Act.03












/1


 闇を斬り裂く赤い光。
 夜を引き裂くサイレン。
 響き渡る誰かの怒号。
 何事かと群がる野次馬。
 統制を取り、状況を鎮めようとする公僕。

 繰り返される安否確認。
 呼ばれる名前。
 応える声は、当然にして無い。

 待機している救急車に搬入されるのは偶然にもホテルの倒壊に巻き込まれず、不運にもあの時、あのタイミングでこの場所を通った通行人ばかり。
 『事故』に巻き込まれた者、当時ハイアットホテルに宿泊していた宿泊客の中に生存者などいなかった。

 倒壊当時、ホテルの中にいて生存しているのは、仕掛けを行った張本人である衛宮切嗣と人外であり脱出可能だった二騎のサーヴァント。そしてその内の一騎に抱えられ離脱したソラウ・ヌァザレ・ソフィアリのみ。

 ランサーのマスターであるケイネス・エルメロイ・アーチボルトについては未だ生死不明ながら、その生存は絶望視されている。

 彼の相手があの衛宮切嗣であった事、そして彼女──今こうして武装を解き、野次馬に紛れながらハイアットホテル『跡』を見つめるセイバーが最後に見たランサーの姿を思えば無理からぬ事だった。

「…………」

 ダークスーツに身を包んだ少女は無機質な瞳で空を見上げていた。かつてその場所にあったものを、回顧するように。
 そして唇を強く噛み締めた。自らの為した事、自らのマスターが為した事。その意味を考えて。

 かつて彼女が王であった頃、これと同じ事を為した事があった。
 海の向こうより襲い来る蛮族共を迎え撃つ為、戦支度の為に村の一つを潰すほどの徴税を行った。

 結果戦いは勝利に終わる。大局的に見ればそれは国というより大きな母体を守る為に小さな犠牲を強いただけ。それでもその村で暮らしていた民の生活を、命を犠牲にした事には変わりがない。

 彼女に仕えた騎士の中には、その犠牲を是としない者も多かった。犠牲などなくとも我らは勝利し得ると。

 確かにそうだったかもしれない。
 犠牲など払わずとも勝利出来たかもしれない。

 しかし王であった彼女には、理想で在り続ける事を望まれた王には些細な過ちさえ許されなかった。

 僅かでも勝利する可能性を上げられる手段があるのなら講じるべきであり、そうしない王など暗君だ。国を保ち多くの民を守る為ならば、その民の少数を犠牲にする事は決して間違ってはいない──

 大儀の為に少数を斬り捨てるその行為。規模の大小、程度の差こそあれ、衛宮切嗣のやり口と生前のセイバーのやり口は一緒だ。

 それを誤った事だと思ったことは無い。そうする事が最善だと考えて、行動に移しただけだ。そこに悔いや迷いを残しては、犠牲となる者に向ける顔がない。

 誰に咎められ、誰に罵られようと、歩みを止める事はなかった。彼女には為すべき事があったから。
 今もそう──聖杯を手に入れるという大義名分、祖国を救うという大いなる免罪符があるのだから、この程度の犠牲に心痛める必要など何処にもない。

 ──ああ、ならば何故、この私は目の前の光景に、こうも胸を締め付けられるのだろう。

 誰かが泣いている。誰かが喚き散らしている。倒壊の犠牲者に知り合いか家族でもいたのだろうか。
 彼ないし彼女らの想いは誰に届くこともなく葬られるのだろう。このホテルの倒壊は恐らく、教会の手によって揉み消される。

 正確には、事実は歪曲され世に出る事になるのだろう。真犯人は捕まらないし、事故の原因は全く無関係の誰かに押し付けられる。今も現場で動いてる人間の幾人が、あるいは全員が、教会の息のかかる者であってもおかしくは無い。

 ならば彼らの嘆きは何処に消えていくのか。行き場の無い想いは、誰が受け持つと言うのだろうか。

 これが切嗣の独断による策略でなく、セイバーに了解を得てのものだったならば、また違う感慨もあったのかもしれない。
 事前にそうと分かっていれば、幾らでも覚悟を決められる。かつて自身がそうだったように。

 しかし今回に限っては、セイバーは何も知らされていなかった。切嗣のサポートを務めるという女人からはハイアットホテルに強襲をかけるまでの作戦工程しか聞かされていなかった。

 ああ、そんなものはただの言い訳に過ぎない。衛宮切嗣のやり口を思えば、残虐ではなくとも、冷酷で冷徹で非情なあの男ならば、この程度やってのけてしまっても不思議ではなかった。

 彼の祈りをセイバーは知らない。人からは洗い浚い聞き出しておきながら、自分は何一つとして語らない。
 しかしそれも許容しよう。セイバーは彼をマスターと認め、自身は剣であると断じたのだから。担い手のやり方に、決定的な断絶が生まれない限りはケチをつける気など毛頭ない。

 最終的に聖杯が手に入るのであれば──それで構いはしないのだ。

 無意味な犠牲を強いるのならば反発も有り得るが、犠牲の上に結果が成り立つのなら否定のしようとてない。
 戦いには犠牲が生まれる。幾多の犠牲の上に勝利がある。かつて国を守る為に戦った時もそうであったように、この戦いとて無血での勝利など有り得ない。

 出来る限り犠牲を抑え、最大限の結果を生む。聖杯を手に入れる代償に流れる血が、自分自身だけのものだなんて傲慢だ。こんな街中が戦場になっている以上、決して流れ零れる血は少なくないのだ。

 しかし──ああ、それでも。いや、だからこそ。

 屍の上に輝く勝利という名の栄光を前に、セイバーはその輝かしさにではなく、血に濡れる屍の嘆きにこそ心奪われた。

「…………」

 かつて自らの行った所業。
 勝利の為に犠牲を強いるその行い。
 それをこうして客観的に見たのなら。

 目の前にあるこの光景を、嘆きを。
 王としてではなくただ一人の少女として見つめたとするのなら。

『王は、人の心がわからない』

 そう、かつて理想の王に、理想で在り続ける事を望まれた王に吐き捨てた騎士の事を、少しだけ思い出した。

 追想は刹那に消え、少女はすぐに剣へと立ち返る。
 未だ敵手は健在。戦いの趨勢など全くといっていいほど定まっていない。

 緒戦にして手応えは上等。この身は他の英傑と比してなお劣る事は全く無い。戦える。勝利を掴み得ると確信した。故に歩みを進めよう。屍の丘を踏み越えて、その上に輝く聖杯を掴み取る。

 この手を誰かの血で染めて、心を嘆きに塗り潰されながら。それでも彼女は原初の決意を違う事無く、ただ前を見据えて進んでいく。

 その時、彼女の耳元で電子音が鳴り響く。切嗣とセイバー両名を繋ぐ中継役。少女はその名を知らないが、舞弥からの通信が届いた。

『セイバー』

「はい」

 雑踏を離れながらセイバーは応える。名も知らぬ彼女からは先の戦いにおける労いの言葉もない。それを当然と受け入れて、少女もまた無機質な声を返した。

『これより指定する場所に移動してください』

 無駄のない、ただそれだけの指令。恐らくは切嗣の言葉を代弁しただけのものだろう。セイバーもまた無意味な返答はしなかった。何故、どうして。そんな疑念を差し挟む余地などないと理解していたから。

 彼女のマスターは残虐でなくとも非情で冷酷で冷徹な男だ。
 そんな男だと知っているから。
 そんな男が、ケイネスの命一つ獲ったところで満足する筈がないと思うから。

「了解した。この夜の内に一組、脱落させましょう」

 生き残った者達の命に幕を引く。
 詰まるところこれはただの、残党狩りだ。


/2


 冬木ハイアットホテルのある新都駅前広場より北方。回転する灯台の明かりが照らす、暗闇の海を臨める埠頭近くの廃工場に、その主従の姿はあった。

 闇に紛れて戦場より離脱して数刻。ランサーは無論の事、未だ事態を正確に把握出来ていなかったソラウもまた、あのホテルより他の場所に当てなどなかった。

 故に槍騎士はせめて人気の少ないところへと、こんな寂れた場所に身を隠す事にした。

 ケイネス、ソラウのかつての生活環境を思えばこんな煤と埃に塗れた場所など拒絶されても仕方の無いものと思っていたランサーだが、ソラウはすんなりとこの場所に身を潜める事を了承した。

 そこに僅かな不可解こそあったものの、言葉にはせず、二人は工場内の一室でようやくの安堵の息を吐いた。
 その後、従者は主の顛末をその許婚に語り聞かせた。あの戦場で起こった事の全て。およそ己の知り得る全てを吐露した。

「…………」

 聞き終えたソラウはただ、呆と虚空を眺めていた。そこにどんな想いがあるのかは、ランサーには計り知れない。

 ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリにとって、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトとの婚姻は半ば約束されたものだった。ソフィアリ家の家督を継げぬ一子など、所詮は政略の道具でしかないと彼女自身弁えていた。

 魔術の薫陶は授かれなくとも、魔術師の家系に生まれたが故の達観を持っていた。それを悲観する事無く、ソフィアリの繁栄とケイネスの人生を彩る華となる事を、彼女は始めから受け入れていた。

 婚姻が両家による取り決めだったとしても、ケイネスは真実ソラウを愛していた。完全無欠の天才が、唯一言葉を紡ぐ事を躊躇するほどにソラウの姿はケイネスの心を捕らえて離さなかった。

 故にケイネスはソラウに愛を囁いた事はない。彼女を前にすると言うべき言葉が消えて失せる。どれだけ難解な論文の朗読とて、多くの学徒を前にしての講義でさえも言い淀んだ事の無い男が、彼女を前にしてはただの恋に焦がれた少年のようだった。

 募る想いは言葉にはならず。衝いて出る言葉は僅かに的を外したものばかり。この想いを酌んでくれよと心中に想いながら、ケイネスは常に理想の魔術師で在り続けた。

 しかしそんな彼と彼女だからこそ、齟齬は生まれ積まれていった。情熱に心を燃やすケイネスであれど、それは言葉にしなければ伝わらない。並の女が相手なら、ケイネスの経歴だけを見ても歓喜に打ち震えただろう。

 約束された勝者の人生。その隣に在れるのだから、たとえそこに恋心がなくとも打算に塗れて媚を売ろう。

 けれどソラウはそうはならなかったししなかった。彼女の心にあったのは諦観と享受。自分は誰かを彩る美しい花。愛でられ手折られ、そしていつか朽ちていくだけの薔薇。
 そう諦観し、ただ流されるままに状況を受け入れ、心を凍らせることで全ての事象から目を逸らした。

 ケイネスに食って掛かった事もあったが、それも彼女が彼女であり続ける為の処方に過ぎない。名家に生まれた貴人としての振る舞いを刷り込まれたが故の傍若無人。彼女が心底から何かを欲した事など、ただの一度としてありはしない。

 故にその身はただの花。美しいだけの花なのだ。花は自分で何かをしないし動かない。花はただ、自身を美しく保つだけなのだから。
 いつの日か、朽ち果てるその時まで。命の限り美しく咲かせ続けるだけなのだから。

 ────そう、これまで彼女は確かに、花だったのだ。

「ランサー、私を救い出してくれてありがとう」

「いえ、礼には及びません。私はただ、主の下命を守り抜いただけなのですから。どうか我が主にこそそのお言葉を掛けて頂きたい」

「……そうね。ケイネスにも勿論、感謝しているわ」

 主命を守り抜く。その代償として主の命を救い出せなかった事は、彼の心に最大の軋轢を齎している。主命は至上。しかしそれも、主の命あっての物種だ。しかし主は、主の愛しき人を守れと言われたのだ。

 どちらかしか救えなかった。どちらをも救いたくとも、あの状況下ではどう転んでも不可能だった。たとえこの身を差し出せば両者の命が救えていたのなら、何も悩む事無く命を投げ出し、笑顔のままに死ねたというのに。

 主と従者は決して良好の主従関係を築けていたとは言えない。ケイネスにとってランサーは次善。ウェイバー・ベルベットに聖遺物を奪われていなければ、あの赤毛の王こそが彼の従者となっていた筈だから。

 それ故か、主の従者に対する扱いは常に辛辣だった。短い時間しか共に在れなかったとはいえ、その中でケイネスは決して騎士にその心を許さなかった。

 何よりも騎士が持つ愛の逸話ゆえに。主の許婚を婚姻の場から掻っ攫った男を、同じ許婚を持つ身としては決して信用する事など出来はしなかった。

 あの時、あの瞬間。ハイアットホテル崩壊の予兆を感じた時、ケイネスは戸惑いもなく令呪に訴えソラウの救出をランサーに命じた。
 信の置けぬ従者に許婚の命を預けるその所業。たとえサーヴァントとしての力量をこそ評価していたとしても、ケイネスの人となりを思えば決して下せぬ筈の命令。

 それをこそが、ケイネスの愛の深さを語っている。自らの信を曲げてまで、彼には守りたいものがあったのだ。
 たとえその想いが彼女に届かなくとも、誰に理解されることが無くとも。彼の恋心は本物であったのだから。

 ランサーがケイネスの本心を理解していたかは本人にしか分からない。ただそれでも彼は思ったのだ。
 決して重用はされなかったこの身、望まれていなかったこの身を捧げるべきは主の為。己の意を曲げてまで誰かを救いたいと願った心を無駄にしてはならないと。

 だから騎士は選んだのだ。主命を守り、その恋人を守る事を。

 主が己の命と比してなお、守りたいと願った命を守る事。ランサーは主命を守ったのではなく、主の心をこそ守ったのだ。

 ああ、だからこそ────

「ケイネスは、もう……」

「はい。私と主の間に交わされた契約の繋がりが感じられません故……」

 従者が握り込んだ拳の中で爪を立てる。心に苛立ちと不甲斐無さの腫瘍が出来たよう。掻き毟れるものなら血が溢れるほどに引き千切りたい程の衝動だった。

「でも私と貴方の繋がりは消えていない。そうよね?」

 ケイネスはマスターとサーヴァントの間にある繋がりを二つに分けた。一つはマスターの証たる令呪に繋がるもの。もう一つは魔力供給に使われるものとに。

 本来二つで一つである繋がりを分けられたのはケイネスが特級の術者であったからに他ならない。そうする事で彼は十全の魔力を十全のまま使用可能とし、サーヴァントもまた戦闘に耐え得るだけの供給量を確保した。

 そして今、ケイネスが持っていた令呪への繋がりは断たれた。それはマスターの死を意味し、本来ならばそのサーヴァントであるランサーもまた、とうに消滅していなければならない。
 しかし彼は生きている。彼とソラウの繋がり──魔力供給のラインは未だ繋がったままだからだ。

 切嗣の誤算は今この状況。本来ならば、ランサーはとうに消えていなければならない。言峰綺礼が真に脱落者であったのならまだ可能性は残されていたが、はぐれのマスターがいない現状では、ランサーに再契約が見込める筈などないのだから。

「はい、ソラウ様。私と貴女の間にある繋がりに綻びはない。ケイネス殿の手腕は見事と言う他ないでしょう。
 しかし私は、この契約を長く続けるつもりはありません」

「何故っ!?」

 氷の心を持った女が激昂する。腰掛けていたスプリングの壊れているソファーより腰を浮かし、面を伏せるランサーの瞳を覗き込む。

「我が主は言われたのです、貴女を守れと。私が傍にいる事、この聖杯戦争の場に身を置き続ける事。それ自体が貴女の無事を脅かす。
 主の最後の下命を守るのならば、俺は貴女の傍にあってはならない」

「なんで……? ランサー、貴方は聖杯が欲しくてこの戦いに臨んだのでしょう? 契約は続いている。
 ケイネスは死んでしまったけれど、令呪はなくなってしまったけれど。私の魔力が貴方を存在させ続けている。ならば貴方は、私の従者として続く戦いに臨むつもりだったのではないの?」

「いいえ。元よりこの身は聖杯など欲していない。ただ欲したものは真の忠。主君への終わりない忠義こそ、俺が欲し求めたもの。
 主は俺の不甲斐無さ故に亡くなった。でも、だからこそ私は最後の主命を守り通したいのです。御身の無事を守りたいのです」

 戦場に身を置き続けるのなら、いつかきっと彼女の無事は脅かされる。激烈化する戦いの中心点に居続けるには彼女の存在は軽すぎる。
 真に安全を願うのなら、そも戦場を離れてしまえばそれでいい。彼女は元よりケイネスの付き添いとして冬木に赴いただけなのだ。聖杯に賭けるだけの願いもなければ戦うだけの力もない。

 言うなればその身は一般人のそれと変わりがない。ケイネスの庇護がなければ容易く摘んでしまえるだけの花に過ぎない。
 そしてランサーはその花を守ると誓った。主君の命じた言いつけを、たとえこの身が砕けようとも守ると決めたのだ。

 主君に誓いし忠誠の形。その終わりがこんな形なのは不本意だが、それはきっとケイネスも同じ。ならばせめて、彼の大切なものを守り通すのだと。

「はっきりと言わせて貰えば、ソラウ様を主と頂く事は出来ません。私が今代にて忠誠を誓いしは後にも先にもケイネス殿のみ。鞍替えなど以ての外、たとえそれが許婚であるソラウ様であったとしても、折れることは有り得ません」

「たとえそれが……貴方が消滅する事となっても?」

「はい。主の主命、守り通す事が出来たのなら悔いは何もありません」

 その言葉は嘘だった。悔いはある。無念もある。ケイネスを守り切れなかった、聖杯に手を掛ける事が出来なかった。主の道を途絶えさせてしまった事こそ不明の至り。
 この己が死んで償えるものなら幾らでも死のう。腹を割き、眼球を抉り、四肢の全てを差し出そう。

 けれど結末はもう変えられない。己の不覚は拭えない。永遠の澱として、この心に残り続ける。だからせめて、主の花を守るのだ。そうする事でしか、もう己は動く事さえ出来ないから。

 そして彼女の無事を確保したのなら、悪鬼羅刹、修羅畜生となってこの戦場を駆け抜けよう。この身が砕け散るその時まで。髪の一房が消え去るまで。一滴でも多くの血を、主の墓標に捧げる為に。

「…………」

 ソラウは彼の譲れぬ想いを前にして口を噤む。どんな言葉を掛けようと、どんな願いを祈ろうと、この男の心は折れまい。折ってはならないと知っている。

 端正な面貌に宿る魅惑の黒子。居並ぶ女子を虜にし、愛の奴隷に変える彼の呪い。彼の命運を狂わせ続けた不実の祝福。
 それは今確かに、凍れる女の心を溶かしていた。達観と諦念に生きていた女の心に慕情を宿らせた。

 それが本当に魅惑の呪いによるものなのか、彼女自身の内より湧き出たものなのかはこの際関係がないしどうでもいい。真実として彼女はこれまで何一つ動じなかった己の中に、その感情を見出したのだから。

 彼と共にいたい。彼と共に在りたい。そう願うほどに募る想い。ケイネスの死とて彼女の心を揺さぶらなかったというのに、彼の魔貌はただの一目で永久凍土にも等しい彼女の氷を溶かしていった。

 ああ、彼の忠誠は美しい。ケイネスの死を悼む心とて持ち合わせている。ただそれでもこの心を焦がす想いには、何一つとして及びはしない。
 この輝きに比べれば、他の全てなど唾棄すべき路傍の石と変わりない。この想いこそが至宝だと、やっと見つけた人生の価値だと信じて疑わない。

 彼女は決して悪女ではない。
 ただどうしようもなく、純粋で純真であっただけの話。

 だから彼女は口にする。
 許されぬ想いを。
 彼の忠義を踏み躙る、何処までも甘美な響きを伴った恋の音を──

「────ソラウ様」

 自らに生じた初めての想いを吐露しようとしたその瞬間、まさに間隙を縫うようにランサーは諌めの言葉を吐き出した。
 それが偶然であったのなら、運命とはかくも残酷だ。

「ランサー? どうかしたの?」

 彼は決してソラウが吐露しようとした想いに予測がついて諌めたわけではない。それを証明するように、彼の瞳はここではない何処か遠くを見据えている。

「この場所に近づいてくる気配を感じます」

 足取りは確か。こんな寂れた廃工場に用のある者など他に検討のしようがない。

「……居場所がばれたとでも言うの?」

 ハイアットホテル倒壊からまだ夜明けにすら至っていない。あの騒ぎから離脱する中、誰かに見られるような不手際をした覚えはないし、そもケイネスの死を知っている者ならば追撃こそが有り得ない。

 先にも述べたように、通常ならばランサーは既に消滅している筈なのだから。ソラウ単独を狙う価値などないと誰もが知っているだろうに。

「何故露見したのか、何故追撃されているのか。この際それはどうでもいい。ソラウ様、迎え撃ちますので傍を離れないで下さい」

 逃亡も可能だろうがそれでは問題を先送りにしているだけに過ぎない。敵の狙いはこの首級。ならば迎え撃つ事で為せる事もあるだろう。
 そして敵がケイネスを討ち取った者であるのなら、ソラウを潜ませるという選択は下策に等しい。サーヴァントの傍。恐らくはその場所以上に安全な場所などこの街にはないのだから。

「分かりました。貴方に全てを任せます」

 憧れた背に追随する。
 想いはいつでも口に出来る。伝える事が出来る。この戦いを超えた後、たとえ彼の全てを踏み躙ってでもこの想いを伝えよう。愛でられるだけの薔薇は散り、人となった己自身の言葉でと。

 その浅ましくも尊い祈り。
 彼と彼女を破滅へと誘う想いの引鉄は、決して引かれる事はない。

 想いはいつでも伝える事が出来る。
 そう出来なかったケイネスの死を軽んじたソラウには、永劫語れる想いはもうないと、彼女はこの時知る術などなかった。


+++


 冷たい夜風が身を引き裂く。秋の終わりにして冬に程近いこの季節、たとえ温暖な気候下にある冬木といえど真夜中ともなれば何処までも冷たい風が吹き荒ぶ。

 身切る夜風を引き裂いて、黒衣の男は姿を見せた。

 その出で立ちはハイアットホテルの時とは違う。ケイネスの城に侵入する為、従業員に扮装していた衣装を脱ぎ払い、男は黒のコートに身を包んで現れた。その裾を風にはためかせながら。

 闇夜にてなお黒々と光る瞳が待ち構える二人を射抜く。何処までも澄んだ黒。闇をすら凌駕する漆黒の奥に爛々と炎を滾らせながら、何処までも静かに衛宮切嗣は一人立つ。

「止まれ」

 ランサーの言葉に切嗣は足を止めた。それ以上近づけば彼の手にする槍が颶風となってこの身を切り裂く事を予見出来たからだ。

「如何にしてこの場所を特定したか、そこに興味はない。訊くべき事は唯一つ。貴様の用件は」

「当然、おまえの命だ」

 聖杯戦争はマスターとサーヴァントの二人一組でのバトルロイヤル。どちらかを打倒したところで終わらない。令呪を持つマスターならば主を失ったサーヴァントとの再契約が可能だし、その逆も然り。

 しかし実際のところはどちらかが討たれればほぼ詰みだ。過去何度かあったらしい再契約もそのほとんどが偶然に頼ったものであり、そんな即席の主従が勝ち抜けるほどこの戦いは甘くもない。

 故に今、切嗣の目の前にあるのは例外だ。本当ならば消えている筈のサーヴァント。それが十全の気力を有したまま立っているのは異常に等しいが、それでも彼はその可能性をほぼ確定のものとしてこの場所に辿り着いた。

 ケイネスは月霊髄液の多重展開について一切を語らなかったが、切嗣には予測が出来ていた。有り得ない魔力運用、戦闘の役にも立たない許婚を戦場に連れて来た理由。二つの点を繋ぎ合わせて出来た線。

 故に目の前の光景に驚きはなく、けれど続く言葉にこそ疑念を抱いた。

「成る程、道理だ。分かった、この首欲しければくれてやる」

「ランサーッ!?」

 ソラウの縋りつくような声ほどではないものの、切嗣もまた訝しむ。たとえ主たるケイネスが死んだとしても、存命し続けている以上聖杯獲得に拘るのが筋であろう。この世に招かれる英霊にも、聖杯に縋るだけの祈りがある筈なのだから。

 ランサーの真意など知らない切嗣は当然にして不可解に思うしかない。そしてそれはランサーも分かっていたのだろう、言葉を続ける。

「但し一つ条件がある。彼女の無事を確約しろ」

 そう、ランサーにとってこれは道理だ。彼の願いは主の最後の願いを守る事。即ちソラウの身の安全の確保。
 敵に背を晒したまま逃げ続けるには限界があるし、戦いを挑むのも論外だ。元より聖杯になど興味はないのだから、戦う事に意義を見出せない。

 忠義の限りを尽くし主の祈りを達成する。その為ならばこの身の命など惜しくはない。欲しいのならば幾らでも差し出してやる。

 セイバーとそのマスターへの復讐が果たせないのは心残りだが、主の願いに比するのならば天秤の針は容易に傾く。
 たとえそれが自己欺瞞と自己犠牲に塗れた忠義であっても、この道を踏み外す事は出来ないと、騎士は謳い上げたのだ。

「馬鹿げた交渉だ」

 それを、切嗣は一笑に附した。

「何だと?」

「そんな交渉は成り立たない。僕はおまえを信用しないしおまえは僕を信用しない。その上でどうやって彼女の安全を保障する。
 彼女が国外脱出するまで見逃せと? それがこの場を逃れる為の虚言でないと言い切れるか。いや、言い切ったところで意味もない。僕はおまえを信用していないのだから」

 契約の上で必要なのは互いの歩み寄りだ。
 絶対に信の置けない相手といえど、その契約が有益であるのなら可能だろうが、切嗣は契約自体を意味のないものと切り捨てた。

 ランサーの死を対価にソラウを逃がす。なるほど、マスターですらないソラウを逃がしたところで切嗣に損はなく、むしろランサーが勝手に自害してくれるのならかなり有益な内容だろう。

 しかしそれでも切嗣はこう言うのだ。
 非情で冷酷で冷徹な暗殺者は血を流せと。

「おまえには消えて貰う。そして当然、ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリもまた死んで貰う」

 聖杯戦争に参加した者。関与した者。魔術師としての適正を持つ者。それを切嗣は逃がさない。
 ソラウはただの傍観者だが、それがマスターに変わらない保障はない。

 今後の展開ではぐれマスター、サーヴァントが出るかもしれない。その時に起こるのが令呪の再分配だ。聖杯に見初められた者、未だ祈りを宿す者を戦場に誘う敗者復活。それは御三家が最優先、次に脱落者、最後に他の適格者と続く。

 順序で言えばソラウがその時選ばれる可能性はほぼゼロに等しい。そもそもの話として令呪の再分配が行われるかどうかも不明瞭で、更に言えばソラウを逃がせばそれだけで可能性は無くなるのだ。
 故に可能性としてはゼロ。一パーセントを超える事もない不確かなものの為、衛宮切嗣は好条件を袖にして死地に向き合う。

 それが衛宮切嗣のやり方だから。犠牲となるものを定めた以上、それには絶対に消えて貰わなければらない。自らが聖杯の頂に駆け上がる為の障害を、世界を救う為の邪魔者を、微塵たりとも残さない。

 たとえゼロの可能性とて、それが衛宮切嗣の天秤を脅かすものであるのなら、何人たりとも逃がしはしない。

 ホルスターより魔銃を引き抜く。装填されている弾丸はおよそ携行する上で最上の威力を保障するスプリングフィールド弾。生身の人間が喰らえば骨砕け、内臓は破裂し致命に足る威力を持つ。

 無論、サーヴァントにただの銃弾は効かないし届くまい。狙うのは、ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリ。

「理解が出来ない思考だな魔術師。貴様は自ら死地に踏み込むか」

 マスターがサーヴァントに敵う道理はない。人の身の極地に至り世界に召し上げられた英雄に、どれだけ人殺しが巧かろうと唯人が届く筈は無い。

 銃口から庇うようにランサーはソラウの前に立つ。たったそれだけの行動で、切嗣はソラウを殺す術を失った。

 この距離では届かない。
 ランサーの防御を貫く事は艱難に過ぎる。
 ならば──

固有時制御(Time alter)──二倍速(double accel)

 常人を凌駕する加速を以って、その神域に肉迫する。

 しかしそんなものでは届かない。音速の槍を振るう彼らが、その速度以下の動きを捉え切れない筈が無い。
 愚直なまでの吶喊。無意味な加速。その程度でサーヴァントに迫れると思い上がっているのなら、その無知諸共薙ぎ払うと槍を構えたその瞬間──

 ──本物の颶風が、横合いよりランサーを捉える。

「っ、セイバーァァ!!」

 まるで計ったかのようなタイミング。これ以上ないというくらい完璧な頃合に、セイバーはマスターの加勢に応じた。
 爆発的な加速によるランサーの知覚外からの突撃。認識した時には既に間合い。視線を向けた時には相手の間合い。故に身体を向けた時、繰り出された斬撃を防御する以外に道はなく。

 その刹那を縫い上げて、魔術師殺しは槍騎士の背に庇われた女の腕を万力の如き暴力で捻り上げ、引き摺り倒した。

「げぇっ……!」

「ソラウ様ッ!」

 肺に溜まった空気を無理矢理に吐き出させられたソラウの嗚咽とランサーの鬼気迫る声とが重なる。
 鍔競り合う剣の騎士と槍の騎士。火花散る鋼の硬直の中、呪詛の如く言葉は紡がれる。

「見損なったぞセイバー! おまえの主がいかに非道であろうとも、おまえは高潔であると信じていた!」

 セイバーは勝利の為に手段を選ばないと宣言しながら、それでもランサーを相手に尋常に立ち会った。
 たとえそれがサーヴァントは打倒しなければならないものと思っての行いであったとしても、手にする黄金の輝きに偽りはないとランサーは敬意を込めた。

「だと言うのにこれは……この様は……そうまでしてでも聖杯が欲しいのかッ!」

 だが現状はどうだ。ランサーから見れば切嗣は自身を囮にしセイバーはそれに加担、奇襲を行いソラウを人質に取ったようにしか映らない。

「…………ッ」

 『真実がその真逆』であったとしても、ランサーから見た現状に揺るぎはなく、セイバーの弁明は何一つとして意味を成さない事を物語り、故に彼女は無言を貫く他なかった。

 引き倒したソラウの腕を背後に取り、手にした銃口をその薔薇のように美しい髪に突きつける。

 ランサーの主が愛した人。
 守り抜くと誓った人。
 それが今、醜悪な意思により、死に晒される。

「ら、ランサー……私っ……!」

 真実彼女は人質だ。
 だが彼女に人質としての価値は無い。

 ケイネスが生きていれば違ったであろうが、ソラウの命を引き合いにランサーから引き出せるものはない。というよりも、引き出す必要がないのだ。

 何故ならば──彼女が死ねば、それでランサーもまた消え去るしかないのだから。

 死者に手向ける言葉もなく。
 命を摘み取る事に何の感慨も浮かべることもなく。
 衛宮切嗣は静かに、その引鉄を引いた。

「あああああああああああああああああああああァァァァァァアァァァァッッ!!!!」

 ランサーの魂切る絶叫の中、薔薇が咲く。
 血の色をした薔薇が咲き誇り、一人の女の命を枯れ散らす。

 枯れ落ちた恋人は地に落ちて、暗闇の中にその死骸を晒した。

「アアアアアアアアアアア……! 赦さん! 貴様らは断じて赦さんぞォォォ……ッ!」

 魔力供給が途絶えた今、力を振るえば振るうだけランサーに死期は迫る。それを構うものかと魔貌の騎士は槍を振るう。その端正な顔を鬼気に歪めて。魔人の如き奮戦で、やり場の無い怒りと敵意を込めて振るい続ける。

 しかし悲しいかな、十全の力を帯びたセイバーと、力尽きる事を決定付けられたランサーとの間にはその差を埋めるだけのものがない。
 憤怒や憎悪、猛々しい雷鳴の如き奮迅も、絶対的な差を補うには足り得ない。

 セイバーとて今の状況を良しとはしていない。その証拠に彼女の面貌には痛々しいまでの悲痛の色が浮かんでいる。ランサーにはもう、その真意を測る余裕も気もないが。

「呪われろ。呪われろ呪われろ呪いよあれ! 聖杯に呪いを! 祈りに穢れを! 卑賤な輩に災いあれ!
 赦さんぞ……俺は決して貴様らを赦しはしない……貴様らの勝利なぞ、俺は断じて認めはしない……!!」

 血涙を滂沱と零しながら、誰何と世界を呪う呪詛を撒く。清廉なる槍騎士の姿はそこにはなく、ただ憤怒と絶望に囚われた鬼がある。

 既に振るう槍に力は無く、爪の先から光となって消えている。それでもなお悲劇の槍騎士は己の悲憤にではなく、彼の主とその許婚の為、守れなかった誓いを果たそうと力尽き果てるその時まで手にした槍を振るい続け……

「地獄の底でこの俺の名を思い出せ……貴様らを呪うこの身を思い出せ……そしてその果てに俺以上の絶望を味わい崩れ落ちろ……ッ!
 我が名はディルムッド。ケイネスとソラウが騎士──ディルムッド・オディナ……! 主らの為、貴様らを永劫呪い続ける魔人なり…………ッ!!!!」

「…………ッ!」

 これ以上は見ていられない。

 その余りの痛々しさ故に、セイバーは力強く剣を振るい一刀に断つ。黄昏の残照を掻き消す黄金の剣閃は狂いなく、消えゆく憤怒の徒を斬り裂いた。

 その最期まで忠義の騎士としての意地を貫き、魔貌の槍騎士はその本懐を遂げる事無くその身を霞みと消え去った。

 後に残ったのは晒された死骸、ソラウの死体のみ。ランサーの流した血涙は、欠片も残る事無く消滅した。

「…………」

 じゃり、と音を立ててセイバーは具足を鳴らす。向き直ったのは当然、己が主の方だ。

「これが貴方のやり方か、切嗣」

 事情を知らないものから見れば、ランサーの言は正鵠を射ていると言えるだろう。
 切嗣は己を囮に使い、セイバーの加勢によってランサーを分断、ソラウを捕らえた。そう映るだろう。

 だが真実は違う。

 囮になったのは切嗣自身。
 だが囮になったのは、ランサーに対してではなくセイバーに対してだ。

 あの状況の真実を語るのなら、セイバーは加勢『させられた』。その一言に尽きる。

 セイバーには祈りがある。何を差し置いても叶えなければならない尊い祈りが。その為に手段を選ばないというのは本当だし、悪辣でも理に適ったものなら清濁併せ呑むと覚悟している。

 そしてそんな覚悟を切嗣は利用した。

 聖杯に至るにはマスターの存在が必要不可欠。サーヴァントが聖杯を掴む為には己の現世への楔であるマスターの生存が第一条件なのだ。
 マスターが死ねばサーヴァントも程なく消える。ランサーのように。そうならない為、そうさせない為、セイバーはあの時、切嗣に加勢せざるを得なかったのだ。

 事前に綿密な打ち合わせがあったわけではない。切嗣の作戦を聞いた事すらもない。セイバーが舞弥に指定された場所に辿り着いた時、状況は既に切迫していた。
 無謀にも敵サーヴァントに挑むマスターの姿を見たのなら、その従者の取るべき手段など一つしかない。

 よってあの状況下、セイバーが切嗣に加勢しないという選択肢は有り得なかった。そして今後、同じ状況になったのなら、同じ選択をし続けなければならない。し続ける他に道は無い。

 聖杯の頂に駆け上がるとはそういう事。
 他者の祈りを踏み躙るとはこういう事だ。

 ただ己の祈りをこそ叶えよと、聖杯に願うのなら。
 こんな展開は、何度だって繰り返される。
 六人六騎、都合十二の祈りが駆逐されるその時まで。

「…………」

 セイバーは二の句が継げなかった。糾弾の思いはあったが、それをして一体何になると囁く己がいる事も自覚した。
 覚悟した筈だ、この手を無垢の血で染め上げると。先のハイアットホテルでの戦闘に比べれば、この戦いはより犠牲を少なく終結している。

 いや、この戦いがあの延長線上にあるとするのなら、あの倒壊に巻き込まれた者の命を犠牲に、ケイネスの一派全てを葬りされたと考えるべきか。
 これで一つ、確実に聖杯に一歩を進めた。犠牲に報いるには、この歩みを止める事は許されない。

 流血は避け得ない。ならばせめてその犠牲を最小に。担える血は己が担うと、そう覚悟したのではなかったか。

 あの惨劇の丘を回避する為。
 滅び行く祖国を救済する為。

 この心が悲鳴を上げても、立ち止まる事は許されない。

 セイバーに掛ける言葉もなく、去っていく切嗣の背中。
 その背を見つめる彼女の瞳には、一体何が映っているのか。

 それは本当に、悪逆非道の男の背中だったのだろうか。
 その背に宿る刹那さは、悪であれと呪われるほどに強いものなのか。
 とても儚く映るのは、彼女の目が狂っているせいなのだろうか。

 明確な判断を下せないまま、彼女はその背を見送り、男は闇に紛れて姿を消した。
 吹き荒ぶ夜風とて、彼女の心の澱を払い去る事は出来なかった。


/3


 底には闇だけがあった。無明の闇ではなく、水底に沈み込む程に濃縮された闇。手を伸ばせば触れそうな、黒く渦を巻く闇のカタチ。

 その中心には小さな光があった。
 水晶球。

 占いで用いられるような十数センチほどの球形。街中に雑多に溢れる紛い物の占いでは何も写さない水晶も、真実のまじないの元であれば光を灯す。

 透明な球形に映る光景は暗い海と闇。
 そして回転する光と、血の赤だ。

 それは衛宮切嗣とセイバーが、ランサーとソラウを亡き者とした直後の光景だった。

「スッゲェ……今の、マジもん?」

 食い入るように水晶を見つめていた一人の男──青年と呼んで相違ない年齢のその男は埠頭で行われた戦いを備に見つめ感嘆の息を漏らした。
 常人であれば吐き気を催してもおかしくはない筈の光景も、彼にとっては日常茶飯事。しかも自分の殺しよりも鮮やかなそれは、彼の心を掴んで離さなかった。

「そっかぁ、銃って選択はなかったなぁ。日本じゃそう簡単に手に入んないんだもんなぁ。
 でもいいなぁ。一瞬のマズルフラッシュとその後に咲く血の花。一回間近で見てみたいなぁ、つーか自分でやってみたい。あーでもやっぱり殺した瞬間の手応えがないのはどんなもんかなぁ」

 狂気の沙汰としか思えない思考を口端に上らせ、そして話題は次に移る。その後に行われた人外としか思えぬ者達の舞踏。片方が半死の状態であったとはいえ、一般人の目から見れば充分に異常で彼の心はなお異常だった。

「ねえ旦那、今のどう見ても旦那の同類だよな!? 旦那もあんな風に斬ったり舞ったり出来んの!? それか空飛んだり? あ、もしかして魔法みたいの使えたりして!」

 この青年は魔術とは全く無縁に過ごしてきたただの一般人だ。そんな青年がこうも目の前の現実離れした非日常に適応出来ているのは、彼が余人の過ごせぬ乖離した日常で生きてきたからだった。

 雨生龍之介は殺人鬼だった。

 殺しに特に理由はなく、ただ享楽と快楽、そして好奇心の為に殺し続けている。画面の向こうのホラーやスプラッターにはない臨場感、人の見せる死に際の色めきは彼の心を満たしてくれた。

 純粋な死への関心──それが龍之介の行動原理で殺人原理。

 もし画面の向こう側にある死と血と絶叫が真に迫るものであったのなら、彼は殺人鬼になどならずに済んだのかも知れない。
 それでも彼は現実に人を殺している。それもただ殺すだけでなく、生から死への変遷を余す事無く愉しみながら。さながら研究者が実験動物を弄繰り回すかのように。

 幾つもの街を転々とし、殺し観察し続けてきた彼が辿り着いたのはこの場所──冬木だった。

 殺しのバリエーションが減りモチベーションが低下していた頃に地元に戻り、蔵の中で手に入れた一冊の古文書が、彼をこの闘争の渦に誘った。
 雨生は遡れば魔術師の血筋に当たる。当人たる龍之介は無論そんな事は知らないし、理解してマスターとなったわけではない。

 いわゆる儀式的な殺し方を実践している時に、偶然にも選んだ悪魔召喚の陣と呪文が聖杯戦争のそれであり、偶然にも彼は魔術師の血を引き適正を有しており、偶然にもサーヴァントを召喚したというだけの話。

 一度ならば偶然で、二度ならば必然。三度重なった偶然はこう呼ぶべきだ。雨生龍之介は運命によりこの戦いに巻き込まれたのだと。

 彼はそれを悲嘆しない。聖杯の何たるか、戦いの何たるか、魔術の何たるかをまるで理解出来ていなくとも、彼がサーヴァントの殺しの美学に心酔してしまった以上、その狂気は最早疾走を続ける他ないのだから。

 龍之介が旦那と呼んだ者──傍らにて水晶に戦いの光景を映し出していたサーヴァント・キャスターは、マスターの言葉にも何も答えず、ただ茫洋とした瞳で遠くの風景を覗き込むばかり。

「……旦那?」

 龍之介が訝しんだ時、まるで爆発のように声は響き渡った。

「────叶った!」

 間近にいた龍之介の鼓膜を裂くほどの絶叫。狂乱の歓喜を内包した歌声は、闇に木霊し彼の心を震わせた。

「おお……おお……我が願望、我が祈りは既に通じた。つまりこれは、我が手には既に聖杯があるという事!」

「え? 旦那、そんなもの持ってたっけ?」

「目に見える見えないなど関係がないのですよリュウノスケ。我が祈りが叶った事。これが全てを証明している。
 ああ、我が愛しの乙女よ。御身をまたこの目で見る事が叶うとは、この不肖青髭、歓喜の極みに至りまする!」

 野暮ったいローブから腕を伸ばし天を抱く。ぎょろりとした瞳からは、一筋の雫が零れ落ちる。
 二度とは叶わぬと思った悲願。奇跡に希う他永遠に巡り合えぬと慟哭した追憶の日々。悠久の絶望は終わりを告げ、希望に満ちた光が降り注ぐ。

 自らを青髭と名乗ったサーヴァントの宿望──聖処女の再臨は此処になった。

「へぇ、あれが旦那の女なの?」

 龍之介の見つめる先には白銀の騎士──セイバーの姿。青髭が愛しの乙女と呼んだ彼女の姿。

「彼女こそは我が光。彼女こそは我が導き。彼女が私に命を与えた。我が人生に意味を齎した……」

 言葉にしながら激情は更なる落涙を促した。感極まるとは正にこの事。永劫の果て、刹那にも等しいこの逢瀬に、青髭は感謝した。
 感謝の対象は決して神などではない。乙女の信奉を仇で返した神の愛などに感謝を捧げる謂れはない。

「おお……おお……我が愛しの乙女……聖処女の復活……ああ、ああだが……ッ!」

 心酔するかのような歓喜は、一瞬の激怒によって塗り替えられた。

「ああ、なんと嘆かわしい。あのように卑劣、あのように愚劣な手段で手を血で染め上げるとは、彼女はそれほどに神を憎んでおいでなのか。あの終わりが、清らかだった彼女を絶望で染め上げたというのか」

 それを許しがたいと、青髭は口を結ぶ。

「彼女の身を焦がすは我が愛でなければならない! 神の愛で穢れた彼女など正視に耐えるものですかッ!」

 此処に狂気は発露する。

 清廉である乙女を信奉しながら、己の愛で穢れる事を希い、神の愛と存在を否定するその矛盾。
 神への祈りによって清らかだった乙女であるのなら、その否定は彼女の根本への否定に相通ずる。

 それをこの怪物は気が付かない。狂気にて錯乱。狂い咲く花の如き感情の奔流は理の通る道など押し流し閉ざしてしまう。狂気にて狂喜し凶鬼なるもの。それがこのサーヴァントの本質である。

 故に常人には理解し難いその思考を理解出来るのは──

「えーっと、つまり旦那はあの女の事を愛してるって事だなっ!」

 ──同じく狂気にて生きる者に他ならない。

「分かるよ旦那。そうだよな、自分の(もの)神様(たにん)になんか穢されちゃぁ、そりゃ腹も据え兼ねるよ」

 うんうんと頷く龍之介。

「おお、流石は我がマスターですねリュウノスケ。私のこの想い、理解して貰えますか」

「当然さ。で、旦那。そうと決まれば当然花嫁(かのじょ)を奪い返しに行くんだよなっ!?」

「ええ、無論。こうして奇跡により我らは再び巡り合う機会を得た。けれどそれはかつての乙女ではなかった。たとえそれが穢れてしまった彼女であっても、神に見捨てられたのだとしても、この私は貴女の前で跪きたい」

 ならば奪い返すが当然と、二人は狂気に頷きあう。彼らにしか理解し合えぬ理に拠って。

「我が道行きを阻む者、その悉くを駆逐しましょう。我が女神との逢瀬に邪魔者は要らぬ」

「クール、クールだぜ旦那! 全部蹴散らしちゃおうぜ! そんでもって、旦那の美学をもっともっと俺に魅せてくれ!」

 闇の中に木霊する二人の哄笑。
 真に彼らが理解し合えているのかは余人には分からない。ただ目的は違えど彼らの目指す先は同じ場所なのは間違いのない事だった。


/4


 言峰璃正が安堵の息をつけたのは、夜明けも程近い時間だった。

 一夜の間に起きた戦闘によって引き起こされた事後処理に奔走させられ、年老いてなお壮健を誇る璃正も流石に疲弊しているようだった。

 聖杯戦争を取り仕切る監督役。その下につけられる教会スタッフはこの街のいたるところに配置され、市井に紛れその姿を隠している。
 どんな結果、どんな状況にも即応し、何を置いても神秘の露見を確実に防ぐ事を義務付けられた彼らは当然にして皆が腕利きだ。

 そんな彼ら、第三次より引き続いての監督を任された璃正の采配を以ってして、この夜に起きた一連の出来事は完全に隠蔽し切る事など不可能だった。

 そもそもの話、あれほどに巨大な建築物を爆破解体されてはどうしようとも隠し通せる筈がないのだから。

 故に璃正達の奔走は神秘の露見を防ぐ事にだけ終始した。駆けつけた警官、救急隊員、その他スタッフ全てが教会の息が掛かった者。
 押し潰されたとはいえケイネスの工房を形作っていた魔術、使用された魔術の痕跡の全てを完全に消し去るには、それほどまでに人員を動員する他なかったのだ。

 深夜未明から行われた現場検証という名の神秘の隠蔽。それ自体はつい先ほど終了し、後は一般の人間の手に引継ぎを済ませてしまえばそれで終いだ。
 ただその過程で見つかったものを、璃正は保護の名目で匿っている綺礼、そして時臣に伝える為、老体に鞭打ち身体を休める事をいま少し引き伸ばした。

『それで璃正さん。見つかったのですか?』

 声の主は遠坂家頭首である遠坂時臣その人だ。蓄音機めいた宝石仕掛けの通信機から声は届く。優雅を信条にし体現する彼が、このような時間にしかも夜を徹して推移を見守り続けた事。それがこの一夜の壮絶さを物語っている。

「ああ。しかし損傷激しく誰に見せられるようなものではなかった。魔術の使用痕、衣服の切れ端、その他幾つかの符号を以って、ケイネス・エルメロイ・アーチボルトの死を確定のものとした」

『……そうですか』

 時計塔の花形講師。生まれながらの天才。その存在を御三家の一角として疎ましく思いながらも、手強い相手と認識していた時臣にとって、彼のこの早期の死は予想を大きく裏切るものだった。

『魔術師殺し──それほどの者か』

 時臣とて魔術師だ。敬意を評するに値する実力と経歴を兼ね備えた魔術師の死を悼みもしよう。けれど未だ戦いは序盤戦。目を向けるべきは既の死人にではなく生き残った方。勝ち残った者だ。

 魔術師殺しの異名は時臣も聞いた事があったし、警戒もしていた。しかしケイネスがこれほどの序盤に倒されるほどの実力者だとは決して思わなかった。
 あの男は時計塔で正統に魔術を学んだ者ではない為、実力の程については神童のようには測れない。

 それでも言える事はある。魔術師殺しは魔術師としての力量でケイネスを圧倒し勝利したのではない。

『建物ごと敵、無関係な一般人のみならず、自分自身すらも崩壊に巻き込んだ。魔術師にあるまじき戦い方でありやり方だ。好きにはなれんし理解も出来ない。
 しかしそれが強力な手段である事は認めよう。およそ魔術師である限り、あの男の戦法を推測する事すら難しい』

 ケイネスの城で行われた戦いについての詳細は時臣にも知り得ない。アサシンの気配遮断スキルを以ってすればあるいは侵入も可能だったかもしれないが、万が一にも露見してしまう可能性を考慮し、外からの監視に留めさせた。

 結果、知り得たのは崩壊から脱出した切嗣とセイバー、ソラウとランサーの行方のみ。ケイネスの死が確定したのはつい先程であり、それに先んじて埠頭での戦いもまた監視し結果を見届けている。

 衛宮切嗣はその悪辣な手段で一夜の内にケイネス、ソラウ、ランサーを討ち取った。

『これで表向き、脱落者は二組。ロード・エルメロイの死は予想外だったが、我らの策に綻びはない。だが──』

 衛宮切嗣は究極、神秘の露見には加担していない。建物の倒壊により多くの魔術痕は消され、事故の規模の大きさから教会スタッフの動員も速やかに行われた。世間に魔術の業は毛ほども漏れてはいない。

『それでも奴は無関係な人々を巻き込んだ。私はそれが許せない』

 正調の魔術師──遠坂時臣。
 彼はケイネス・エルメロイ・アーチボルトほど完璧な魔術師ではない。

 その才は凡庸、ケイネスには大きく劣る。彼が今の地位を手に出来たのは、血の滲むほどの研鑽の結果だ。
 決して辛さを表に見せる事無く、優雅の自負を揺るがせぬまま、それでも気の遠くなるほどの努力を為して彼は高みへと上り詰めた。

 そのせいか、彼は魔術師が持つべき冷徹な側面が薄い。逆を言えば情に厚く、人間味があると言うべきか。
 魔術師がまず最初に排斥する感情の数々を、時臣は持ち合わせたまま高位の魔術師として完成している。

 魔術の為に他の全てを蔑ろにする事は出来ない。
 それでも魔術を至上としてあり続ける。
 つまりは人でありながら魔術師である事。

 それは矛盾にも等しい結晶。彼が唯一誇る事の出来る宝石だ。

 故に目的の為手段を選ばない衛宮切嗣が許せない。魔術師として最低限の規律を守ろうとも、あの男は人として外れすぎている。

 魔術師として。
 人として。
 この地を預かる者として。

『綺礼、言峰さん。済まないが私は、この激情を抑える事が出来そうにない』

 最初の策では当分の間穴熊を決め込む腹だった。綺礼の繰るアサシンに他の参加者の情報を徹底的に暴かせ、必勝の環境を作り上げる為に。
 けれど今、あってはならぬ悪を見た。こんな奴が自分の預かる霊地にのさばっている事を放置出来るほど遠坂時臣の気は長くない。

「しかしどうするつもりかね時臣くん。監督役の権限を実行し衛宮切嗣に対する罰を制定するかね?」

『それには及びません。これは私の我侭だ。それに言峰さんの手を煩わせるわけにはいきません。
 そして最終的な勝利──聖杯獲得も見据えなければならない以上、綺礼の手を借りる事も出来ません』

 アサシンと綺礼の擬似脱落より未だ一日。当然の如く情報収集は完全には程遠い。姿を見せぬマスターとサーヴァントも存在する現在、消えた筈のアサシンの影を手離すには惜しすぎる。

 時臣自身が言ったようにこれはただの我侭だ。聖杯獲得という第一目標を達成する為ならば動く時ではない。
 それでもなお動こうと言うのなら、己が身一つで戦場に馳せ参じなければならない。一時の激情に流されて、本流を見失っては本末転倒もいい所なのだから。

「勝算はあるのかね?」

『魔術師殺しの土俵、つまり奴が先手であった場合、後手に回らされる者はその掌で踊らされ続ける。ならば──』

 これまで切嗣の行った先の先を奪えばいい。アサシンの打倒にしろケイネスの打倒にしろ切嗣の基本戦略は奇襲や強襲だ。先行を奪取し相手の裏を掻いて撹乱し、予想だにしない札を切る。ただそれだけに過ぎない。

 それを可能としているのは切嗣の魔術師にあるまじき手段とセイバーの戦闘能力。どちらかを剥奪出来れば勝機はある。

「聖杯は必ず、君が手に入れなくてはならない。あのように悪辣な手段で聖杯を求める者に獲らせてはならない」

『その通り。聖杯はその用途に沿った使用を行うべきだ。世界の外へと至る道を開き根源へと到達する事。遠坂の悲願を叶える為の礎に』

 聖杯を本来の用途として使おうという輩はこの遠坂を置いて他にいない。聖杯の成す奇跡に善悪はない。ただ願われた祈りを叶えるだけの機構。故に邪悪なる者が手にする事だけは避けなければならない。

 正統にして正調たる遠坂に勝利を。
 綺礼と組んでいるのもその為で、最初から仕組まれた出来レース。

 それでも決して平坦ではないその道を、なお過酷な道を往くと時臣は言う。先代と友誼のあった璃正にとって、ならば友人の息子の行く末を案じ祈るのが己の役目。

 諌め叱咤を必要とする子供ではない。時臣の勝利を信じているから、彼の道を妨げてはならないのだ。

『分かった。時臣くんの健闘を綺礼と共に見届けさせて貰うとしよう──綺礼……?』

 これまでこの場にありながら、一切の言葉もなく沈黙に身を埋めていた綺礼。彼は師や父のやり取りを聞きながら、その瞳は虚空を見据え続けていた。
 父に名前を呼ばれ、ようやく忘我から立ち直ったように、落ち着いた声音でこう言った。

「私もまた師の健闘を見守らせて頂きます。ただ、一つ。御身のサーヴァントについてですが……」

 時臣の腹は既に決まっている。しかしその最後の障害となる存在について、綺礼は切り込んだ。

 時臣のサーヴァントは召喚以来、屋敷に留まり続けた事が一度として無い。保有する高位の単独行動のスキルを用い時臣からの魔力供給すら遮断して遊興に耽っている。およそ聖杯に招かれ聖杯を求めるサーヴァントとは思えない。

 はっきりと言えば手に余る。格としては最上位。過去現在未来を見渡してもおよそ最強と呼んで相違ない力を有するサーヴァントであっても扱い辛い事この上ない。
 気性荒く何が切欠でマスターにすら牙を剥くか分からない爆弾のような男──その男をやる気にさせねばそもそも切嗣とセイバーに立ち向かえる道理はないのだ。

 だから綺礼は問うた。
 あのサーヴァントを御するだけの策があるのか、と。

 その問いに答えたのは時臣ではなく。

「ああ、良いぞ。この我の供を許す」

 その声は綺礼のすぐ傍から。何時の間にそこに居たのか、聞こえる筈のない音を響かせるは原初の黄金。それはまさに黄金としか称しようのない青年だった。

 装飾華美な黄金の甲冑。燃え立つような金色の髪。血のように赤く輝く双眸は、この世の全てを見下している。けれどその輝きに下卑た感情はなく、有無を言わさぬ力があった。その佇まいとて同様。纏うオーラは王者の放つ王聖だ。

 彼が黄金である所以は何もその常軌を逸した風貌を指したものではない。彼はその魂こそが黄金なのだ。
 たった一人でありながら、十数万の人間の総和をも凌駕する魂魄の色。人々の畏怖をその身に宿らせた唯一人の王者。

 何者にも揺るがぬ強大な自我。
 天上天下に我唯一人のみ尊しと言って憚らぬその荘厳。

 それこそが、遠坂時臣がサーヴァント──黄金の騎士アーチャーだった。

『これは王よ。何故そちらにいらっしゃるのかはまあいいでしょう。今の言葉の真意をお聞かせ願っても?』

 時臣はアーチャーに対し臣下の礼を取っている。黄金の王者は誰であれ、己に並び立つ者を良しとしない。故に時臣は自分を下に置く。マスターでありながらサーヴァントを上位に置く事を良しとした。

 真実この黄金には敬意を払っているし、時臣自身もまた貴族足らんとする信条を持つ。ならば王者に傅く事も然程無理のない対応である。
 そして黄金の騎士と自身が共に聖杯戦争を勝ち抜く為には、そうする事が最善であると弁えていた。

「言葉の通りだが? 時臣、おまえはセイバーとそのマスターを討つというのだろう? ならばその道程、我も供をしおまえの供を許すと言ったのだ」

『……これはこれは』

 その恭順にはさしもの時臣も声を失った。綺礼が危惧していた通り、この黄金は他者の指図には決して従わない。唯我の極みに立つ者だ。それを思惑通りに動かす為にはどうするべきかという思案を、王自らが乗り気であった事に驚愕は隠せない。

 聖杯にすら拘りを見せず、物珍しさから遊興に耽っていた男の琴線に触れたものは一体何なのか。

「我の心変わりの原因は何なのか、それを知りたいと見えずとも顔に書いてあるぞ時臣。だがそう急くな。未だ我とて半信半疑なのだ。
 アレは我が愛でるに足る宝石なのか。それとも、そう見せかけただけの贋作なのか、な」

 真偽の程を覆い隠した言い回しで、何が言いたいのか今一つ要領を得ない。けれどこの黄金の王が聖杯戦争に参加するだけの意義を見出した。それだけは確かだった。

『では王よ。王の歩む道、私も同道させて頂きます』

「構わん。ああ、そうだ時臣。敵を見定めておきながら、よもや居所を知らぬとは言わぬよな?」

『ええ、無論。衛宮切嗣はアインツベルンの子飼いの魔術師。ここまで派手に暴れ、自らに衆目を集めた奴が次に取るべき行動を慮るのなら。その策略に適した居城はこの街に唯一つ──』

 冬木市郊外に広がる樹海。
 通称アインツベルンの森。
 その中心に座す古城に、奴は必ずいる。

「フン。ようやく我が出るに足るものを見出した。落胆させてくれるなよ」

 黄金の王が立つ。
 他を寄せ付けぬ圧倒的王気を纏い、遂に今宵出陣する。

『魔術師殺し。その横暴、この私が止めてみせる』

 その傍らには紅蓮の魔術師。
 魔術師でありながら人である、異端の魔術師が今その信念に従い聖杯戦争に参戦する。

 第四次聖杯戦争における最有力候補──正調の魔術師遠坂時臣と黄金の騎士アーチャーが戦場に馳せる。
 彼らの行動がこれよりの戦局に嵐を齎す事は、疑いようのない事実だった。


+++


 出立は夜明けの後。

 そう通信機越しにやり取りをした時臣とアーチャーの会話を聞き終えた後、璃正は客室を辞し自室へと戻った。
 綺礼と黄金の王の手前、疲労は表に見せなかったが、夜通しの指揮運営はその老体に堪えた事だろう。その心労を慮って余りある。

 残されたのはソファーに腰掛け腕を組み、虚空を睨んでいた綺礼と黄金の武装を解いたアーチャーだけであった。

「おまえは此処で一体何をしているアーチャー。時臣師は今頃出立に向けての準備をしているだろう。おまえもせめて遠坂の屋敷に戻ってはどうだ」

「なんだ、我がこの場にあっては何か不服か?」

「別段不服などない。だがおまえはようやく聖杯戦争に参加するだけの意義を見出したのだろう。ならばサーヴァントはサーヴァントらしく振舞ってはどうだ」

「分を弁えろよ雑種。我はサーヴァントの前に一人の王だ。そして時臣は我に臣下の礼を取っている。何処に臣下の下準備を共に行う王がいる。奴がその支度とやらを済ますまで、我は奴が崇める王らしく振舞うまでよ」

「……おまえの言う王らしいとは、人の酒蔵を開け勝手に漁る事を言うのか」

 綺礼の対面に座り尊大に居直るアーチャーの手には血のように赤いワイン。綺礼が個人で収集し私室の蔵で眠らせていたものを、この青年はわざわざ探し出してこの客室に持ち込んだのだ。

「この世遍く全ては我のもの──であるのなら、この酒とて無論我のものであるのは道理だろう? フン、数こそ少ないが時臣の酒蔵のものより上質なものが揃っているとは、とんだ坊主も居たものよな」

 傾けた杯から血色の液体を一息に嚥下するアーチャー。その表情に酔いが回った様子はなく、けれど何処か酩酊めいた雰囲気を漂わせている。彼の心を酔わせているものとは、件の宝石か。それとも。

「それで、用件は」

 綺礼は表情を変えぬままそう嘯く。アーチャーの奔放な性格を考慮すればそれこそ気紛れの類でこの場に居座っているとも考えられたが、綺礼は黄金の見透かすような視線が気に入らずそう言った。

 自分自身すら分からぬ男の心底を覗き込むかのようなその瞳。紅蓮の宝玉の輝きが、酷く心をざわつかせていた。

「用件……用件か。ああ、そうだな。今はそういう事にしておくか」

「なに……?」

「気にするな、何れ貴様も知るだろう」

 意味深な言葉を述べ、手酌で注いだ酒を一息に煽るアーチャー。空に干したグラスをテーブルに戻し、片肘をついて射抜くようにこう言った。

「貴様はさきほどこう言ったな。我が聖杯戦争に参加する意義を見出したと」

「ああ」

 聖杯の寄る辺に招かれながら、そんなものに興味はないとばかりに遊興に耽っていた黄金の王者。彼にとって聖杯など真実取るに足らないものなのだ。
 遍く全ては遡れば原初の一点に集約される。ならば当然、その一点において頂点であった王の蔵にはこの世の全てが収められている筈だ。

 聖杯と呼ばれる代物も探せばその蔵の中にあるだろう。『既に手の内にあるもの』にこの黄金は興味を示さない。手に取るに足る理由がなければ散逸したものになど微塵の関心も寄せはしない。

 黄金の求めるもの──それは未だ見ぬ宝物。

 人の願いを束ねた聖杯などよりもこの醜悪さに満ちた世界の有様を見聞する方が余程心地良い。度し難くはあっても、唾棄すべき進化だと思っても、彼はその無様には愛でるだけの価値があると考える。

 そしてそんな世界の在り様よりも彼の心を掴んだもの──それこそが戦いに参じるに足ると決意させた宝石なのだ。

「我は見出したぞ。この戦いに価値をな。未だ趨勢は見えんが、まあそのくらいの方が面白い。ならば貴様はどうだ? 時臣の腰巾着のままで満足か?」

「……何が言いたい」

「我を前に言葉を濁すな、無意味だぞ。はっきり言わねば分からんのなら言ってやろう。言峰、貴様は聖杯戦争に参加する意義を未だに見出せずにいるつもりか」

「…………」

 アーチャーに内心を話した覚えなど勿論ない。師から聞き出したような素振りもない。何を根拠にそう言い放ったのかは分からないが、勘や戯言のような不確かな物言いではないのは確実だった。
 ならば本当に、この青年は言峰綺礼の心を見透かしているのか。

 ──この、世界の在り方に真逆の心を。

「見出す見出さないの問題ではない。真実として理由がない以上、見出せるものなどある筈がない」

 御三家にも匹敵するほどの早期に令呪を宿した綺礼ではあったが、自身が聖杯という奇跡に選ばれる理由に心当たりなどなかった。
 生まれてこの方奇跡になど頼った生き方をした覚えはないし、縋るほどに渇望する祈りもない。

 何故なら言峰綺礼は妻との死別を以って完結している。

 生れ落ちたその時より心で燻る違和感。父に倣い信仰の道を志しながら、何処かで善や正と呼ばれるものに嫌悪を感じるこの心の在り方。その軋轢の正体について綺礼は既に理解を得、納得している。

 この己は世界の在り様に反する邪悪だと諦観し、観念している。美麗なものが醜く、醜悪なものこそが美しいと。
 人々の悲嘆、憤怒、憐憫、悔恨。負の想念に心引かれて止まないのだ。それを見たいと思ってしまい、けれど正常のあるべき倫理観がそれは駄目だと吼えている。

 心が完全に壊れていたのならまだ救いがあったのかもしれない。しかし言峰綺礼という男の心は正と邪の狭間で揺蕩っている。それは綺礼の克己心ゆえのものだろう。

 邪悪な倫理で正常な心理を抑え付ける日々。そんな無様で無意味な生を今なお続けている理由は決して答えが欲しいからではない。
 こんな異物が産み落とされた意味。生きている意味。存在を許容しているもの。そんな答えは欲していない。欲してはならないのだ。

 ただそれでもこうして生き永らえているのは、この己が無意味に死んでは、その心を暴き立てた者の死が無価値になってしまうという一念ゆえに。

 心に硬く蓋を閉ざし、目を背け続けて生きている綺礼にとって、それら追憶は既になきもの。
 ただ己の邪悪さだけを理解し諦念し、生き足掻いているだけの俗物に過ぎない。

「存在しない理由を搾り出せとは難解な事を言う。私は時臣師を勝者とする為だけにこの戦いに臨んでいる。そこに私個人の感傷が入り込む余地などない」

「それは本当か? 本当に貴様はこの戦いに意義はないと? 一筋たりとも有り得んとそう言い切れるのか」

「……ない」

「あって欲しくないと望んでいるから見えぬだけではないのか。もしそれを直視してしまえば二度とは瞳を逸らせぬと理解しているが故に」

 望まざる願い。それはいつか師が言っていた言葉だ。本当に理由がないのなら、こうまで躍起になって反論するだろうか。幾度となく言葉を重ねるその様は、まるで駄々を捏ねる稚児のよう。

 黄金の王の言葉が綺礼を惑わす。ないと断じる理由から目を逸らすなと退路を塞ぐ。それでも綺礼は声を絞り出す。そんなものは、ないのだと。

「それは太陽に目を焼かれぬよう逸らすようなものだぞ言峰。その眩さ。その輝き。その黄金の光に恋焦がれながら、焼き尽くされてみても良いのではないか」

「くどいぞ英雄王。私の意志を捻じ曲げるな」

「捻じ曲げているのは貴様自身だろう言峰綺礼。これまでの戦いの全てを観測してきた貴様が目を奪われたもの。心に泥のように染み入った一滴の感情をなかった事にして目を背けるな。
 今なお貴様はその存在に心奪われている筈だ。気が付けば、目でその行方を追っている筈だ。まるで恋に焦がれる童のようにな。さあ、己が心に今一度問いかけろ」

「何を──」

「これで終いだ。言峰綺礼──貴様が焦がれている者の名を思い出せ」

「…………っ」

 衛宮切嗣。

 アーチャーの確信に満ちた物言いから、綺礼の脳裏を過ぎったのはその男。その男の横顔だった。

 事前に時臣が収集していたマスター候補の情報を見せて貰った時、綺礼の目に止まったのはその男の経歴だった。

 フリーランスの殺し屋として暗躍しながらその裏で紛争地帯への介入を幾度となく、そして並行に繰り返していた。
 準備や正確性を期すのなら決して出来ない戦地での奮闘。己自身の命すら勘定に入れていない、まるで強迫観念に衝き動かされているかのような異常な経歴。

 それが路銀を得る為だけのものだとどうして言えるのだろう。自分の命すら惜しくないという男が、些細な金銭を得る為に身を焦がす事など有り得ない。

 ──ならば奴を衝き動かしたものとは何なのか。

 それを見定める前に切嗣は戦地より姿を消した。アインツベルンに召し抱えられる事でそれまでの奮迅が嘘のように静寂に消え去った。

 もし仮に。

 衛宮切嗣が戦場で『何か』を探していたとしたら。
 日常では決して見つけられない『何か』を求め己自身の命を燃やし続けていたとしたら。

 後に訪れた静寂は、きっとその『何か』を得られたからに違いない。
 硝煙と血風、怨嗟と嘆きが渦巻く戦場ですら決して見つけられなかったものを、衛宮切嗣は冬の一族の元で手に入れたのだ。

 そして恐らくは。
 その『何か』を手離してまで、この戦いに臨んだ理由こそ────

「っ…………!」

 忘我の思索から脱した綺礼が見たものは、愉悦に口元を歪めた黄金の面貌。喜色満悦、我が意を得たりとばかりの表情に言うべき言葉が見つからない。対する黄金は、さも当然のように言い放つ。

「どうした言峰。何がそんなに可笑しい?」

「なに……」

「分からぬか。貴様今、喜悦に顔が歪んでいるぞ」

 何を馬鹿なと窓ガラスを覗き込めば、確かにそこには嗤っている言峰綺礼が存在した。

「馬鹿な……」

「何が可笑しなものか。言峰よ、貴様は元よりそういう人間だ。愉悦に善も悪もない。何より貴様のそれはもっと単純な欲求だ。知りたい──人であれば、そう願う事に何の遠慮が必要か」

 何かを知りたい。それは本能に準じる欲求だ。生きている上で決して避けて通ることの出来ないもの。
 隣人の趣味が知りたい、好悪を知りたい、己に対する評価を知りたい。そして何より、裏の顔が知りたい。

 己自身の知らぬもの──無知であることを許容出来る者はそうはいない。瑣末な事であれば目を背ける事も可能だろうが、それこそ存在の定義にすら関わる程に重大なものであるのなら、決して目を背ける事など出来はしない。

 たとえそれが、どれほどの闇を孕もうとも。

 これまで綺礼はその克己心と誰かへの誓いの為、その欲求を封じてきた。
 だがこの眼前の全てを見透かす慧眼の王と、そして何よりあの男と巡り合ってしまったから。

 あるかないかも知れぬものを命を賭して探す男。
 その果てに『何か』を見つけた男。
 そして手にしたものをかなぐり捨てて、奇跡に祈りを捧げる男。

「衛宮、切嗣────」

 今確かに、言峰綺礼は衛宮切嗣を見定めた。
 この戦いの果てに見出すべきものを直に見つめた。

「どうやら見出せたようだな言峰。貴様のこの戦いに臨む理由を」

 くつくつと嗤いながら肩を揺らす眼前の王者。未だ動揺の渦中にある綺礼は、それでも搾り出すように声を吐いた。

「……アーチャー、おまえの目的はなんだ」

「目的?」

「わざわざ私を焚き付けて、おまえに一体何の得がある。おまえは時臣師の……遠坂時臣のサーヴァントだろう。別のサーヴァントを従えるマスターを煽り、私の叛意でも促しているつもりか」

 言峰綺礼が真に勝者足らんとする時、当然今の同盟関係は破綻する。勝者がただ一人でなければならない以上、決別は当然に訪れる。
 アーチャーの狙いは綺礼の排除か。最強の自負を持つこの黄金にとって、間諜を張り巡らせる己は邪魔者にしかならないと。

「思考としては下の下だな。先も言ったが今は知らずともいい事だ。そら、そう言われると尚の事知りたくなってきただろう?」

 喜悦の表情を変えぬまま、黄金の王者は席を立つ。既に用件は果たしたというように。

「後は貴様次第だ言峰。このまま時臣に頭を垂れ続けて心の闇の蓋を今一度閉ざすか。それとも──」

 続く言葉は虚空に消え、綺礼の耳朶には届かない。響いたのは、部屋を閉ざすドアの音だけだった。

「…………私は」

 一人になった綺礼は今一度己に問いかける。

 切り開かれた心の闇。
 曝け出された醜い劣情。
 求める事を放棄した筈の答えを求めてもいいのかと。

 王者は告げた。その欲求は、誰しもが持つ当たり前の感情だと。世界の真逆の男とてそれは当然に持っている筈のものなのだと。その身を満たす愉悦──識る事の喜びから、逃れる事など出来はしないと。

 目を背け続けた心の闇。
 それと向き合う時が訪れたというのか。

 今この機を逃せば恐らく二度とは手に入らぬ答え。
 同じ闇を抱え、そして辿り着いた男に問うべきものとは。

「────」

 言峰綺礼はじっと虚空を見つめた。
 視線の先に揺らめくは燭台の明かり。闇の中で揺らめく小さな炎だった。


/5


 翌朝の朝食時、ウェイバー・ベルベットは手にした新聞の一面に躍った文字を食い入るように見つめていた。
 その記事の内容は冬木ハイアットホテル倒壊の記事だ。事故原因は依然究明中、そして確認された死傷者の名も片隅に記されていた。

 そしてその名の一つに、吸い寄せられるように瞳が滑る。

「ケイネス・エルメロイ・アーチボルト……」

 茫然自失としたまま朝食を食べ終え、寄生している家主たるマッケンジー夫妻の心配も柳に風と受け流し、ウェイバーは自室へと重い足取りで戻っていった。
 その部屋に居座るは赤銅の巨漢。ウェイバーがサーヴァント、征服王ことイスカンダルである。

「おうどうした坊主。死人のような顔色だぞ。寝不足か?」

 実際寝不足だ。ウェイバーとてこの聖杯戦争の参戦者の端くれ、昨日の戦いの結末であるところの埠頭での戦いは使い魔の目を借りて一部始終を把握している。

 ケイネスの居城については把握していなかったので、ハイアットホテルでの事はほとんど何も知らない。
 ただケイネスが従えていたランサーが消滅した事実から、もしやという思いで今朝の朝刊をグレン翁から掻っ攫って記事を読めば、予想は見事に的中した。

 事実確認は出来ていない。一般に流通する新聞の記事を何処まで信用していいのかは不明だ。だがそれでも、ランサーが消滅したのは事実なのだ。埠頭での戦いの場にケイネスが居なかった事は事実なのだ。

 物事の筋道を立て辿る事に長けている──と本人は気付いていないが──ウェイバーはほぼ確信にも近いものを心の底で感じていた。

「なあ、おまえがこの間戦った相手、覚えてるか」

 力なく椅子に腰掛けながら、やおらウェイバーはそう切り出した。

「応とも。ランサーの奴だろう?」

「ああ。そのランサー、殺されたみたいだ」

「おう……それも先に聞いた」

 埠頭での戦いを見届けた後、この巨躯には既に伝えていた。今のはただの確認だ。

「そのマスターも……死んだみたいなんだ」

「そうか。で?」

 大した感慨もなく赤銅の王はそう嘯く。

「でって何だよ。死んだんだぞ、殺されたんだぞ。おまえと戦ったランサーも、そのマスターも!」

「だからどうした。これは聖杯戦争、殺し合いの宴であろう。殺し殺されるは共に覚悟の上のもの。よもや貴様、まさか本当に殺されるとは思っていない、思っていなかったなどと抜かさんよな?」

「…………っ」

 ウェイバーは声を喉に詰まらせた。答えるべき声が出なかった。だってそうだろう、たとえ魔術師であったとしても、死を身近に感じていても、こうも呆気ないものだなんて思わなかった。

「あの男は言ったんだ、何れ雌雄を決しようって。それが……こんなあっさりと……」

 約束はもう叶わない。時計塔の花形講師。生まれながらの天才。血統と実力を兼ね備えた男が、こうもあっさりと死ぬなんて思うわけがないだろう。

 まだ何一つ見返してやれていない。何一つ認めさせていない。あの男を平伏させる為にこんな戦いに臨んだというのに。時計塔の連中に正当なる評価をさせる為にこんな僻地にまで来たのに。

 あれほどの実力者を以ってして、呆気なく死ぬ。それがウェイバーの心に澱のように蟠って離れない。

 死ぬのは怖くない。魔術師である以上死は観念して然るもの。何よりも怖いのは、塵のように消えてなくなる事。
 誰にも理解されず、誰にも覚えられず。時が過ぎ去れば風化するかのように誰の記憶からも消え去る事。それが何より恐ろしい。

 誰かに認められたい、見返してやりたいという想いはその具現だ。
 ウェイバー・ベルベットが生きた証がないままに死ねば、この身は一体何の為に生まれてきたのか分からない。

 この戦いにはその死の観念が渦巻いている。道半ばで倒れればそれこそ跡形もなく消え去るしかない。今頃時計塔の連中はウェイバーの事など頭の片隅にも残していまい。彼らの記憶に己を刻み付けられるのは勝利だけだ。

「逃げ出したくなったか。怖くなったか」

 ウェイバーの心を見透かすように赤銅の王は嘯く。

「前にも言ったがそれを恥じる事はない。死は誰にとっても平等であり、その恐怖の前には何者も抗えん。
 実際の死を前にして怖くないとか言う奴は、そりゃ頭がいかれてるってもんさ」

「……おまえも、怖かったのかよ」

 生前、道半ばで倒れたこの王にも死の恐怖はあったのか。そうウェイバーは問いかけた。

「そりゃそうさ。余の場合はどちらかといえば怖いというよりも悔しいだな。世界の果てを見る事が叶わなかった。ただそれがどうしようもなく悔しかった。こうして化けて出るくらいにな」

 呵々大笑と自らの死を笑い話に出来るのはきっとこの王くらいのものだろう。胸に宿した志、それを遂げる事無く死ぬ事に未練を抱かぬ者はいまい。
 ケイネスやランサーとて同じだった筈だ。聖杯を手に入れ祈りを捧げるその前に、崩れ落ちた悔しさは想像して余りある。

「死を恐れよ。されど決して目を逸らすな。目を背けた時、死はその首を掻き切り来るぞ」

 命を賭すのと死を恐れないのは全く違う。死を受け止め、死をあるものとして受け入れその上で覚悟する。それが命を賭すという事。
 ただ無闇矢鱈に死に急ぐ事を、死からの逃避だと思ってはならない。それはただ、目を背けているだけなのだから。

「それで、坊主。どうするんだ」

「え?」

 突然の問いかけに困惑する。

「貴様は死を知った。その呆気なさをな。その上で問うておる。このまま戦いを続けるか否か」

 このまま戦い続ければ死ぬ可能性はかなり高い。唯一人の覇者以外が駆逐されるというのなら、残り五人中四人が脱落する筈なのだから。

「怖いのなら此処で待っておれ。余は一人でも聖杯を勝ち取って見せよう」

 豪放磊落の王は唯一人でも聖杯を掴むという。彼にはそれだけ強く聖杯に託すべき祈りがあるのだ。
 サーヴァントが元より死んだ身である、というのは理由にならない。この世で死ねばそれは二度目の死に他ならない。

 だから赤銅の王はこう言うのだ。
 一度ならず二度までも、志半ばで斃れる事は出来ないと。死と比してなお尊いと誇れる祈りを叶える為、我が身一つで天地に挑む事に相違はないと。

「……前にも、言った筈だ」

「ぁん?」

「戦いは怖い。死ぬのは怖い。でもッ! 此処で膝を抱えて待ってるだけなんてのは真っ平だ! おまえが勝ち取ったもののお零れに預かるなんてのは耐えられるもんか!
 この戦いは僕の戦いだ。僕が戦うと決めたものだ! この意思を曲げない。曲げられないッ! それを曲げてしまったら──」

 もう──生きている価値すらない。

「僕はおまえのマスターだっ! だからおまえと共に行くッ!!」

 零れ落ちてきた栄光に縋りついて何になる。栄光は、勝利は。自らの手で勝ち取るものだから。
 この足で立って歩く。赤銅の王の隣を歩むと決めたのだ。違える事の出来ないその決意こそが、ウェイバー・ベルベットを奮い立たせる。

「はっはっは。うむうむ、余のマスターたる者そうでなければな。だが、事実としてこの戦い、生半可なものでは行きそうにはなさそうな雰囲気だ。ちょいと本腰を入れてやる必要があるな」

「え?」

 どかりと落としていた思い腰を上げ、赤毛の王は背筋を伸ばす。天まで届けと言わんばかりに。

「とりあえず、まずはそのランサーを討ち取ったマスターとサーヴァントの面でも拝みに行くとするか」

「はぁぁぁあ!? な、なんでわざわざ出向くんだよ! あいつらもうアサシンとランサーの二騎を討ち取ってるんだぞ!? 真正面から突っ込んで何になるんだよ、やるならこっちもちゃんと作戦立てて──ぴぎゃっ!?」

「えぇい喧しい坊主だな。さっきまであんなに神妙な顔をしとったくせにもうこれだ」

 そのささくれだった野太い指でウェイバーの額を弾き飛ばした赤銅の王は続ける。

「おまえさんの言うその作戦とやらも相手について知らねば立てようとてないだろう。
 それに奴らはこれだけ派手に立ち回りおったのだ、他の連中もさぞかし気になっておるだろうよ」

 公的には既に二騎のサーヴァントを撃破した主従。誰もが聖杯獲得を狙う以上、これが気にならない筈がない。そして他の連中も同じ思考をしているだろう事に行き着けば、自ずと答えは導き出せる。

「今を生き残っておるマスターとサーヴァント。その多数ないし全員が奴らの首を狙っておるぞ。残る連中が一堂に会す機会など二度あるかないか、この機を逃す手はあるまい」

「な、なんなんだよ……漁夫の利でも得ようって──ひぃ!?」

 伸びた指先から額を隠しながら若輩の魔術師は情けない悲鳴を上げる。どれだけ決意を固めようと本当の戦場を一度体験しただけ、死の真の意味を理解しただけのヒヨッコだ。赤銅の王と同じ器量を持てなど無理にも程がある。

「この戦に参じるは世に名を馳せた英雄豪傑だぞ? 無双の戦士共だぞ? 彼奴らと戦える機会なぞそうあるもんでもない。既に二騎討ち取ったというセイバー……ふふん、そそりよるなぁ」

 獣じみた笑みを浮かべ、立派に蓄えた顎鬚を撫で擦る。一人の戦士としての高揚。胸の高鳴りを抑え付ける事など出来はしない。

「つまり……ええと、一網打尽の腹積もりって事か?」

 言ってそれがどれだけ無謀な事かと頭を抱えたくなったウェイバーだったが、この豪放な王の様を見ていてはそれも出来てしまうのではないかと錯覚してしてしまう。それだけの力強さがこの赤銅には備わっている。

「そう巧くいけば良いがな、腹に一つや二つ何かを抱えている連中ばかりだろうて。それでも得られるものはでかいだろうよ」

 彼の言うように他の連中もまたセイバーとそのマスターの下に集うのなら、それを遠巻きに見る方が安全であるのは明白だ。わざわざ死地に赴く必要はない。
 ただ、現場でしか得られないものもあると思うのだ。たった一度とはいえ、戦場に立ったウェイバーでもそう感じる何かが戦いの舞台にはある。

 何れにせよここでこそこそと様子を窺っては先の決意に水を差す。戦うと決めた。覚悟したのだ。戦場を前に尻込む事などあってはならない。

「……分かった。行こう」

 決意を言葉に変え、此処に一つの主従が空に馳せる。
 天を裂き現れた強壮なる雷神の戦車(チャリオット)に乗り込み、向かう先は決闘場。生と死が鬩ぎ合う戦場だ。その中で生きると決めた。生き残るのだと強く強く願うから。

「ところで坊主。セイバーとそのマスターの居所、ちゃんと掴めてるんだろうな?」

「…………」

「おい」

 彼らの道行きは前途多難だった。


/6


 深緑の闇。
 昏い昏い底の底。
 闇を縛り付ける為の檻。
 育む為の揺り籠。

 深い緑の闇という奇妙な闇色の中にそれはいた。

 キャスター達の棲む闇から見れば充分に明るい暗がり。しかしそれ以上の昏さがこちらにはある。あちらの闇が純粋無垢な黒であるのなら、この闇こそは様々な色の溶けた黒緑。幾億もの色が溶け混じり合い、おどろおどろしい深淵を作り上げている。

 蠕動する深淵の中、それは自らを掻き抱くように吼え上げる。

「…………ッ、ァァァァァ!」

 声にならぬ声。音にならぬ音。喉は正常な機能を忘れ、ただただ震えるだけのものとなりつつある。

 その身を焦がすは果てなき憎悪。二重螺旋を描く狂おしいまでの憎悪だ。二つの憎悪は一つの中で鬩ぎ合い、弾け、溶け、交じり合い、そして互いを喰らい合う。
 表出するのは二つの内のどちらかだけ。身を焼くほどの憎悪の応酬の果てに吐き出されるものは怨嗟を込めた呪言に他ならない。

「と…………、ぉ……ぃぃぃぃぃいいい!」

 肉より溢れる黒い霧。それは形となった憎悪だろうか。それを包み揺らめくは、この深淵と比しても遜色のない黒で満たされている。昏い地の底で、瞳だけが妖しく赤く、血の紅色に輝いている。

「…………、────ァ!!」

 止まる事のない憎悪の念は肉の檻を食い破り、弾け出したいと暴れ狂う。憎しみの縛鎖は輪のように円環し循環する。

「A…………、ッ……t……r…………ッ!!」

 狂い吼え猛る慟哭の叫び。炎のように血のように、憎悪は何処までも何処までも美しい赤と黒の螺旋を描く。

 キィキィと蟲が哭く。
 何処かで蠢き嘶いている。

 それはきっと、肉の内側からだろう。

 生み出される憎悪を喰らい魔力を精製し、魔力は肉を駆動させる。駆動する肉は憎悪を生み出しそれをまた蟲が喰らう。

 呆れるほどの無限円環。命を糧に廻る無間回廊。但しその代償はそれの命だ。生命力が尽き果てるその時まで止まる事の許されない疾走の円環。

 ひたすらに走り続けるのは、偏にその憎しみを成すが為。

「ォォォォォォッォォォォオオオオオオオオオオオ…………!」

 絶叫と共に己を捕らえる縛鎖を引き千切る。揺り籠を必要としないまでに成長した魔人は今、遂に解き放たれた。
 自らを閉じ込める深緑の檻を食い破り、獲物を探して這い出ずる。互いに違う獲物を見定めながら、その想いは両者に一つ。

 復讐を。

 この己を闇を突き落とした者に復讐を。
 この己が味わった絶望を、貴様もまた味わうがいい。

 闇に復讐の魔人が跳梁する。

 その手を血の赤に染め上げたいと。
 この牙をその肌に突き立てたいと。

 此処に最後の一人が戦場へと疾走を開始した。
 唯一つの負の想念──己の身を焦がす憎悪を糧に、全ては復讐を果たす為に。

 そして檻の深奥。
 食い破られた深緑の闇の主は呵々大笑と嘲笑う。

「さぁ踊るがいい。お主はアレを救いたいのであろう? ならば殺せ。全てを殺せ。
 滅尽滅相──その疾走を阻む全てを食い散らかして駆け抜けぃ。走り抜けた荒野の果てにこそ、お主の求める理想郷があるのじゃろうからの」

 キィキィと蟲が哭く。
 掌の上で踊る鬼を眺めながら。

 その行く末を興味深くも眺めながら────













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