手がこの黒騎士だろうと、最強を謳った誉れある理想の騎士だろうと──

 ──その壁を越え、その先へと……!

「はぁああああああ……!!」

 乾坤一擲の突きが闇に閃く。間断のない連撃で黒騎士の剣の動きを縫い止め、ようやく見出した隙を穿つ刹那の好機。

 とはいえ相手はこちらの手の内を知り尽くしている同輩。剣に迷いを抱いていも、剣閃に曇りはなく、類稀なる武錬もまた健在。
 故にガウェインにとってもこれは賭け。我が太陽の剣が漆黒の鎧を穿つのが先か、こちらの動きを読み切ったランスロットがなお先んじる一閃を見舞うか。

 瞬きさえも遠い一瞬。
 刹那に偽装された永遠の中で。

 互いの剣は、互いの胸へと向けられ──

「──────え?」

 驚愕の声と共に、手には肉を断つ感触。
 白騎士の手にするガラティーンは、漆黒の鎧を突き破り、黒騎士の心臓を破壊した。

「何故……」

 柄元まで深く突き刺さった青の聖剣。ランスロットの背から白銀の刀身が伸び、刃は血の赤に濡れている。
 相手の懐深くまで潜り込んだガウェインは、その視線を僅かに上げた。

 剣が胸を貫いた衝撃で黒騎士の兜が落ちる。からん、と音を立てたフルフェイスヘルムよりも、吸い寄せられるようにかつての盟友の顔を見上げる。

 青白く染まった面貌。
 口元より滴る赤い色。

 何より──その優しげな瞳に目を奪われた。

「ランスロット……貴方は……」

 激突の瞬間、白騎士の剣が黒騎士を捉えるよりも早く、アロンダイトは白の鎧を捉えていた。一瞬の攻防では理性よりも本能がものを言う。狂戦士として存在する黒騎士は、自らの死に対する反射めいた俊敏さで白騎士の先を行った。

 けれど結果は、ガウェインの身体に傷はない。ガウェインを討つ筈だった黒刃はランスロット自身の意思によって堰き止められ、彼は灼熱の剣にその胸を貫かれた。

「これで良いのです、ガウェイン卿。私の迷いを見透かした、貴公の勝利だ」

「ランスロット……!!」

 崩れ落ちる黒騎士をガウェインは膝を折り抱える。腕に抱いた男は軽く、生気は刻一刻と抜け落ちていく。サーヴァント現界の核たる心臓を破壊されては数分の猶予もない。けれど逆に言えば数分は猶予がある。

「ランスロット……貴方は一体、何を考え、このような……」

 狂気の檻に囚われていた黒騎士も、その死の間際に鎖より解き放たれた。一刻もない猶予であれど、確かに言葉を交わす機会を得たのだ。

「卿が問い質した通り、私は迷いを抱えながら王に膝を折ったのです。己が私欲で王に剣を向けたばかりか、今度は偽りの忠誠で王を欺いた。ああ、私はまた、許されぬ罪を犯したのです、裁きを受けて当然だ」

 自らの罪を懺悔するランスロットであったが、それでも彼の表情は言葉とは裏腹に穏やかだった。

 何故そんな穏やかな顔が出来る。自らの犯した過ちを嘆くのなら、こんな顔が出来る筈もない。そもそも、ランスロットは自らガウェインに向けてその胸を差し出し貫かれたも同然なのだ、腑に落ちない点が多すぎる。

 ガウェインの剣によって倒されることが彼にとっての裁きなのか。いいや、そんな筈はない。そんな上辺だけの想いで、あのアインツベルンの森でガラティーンの灼熱を切り払えた筈がない。

 少なくともあの森で王の隣に立っていたこの男の忠誠は本物であり、嘘や偽りがあったとは思えない。ならば一体、何が彼を死へと駆り立てたのか……?

「……貴方はまさか、最初から私に倒されるつもりだったのですか」

 そう考えれば、全ての辻褄が合う。狂乱の御座に囚われたままでは叶わない、王への深い想い。狂気に堕してなお膝を折った真意。そんな想いを伝えられる、かつての盟友に後を託す為に。

「……恥ずかしい話ですが。王への憎悪を糧に全てを投げ捨てた私には、王へと言葉を掛けることすらも叶わない。王の悲痛な祈りを……お諌めすることすらも」

 王の祈りを聞き、王に剣を向けられなくなった黒騎士は、王の為に剣を振るうしかなかった。その身に許されていたのは誰かに剣を差し向けることただそれだけ。理性は失われ言葉は封じられ、それでも心だけは確かに在った。

 王を諫める事も出来ず、剣を向ける事も出来ないのであれば、後は王の為に剣を振るうしかない。
 たとえそれが偽りのものであったとしても、王の為を願った彼の心は本物であり、そして──後を託すに足る者が此処にいる。ならば、如何にして抗う必要があるのだろうか。

「卿の兄弟を……私欲の為に斬り捨てた私の願いを、聞き届けて欲しいとは言いません。ですがどうか、王を──王の為に……」

 光となって消えていく黒騎士に残る願いはそれ唯一つ。我ら円卓が王に抱かせた余りにも尊く悲痛な祈り。それを間違っていると、貴女はその最期まで正しかったのだと、誰かが言ってやらねばならない。

 その役目は裏切りの騎士と蔑まれた己ではない。王に背を向け、国を裏切り、朋友に剣を向けた自分ではなく。その最期まで王の為に剣を振るい続けた、この盟友こそが伝えるべき言葉だと思うから。

 だからこそ晴れやかな心のままで去ることが出来る。この男ほど、後を任せられる男も他にいない。彼の背負う太陽の輝きはきっと、王の背負う闇をさえ払拭してくれると信じているから。

「────ランスロット」

 消えかけの掌をガウェインが掴む。しっかりと、その熱を感じ取るように。

「貴方の願い、確かに聞き届けました。貴方の想いを言葉に込め、私が必ず王の心を晴らして見せます。だからどうか、安らかに──」

「ああ……」

 許されざる罪を犯した己を、白騎士の兄弟を私情にて切り捨てた私を、それでも卿は受け止めてくれるのか。
 八つ裂きにされても文句は言えぬ筈なのに、私の死に場所を、この男の腕の中にしてくれるのか。

 古き盟友。
 轡を並べた同輩。
 王の両腕と称えられた太陽と湖。

 生前の蟠りも、消し切れない多くの想いも、今はその全てを擲って。

 去り行く朋友を、
 後を託す盟友を、

 共に────

「ああ────おまえ達の想いは、確かにオレが受け取った」

「…………ごっ」

「────」

 白騎士の胸より映える白銀の刀身。肉を裂き零れた血が刃先を伝い、黒騎士の顔へと降りかかる。

 薄れ行く意識の中。
 ランスロットが最後に見たものは、ガウェインを背から貫く、王と同じ顔をした少女──モードレッドの姿だった。


+++


 消えたランスロットを抱えていたガウェインが、動きの鈍い首を振って背後を見る。暗き空をその背に、冷徹な色をした瞳を湛えた一人の少女の姿を見る。

「モー……ド、レッド卿……なぜ……」

「ふん? 末席とはいえオレも円卓の一員だったんだぜ? 王城の門を潜るのに理由なぞ必要ないだろう?」

 絶対不可侵の決闘領域、“聖剣集う絢爛の城”の炎を越え現われたモードレッド。その右胸には痛々しいまでの傷痕を残しているが、核を破壊されたガウェインに比べれば程度の落ちるダメージに過ぎない。

 柄を掴んだままのモードレッドは、より深く剣を突き刺した。

「がっ……あぁ……!」

「太陽の加護を得ているアンタはそう簡単に死にそうにないんでな。念には念を入れさせて貰った」

 そんな事をしなくとも、モードレッドはガウェインを生前に討ったという逸話がある。伝説は長所にもなれば短所にもなり得る。今回の場合、モードレッドはガウェインに対し優位性を持っている。

 手負いであったとはいえ太陽を撃ち落とした者として、モードレッドの一撃は致命傷に至る威力となって白騎士を襲う。

「安心するといい。アンタの願いも、湖の騎士の願いも、オレが纏めて叶えてやる。あの王の願いを圧し折り、オレは──」

 ──“今度こそ”

 ずるりと引き抜かれるクラレント。崩れ落ちるガウェインを尻目に、モードレッドは剣の血を払った。

 そうして少女は戦場を去る。
 失意の内に消えていく白騎士に目を向けることなく。

 彼女の目にはもう、唯一人の姿しか映っていなかった。


/43


 薄暗い冬実市民会館へとモードレッドは入っていく。大理石の床を打つ鋼の具足の音が木霊する。
 入り口から真っ直ぐ正面にあるコンサートホールへと続く扉を押し開ける。直後、耳に響いたのは拍手の音だった。

 コンサートホールということもあり、良く音の通る空間を貫く階段を下り、少女は舞台正面へと辿り着く。そこに待ち受けていたのは乾いた音を響かせていた下手人、言峰綺礼だった。

「ようこそ。君が一番乗りだ、モードレッド卿」

「…………」

 モードレッドは視線を横に滑らせる。舞台脇に据え付けられた小階段。そのすぐ傍に横たわっている男の姿を見咎める。

「……そいつが一番乗りじゃないのか? 死んでちゃ世話はないが」

「私が此処を訪れた時に、間桐雁夜は既に事切れていた。どのような理由で自刃したのかまでは定かではないが、君が言う通り生きていなければ意味がない。故にこそ、君を一番乗りだと言ったのだよ」

 大仰そうにそう言った神父をモードレッドは不審の目で見つめる。この男と接触したのは霊体化した状態でただの一度きりだが、それでも得体の知れないものを感じた。警戒しておいて損という事はないだろう。

「で、アンタは何故此処にいる?」

「決まっている。この場所が今回の聖杯降臨の地であり、先頃脱落した二騎を含め六騎のサーヴァントの消滅を確認した。聖杯戦争の監督役の務めとして、戦いの終わりを見届けに来たに過ぎない」

「…………」

 それにしては余りにタイミングが良すぎる。ガウェインとランスロットが消えたのはほんの十分ほど前の話だ。事前にこの場所に待機でもしていなければモードレッドを先回りなど出来るのだろうか。

「アンタがどんな思惑を抱えていようと知ったことではないが、まだ戦いは終わっていないだろう?」

 この戦いに招かれたサーヴァントは全部で八騎。イレギュラーのモードレッドが存在しなければ残る一騎が勝者なのだろうが、まだ二騎が残っているのなら戦いの終わりは今少し先の話だ。

「無論、把握している。残っているのはセイバーだ」

「…………」

 モードレッドの危惧を見透かしたかのように綺礼はそう告げる。他にかまけていた間に本命が脱落していましたでは世話がない。だがこれで、モードレッドの求めた舞台は整ったことになる。

 それはまるで運命のように。
 誂えたように、彼女とセイバーだけが残った。

「時にモードレッド」

「……なんだ」

「ふっ、そう警戒するものではない。私はあくまで中立を謳う教会の監督役だ。君に味方することこそあれ、敵対する事などない」

「どうだかね。中立を謳うのなら黙って結末を見届けたらどうなんだ」

「いや、これも監督役の務めでね。モードレッド、既に聖杯は六つの英霊の魂をその器に満たしている。これが何を意味しているか分かるかね?」

「…………」

 聖杯にくべるべき魂の数は七つ。本来ならば全サーヴァントが脱落しなければ完成を見ない聖杯だが、今回に限っては一枠分の猶予がある。
 そして六つもの魂を飲み込んだ聖杯は、既に起動待機状態にあり、不完全ながらもその使用に耐えると思われる。

「……何が言いたい」

「完全な聖杯の起動……魔術師のように世界の外側を目指すのなら後一つ魂が必要だが、世界の内側に限るのであれば、既に願いを叶えられる状態だ。
 故に私は君に問おう。サーヴァントである君に外側を望む理由などあるまい? であるのなら、その願いを叶えてはどうか、とな」

「…………」

 舞台の中央、望んだ場所には中空に祀り上げられた銀髪の少女の姿。あれが今回の聖杯の器なのだろう。何故あんな形をしているのかなどモードレッドは興味もないが、言峰綺礼の言葉には一理ある。

 願いは目前。手を伸ばせば届く距離。心に秘めた祈り、渇望した願いがあるのなら、叶えてしまえと神父は言う。それがこのイレギュラーに塗れた聖杯戦争を勝ち抜いた者の権利であり、最も早く聖杯に辿り着いた者の権利だと。

 けれど少女は、鼻で笑って答えに代えた。

「生憎と、オレはもう聖杯にかける願いなんぞ持ってないんでね。アンタのご期待には添えそうにないな」

「……ほう?」

 その言葉は矛盾している。モードレッドはアインツベルンの森で王と同輩の騎士達に向け高らかに宣言した筈だ──『選定の剣へと挑戦させて欲しい』と。

 その願いは聖杯を使えば叶えることが出来る。万能の願望器という触れ込みに虚偽がなければ、モードレッドの願いは叶えられる。

 けれど彼女はそもそもとして聖杯に祈ることを拒絶した。願いなどない、と。その真意は彼女自身にしか分かりえない。

「此処まで勝ち上がっておきながら、聖杯に用はないと? 君が斬り捨ててきた者達の願いを踏み躙っておきながら、万能の奇跡など必要ないと、そう言うのかね」

「そうだ。オレは聖杯なんかいらない。もう、必要ない」

「……そうか。要らぬと言う者にこれ以上の強要をするつもりはない」

 たとえ明確な願いなどなくとも、目の前に全てを叶える奇跡がありながら、それを必要ないと断じられる者もまた奇特を通り越し異常の部類だ。大仰な願いでなくとも、ささやかな願いでもいい。何も願いがない、というのは有り得ない。

 少女の心の内など知る術はないが、言峰綺礼には願いを押し付ける趣味もない。が、

「いずれセイバーとそのマスターがこの場所を訪れるだろう。モードレッド、君が望むのはセイバーとの一騎打ちと見るが、どうかな?」

「ああ。オレに願いがあるとすれば、それだけだ」

「ふん? なんだ、願いがない、というわけでもないのなら、そう聖杯に願えばいい。セイバーのマスターは悪名高き男だ、マスター不在のサーヴァントが相手と知れば、何を仕掛けて来るか分かったものではないぞ?」

「…………」

 モードレッドも直接自分の目でセイバーのマスターである衛宮切嗣のやり口を見たわけではないが、オフィス街の戦いでビルを何棟も倒壊させた下手人だと聞き及んでいる。バゼットからも、軽く経歴程度は聞かされている。

 高い対魔力を有するモードレッドを相手にただの魔術師風情の攻撃が通用するとも思えないが、マスター殺しという最善の手段が通じない相手と知れば綺礼の言う通りどんな罠を仕掛けて来るか想像すらも出来ない。

 相手も聖杯を目の前に手段を選ばず仕掛けて来るだろう。セイバーとの一騎打ちを望むモードレッドにとって、懸念となるのは間違いない。

「そこで提案だが。衛宮切嗣の相手は私が引き受けよう」

「…………何?」

「君に聖杯を使う意思がないのであれば、私がそれを代わりに行おう。言ってしまえばただのマスター代行。ああ、マスター不在の君と健在のアインツベルンとでは、両者の天秤には著しい開きがある。その差を埋めようというだけの話だ」

「ハッ──中立が聞いて呆れる空言だな。何を考えている?」

「関与しないことを中立とは言わない。これでただマスターが脱落しただけならば話は別だが、最初からマスターのいない君だ、聖杯にも願いがないというのなら、その代行を行う程度のことが悪である筈もあるまい?」

「饒舌に綺麗事ばかり並べ立てるのを聞いてると反吐が出るな。本当の目的を言え、言峰綺礼。アンタの狙いは最初から衛宮切嗣──なんだろう?」

「────」

 言葉ではなく。言峰綺礼は笑みによって答えを返した。酷く歪で、禍々しさに満ちた、邪悪な笑みで。

「……ようやく本性を見せやがったか、エセ神父」

 モードレッドが初見で感じた不審の正体。この男は人間の皮を被った別のナニカだ。多くのもの踏み躙り、悪と蔑まれるモードレッドとも違う別の生物。薄気味の悪い、理解のしようもない怪物。

「……だが、オレにアンタの提案を断る理由はないな」

 今更審判の役目も何もない。残る一組を倒す。モードレッドにとっても、セイバー達にとってもそれが絶対にして明確なたった一つのルールだ。

 セイバーとの一騎打ちを求めるモードレッドにとって、言峰綺礼が何を目的に衛宮切嗣を引き受けようが関係がないし興味もない。自らの望む舞台に上がれるのなら、誰の手だって利用しよう。

 ────その先に、求め欲したものがあるのなら。

「では、交渉成立だな。肩を並べて戦うこともないだろうが、よろしく頼むとしよう」

「そっちこそな。早々に倒されて横槍が入るような真似だけは止めてくれ」

「……ふむ、その危惧は確かにある。戦闘に関しては多少の心得はあるが、相手はあの魔術師殺し。予期せぬ手段で煙に巻かれる可能性も有り得る」

 言峰綺礼がモードレッドと手を結ぶなどとは流石の切嗣も考えまいが、可能性の芽は潰しておきたい。綺礼にとってもこの戦いは願い求めたもの。自らの生に意味を見出す為の戦いだ、出来る限りの万全は尽くすしておくべきだ。

「ならばやはり、聖杯の助力を請うとしようか」

「……何に使うつもりだ?」

「簡単なことだ、聖杯に衛宮切嗣とセイバーの分断を願う。欲を言えば二人の目を欺く為の目晦まし付きで、というところか」

「……万能の釜に願うにしちゃ、えらく安っぽい願いだな」

「君に聖杯を使う意思がないのなら、マスター代行の私が使用しても文句はあるまい? どの道この程度の願いは膨大な魔力の上澄みを使う程度のものだろう。戦いの後に願いが生まれたのなら、改めて願いを叶えるがいい」

「そんな事態になるとは思えないが。まあ、そうなったらその時にまた考えるさ」

 その言葉を了承と受け取った綺礼は階段を上り、磔刑に処された神の子のように中空に浮かぶ少女へと手を伸ばす。

 万能の杯に願うにしては余りに小さな願い。二人の目的を果たす為の過程に過ぎないのだから、それも当然。ただ、今の彼らにはこの後に巻き起こる惨劇を予期するだけの材料も理由もなく。

 そして。
 大いなる黄金の輝きと共に。

 ────地獄の釜の蓋が、重く開かれた。













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