Act.11









/1


「……ライダーは斃れたか」

 冬木市民会館大ホール。その舞台上で言峰綺礼は呟いた。

 偵察に徹するよう命じたアサシンの目を借り、橋上での戦いの終わりを見届けた。アーチャーは約定どおり、ライダーをその手で始末してくれた。
 これで綺礼と切嗣との邂逅を阻む敵はいなくなった。そう、敵は全て消えた。

「綺礼様」

 未だ建造途中の為か、薄い明かりしか灯らないコンサートホールの舞台袖より浮かび上がる黒衣と白面。その手には、厳重に封を施された木箱が携えられていた。

「それが、聖杯か」

「恐らくは」

「……ふむ」

 頷き、足元に差し出された木箱を閉ざす封を、抜き放った黒鍵で斬り裂く。そこに迷いはなく、中身を慮る気配など微塵もなかった。
 そして切り裂かれた蓋が割れ、箱の中に収められていたものは、

「謀られたな、アサシン」

「…………」

 中身は黄金の杯などではなかった。

 真鍮か、それに良く似た素材で作られた模造の杯。これはこれで魔術的加護を帯びているし、恐らくはアインツベルンの者達が製作したものに間違いはないのだろうが、今回の聖杯戦争における聖杯降臨に足る器ではない。

 ライダーを含め既に四騎をその器に満たしているとすれば、もっと荘厳な輝きで彩られている筈なのだから。
 この杯は金属の光沢と、凝られた意匠でしか装飾されていない贋物だ。美術的価値はあっても霊的価値は本物と比べれば雲泥の差ほどあるだろう。

「まあ、こうなるだろうとは予想していたよ。そして予想通り過ぎて、余りに退屈だ」

 言峰綺礼を警戒している衛宮切嗣が、儀式成就に不可欠な聖杯の器をそう易々と敵の手に渡すわけがない。
 あの男には聖杯に託す祈りがある。是が非でも叶えなければならない願いがある。それを成し遂げる為に必要なものを手放す理由がない。

 わざわざ贋物を事前に用意しているあたり、周到であり抜け目ないが、それだけだ。言峰綺礼を謀るには、少々手緩いと言わざるを得ない。

「ではアサシン。今一度衛宮切嗣を襲撃し、本物の杯を奪って来て欲しい」

 そう、何度でも聖杯を奪い取ろう。聖杯がこの手にあれば、切嗣は何をしようとこの綺礼の前に現れなければならない。
 綺礼を敵視しており、聖杯のみを目指す切嗣に絶対に直接的な対峙を行わせるには、どうしても聖杯が必要なのだ。

 聖杯が切嗣の手にあり続けては綺礼との対峙を避ける可能性がある。綺礼は切嗣に用があっても、切嗣から見れば綺礼は聖杯への道を邪魔する最悪の敵でしかない。

 あの男はあくまでも魔術師殺し。相手の土俵で戦う事を良しとはしない男だ。これまでの戦い全てで先手を奪ってきた事がその証左。
 それを理解した上でこちらの舞台に引き摺り上げるには、上がらざるを得ない条件を揃えなければならない。

 その為の聖杯。綺礼自身が聖杯に託す祈りなどなくとも、その器自体が切嗣を誘き寄せる餌になる。
 願望機に用はない。されどその器自体には価値がある。

「────は。しかし……」

「何を迷う。私は言った筈だ、おまえ達は聖杯を手に入れると。手に入れなければならないのだと。
 仮に衛宮とセイバーが連れ立っていようとも関係がない。死を賭して、聖杯の器を此処に持ち帰るのだ──令呪を以って命じる」

「なっ……!?」

 綺礼の右腕に移植された監督役の所有していた余剰令呪。それに絡みつかれ、飲み込まれるように描かれてなお健在であったアサシンを律する三画の令呪の一画を消費し、綺礼は聖杯の奪取を命じた。

 別のアサシンの視界を借りて今の切嗣とセイバーの状況を綺礼は把握している。この冬木市民会館を目指し暗闇に没する街を並走し駆け抜けている。
 切嗣の手に携えられている木箱こそが恐らく本物の杯を内包した代物。それを奪取するには切嗣だけでなくセイバーをも出し抜かなければならない。

 アサシンでは荷が重い。しかし今代のアサシンは魂の分割による複数での顕現を可能とする。単独では斬り捨てられて終わりでも、それこそ百近い数で襲い掛かれば一人くらいはその網を抜け聖杯を持ち帰れるだろう。

 更に言えば、これはアーチャーが帰還するまでの切嗣とセイバーの足止めの意味合いもある。
 綺礼が真に聖杯獲得を狙うのなら、アサシンの異常性は何処までも有用だ。使い捨てたと見せかけての不意打ちや、死を偽装しての騙し討ち。貪欲に勝利だけを望むのならば、如何なセイバーとて欺きマスターを殺す事は可能だろう。

 しかし彼は、綺礼はあくまで切嗣との対峙だけを望む者。

 故に必要なのは切嗣が綺礼の前に現れざるを得ない状況を作り上げる為の聖杯の器。
 そして最優のセイバーの足を止め、マスター同士の戦いに邪魔を入れさせない為の戦力──即ちアーチャーだけで事足りる。

「…………くっ! 綺礼様……貴方は……!」

 今、綺礼の前に傅くアサシンも気付いてしまった。己は捨て駒なのだと。自分達は主の望む状況を作り上げる為だけに、この時まで生かされた道化なのだと。
 聖杯の器を持ち帰れば、綺礼は容赦なく二画目の令呪を使うだろう。命令の内容は当然にして決まっている。

 綺礼の目的が切嗣の抹殺ではない以上、暗殺者の英霊は必要ない。
 彼らに求められているものは、その生涯を掛けて研鑽した殺しのスキルではなく、盗人の如き所業だ。

 既に令呪は使用された。
 全てのアサシンの総身を縛る、呪いの楔は打ち込まれてしまったのだ。

「何をしている。早く行け」

「……分かりました」

 ならば行こう。
 主の命を遂行しよう──その上で、主の意を外してみせる。

 綺礼が告げたのはあくまで聖杯の奪取。敵の生死までを制定されてはいない。ならば聖杯の器を奪い取り、その上で敵マスターの首を獲る。
 それはせめてもの意趣返しであり、主への叛意。マスターの願いを阻害し、我ら百の貌のハサンを貶めた報いを受けよと、闇を跳梁する化外は掻き消えた。

「ようやくその素顔を晒したかハサン・サッバーハよ。おまえ達の怒気もまた心地良くはあるが、我が目的の終端はすぐそこまで迫っている。その時齎される解と比べれば、その程度の甘さでは足りないな」

 故に。

「足掻き、そして消えるが良いアサシンよ。我が手足として尽くしたおまえ達に報いるものは、その身を浸す絶望だけだ」

 聖職者が嗤う。全ては予定調和。
 時を刻む歯車は、狂う事無くゼロを目指し、逆しまに廻り続けている……


/2


 橋上での戦いの後、先行する切嗣に追いついたセイバーは、共に闇を駆ける。

 目的地は冬木市民会館。今回の聖杯降臨の霊地。その事実を知らなくとも、立ち昇る魔力は既に肉眼で捉えられるほどで、それを見れば否が応にも理解出来る。
 降霊の地に聖杯がなくとも、霊地という名の泉に満たされた魔力は解き放たれる時を待ち望んでいる。

 隣を駆ける切嗣の手には木製の箱。聖杯の器を収めたもの。黄金の杯を儀式の場に設置すれば、あとは器を満たすだけで全ては叶う。

 残る敵は二騎。遥か後方──冬木大橋を揺るがす魔力の余波をその身で受けながら、散って行った好敵手の姿をすら脳裏より消し去って、唯一つの祈りの為に少女騎士は静かに心を沈めていった。

 そして辿り着く冬木市民会館。

 その前庭とも言うべき場所で彼女達を向かえたのは、

「ッマスター……!」

 逆巻く風を剣となし、暗闇の彼方より放たれた黒塗りの短刀を蹴散らす。
 切嗣も同時に足を止め、セイバーは周囲より放たれる、隠す事無く撒き散らされる殺意の数に一筋の汗を流した。

 ……これほどの数とは。

 闇に浮かぶ髑髏。
 月影の中に揺らめく黒衣。

 その数は常軌を逸していた。多くとも二十か三十だと予想していたセイバーを裏切り、辺りに浮かんだ白面の数は五十を超える。

 何よりも警戒すべきはこれで全てではないだろうという事。未だ殺意と敵意を殺し、身を潜めている輩がいるだろうという事だ。

 セイバーも切嗣もその総数を知らない。上限が分からない。だから全ての数を倒したと思っても、たった一人でも生き残っていては隙を衝かれる。
 アサシンの生き残りに対する警戒を緩めぬまま、この後に待つアーチャーと戦わなければならない。

 その困難を思い、されどすぐに頭を振った。

 ……我が身の祈りを叶える為ならば、如何なる困難も踏み抜くと誓った筈だ。後少しで手が届くのだ、手を伸ばせば、すぐそこに願ったものが待っているのだ。
 臆するな。己は剣、主の敵を討つ剣だ。ならば目の前の敵を斬り裂き、道を切り拓くだけだろう。

 先の事を考えていても意味がない。まずはこの場を切り抜けなければ。

 完全に包囲された二人はその背を合わせる。

「……マスター。この数を相手に貴方を守り抜く事は難しいかもしれない。その上で無理を承知で頼む。この時限りでいい、私に全てを預けて欲しい」

 これまでずっと単独で戦い続けてきた二人。それぞれ異なる戦場で、己の敵を倒し続けてきた。
 だが相手はサーヴァント。三騎士クラスとは比べるまでもなく格を落とすアサシンとはいえ生身の人間が敵う相手ではない。

 セイバー単独なら決して負けるような相手ではない。しかし切嗣というアキレス腱を抱えたままでの完全勝利は難しいと言わざるを得ない。
 それでも守り通すと。我が身を剣に盾に変え、主を無事聖杯の下に送り届けると──その為に、この場の全てをセイバーに託して欲しいと、最優の剣士は進言した。

「…………」

 己が従者の言葉を確実に聞き届けながら、それでも切嗣は応えなかった。セイバーに告げるべき事は既にあの屋敷で告げている。死力を尽くして戦えと。それはつまり、勝ち残る為の最善を行えという事だ。

 この場における最善はセイバーに全てを預ける事ではない。

「衛宮切嗣……よくも我々を謀ってくれたな」

 白面の一人が謳う。それは先程切嗣の手から贋物を奪っていったアサシンだった。

「僕はアレを聖杯だと言った覚えはないが。勝手に勘違いをしたのはおまえだろう」

 包囲され、敵意を向けられても切嗣は動じない。懐から煙草を取り出し、まるで心休まる一時のように優雅に火をつけ紫煙を吐き出した。

「今度こそ、本物の器を頂く」

「これが本物だという保証はないぞ?」

「なれば幾度でも奪うまで。そしておまえの首もまた──我らハサンが頂戴する……!」

 四方からの同時投擲。全くの同時に放たれた刃は、セイバーをして全てを捌き切れる数ではない。

「切嗣……ッ!」

 それでも三方からの刃の全てを風の暴虐と魔力の暴威、そして剣の閃きで落とし切ったセイバーの力量は凄まじい。それでも残る刃は切嗣に吸い込まれるように向かっていく。それを叩き落すには、セイバーでは手が足りない。

固有時制御(Time alter)────」

 その詠唱は敵の投擲より早く紡がれ。

「────三倍速(triple accel)

 セイバーが都合二十の刃を弾き終えるその前に、既に完了していた。

 加速する時間。緩やかになる刻。英霊の手によって放たれた神速の刃も、三分の一の速度ならば人間であっても回避は可能だ。襲い来る八の刃の悉くを回避し、同時に加速した時の中を駆け抜ける。

 懐より取り出した魔銃に装填されている弾丸は、錬金術の大家たるアインツベルンに鋳造させた特製の銀の弾丸。霊体にダメージを与える為に調整を施された、切嗣が隠し持っていたもう一つの切り札。

 対サーヴァントを想定して、科学の産物たる弾丸に魔術を上乗せする事を渋る翁を説得し作らせたもの。
 その効果は折り紙付きであり、実戦でも既に効果を実証済みである。

 あくまで魔術の延長線であるから、対魔力を有する三騎士クラスには効果を望めないだろう。
 しかし対魔力を持たないアサシンであり、そして分裂により能力を低下させている状態ならば、その一撃は、まさに致命を与える死の魔弾となる。

 アサシンへと肉薄する切嗣。そこに死への恐れはない。彼はこの戦いにおいてのみ、その恐怖から解き放たれている。故に無謀と言える吶喊も可能であり、繰り出される刃は恐るるに足らず。

「はっ……!」

 振り下ろされた短刀を薄皮一枚を犠牲に回避し、決死の距離から魔銃を放つ。

「グァ────!」

 避けえぬ距離からの致命の一撃を受け、アサシンの一体は消え去った。

 人間にサーヴァントが倒される異常。先の一戦を見ていないアサシン達に走る動揺。それを衝くが如く、疾風の速度でセイバーが奔り、刹那の硬直にあったアサシンを二体同時に斬り捨てた。

 その場を離脱し、今一度背を合わせる二人。

「……なるほど。これは確かに驚きだ。私でさえこれなのだから、奴らにとってはまさに驚愕だろう」

 事実としてアサシンは、自らの同胞が人間に討たれた事に動揺を隠し切れなかった。追撃を掛けることさえ忘れ、セイバーの速攻をも許した。

 しかしそれもこれまで。

 一度そう認識した以上は油断はない。アレはサーヴァントを殺せる人間であると彼らは確かに理解した。ならばもう遅れを取ることはない。

 如何に常人離れしていようとも切嗣は人間だ。その身に宿る異常性を完全に理解していないセイバーは、切嗣への敵の攻撃を最大限抑える為に敵の過半数以上を受け持つ覚悟を決めた。

「マスター、私の背中を預けます。そして貴方の背中は任されよう」

 思えばこの男は常に自らを危険に晒してきた。事此処に至り、聖杯を目前にしてなおその意思に揺るぎはない。
 これまで通り二人はそれぞれのやり方で最善を貫く。互いに背を預けあう事がこの場の最善であるのなら、そうする事に否はない。

 切嗣の背を守り、襲い来る無尽の敵手を押し留めて打倒する。その困難、されど背中を気にせず戦えるのならば臆すものなど何もない。

「さあ来るがいい暗殺者。その悉くを斬り捨て、道を開けて貰うぞ……!」

 応える声はない無言の共闘。
 それでも確かに二人はこの時、互いの存在を認めていた。


+++


「これは……」

 アサシンの視野を借り、市民会館前で行われている闘争を綺礼は覗き見る。

 切嗣の異常性は海浜公園での一戦で理解をしていた。しかし今のあの男はそれ以上だ。セイバーが援護に回っているとはいえ、無数に放たれる投擲をやり過ごし、銃弾の避けられぬ距離から心臓を穿つ。

 やっている事はその繰り返し。繰り返しを行える事が、驚愕に値した。あれほどの加速を長時間維持し切るのは難しい。それをあの男は戦闘開始から既に五分、ずっと加速し続けている。

 肉体へのダメージは如何ほどか。襲い掛かる反動はどれほどのものか。神経を引き抜かれるような痛みを噛み殺し、あの男は英霊と拮抗している。
 綺礼をして限界があると見定めていた切嗣の上限への認識を、こんなものを見せられては改めなければならない。

「思いの他、あの雑種共も持ったようだな」

「アーチャー」

 薄明かりに浮かぶ黄金。遥か未遠川は冬木大橋での戦闘を終え、黄金のアーチャーは此処に帰還した。

「それで、どうだ言峰。事の運びは」

「狂いはない。衛宮切嗣の性能は予想を上回るものではあったがそれだけだ。アサシンを犠牲にその全容を把握出来た事は僥倖と言える」

 それよりも、と前置いて、綺礼はアーチャーを見やる。

「その様はどうした。存在の規模が随分と薄れたように感じるが」

「なに、少しばかり興が乗ったのでな。使う必要のないものを使ってしまった。その代償というところだ」

 今なおこの黄金はマスター不在のサーヴァント。
 綺礼の用意した生贄から魔力を奪ってはいるものの、宝具の性能を出し切る戦闘を行えるほどの供給量、回復量ではない。

 その為にアーチャーはセイバーとライダーが争い疲弊したその直後を狙ったのだ。そして手負いのライダーを討つだけならばこんなにも消耗する筈がなかった。消耗の原因はまさに彼自身の言葉通りだ。

「綺礼様……」

 二人を他所に今一度闇に踊る白面。その手に携えられたのは、先程のものと同型の木箱だった。

 切嗣は善戦しているし、セイバーは破竹の勢いでアサシンを倒し続けている。しかし彼ら二人の奮闘を以ってしても無尽を誇るアサシン全ての動きを把握する事叶わず、聖杯の器の守護にまでは気を割き切れなかったらしい。

 奪われた事を知っているだろう。
 奪われる事を知っていただろう。

 贋物を用意していた切嗣であっても、流石にこんな規格外のアサシンの招来までをは読み切れていなかった。
 それが故に、こうして本物の杯──黄金の器は綺礼の手に落ちた。

 今度の開封は幾分慎重を期して行われ、蓋が完全に開き切るよりも前に、内側より漏れ出す光輝をその場にいた誰もが見咎めた。

「ほう、これが器か。存外良い意匠だ、まあ我の蔵に収める程のものではないが」

「収められても困るがな。良くやってくれたアサシン。これで当座の目的は果たされた」

「…………」

 礼を言われたところでアサシンは素直に喜べない。彼がこの場に器を運んで来たのは令呪の強制によるものだ。この器を持ってくればどうなるかを理解している。それでなお持参する以外に、彼らに選択肢は与えられなかったのだ。

 彼が期待するのは未だ会館前で奮闘する同胞達の勝利。彼らを欺いたマスターに対する報復が果たされる事のみ。その復讐が成されるまでの時間を少しでも稼ぐべく、心にもない事を口にする。

「綺礼様……どうかお考え直しを。貴方の手には聖杯がある。万物の願いを叶える奇跡がある。ならばどうか、我らと共にその最後まで──」

 いや、それは恐らくアサシンの本心だった。これまで仕えた綺礼と共に聖杯の頂を駆け上がる。そう出来たのならこれ以上のものはないという想いの発露。叶わぬ夢を言の葉に乗せて謳い上げる。

 しかし彼の吐露を阻むように、綺礼は言った。

「私に必要なのは聖杯の器のみだ……いや、そうだな。たった今、聖杯に掛ける願いは見つかった。しかしそれはおまえ達とは無縁のものだ。これまで良く尽くしてくれた。その褒美を与えよう」

 傅くアサシンを見下ろす綺礼の目に宿る色は無色。感情のない色。言葉とは裏腹に、道端に落ちている塵か、でなければ虫けらを見るような目で、利用価値のなくなった道具を見下ろす。

「……っ、ならば──!」

 もはや分かり合える余地はない。諫言は届かず、時間を稼ぐ事も叶わない。
 ならば己が手で令呪を使用される前にマスターの首を奪おうと疾駆したアサシンを迎え撃ったのは綺礼ではなく……

「邪魔だぞアサシン。おまえ達はもう用済みだと言う事が分からぬか」

「が……あぁ…………!!」

 闇を斬り裂く黄金の剣閃。文字通りにアサシンの胴を穿ち縫い付けた虚空より放たれた一条の光は無論、アーチャーの宝具によるものに他ならない。

 舞台の上に串刺し、あるいは磔となったアサシンを他所に、アーチャーは辛そうな面持ちと共に頭を振った。

「またしてもいらぬ力を使ってしまった。ああ、どうする言峰。これではじきにこの我も消えてしまいそうだ」

「それは困るな。私と衛宮との対峙の障害になるセイバーを抑えるサーヴァントがいなくなってしまう。
 しかし未だ私はアサシンのマスター。この未熟な身では二騎のサーヴァントを維持し切るなど不可能だ」

「ならば話は簡単だろう。利用価値のなくなった手駒を捨ててしまえばそれで済む話ではないか」

「ぐ……ぁ、おまえ……達は……!」

 なんという茶番。最初から仕組まれていた出来レース。言峰綺礼はセイバーを抑える為の戦力を求め、アーチャーは自らを維持する楔を求める。両者の利害は一致し、故に彼らは変わらず協力者。

 上下の関係などない、互いに利用しあう関係。それは奇しくも、衛宮切嗣とセイバーの在り方に似ていた。

 口元から血を零し、身動きの取れない状態でありながら、アサシンは見下ろす二対の瞳を睨む。彼らの貌に宿る失笑にも似た冷笑を見上げ、吐き出そうとした呪詛の言葉を遮るように──

「令呪を以って命じよう──アサシン、自らの刃でその命を絶つが良い」

「がぁ……!!」

 逆らえぬ命令を下され、アサシンの一人は自らの胸に己が手で刃を突き刺しながら、消え行く最中に無念を謳う。
 目の前にあった筈の祈りが遠のいて行く。掴みかけた願いが、するりと掌から零れ落ちていった。

 矮小の身で願った唯一つの想い。原初の己を、唯一人確固とした己を知りたいという彼らのささやかな……されど強固な祈りは、信じたマスターの裏切りに遭い、果たされる事なく潰えた。


+++


「汝の身は我が下に、我が命運は汝の剣に。聖杯の寄る辺に従い、この意、この理に従うのなら──」

「誓おう。汝の供物を我が血肉と成す、言峰綺礼、新たなるマスターよ」

 余剰令呪の転用による再契約。パスは問題なく繋がれ、綺礼の魔力は黄金の王へと流れていく。その身体から放たれる威圧に陰りはなくとも、事実として存在を希薄化させていたアーチャーの身体に力が戻る。

「……ふむ。時臣よりは幾らか格を落とすが問題はない。奴に手綱を握られ窮屈な思いをしていた事を思えば、この程度の能力低下など拘うほどのものでもないな」

 腕の感触、身体の状態を確認するようにアーチャーは身を捻る。満たされた魔力は全身に行き渡り、確かな熱を帯びていた。

「セイバーを相手にする上で支障は?」

「多少はあろうが、天秤が傾く程ではない。全力の奴を相手にしても、負ける事などないだろうよ」

 元よりアーチャーは自身の身体能力よりも宝具に重点を置いたサーヴァント。単独行動のスキルのお陰で魔力の温存は可能だし、宝具掃射、乖離剣の使用に耐え得るだけの魔力量があればそれで事足りる。

 言峰綺礼は魔術師としては見習い修了程度であれ、聖杯の助力がある状態でアーチャーのマスターを務めるには充分な性能を有していた。

 綺礼は木箱より取り出した聖杯の器を舞台上で掲げる。アサシンの魂を収容し、都合五つの英霊の魂で杯を満たした聖杯は、既にその起動を始めている。
 最後の勝者を待たずして、聖杯は此処に降臨する。自らの完成の時を待ち侘びながら、決着の時をただ高みにて俯瞰していた。

「これで全ての条件は果たされた。私は衛宮を、おまえはセイバーを」

「ああ。この終局の刻限、心行くまで互いの目的を果たすとしよう」

 頭上に輝く黄金の杯を見上げ、王は呟く。

「時に言峰、先程おまえは言ったな。聖杯に託す望みが生まれたと。それは一体なんだ。いや、なんであれ、既に実体を帯びた願望機ならば、現在の所有者であるおまえの願いを叶えてくれるやもしれぬぞ?」

「ああ、私もそれを期待している。そして私の願いは、おまえにとっても有益だと考えている」

「ほう……?」

 綺礼の心を見透かすように目を眇めたアーチャーは、数瞬の後含み笑いを漏らした。遍く願いを叶える願望機。
 己自身の変革など言うに及ばず、世界をすら改変させる力を持つ聖杯に掛ける、綺礼の矮小な祈りを見透かし、されどそれを良しとして黄金は嗤う。

「ああ、そうだ。おまえは元よりそういう男であったな。何かに願い救われる事よりも、自らの手で救いを探し求める事。その行いにこそ意義を見出す男だった」

 如何に解脱を果たそうとも、長い年月で培われた芯はそう簡単には変えられないし変わらない。
 状況を利用し、今この時を作り上げたのは全てはその為。願望機による祈りの成就などではなく、自らの手で答えを求める事だけを欲している。

 故に不完全ながら満たされた聖杯に掛けるべき願いは決まっている。

「聖杯よ。この一時、私をその縁に侍る者だと認めるのなら、我が祈りを叶えてくれ。私の願いは唯一つ──求め続けた衛宮切嗣との逢瀬を、邪魔の入らぬ状況で行う事。即ちセイバーとの分断を、おまえに祈る」

 奇跡に掛ける願いとしては荒唐無稽。これまで踏み躙られて来た者達が知れば赫怒に身を染めるだろう戯言。しかしそれこそが綺礼の真。心に違わぬ唯一の祈り。

 背中を預けあっていては強力に過ぎる二人を引き離す目晦ましが欲しいと、綺礼は願う。

「さあ、我が祈りを叶えよ聖杯!」

 瞬間、巻き起こる激震。頭上の杯から放たれる輝きは、此処に最高潮を極めた。

 そして願いは聞き届けられる。
 ただしその成就は──言峰綺礼をして予想外の手段を以って世界を染め上げた。


/3


 襲い来る影。飛び交う闇色の刃。暗殺者の殺戮空間の中心で、男と少女は舞い踊る。互いに背を預けその立ち位置を次々と入れ替え、迫る短刀の全てをセイバーが叩き落し、襲い来る敵手を魔銃より放たれる銃弾が駆逐する。

 最優の剣士と人の域を超越した魔人の如き殺し屋が、総数百に迫るアサシン達を次々に薙ぎ払っていった。

 ただしそれでも失点はあった。無謀にも襲い掛かってきた二十を超えるアサシン達を迎え撃つ為に手を尽くした結果、その過半数を一網打尽にしておきながら、代償として聖杯の器を奪われた。

 一目散に逃げるアサシンへ追撃を掛けることは出来ない。逃げる白面へと続く道を、残るアサシン達が横殴りの雨の如き連続投擲でセイバーと切嗣の足を釘付けにする。守るべき聖杯を、祈りを叶える器を奪われた。

 それでも切嗣は冷静を貫いた。彼にしてみればこの尋常ならざるアサシンが聖杯を狙っている時点でいつか奪われるだろうと諦観していた。先の贋物も一度限りの罠。この結末は既に決定されていたものだ。

 故に切嗣も心を固めた。言峰綺礼と対峙する決意を。
 あの男と真正面から向き合い、そして突破するという途方もない覚悟をその胸に宿した。

 セイバーにも動揺はない。今彼女が優先すべきはマスターの守護。如何に魔人の如き奮戦を以ってしてもその性能には限界がある。いつまでも続く永遠では有り得ない。自らが聖杯に至る為には、マスターを失うわけにはいかない。

 聖杯はまた奪い返せばいい。でなくとも、此処は既に決戦の地。聖杯が勝者に栄光を齎すというのなら、ただ勝ち残りさえすればそれでいい。器を奪われたところで意味はない。最後に勝ち残るのは我らだと決まっているのだから。

 二人が二人とも、まずは目の前の敵を完全に突破する事に重きを置いた、その瞬間────

「なっ……」

 市民会館前の広場に血の華が乱れ咲く。黒衣に身を包んだ暗殺者達の心臓より花開く血の散華。それは全くの同時。この場にいた者、身を潜めていた者。一人も逃れる者はなく、自らの胸に刃を突き立て、稀代の暗殺者達は跡形もなく消え去った。

「これは一体……」

 セイバーはその異様を訝しむしかない。今目の前で行われた集団自殺が、恐らくはマスターの命令によるものだとまでは理解が及んでも、その先にまでは至らない。
 この局面で己がサーヴァントを使い捨てる意味は何なのか。聖杯への道を自ら閉ざす意図についてをセイバーには解せなかった。

「…………」

 しかし切嗣は違った。言峰綺礼という男を知っている。恐らくこの世の誰よりも理解している。故に分かる。これは全て奴の策略。あの男は切嗣との邂逅の為だけに、アサシンを使い捨てたのだ。

 そして未契約状態のマスターとなった綺礼は、マスター不在のサーヴァントであるアーチャーと契約を行うだろう。これで図式は完成する。

 衛宮切嗣と言峰綺礼。
 セイバーとアーチャー。

 言峰綺礼の思い描いていた最終幕の役者だけが残る。
 あの男の演出は此処に完成を見た。

 後はただ、狙い定めた獲物に己が牙を突き立てるのみ──

「マスター……?」

 セイバーの声にも振り返る事無く切嗣は歩みを進める。今更綺礼を相手に先の先を奪う事を考える必要はない。条件は既に全て整っている。後はこの作り上げられた舞台で、脚本を書いた男を仕留めればそれで済む。

 セイバーは腑に落ちない思いを抱きながらも追随する。考えるな。敵が消えた、今はその結果だけを受け止めておけばいい。
 これでランサー、ライダー、キャスター、バーサーカー、アサシンの五騎が消えた。残るは最大の敵であるアーチャーのみ。

 底知れぬ実力を誇るあの黄金を相手に確実な勝利を成しえるか、それはセイバーをして分からない。それでも勝つ。勝たなければならない。その為に此処まで辿り着いた。多くのものを犠牲にしてきたのだから。

 そうして二人はエントランスホールへと足を踏み入れる。

 西欧の神殿を思わせる石柱が幾つも立ち並ぶ広大な空間。照明は落とされ周囲はよく窺えない。
 しかし彼らは感じ取る。視線の先、扉の向こう。コンサートホールへと繋がる扉から、漏れ出す黄金の気配をどちらともなく感じ取る。

 この先に聖杯がある。五つの魂を収容し、完全に満ちる時を待つ万能の願望機が。求め欲した──奇跡を叶える杯が。

「先行します。マスター、警戒を緩めぬように」

 風の剣を下段に構え、扉に手を掛ける。この扉を開いた瞬間、否──扉ごと吹き飛ばす勢いでアーチャーの掃射が行われる事さえ考えられるのだ。如何にアサシンに拮抗した切嗣とはいえ、アーチャーが相手では役者が不足に過ぎる。

 あの黄金はセイバーが倒すべき敵だ。
 彼女がその祈りを叶える為の障害となる最後にして最強の敵。

 ならばセイバーが前面に立つのは当然の事で。
 そしてそんな当たり前を凌駕する異常が──今此処に巻き起こる。

 セイバーが扉を押し開けようとしたその刹那。
 建物ごと足場をすら揺るがす大振動が起こり、次いで何の前触れもなく、周囲に炎の柱が顕現する。

「なっ……!?」

「……これは」

 二人に走る動揺。理解を超えた現象を前にどちらもが一瞬の忘我に陥り、その間隙を縫うが如く、まるで導火線を奔る火花のように、二人を引き裂く炎の壁が沸き立った。

「マスターッ……!」

 二人を分かつように煌々と燃える炎の壁。その先に手を伸ばそうとしたセイバーに襲い掛かったのは、崩れ落ちる石柱。亀裂が走り瓦解した天井の崩落。
 それを飲み込むように周囲に巻き起こった騒音は、冬木市民会館そのものの崩壊を告げるかのような轟音だった。


+++


「……やってくれるな、言峰綺礼」

 突如巻き起こった炎の渦。それに飲み込まれるように瓦解した冬木市民会館。その惨状を見上げながら、切嗣は呟いた。

 切嗣が今立っている場所は地下だった。崩落に巻き込まれるように崩れた足場。幸いにして数メートル程度の落下で済み、身体強化を施した肉体にはさしてダメージは被らずに済んだ。

 問題があるとすれば、それはどうやってこの場から脱出するか。

 周囲には炎の舌が揺らめき、黒煙を上げている。見上げる落下点は瓦礫で塞がれ、昇れるようなものではない。

 此処が地下に造られた部屋であるのなら、階段くらいはある筈だ。落下した場所と状況を考えるのなら此処はエントランスホールかコンサートホールの下。どちらかに通じる階段は探せばあるだろう。

 それが使えるかどうかは別にしてだが。

 切嗣は考える。今この状況は恐らく、言峰綺礼の巻き起こしたものだ。何の予兆もない炎の顕現と崩落。階上の様子は此処からは分からないが、少なくとも無事ではあるまい。

 それでも聖杯は健在だろう。未だセイバーとの繋がりは感じられるし、手に宿る残り一画の令呪も失われてはいない。何より、これが聖杯の齎した奇跡の一端であるのなら、自分自身を害す筈がないのだから。

 それなりの広さのある地下室を瓦礫と炎を避けて歩く。階段を探さなければ現状さえも把握出来ない。もし階上に上がる手段がないとしたら、最悪セイバーを呼び寄せて脱出するしかないか……

 そう考えていた切嗣の耳朶に響く、靴の音。
 炎の猛る音に混じりながら、それでも残響する誰かの足音。

 ……これが言峰綺礼が僕と一対一で対峙する為のものだとするのなら。

 階上にいた筈の奴とこの部屋を隔てるものがあってはならない。

 ……いいだろう。おまえを超えなければ聖杯に辿り着けないというのならば、斃し進むだけだ。

 近づく足音に切嗣は階段から距離を開け立ち、懐より魔銃を引き抜く。翻ったコートの裾が、炎に煽られ棚引いた。

 ──主は我が魂を蘇らせ、御名の為に我を正道へと導かん。たとえ死の谷の陰を歩むとも禍を恐るるまじ。主が我と共にあるが故に──

 朗々と謳い上げられる聖句。それは綺礼の高揚と歓喜とが綯い交ぜになり、口をついて出た激情の証。
 空っぽだった器に満ちた想い。空虚でしかなかった言峰綺礼という男の人生の全てに、遂に解を齎す待ち望んだ一戦。

 ゼロの境界面を超えた想いは、器より溢れ零れ落ちる。それを掬い取り舐め取るのは、彼の仇敵に他ならない。

 ──貴方の鞭と貴方の杖が私を慰める。貴方は我が敵の前で宴を設け、我が頭に油を注がれる。杯は溢れ、我に恵みと慈しみを齎すだろう──

 そして靴音は鳴り止む。

 黒く煙る影の向こうに僧衣の男を見る。
 揺らめく炎の彼方にコートの男を見る。

 手には左右合わせて六本の黒鍵。
 右手に携えられしは死神の魔銃。

 互いに互いを敵視し、最大最後の敵と目した男達が、遂に出逢う。

「ああ……ようやく巡り会えたぞ我が仇敵。さあ、我が生の意味を此処に。おまえが手に入れ、そして手放してまで欲したものを見せてくれ」

「…………」

 切嗣は応えず、手にした魔銃を構える。

「ああ、おまえは私と話す口など持たんのだろうな。しかしそれでも私はおまえに問わねばならない。応えて貰わねばならんのだ。
 衛宮切嗣──なれば此処で雌雄を決しよう。そして私が勝利した暁には、洗い浚い全てを吐いて貰う……!」

 疾駆と共に繰り出される三閃の黒鍵。
 迎え撃つ魔銃の照星。

 此処に最後の戦いの火蓋は切って落とされた。


+++


「一体……何が……」

 崩落の足音。伸ばした手は空を切り、掴めるものは何もなく、瓦解した石柱と天井の倒壊に阻まれた。セイバー自身をすら巻き込みかねなかったその大崩壊から逃れられたのは、彼女の身に宿る直感の為せる業だ。

「……マスター」

 しかしそれは我が身可愛さにマスターを見捨てた、切り捨てたも同じ事。それでも未だこの身は健在。つまりはマスターも無事崩落から逃れられたという事だろう。

 ……まずは合流を。状況は分からないが、まだアーチャーは健在なのだ。マスターが狙われては拙い。

 そう思い、とりあえずは自らの置かれた状況を確認しようとしたセイバーに、

「待ち望んだぞセイバーよ。さあ、我らが婚儀を始めよう」

 それは荘厳な響きと重苦しさを伴って放たれた、黄金の王の言葉に他ならない。

 セイバーは崩壊の時、コンサートホールに繋がる扉の前にいた。咄嗟の判断で彼女が身を躍らせたのはその扉の内側だった。つまりここは冬木市民会館のメインステージ。そして聖杯降臨の儀が執り行われている場。

 ゆっくりとセイバーは振り返る。ステージ上に輝く黄金の気配。それはアーチャーの放つ威圧と、それに劣らぬ輝きを発する聖杯の光輝が交じり合ったものだった。

 ……あれが、聖杯。私が求め続けたもの。この祈りを、叶えるもの。

 まるで幽鬼のような足取りで、誘蛾灯に誘われる蛾のように、セイバーは舞台へと吸い寄せられていく。頭上に燦々と煌々と輝く黄金の杯。周囲に燃え立つ炎の明かりを駆逐する威容。その圧倒的な神秘性に惹かれるようにセイバーは中央階段を下りていく。

「……はっ、何だその目は。まるで餌を前にした卑しい犬のようではないか」

 頭上に聖杯を頂きながら、その真下に君臨する黄金の威容。両腕を組み、舞台直下にまで迫ったセイバーを紅蓮の双眸で見下ろしている。

「それ程にこれが欲しいか? 自らの下賎さを隠し切れぬほどに」

 そうとも。この杯を手に入れる為だけに戦ってきた。王としての誇りを捨て、我が身を剣であると断じながら。幾つもの祈りを踏み躙り、無辜の人々を自らの辿る道の轍に変えてきたのだ。

「そこをどけアーチャー。その杯は、私が手に入れるものだ」

「ああ、欲しいのならばくれてやるぞ。貴様が我が寵愛を受け入れるのなら、聖杯だけとは言わずこの世の全ての悦を貴様に賜わそう。
 喜べセイバー。貴様は我にそれだけの価値があると見出されたのだ。そんな蒙昧な祈りなど捨て、我が妻として二度目の生を謳歌しようではないか」

「くどいッ!」

 逆巻く風。吹き荒れる嵐。セイバーの身体から放たれる魔力は暴風となって黄金の煌きを揺るがし、これまで以上の力強さで吹き荒ぶ。

「おまえの妄言は聞き飽きた。事此処に至り未だ世迷言を抜かすというのなら、斬って捨てるだけだ……!」

 目の前には既に聖杯がある。この敵を倒せば聖杯は完成をみる。ならば臆するものなどあろうか。黄金の言葉に耳を傾ける理由など何一つとてない。
 斬って捨てる。戯言を口にし続けるのなら、そのままに切り倒すだけの事だ。

「……ふむ。少し、躾が必要か」

 昔馴染みの狂犬と戯れてさえこのセイバーの心は折れていない。いや、その高貴さ、気丈さはアーチャーが愛でるに値するものである。その価値が踏み躙られる事なく此処まで辿り着いたのは、むしろ賛嘆すべき事であろう。

 しかしこの黄金は自らに歯向かうものは許さない。愛くるしい犬とて、主に牙を剥くのなら一息に首を刎ねるだろう。
 目の前の女は自分が誰のものかを理解できていないだけだ。ならばまずはそれを身体に覚え込ませる為、死なぬ程度に痛めつけるのも悪くはない。

「良いぞ騎士王、戯れを許す。そして何をしたところで我に敵わぬと理解した後、頭を垂れる貴様に我が寵愛を授けよう」

 浮かび上がる黄金の泉。湧き出すは無尽の如き剣群。対するセイバーは風の剣を下段に構え、舞台上に立つ黄金を睨み上げる。

 マスター達から遅れる事数分。
 此処にサーヴァント達の最後の決戦の幕が開かれた。


/4


 炎を斬り裂く三本の刃。黒鍵と呼ばれる投擲剣は切嗣目掛けて疾駆する。それと同時に綺礼は地を蹴り、自らの放った剣に追随する。

 これまでの全ての戦闘を備に観察し続け、切嗣の性能特性についてはほぼ完全に理解している。戦車の装甲でもなければ防げない大口径の魔銃。身体能力の強化。不死身にも等しい回復能力。英霊に迫る加速能力。

 どれをとっても一級品。そして魔術師としては格下の綺礼からすればどれも対処の施しようのないレベルの凶悪さ。
 綺礼に利点があるとすれば、切嗣は綺礼の性能についてほとんどを知らない事。緒戦、脱落を偽装した時に黒鍵の投擲を見せたくらいで、これまで綺礼は自身の戦いというものをほとんど行っていない。

 それ故に隙がある。切嗣の知らない綺礼の能力で、まずは機先を制する……!

 死徒をも容易く貫く神速の黒鍵投擲。それに追随する綺礼の反射能力は余剰令呪のバックアップによりたださえ人間離れした身体能力に磨きを掛けている。
 更に残る左手の黒鍵を強化し、切嗣が自らの身を省みずに銃弾を放ってきた場合の盾とする。

 黒鍵が防がれ、盾が砕かれ、そのだけの犠牲を払ってもいいという覚悟。切嗣に肉薄しさえすれば、この身に宿る師直伝にして実戦で昇華された殺人拳術で一撃の下に意識を刈り取る。

 手加減など出来る相手ではない。故に初手は全力。

 綺礼の死力を尽くした吶喊に応えるのは、

固有時制御(Time alter)……」

 魔術師衛宮切嗣の秘奥にしてその究極。

「……四倍速(quadruple accel)!」

 その更に向こう──限界を超越した、死をすら厭わぬ時の加速……!

 迫る黒鍵を身を屈め、地面すれすれを飛行するように駆け抜ける。手には魔銃、襲い来る綺礼が盾にする肥大化した黒鍵を、起源弾を以って撃ち貫く。
 並の敵ならばこの一撃で沈黙させられる。しかし切嗣にとって綺礼は最悪の敵。昏倒させたところで安心など出来ない類の怨敵。

 起源弾で魔術回路をずたずたに破壊されたところで手を緩めず、確実に頭蓋を弾き飛ばす為の更なる疾駆。

 放たれた銃弾。防ぐ盾。砕け散る黒鍵。しかし綺礼は未だ健在。間近に迫る切嗣の、これまでをなお超える加速に目を見開きながら、それでも次手を対処する。
 対する切嗣にも驚愕が生まれる。起源弾をその身に喰らっておきながら無事である事もそうだが、それ以上に綺礼は切嗣の姿を目で追えている。

 今まで秘して来た四倍速での加速。文字通りに死を賭した決死の加速でさえも、この敵は喰らいついている。
 それでも切嗣には今更手を緩めるという選択はない。目が追いつけていても、身体の反応までは誤魔化せまい。

 コートの裾をより抜き放ち、いつの間にか手にしていたナイフを繰り出す。その直後に綺礼の右手の側に回り、手にした魔銃の底で渾身の振り下ろしを見舞う。

 事実、綺礼は切嗣の姿を目で追えていた。底を出し尽くしたかのように見えた切嗣ではあったが、この男が綺礼戦の為に隠し札を用意していない筈がないと確信していた。
 その覚悟のお陰で綺礼は既に英霊をすら凌駕しかねない切嗣の加速を捉えられた。そして目では追えても身体が追いつかないのも事実だった。

 黒鍵が魔弾を受け止めた反動。それを殺している間に切嗣はナイフを投げ、綺礼の視界から姿を消して次の瞬間には右手側に現れていた。
 こんな馬鹿げた速度に対処しろというのが酷であり、しかし綺礼は執念と意地を以って迎え撃つ。

 刹那の内に半身をずらし、迫るナイフを左手を犠牲に受け止める。溢れ出る血飛沫を厭わずに、綺礼は振り上げられた銃に対処すべく、更に右腕をすら差し出した。
 切嗣の渾身の殴打。腕の振り抜きさえも加速されており、その一撃は綺礼の右腕を叩き折るに相応しい威力を秘めていた。

 骨の砕け散る音を聞きながら、それでも綺礼は無表情に次の刹那を見据えている。これが完全に予期せぬダメージであったのなら、綺礼をして次打を放つ余裕など微塵もなかっただろう。

 しかし綺礼は自ら両腕を差し出した。元より切嗣の底の底を見据えていた。故に今──極大の犠牲を払った上で放つ、必滅の蹴撃が仇敵を穿つ。

 周囲の炎をすら掻き消すほどの震脚。揺るぎのない芯をその身に宿し、繰り出される旋脚は巨木をすら容易く圧し折る……!

「……ぎぃ、……っ!」

 両腕を犠牲にした渾身の一打は切嗣の身体を捉え、次いで放った二閃目もまた過たずクリティカルに入った。
 吹き飛ぶ切嗣。壁面へと叩きつけられ、炎と瓦礫の中に埋もれて行く。呼吸をする間もなかった刹那に両腕を奪われた綺礼は理解と共に生まれた痛みを噛み殺す。

 ……手応えはあった。だが……

 斃せたという確信がない。骨を砕き、内臓を破壊するに足る一撃を見舞っておきながらそれでも綺礼は何の感慨も得られていなかった。それは恐らく、切嗣の最後の行動ゆえのものだ。あの男は回避するつもりさえもなかった。
 如何に渾身の銃底での殴打を繰り出そうとも、あの加速ならば一足の内に飛び勢いを殺せた筈だ。

 避ける気がなかった。躱す必要性がないと判断した。それはつまり──

 ガラガラと瓦礫を薙ぎ倒しながら、その奥から立ち上がる男の姿。揺らめく炎の向こうに見える顔には口元に湧いた血が見えるが、その表情には変化はない。
 身体についても、抜け切れぬ筈のダメージを与えた筈だというのに、一向に介した様子もなく、ただ無情に立ち尽くしている。

 ……化け物め。

 綺礼をしてそう思わざるを得ないほど怪物。異常をすら凌駕する回復能力。あの敵を斃すには、一撃で心臓を穿つか頭蓋を弾き飛ばす他に手段はない。

 しかしそれでは切嗣に問う事が出来ない。綺礼は生涯常に苛み続けた懊悩に解を求めてこの場に立ったのだ。この対峙の状況を作り上げたのだ。それが果たされぬまま、どちらかが斃れる結末は容認出来ない。

 故に問うのなら今しかない。
 次に戦端が切られた時、殺し合う以外に道はないのだから。

「教えてくれ切嗣。おまえは戦場を横行し、何かを捜し求めていた筈だ。自らの命を秤に賭け、死を賭して。そしてアインツベルンに招かれてからの静寂は、その空虚な心を確かに埋めたが為のものなのだろう?」

「…………」

 切嗣は答えない。ただ目の前の道を阻む敵を見据え、その歩みを進めるのみ。

「何故貴様はッ! 手にした平穏を捨て、こんな愚にもつかない戦いに臨んだっ!? 奇跡に希わずとも、おまえは確かに心を埋めるものを手に入れたのだろう!!」

 聖杯などという夢想にも等しい夢を見るような人間では、おまえはない筈だろうと、綺礼は謳う。
 そう──綺礼と切嗣が同種の人間であるのなら、そもそも聖杯など不要なもので……

「…………馬鹿な」

 綺礼に今更になってその思考に至り、忘我した。そんな当たり前のことから、これまで目を背け続けてきた事に絶望した。

 切嗣は心底で聖杯を求めている。幾人もの犠牲を払い、敵の全てを駆逐してきた。それほどに強固な祈りを秘めている。それはおかしい。それは矛盾だ。綺礼が聖杯を求めないように、ならば切嗣も聖杯など求めてはいけないというのに。

 ……ならばこの男は──この言峰綺礼とは違うのか。

 生まれついての空虚。
 胸に空いたままの穴を埋めるものを探す旅路。
 その果てに追い求めてきたものは、何の事はない綺礼の盲目にも似た信仰によって神格化された衛宮切嗣という男の影だった。

 その過程が自身と酷似していたという理由だけで、切嗣を己と同位と見定めた。その結末に求めるものから目を逸らし、切嗣という男をひたすたに追い求めてきた。

 結果、齎せたのは絶望だけ。
 衛宮切嗣は言峰綺礼と同じ存在などではなく──

「おまえは私と、真逆なのか……」

 得心がいく。納得と共に心に蟠っていた澱が霧散した。

 かつて間桐邸で対峙した間桐臓硯。あの男に感じた不快感の正体が同族を嫌悪する感情であったのなら、切嗣に想う心は何なのかと疑問を抱いた事があった。
 その時気付くべきだったのだ。切嗣は違うのだと。綺礼とは違う、なにかなのだと。

「ならばおまえは……私が心の底から欲したものを捨て、聖杯に祈るのか……」

 綺礼が求めた人としての当たり前の幸福。それを切嗣は恐らく、アインツベルンで手に入れておきながら、まるで塵のように打ち捨て聖杯を手に入れる事に固執している。当たり前では埋められない溝を、埋める為に。

 言峰綺礼は異常を埋める当たり前を欲し。
 衛宮切嗣は当たり前を覆す異常を求めた。

「ああ──」

 事此処に至り理解する。

 言峰綺礼の衛宮切嗣に対する執着は、ただの興味などではない。この己が求め欲するものを軽々しく捨てた男に対する不快感。捨てられたその在りように対する嫌悪感だった。

 それはまるで背中合わせの太陽と月。交じり合わぬ白と黒。同じ方向を見ているように見えて、互いに見つめるものは真逆。矢印の向きがどうしようもなく違っている。

 それでもこの男以外に問うべき者がいなかった。衛宮切嗣以外に言峰綺礼の罪の正体は理解が出来ない。真逆であるが故に、決して交じり合わぬ故に我らは惹かれ合ったのだと、そんな不確かな確信こそが想いの正体だったのだ。

「…………」

 そう理解した綺礼は、静かに剣を抜き放つ。死んだも当然の右腕はそのままに、痛んだ左手に三閃を担う。その貌には無情だけが宿り、瞳は真逆の男を見据えている。

 言峰綺礼の生に対する答えは衛宮切嗣より齎されない。
 そう認識を切り替え、綺礼は目の前に立つ打ち倒すべき敵手を見つめた。

 真逆の男。ああ、ならばそれは嫌悪ではなく好意にも似た感情。その在り方は正反対でありながら、共に同じ道を走り続けてきた。選択肢など存在しない一本道を、何処までも無心に駆け抜けてきた。

 それは同族に対する哀れみか。反対であるが故の憤怒か。綺礼自身でさえよく理解の出来ない想いを胸に、それでもこの男は間違いのない敵であると見定める。

「決着を、着けよう」

 この戦いの先に望んだものはない。必死で走り続けてきた綺礼に報いたものは、その心を埋め尽くす絶望だけだった。
 それでも得たものはある。自らの歪な在り方は世界に肯定されているという赦しを手に出来た。

 ならばその僅かな光だけを胸に、果てのない荒野を何処までも歩いていくだけだ。

 その為にこの敵を超えていく。
 尋常を凌駕する魔人を、人の身の限界を以って迎え撃つ。

 固有時制御の反動を、その身に内包した鞘の能力で死にながら蘇生をし続ける切嗣にしても、その考えは変わらない。目の前の敵は越えなければならない敵。斃さねば聖杯に辿り着けぬ仇敵に他ならない。

 魔術師殺しは魔銃に弾丸を込め直し。
 代行者は黒鍵の握りをしかと確かめる。

「…………」

「────」

 互いに機先を奪う瞬間を窺いながら、どちらともが全くの同時に地を蹴った瞬間──

 頭上の天井を割り、降り注ぐ汚泥の黒。
 それは形を失した炎であり、聖杯より溢れ出た悪意の奔流。

 言峰綺礼が願い、聖杯より流出させた悪意の炎は、今まさ決戦に臨もうと地を蹴った二人を容赦のない濁流で以って飲み尽くした。


+++


 形のない夢を見る。

 それは誰かの記憶。いいや、それは切嗣自身の記憶だった。

 微温湯のような微睡の中で過ごせたアリマゴ島での一幕。平穏に満たされた島は今や燃え盛り、かつての形を失くしている。
 泣いているのは切嗣だ。自らの傍にいた少女を殺させなかったから島を一つ犠牲にし、優しかった島民を悪鬼に変え、その上でシャーレイを殺さなければならなかった。

 自らの甘さ。判断の弱さ。誰かを救う為に、他の多くを犠牲にしてはならない。多くを犠牲にしてなおたった一人すらも救えなかった切嗣は、その志を胸に銃を手に執った。

 次いで浮かぶのは師の姿。切嗣に銃の扱いを教え、戦う術を教え、そして母のように感じていた人。自らが生き残る為に他の誰かを犠牲にする事を厭わない、切嗣とは正反対であった女。

 そんな人を自らの手で殺した。穏やかな会話を無線越しに交わしながら、指をかけた引き金は過たずナタリア・カミンスキーの乗る飛行機を蠢く死徒ごと爆破した。
 飛行機が地上に着地した後に齎される被害を考え、ナタリア一人の犠牲で済む事を良しとした。

 それからはより凄惨だった。
 自らを天秤に見立て、多くを助ける為に少数を殺し尽くす。
 百人を助ける為ならば、九十九人を犠牲にした。

 救ったものがより多い。
 一つでも笑顔を救える事を理由に、無辜の人々を手に掛けた。

 返り血を浴び、怨嗟の声を向けられても切嗣は止まらない。これが世から争いを失くす最善であると、信じて疑わなかったから。

“それは、本当に?”

 闇の中に響く声。
 誰とも知らぬ、男とも女ともつかぬ声に、切嗣の意識はそちらに向いた。

“それが最善であるのなら、聖杯など求めない。聖杯を求めたのは、それでは為し得ぬと絶望したからだろう”

 その通り。切嗣一人の力では世界は救えない。この小さな掌で掬い取るには、この世界には余りに嘆きが多すぎる。
 助けられる人数よりも、何処か知らないところで死んでいく人数の方が多い。果てのない連鎖。救いのない円環。無限の如く終わりのない絶望。それを終わらせる為に、聖杯を求めた。

 万物の願いを叶える願望機。
 無色の力の渦。
 根源への道を開く時に生まれる膨大なまでの魔力は、世界の内側に限り果てのない祈りを叶える奇跡となる。

“では問おう──君は如何にして、その願いを叶えるつもりだったのかな?”

 それは切嗣の理解を超えた問いだった。聖杯は万能。あらゆる願いを叶えるもの。ならばそこに手段も過程も必要ない。ただ結果だけが残り、祈りは叶えられるものと、そう思っていた。

“それは違う。聖杯は無色の力の渦。そこに方向性を与えるのは、所有者の祈りだよ”

 聖杯の力に方向性を与えるのは所有者……つまりは手にした者の祈りである、と誰かが謳う。ならば切嗣は如何にして恒久の平和、戦争の根絶という祈りを成し遂げるのか。その方策について、どんな考えがあるというのか。

“ああ、考える必要はない。君の祈りは既に決まっている。その祈りの形は、君の生きた人生そのものだ”

 争いのない世界。
 恒久の平和。
 それを成し遂げる、切嗣の歩んだ人生。

 即ち──

“そう、より多くを生かすこと。より少数に死んで貰うこと”

 千人を救う為に五百人を殺し。
 五百人を救う為に二百五十人を殺し。
 二百五十人を救う為に百二十五人を殺し……

 延々と。
 永遠と。
 その殺戮を繰り返す。

 幸福の最小単位、切嗣の真に求めた幸福の形を得るその時まで。

 衛宮切嗣という男と彼が愛した妻であるアイリスフィール・フォン・アインツベルン。そしてその子であるイリヤスフィール。この家族だけで構成された世界でならば、争いは生まれない。恒久の平和は永遠に続いていく。

 人間という種の変革など妄想だ。切嗣が求め続けたのは、そんな当たり前の幸福だ。かつて、あの島で夢見ていた普遍にして不変の幸福。人ならば、誰もが夢に見る当たり前の幸せの形。

 切嗣が追い求めていたものはそれだけだ。世界の平和や争いの根絶などという綺麗事、オブラートで包み隠していた本音は、それだけでしかない。

 ただ犠牲としたものに報いたかった。その為に大を生かし小を殺し続けた。その心の奥底で求め続けた人並の幸福を押し殺し、自らを偽り手を汚し続けた。そうでなければ、切嗣は立っていられなかったから。

 誰かを犠牲にして自分だけが幸福を甘受する事は出来ない。その為に世界全ての幸福を願った。世界の全てが満たされているのなら、この薄汚れた殺人者も、その幸福を与る事を許されるかもしれない、とそう思い──

“度し難いな衛宮切嗣。おまえはそんな、幸福を手にする資格のある男ではないだろう”

 その手はどれだけの血で塗れている。脳裏にこびり付いた怨嗟の声はいつまでも残響している。そんな犠牲を貶めて、なかった事にして自分だけが幸福を与ろうなんて、それは余りに虫が良すぎるだろう。

“けれどそれを認めよう、聖杯の担い手よ。君の全ての罪を洗い流し、君だけの幸福の形を聖杯は与える”

 それは五十億、六十億の屍の上に築かれる永劫不変の小さな幸福。自らの守りたかった当たり前の形。家族という手に入れた、欲して止まなかった小さな光だけが輝き続ける無間地獄。

 聖杯はその祈りを叶えるだろう。
 衛宮切嗣の望んだ恒久の平和。
 争いのない世界。
 ちっぽけな幸福。
 その全てを成し遂げるだけの力が、この聖杯にはあるのだから。

「……ふざけるな」

 形のない闇の中──衛宮切嗣は魔銃を手に一人立つ。無色と謳われた光ではない、暗黒の如き闇の中で、出所の分からない声に向けて吼え上げる。

「それが僕の望んだ幸福の形だと? 世界の全てを犠牲にして叶えられる願いだと?」

“これは君の望んだもの。その心を殺してまで望んだ夢の形だろう。もう誰かを殺す必要はない。君はただ掌に残った幸福を噛み締めるだけでいい。後の全ては、聖杯が執り行うだろう”

「ふざけるなッ……!」

 今一度怒号を発し、手にした銃を虚空に向ける。

「これが聖杯? これが僕の幸せ? 勝手に僕を測って知った風な口を利くな。僕はそんな幸福は認めない。屍の積み上げられた山の上でしか手に出来ない幸福など────必要ないッ!」

 切嗣が求めた恒久の平和とそれは余りに形が違いすぎる。切嗣の求めた小さな幸福は形になっても、それ以外の犠牲が大きすぎる。

“では君は、聖杯を否定するというのか?”

「僕は誰かの犠牲の上に、自分だけの幸福に胡坐を掻けないから、この手を汚してきた。聖杯の力を以ってしても、この祈りが叶えられないというのなら……」

 胸に疼く痛み。それはこれまで胸に灯してきた希望が瓦解する音だった。自らの手では為しえない奇跡。そして聖杯を以ってすら叶わぬ願い。ならば……

「僕は──聖杯(おまえ)を認めない」

 ……この心に残る理想の火を燃やし尽し、世界を犯す悪意を否定しよう。

 浮かび上がる二つの幻像。
 一人は愛した妻の姿。
 一人は愛した子の姿。

 彼女達との幸福を夢見て、これまで必死で戦い続けてきた切嗣は、願った幸福を打ち捨てるように──幻像を撃ち抜いた。


+++


 罅割れる闇。
 裏返る世界。

 永遠にも似た刹那の悪夢から覚めた切嗣が立つのは冬木市民会館地下の一室。周囲には沸き立つ炎と瓦礫の山。そして先の悪夢から這い出たかのよう黒い汚泥が蠢いている。

 目の前には言峰綺礼の姿。茫然自失で立ち尽くしているその姿は、切嗣と同じようにあの闇に飲み込まれた結果なのだろう。決死を誓った戦いの結末は、先に覚醒した切嗣の勝利で幕を閉じる。

 忘我した綺礼を引き倒し、その背に銃口を押し付ける。次の瞬間、綺礼の瞳には色が戻った。

「……我らの戦いの結末が、こんな形であるというのは不本意だが……」

 綺礼は両腕を挙げ後ろに立つ切嗣を横目で見やる。

「何故おまえは聖杯を否定した。おまえの望んだ当たり前を、こんな異常な形でしか成し遂げられない幸福を形に出来るものを、何故自ら手放した」

 言峰綺礼には理解が出来ない。聖杯がなんであれ、求めたものを齎すのならそれは正しい形である筈だ。あれが悪意の形であっても、結果として祈りを叶える願望機には違いはないのだから。

「私は見てみたいとも思ったのだ。おまえの祈りが世界を犯す様を。
 おまえの望んだ平穏の形をがどのようなものか、興味深くあったというのに……何故、否定してしまえるのだ」

 それは失望であり憤怒だった。
 聖杯を求め続けた切嗣が土壇場になって聖杯を切り捨てた事に対する憤り。
 信じた理想(ユメ)の為に、渇望した聖杯(いのり)を捻じ曲げた事に対する怨嗟だ。

「残念だよ衛宮切嗣。おまえならば、あの聖杯を担うに相応しいとそう思ったのに」

 切嗣はその最期まで綺礼と言葉を交わす事無く。
 引き金を引き、撃鉄打ち落とし──言峰綺礼の心臓を、その背後より撃ち貫いた。


/5


「っ──、はぁ……!」

 コンサートホールでの戦いは熾烈を極めていた。繰り出される際限のない宝具掃射。倒壊した客席が立ち並び、足場の悪い空間をセイバーは走り回り回避に専念する。
 アーチャーが舞台上に位置している事もあり、接近は至難を極める。不用意な跳躍は格好の的であるし、舞台に上がれる階段は左右二つしかない。

 どちらから駆け上がろうとしても黄金の掃射が邪魔をする。周囲に燃え立つ炎と瓦礫も相まって、セイバーは接近をすら封じられたまま逃げ回る以外に術がなかった。

 ……やはり余りにも立ち位置が悪い。アーチャーはそれを理解しているからこそあの場所に立っている。

 アーチャーが立つのは空中に浮かぶ聖杯の真下だ。あの位置に陣取られては聖剣での一撃さえも封じられてしまう。聖剣を使えばアーチャーだけでなく聖杯をすらその余波に巻き込んでしまうからだ。

 それを理解しているアーチャーは舞台上から動かず、逃げ回る鼠を追い回してせせら嗤っている。
 白兵戦で応じるしかないセイバーの姿を、愉悦を込めた瞳で見下ろしている。

「どうしたセイバー。他のサーヴァント達を相手にして一歩も譲る事がなかったおまえでも我が相手では逃げ回るしか出来ないか?」

「くっ……!」

 卑怯という謗りは言葉に出来ない。これは聖杯を奪われたこちらの失態であり、相手に優位な場を築かせた失点だ。
 この不利な状況を覆すには死を賭すしかない。何の犠牲も払わずあの黄金を打倒しようというのは虫が良すぎるというものだ。

「ふっ……!」

 左右への回避から一転、セイバーは舞台へと繋がる階段目掛けて疾駆する。襲い来る宝剣宝槍の数々を捌き、いなし、躱し、傷を負うのを覚悟で直走る。

「ぐっ……!」

 避け切れなかった刃が左腕に掠め、篭手ごと肉を削いでいく。その痛みを無視し、セイバーはそれでも足を止めない。
 階段に足を掛け、一息に上ろうとした刹那に降り注ぐ駿雨。剣の雨の悉くを身を捻り翻し、血飛沫を上げながら耐え凌ぐ。

「────はぁ……!」

 ようやく上がった舞台上。息つく暇もなくセイバーは駆け、アーチャーの首を奪おうと剣を振り上げる。
 それに応えたのは、何処からか降った、雷神の如き稲妻。虚空より放たれた神速の雷光に身を貫かれ、セイバーはその足を止めてしまう。

「しまっ……」

 その隙を待っていたかというように、降り注ぐ剣の衾。空間を埋め尽くす規模で降り注いだ嵐を、セイバーは直感にすら頼る事無く予感した死の気配から逃れるように、無様に転がりながら観客席へと落下した。

「今のは良い攻めだったが、まだまだ甘いな。我の底を見透かせぬようでは、到底届きはせんぞ?」

「はっ、はっ……、ぁ……」

 肩で息をしながら魔力を回復に回す。修復はそう時間が掛からないとはいえ、このままでは結局攻めきれない。
 無尽蔵の如く剣や槍を有する英霊になど心当たりはない。この男の真なる宝具は何か、その真名は何なのか。それを看破しなければ超えられない壁。

 ただ分かっているのは強力な英霊であるという事だけ。足場の不利にあるとはいえ、恐らく同じ条件下でも苦戦は免れない敵手には違いない。

 ……アーチャーを超えるには、やはり聖剣を使うしか……

 状況を打開する手段があるとすればそれだけだ。星の一振りを以ってすれば相手も相応の手段で応じなければならず、それはこの黄金の素性を暴く一端に成り得る。

 だがやはりネックは聖杯。敵を倒しておきながら聖杯を壊してしまっては、何の意味もないのだから。

「さて……次の手は決めたか? 我を愉しませるに値せぬ策を弄するのなら、その手足を串刺しにされる程度の覚悟はあろうな?」

 何処までも高く広がっていく黄金の泉の数。顔を覗かせる刀身の数は数えるだに馬鹿らしい。

 ……どうする……あれは……?

 攻め手を決めあぐねていたセイバーの視界に映る第三者の影。揺らめく炎の向こうに棚引くロングコート。見下ろす昏き瞳は、誰あろう衛宮切嗣のものである。

 ……勝機! マスターの助力があれば、この状況を覆せる!

 切嗣の手に残る最後の一画たる令呪。それを使用してしまえばセイバーを縛る戒めもまた解き放たれる事になるが、それを臆する状況ではない事は切嗣もまた理解している筈。

 聖杯を手に入れる為に超えなければならない最後の敵。その打倒の為に死力を尽くす事を恐れる事などあろう筈がない。

 この身はその為に剣として尽くして来た。主の信頼を勝ち取れたとは言わないが、それでも充分な成果を上げてきた自負がある。

 ……頼む切嗣! この状況を打開する一手を……!

 令呪の奇跡を以ってすれば、如何なる命令も思いのまま。この場を切り抜ける為の刹那の命令ならばどんな困難も覆せる。
 転身によってアーチャーの背後を取るか、より強大な魔力の加護を纏い吶喊するか。どんな命令が下されようとも勝機を過たず狙い撃つ覚悟でセイバーは剣を握り締める。

『衛宮切嗣の名の下に、令呪を以ってセイバーに命ず────』

 来る命令の祝詞。奇跡を振るう刹那の間隙。踏み込む足に力を込めたセイバーに告げられた命令は、

『────宝具によって、聖杯を破壊せよ』

「えっ……?」

 そんな、まるで予想だにしなかった命令だった。

 セイバーの意思とは裏腹に、剣の封印は解かれ風が渦を巻く。振り上げられた刀身には光が集い加速する。

「……っ、血迷ったかセイバー!」

 アーチャーをして目を剥く行動。聖剣の使用はそれ程の異常だった。聖杯の真下にいる限り、如何なる状況であれセイバーは聖剣を使えないと高を括っていたアーチャーの動揺は相当なものだった。

 だってそうだろう、セイバーは聖杯を求めていたのだ。それこそ死に物狂いでその頂を駆け上がってきた。
 それをこの土壇場で破壊しようとする意図が分からない。全てを見透かす黄金の紅蓮の如き双眸は、ただ振り翳される光輝に焦がされるばかりであった。

「何故だ切嗣! 何故そのような命令を!? 貴方は聖杯を掴むのだろう! その為に多くの犠牲を払ってきたのだろう!? なのに……!」

 振り上げる手は止まらない。アーチャーとの戦いの傷が完全に癒えていない状況で、その命令は逆らい難い意思を秘めて下されたのだ。

 見据える切嗣の瞳には黒しかない。
 宿る絶望の色をセイバーは知る由もない。

「おまえは全ての犠牲を無に……なかった事にするつもりかッ!? 踏み躙ってきた全ての想いを、無駄にするというのか……ッ!」

 セイバーもまたその為に多くのものを切り捨てた。
 犠牲にしてきたのだ。

 忠義の騎士を絶望に染めて斬り殺し……
 かつての朋友の復讐の想念をすら跳ね除けて……
 好敵手と認めた者を、その轍に変えてまで求めたものを……

 それら全てを無為に落とす行為。
 決して容認出来ない終わり。

 だからこんな結末は認められない。
 あと少し、ほんの少しで祈りに手が届くのだ。それをこんな──

「答えろッ、切嗣────!!!!」

 セイバーのマスターである衛宮切嗣は一言も発さず、振り上げられた黄金の聖剣をただ見つめ続ける。

「あああぁぁぁぁぁぁあぁぁぁあああああああ、やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉ……!!!!」

 セイバーの絶望を他所に。
 零れ落ちる涙を糧に。

 黄金の光輝は振り下ろされ、世界を分かつ光となってこの世の全てを染め上げた。

 そして聖剣を振り下ろしたセイバーもまた、世界を白く染め上げる光の中、砕かれる聖杯を見据えながら、その胸に抱いた希望を絶望で塗り替えながら、失意の内に消え去っていった。


/5


 言峰綺礼が目を覚ました時、全ては既に終わっていた。

 見渡す限りの火の海。綺礼の願いでは冬木市民会館を瓦解させる程度であった筈のものであるというのに、今一面に広がる光景は明らかにその規模を凌駕していた。
 猛る炎と立ち昇る黒煙。瓦解する家屋と、助けを求める誰かの声。それらを聞き流しながら、綺礼は自らが生きている事に困惑した。

 確かに切嗣に背後から心臓を撃ち貫かれた筈。あの一撃を喰らい死んでない筈がない。死を覚悟し、受け入れ、その上で切嗣へと絶望の怨嗟を吐き出した筈だった。

「何故私は、生きている……?」

 声に出した問いに、

「いいや、おまえは死んでいるようだぞ言峰よ」

 応えたのは、誰ならぬ黄金の王──アーチャーであった。

「おまえも生き延びていたか……」

「幸いにもな」

「分かる限りで良い。状況を説明してくれ」

「そう難しいものでもない。聖杯を前に我とセイバーは争い、奴は聖剣を放ったのだ。我ごと聖杯を破壊するようにしてな」

 それは恐らく切嗣の令呪によるものだろうと綺礼は思う。聖杯の真実を知らないセイバーが自らの意思で聖剣を振るうわけがないのだから。

「聖剣は光となり聖杯を両断し、その真下にいた我をすら呑み込み掛けたが、それよりも先にセイバーが消滅した。当然だ、マスターとの契約が切れた状態で、限界を超えた聖剣を行使し、そして聖杯をも打ち砕いたのだからな」

 そして聖剣の光はアーチャーには届かぬまま霧散し、しかし今度は聖杯が破壊された事で此方と彼方を繋ぐ聖杯の門は制御を失い、天に穿たれた穴から濁流の如き黒き汚泥が降り注いだ。

 アーチャーはその奔流に呑まれ、否──逆に飲み干し、人としての肉の形を得た。そしてマスターである綺礼へとその余波が逆流した事で、おまえは死にながら生きている様になったのだと黄金の王は謳い上げた。

「……そして溢れ出たものが、今なおこうして世界を焼き尽くしているというわけか」

 無感情の色をした瞳で綺礼は周囲を睥睨する。異物であり歪な綺礼はこの惨状に心を痛める事などない。むしろ歓喜して止まぬところだが、心が現状に追いついて来ない。

 何より結局戦いの終わりを望みながら、この胸に沸いた空虚は埋められなかったという絶望だけが身体を軋ませていた。

「死んでいながら、まだ生きろと言うのか……」

 言峰綺礼は死んでいる。死体が動いているのと変わらない。それでも生きている。動いている。ならばこの身はまだ、倒れる事を許されていないようだ。

 これが残された余生というものならば、その全てを費やし探してみよう。

 世界に生れ落ちた異物の正体。美しいものを醜いと謗り、醜いものを美しいと賛美する破戒された道徳観。
 それを正しく理解した上で、未だ生まれぬ解を世界の果てに捜し求める。

 衛宮切嗣でも、聖杯ですら叶わなかった解を導き出せるものがこの世にあるとは思えないが、それでもこの命の続く限り、果てのない荒野を歩いていく覚悟を決めた。

「おまえはどうするギルガメッシュ。人の肉を得たおまえなら、私の助力など必要とはすまい」

「……そうだな。まあ、退屈を紛らわせるものを探すとするか。なければないで構いはしない。我は、十年の向こうを見据えてただ待つのみよ」

 ──未だ我はおまえを諦めてはいないぞセイバーよ。おまえが聖杯をなお求める限り、我らの出逢いは必然だ。

 壊れた聖職者は自らの願いが果たされぬまま、その彼方に想いを馳せ。
 英雄の王は手に掴めなかった夢想を抱きながら、遥か彼方に想いを馳せた。


+++


 そうして彼女は舞い戻る。

 自らの基点。
 血染めの丘。
 屍の山。
 墓標のように突き立つ剣。

 そこはアルトリア・ペンドラゴンの後悔の地。
 血に染まるカムランの丘。

 膝を折り、手にした剣を支えに遠く赤焼けに染まる空を見つめながら、少女は慟哭の涙を流す。

 この場に舞い戻る時には聖杯を携えている筈だった。祈りを叶え、胸を充足感で満たしながら消えて行ける筈だった。
 それがどうだ、手には何もなく、胸に渦巻くのは絶望と怨嗟。自らをあの土壇場で裏切った男に対する隠し切れない憎悪の念だった。

 結局のところ、アルトリアは衛宮切嗣という男の何一つをすら理解していなかった。理解したつもりになって、信頼を預けていただけに過ぎない。
 あの男の聖杯に掛ける願いは本物だった。その意思は間違いはなかったと思う。それだけに、最後の光景だけが全く理解の出来ないものになってしまっている。

 数え切れぬ程の犠牲を払い、自らの命をすら天秤に掛け、死線を潜り抜けてきたのは何の為だ。聖杯を掴み、胸に抱いた祈りを叶える為だろう。
 ならば何故、あんな命令を下した。聖杯を渇望していたセイバーに、聖杯を破壊させた意図とは何なのだ。

「……分からない……分かる筈もない」

 アルトリアは切嗣の事を何一つして知らなかった。生まれも素性も能力も、果ては聖杯に掛ける願いさえも。
 ただ目指すところがおなじという理由だけで、切嗣を妄信していた。掛け値なしの信頼を寄せていた。

 何たる愚考。いや、それは愚考ですらない思考の停止だ。自らが考える事を止め、他者に依存するも同然の所業。一方的に背を預けたのなら、その重荷を外されて文句を言える筋合いなどないのだ。

 愚かなのはこの私、馬鹿なのはこのアルトリアだ。
 これまでの犠牲を裏切ったのは切嗣ではなく、このアルトリアだ。

「は、ははは……」

 喉をついて出る乾いた笑い。
 胸に沸いた絶望をより黒く濁らせる想いの発露。

 ああ、裏切られた。絶望した。だけれどそれが何だという。この身は既に聖杯を掴む事を約束されている。そういう契約で死後を明け渡す取引を行ったのだ。
 これは初めの一回目が失敗したというただそれだけの話だ。聖杯を手に入れるまで何度でも繰り返し繰り返し、永劫戦い続ける事が可能なのだ。

 幾度失敗しようとも、いつかは必ず聖杯を手に入れられるのだから。

 だからこれ以上の嘆きは必要ない。次の召喚の地でより効率良く聖杯を手に入れる為の方策に頭を巡らせればそれでいい。

 そう思い至った瞬間、衛宮切嗣に対する恨みは霧散した。ただ事実として裏切られたという結果だけがこの胸に残ったに過ぎなかった。

「さあ……世界よ、私を次の戦いの地へ誘うが良い。よりこの身を硬い剣と為し、いつか必ず聖杯を手に入れよう」

 意思を硬く硬く尖らせる。この身は剣。騎士の剣。誇りを踏み躙るような戦いをして、神経を磨り減らして希うまでもなく、聖杯は手に入る。
 ならばこの身に残ったちっぽけな誇りだけを胸に、誰かの剣となってより鮮烈に敵を討とう。

 高潔な騎士として。誰もの理想の騎士のまま、王の願いをひた隠し──時の果てまで戦い続けよう。

 いつか聖杯を手に入れるその日まで。
 終わらぬ戦いの日々が終わるその日まで。

 アルトリア・ペンドラゴンは────その最期まで気高く剣を振るい続けよう。

 そんな悲しい祈りを胸に。
 彼女は戦いの時を待ち続ける。

 終わらぬ連鎖が断ち切られる……その時まで────


+++


 足取りは重く、まるで幽鬼のように徘徊する。

 周囲に踊る炎。空を焦がす黒煙。倒壊していく家屋。助けてと叫び続ける誰かの声も無視し、怨嗟の声をすら振り払い、衛宮切嗣のは地獄を練り歩く。

 こんな光景を見たくないが為に聖杯を欲し、結果この惨状を描き上げた切嗣の心は完全に折れていた。
 払った犠牲に報いる事が出来ない。手に残った幸せは掴めない。生涯を掛けた疾走は、全て徒労に終わってしまったのだから。

 胸に渦巻くのは絶望だけ。全てを救おうとして、結果全てを零してしまった男の心に残ったものなど何もない。
 正義の味方。少年の日に夢見た想い。やはりそんなものは幻想だった。全てを救う正義の味方など、この世界にはいなかったのだ。

「ああ……」

 零れる吐息に滲む謝罪の色。口には決して出来ない想いを吐き出しながら、地獄を作り上げた男は、何かを求めて彷徨い歩く。

 死に掛けの誰かを見捨て、すすり泣く幼子を見捨て、我が子だけでも助けて欲しいと懇願する親子を見捨てた。
 どれもこれも助からない命。今この一時を救ったところで次の瞬間には死んでいる命だ。

 切嗣が探し求めているのは、助かる命。この絶望の染める炎の中で、生きる意志と輝きを秘めた尊い命だ。

 この地獄を作り上げた張本人が、何をと誰もが思うだろう。ただそれでも切嗣は誰かに生きていて欲しかった。自らの理想の残り火の中に、希望という光があって欲しいと願っていた。

 なんという傲慢。
 どうしようもない独善。
 自らが救われたいが為の、荒唐無稽な祈りの形。

 心を埋め尽くす絶望の黒。理想を焦がす灼熱の赤。赤と黒の入り混じる世界で、切嗣には涙を流す事さえ許されない。
 自らが招いた結末を前に、どうして嘆き悲しむ事など許されようか。ただ切嗣に許されているのは、この炎に焼き尽くされていく人々に捧げる懺悔でしかない。

 いいや、その懺悔さえも許されない。切嗣に残された唯一つの救いは……

「────ああ」

 炎の焦がす世界の果てで、切嗣は遂に見つけた。空に必死に手を伸ばし、救いを求める幼子を確かに見つけたのだ。

 この余りに利己的な目的で世界を燃やし尽くした果てで。
 どこまでも許され難い過ちの中で。

 消え行く命の光を燃やし、精一杯に生にしがみ付く者の手を握る。

 衛宮切嗣は自らを焦がした絶望の中で、小さな小さな希望を掴み取る。
 泥に犯された自らを延命させた聖剣を鞘を惜しげもなく取り出し、少年の身体に埋め込んだ。自らの余生を手放し、唯一つの命を救い上げた。

「…………ありがとう」

 降り出した雨の中。

 救われた少年よりも儚くも美しい笑みを浮かべ、衛宮切嗣は感謝した。
 たった一人でも助けられて救われたと、誰にともなく感謝を述べ、心の底から涙を流したのだった。


+++


 此処に戦いは終結した。

 誰一人の願いすら叶う事無く。
 誰一人にすら勝利を与える事無く。

 生き残った者達の心に、
 僅かばかりの光だけを残し……

 第四次聖杯戦争は、静かに──その幕を下ろした。













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