Act.02












/1


 明くる日。

 日も昇らない頃合より、切嗣は一人当て所なく街を彷徨い歩いていた。

 瞳はぼんやりと彼方を見つめ、明け行く空を映している。吐き出す息は寒さからの白ではなく、銜えた煙草より立ち昇る紫煙の灰色だった。

 思い返すのは昨夜の事。言峰綺礼のサーヴァントと思しきアサシンを倒し、脱落者となった綺礼を追い詰めながらに逃がしてしまった事だ。
 殺し損ねた事はまあ、いい。良くはないがとりあえずは置いていく。今考えるべきは一昨日から続いた一連の行動が何を意味しているか、という事だ。

 あれが演技であったのなら、綺礼は完全な安全地帯に身を隠した事になる。そしてアサシンもまた存命しているとすれば、厄介な事この上ない。
 セイバーが両断したアサシンは間違いなく消滅した。それを切嗣自身が確認している。だがどうしても、あれでアサシンが消え去ったとは思えない。

 未だ不可解なままの、舞弥の監視網を暴き破壊した手段。余りにも弱すぎたアサシンの異常性。段取りであったかのような綺礼の逃走の早さ。
 解せない点が余りにも多すぎる。こうして疑わせる事が相手の狙いなら、なるほどこちらはまんまと罠に嵌ってしまっている。

 何れにせよ、解の出しようのない問いかけだ。ならば当然、綺礼は未だアサシンを従えるマスターであるものとして行動すべきだ。

「ここまで全てが敵の目論見通りであるのなら……」

 言峰綺礼は今後、少なくとも今日一日は大々的に動かない。

 動いてしまっては昨日の策略の意味がまるでない。あの作戦を取った意味を想像するのなら、脱落者を装い自身は安全な場所に身を置きながらサーヴァントだけは自由に動かすという事。

 この時サーヴァントが他のマスター連中に姿を見られてはならない。見られてしまえば綺礼あるいは時臣の打った策が完全に暴かれてしまうから。

 今後アサシンの取るべき行動は隠密に徹し敵マスター、敵サーヴァント両者の情報を徹底的に収集し、確実な勝機を約束する事だろう。敵の背中を狙い撃つとしても、不用意には仕掛けはしまい。
 あるいは綺礼と時臣が繋がっているのなら、時臣のサーヴァントが勝てるだけの情報を集めさえすればそれでいい。

 そんな状況下、切嗣の取るべき選択肢は二つ。時臣と綺礼に固執し目下面倒となるこの二人の排除を優先するか。
 あるいは綺礼らの策を逆手に取り、相手が策に縛られている間に他のマスターを討つか。

「…………」

 小一時間ほど街中を彷徨ったが、やはり相手からのアプローチはない。呆けている様を装いながらその実周囲に糸を張ってみても掛かる獲物は一つとしていない。こちらには今、セイバーがいないにも関わらず。

 仮に今現在、アサシンが生存しておりこちらを監視しているとしても、やはり諜報に徹しているに違いない。舞弥が今一度使い魔を放とうとも不用意には破壊しない。破壊しては、意味がない。

 ならば────……

手札(セイバー)の実力を把握しておくには良い状況か……」

 アサシンを一刀の下に葬り去ったセイバーだが、あんなものは戦闘を行った内にも入らない。
 戦いが両者の実力がある程度拮抗していなければならないのなら、昨夜のあれは虐殺にも等しい強襲だ。実力を判別するには物足りない。

 手にする剣の性能を確かめるには、相応の相手が必要だ。幾らそれが名剣の誉れを受けた業物だったとしても、それを己が目で見なければ切嗣は信用しない。

 昨日の一件は必要に駆られたからで、仮にセイバーが使い物にならなかったとしても切嗣一人が逃げ切る算段くらいは用意していた。そういう意味で言えば、今現在のセイバーに対する切嗣の評価は悪くはない。

 無論、それは道具の有用性としての評価だが。

 切嗣は昇り来る朝日を見つめながら、通信機に手を掛ける。無論のこと、相手は久宇舞弥だ。切嗣以上にこの街の現状を把握している彼女に問うべき用件は唯一つ。

「現在、拠点の判明している敵は」

 早朝にも関わらず間髪置かずに答えは返ってくる。

『御三家が一角遠坂時臣、教会に保護を受けた言峰綺礼。そしてロード・エルメロイことケイネス・エルメロイ・アーチボルトです』

「確か僕がセイバーを召喚した日、ロード・エルメロイは戦闘をしていたんだろう。その相手の所在は?」

『掴みきれておりません。ロード・エルメロイは追跡の結果、方角からある程度の目処をつけ周辺ホテルの名義を確認したところ、本人の名義でチェックインをしていたので簡単に割り出せました。
 もう一人の方──ウェイバー・ベルベットとそのサーヴァントは深山町方面へ飛行宝具で向かい、その途中に言峰綺礼に使い魔を破壊されてしまい、その後の追跡は不可能でした』

 おかしな話だ。ウェイバーなるマスターは外来に違いはない。その後に続いた舞弥からの説明によれば彼はケイネスの門下生であるという。ならばそんな外来の魔術師が、どうして深山町へと向かう。

 御三家のようにこの街に拠点を持たない魔術師の大概はホテルを使う。魔術師として土地を購入する場合、セカンドオーナーといらぬ悶着になりかねないからだ。
 過去にそういった例もあったと聞くし、切嗣自身も深山町にわざわざ一軒家を購入しているからそうであってもおかしくはない。

 しかしベルベットという聞いたこともない家系に果たしてそれほどの資金が用意できるのか。舞弥の話によればこの少年がケイネスの聖遺物を盗んだ可能性が高く、ならばそれは計画的な行動ではなく思い付きにも似た突発的な行動ではないのか。

 いずれにせよ詳細は不明。それ以外に考えられるのは、廃屋にでも身を潜めるか、住民の家を借用するか。

「…………」

 切嗣は少しばかり思案し、

「そのウェイバー・ベルベットというマスターについても、ある程度の拠点の絞込みは出来ているんだな?」

『はい。細心の注意を払い監視もしています。未だ網に掛かった様子はありませんが』

「ならばいい。今はまだ、な」

 遠坂時臣に仕掛けるのはまだ早い。奴を相手にするという事は言峰綺礼をも敵に回すという事。現状、詳細不明な相手を二人も敵に回すのは巧くない。ウェイバー・ベルベットについては言わずもがな。

「決まりだな。次の標的はロード・エルメロイだ」

 今を輝く時計塔の花形講師。生まれついての天才。名門を背負いし神童と謳われた一級の魔術師。典型的な魔術師としての思考をし行動をする男。それ故に読みやすく、同時に侮る事は許されない。

 わざわざ自身の名義でホテルに滞在しているのは自信の表れであり、ケイネスの人となりを表す指標の一つと考えられる。
 舞弥の話によればホテルの最上階一フロアを貸切にしているらしい。ならばその階層は既にケイネスの魔術工房へと姿を変えているに違いない。

 魔術師が他の魔術師の工房に迂闊に踏み込めば死を覚悟しなければならない。これはどれほど位階の高い人物であっても忘れてはならない魔術師の暗黙のルールの一つ。
 他人の領域に土足で踏み込む輩には、相応の報いを。研究成果に手を出そうものなら死よりも苛烈な地獄が顎門を開いて待っている。

 だが此処に在るのは魔術師殺し。工房に引き篭もった魔術師を殺害した事など、幾らでもある。

 けれどケイネスほどの高位魔術師の工房に挑もうというのなら、切嗣とて相応の準備が必要だ。しかし切嗣には時間がない。時臣と綺礼が『見』に回っている間に事の全てを済ませてしまいたい。
 そう考えれば、やはり猶予は一日──後二十四時間。

「…………」

 正攻法では、難しいか……?

 そう考え、切嗣は小さく笑みを零した。それは酷薄で、非情な冷笑。

「世界の全て、六十億を救う為ならば──」

 それが必要な犠牲であるのなら。
 ──僕はこの手を、無辜の人々の血で染め上げよう。


+++


 衛宮切嗣がサーヴァント召喚を行った屋敷に、その少女の姿はあった。

 手入れなどまるで行き届いていない庭園。打ち捨てられたかのような土蔵。埃が薄っすらと積もる母屋と離れ。彼女の姿はそのどれでもなく、道場にあった。

 セイバーがこの場所にいるのは単純に、この道場がもっとも汚れていなかったからだ。他の場所がほとんど掃除されていないのに対し、この場所は切嗣が買い取る以前の所有者が使用していたのか、さほど汚れてはいなかったのだ。

 彼女は今、戦闘装束とも言うべき甲冑を身に着けていない。

 霊体化が出来ないと判明したその夜に、舞弥はセイバーの為の衣類を手配し翌朝には屋敷へと届けていた。サーヴァントは現界しているだけで魔力を消費するし、具足もまた魔力で編まれている。
 余計な消耗はマスターに負荷をかける。何より、夜ならばともかく昼にあの格好のまま出歩いては、出歩かなくとも姿を見られては不審者として扱われかねない。

 その為、セイバーは舞弥が用意した衣類の入ったアタッシュケースからダークスーツを取り出し、身に着けていた。

 セイバーが身に着ければ男装にも見えるダークスーツ。切嗣と共に戦場を渡り歩いていた舞弥には今現在の日本のファッションなど理解出来る筈もなく、セイバーもまた衣装にそれほど頓着する性格でもなかったので、男装をした少女の違和感に異議を唱える者は皆無だった。

「────」

 広い空間。一面の床張り。冬の気配がしんと空気を凍らせる。その空間の片隅で、少女は一人瞳を閉じて瞑想に耽る。

 セイバーは自身を剣と断じている。マスターからの指示がない以上、むやみやたらと外出するのは巧くないし、そうする意味もないと思っている。

 たった一度の作戦行動──あれを共闘と呼べるかどうかは不明ながら、彼女と切嗣は巧く噛み合った。互いが持ちえぬものを補い合い、会話すらまともになくとも上々の結果を出して見せた。

 セイバーが剣であるのなら、切嗣は担い手だ。剣は主を認めた。彼ならば、この剣(わたし)を巧く振るえると。

 かつて彼女が戴いた称号を思えば、その扱いに憤慨を覚えても何ら違和感などない。しかし彼女自身がその境遇を受け入れている以上、否はない。

 ──この身は剣でいい。誰かの手によって振るわれ、敵を断つ刃であれば。

 王という称号はこの時代、この戦場に全くの意味を齎さない。やたらと自尊心を振りかざせば、待っているのはマスターとの軋轢くらいだろう。

 聖杯を手に入れる。

 その利害が一致している間は、彼と彼女の間に摩擦はあってはならない。不和は勝利への道を遠くする。

 是が非でも聖杯を。
 必ずや掴み取る。
 そうでなければ、彼女がこの時代に迷い込んだ意味がない。

「────」

 何かを考えていても、瞼の裏に蘇るのはいつも同じ光景。

 落日の丘。
 血と夕焼け、そして屍が染める紅の終着点。
 その戦いに勝者はなく。
 ただ血と涙だけが流された。
 戦いの終わりは凄惨にして苛烈。
 そして誰もが望みもしない結末で終焉を告げた。

 彼女はそれが、許せなかった。こんな結末を望んで選定の剣を引き抜いたのではない。個を犠牲にして王となったわけではない。

 誰かの笑顔が見たかった。皆が笑ってくれていればそれで良かった。だから嘆きと悲しみに彩られた終わりを、決して容認する事は出来ない。

 万物の祈りを叶えるという聖杯。その力を以ってして──

「私は必ず、祖国を救う」

 言葉にし、祈りをより強固なものとする。

 たとえその結末(ユメ)を、彼女自身が見る事を叶わずとも……
 この身が世界の戒めに囚われようとも……
 今の自分という存在の全てが、消えてなくなったとしても────……

 万難をその身で耐え、汚辱と苦痛に塗れてなお。
 彼女の決意に揺るぎはない。
 どんな言葉も彼女の心を震わせる事はない。

「聖杯を掴み、我が祈りを叶える」

 その為に必要な犠牲であるならば。
 ──私はこの手を、無垢な人々の血で染め上げよう。

 その時、セイバーが耳につけたままだった通信機に連絡が入る。同時に彼女は、閉じていた瞼を開き真っ直ぐに前を見据えた。

『次の作戦が決定しました。只今より作戦概要を説明します』

「はい」

 彼女の瞳に迷いはなく。
 視線は遠く──此処ではない何処かを見つめていた。


/2


 ハイアットホテル。

 その建造物は今現在、冬木市において完成している建物としては最大の高さを誇るホテルの名だった。
 無論、最大であるのは高さだけでなく、人員の質、内装、料理、金額。そのどれをとっても名実共にこの都市最高級のホテルと言える。

 未だ建造途中であり、完成の暁にはハイアットホテルの標高を抜き新都の目玉になると言われている通称センタービル。彼の摩天楼が積み上げられるまでの最上位。その至天──つまりは最上階に、彼らの姿はあった。

 上質なソファーに身を預けた男は血のように赤いワインを燻らせながら、遥か眼前に眩く輝く夜景を俯瞰していた。その様はまるで遊行に赴いた貴族のよう。彼からは、この戦場に身を置く者が持つべき緊張感がまるで感じられなかった。

 しかしてそれも当然と言えば当然だ。この階層(しろ)は彼の手によって創造された工房(ようさい)であり、傍らにはサーヴァント。何より己自身の才に全くの疑問を抱いていない。たとえ襲撃があろうと完膚なきまでに返り討ちに出来る算段があった。

 それがこの男──ケイネス・エルメロイ・アーチボルトの比類ない自信だった。

「ねえケイネス」

 彼の対面で同じくワインを傾けていた女性が口を開く。彼女はケイネスの許婚であり自身も名門であるソフィアリ家の出自を持つソラウ・ヌァザレ・ソフィアリ。その麗しい美貌には翳りが見えている。

「貴方の聖遺物を奪ったって子と接触して以来、ずっとこのホテルから出ていないけど。戦う気はないの?」

 許婚からの詰問。戦火舞うこの戦いの舞台で、穏やかにワインで喉を潤す男に問う。問われた男は、泰然自若の様を崩さぬまま軽やかに答えた。

「勿論あるさ。だが闇雲に戦火を広げたところで不利になるのはこちらだよ。他の連中の情報は完全ではないし、わざわざ出向いてやる理由はない。向こうから来るのなら別だが」

 戦えば戦うほど、晒さなければならない手札は増す。何処に盗人の目が光っているかも分からないままに無策で戦うほどケイネスは愚かではない。
 手札が暴かれ尽くしてしまえば、後に待つのは死でしかない。ならば日和見も時には必要だ。

 ウェイバーとの邂逅は偶然の産物であり、所詮は様子見。戦場となる冬木の調査と、相手が奴であろうとなかろうとサーヴァントの性能を見る程度で済ます心積もりであった。

 真に戦うのなら自らの用意した舞台でなければならない。必勝を確約した時でなければそれはただの蛮勇であり匹夫の勇。つまるところの無謀の極み。
 勝算もなく誰彼構わず相手取ろうとする連中の心中など、ケイネスには理解が出来ない。

 魔術師であり研究者であり、そして探求者であるが故の慎重さ。それを是と出来るだけの器がケイネスにはある。

 故に今現在、彼が戦闘を行うのならこの城でなければならないと考える。外で戦う時期ではなく──

「…………」

 ケイネスは僅かに視線を横に滑らせ、姿の見えない従者を見やる。

 彼の危惧するは彼自身のサーヴァント。本命ではない次善。そしてその逸話に過ちを犯した過去を持つ男。ケイネスは己がサーヴァントを信用していない。いや、その実力を妄信していないというべきか。

 緒戦、ランサーはウェイバーのサーヴァントとの戦いを優位に運んだが、あんなものは当然の結果。赤毛の王自身が言っていたように、王たる者の剣が騎士の槍の上を行くとは限らない。上を行く必要がない。

 見るべきものが違い、戦うべき相手が違うのだ。戦略を扱う君主と戦術レベルでの戦いを得手とする騎士とでは。

 それでもランサーの槍は優秀だろう。他のサーヴァント連中とやりあったところで、一方的に押し切られるという可能性は極めて低い。低いが、それは決して絶対ではないのだ。

 未だ姿すら見せぬサーヴァントの中に完全に格上の相手がいないとも限らない。そんな相手との戦いを想定しなければならない以上、手札は晒すべきではないのだ。

 格上に挑むのなら、未知という唯それだけの事柄が武器になる。

 だから今、戦うのなら他の連中の目が届かず、自分の実力を遺憾なく発揮出来るこのテリトリーで。他の連中が互いの尾を喰らい合う様を眺望しながら、向かい来る蝿を払えば当分は良い。

 そう既に決めているケイネスはソファーに身を埋める。

「……不満そうだな、ソラウ」

 対面の女性の顔に滲むそれ。ケイネスは聞かずとも良い事を、聞く必要のない問いを投げかける。

「そうね。私の置かれている状況を思えば、慮ってくれるのなら、むしろその不満も理解してくれるんじゃなくて?」

 ソラウの置かれている状況──それは彼女がこの場所に存在する唯一つの理由が、サーヴァントへの魔力供給の為、であるからである。

 ケイネスがマスターでありながら──令呪を宿しながら──魔力供給をソラウに行わせるという本来ならば有り得ない状況を組み上げたのは、無論の事ケイネス自身である。

 サーヴァントの基本ステータスを決定付ける要因は、マスターからの魔力供給量でありその多寡に比例する。最低限パスさえ繋がっていれば問題はないとはいえ、送り込める魔力が多ければ多いほどサーヴァントはその能力を底上げ出来る。

 しかしサーヴァントへの供給量を増やせば、当然術者本人が使用出来る魔力の量は減少する。聖杯戦争はマスターとサーヴァントの二人一組の戦争だ。そのバランスが傾けば、どれだけの強者であろうと脆くも崩壊する破目になる。

 故にケイネスはこの策を打った。サーヴァントへの魔力供給をソラウに任せ、自身は十全の魔力を温存する。ケイネスと他マスターが戦闘を行った場合、どちらがより有利かはこの時点で既に明白。戦うその前よりケイネスは相手の優位に立つ事が出来るのだ。

 この策に弱点があるとするのなら、それはソラウ自身に他ならない。彼女は名家の出とはいえ、その薫陶を授かれなかった者である。身に宿した魔の宿業は培われる事なく、ケイネスの人生に添えられる花として飾られるのみ。

 もし彼女が敵に狙われれば、彼女自身が身を守る術はない。最低限の礼装を持たせてはいても、そんなものは不慮の事故を防ぐ程度の意味合いしかない。明確な殺意と敵意に晒されてしまえば為す術もなく殺されてしまうだろう。

 だからケイネスは彼女の身の安全を案じた。案じたが故に、彼女の自由を束縛した。ならば彼女の不満と鬱憤も、頷けるというものだ。

「籠の鳥も構わないけれど。こういう生き方を受け入れてはいるけれど。だからといって私は置物じゃないの。この部屋から一歩すら出るな、なんて事、耐えられるわけがないじゃない」

「ああ、分かっている。分かっているとも。だがこれも全ては君の為だ。この階層は私の工房であり、万全の布陣を敷いてある。それでもそれは完全というわけではない。
 私の傍であり、サーヴァントの傍。そこが君の安全を完全に保障する場所なんだ、分かってくれ」

 君の為、そう言いながらケイネスの言葉の全ては自身へと向けられている。本当にソラウの身を案じるのならこんな戦地に連れて来る必要がない。こんな愚にもつかない戦いにそもそも赴く必要がないのだ。

 ケイネスに悪癖と呼べるものがあるのなら、それはこうした超越者としての自負。幼き頃より世界の全てを醒めた目で見る事を許された者だけが感じる虚無感。その穴を埋める為の享楽。

 何でも手に入り、全てが思うがまま、彼の想像の外に出る事無く続いた人生への、反感とも呼ぶべき童心。
 この戦いへの参戦は、そんな人生への反逆なのだ。この戦いですら、彼の埒外に相当しないなら、彼の人生はそういうものなのだと納得が出来る。そうせざるを得ない。

 この未だ明確な勝者なき戦いの勝者という栄光を、その栄光に塗れすぎた人生の最後の華として飾り、ケイネスはこれまで通りの完璧な自身のままその道程を終えるだろう。時計塔の歴史にその名を刻むだろう。

 だが願わくばこの戦いで、己の思惑を超えるものと出会いたい。
 そう、掛け値なしの天才……ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは思い──

 彼の理解を超えた怪物の足音は、もうすぐそこまで近づいていた。


+++


「……ソラウ。フロントに何か注文を入れたか?」

 ケイネスは不意に、何の前触れもなくそう問い質す。

「ええ。ホテルのレストランもエステも使えない、使うなって言うんだから、せめて食事くらい私の好きなものを頼んでも構わないでしょう?」

「ああ、それは構わないが……姿を見せろ、ランサー」

 音もなく従者はその姿を虚空から現す。若草色の戦闘服と、端正な面貌。目尻の下に輝くは、彼の命運を狂わせた魅惑の黒子──

「サーヴァントの気配はあるか」

「いえ。少なくともこの階層にはありません」

「ケイネス……まさか、敵?」

「ああ。どうやらそのようだ。巧く化けているが、私の網からは逃れられんよ」

 このホテルハイアットの最上階がケイネスの城であるのなら、当然この空間全てが彼にとって手に取るように分かる。

 階下との齟齬が出ないよう、またソラウの勝手にも対応出来るよう人払いの類は仕掛けていない。故にこの城は一般人でも容易に侵入は可能であれど、監視カメラより強力な目を張り巡らせているケイネスの視線からは逃れられない。

 つい今し方エレベーターより台車を伴い最上階へと踏み入れた者──このホテルの従業員の服装を纏った男を、けれどケイネスは敵と断じた。

 従業員の顔など把握しておらず、他の参戦者についても最低限の情報しか仕入れていないケイネスがそう判断を下した理由──それは彼の勘である。

 ケイネスは自身の直感を疑わない。研究者としての観察眼が捉えた、常人とは明らかに違う身のこなしや鋭すぎる眼光も、直感の前には霞んでしまう。いや、それらを全て含めた己の勘であるのなら、そこに疑う余地はない。

 これまでもそうしてきたように、ケイネスは自身の信じるものをこそ真とする。

「ふむ……この早期に敵の工房へと挑もうという輩がいるとは。それは果たして蛮勇か、それとも……」

 呟きながらケイネスは立ち上がる。ソファーの脇に置かれている瓶が僅かに揺らめいた。

「敵はどうやらマスターだけのようだ。だがそれが囮ではない保障はない。ランサー、ソラウの守護は任せる。警戒を怠るなよ」

「御意に」

「では客人の出迎えへと赴こう。ディナーの前の良い運動になりそうだ」

 立ち上がったケイネスの後を追うように、巨大な瓶より銀色の液体が流れ落ちる。それは意思を持つかの如く自律し蠢き、

Automatoportum(自律) defensio(防御) : Automatoportum(自動) quaerere(索敵) : Dilectus(指定) incursio(攻撃)

 ケイネスが扉を開くその直前に唱えた起動の術式を受けて球体となり、僅かに跳ねた。

 数多の術式と罠を仕掛けたこの階層のどれよりもケイネスが信を置く礼装──

 それがこの『月霊髄液(ヴォールメン・ハイドラグラム)』に他ならない。

 廊下へと躍り出たケイネスはそのまま視角外の目が捉えた台車を押す従業員へと視線を向ける。これより客室へと赴こうとしていた相手の男は、突然の遭遇に足を止めた。彼我の距離は裕に十メートルは離れている。

「その程度の変装で私の目を誤魔化せると思っていたのなら、少しばかり落胆せざるを得ない」

「…………」

「我が城へようこそ。歓迎するよ魔術師。だが魔術師の城へ足を踏み込むというその愚行の意味を解さぬわけでもあるまい?」

「…………」

 相手は何も答えない。これが本当にただの従業員であるのなら、ケイネスの詰問に目を白黒させ右往左往してもおかしくはない。無言、何の反応も示さないということはつまり、逆に己がこの状況に動じない者であると明確に告げている。

「ふむ……だんまりか。魔術師同士の決闘である以上、正々堂々と行うべきとこうして姿を見せてやったが……会話すらする気のない相手では意味もなかったか」

 たかが一魔術師を相手にする為に、わざわざケイネスが姿を見せる必要性はない。敵と断じた以上、工房内の術式を作動させればそれだけで粗方は終わらせられる。
 ケイネス自身が言ったように、こうして姿を見せたのは魔術師同士の決闘を行う上での最低限の礼儀であり、そして敵の工房に無謀にも──勇敢にも戦いを挑んだ相手への賛辞でもある。

 しかし相手がケイネスの意思に同調せず、魔術師としての礼を欠くのならば是非もない。ただ目前の敵を打ち倒すのみ──

「……良く回る舌だな」

 唐突に、これまで無言を貫いていた男が音を発する。

「ようやく喋る気になったかね? 人のテリトリーに土足で踏み込んだのだ、礼を欠かぬよう挨拶でもしてみせてはどうだ」

「ああ。これが僕の──僕流のやり方(あいさつ)だッ!」

 男は押していた台車を蹴り飛ばす。勢いを得た料理を載せたままの台車は車輪を回しケイネス目掛けて一直線に直走る。

「フン──scalp()

 ただそれだけの言葉で傍らに転がる銀色の球体へと指示を飛ばす。球体は一度跳ね、その形を変容させ、薄くしなやかな刃となり襲い来る台車を真っ二つに斬り裂いた。

 稚拙な挨拶だと思ったのと同時──後方にて爆音。月霊髄液が台車を斬り裂く音を掻き消すように、遥か後方の窓ガラスが大きな音を立てて破砕される。

 対衝撃の結界を敷設してあるこの工房は生半可な魔術では傷の一つもつけられない。魔術師がそれを成そうと言うのなら、相応の術式と時間が必要だ。しかしそれは──この工房の全ては、対魔術師を想定してのもの。

 その上を行く怪物達(サーヴァント)の攻撃に対する備えはない。そんな備えは物理的に不可能であり、そして無意味である事を、ケイネスは理解していたから。
 それでも結界は上等。たとえサーヴァントが相手であろうと突破は容易ではないレベルの城を構築した自信はあった。

 けれど誰が予想しよう。

 冬木市で現在最も高いとされる建造物の、それも最上階の窓を突き破り、都合二十四層にも迫る多重結界を一刀の元に打ち砕き襲い来る真正の怪物がいようなどと──!

「くっ──ランサー!」

 ケイネスが振り仰ぎ、敵の姿を目視すると同時に従者を呼ぶ。
 それよりも速く、若草色の英霊は扉を粉砕し回廊へと躍り出て、現れた白銀の鎧の剣士と己が主の間に立ち塞がる。

「はぁぁあああ……!」

 それをお構いなしとばかりに白銀の剣士──セイバーは視えない剣を振り上げる。
 同時、従業員を装った男──切嗣は目深に被った帽子を放り捨て、懐より一丁の銃を引き抜いた。

 セイバーが剣を振り下ろしたのと、切嗣が撃鉄を撃ち落したのはほぼ同時。

 セイバーの振るった剣は手にしたその剣を不可視にせしめている暴風を解き放ち、回廊中を蹂躙し──闖入者の登場に気を取られて切嗣への注意を疎かにしたケイネスの背を目掛けて魔銃の弾丸は放たれた。


/3


 剣の英霊の巻き起こした風により、工房の内装は無残にも粉砕され、破片と噴煙が立ち昇る。けれどセイバー侵入からの騒音は階下には漏れていない。未だ生きている遮音の結界がその役目を果たしているからだ。

 噴煙の中心に立つ魔術師──ケイネスは静かな声で、セイバーの風を二対の槍で受け流し、主を守護した従者に告げる。

「あのサーヴァントの足を止めておけ。倒せずとも構わん。優先するべきは、ソラウの守護だ」

「御意。マスターの健闘を祈ります」

「フン──誰に対してものを言っている。私はロード・エルメロイだ」

 主の言葉を受け、双槍の騎士は白煙の彼方へと姿を消す。

「さて──」

 これまで背を向けていた相手へと振り返る。ランサーがセイバーの相手を務める以上、ケイネスの敵は決まっている。
 背後からの銃弾を自動防御した水銀の礼装が形を崩す。どのような命令にも対応可能な球形を形作り、主の命を待つ。

 晴れていく白煙の先に立つ男の姿を、素顔をようやく目視する。

「ほう、貴様の顔は何かで見た覚えがあるな……確か、そう、魔術師殺しと呼ばれた男か」

 鷹の如き双眸がケイネスを射抜いている。握られた右手には白煙を上げるトンプソン・センター・コンテンダー。衛宮切嗣を魔術師殺し足らしめる魔銃。排莢は素早く、装填は秒を切る速度で行われた。

「噂でも聞いている。およそ魔術師らしからぬ手段で殺しを行う異端者。おまえを都合良く使う人間もいたようだが──」

 決闘など以っての他。狙撃を始め、毒殺、公衆の面前での爆殺、対象の乗った旅客機ごと爆破と切嗣の殺しの手段には枚挙に暇がない。しかしその全てに共通するのは、それらはおよそ魔術師の用いる手段ではないというもの。

 魔術師でありながら魔術を用いず、代用出来るものは科学の力で補う。純血に近しい魔術師ほど科学を忌み嫌い、その隙を衝くが如く衛宮切嗣は殺しを達成する。

 異端と呼ばれるのも当然だろう。本人はそんなもの、歯牙にもかけていないのだろうが、正しく純血たるケイネスにとっては忌避すべき敵に違いない。

 しかしだからこそ、ケイネスは今この状況に少しばかり違和感を覚えた。

「悪辣な手段で殺しを行う暗殺者風情が、どうして今回ばかりは姿を見せた? 貴様のやり方を慮れば、それこそ闇討ちが上等だろうに」

 そもそもの話、敵魔術師の工房に真正面から踏み込むという暴挙自体が理解不能。並の魔術師ではしない、出来ない事をするという点で裏を掻くつもりだったのかもしれないが、それでもやはり釈然としない。

 姿を晒したがる暗殺者などまずいない。せめて順当に考えるのなら、セイバーを囮に使い切嗣自身はケイネスの背を狙える位置に誘き寄せるべきだろう。それが切嗣のやり方だ。しかし今の状況は、切嗣自身が囮となっての決死行だ。

 ケイネスが工房内の仕掛けを最初に発動させていたのなら。
 有無を言わせずランサーを差し向けていたとするのなら。

 理に適わない行動、それも自身の生死に直結するものだからこそ、理によって稼動する魔術師であるケイネスにとっては不可解であり、同時に興味深くあった。

 故に思う。マスターとサーヴァント。どちらを使い潰すべきか、潰しの利くものかわからぬ男でもないだろうに。ならばその行動の真意を問う。

「そんなに自分が殺される理由が知りたいか」

「何……?」

「おまえはただの試金石だ。『今』の僕の性能を試すに丁度良い、な」

 差し向けられた大口径の銃口から放たれる弾丸は、またしても水銀の自動防御により阻まれる。磨き上げた鏡面のような球面を弾丸は滑り、壁の一角に穴を開ける。

「く、くは……」

 どろりと溶ける水銀の奥から漏れ出す吐息。

「くははははははッ!」

 それはケイネスの口から零れた哄笑だった。

「この私が、試金石……? このッ! ロード・エルメロイを指してッ!?」

 時計塔にその名を知らぬものはおらず。その勇名は轟くばかり。純血と確かな才を持ち合わせた生まれながらの天才を指し、外道に堕ちた魔術師が放って良い言葉ではない。

 ケイネスから見ればそれは何処までも思い上がり。一笑に附すか憤怒を以って襲い掛かって然るべき暴言。けれど──

「──面白い」

 彼は、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは、それをこそ望んでいたのかもしれない。

「私の名を知る者、力量を弁えている者は、まず私と争おうなどとは考えなかった。私の人生の中で魔術師同士の決闘を行った事など数えるほどしかない」

 そうして挑みかかってきた連中の全てを返り討ちにし、ケイネスは自身の名をなお轟かせてきた。

「私に挑んだ連中は彼我の実力差も測れない無能ばかりだった。だがこの私を試金石(ふみだい)と呼んだのは、貴様が初めてだよ魔術師殺し」

 無能は無能なりに、ケイネスが自分より位階の高い者だと弁えてはいた。彼らの無謀に理由があるとするのなら、ケイネスを倒した先にある栄光に目が眩んだか、自身の力を過信したか、そのどちらかだ。

 けれど切嗣はケイネスを下に見た。魔術師の位階が上であると知りながら、それでも切嗣はケイネスを自身の力を試す為の踏み台だと言い切った。
 暗殺者が真っ向勝負でも勝てる『程度』の相手だと、そう言ったのだ。

「これを面白いと言わずして何と言おう。このロード・エルメロイ──ケイネス・エルメロイ・アーチボルトを我が魔城で相手取り、打倒し、あまつさえ生還せしめるという、その蛮勇。私はそれを勇猛と讃えよう」

 ケイネスの瞳が妖しく鋭く眼前の敵手を射抜く。高まる魔力の波動、立ち昇る殺意の嵐は戦場たるこの魔城を包み込んで余りある。漏れ出す魔力に充てられたのか、銀の球体がその表面を波立たせた。

「しかして知れよ魔導の何たるかを弁えぬ愚か者。その勇猛をすら叩き伏せるからこそ──私はロード・エルメロイなのだ」

 それが合図だったのか、水銀が勢いよく跳躍する。中空に浮かんだそれは、まるで触手のように一筋の刃を標的目掛けて伸ばし、突き殺さんとばかりに肉迫する。

「…………」

 一直線に放たれるだけの刃。それはどれだけ鋭利であろうとも、目視可能で直線的な攻撃ならば回避など造作もない。
 そう判断し、半身をずらし攻撃の隙を衝くが如く左手に携えたサブマシンガンを放とうとして──

scalp()

「……ッ!」

 主の命令を忠実にこなす従者のように、水銀は物理法則すら捻じ曲げて、鋭角にその刃を折り曲げた。

「ほう。躱してみせるか」

 鞭の撓りの如く伸び切った水銀は球体へと戻っていく。その刃先に付着した血液は、衛宮切嗣の肩口を斬り裂いた証明だった。

 もしケイネスの命令(コマンド)もなく水銀が自律して切嗣を狙うものであったのなら、それこそ頚動脈を切り裂かれていたかもしれない。
 切嗣が反応出来たのはこれまでに培った戦闘経験の賜物と、ケイネスが未だ様子見の体を残しているからに過ぎなかった。

 ──しかしここまで予定通りだ。ケイネスは余裕の体を崩していない。

 己の城で、自身の能力を信じているからこその過信。それも相手がまともな手段で戦わない外道であり、それが正面切って挑んで来たとすれば、その余裕はむしろ当然。そしてそれは切嗣の予想の通り。

 セイバーが強襲した際に放った魔風により、この階層に仕掛けられた呪的トラップは大半が損耗ないし停止している。
 ケイネスほどの魔術師が構築したものだ、それは精緻であり緻密だろう。しかしそれは裏を返せば、機械と同じように精密であればあるほど外的要因に脆いという事だ。

 遮音や人払いなどの破壊されては支障のあるものならばともかく、獲物を嬲り殺しにする為の仕掛けはケイネスがとことん手を入れている筈であり、故にそれらは既に沈黙している筈。

 ここがケイネスの城であろうとも、現在警戒すべきはあの水銀の礼装のみ。ケイネス自身が絶対の信を置き扱うあの礼装にだけ、今は注意を払えばいい。

「どうした? 仕掛けて来ないのか? 来ないのならばこちらから行くぞ」

 ケイネスの踏み込みに同調し、水銀もまた攻撃態勢へと移行する。

 まず切嗣が行うべきはあの礼装の性能分析。種さえ割れてしまえばどんな強力な礼装とて子供騙しの手品でしかない。
 そして何より、この戦いは勝利が第一条件ではない。切嗣が自身で発言したように、ケイネスを試金石とした己の性能を確かめる事がまず第一。

 セイバーが真に強力なサーヴァントであるのなら、相手が三騎士の一角たるランサーであってもそれほど猶予はない。
 限られた時間の中、切嗣が行うべき事は数多い。けれどその全てをこなし、この第一目標を突破する。

固有時制御(Time alter)──二倍速(double accel)

 衛宮切嗣にとっての真の緒戦。
 聖杯へと至る戦いの物語の幕が、今此処に開かれた。


/4


 衛宮切嗣とケイネス・エルメロイ・アーチボルトが対峙する場所より後方。
 未だ煙る白煙を、手にした紅の長槍で一薙ぎに払い、その双眸が見据えるは白銀の少女騎士。

「地上数百メートルに位置し、しかも我が主の多層結界が張り巡らされたこの魔城。如何にして突破した、サーヴァント」

「近場のビルより跳び、加速して一息に斬り裂いただけの事」

 近場とはいえランサーの知覚外からの跳躍であるのなら、数十メートルでは足りないだろう。百メートル以上離れた場所の、しかもハイアットホテルより背の低いビルより跳び、この多層結界を突き破るだけの加速を得て一刀の元に薙ぎ払った。

「なるほどな。その程度、楽にこなせてこその最優の剣の英霊(セイバー)か」

 相手が手にするは不可視の得物。刃渡りどころか柄さえも目視できない。それでもランサーは目の前の少女騎士をセイバーと断定した。

「私がセイバーだという保証はないぞ? この手にする得物、あるいは槍かも知れん」

「ハッ。今代のクラスにおいて、槍の御座に招かれしはこの俺唯一人。別段クラスに拘りなどないが、それは譲れん」

 ランサーは手にする二本の槍を翼のように広げる。紅の長槍と黄の短槍。対するセイバーもまた、下段に構えた不可視の剣の握りを強くした。

「最後に一つ、訊いておこう。セイバー、貴様の今宵の襲撃の目的は何だ」

「可笑しな物言いを。我らサーヴァントは聖杯を賭けて合い争う間柄。殺し合う以外に余地はない」

「そうではない。貴様は我が主の首級を奪いに来た一介の襲撃者なのか、俺の首を獲りに来た一人の決闘者なのか」

「…………」

 どちらも結果は変わらない。ケイネス・ランサー組の脱落を狙うという結果には何も違いはない。発端が奇襲であったとはいえ、こうして一対一で差し向かい合った以上、互いに剣を交える事は必定だ。

 しかしセイバーの目的がランサーの打倒ではなくケイネスの殺害であるとすれば、それはランサーには許容出来ない。主の剣となり盾となり忠誠を誓う従者。真に忠節を尽くす事。それこそがランサーの求めしもの。

 されど相手が騎士の礼儀に則り剣を執るのであれば、こちらもまたその礼節に応えなければならない。騎士を標榜する者として。騎士道の体現者として。

 故に問い質した。
 汝は我が槍の誉れを受け取るに相応しい勇者か。
 ただ首級を求めし英雄の成れの果てか。

「…………」

 セイバーは僅かに沈黙し、一瞬だけ瞳を閉じた。瞼に浮かぶ殺戮の丘を追想した。あの光景を覆す為ならば、手に執る剣の閃きに迷いなどない。あってはならない。
 たとえこの身が遍く騎士達の羨望を集めた身であったとしても。胸に秘めた祈りと天秤に掛けるのなら、その片皿は容易く傾く。

「私は勝利の為に剣を振るう。我が道を邪魔立てする者、その悉くを斬り捨てるのみ」

「……そうか。残念だなセイバー。貴様となら、尋常の勝負を競えるものと思ったのだが」

「名も明かせぬ戦いに尋常も何もないだろう。ランサー、私の道を阻むというのなら、まずはその首を落とさせて貰う」

「抜かせ。我が槍の閃きをその身を以って知ってなお、その大言を吐けるものなら吐いて見せろ──ッ!」

 風が奔る。全七騎のサーヴァントにおいて最速の男が疾風をすら置き去りにしてセイバーの喉元へと迫る。繰り出す一手は加速に物言わせた赤槍の刺突。
 黄槍よりもリーチの長いその槍で以ってして、サーヴァントの急所を一撃の下に抉り取らんと赤い閃光は迸る。

 目にも止まらぬ──否、目にも映らぬ神速の一撃。回避など以っての他。迎撃すら許さぬその渾身の一刺しを──

「──はぁっ!」

 セイバーは振り上げによる一撃で容易く撃ち落し、どころか即座に反撃に打って出る。

「ッ──!」

 鋭い踏み込み。振り上げた腕を強引に引き戻す。姿勢も十全ではなく、力に物言わせた単純なまでの、けれど圧倒的な暴力。その一撃でセイバーはランサーが防御に回した左の黄槍を弾き飛ばした。

 神速の初撃を難なく迎撃されたという事実に対する間隙。そしてセイバーの細腕からは考えられもしない程の膂力で振るわれた一刀は、後手に回らされたランサーの虚を衝くには充分すぎた。

 弾き飛ばされた黄槍が壁面に衝突した瞬間、忘我したランサー、無理な一撃を見舞ったが故の硬直を強いられたセイバー、どちらもが刹那をすら置き去りにする瞬きの停止状態から脱し、動き出す。

 ランサーに黄槍を拾うという選択肢はない。今眼前にあるは時に名を残し歴史に謳われた英傑だ。たとえそれが聖杯の奇跡に魅せられた類のものであったとしても、決して油断を見せて良い相手ではないとたった一合で理解した。

 片翼をもがれたランサーの一手は後退。セイバーが一歩踏み込んでいる以上、その場所は槍の間合いではない。己の得意とするフィールドへ、そして単槍となった赤槍を両の手で担う為の一手。

 対するセイバーは当然の如く攻めの一手。相手の武装を剥いだというこの好機をむざむざと逃すわけには行かない。

 ただ不可解なところがあるとすれば、それはランサーの得物。槍をそれぞれの手で担うという異端も異端の極地。そこに目を瞑るわけには行かない。しかしそれでも、セイバーに後退はない。

 前へ進むと決めた。後ろを振り返ればそこにある、惨劇を回避する為に。少女騎士は頑なに一歩を踏み込み死地にて舞う。

「はぁあああ──!」

 最速の後退を追う最優の前進。

 セイバーはその細腕に膨大なまでの魔力を上乗せして猛威を奮う。ランサーの黄槍を吹き飛ばすに足る膂力の正体こそが彼女の魔力放出のスキルに他ならない。
 単なる筋力ではセイバーはおそらく他のどのサーヴァントにも及びはすまい。けれど彼女が身に宿す膨大な魔力の加護を上乗せした一撃は、他のサーヴァントに引けを取らないどころか上回りさえもする。

「ぐっ──!」

 その証拠にランサーはセイバーと撃ち合う度に苦悶の表情を張り付かせている。刀身が見えず間合いが測りづらく、見誤れば致命を被りかねない。吹き荒れる魔力の風がちりちりと皮膚を擦過し威圧感を撒き散らす。

 そして何より繰り出される一撃の重さ。速度は重さとなり、魔力の密度は何処までも膨れ上がる。一刀一刀が必殺。何処までも強力無比な暴力。
 ランサーに奇策を講じさせるだけの思考時間さえ与えない絶え間ない連撃は、決して広くはないホテルの回廊を余波により無残なものへと変えていく。

 せめて間合いに踏み込ませぬよう、得物のリーチを活かし捌きに捌く槍の騎士。だが絶対的な不利は否めない。一槍であるが故に防御はこなせても、地形が槍を完全に振るうには狭すぎる。
 長槍である赤槍の利点が、この一時に限っては欠点として浮き彫りになる。

「──ふっ!」

 幾十幾百重ねたか分からない撃ち合い──否、一方的な攻防の中、セイバーは更に一歩を踏み込んだ。身を沈ませ、矮躯を最大限に活かした潜行。上段にて一撃を防がせた隙を衝く吶喊。

 その場所は剣の間合いであり槍の間合いの外。ランサーが槍を引き戻す間もなく剣の騎士の一撃がその身に見舞う──

「せぁあああ……!」

「……っ!」

 槍を引き戻し防御に当てる時間も、一歩を退く思考をも奪い去ったセイバーの一手。
 それに応えたのは最早本能の為せる業としか思えない、槍の騎士の見舞う躊躇のない踏み込みだった。

 槍の間合い(ミドルレンジ)
 剣の間合い(ショートレンジ)

 その内側。
 その場所は拳の間合い(クロスレンジ)

 ランサーの槍は無論、セイバーの剣とて十全に振れぬほどの近接距離。防御は許されず、退く事も叶わなかったランサーの魅せた奇策。
 これならば、セイバーとて退かざるを得ない。そして後退すべく跳躍を果たした時、ランサーの槍は逃げる胴を薙ぎ払う。

「見事な剣捌きだ、セイバー。槍使いの俺にこの間合いまで迫ったのは、もしやすればおまえが初めてやもしれん」

 互いが攻め手を封じあった密接距離。鼓動の一拍さえも感じられるほどの間合いで美貌の槍騎士は嘯いた。

「確かに。私としても、まさか槍の担い手がこの距離に踏み込んでくるとは露とも思いはしなかった」

 口にするはどちらも賞賛。裂帛の連撃を繰り出したセイバー、捌き切ったランサー、そして策の読み合いもこうして膠着状態に持ち込まれたとするのなら、それは当然にして与えられる誉れだろう。
 名を明かす事も叶わず、勝利は己が為ではなく主の為のもの。栄誉も名誉もない戦場の只中、けれど二人はそれぞれの薫陶に敬意を払った。

「さて、どうする少女騎士。退けば我が槍がその身を斬り裂くは容易いが?」

 セイバーの魔力放出の加護を以ってしても、ランサーの初速を上回る事は難しい。中途半端に退けば今一度詰められ、大きく退けば槍の追従が待っている。

 攻守は此処に逆転した。戦いの主導権はランサーにある。セイバーに残された手はどう足掻こうが後退しなければならない。しかし──

「ならば私は、何処までも前に突き進む。まかり通るぞ、ランサー……!」

「っ!?」

 剣の騎士の総身から放たれる魔力の風。それは嵐となって吹き荒れ密接状態のランサーに対し猛り狂う。
 魔力放出はそれ自体が外付けのロケットエンジンのようなもの。セイバー本人の足場の状態の有無に関わらず、強引な加速を可能とする。

 ハイアットホテルに飛び移った時に、空中で無理矢理な方向転換、そして加速を行ったように。先の初撃を捻じ曲げ放ったように。今度は、セイバー自身を加速する……!

 強引かつ急激な加速はセイバー自身を後押しし、当然ランサーをもその加速に巻き込み膠着状態を打開する。半歩分の間合いが開けば、足場も充分に事足りる。セイバーは確かな踏み込みで渾身のタックルをランサーに見舞う。

「っく、はぁ……!」

 不十分な体勢でその直撃を被ったランサーは臓腑より息を吐き出し踏鞴を踏む。その隙を逃すまいと踏み込むセイバーに対し、ランサーは今度こそ後退を強いられた。

「此処は通さんぞセイバー! 貴様の剣を折るはこの俺の槍だ! 我が主に刃を差し向ける事など断じて許さん……!」

 後方への跳躍、そして反転。放たれた剣戟に応えるは激情に満ちた痩躯の槍。そこに僅かな違いがあるとすれば、赤槍に巻かれていた呪布が解き放たれているという事。セイバーの剣を利用し、ランサーは主に命じられ封じていた呪を解き放った。

 ──どうかお許しください我が主よ。
   けれどこの敵の剣は我が本領にて応えなければ御身の喉元に届きうる。

 今此処で、確実に仕留めておかなければならない……!

「はぁ───!!」

 真価を振るうことを許された赤槍が風を切る。撃ち合おうとしたその瞬間、セイバーの脳裏に閃いた直感は漠としていながら確かな現実感を以って未来を垣間見せる。

 振るわれた剣は中空で停止し、けれど繰り出された赤槍は止まる事はなく、剣を覆う風王結界に触れた瞬間、

「っ!?」

 吹き荒れる風。解け掛かった風の封印。槍の直撃こそ刀身で防いだものの、セイバーはその異常にとうとう後退せざるを得なかった。

「ようやく退いたか。何処までも愚直に前に突き進むその姿勢は好ましいが、度が過ぎれば猪のそれと違いはないぞ?」

「…………」

「そして見て取ったぞ。汝の振るうその剣の刃渡り。そしてその輝きを」

 風王結界にて剣を覆い隠しているのは何も間合いを欺く為だけではない。それはどちらかと言えば副次的な作用だ。
 真に隠したいもの──それは少女の手にする剣そのもの。余りにも有名で、余りにもその名が世に知られてしまっているその宝剣。

 それはその名を知るどころか、見られただけで真名まで解き明かされてしまう可能性が高い代物なのだ。事実、ランサーは一目見ただけでセイバーの剣と彼女自身の真名に理解を示したようだった。

「光栄だな、よもやあの伝説の王とこうして槍を交えられるとは。騎士の冥利に尽きるというもの。
 しかし貴様は言ったな、己の前に立ち塞がる悉くを斬り捨てると。なればこの戦いは決闘ではなく死闘。敬意は払おう、賞賛もしよう。だが決して、この俺の槍を折る事無く我が主に近づく事は許さんぞ」

 この首を刎ねる事無くケイネスの下へは行かせない──その一念のみでランサーは奮い立つ。主は言ったのだ、この敵の足止めをしておけと。既に一度封を解くという命令違反を犯してしまっているのだ、これ以上は決して譲れはしない。

 そしてその違反に許しを乞うとするのなら、手土産にこの敵手の首級を持っていかなければなるまい。

 間合いが開いた今、ランサーは赤槍をしかと構えなおす。刀身が掴めた以上、後手に回るつもりはない。魔力放出による一撃の重さは厄介なれど、やりようは幾らでもある。

 対するセイバーもまた封を纏った剣の握りを強くする。

「戦場がこの場所であった事に感謝しよう」

「何……?」

 この場所はケイネスの魔城。セイバーの襲撃により瓦解しかかっているとは言ってもそれでもあのケイネス・エルメロイ・アーチボルトが作り上げた城なのだ。
 ならばここには監視の目はない。他のマスター、サーヴァントはこの戦いを目撃できていない。つまり──

「貴様を倒せば私の真名は秘匿出来る。ランサー、やはり貴様には此処で脱落して貰う」

 ほとんど緒戦に近いこの一戦で真名を暴かれる事態になるとは、彼女自身思ってもいなかった。見られてしまったものは仕方がない。知られてしまったものはどうしようもない。だがここで知った者を倒してしまえば、後の戦いに影響はない。

 当然、自身がこの戦いで敗れるとは考えず。先だけを見据え続ける。
 それが彼女の強さ。
 脆さを覆い隠す為の、覚悟と意思。

「フン、何度でも言うが。我が閃槍を破ってから大言を吐け。では、第二幕と行こう。今度はこちらが機先を貰う──!!」

 若草色の風が奔る。
 両者の戦いの終わりは未だ遠く。

 もう一つの戦場の影響が、この戦地に届くのはもう間もなくの事だった。


+++


 ケイネス・エルメロイ・アーチボルトが衛宮切嗣に驚愕を覚えたのは、まさに戦闘が始まった直後の事だった。

 繰り出す水銀の刃は、先ほどは容易く捉えられた動きが今度は悉くが躱された。一目見ただけでそれと分かる異常。先ほどのこの男と比して、今眼前に舞う敵は明らかにその動きが違いすぎた。

 ──筋力強化? いや、そんな生半可なものではない。これは行動の加速……!

 時間操作。大魔術に相当するそれを衛宮切嗣が我流にて戦闘魔術へと昇華させた秘奥──固有時制御。
 自身の体内時間を外の世界の時間から切り離し、倍化鈍化と自在に操る固有魔術。

 今の切嗣は二倍速。ケイネスから見ればそのまま二倍の速度で動いているように、切嗣から見れば世界の全ての速度が半減したかのように感じられる。

 球形から伸びる呪操水銀の刃は既に五本を越えている。それら全てが変幻自在、縦横無尽にホテルの回廊を走り標的である切嗣目掛けて殺到する。
 けれど切嗣はその全てを回避してみせる。最初に斬り裂かれた肩口以外、怪我など一つとして負う事無く。どころか衣服にすら触れさせぬまま踊り続ける。それは舞い。ケイネスを嘲笑う演舞のよう。

「…………ッ、」

 狂ったように踊っていた切嗣が、回避に専念していた切嗣が、唐突に唇を噛み左手に携えていた短機関銃を乱射する。
 敵意に反応したのか、水銀は攻撃の手を止め即座に防御に回る。ケイネスには弾丸の一つとして届かぬよう、皮膜のように広がり盾となり全ての銃弾を叩き落した。

 その間に切嗣は二歩三歩と後退し、マガジンの再装填を済ませた後、自身を倍速化させている魔術を解除した。

「────制御(Release)解除(alter)

 同時、襲い来る激痛。固有時制御最大の欠点はこの使用後に来る反動だ。体内時間が外の時間に摺り合わされる時に起こるフィードバック。世界からの修正とも言い換えてもいいそれは、使用者に身の軋むほどの痛みを強いる。

 故に切嗣といえど可能な加速は二倍まで。三倍以上の加速を行えば、骨が砕ける程度では済むまい。やるとしても、それは後先を考えない最終局面以外では有り得ない。

 間合いを広げた切嗣は軋む身体の痛みに耐えながら、現状を観察する。ケイネスにしても自慢の礼装がこうも簡単に対処されてはすぐさま打っては出て来れまい。思考の時間は僅かながらにある。

 まず一つ。ケイネスの月霊髄液の性能評価。基本設定は自動での攻撃、防御。こちらの動きに反応して自在に姿形を変えての攻防を可能とする。ケイネスの命令があればそれを最優先に設定されている模様。

 固有時制御発動下ならば回避は容易。現状以上の攻撃手段がないとするのなら、距離を詰める事も可能。倒す事は決して難しくはない。こと相手が魔術師であるのなら、切嗣にとって敵などそうはいないが。

 第二に自身の性能評価。身体は動く。かつての自分と遜色のない程度には動けている。八年のブランクは、覚悟と舞弥との過酷な戦闘訓練で勘を取り戻せている。これならば、たとえ不得手の相手とて遅れを取る事などそうはない。

 そして第三──

 切嗣は胸に押し当てて動悸を抑えていた掌を見る。

 ──やれる。これは想定の通り。
   かつての自身にはなく、今の自身にはあるこの状態ならば、恐らく────

 魔術師殺しが思考している間、ケイネスもまた現状を備に観察していた。

 暗殺を生業とする男が姿を見せた理由。ケイネスとの直接対決に臨んだ理由に得心が行った。
 行動の加速。動きの倍化。常人を遥かに上回る体術を可能とするこの魔術があるのなら、大抵の魔術師を翻弄することなど決して難しくはないだろう。

 魔術師など所詮研究者だ。魔術を手段とする戦闘者を相手取ること自体が、そもそもの間違いなのである。それも衛宮切嗣ほどに死線を渡り歩いてきた者ならば尚の事。故に単純な殺し合いでは、ケイネスは切嗣に及ばない。

 それを理解し納得する。ケイネスは誇りよりも理を重んじ、決して目の前の現実を見誤らない。

 だがしかし──それでもケイネスは退く足を持たない。彼は研究者であり探求者。それが戦闘者に勝てないと、一体誰が決めたのだ?
 全てを観測し観察しろ。動きの隙間を縫うが如く。一筋の活路を見出すが如く。ケイネスが唯一切嗣に対抗出来るのは、その頭脳に他ならないのだから。

「ふむ……なるほど。理解し、そして了解した。魔術の薫陶を踏み躙り、下賎な手段に貶めた貴様だが、その能力には敬意を払おう。並の修練では、それほどの魔術は習得することなど出来はすまい」

 時間操作は大魔術。およそ戦術レベルでの運用など期待出来ない代物だ。それを戦闘魔術に昇華習得したその発想と応用力。その為に注いだ心血に、ケイネスは畏敬の念を以って応えた。

「だがそれでもまだ私を愉しませるには足りないな。想定の範囲内。私の認識を逸脱するにはまだ足りない。奥の手を持っているのなら早めに見せてくれ。でなければきっと殺してしまうぞ」

 ケイネスの右腕が標的に向けて動く。同時に跳ねた水銀の球体から馬鹿の一つ覚えのように刃が奔る。体内に鈍痛を残したまま、切嗣は固有時制御の呪文を口にし、襲い来る刃を回避した。

 直後──

「────なにッ!?」

 後方。全く意図していなかった方向から伸びた刃を回避せしめたのは、固有時制御を使用して以降、ケイネスの顔に張り付いていた渋面が、今や三日月の笑みを形作っていたからだった。

 厭な気配。そう呼ぶしかないものに反応出来たのは、かつての己を取り戻していた切嗣だからこそ出来た芸当だった。

 そして脳裏に過ぎるのは今の攻撃はどうやって行われたのか、という一点。セイバーの魔風に破壊されなかったトラップが未だ残っていたのかと勘繰って、視線だけを後方に向ければ、そこにあったのは銀の球形。ケイネスの繰る呪操水銀。

 当然、今なおケイネスの脇には先の一撃を見舞った水銀が転がっている。そして切嗣の後方には、全く同じサイズの月霊髄液が、いつの間にか存在していた。

 ──これほどの礼装を二つ同時に使役しているだと?

 手動で発動するタイプの礼装よりも、自動で機能する礼装の方が格が高い場合が往々にして多い。一々命令を下し発動するものに比べて、自動タイプのそれは複雑な命令系統と行動認識を設定しなければならないからだ。

 たとえそれが単純化された命令であったとしても、それを意のままに発動し切るには相応の維持魔力、そして煩雑な命令系統を完璧に制御下に置く才能が必要になる。

 流動物を自在に操るケイネスの特性は風と水。その複合属性を水銀に応用し高度な命令系統を自動で発動させている。そこに矛盾はなく、美しくすらある。

 だが解せない。ケイネスほどの魔術師が信を置く礼装。当然それは生半可な魔力運用では賄えない。彼がマスターであり、サーヴァントに魔力を供給している以上、そしてそれが今現在戦闘中であろうランサーに容赦なく吸い上げられているであろう魔力を鑑みれば、二つ目の月霊髄液など存在する筈がない。

 しかしそれは確固として存在し、二つの水銀は切嗣を挟み込む形で攻撃の瞬間を待ち望んでいる。

「悪いが種明かしなどする気はないぞ。何処ぞの三流魔術師ではあるまいし、自ら手の内を晒すほど私は愚かではない」

 言いながらケイネスは胸元へと手を伸ばし、掴み取った三本の試験管を見せ付ける。細い試験管の中に満ちるは銀の水。そのどれもが、ケイネスの繰る呪操水銀──!

「そら、躱し切れるものなら躱してみせろッ────!」

 砕かれる試験管。空中で踊り球形を形作り三つの小さな水銀球は地に落ち跳ねた。

 都合五球。大が二つに小が三つ。ホテルの回廊の中、その狭い通路の中で五つの水銀液が所狭しと舞い踊る。いかに倍速化していようとも、所詮は人間の為す事。動きには幾らでも制限はあるし、ただ速いだけでは躱し切れない死角が必ずある。

 究極──動きを縫い止めてしまえば如何に速く動けようが関係がないのだ。

 そして先の舞いの最中、切嗣がケイネスの礼装の性能を看破したように、ケイネスもまた固有時制御の限界を見定めた。加速していられる時間には限界があり制限がある。その時間が終わった時こそが魔術師殺しの末路だと了解する。

 しかして舞姫が踊りつかれるのを待つほどケイネスは悠長ではない。五つの水銀球から放たれる無数にして夢幻にも等しい刃の嵐の中、必死に回避し続ける切嗣を見やり、合図を送るように指を鳴らす。

 直後、二つの大きな呪操水銀が波立ち、津波の如くその身を堆く広げ被膜を形作る。包囲していた切嗣を包み込むように。

「…………ッ」

 銀の球体に捕らえられた切嗣に、為す術はない。動きが極度に制限された状況下では、固有時制御の倍速化など微塵の役にも立ちはすまい。

 この敵を以ってしても、ケイネスの理解の外には及ばなかった。しかしそれでも構いはしない。未だ敵手は五人五騎。その内の一人くらいは当たりがあれば構わないと、止めの一撃とばかりに水銀に被膜の内側への攻撃──さながらアイアンメイデンの棘の如くの千本針を見舞おうとした瞬間──

 ────それは起きた。

 ずん、という鈍い音。一瞬遅れた後に、襲い来る鳴動。振動は床を震わせ、天井に吊り下がる明かりを揺るがせ、回廊全体──否、このハイアットホテル全体をこそ大きく揺るがした。

「なに……? まさか────!」

 そう──ケイネスはこの一時、目の前の敵の悪辣さを見誤っていた。
 尋常ではなくとも、正面切って挑んで来た事を不可解に思いながらも、何処かでそれを当然と受け入れていた。

 だが忘れるな。
 目の前の敵手は衛宮切嗣。
 最悪の殺し屋。

 ターゲットを殺害する為ならば、旅客機ごと──その乗客ごと爆破しかねない男なのだ。

「貴様……このホテルごと爆破する気か────!」

 爆破解体(デモリッション)

 主に高層建築などを解体する際に行われる発破技術で、横ではなく縦に、外ではなく内に倒壊させることで周囲への被害を最小に抑えながらの解体を可能とする高等な技術。
 要所の支柱をピンポイントで破壊する事で、建物の自重により崩落するそれは、地上より天上に昇る爆破の連鎖。

 小規模の爆破が連鎖的に支柱を破壊し、数十秒もあれば地上百五十メートルに及ぶこのハイアットホテルを破壊して余りある。

 最上階であるこの階層が揺れた意味──それはもう、残された猶予時間はほとんどないと告げていた。

 そんな刹那の中、ケイネスの思考は巡る。一秒を引き伸ばし、永遠に偽装して、自身の現状の把握に努めようと躍起になる。

 このホテルには未だ宿泊客が存在する。セイバーの襲撃の際に砕かれた窓ガラスは地上に落ちず自動修復されており、その際の爆音も遮音の結界により完全に遮断されていた。
 階下の人間にこの階層の異常を知る術はなかった。今置かれている現状ですら、地震かと思う程度であろう。

 ケイネスとて目の前に立つ敵が衛宮切嗣でなければ、崩落に巻き込まれていた可能性は低くはない。

 しかしそれでもそこまではしないと思っていた。何故ならば、衛宮切嗣自身がこの場に存在するからだ。まさか敵ごと宿泊客どころか、自分すらその爆破に巻き込もうとするなど思うまい。

 狂気の沙汰だ。
 常軌を逸している。

 敵を倒す為、聖杯を掴む為、この男は──衛宮切嗣は、その命すら賭して戦っている。

 決定的な覚悟の差。
 自身の命を勘定に入れない敵の存在など、本物の死地を経験した事のない天才は想定していなかった。出来る筈もなかったのだ。

 ケイネスが今為す事、為すべき事。それは自身の安全確保。そして許婚であるソラウの身を守る事。

「令呪に告げる! ランサー、ソラウを守護せよ!」

 戸惑う事無く三画しかない令呪を惜しみなく消費する。右手の甲に集う赤き魔力。令呪の一画を焦がし昇華させ、その命令は放たれた。

 ケイネスには月霊髄液が存在する。この礼装を以ってすれば、地上百五十メートルからのダイブとて無事着地してみせる。
 切嗣を覆っていた被膜が解け、五つの水銀球は一つに合わさりケイネスを包み込む最硬の盾となる。

「────」

 そして、この時を待ち望んでいたように。
 ケイネスが自身の身を守る為、魔力回路を最大限に励起させ月霊髄液を最大戦力で運用するその瞬間をこそ、切嗣は待っていた。

 トンプソン・センター・コンテンダーに篭められていたスプリングフィールド弾は刹那をすら置き去りにする速度で排夾され、次いで篭められたものこそ魔術師殺しの秘奥──起源弾。

 魔術師殺しという異名は切嗣が対魔術師戦においてその全てを対象の殺害で完遂した事実から名付けられたもの。
 しかしてその異名の真の意味──衛宮切嗣が魔術師殺しである本当の理由は、この魔弾にこそあった。

 その魔弾は、魔術師を殺す為だけの礼装。切嗣の起源──切って嗣ぐ。それを強制的に相手に発露させる。
 切断と修復、けれどそれは元通りにはならない。糸を切って繋ぎ合わせれば、結び目が出来るのと同じように。

 魔術師を魔術師足らしめる魔術回路を、完膚なきまでに破壊する事に特化した魔術師に対する銀の弾丸。

 ケイネスは呪操水銀の盾を展開し、令呪によってランサーをすら自らより遠ざけてしまった。故に今、彼は完全なまでの無防備。最硬の盾を纏おうとも、そんなもの、切嗣の前では紙屑も同然だ。

 今宵の戦い、切嗣の目的は敵の打倒は最終目標であっても作戦工程における一段階でしかなかった。最も確かめたかったもの──今の自身の性能を実戦の中で試す事が第一だったのだ。

 その為にわざわざケイネスの攻撃を受け続けた。反撃の暇は幾らでもあったが行わず、ただただ防戦に回り続けた。
 結果として得たものは確信。戦えるという確信だ。これでこの戦い、切嗣に憂いはない。

 後は確実に──敵を殺すだけの事。

 たった一人のマスターを殺害する為に、ハイアットホテルとその宿泊客を犠牲にする。それに心を痛める事はない。

 衛宮切嗣はこの戦いの後、六十億の人間を救うのだ。その為の犠牲として、数十人の無関係な人間が無意味に死んだとしても、天秤の針は揺るがない。片皿に載った大を救う為ならば、小を自らの手で殺し抜く事を、切嗣はとっくの昔に誓っているのだから。

 その犠牲により生まれる怨嗟も憎悪も悪意も全て。背負うと決めた。正義の味方であり続けるには、こんな生き方しか出来なかったのだから。

 ──全てを背負う。たとえそれが欺瞞に満ちたものであったとしても。

 引鉄を引き、撃鉄を落とす。撃ち出された弾丸は、展開する水銀の盾の中心に寸分違わず命中し、励起していた魔術回路に極大の負荷を掛け、完膚なきまでに破壊し尽くした。

「……ッ、…………がぁ!? ……、ぁ────……」

 事態が理解できないまま、ケイネスは身の内側から襲い掛かった激痛に苦しみ、血反吐を吐き、気を失い、水銀は崩れゆく床に波立ち落ちた。

 魔術師が、魔術によって敵の魔術を防御する。その当たり前の行動で敵の命脈を絶つ切嗣の秘奥は、予備知識がなければ防げない。
 けれど起源弾の性能を知る者は切嗣と舞弥以外に存在しない。魔弾の標的になった者は全て、既にこの世には存在していないのだから。魔術師然とする者ほど、魔弾の格好の餌食なのだから。

 此処に一つの戦いが終息する。
 後は崩落を始めたハイアットホテルを脱出するのみ。

 固有時制御の加速ならば、この最上階が地上に衝突する前に脱出する事など容易だ。
 水銀の海に崩れ落ちた『試金石』には目もくれず、衛宮切嗣は主を失った魔城より離脱した。


+++


 切嗣による爆破解体が引き起こされるその少し前。

 セイバーとランサーの演舞は未だ続いていた。互いに繰り出した剣刃は既に幾合を数えたか定かではなく、彼らの中心に咲く火花は無数にして無尽。百花繚乱に狂い咲き、終わる事無く尚堆く衝突を繰り返す。

 勝負は拮抗しているかに見えるが、その実優勢なのはセイバーだ。
 魔力の後押しを得た剣戟の威力は十全の威力を発揮出来ないランサーのそれを上回る。これが撃ち合いである以上、ものを言うのは一撃の重さだ。

 無尽に繰り返される乱撃の中、セイバーの重く強烈、それでいてなお手数で劣らない連撃は、ランサーの体力を徐々に奪い、その身体に傷痕を残していく。

 速力でこそランサーが上回るものの、その他全てのパラメータがセイバーの方が上。基礎スペックで他を圧倒する、奇策など必要としない強さ。それがセイバーのクラスが持つ強みである。

 戦場がこの狭い空間内で、自慢の足も得物のリーチも十全に活かせない戦場では、セイバーに分があるのは当然だ。

 しかしてそれを拮抗に見せかけているものこそ、ランサーの赤槍の放つ特殊能力。触れたものの魔力を断つ破魔の槍。
 時折セイバーの鎧を掠める時、その矛先は鎧の強度を無視し、彼女の身体を抉り取る。

 魔力で編まれたもの、魔力で維持されたものの全てが、あの槍の前では丸裸にされてしまう。風王結界も今や完全に解かれている。剣先と矛先とが触れ合う度に風が巻き起こってはまともに戦う事も出来はしないし、無駄な魔力を消費するだけだからだ。

 主の下へと向かわせない。防戦による足止めに専念するランサーだからこそセイバーの猛攻を押し止められている。
 この状況を打開する術はある。この槍騎士が担うは破魔の赤槍だけではない。初撃にて弾き飛ばされた黄槍。それが今、戦闘の余波を受け転がり、手を伸ばせば届く距離にまで近づいている。

 しかしその黄槍に意識を向けた瞬間、セイバーはその隙を見逃さずランサーに渾身の一撃を見舞うだろう。仮に致命傷は避けられても、絶対的なダメージは避けられない。

 起死回生の一手を打つ為に決死の策を弄するか。
 このまま足止めに終始し主の命令に従うか。

 二者択一の選択を迫られているその時、その振動は階下より響き渡った。

 両者は訝しみながらも振るう手は止めず。けれど直後、ランサーの身に起こった奇跡に、どちらともが瞠目した。

『令呪に告げる! ランサー、ソラウを守護せよ!』

「何ッ……!?」

「……これは!?」

 令呪による強制命令。防戦に終始していたランサーは意の外からの命令により渾身を超える一撃でセイバーの剣戟を弾き飛ばし、瞬間、その身は戦場より消失した。

「……ここは……何が…………」

「ランサー!?」

 短距離の跳躍。次元の壁を超えて行われたそれは小規模の奇跡とも言える令呪の為せる業。ランサーが理解を得ぬまま踏み締めたのは主の部屋。ソラウが身を隠していた部屋だ。
 そして雷鳴のように総身を包む絶対遵守の命令が、ランサーが次に取るべき行動を否が応もなく決定させた。

「ソラウ様、今は一刻も早くこの場を離脱します」

「何? 何が起きているの? この振動は何?」

 こうして話している猶予などない。既に崩壊は起こっている。今にも足場が崩れても何らおかしくはない現状なのだ。

「失礼。無礼をお許し頂きたいッ!」

 ランサーはソラウの肩を抱き、抱え上げるようにその身を腕の中に収める。従者の突然の所作にソラウは目を白黒させながら、それでも美貌に宿る苦悶の表情を見やり、任せるままに腕を大きなその背に回した。

 ソラウを抱えたランサーが地を蹴り、外へと身を躍らせようとしたその瞬間、

「待てッ!」

 爆音を轟かせ、セイバーは俊足の踏み込みで部屋へと押し入った。

 如何にセイバーの知覚範囲が狭くとも、ここは同じ階層に存在する場所だ。令呪の奇跡によってその身を消失させようとも、出現と同時にセイバーはランサーの消えた先を感知しその後を追いかけたのだ。

 先の振動、そして迫る崩落の足音。ランサーの様子を見る限り、これは彼ら陣営の策ではない。ならばそれは切嗣の弄した策。敵マスターを葬る為の、確実に抹殺する為のものに違いない。

 ならばこの己もまた、敵であるランサーの首級を易々と逃がすわけにはいかない。

 ランサーはソラウを守護せよと令呪によって命令されている。そして彼女を抱えてる現状でセイバーの相手など務まる筈がない。故に逃げの一手。悔しくとも、情けなくとも、この場は撤退以外に有り得ない。

 しかし────

 刹那にランサーの総身を舐めたのは、主の火急を告げるシグナル。ケイネスは自身の安全を確保した後にソラウを守る為ランサーに命令を下した。
 しかし今、ケイネスは予期せぬ事態に襲われ、衛宮切嗣の魔弾に撃たれ、その命を最大の危機に晒していた。

「はっ、──かぁ……!!」

 言葉にもならぬ絶叫。ソラウを守れという令呪は未だ生きている。故にケイネスは即死ではない。だが眼前には最優を誇るセイバーがいる。この敵を退け、ソラウを守り、令呪に逆らいケイネスを助ける? この、一秒をすら争う状況で?

 不可能だ。

 そう理解した、理解してしまったが故の声にならぬ叫び。自らに課した役割を全うできぬ事に対する慟哭。吼え上げたい声を抑え付け、血の涙を流しながら、その美貌に憤怒の鬼を宿し騎士は射抜く。

「覚えておけセイバー……おまえは、貴様だけは、この俺が必ず殺すッ!」

 セイバーが踏み込みを躊躇するほどの怒気。何処か涼やかな風を纏っていた槍騎士に、今やかつての面影は微塵もない。
 主の最期の命令を守る為、その主の命を犠牲にしなければならないその矛盾。忠誠を誓いし主に背を向け、若草色のサーヴァントは夜の闇の中に消えていった。

「…………」

 後を追うように、セイバーもまた戦場を去った。
 その胸中を推し量る事は、誰にも出来なかった。













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