Act.06









/1


「──────」

 冬木教会。その一室で遠坂時臣は目を伏し胸に手を当てていた。
 彼の眼前に横たわるのは、先の一幕でその命を落とした言峰璃正に他ならない。

 時臣もあの時使い魔の目を通して一部始終を見ている。使い魔越しでは何故璃正が乱心したのかは分からなかった。結果として衛宮切嗣の手で殺害されたというその事実しか分からない。

 璃正は父の朋友であり、自身にとっても歳の離れた、腹を割って話せる数少ない友人だった。
 死なせるべきではない、惜しい人を亡くしてしまった。それもこんな納得の出来ない終わりでは、彼の人生が報われない。その悲嘆だけが時臣の心の中で渦巻き、けれど声に出す無粋はしなかった。

 この場に足を運んだのは、まさに心からの追悼を送る為。聖杯戦争の最中、アーチャーも連れず、自らの思惑すらも中断しての訪問。それをこそが、時臣の人となりを表す指標と言えるだろう。

「…………綺礼」

 長らくの黙祷の後、時臣は同席していた友人の息子に語りかける。

「はい」

「すまない。彼を死に追いやったのは、この私も同然だ」

 遠坂時臣を勝者とする出来レース。それに加担させたばかりに、死なせるべきではない人を死なせてしまったと、時臣は悔いた。

「いえ……導師のせいなどではありません。父は自らの意思で導師に力添えをする事を決断し、死するその時まで力を尽くしていた筈です。
 その死が悼むべきものであったとしても、決して嘆くものではない。父ならばきっとそう言うと思います。
 そして、導師が立ち止まる事を望んでなどいないと、そう思います」

「君は強いな、綺礼……」

 ──私などよりも、きっと辛い思いをしているだろうに。

 そう心の中で述懐する。

「綺礼、事が落ち着き次第言峰さんの遺体を手厚く葬ってあげて欲しい。私もその時は参列させて貰いたい」

「はい、父も喜んでくれるでしょう」

「では、少し場所を変えようか。話がある」

 最後にもう一度目礼し、時臣はその死に別れを告げた。惜しみのない感謝と、数え切れない礼を込めて。


+++


 場所を客室に移して二人はテーブルを挟み腰掛ける。蝋燭の明かりだけが頼りなく二人の横顔を照らしていた。

「話の内容については分かっているかもしれないが、言峰さんが乱心した理由についてだ」

 どのマスターの仕業であれ、放って置いて良い問題ではない。
 使い魔越しでは分からなかった問題も、あるいはその場に立ち会った綺礼ならば分かるかもしれないと、尋ねた。

「はい。まずはこれを」

 そう言って綺礼の差し出したものは手の平大の黄金の壷のようなものだった。中に何かの灰が満たされている。

「父の死後、マスター達が去った後、これを礼拝堂にて発見しました。何らかの呪具ではないかと見ているのですが」

「これは……」

 その豪奢な意匠。この世のものとは思えないほどの甘い香りの残滓。その残り香に当てられただけで気がおかしくなりそうだった。

「これは呪具などというレベルではない。宝具にも値するものだろう」

 何処のなんという代物かまでは見当がつかないが、およそ人の手の意匠とは思えない。あるいは神代の頃のものなのだろうか。

「恐らくは父もこの香りに当てられ乱心したものと思われます。そしてこれの所有者を考えて見たのですが……」

「……ああ。こんなものを持っていそうな英霊など、彼をおいて他にいない」

 アーチャー。およそ世界の全てを手にした黄金。その蔵の中にある財宝は彼の認識をすら凌駕し、ありとあらゆるものの原典が収められているという。
 恐らくはこの香もその一つ。人の心を惑わせ狂わせる、そんな代物に違いない。

 そして問題は何故こんなものが礼拝堂に転がっていたのかという一点。アーチャーが璃正を殺害ないしそれに相当する行いをして何の得があるというのだろうか。

「……あの男の考えなど常人には理解し難い。考えるだけ無駄なのかもしれないな」

 これまで奔放な王者に振り回されてきた時臣の結論は早かった。あの黄金は常識などでは測れない。というよりも彼には彼なりの理があり、それが余りにも常人と隔絶しているというべきか。

 故にどう足掻いたところでその真意を知る事など出来ないし、どんなに疑おうとも時臣が勝者になるには黄金の力が必要なのだ。

「私はね、綺礼。英雄王ギルガメッシュには掛け値なしの崇敬を抱いていた。だがサーヴァント・アーチャーに対しては違う。
 今回の所業、もはや王の為す事ではない。彼が王としての責務を放棄し一介のサーヴァントに成り下がるのなら、当然その報いを受けて貰わなければなるまい」

 これまで尽くして来た臣下の礼を仇で返したサーヴァントには、微塵の情けもかけはしない。時臣が聖杯の頂に駆け上がるまで利用し、その最期にはサーヴァントらしく聖杯にくべる贄となって貰う。

 時臣は右腕の甲に宿る令呪を撫でる。残り二画の赤い印。その最後の一画を使用する事に一片の躊躇もなくなった。

「…………」

 その正面で綺礼は内心の想いをひたすらに覆い隠す。鉄面皮の如き無表情の裏で、自身の思惑の通りに事が運んでいる事実に笑みを零す。

 アーチャーが黄金の香を礼拝堂に転がしていったのは事実だが、そうさせたのは他ならぬ綺礼だ。切嗣の動向と璃正の死を利用し自身はサーヴァントを従えたまま監督役の枠に収まる事。

 そして義に厚きこの男に、己がサーヴァントに対する不信感を抱かせる事に成功した。

 時臣が正調の魔術師であるのなら、その結末は変わらない。自らの目的、聖杯の獲得、根源への到達を成す為にアーチャーを犠牲にする事は最初から決まっていた事だ。それでも時臣ならば最期まで臣下として忠を尽くしただろう。

 しかし今、二人の間に軋轢が生まれた。僅かではあっても猜疑が生まれた。これで時臣はアーチャーを必要以上には重用しないし、出来る限り自らが打って出なければならない事態を避けようとするだろう。

 この正調と黄金に足並みを揃えられては衛宮切嗣とセイバーを以ってしても打倒するのは難しいと綺礼は見ている。
 アーチャーが既にセイバーを見初め、時臣を見限っている以上はそんな配慮は必要ないとも感じていたが、念には念を。

 言峰綺礼と衛宮切嗣が再び巡り会う為の障害は、出来る限り少ないほうがいい。

 それにこれは綺礼が今の地位を手に入れる為に付随していた副産物に過ぎない。時臣がアーチャーに疑念を抱いた、その事実があればそれで今は充分。
 そして今なお時臣は綺礼を疑っていない。疑いの眼差しはアーチャーを見ている。それは綺礼にとっても都合が良い。

「まあ、今はとりあえずその事実が分かればそれでいい。どの道今アーチャーに対して出来る事はないのだからな。
 だから綺礼、言峰さん──璃正神父の無念を晴らすのはもう暫し待って欲しい。私がこの祈りを叶えるその時、君の心も晴れる事だろう」

「はい。それで、これからの事なのですが──」

「ああ。言峰さんの死は予想外だったが、君が監督役代行の任に就いたのは、不幸中の幸いだ。本来ならば監督役とこうして会談を設ける事など論外なのだが、それはそれ、この地を預かる管理者として引継ぎ役を見定める為の訪問、という事にしておくか」

 ──そして何より、父の友人の死を悼むのに何の躊躇が必要か。

 そう言って、時臣は深く背を預け腕を組んだ。

「これからの事、と言ったか。それならば私はこの後臓硯氏との会談を予定している」

「取り付けられたのですか」

「ああ。無碍に断る事はあちらにこそ非があると認めるようなものだ、要請を断る事は出来ないという予想は当たったな。
 それで、君はどうする綺礼。未だアサシンを従えるマスターでありながら監督役の地位を手に入れたのだ、君の指先一つで趨勢は思いのままだ」

「ご冗談を。以前も申したとおり私は導師を勝者とする為に参戦したようなもの。ならばその采配を振るうのは私ではないでしょう」

「ふむ……」

 しかし別段、時臣は今現在監督役に頼みたい用事もない。強いて言えば正しい聖杯戦争の運営を期待するというところか。
 時臣が完全に監督役とグルになり勝つ事だけを目的とするのなら、余剰令呪の全てを不正に貰い受けて強制権の乱用で一夜の内に戦いを終わらせる事も出来ただろう。

 だがそんな勝利をこの男は望んでいない。

 あくまで勝つのなら対等の立場で。向かい来る全ての敵を薙ぎ倒し斬り伏せ、優雅に聖杯の頂へと上る事。それが遠坂時臣の思い描く勝利だ。
 自らに課すべき責務を放棄してただ欲望のままに喰らっては、それは獣の行いだ。人であり魔術師である以上、その勝利は誰もが認め得る形でなければならない。

 監督役、引いては秘密裏の共闘関係による情報提供は認めても、アサシンによる暗殺や監督役権限の乱用は時臣の好むところではない。

 情報提供においても基本はこの地を預かる冬木の管理者(セカンドオーナー)として正しい聖杯戦争を運営する為のものだ。断じて私利私欲に塗れたものではない。

 だから今のところは監督役に動いて貰うべき事案はない。

「今のところは静観で構わない。キャスターについては既に通達が出された。後は衛宮か征服王辺りが焙り出しをしてくれるだろう」

 その後にアーチャーに討たせるというのも、あくまでこの地でのさばる外道を管理者として誅罰するというだけの事。その後に付随してくる褒賞はまあ、あくまでオマケのようなものだ。

 全マスターに通達の行われた事であるのだから、時臣が受け取らない道理はない。

「では私は、とりあえずは父からの引継ぎに関してを取り纏めたいと思います」

「ああ、言峰さんの代わりを担おうというのだ。その重責、察して余りあるが綺礼ならば充分に果たせるだろう。それと──」

 言って、時臣は腰元より一本の短剣を鞘込めのままに取り外し、テーブルにおいた。

「これは……?」

「聖杯戦争の開幕などでごたごたしていたからな。すっかり渡しそびれていたのだが、君に送る見習い卒業の証のようなものだ。
 名をアゾット。遠坂家伝来の宝石細工であり、魔力を込めておけば礼装としても使用できる。見習い卒業の証としては無論の事、私から君へ送る信頼の証だと思って受け取って欲しい」

 差し出されたそれを綺礼は受け取り、鞘を外した刀身をじっくりと見つめた。凝った意匠の瀟洒な剣。殺傷能力よりも儀礼用としての趣きが強い短剣。
 それでも充分に人を殺せる威力を持つ。心臓を一突きでもすれば、それでどんな人間だろうと殺せる威力を秘めている。

「…………」

 時臣から賜れる信頼の証。
 それをこそが綺礼に対し何の疑念も抱いていないという証左だ。

 約三年間の日々を共に過ごし、その在りようを見てきた時臣からすれば当然の信頼だ。実直で直向き、愚痴の一つも零さず魔術の修練に明け暮れ、良く成長し良き弟子としてあり続けた。

 それは事実なのだろう。あの頃の綺礼はまさにそんな男であった筈だ。ただこの戦いがこの男に契機を齎し、その結果何が変わったかを時臣が理解出来ていないという、ただそれだけの事。

 言峰璃正さえ綺礼が告白するその時まで気が付かなかった歪み。なればこそ、三年を共に過ごした師であっても、その異常に気付けという方が無理なのだろう。

 この言峰綺礼の心を解すのは後にも先に衛宮切嗣唯一人。死別した妻の記憶を水底に沈めている以上、あの男こそが綺礼の見定める最初で最後の敵である。

「綺礼。言峰さんの事はまことに遺憾だったが、私はこれまで通り、遠坂と言峰の友好を続けていきたいと思っている」

「はい。父も自らの死で我らの仲が引き裂かれる事を望んでなどいないでしょう」

 綺礼は剣を今一度鞘に戻す。

「感謝するよ。それと、暇が出来たら一度我が家へ訪れてくれないか。君にはもう一つ、伝えたい事、頼みたいことがあるんだ」

「畏まりました。それでは、全てが終わったその時にでも」

「では、後は頼む。これからの君の采配、期待しておくよ」

「尽力させて頂きます」

 そうして時臣は教会を去る。父の朋友の死を悼み、息子との友誼を固く結び、師としての信頼を強く寄せて。

 言峰綺礼はその背を見送り、手にした短剣を弄ぶ。この刃であの男の命を奪う事など簡単だった。絶大の信頼を寄せている綺礼がよもや反旗を翻すなどとは微塵たりとも考えていないと分かるほどの無防備さだった。

「これからの私の采配に期待すると、そう仰いましたね。ならばその期待、存分に応えて見せましょう。私がこの戦いを終焉へと導く一端を担う事で」

 時臣の心臓を背後から刺すのはまだ早い。あの男にはまだ利用価値がある。その価値を存分に使いきった後、この手で終わりを告げよう。その厚い信頼を、胸に秘めたままで。

「さて……おまえはどう動く、衛宮切嗣。おまえの采配が生温いようでは、私自ら打って出るぞ……?」

 綺礼の関心は既に切嗣にのみ向けられている。二人の認識は既に同じ。終局をこそ見据えている。
 ならば当然、あの男もまた自らの策を弄し敵を葬る算段をつけている事だろう。故に綺礼は傍観に徹する。先の一幕で切嗣の心に火をつけただけで充分に場を整える事が出来たのだから。

 後は放っておいても切嗣が全てのマスターとサーヴァントを駆逐するだろう。だが未だ生温い考えを抱いており、手緩いやり方で道を往こうとするのなら、綺礼自らが手を打つ事も辞さない腹積もりだ。

「さあ、魔術師殺しの真骨頂を私に見せてくれ」

 時臣が綺礼に寄せる信頼以上の信頼と期待を切嗣に寄せて、綺礼はソファーに身を深く埋め瞳を閉じた。


/2


 遠坂葵という女性は時臣の妻であり、凛と──そして桜の母である。彼女の旧姓である禅城、つまりは生家に今現在娘の凛と共に身を寄せている。

 夫が戦いに臨むに際し、妻と子という存在が邪魔になる……足手まといになる可能性を考慮してのものだ。貞淑たる妻である葵は時臣の命に黙って頷くのみだった。
 娘の凛は、口にせずともその内心で父と離れ離れになる事、兄弟子である綺礼だけが屋敷に残る事に不満を感じていたようだったが。

 夫を立てる事を第一とする古き良き時代の妻であり母である葵にとってみれば、時臣の言葉の全てが神の一声にも等しく、口を挟む事の出来ないものだと考えている。

 それ故に、次女たる桜が間桐に養子に出される折も、ただ心の内を秘め隠し時臣の決定に従うだけだった。

 魔道に連ならない禅城の娘が遠坂家に入るに際し、彼女もその心を決めていた。人とは違う理を往く者、生よりも死を尊ぶその観念。常人には理解し難い摂理であるのなら、ならば当主の決定には従うの当然だと葵は了解し覚悟した。

 それは彼女の強さなのだろう。逆に弱さとも受け取れるか。自らの意思を秘め、誰かに意思を預ける事。それを信頼の形と呼ぶべきか、ただの依存と受け取るべきか。

 何れにせよ葵は心の底から夫を愛していたし、通常の魔術師とは些か赴きの異なる時臣にしても葵を良き妻であり最愛の人であると常々想っていた。

 ただそれでもやはり、桜を養子に出した事──それだけが葵にとって今なお心に澱の如く蟠っている。
 口に出す事はなくとも、家を離れたあの子の未来に幸あれと、常に祈りを捧げている。

 そんな彼女の元に届けられたのは、死を告げる足音だった。

 凛を学校へと送り出し、いつもの通りに家事に勤しんでいた葵。洗濯物を干す傍ら、空を見上げればどんよりとした雲がその裾野を伸ばしている。

「一雨来るかも知れないわね……」

 そう呟いた時、玄関から来訪を告げる音が鳴り響いた。

「あら……? どなたかしら」

 今現在家主たる禅城夫妻は家を空けている。娘の凛も学校だ。つまり今この家には葵しかいない。誰かが来るとも聞いていないし、ならばそれ以外の客向きか。
 何れにせよ、居留守を使うという選択肢がなかった以上、葵は家事を中断し玄関へと赴いた。

 もう一度鳴らされるインターホン。葵は扉を開けぬまま問いかけた。

「はい、どちら様でしょうか?」

「荷物をお届けに上がりました。遠坂葵さん宛てのお荷物です」

「あ、はい」

 何かを頼んでいただろうかと思いながら、ドアノブに手を伸ばしたところでその手を止めた。

 ──なんで、私宛の荷物がこの家に届くの……?

 遠坂葵への荷物であるのなら、それは遠坂の家に届けられなければならない筈だ。禅城に戻っているのは一時限りのもの。戦いが無事に終われば遠坂家へと戻る事になるのだから転居届けなど出していない。

 故に葵宛ての荷物がこの家に届く筈がない。仮に届けられるとすれば、それは葵がこの家に滞在している事を知っている者──

 キィ、と葵が鍵を開けるまでもなく外側から開かれる扉。その向こう側に立つ黒ずくめの女の手には、なお黒い銃身が握られ、その銃口がこちらを向いていた。

 彼女は死を運んできたのだと、そう葵は無理矢理理解させられた。

「遠坂葵ですね。貴女に届け物を。ああ、サインは必要ありません。その身柄を頂くだけの事ですので」

 一歩を踏み込こまれ、ドアを閉める事は出来なくなった。此処で背を向ける事や逃げ出す事、大声を上げる事は許されなかった。この身は遠坂時臣の妻、ならば如何なる時も毅然とした態度で臨まなければならない。

「一つ訊きますが、貴女の要求は私の身柄を拘束する事。それに間違いはありませんね?」

「はい。不在の禅城夫妻にも、遠坂の長女である遠坂凛にも用はありません。私が指示を受けたのは貴女の確保だけですので」

 人質を増やす事は必ずしも有利になるとは限らない。多ければ多いほど見張りの人員が必要になるし、警戒も散漫になる。真に人質を取るのなら一人でいい。その人質に価値がある以上は、相手は要求を呑む以外にないのだから。

「……分かりました。貴女に従います。ただし書き置きを残させて下さい。私が理由なくいなくなった事を知られるのは、そちらにとっても不利益でしょう?」

「許可します。書き置きの内容は検めさせて貰いますが」

「結構です」

 舞弥にしてもこの対応は予想外だったが、結果として身柄の確保を出来るのならそれで構いはしない。後は切嗣が良いように取り計らうだろう。

 葵は舞弥の監視の下、家の中に戻り、紙にペンで『時臣に呼ばれ、少し家を空ける』とだけ書き記した。そこに魔術的な痕跡はない事を確認した後、舞弥は素直に従う葵に拘束を施し、邸宅前に駐車した車へと連れ込んだ。

「────」

 黙したまま目を閉じている葵。その従順さは不可解だが、何をしようとも舞弥には意味がない。如何に魔術師の子を成す上で最適な母体であったとしても、彼女自身に魔術の薫陶はなく、ただの一般人に過ぎないのだから。

 遠坂葵はその心中で己の不甲斐無さを呪っていた。しかし此処で無意味な抵抗をしては父母や凛に魔手が伸びる。
 舞弥の思惑は知れないが、大体の想像はつく。葵に人質としての価値がないと見限られては、最愛の娘を失いかねないのだ。

 これ以上子を失いたくない──その一心で葵は自らの身を捧げる事を良しとした。

 ────ごめんなさい、時臣さん。

 そう懺悔しながら、それでも愛する夫に絶大な信頼を寄せ、葵はただただ祈りを込めて願うのだった。


+++


 禅城の邸宅での一幕とほぼ同時刻。

 時臣は間桐邸の前まで赴いていた。

 用件は勿論、間桐雁夜が参戦している事由についてを問い詰める事だ。
 魔術師同士が紙面上で正式に契約を行ったもの反故にした理由。その真意を質さなければならない。

「……しかし、これは」

 教会へ赴く時は別段気にもしなかったが、間桐邸の庭園へと一歩を踏み込んだ瞬間、異界の如き光景が目の前に現れた。
 広大な敷地に立つ邸宅。その三分の一ほどが、瓦解し脆くも崩れ落ちている。

「よう参った遠坂の」

 ふと視線を玄関口に向ければ、そこに立つのは皺枯れた老人。杖を付き、背を折り曲げた矮躯。誰ならぬ──間桐臓硯その人だ。

「此度はこちらの要請を受け入れて頂き、有難う御座います」

「何、気にするほどのものでもない。遠からぬ内に通達は来るだろうと、そう思っておったところじゃ」

「それでもですよ。遠坂と間桐の間には不可侵の条約が締結されている。その上でこうして招いて頂いたのですから、礼を失するわけにもいきません」

「ほっほ。合いも変わらず義理堅い。そういうところはお主の父君とそっくりじゃよ。
 さて、立ち話しもなんじゃろう、屋敷の中へと参ろうか。少々荒れておるが、気にせんでくれぃ」

 屋敷が破壊されている原因についても説明すると、その背で語って臓硯は屋敷の中へと時臣を招いた。

 まずは軽い挨拶だ。こんな程度でどちらも能面に浮かべた笑みを崩す事はない。
 時臣は手にしたルビーを象眼したステッキを僅かに揺らめかせながら、臓硯の後を追いかけた。

 通されたのはリビングだった。元より曇天の空であっても、なお日差しの届かぬ薄暗い一室。水気をその根源とする間桐だからこそのじっとりとした闇。ただそこにいるだけで心を蝕まれるかのようだ。

「どうぞ」

「ああ、ありがとう」

 差し出された紅茶を淹れたのは間桐家長子たる鶴野だ。彼は魔術師の家に生れ落ちながらその才覚は凡庸をすら下回った。結果、彼の成した子には魔術回路すら宿らず、他家より養子を迎え入れる他なかったのだ。

「早速ですが用件に入らせて頂きます」

 淹れられた紅茶には手をつけない。此処は敵地だ。そんな場所で出されるものを口にするほど時臣は愚かではなく、そう知っていながらわざわざ鶴野に淹れさせたのはあくまで社交辞令。礼儀の一種だ。あるいは、臓硯の嫌味とも言える。

「約一年前。当家と間桐家の間で取り交わされた契約を、覚えておいでですかな」

「無論。此度の戦に参戦者を出さぬ事を条件として遠坂の養子を貰い受ける事。そしてそれに付随する両家の不可侵についての取り決めだと、記憶しておる」

「……誤解のないように言っておくのなら、間桐の要請に応じ桜を養子に出した事。それに伴い代わりの条件として今回の戦いを辞退する旨を臓硯さん自らが提示した。そこをまず確かなものとしておきたい」

「カ、そうだったかのぅ? いやはや、この歳になると頭の巡りも悪くなる。儂の勘違いがあったのなら、そこは謝罪させて貰うとしよう」

 目の前の妖怪は断じて頭の巡りなど悪くなっていない。ただ空惚けているだけだ。
 常に狡猾に立ち回り、自らに利するものを貪欲に喰らう蟲。それが間桐臓硯の正体なのだから。

「ついてはその不戦の約定の反故に関してです。単刀直入に訊きましょう──何故間桐雁夜が参戦しているのです?」

 目に力を乗せて臓硯を見る。けれどこの老獪の視線には一切の揺るぎがなく、揺らぎがなく、何をも見通せぬ黒を描いている。

「ではこちらも結論から述べよう。雁夜の参戦は暴走の結果であるとな。先にお主も見たであろうが、この屋敷を破壊し出て行ったのじゃよ雁夜は」

 故にこちらもまた被害者であると、臆面もなく臓硯は憚った。

「では貴方はこう言うのですか。約一年前に取り交わされた契約の後、雁夜は『偶然』にマスターとしての権利を手に入れ、『偶然』にバーサーカーを招来し、結果狂いこの屋敷を破壊し勝手に出て行ったと」

「相違ない」

「……ふざけているのか」

 そんな道理が通るわけがない。雁夜が魔道に背を向けた事を知っている。一度棄てたものを何故拾い、どうやって力を手に入れた。雁夜個人の力で僅か一年未満の期間でマスター足りえる能力を得ることなど到底不可能。
 ならばそこに間桐家当主たる臓硯の暗躍があると疑わない筈がないだろう。

 全てを偶然と切り捨てるには余りにも疑いが多すぎる。だが問題は、

「と、言われたところでどうしようもあるまい。それが事実である以上、儂に語る事は何もない」

 そう、何一つとして証拠がないのだ。

 臓硯が雁夜に教育を施したという証拠がなければ、雁夜が自力で魔の業を背負ったという証拠もない。全ては臓硯の手の内であり、時臣から探る事は出来ない。既に全ては過ぎ去った事。ならば今更探ったところで意味もない。

「だが疑いを持たれ続けるというのは儂にとっても不本意じゃ。雁夜が招来したバーサーカーの正体、教えて進ぜよう」

「なに……」

 バーサーカーのステータスについては全て隠蔽されている。マスターとしての透視能力を以ってしてもその能力値を測る事が出来ないのだ。
 正体不明にしてアーチャーと拮抗を可能にする異能の所持者。その正体について心当たりがあると、臓硯は言う。

 もし臓硯が雁夜の勝利を願い、時臣を欺き通すつもりなら、こんな事を言う筈がない。
 勝者とすべき雁夜の秘密を明かす事は、彼の戦力を削ぐも同等の意味を持っているのだから。

「雁夜を倒す一因を担う事で、今回の事態における儂の潔癖を証明したい。どうじゃ?」

「…………」

 その老骨の邪な笑みを見やり、時臣は得心がいった。

 ──なるほど。この妖怪、雁夜の勝利など端から信じていないようだ。

 そう思えば納得がいく。雁夜が参戦した事に臓硯が絡んでいたとしても、付け焼刃の薫陶と消えかかった命、そして手繰る事の困難なバーサーカーのマスターという三重苦ならば雁夜の勝利は見込めないと、そう確信しているのだ。

 この男にとって雁夜が何らかの奇跡により聖杯を手にするのなら良し。そうでなくとも一向に構わないという算段なのだ。
 だから自らの保身の為、雁夜を差し出す事に躊躇がない。むしろ手助けしてやったものを仇で返す犬に着せる恩はないと、そう言っている。

 ──何たる邪悪。これが、私と同じ魔術師だと言うのか。

 魔術師の常識から見ればどちらも異端。時臣は人に傾倒し過ぎているし、臓硯は自身を優先し過ぎている。
 魔の道を往く者は個ではなく総体。血の系譜という名の巨人であるべきだ。だがこの目の前の悪鬼は、自分唯一人だけが良ければそれでいいと考えている節がある。

 自らが生き残る為に自らの家を、子を食い潰す魔人。これをこそ間桐臓硯という名の狂気だ。

 ────哀れなものだ、この男もかつては、清い志を抱いていたのだろうに。

 長く時を生き過ぎると、人とはこうも醜くなるのかと、時臣は哀れみを抱いた。

「分かりました。既に雁夜はマスターとして参戦し戦いを始めている。今更その手綱を繰る事も難しい。
 ならばその情報提供を以って、今回の一件は終わりとしましょう」

 正体の割れたサーヴァントなど脅威にも値しない。元よりバーサーカーなどという規格外のサーヴァントと異端とも言うべき融合を果たしているのだ。
 放っておいても雁夜は長くは持たない。その心の一片までも狂ってしまった時が、その終わりだと時臣は見定めた。

「それは重畳。この老骨には何かと荷が重い話じゃった。せいせいするわい」

「いいえ臓硯さん。話はまだ終わっていない」

 今までの話がこの地を預かる管理者としてのものであるのなら、此処から先は遠坂時臣個人の話だ。

「戦場で雁夜と出会った時、彼はこう言った。自分は桜を救うと。その為に戦うのだと」

 その真意を問わねばならない。底の見えてきたこの妖怪の手にある桜の身を、案じずにはいられなかった。

「私はね、臓硯さん。才ある者がその才覚を芽吹かせぬまま潰えて行く事ほど悲しいものはないと思っている。
 魔道に生まれながら、どちらもが優秀な芽を持つ子であったとすれば、どちらかの芽は摘まなければならない。我が子の未来を閉ざさなければならない」

 親の身勝手で子の未来を殺す事。それをしてはならないと時臣は考える。魔術は常に一子相伝。二子に分ける事はよほど特殊な家系でもなければ有り得ない。

 どちらとも共に愛で、成長を促した先に待つのは家門の分裂、そして破滅だ。欲を掻いて滅んでいった魔術師の家系など腐るほど見てきている。
 故に時臣は己が子らの才の優秀さが確定した時点で世継ぎを決めている。その決定が覆る事はない。

 しかしそれを理由に桜の可能性を摘んでしまうのは余りにも不条理だ。生まれるのが遅かった、ただそれだけの理由で魔術の薫陶を授かれないのは、余りにも報われないものであると。

 魔術の庇護なくして生きていけない身であるのなら、その庇護のあるべきところで生きて欲しい。故に臓硯からの要請は天啓に等しかった。御三家に連なる者であり聖杯に縁故を持つ者。

 そして衰退の一途にある家系を継ぐのなら、その恩恵は全て桜のものとなる。その才を摘む事無く育てる事が出来るのだと。

 ──そう、かつてまでの時臣は思っていた。

 いや、今もその思いは変わらない。自らの子により良い未来を生きて欲しいという親の願いに相違はない。

 問題はこの心に染み込んだ一滴の墨汁。澄んだ水面のようだった時臣の心に、雁夜が黒い絵の具を混ぜ込んだ。
 間桐という家の在り方。それに口出しする権利は時臣にはない。その為の不可侵条約でもある。

 だが考えてしまった。

 もし間桐の家が臓硯の掌の上であるのなら。
 桜を利用する為に養子に迎え入れたのだとするのなら。
 あの子の未来に、幸あれと願った未来に不幸しか存在しないというのであれば──

「──間桐臓硯。私はおまえを許さない」

 明確な敵意を込めて、時臣は宣戦を布告した。

「…………」

 その視線を真正面から受けた臓硯は、

「呵々!」

 と、腹の捩れるものを見たとばかりに大笑した。

「いやいやすまぬ。取り乱してしもうた。余りにも可笑しな事を言うのでな、我を忘れてしもうたわ」

「何がおかしいと言うのです」

「全てじゃよ。魔道を往くという事は、その身に業を宿す事。その修練の苛烈さはお主自身もよく知っておる事であろう?」

 如何に稀有な才能を有していたところで修練の過酷さは変わらない。血の滲む思い、身を引き裂く苦痛、血反吐を吐くほどの熾烈と共にある。

「間桐の業は少しばかり峻烈での。それも他家から招いた子であるのなら、まずは間桐の色に染め直さねば話にならぬ。
 その様を見た雁夜が、余りの惨さにそんな淡い希望を抱いたとしても不思議ではあるまいて」

 赤い色をより強い赤で染める事は簡単だ。しかし赤を青にしようというのなら、混ぜ込む色は量を増し、塗り潰すほどのものになる。
 それはかつての自分自身を塗り潰されるも同義。新しい色の自分を形成する為にかつての自分を殺しているのだ。

 その過程は苦痛を伴わない筈がなく、その痛みは余人には理解出来まい。

「儂は正しく桜を教育しておるよ。今も工房にて励んでおる事であろう。その苦痛は察して余りあるが、こればかりはどうしようもない。
 ────のう遠坂の。よもやお主、そんな事も知らなかったとは言わぬよな? 蝶よ花よと愛でられるだけが魔道などと、生温い事は言ってくれるなよ?」

「…………」

 言えないし、言える訳がない。同じ色により強い色を上乗せする苦痛でさえも、時臣の心を砕くに足る激痛を伴うのだ。
 未だ少女の身で桜が侵されている闇の色は、その比ではない。そして魔道の継承を第一とするのなら、その行程を止める理由が時臣にはないのだ。

 だが時臣とて、譲れぬ一線というものがある。

「お話は分かりました。魔道継承の為の修練であればそれを止める謂れはない。それでも一つだけ確認させて欲しい。
 その修練は間違いなく、桜自身に齎される恩恵であると。貴方の掌で踊る人形ではないのだと、確約してくれますか」

 それが桜の未来に繋がる痛みであるのだと、そう信じさせてくれと、時臣は憚った。

「無論であろう。今桜の身を蝕んでいるのは将来の為。あの子に間桐の秘奥を継いで貰う為の布石よ。
 その恩恵は必ずやあの子の身に返るであろう。儂が利する為のものなどと……儂は間桐の繁栄だけを願っておる身よ」

「…………」

 信じがたく、鵜呑みにするのは難しい言葉の数々。だがこれ以上の言葉を引き出そうというのなら、それこそ桜と面と向き合う以外に手はあるまい。桜の現状を直接見た上でなければ踏み込めない。

 それが両家の間にある不可侵の条約。共にその秘奥を明かす事はなく、工房を覗くなど以ての外だ。
 だから此処が分水嶺。この先へ往く為には自らの命を投げ出す覚悟、聖杯を諦める程の覚悟が必要だ。

「……分かりました」

 今此処で死ぬわけには行かない。この身にはまだ成すべき事がある。だから今は、納得出来ずとも引くしかない──

 ──だが何れは必ず桜に逢う。そして我が子に問わねばならない。

 その決意を胸に秘め、時臣は会談を打ち切った。


+++


 バーサーカーの情報も聞き出した後、時臣は間桐邸を去る。底を見通しながら、更なる底を覗かせる悪鬼臓硯。
 やはり交渉ではあの男に太刀打ち出来ない。伊達で二百余年を生きてはいない。若造にも等しい時臣の口車など柳に風だろう。

 それでも得たものはある。
 バーサーカーの真名とその宝具。
 桜の置かれた現状。

 時臣には成すべき事がある。まだ立ち止まる事は出来ないのだ。

 そして間桐邸を辞し、その足を次なる目的地へと向けようとした矢先、空より飛来した一匹の使い魔が時臣を更なる騒乱の渦へと導いていく。

「これは……」

 鳥の屍骸を触媒にした使い魔。綺礼の報告によればアインツベルン陣営の使い魔であると聞いている。その使い魔が時臣の下に放たれた理由──それは足首に巻きつけられた一通の手紙にあった。

『遠坂葵を預かった。返して欲しくば今夜零時、海浜公園へと来い』

「…………っ!?」

 簡潔な、それでいて在り来たりな文章。けれど明白な意図と用件だけを告げている。

 葵を人質に取られた。
 それもあの悪名高き魔術師殺しに。

「…………くそっ」

 時臣にしては珍しい悪態。優雅の欠片もない所作だ。それほどの失態を犯したのだと、心の中で後悔の念が渦巻いている。

 あの男の手に落ちたのならそこに容赦は微塵もあるまい。指示された場所に赴かなければ葵は間違いなく殺される。そして代わりの人質とばかりに凛に、そして時臣の親族知人へとその魔手は伸びていく事だろう。

 時臣が要求を呑むその時まで、何度でも悪辣なやり口で迫ってくる。それがあの唾棄すべき外道の手口だ。

 だからこの要求は呑むしかない。幸いにもサーヴァントは連れてくるな、とは書いていない。ならば綺礼に連絡し、手筈を回さなければならない。

「いよいよ私も焼きが回ったか……」

 衛宮切嗣への牽制としたキャスター討伐の指令がまるで意味を為していない。あの男にとって追加の令呪など必要ないという事か。
 他の連中の目がキャスターに向いている今を狙って、時臣の首を獲りに来ている。

「…………」

 それでもやれる事はやるしかない。打てる手の全てを打って、あの殺し屋に一泡吹かせてやらなければならない。

「待っていてくれ葵。今、助けにいく……!」

 強靭な意志の下、時臣は妻を救うべく行動を開始した。


+++


 深夜。

 夜の帳の降りた刻限。約束の午前零時。
 時臣はアーチャーを伴い海浜公園へと赴いた。

 アーチャーを見つけ出したのは綺礼の従えるアサシンだ。
 居場所を突き止める手段のない時臣は綺礼に連絡をいれ、アサシンを動員して捜索を行って貰ったのだ。

 結果としてアーチャーは見つかり、そして時臣の頼みも一つ返事で了承した。

 時臣にしても今のアーチャーを完全に信用するには値しないが、そんな猜疑を上辺にも出しはしない。切嗣の従えるセイバーと対峙しようというのなら、アーチャーの存在は不可欠なのだから。

 当のアーチャーが気前良く時臣に従ったのにも、無論理由がある。今この黄金は綺礼の采配を見届けようとしている。ならばこの案件にも綺礼が噛んでいる以上、乗ってやるのが筋だろう。

 我が身を愉しませる事のない下らぬ企みであったのなら興醒めだが、彼にしても予感があった。

 見上げる空を包む曇天。灰色の蓋。今にも降り出しそうな空は、これより迫る風雲急を告げている。
 今宵行われる戦いの熾烈さを物語るように。

 ──さて、今夜で一体どれだけ脱落するか。

 戦いは既に佳境。
 この辺りで一山あると思っているのは、この黄金だけではないだろう。

 そして約束の零時。

 二人の前に姿を現したのは────

「間桐、雁夜……?」

 空を奔る稲光が、雁夜の割れた半面に宿る憤怒の色を、鮮やかに映し出した。


/3


 時間は遡り黄昏時。

 灰色の空の隙間から差し込む僅かな茜色に染められながら、間桐雁夜はその身を壁に預けていた。
 人気のない路地裏。四角く切り取った狭い空。ぼんやりと何をするでもなく、流れ行く雲を見つめている。

 バーサーカーの魂をその身に宿す雁夜の肉体は、常に悲鳴を上げている。サーヴァントの修復力と崩壊とが拮抗し僅かに前者が勝っているに過ぎない。
 ガリガリと削られては復元していく骨。千切れては再生していく筋繊維。狂気の熱を帯びている時なら何でもなかった痛みが、今は酷くこの心を蝕んでいく。

 気を抜けば心の底から憎しみの念が溢れ出そうになる。それを促すかのように脳裏にはいつも呪詛の声が木霊している。

 何をしている、さっさと殺せ。
 その木偶のような足を動かし全てを壊せ。
 復讐を。復讐を復讐を。
 その身に宿る狂気を成す為、我が憎悪を受け入れたのではなかったか──

 そんな声が響いている。心の隙間に染み入ってくる。
 何もせぬのなら変われと。
 貴様に成り代わり、私が全てを滅ぼそう、と。

「うる、さい……! 俺は、何かもを壊したいんじゃないッ……! 俺は、俺はただ────!」

 そう──たった一人の少女を救いたかっただけ。
 奈落の底で蹲り、助けてとさえ言えないあの子の手を掴みたかっただけだ。

「ああ……」

 その祈りを覚えている。
 この願いが胸に残っている限り、まだ壊れてはいないのだと安堵する。

 たった一つの消せない想い。この想いが復讐の憎悪で塗り潰された時、間桐雁夜は終わるだろう。この肉を明け渡し、真に不滅の亡霊へと成り下がる。

 それはけれど今じゃない。まだこの心は戦える。肉体の檻を明け渡すその時までは、この身体の主導権は間桐雁夜にある。

「でも……」

 ──どうやって、桜を救うつもりだったのか。それをもう、思い出せない。

 桜を救いたいという願いを守る為に、他の全てを手放した。
 多くを抱え込んでなお立ち上がれるほど、この身は決して強くなく、そして宿る復讐の念は余りに強すぎる。

 心を焦がす闇の色。その中心に浮かぶまっさらな白を守る為、濁った他の全ての色を捨て去るしかなかったのだ。

 それでも大丈夫。まだ大丈夫。桜を救いたいという想いがこの胸に残っている限り、何度だって立ち上がれる──

「さあ、行こう……また戦いの時間が始まるんだ」

 よろめく身体を壁を支えに立ち上がる。いざ戦いが始まればこの身体にも力は戻る。復讐こそが我が源泉。憎悪こそが我が力。ならばその狂気に身を委ねる限り、折れる芯はないのだから。

 それでもただ──胸に抱いた無垢な想いだけは守り通すと、間桐雁夜は立ち上がる。

「──誰だ」

 そんな彼の下に訪れたのは戦乱を告げる使者。誰ならぬ、衛宮切嗣本人だった。

「間桐雁夜だな」

 雁夜も一応は衛宮切嗣の存在を知っている。未だ英霊を召喚する以前、悪辣な手段でロード・エルメロイとランサーが倒される様を見ている。

「魔術師殺し──サーヴァントも連れず、何の用だ」

「これを見ろ」

 臆する事無く言ってのけ、切嗣は懐より取り出した一葉の写真を風に乗せて雁夜の足元へと届けた。

「…………ッッッッ!?」

 その写真に写ったものを見た瞬間、雁夜の脳内は白熱し、思考の全てを奪われた。

 写真に写っていたのは遠坂葵。後ろ手に拘束され足もまた束縛され、轡を噛ませた姿。頼りなく揺れる瞳が、こちらに視線を投げている。
 その写真には事実だけが写っている。遠坂葵は衛宮切嗣の手に落ちた。人質にされているのだと。

 ────あの遠坂時臣(クソやろう)は何をしているッ!!

 ここで彼女の夫に非難を浴びせても何の意味もない。それでも胸中で吐き出さずにはいられなかった。この苛立ちを、ぶつける拠り所のない想いを。

 顔を上げ、睨んだ魔術師殺しの貌には何も映らぬ無表情。圧倒的なアドバンテージを得てなお無情に戦局を見つめている。

 言葉の取捨選択を間違えば、おそらくすぐにも葵を殺される。そしてその魔手は次なる獲物に伸びるだろう。それは凛か桜か。あるいはそれ以外の誰かなのか。

 何れにせよ雁夜はこう応えるしかない。

「……要求はなんだ」

 桜を救う──その為に葵を犠牲にしては意味がない。かつて彼女を取り巻いていた環境を取り戻させる事。それが雁夜の祈りに近い。
 そしてそれ故気付かない。その矛盾に。心を焦がす憎悪の矛先、遠坂時臣への復讐の念はその祈りと決定的に矛盾している事に。

 それに気付いては雁夜はこの場で崩壊する。言うなれば自己保身。桜を救うという一念以外を捨て去ったが為になお残る自我だ。

「話が早くて助かるよ。狂化に侵され話も通じないのではどうしようもなかったからな」

「…………」

「そう警戒しなくていい。おまえに対しては、良い知らせを持ってきたんだ」

 次いで、切嗣は本命の要求を突き付けた。

「間桐雁夜──おまえにはその本懐を遂げさせてやろう。今夜零時、海浜公園に来い。その場所で遠坂時臣と決闘に臨むが良い」

「なっ────!?」

 遠坂葵を人質にして雁夜に自害でも迫るのかと思えば、それは思いもしなかった要求……いや、それ以外の何かだった。

「何を考えている……」

「遠坂時臣にも同様の脅しをかけている。奴がこの要求を断れば当然遠坂葵には死んで貰うが、まあそうはなるまい。
 故におまえはその場、その刻限で遠坂時臣とそしてアーチャーと戦って貰う。おまえにしても悪くはない話だろう?」

 間桐雁夜の標的は遠坂時臣唯一人。その狙いをこの男は看破している。そして葵を含めた三者の間にある因縁さえも。

 だがそれは無論雁夜に利する為の提案などではない。雁夜と時臣を争わせ、消耗したところを自身が討ち取る算段……あるいはどちらかが討たれたところで介入し両者を共に葬る為の悪辣な手段だ。

 聞こえの良い言葉で雁夜を惑わし、時臣と争わせ、漁夫の利を得るのは他ならぬ切嗣自身だ。自陣の消耗を最低限に抑え、結果として二騎のサーヴァントを消し去る悪魔のような策略。

 全てがこの男の掌の上。

 だがそれ故に、踊る以外に道はない。

 葵を人質に取られた時点で詰んでいる。時臣は間違いなく助けに来るだろうし、雁夜が来るとは思うまい。雁夜が葵を犠牲にしてでも断る選択肢を持たない以上、その戦いは避け得ないものである。

「……いいだろう、おまえの掌で踊ってやる」

「物分りが良くて結構だ」

 それで用件は終わったと、立ち去ろうする切嗣の背に投げ掛けられる声。

「ただし、一つ条件がある。時臣は俺の獲物だ。おまえが利する事を止めはしないが、せめて俺とアーチャーの戦いが終わるまでは邪魔をしないでくれ」

「……人質が僕の手の内にあると知りながら、要求を突き付けるとは良い度胸だな。おまえがそんなものを口に出来る立場だと思っているのか?」

「この間合いなら、一息で貴様を殺す事も出来るだろう」

「脅しならもっと上手くやってくれ。殺す気があるのなら全てを金繰り捨てて不意打ちするぐらいの気概を見せて欲しいところだ。
 それにそうする事で人質がどうなるか、予期できないほど狂ってはいまい。そしてその目論見が失敗した時、どうなるかもな」

「…………」

 雁夜が二の足を踏んでいる理由は切嗣のこの得体の知れない自信にある。人の身でありながらサーヴァントと同等の力を得た雁夜を前に一つも怖気づいていない。
 あるのは揺るがぬ強大な意思。教会で見せた不遜と同じ、セイバーなどなくともこの場を切り抜けられるだけの算段があるという、そんな有り得ない傲慢だ。

 しかし雁夜にはそれがハッタリであるかどうかなど分からない。もし本当に何らかの策ないし手段を用意しているとすれば、そして事が失敗したのなら、その結末は無残なものにしかならない。

 何処までも冷酷で非常な殺し屋。この男には微塵たりとも揺るぎがなく、雁夜以上の覚悟を以ってこの戦いに臨んでいる。
 自らの命すらを天秤にかけ、綱渡りのような細い道を駆け抜けている。これが覚悟。これが意思。これが全てを捨ててでも叶えたい祈りがある男の末路だ。

 結局要求を呑ませる事が出来ないままに切嗣は路地を去る。

 と思われたが、

「まあ僕とてそれほど無情じゃない。おまえがアーチャーに対し優勢である限りは手出しはしないでおこう。
 その命の炎を燃やし尽くし、アーチャーに一矢報いるが良い。それがせめてもの、僕からの温情だ」

 それは温情などではない。雁夜が競り負ければすぐさま事態に介入し趨勢を変えると言っているに等しいのだ。
 見方を変えれば雁夜に利する為の介入とも受け取れるが、それは逆にアーチャーの強大さを見誤っていない証拠でもある。

 崩れ行く命の炎を削りながら戦う雁夜では、如何に相性が良くてもあの絶対の君臨者には勝つ事が出来ないと。
 その身に宿した刃が届くとすれば、命の全てを燃やし尽くした先──燃え尽きる直前に輝く最期の焔だけであると。

 路地裏に一人残された雁夜は空を見上げる。四角く切り取られた狭い空。この心のように鈍色に染まる空を見つめ、呟いた。

「ああ、上等だ。俺はこの身に宿る炎に焼かれながら、無様に死んでいくだけなのだから」

 ならばその最期までこの炎を燃やし尽くそう。焼き尽くすべき怨敵を灰燼へと帰す為、一片の命すらも炎に代えて手にする刃を振り抜こう。

 じくじくと心を焦がしていく闇の炎。
 それはまさに、無垢な祈りにさえ、その魔手を伸ばし始めていた。


/4


 そして二人は再び巡り会う。

 吹き荒ぶ風が冷たく身体を通り過ぎていく。頭上に広がる暗雲は、空を奔る稲光を呼び起こす。今にも降り出しそうな空の下、遠坂時臣と間桐雁夜は対峙した。

「……何故おまえが此処にいる? 間桐雁夜」

 アーチャーを侍らせた時臣は目の前の不可解な存在に首を傾げる。あの脅迫状の差出人は間違いなく衛宮切嗣だ。ならば此処で待つ者は彼の男とセイバーである筈……

「なるほど……趣味の悪い手を」

 少し頭を巡らせるだけで得心がいった。時臣への脅迫と同様のものを雁夜にも施したのだろう。
 雁夜にとっても葵は幼馴染であり子供の頃からの友人だ。まだその身に理性を宿しているのなら、人の情に拠ってこの場へ赴く筈。魔術師崩れの目の前の男に、非情を理解しろという方が難しい。

 それが理解出来ているのなら、桜の為などという理由でこんな愚に付かない戦いに臨む筈はないのだから。

 ……同様に私も妻の身を案じてこの場にいる以上、そんな追求は出来ないが。

 尋常の魔術師とは違う時臣は、内心でそう呟いた。

「事情は理解出来たようだな。その上で問おう、遠坂時臣。何故おまえは、彼女を守らなかったッ!」

「その言い方には御幣があるな。私は妻と娘を充分に遠ざけていた。無論、我が家に仕える侍従もな。それを看破し居場所を突き止め、易々と攫った魔術師殺しの手腕をこそ褒めるべきだろう」

「貴様……!」

 この舞台が衛宮切嗣の用意したものであるのなら、弱みを見せる事は出来ない。心を凍て付かせ、無情の魔術師を演じなければならない。
 奴の隙を衝き、葵を取り戻す為に打てる布石は全て打っておくべきだ。

「私にはおまえの行動が理解出来ないよ雁夜。何故奴の誘いに乗った? おまえは別段要求を突っぱねる事も出来ただろうに」

「そんな事を出来るのなら、この身はこんな無様を晒していない……!」

 雁夜の身体から染み出す黒い霧。それは狂気の源泉だ。憎悪を糧に生み出される漆黒の魔力。ただ一時、人の身を英霊へと押し上げる魔性の剣。仇敵を討ち滅ぼす魔の権化。それがじわりと溢れ出す。

 ……ある意味で、この状況は時臣にとっても利点がある。ならば少し、雁夜に鎌を掛けて見るか。

「桜を救いたい、葵も救いたい。度し難いな間桐雁夜。おまえの手はそんなにも大きなものか? 自分すら抱えられぬ分際で、なお二人の女を抱きしめたいなどとどの口が言う。身の程を弁えろ」

 桜の置かれている環境。それを探るチャンスである。
 今の雁夜は半ば狂気に侵されている。ならばその言葉に虚偽はなく、真実のみを吐き出すだろう。

 ──さあ、教えてくれ雁夜。桜は本当に、その未来に絶望しているのか。

「娘一人を守れなかった貴様が、それを言うのか……」

「私は桜の未来に幸あれと望み、間桐に養子に出した。それは魔道にある家系の当主として当然の決断であり、魔道に生まれた者ならば決して抗えぬ道だろう。
 魔道に背を向けた弱者に、逃げ出した貴様に、その誇り高き薫陶を理解しろというのも無理があるか」

「は、はははは、ハハハハハハハハハ…………!」

 突然雁夜は笑い出す。空に響けと哄笑を轟かせ、その身体から滲む魔力の量は刻一刻と増していく。

「何がおかしい?」

「全てだよ遠坂時臣ッ! あの子の未来に幸あれと願った? クハハハ、貴様は知らないからそんな事が言えるんだ。あの地獄を、あの奈落を、あの絶望を──!」

 今や雁夜を覆い尽くすほどの魔力の渦。その姿を正常に視認する事は難しく、ただ闇よりも深い黒を湛えた隻眼だけが浮かび上がっている。

「あの子の声にならない慟哭を知っているか……? 叫びを上げる事さえ許されず、呼吸さえも許可がなくては行えない煉獄を知っているか……?」

「…………」

「助けを求めたところで誰も手を差し伸べてくれず、手を伸ばした分だけ次の過酷が増えていく。だからあの子は心を閉ざした。そうする事で最後の一線を守ったんだ。絶望の檻に閉じ篭る事で、自壊だけを避けたんだ」

 それは余りに悲痛な叫び。想像を絶する地獄の形。

「あんなものが幸福の形であるものか……あんな地獄の先に明るい未来があるものか。間桐臓硯の慰み者になるだけの身体に、世継ぎを産むだけの胎盤に、あの子が笑っていられる未来があってたまるかァ────!」

 間桐雁夜の憎悪は此処に最高の怒りを発露する。何も見えてない愚図の分際で、あの妖怪の何をも知らぬ分際で、誰の幸福を願うのか。
 口先だけの取引を信じ込み、後は知らぬ振りをしている時臣に、桜の痛みが分かる筈がない。この身と同じように、あの子と同じように。あの無間地獄を体感していない者にその声は届かない。

 だから雁夜が立ち上がった。この戦いに死を賭して臨んだのだ。

 余命幾ばくもないこの命。その全てを燃やし尽くしてでもあの子を救うと。ただその為だけに間桐雁夜はその身に憎悪を受け入れた。

「だから邪魔だ……邪魔なんだよ時臣。貴様がいてはあの子が救われない。貴様ではあの子は救えないんだ。
 このままあの地獄に居続けては、遠からぬ内に崩壊する。あの子の心が如何に強靭であっても、あの悪鬼が壊し尽くす」

「…………」

「だから俺が桜を救う。もう一度陽の光が当たる場所に、あの子を連れ戻すんだ。ああ、邪魔だ時臣。貴様がそこにいちゃあの子が戻れない。
 貴様が生きていては、あの子は陽の当たる道を歩けないッッ────!!」

 漆黒の魔力をブーストとして雁夜が駆ける。手にした何でも鉄くれは、今や夥しい魔力を帯びて赤い光を発している。手にする全てを己が宝具にする異能。それが発現し、時臣の頭蓋を叩き潰すと振り上げられる。

「ふん──」

 これまで傍観に徹していたアーチャーが一歩躍り出る。右腕の僅かな動きで五挺の宝剣を呼び起こし、躊躇いもなく撃ち放つ。

「ハァァァァァ!」

 狂化された肉体にものを言わせて雁夜は鉄くれを振るい初撃を打ち上げ弾く。次いで迫る二挺を回避し、その後の二挺を落下してきた一本目と鉄くれとで迎撃した。

「ときに時臣──」

 放った全てを迎撃されてなお黄金に揺るぎはなく。むしろ当然と受け止めて、未だ己がマスターである時臣に問いかける。

「この狂犬との対峙は貴様にとっても不本意なのだろう? セイバーのマスターに踊らされた結果である故」

「ええ」

「では無論、打開する策の一つや二つは持っているのであろうな? よもや無策で戦いに臨んだわけではあるまい?」

「当然です」

 このまま衛宮切嗣の掌で踊り続ければ雁夜諸共に共倒れだ。漁夫の利を得るのは魔術師殺しだけであり、他の誰もが救われない。そんな結末は認めない。
 故に時臣は幾つもの策を巡らせている。幸いにして時間はあったのだ、打てる手の全ては打ってきたつもりだ。

 そして何より、雁夜の心からの慟哭を聞いてしまった以上、この場で倒れる事は許されない。やはり間桐臓硯は悪鬼の類だ。間桐家の繁栄とは即ち彼の者の存命。つまりは自らに利する事だけを目的として暗躍している。

 そんな化生に愛娘を預けておく事は出来ない。
 幸あれと願った未来に絶望しかないのなら、この身を賭して桜を救いに行こう。

 ……まずは謝らなければな。桜に、凛に、そして葵に。

 私は間違えてしまったのだと。魔術師としての上辺の取引に傾倒し、その奥底にあるものを見ていなかった。
 傍にあった誰かの笑顔が、失われている事にさえ気付かなかった。

 桜はこの手で救い上げる。その為にはまず、目の前の魔人を打倒し、そして魔術師殺しの罠をすら突破しなければならない。

 ──この窮地が自らの招いた失態であるのなら、その責任を取るのは私自身だ。

 ならばこの身もまた、その闘争の渦へと身を委ねなければならない。

「策はあります。ですがまずは目の前の敵の打倒を。衛宮切嗣を引き摺り出すにはそれしかない」

 頭は冷静に、心は冷徹に。魔術師としての己を此処に変革する。無謀を勇気と履き違える無様はしない。間桐雁夜は遠坂時臣が打倒すべき敵ではない。倒すべきはあの男──衛宮切嗣。

「まあ良い。では我は我で愉しませて貰うとしよう。そら狂犬よ、いつまで隠れているつもりだ」

 白煙の彼方に揺らめく黒の影。その手に輝くは赤と青の煌きを宿した剣。アーチャーの放った宝剣だ。

「本当に手癖の悪い犬よ。人のものを奪うは悪事であると、稚児とて知っておろうに」

「悪党からものを奪って何が悪い。それにただ死蔵しているだけではコイツらが泣いているぞ」

 雁夜の手にする一対の剣がその煌きをより強くする。

「盗人の分際で我に説教とは。ハッ、片腹痛いぞ狂犬が。その死を以ってその不敬を懺悔しろ──!」

 生み出される無数の泉。黄金の泉より湧き出る宝剣宝槍は数限りなくその総数を増していく。

「ハッ────」

 対峙する雁夜は狂いながらにその思考は冷静だ。本能のままに暴れては、この黄金には届かない。狂化による身体能力の強化と本来なら有り得ない思考の存続の両方を酷使しなければ届かない。

 人の身に英霊を宿した異常。有り得ざる融合は恐らく──この時の為にあったのだ。

「貴様は此処で斃れろアーチャー。俺の道を阻むものは全て殺し尽くす──!」

 揺るがぬ黄金と狂気に染まる漆黒の激突が幕を開けた。


+++


 初撃。

 出し惜しみはなしだとばかりに二十に及ぶ剣群が雁夜目掛けて殺到する。如何に超人に等しい力を以ってしても、それだけの数を一度に捌き切るのは不可能だ。

 故に雁夜は、その身に許された異能の更なる奥底へと踏み込んでいく。

「はぁ……!」

 手にした青き煌きを湛える剣を何を思ってか地面に突き刺す。瞬間、迫る剣群と雁夜との間に巨大な氷壁が姿を現した。
 二十の爆撃はその悉くを分厚い氷の壁に阻まれ推力を落とし、突破した幾本かは赤い煌きを帯びた剣によって撃ち落された。

 雁夜が宿す宝具の一つ。自らの手にしたものに宝具としての属性を付加する異能。ただの枝とて武器になり、鉄くれとて宝具と撃ち合えるようになる。
 ならば元より宝具であったものを奪い取ったのなら、それはどうなる。

 手にしたものを己が宝具とするのなら、当然元が宝具であったものも例外ではない。それに加え、この異能の真の能力は自らがその武器の担い手となる事に集約する。

 鍛え上げられ研ぎ澄まされた無窮の武錬の賜物であり、彼自身が成し遂げた逸話により具現化した能力。ありとあらゆる全ての武器は彼の手により彼のものとなり、その真なる力を発揮する。

 それはこの黄金の宝物とて例外ではない。

 ただ撃ち出される武器もそれぞれ異なる能力を宿している。無銘故にその担い手のいない宝具の担い手となる事を、この漆黒の騎士のみが許されている。まるでこの黄金に挑む為だけに存在するかのような力。

 絶対の君臨者を孤高より引き摺り下ろす為だけに、この身はこの力を宿している。

「手癖の悪さもそこまで行けば大したものだ。しかしそれで王の宝物に触れた罪科が購えるとは思うなよ」

「御託はいいからさっさと来い。如何にその蔵が無尽蔵だろうと底はある。貴様自身さえ知らぬ底、この俺が暴いてやる!」

「ハッ、よくぞ吼えたな狂犬。では試して見るがいい。人の認識を超越する我が宝物庫の底の底、我自身も見て見たいものよ!」

 撃ち出される爆撃は数限りなくその数を増していく。捌く雁夜は手にする得物を換え、剣に宿る能力を駆使し捌き切る。
 もはや瀑布の如き怒濤の連撃。雷鳴の如く轟く鉄と鉄の奏でる不協和音。炎が踊り氷が舞い、風が荒れ狂って大地が隆起する。

「ッ────、は……!」

 呼吸を刻む事すら惜しい刹那。身を捻り躱し、奔る血濡れの魔剣を掴み取る。

 奪い取った復讐の呪詛を宿す剣で迫り来る弾丸を切り払う。その威力を持ち主に返すこの呪いは当然、物理現象などまるで無視してアーチャー目掛けて飛翔する。しかしそれも次なる弾丸との切っ先の衝突により弾け飛ぶ。

「はぁ、は、は……!」

 人の身では決して届かぬ英霊の頂。それに対抗出来ている。拮抗出来ている。剣を斧に持ち替え槍へ戟へ杵へ。
 古今東西ありとあらゆる武器ですら、手にしてしまえ我がものだ。それを最初から知っているように振るえるのなら、力を引き出す事とて造作もない。

「っくは──、まだまだァ……!」

 視界の全てを埋め尽くすに足る宝剣宝槍。その全てが必殺の威力を秘め持ち雁夜だけに殺到する。
 一撃貰えばそれで終わり。後は身体の全てを貫かれて斃れるのみ。一瞬の油断は串刺し以外の選択肢を排除する。止まる事無く足を動かし、腕を振るい、知恵を絞って目に焼き付けろ。

 これが英霊に挑む人の姿。絶対的な力に歯向かう意思の力だ。

「ぐっ……!」

 一体何合、何十、何百と刃と刃を重ねあったか定かではない。雁夜の肉体は悲鳴を上げ腕を振るう度に激痛が走る。それでなお生まれ出ずる剣群に底は見えない。黄金は余裕の笑みを浮かべ次々と繰り出す剣を呼び起こす。

 ──本当に底なしか、この男……!

「そらどうした。もう音を上げるか? 我の財が底をつく前に貴様の魔力が底を尽きそうではないか」

「おああああぁぁぁぁァァァ……!!」

 憎め憎め憎め。目の前の敵に憎悪しろ。我が泉は憎悪のそれ。ならば溢れ出る負の想念こそが魔力を生む。
 この黄金のマスターが何をしたか忘れたか。あの子に何を背負わせたか忘れたか。忘れるな忘れるな忘れるな。

 ────■の絶望を忘れるな……!

「────────え?」

 思考の停止の隙間を縫うが如く、十の魔剣を撃ち払った直後に飛来した一本の剣が、吸い込まれるように雁夜の肩を貫いた。

「がっ……ぁ──!」

 爆撃めいたその一撃を喰らい雁夜は吹き飛び無様に地を滑った。

「はっ、ぁ……」

 震える腕に力を込める。突き刺さった剣を引き抜き杖にして立ち上がる。まだ立ち上がれる。まだ戦える。目の前の敵の底を見るまでは、この身は斃れる事は許されない。

 だってそうだろう。あの男は言ったのだ。雁夜が劣勢になれば介入すると。■■を討ち取るのは俺だ。俺なんだ。ああ、でも──

 ────俺は誰に憎悪し、誰を救いたかったのか……

「存外にしぶといが……その目から狂気が薄れているぞ?」

「っ、く……はぁ……」

 違う。違う違う違う違う。まだ忘れていない。まだ思い出せる。この身はあの子の為だけにあるんだ。それを忘れるわけがない。忘れていい筈がない。
 黒く塗り潰されていく心の中から掻き集めろ。無垢な色だけを拾い上げるんだ。そうすればほら、

「さく、ら──────」

 ああ、まだこの心は覚えている。なら大丈夫。戦える。

「さあ、続けよう。俺はまだ……戦える」

 手にした剣を突き付ける。折れぬ心を見せ付ける。憎悪に染まった心でも、未だ残る温もりを、最期の時まで守り通す為に。

 その意思と覚悟に水を差すように、彼らは現れた。

「……ようやく姿を見せたか」

 アーチャーと雁夜の激闘を後方で眺めていた時臣は右方より姿を見せた一団へと視線を投げる。
 衛宮切嗣とセイバー、その後方に控える葵とそれを拘束する舞弥。役者はこれで全て出揃った。

 ……ここからが本番だ。

 雁夜の奮闘は驚愕と賞賛に値するが、時臣が倒すべき敵は衛宮切嗣だ。あの男よりまず葵を取り戻さなければ話にならない。

「っ……、ぁ──」

 口から零れ落ちる血を飲み込んで、憎悪に目を血走らせて現れた闖入者を見やる雁夜。

「邪魔をするな……! これは俺の戦いだ、アイツは俺が殺すんだ……!」

 雁夜の吼え声にも無関心に冷たい瞳を向けるだけで済ませる切嗣。彼からすれば今の雁夜は既に満身創痍。
 セイバー達より先行し身を潜めて覗いていたからこそその激烈さを知ってはいても、あの身体では届かない。

 もし雁夜の身体が英霊の重みに耐え切れるほど強靭であり、潤沢な魔力供給を確保出来ていたのなら芽はあったのかもしれないが、今のままでは無理だ。
 アーチャーの視線が語っている。このまま時間を食い潰すだけで、狂気の騎士は自壊すると。その終わりは近いのだと。

「ふむ……」

 一旦の場の硬直の中、アーチャーは戦場を睥睨する。無論、己が見初めた宝石にも熱い視線を送る事は忘れない。当然のように無言の怒気を返されたが、この男はそれをすら愛でるだろう。

「時臣よ。この状況、おまえならばどう切り抜ける?」

 形の上では三つ巴。しかし戦力的には数で言えばアインツベルンの陣営が頭一つ飛び抜けており、更には葵を人質に取られている。
 手を後ろ手に縛られ轡を噛まされている。縛った手は舞弥に握られ万が一にも逃がす気はないらしい。

 ここでアーチャーの力技に訴えればセイバーや雁夜諸共に吹き飛ばせるかもしれない。当然それは、葵の救出を度外視してのものだが。

 何より時臣は今、この黄金に対し僅かではあれ猜疑の念を抱いている。何をしでかすか分からないこの王に趨勢を委ねるような事は避けたい。璃正のように、偶然に見せかけて葵を殺さないとも限らないだから。

「……王は雁夜の足止めを。アインツベルン(あちら)は私一人で充分です」

 切嗣が姿を見せたのなら最初からそう告げる事を決めていた。これならば黄金の邪魔は入らないし、切嗣に対しても牽制になる。
 後は時臣一人で切嗣を出し抜きセイバーを躱し葵を救わなければならないが……

「それはまた大胆な事を言う。勝算はあるのか?」

「十二分に」

「ハッ──良いぞ時臣。その気概、もっと早くに見せていれば我の心も変わっておったやもな」

 言ってアーチャーは一歩前に出る。

「さあ狂犬。もう少しばかり遊んでやろう。我を退屈させたその時が貴様の終わりだ。せいぜい我を愉しませよ。その命尽き果てるまでな──!」

「ァァァァァァァァァアアアアアア…………!」

 たった一欠片だけ残った温もりを抱え、憎悪の騎士は剣を執る。何故自分が剣を手にしているかを解さぬままに、何故戦っているかを忘却しながら、それでも救いたいと願った少女の為に命を燃やし疾走する。

 その疾走を止めるブレーキは既に壊れてしまっているのだから。


+++


 その激突を見届けて、時臣は単身切嗣達の元へと近づいた。

「止まれ」

 制止の言葉を聞き、当然足を止める。相手の手には人質がある。呑める限りの要求は呑むしかない。

「こちらの用件は言わずとも分かっているだろう?」

「……アーチャーと雁夜を戦わせ、消耗し生き残った方をセイバーが倒す。あるいは今の状態なら、私を殺してアーチャーを消し去り、その後に満身創痍の雁夜を討つ……と言ったところかな」

 それは大体読み通り。単純に時臣や雁夜単独に脅しを掛けるのならこんな回りくどい真似はしない。衛宮切嗣は最小の犠牲で最大の結果を望んでいる。自らの傷は少なく、アーチャーとバーサーカーを消し去る事。それが本命だろう。

 しかしアーチャーには高い単独行動のスキルがある。ここで仮に時臣が無抵抗に殺されたとしても数時間、あるいは数日の間の現界を可能とする。

 それでは時臣を殺す意味がない。故に────

「それだけでは足りないな。遠坂時臣、その令呪を以ってアーチャーに自害を命じろ」

「そう言って今度はアーチャーは無論、私や葵も殺すのか? あのロード・エルメロイ達のように」

 自らの身を犠牲に主の許婚を救おうとしたランサーの忠義を踏み躙り、ソラウ諸共殺した事を忘れたとは言わせない。
 あんな悪辣な真似をする輩を相手にどうしてその言葉を信用出来るのか。アーチャーに自害を命じたが最後、時臣と葵も間違いなく殺される。

 この殺し屋は確実にそれを遂行する。情けなど一片たりとも掛けはしない。

「おまえにそんな口答えをする権利があると思っているのか……?」

 時臣の視線は切嗣達の後方へ。後ろ手に拘束されている葵に突き付けられる舞弥の手にするナイフ。鈍色の空を映す白銀が、その柔らかな頬に押し付けられる。

「これは取引じゃない、一方的な命令だ。今一度言おう──遠坂時臣、令呪でアーチャーを殺せ」

「断る────!」

 刹那、闇に紛れて放たれた一刀の刃。黒塗りのそれに反応出来たのは、切嗣とセイバーのみ。先に動いたセイバーは不可視の剣を呼び起こし、火花を散らして撃ち落す。

「何者だ──!」

 セイバーの声に誘われ闇に浮き出る一枚の白面。白々と浮かぶそれはまさしく、アサシンの面。

「馬鹿なっ!? 貴様はあの夜、私が斬り捨てた筈──!」

「さてな。そんな事は知らんよセイバー。だが少々お相手願おうか。
 卑賤なこの身だ、もし請け負わぬというのなら、一体何処に刃が飛ぶか分かったものではないぞ?」

 闇に紛れて雑木林へと姿を眩ますアサシン。こちらへ来いと誘っている。

 如何にアサシンが最弱に等しいサーヴァントであっても、生身の人間には対抗する手段がない。舞弥は無論、切嗣とて難しいだろう。サーヴァントにはサーヴァントをぶつけるしかない。

「マスター、私はあのサーヴァントを追います。もし何かあれば、その時は令呪を」

 切嗣の返答など期待していないのだろう、セイバーは返事を待つ事無く闇に紛れたアサシンを追い雑木林へと入っていく。

 これでこの場には切嗣と舞弥、それに葵と時臣だけが残る。

「…………」

 アサシンの生存は確信していたからやはりという思いだが、此処で時臣に加勢するとは切嗣も流石に思わなかった。
 あの男は既に終局を見据えている筈。切嗣と対峙するその時を夢見ている筈だ。ならば何故時臣を生かす真似をする。あの男にしてもこの正調の魔術師は邪魔な筈なのに。

 ……なるほど。これがおまえのやり方か。

 この程度の敵、超えて来なければ意味がないと。この程度の敵に破れるのなら、私の見込み違いであったと、そういう事か。

 綺礼には綺礼の思惑があり、切嗣には全てを読み切れないが概ね間違ってはいない。未だ時臣と協定関係にある綺礼はその手を貸さないわけにはいかず、そして時臣が斃れるのは今少し早いと見ている。

 それもセイバーの手に掛かっての終わりなど認めない。せめて魔術師殺しとの闘争を経てからでなくては、

 ──この身の愉悦は満たされない。

 それが綺礼の偽らざる本心であり、本心から時臣に協力している。綺礼の助勢を得た時臣を倒し、私のところまで来いと、そう綺礼は言外の想いを込めている。

 ……いいだろう。だがそんな誘いに簡単に乗ってやるものか。

 未だ切嗣の手には人質がある。これを使わない手はない。正面切っての戦いなど最後の手段だ。

「それで、どうするつもりだ遠坂時臣。まさか遠坂葵を見捨てて僕に勝負でも挑むか?」

「……魔術師たるもの、その身にまず宿すべきは死である」

 時臣は手にした樫材のステッキ、自らの礼装を強く握り締め横薙ぎに振るう。

「ならば当然、その妻たる者も同様の覚悟を持つべきであり、私の妻はその覚悟を宿している」

 生まれる炎、夜を焦がす灼熱の輝き。
 周囲に蟠る冷気の全てを燃やし尽くして猛り狂う。

「だから私はこう言おう──葵、私の為に死んでくれ」

 それは人質を見捨てるにも等しい言葉。ここまでのお膳立ての全ては切嗣を逆に罠に誘う為の恭順であったと、そう時臣は言ってのけた。

「────っ、……ぁ!」

 噛まされた轡を振り払い、葵は精一杯の声を上げる。

「はいっ! 時臣さん、私────っ」

 続く声は舞弥が葵の足を払って引き摺り倒した事で掻き消された。

「…………」

 煌々と猛る炎。それを冷厳に見つめながら切嗣は思考を回す。

 魔術師は他者に辛辣である分身内には酷く甘いところがある。それを利用しての誘拐であり人質だったが、こうまではっきりと死ねと宣言し、葵もまたそれに応えたのならもはや人質に価値はない。

 だからと言って手放すつもりはないが、時臣の意思が本物であるなら、切嗣も相応の対処をしなければならない。即ち──

「剣を執れ衛宮切嗣。これは私とおまえの決闘だ。横槍はもはや入らないし、おまえの奇策が通じる場面でもない。
 その身に一欠片でも魔術師としての誇りを宿すのなら、尋常の勝負を行え──!」

 時臣にしてもこれは半ば賭けである。

 真実として葵を犠牲にしたいと思ってはいないし、助けたいと願っている。だが葵を人質に取られた状態でそんな弱みを見せればそこを付け込まれて全てが終わる。

 故に時臣は自身の想いを封殺し、冷酷な魔術師として立ち向かう。如何に身内に甘くとも自らの悲願と比せばその天秤は容易く傾く。それが本来の魔術師だ。

 時臣が外れた魔術師であってもそれを対外的に見せた相手はあの臓硯以外にいない。ならば当然、切嗣の知る時臣はそんな魔術師である筈だ。

 これは時臣にとって一世一代のハッタリだ。葵を救う──その為に巡らせた策の最後の仕上げだ。

 ──さあ、乗って来い衛宮切嗣。

 乗る以外に道はない。葵を殺せばそれこそ時臣は容赦なく全ての手札を使い切る。令呪に訴えてでも切嗣を殺す。

「……いいだろう」

 魔術師殺しは愛銃を引き抜く。

 最悪の想定としてこの展開を想像しなかったわけではない。ただ単純に、綺礼と見える前に手札を晒したくはなかっただけの事。

 綺礼もアサシンという札を切って来たのだ、ならばこちらも一枚くらいは見せねば状況を打開出来ない。

「ならば僕も魔術師として立ち会おう。そして知れ、魔術師殺しの異名の意味を」

 此処に舞台は完成する。

 三つの戦場に分散し、それぞれの戦いが繰り広げられる。
 そして遥か遠方──冬木大橋を挟んだ向こう側に、未遠川に覆滅された龍神の如き威容が姿を現し、戦いは更なる混迷を極めていく。













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