Act.07









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 海浜公園より西方、それ程の広さのない雑木林を抜け、セイバーがアサシンに導かれたのは闇に沈んだ住宅街。点々と浮かぶ街灯の明かりが頼りなく揺れ、木々が風にざわめいている。

 闇に紛れ影に潜み、夜を跳梁する暗殺者の英霊。なるほど、この月明かりのない薄暗い闇と死角の多い街中、そして無辜の人々が大勢いるこの場所を戦いの舞台としたのは正解だろう。

 マスターの援護がなく、人払いの結界の類も張られていないこの場所では、派手に暴れる事は難しい。セイバーの本領たるその圧倒的な暴力も、他者を巻き込まないという前提ならばなりを潜めざるを得ない。

 ──セイバー(わたし)に挑もうと言うのだ、戦場を整えて当然か。

 かたや最強の一角たる剣の英霊。かたやマスター殺しを常とする暗殺者の英霊。
 アサシンがマスターを狙うのはまともにサーヴァントとかち合っては勝ち目などないからだ。

 敏捷のみに特化し、気配を消して背中を取る以外に能がないアサシンが、全ての敵に対し真正面から立ち向かえるセイバーなど、どれだけ有利な戦場に誘い込もうとも倒せる道理はない。

 それほどに両者の力には隔たりがある。余程の奇策があるのなら別だが、現状、セイバーの有利は揺ぎ無い。そしてそれはアサシンも分かっている筈。ならば暗殺者の狙いは何処にあるのか。

 ──私の足止め、だろうな。

 マスターが敗れてしまえばどれだけ頑強なセイバーとて持って数時間の命。故にアサシンはセイバーとマスターを分断し、互いの戦場を整えた。この身が最強の足を止めている間にそちらの決着を待つ、と。

 しかし不可解なのは斬り捨てた筈のアサシンが生存している事。そして切嗣と対峙していたマスターは、ならばどのサーヴァントのマスターなのか?

 アサシンが足止めに動いている以上はあのマスターの関係者には違いない。そしてアーチャーがならば彼のサーヴァントなのか。

 海浜公園での一幕では切嗣と時臣の交渉においても距離を取っていたからその内容までを聞いていない。
 そうさせたのは他でもない切嗣で、実際の指示を出したのは舞弥だが。

「……答えは得られない、か」

 自らを剣と断じ、マスターとの交流も最低限。二人を繋ぐ女人とも先程顔を合わせたばかり。当然にして敵マスターとサーヴァントなど一致する筈がない。セイバーには知らない事が多すぎる。

 それでもいいとセイバーは断じている。真にセイバーが知るべき事であるのなら、切嗣なり女人なりが伝えてくるだろう。それがないという事はセイバーが知る必要のない事。無意味な事だ。

 この身はただ一振りの剣。敵を断つ刃であればいい。

「だがそれでも──」

 後方より風を切る音を察知し振り向きざまに切り払う。閃光の如き火花を散らし黒塗りの短刀を地に落とす。

「──貴様が今なお跳梁しているその理由くらいは暴かせて貰うぞ……!」

 切り払った直後、捻転の力を利用して後方に跳躍。魔力放出の加護を得たセイバーの加速はランサーにさえ匹敵する。
 投擲の直後、離脱しようとしていたアサシンへと肉薄する。が、一歩早く敵は角へと身を隠し、直後、有り得ぬ角度から刃が飛来した。

「…………っ!?」

 身に迫る死の危険を察知した直感のままに繰り出された一撃を薙ぎ払う。手にした剣を下段に構え、姿を消したアサシンの影を探す。

 ……なんだ、今のは。

 角に姿を隠したアサシンを追いその角を曲がった直後、全く予期していなかった方向から攻撃された。
 どういう理屈でそんな曲芸を為したのかは知らないが、恐らくそれがこのアサシンの宝具に繋がる何かなのだろう。

 そして斬り捨ててなお生きている理由もまたそれに通じている筈。

「……とはいえ、そう易々とは暴かせては貰えないか」

 それから同じような攻防を二度三度と繰り返す。

 セイバーの死角から投げられるダーク。攻撃の方角から予測した射出地点へと全速力で迫り、肉眼で確認した直後、アサシンは物陰に姿を隠し、その後を追えばあらぬ方向から攻撃される。

 不意打ちをいなした後、追いかけた影を探してもそこには暗闇しかない。

 ……負けはしない。だが、これは千日手もいいところだな。

 ただセイバーの足を止める為だけに、アサシンは切り札を切った。それをこそが互いの明白な力量差を表している。
 けれどこのアサシンは分を弁えている。自分にはセイバーを倒せないと誰よりも知っているから深追いをして来ないし、必要以上に躍起にならない。

 セイバーがこの戦場から離脱しない程度に気を引き、詳細の分からない能力を使って自らの姿を隠匿している。
 攻撃態勢へと移らないアサシンの気配を察知するのは難しい。アサシンの居所を暴く手段はあるにはあるが、それなりの破壊を撒き散らす事になるだろう。

「…………」

 さて、どうするか。

「……考えるまでもなかったな」

 またもや風を切る擦過音。今度はそれを迎撃ではなく躱し即座に加速する。今の速さで届かないのなら、なお速く駆け抜けるまで……!

「はぁあああ……!」

 剣を封じる風王結界の封印を僅かだけ紐解いて、溢れ出る風に指向性を持たせてより速く踏み込む。

「……っ!」

 先程よりもなお近い距離まで黒衣の白面へと肉迫。相手もその異様に気が付いたか、形振り構わず逃げの一手。此処で逆に仕掛けて来てくれれば楽に刺せたが、流石にそこまで甘くはない。

 地を滑るかのような速さで角の向こうへと消え行こうとするアサシン。このままではまたもや僅かに届かない。ならば此処で打つ手は一つ。

「ふっ──!」

 最大の踏み切りからの跳躍。塀を越え、屋根を超え、電信柱の高ささえも軽く凌駕し、角の向こうへと消えたアサシンの姿を頭上より視認する。

 ──さあ、ここからどうやって仕掛けてくる!

 直後、セイバーの追っていたアサシンが霊体化したのか視界から消え、

「なっ……!?」

 刹那、真後ろに気配を感じ振り仰げば、消えた筈のアサシンがそこにいた。

「キェ────!」

 完全に不意を衝かれたに等しいセイバーはしかし、強引な捻転と溢れる魔力と風の力を用い繰り出された短刀の一撃を弾き飛ばす。必殺の奇襲を防がれたアサシンは無論深追いなどせずすぐさま離脱する。

「ちぃ……!」

 姿勢制御を捨てて防御をした為、アサシンを追撃する事叶わずそのまま自由落下する。くるりと空中で一回転した後、銀の具足は確かに大地の感触を踏み締めた。

「ふむ……なるほど。なんとも奇異な宝具を持っているようだなアサシン」

 首こそ獲れなかったがその能力について大分掴めて来た。

 角に姿を消したアサシンを追った直後、あらぬ方向から不意打ちを受けた事。
 霊体化した事を視認したにも関わらず、刹那の内に背後にいたアサシン。
 そして緒戦の夜、斬り捨てた筈の敵が今なお健在である理由。

 それら全てを線で繋げば、自ずとその概要も把握出来る。

「見切らせて貰ったぞアサシン。その身が持つ宝具──それは分身の類だな」

 単なる残像を作るものではない。質量を持った個、分裂という方がしっくり来る。一つの座の枠には当然一人の英霊しか座れない。
 しかしそれが分身、あるいは分裂の類であるのなら可能だろう。唯一つの全を複数の個に分割しても、それはあくまで全である。

 それが全である以上は何も矛盾はしないし、そう考えれば全ての事に納得が出来る。一人殺したとしても他に何人かのアサシンがいる。アサシンという全を殺さなければ、個を幾ら殺したところで──限界はあるだろうが──意味がない。

 ……しかし、これは……

 そう考えた時、その厄介さの方に目が向いた。今この場に何人のアサシンがセイバーを包囲しているのかは分からないが、その全てを殺す事の難しさは至難を極める。あくまで彼らの目的はセイバーの足止め。

 宝具を看破された事で姿を現してくれるのなら楽だったのだろうが、反応の一つすらもない。彼らは究極的な影だ。
 私を殺し、無我に至り、ただ目的だけを遂行する機構。狂う事のない歯車だ。

 一体どれだけのアサシンの分身体を倒せば終わりが来る? そもそもこの場にいるアサシンで全てなのか? 完全に倒したと確信した直後、その背を刺されない保証が何処にあるのだろうか?

 更に言えば、こうして足止めされている間に切嗣がアサシンに襲われているのかもしれないのだ。

「くっ──!」

 マスターの身を案じ戦場を離脱しようと加速したセイバーに差し向けられる四方からの投擲。それを躱し捌いた直後、正面には白面が踊る。

「行かせはせんよセイバー。貴様にはこのまま私と踊り続けて貰おう。今暫し愉しまれよ」

「邪魔をするな────!」

 斬り捨てると踏み切った直後に背後より迫る刃。的確に心臓だけに狙いを定めた投擲を跳躍によって回避する。
 その間に目の前の髑髏は後退し、影に身を埋めようとしている。そして左方──浮かび上がる髑髏の面。闇の中で白々と踊るそれは四つに及ぶ。

 繰り出される都合八の刃。その全てが僅かにタイミングをずらし、完璧なまでのタイミングで相手の攻め手を封殺する目的でのみ放たれる。

 空中という逃げ場のない虚空に身を置いたセイバーは迎撃するしか手はなく、その全てを撃墜し終えた時、白面の全ては闇の彼方に姿を消していた。

 影に潜み逃げに徹し、こちらの利点を封じる戦場において、相手の足止めのみを目的とするアサシンがこれほど厄介であるとはセイバー自身思いもしなかった。これが本来の彼らの正体。揺るぎのない実力だ。

 負けはしない。殺される事はない。時を重ねればいずれ追いつき全てを倒す事は可能だろう。だが彼らが真にマスター殺しを肯定した場合、その脅威は察して余りある。そうしない理由がなく、そうされた場合苦戦は免れない。

 遠坂時臣の下についた言峰綺礼のサーヴァントに甘んじていた頃の彼らとは、何もかもがまるで違う。真の主を認め、聖杯に至る覚悟を得た暗殺者の真骨頂は、今此処にその脅威を発露させていた。

「いいだろうアサシン。ならばこちらも全力で行かせてもらう」

 敵を討つ事を目的とするのでは恐らく、この戦場では勝ち目がない。時間を掛ければ可能だろうが、今は一分一秒が惜しい。
 勝利条件はアサシンの討伐ではなく海浜公園へと戻る事。アサシンの正体を知った今、マスターの下へと戻らざるを得ない。

 如何に切嗣の実力を知ってはいても、サーヴァントには抗えない。ならば死を賭してマスターの下へと駆けつけなければならないのだ。

「ふっ────!」

 もはや迫る刃にも踊る白面にも目をくれず、一直線に海浜公園へ向けて駆け抜ける。自らに宿る直感を信じ、致命傷にはなり得ないものは完全に無視する。擦過していく黒塗りの短刀に身を削られてもその速度は落とさない。

 風よりも疾く闇を斬り裂く銀光となり、セイバーは疾駆する。

「行かせはせんと、そう言った────」

 前方の虚空に現れた白面が何かを言い終わるのをすら待たず、今持てる最大の一撃を見舞う。

 セイバーは剣士であり近接戦闘こそが真骨頂。故にアサシンは一定の距離を常に取り、セイバーに間合いへと踏み込ませはしなかった。
 しかしセイバーには一つ隠し手がある。剣を覆う風の封印。それを解き放つ事で一度限りの遠距離攻撃を可能とする。

 それはある種の居合い斬り。風という鞘込めから放たれる疾風の一斬。聖剣の刀身が露になる事をすら厭わず、セイバーは風の斬撃を繰り出した。

「はぁあ……!」

 それはセイバーの魔力も同然の一撃。同レベルの対魔力を持たねば防ぐ事叶わぬ魔性の一斬。
 故に黒衣の白面はその身を守る事すら出来ず、一刀の下にその胴を両断された。

 刹那、周囲を包囲していたアサシン達に走る戦慄。分体の一人が討たれた事は驚愕に値した。しかし彼らは暗殺者。動揺とは無縁の存在。一瞬の狼狽を強固な自我で抑え込み、疾走を止めぬセイバーの足を止めるべく刃を放つ。

 それでなお止まらぬセイバー。勢いに乗った彼女はまさに弾丸だ。四方八方から迫る刃の全ての隙間を潜り抜け、避けきれないものだけを弾き飛ばす。その読みはもはや読みのレベルを超越している。

 研ぎ澄まされた無我の境地は彼女に超直感を齎している。

 二十を超える刃の全てを致命傷を負う事無く、速度を落とす事無く捌き切ったセイバーは全力で踏み切り跳躍。近場の街灯を足場に更に高く飛び上がり、海浜公園へと繋がる雑木林をすら飛び越える。

 それを追おうとするアサシン達に、

『そこまででいい。後は放っておけ』

 念話で語りかけるは彼らのマスターである言峰綺礼だ。

「しかし宜しいのですか」

『ああ。あちらも既に状況が動いている。おまえ達は充分にその役目を果たした。それに──』

 綺礼の一瞬の沈黙。同時にアサシン達もまた大気を震わせるほどの魔力の胎動を感じ、全員が同じ方向へと視線を向けた。

『今夜の一戦、この事態はもはやこの場だけでは済まない規模になりつつある。が、後は任せておけばいい。おまえ達は持ち場に戻れ』

 生まれようとしている怪異に対し、アサシンが出来る事はないと、そう言い切って綺礼は念話を切った。
 自らの分を弁えている彼らは主の意を汲み取り散開し、それぞれの持ち場──マスターの監視へと戻るべく闇に同化していった。


+++


 同刻。

 海浜公園での戦いは激化の一途を辿っていた。

 夜気を染め上げるは紅蓮の炎。灼熱の吐息は時臣の振りかざすステッキに呼応して龍の如く舞い踊る。
 衛宮切嗣の手にする短機関銃からの乱射を受け止める盾となり、その身を喰らう剣となって炎は戦場を乱舞する。

 ……厄介な能力だ。

 戦場を駆け回りながら切嗣はマガジンを入れ替える。初弾、コンテンダーで一撃を見舞ったがそれは当然の如く防がれた。
 時臣の操る炎の熱は銃弾をすら溶かし尽くす。炎に触れるその直前で既に融解を始め、標的に到達する前に銃口より放たれたスプリングフィールド弾を溶かす程の超高温。

 鉛玉を主武装とする切嗣が唯一相性の悪い属性である炎の術者。それもこれほどの炎熱を容易く操るとあっては致命傷を与える事は難しい。

 更には遠坂の魔術は宝石魔術。長い時間を掛け宝石に蓄積した魔力を、起動の為の僅かな魔力と呪文があれば発動を可能とする。

 魔術回路と直結しないタイプの魔術は起源弾と相性が悪い。ケイネスの月霊髄液のように常時術者が魔力を送っているものと違い、外部に溜めた魔力を活用しているだけの宝石魔術では魔術回路までフィードバックが起こらない。

 狙うなら起動の瞬間に術者本人の身体に直接撃ち込む必要があるが……

 そう出来ているのならこうして戦場を駆けずり回ってはいない。牽制の為の短機関銃の乱射で相手の防御を誘発してはいても、鉛玉では一向に効果がない。
 撃ち出す銃弾全てが灼熱の顎門に食い散らかされ、時臣本人へはただの一度もダメージを与えられていない。

 対する時臣も今現在、有利に戦いを運んでいる確信がある。が、それでもまだ人質は切嗣の手の中にある。僅かに戦場を離れた場所に葵は舞弥に拘束されたままだ。
 そちらに炎を差し向ける事は難しくないが、切嗣の妨害と、そして何より炎の規模が大きすぎて葵をすら焼き尽くしてしまう可能性を考え手が出せない。

 最悪の場合、切嗣と舞弥は葵を盾にして時臣の攻撃を防ぎかねない。
 そしてその虚を衝いて命を狙ってくるだろう。それくらいの事は間違いなく行うと時臣は確信している。

 人質に余計な手出しをしては目的である葵の救出を果たせなくなる。こうして戦いには持ち込めたが、此処から先が至難を極める。
 魔術師殺しを出し抜き、葵を救出する方法を探る為、今はこうして戦闘の体裁を取り繕っておく他ない。

 その膠着。時臣が圧しているように見える戦場において、先に仕掛けたのは切嗣だった。

「────っ、あぁっ!?」

 戦場の後方、葵と舞弥のいる方向。そちらからの悲鳴を聞き、時臣は炎の手を緩めぬままに視線を投げる。

「なっ……」

 そして見たのは自らの妻の腕に突き刺さるコンバットナイフ。抉るように差し込まれた傷口からは、濁々と血が零れていく。

「葵……! 衛宮切嗣……貴様!」

「どうした遠坂時臣。自ら死ねと命じた妻の身を、今更になって案じるか。それともさっきのやりとりはやはり芝居か」

「…………っ!」

 業炎と唸る炎が時臣の代弁を行うかのように荒れ狂う。
 頭上より降り注ぐ業火を間一髪の側転で回避した切嗣に、時臣は懐より取り出した別の宝石を繰り出す。

「──Anfang(セット)

固有時制御(Time Alter)──二倍速(double accel)

 互いの詠唱はほぼ同時。投擲が必要な分だけ時臣が出遅れ詠唱が間に合い、横薙ぎに迫る炎を切嗣は倍速化した時間の中を駆け抜けて回避する。
 そのまま離脱し間合いを取り、解除の呪文を口にして、世界よりの修正により生じたダメージを噛み殺す。

 揺らめく炎の向こうに時臣の貌を見る。その表情には無感情などではない、れっきとした赫怒の色が見て取れる。

 やはり時臣は完全に遠坂葵を見捨て切れていない。そう確信を得た切嗣は、停滞した場に一石を投じた。

「さて、今度は取引だ遠坂時臣。全ての令呪を使い切ってアーチャーを自害させ、今後一切聖杯戦争に関わらないと誓うのならば、おまえとその妻には一切の手を出さない。
 無論おまえは僕の言葉など信用しないだろう。必要ならば自己強制証文(セルフギアス・スクロール)で誓約を行っても構わない」

 自己強制証文。それは違える事の出来ない誓約。呪術契約の中でも最上位に位置づけられる呪いだ。破棄など持っての外、解呪さえも不可能。制約を誓ったが最後、死してなお続く永劫の呪縛。

 それを引き合いに出すという事は、魔術師として最大限の譲歩を意味している。

「…………」

 その契約が真に交わされたのなら、時臣と葵の身は完全に保護される事になる。勝利の破棄と引き換えに妻の無事を取り戻す事ができる。
 切嗣にしても、証文を引き合いに出したのはそれほどアーチャーを警戒しているからだろう。此処で時臣と葵を見逃す事でアーチャーを確実に葬れるのなら安いものだと、そんな打算があるに違いない。

 問題は。

 そんな不可逆の提示をされてなお、この衛宮切嗣という男を信用出来ない事に尽きる。

 仮に契約内容を吟味熟読し、一片の不備がない事を確認してすら時臣は安心出来ないという確信がある。目の前の男は敵と定めた者は必ず殺す男だ。犠牲となる者を見定めたのなら間違いなく死んで貰う筈だ。

 時臣ですら予期しない誓約外の何がしかで殺される可能性を捨てきれない。切嗣という男と取引を行う事自体が間違っている。

 しかしそれでなお迷う理由は一つ。葵の無事を確保する術がない。

 先の刺された傷は一応の治癒魔術で治療されているようだが、必要とあらば何度でも葵に傷を付けるだろう。時臣の心の内を暴かれたも同然の今、その芯を折る為に外道はより悪辣な手段に訴えかねない。

 此処が譲歩の限界。こちらの歩み寄りを断るのなら、当然として報いは受ける覚悟があるのだろう? と、そう魔術師殺しは言外に訴えている。

 乗るか、反るか──その逡巡の輪から抜け出す前に、

「時臣さん、私を殺してください」

 そう言ったのは、他ならぬ遠坂葵その人だった。

「なっ……葵!? 何故……!」

「私は貴方の足を引っ張る為に妻となったのではありません! 貴方を支える為です! ならば今、もう貴方の役に立てない私など見捨ててくれて構いません──っあぁ!」

「人質が喋る事を許可していません。貴女に許されているのはただ悲鳴を上げ続ける事だけです」

 無情にも今一度刃を突き立てる舞弥。その言葉にも慈悲というものが一切見られない。彼女は機械だ。切嗣よりもなお精巧な機械仕掛け。
 衛宮切嗣を回す一つの歯車。切嗣の命令に従い任務を遂行する機構。切嗣が命令するのなら、何の罪のない幼子ですら躊躇なく殺すだろう。

 その冷徹。その揺るぎのなさ。それ故に隙がなく──しかし彼女が思う以上に、遠坂葵という女の意思は強固だった。

「これはっ……! 貴方の、遠坂の悲願を叶える為の戦いでしょう!? 何を躊躇う事があるのです、何を思い煩う事があるのです! 女の命一つ──捨ててでも成し遂げなければならない事でしょうッ!!」

 その吼え声は時臣をして思考をまっさらにして余りある言霊を秘めていた。彼女がこれほどの大声を出した事を聞いた事すらなかった。
 貞淑な女であり、夫を支え娘を愛す良妻賢母。時臣の知る彼女は古き良き時代に取り残されたような女だった筈だ。

 しかし思えば、彼女はずっと前からその強靭な心の影を見せていた。
 愛して止まない娘を養子に出す事を、異論の一つさえ挟まず従った。それを時臣は彼女の妻としての夫を立てる性格ゆえのものだと思っていたが、違う。

 彼女は彼女なりに魔術師というものを理解し、その道に殉じる覚悟を決めている。誰に話す事もなく、けれどその心の内で静かに自らの死生観を固めていた。
 遠坂に嫁ぐ事の意味を誰よりも理解し、魔術師の家系に組み込まれる無情を誰よりも諦観している。

 辛くなかった筈がない。悔しくなかった筈がない。愛する娘を手放さなければならない事に、深い悲しみを覚えなかった筈がない。それでも彼女は強く在り続けた。魔術師としての夫の判断を肯定した。

 彼女は時臣よりもその在り方が魔術師に近い。魔術の薫陶など一切受けていない身でありながら、魔術師という生き物を時臣以上に理解していた。
 先の時臣のハッタリも、彼女からすればそれは当然と受け止められる事実でしかない。そして何故そうしないのかと夫に詰問したのだ。

 その精神性は常軌を逸している。幾つもの矛盾を孕みながらも確固とある自我。その脅威を、時臣をして今初めて知る事となった。

「ぎぃ……は、ぁあ……!」

「葵……!」

 今一度振り下ろされるナイフ。耳を劈く悲鳴は噛み殺され、それでも苦悶の表情までは拭えない。

「さてどうする。遠坂葵の覚悟は予想外だったが、状況は何一つとして変わっていない。あくまで決めるのはおまえだ遠坂時臣。
 まあもっとも──時間を掛ければ掛けるだけ彼女に傷は増えていく事になるし、その命も保証はしないが」

 幾度となく振り上げられ、振り下ろされる白銀の刃。簡易な治癒をすら凌駕する無慈悲な暴挙。血は止め処なく流れ大地に赤い斑点を描いていく。

「……っ、はぁ────!」

 それでも葵の瞳には揺るがぬ意思が宿る。此処で死ぬのは怖くない。ただ恐ろしいのは自らの身が夫の足枷になる事だけだと、そう訴えている。

「…………っ」

 ギチリと奥歯を噛み砕き、時臣もまた自らの逡巡に決着を着ける。

「分かった……葵。私は君の覚悟を尊ぼう──」

 振るうステッキに煌くルビーは今、極大の輝きを抱いて夜を照らす。生み出された業炎は大気をすら呑み込み、自らの輝きをより強大なものとしていく。

「…………」

 魔術師殺しもまた交渉の決裂を見て取ったか、魔銃コンテンダーに秘奥たる起源弾を装填し、決死の戦場に身を投じる。

「決着を着けよう、衛宮切嗣。妻の覚悟を受け入れ、私は此処に勝利を願う」

「…………」

 切嗣の内心では葵の処遇をどうするか、それを決めあぐねていた。本当に時臣が覚悟を決めたのなら葵はもはや邪魔な存在。しかしそれがブラフであるのなら、まだ使い道は残っている。

「────舞弥」

 切嗣は銃口を時臣に向け、

「遠坂葵を殺せ────!」

 最後の激突に至る号砲を告げる。

 それは刹那の攻防。切嗣が葵の名を呼んだその瞬間に時臣は炎の腕を最大に振るった。巨人の掌のように覆い被さる極大の炎は、切嗣は無論、舞弥と葵すらも捉え逃がさない。

 同時、時臣は駆け出した。自らの身に宿る魔術刻印を総動員しての身体能力の強化。自ら炎の中に吶喊するにも等しい無謀を瞬きの間に行った。

 ──やはりか遠坂時臣!

 時臣には葵を見捨てられない。彼女ほどこの男は冷徹な魔術師ではないのだ。それは魔術師としての欠陥であり致命傷。決死の戦場において妻を救う為に駆け出した先が冥府に繋がる三叉路だと気付いていない。

 此処が冥府への岐路であるのなら、その分岐点に立つのは死神だ。魔銃の顎門はぶれる事無く標的のみを捉えている。

 そして舞弥は当然にして切嗣の命令を遂行する。自らに降りかかる火の粉などまるで見えていない。迫る死の足音に頓着すらせず、ただ告げられた命令をこなすべく、腰元より拳銃を引き抜き葵の頭部に押し付けようとした。

 その予備動作。確実性を欠くナイフから拳銃に持ち替える刹那の間隙を衝き、葵もまた暴挙に出た。

 後ろ手に拘束されたまま、血を失いすぎた頭を精一杯振り被っての頭突き。当然にして対象は久宇舞弥。押し付けられようとしていた銃口をすら捻じ伏せ、まさに渾身の頭突きを見舞う。

「ぐっ────!」

 一瞬の虚を衝かれた舞弥は拘束していた腕の力を緩めざるを得ず、葵はとうとうその身の自由を手に入れた。
 駆け寄ってくる妻の姿を見て取った時臣は、これで憚るものはないと、今宵最高の炎の煌きを夜に輝かせて、切嗣を灰も残さず焼き尽くさんと振り下ろした。

 ただ既に引き絞られた魔銃の顎門は、既に時臣を射線上に捉えており、限界を超えた魔術行使を行った時臣に避ける術はなく────

「はっ────、ぁ、ぁ、あ……」

「あお、い────」

 銃弾は射線上に飛び出した葵の胸を寸分違わず貫通し、その命の炎を消し去った。

 同時。

 勢いを倍加した事で炎の檻から逃れる術を失した切嗣は、突如目の前に現れた黒い女に目を奪われた。

 ──何故だ。

 そんな思考とすら呼べない疑問を浮かべた刹那に、女──舞弥は力の限り切嗣を突き飛ばし、自ら炎の中に消えていった。


+++


 此処に戦いは決着する。

 切嗣も時臣も互いに無傷。炎の舌は魔術師殺しを絡め取る事が出来ず、魔弾は標的を撃ち貫く事が出来なかった。

 しかし炎は久宇舞弥を飲み込んだ。
 しかし銃弾は遠坂葵を撃ち貫いた。

 男達の戦場に割り入った女達の犠牲を以って、この場の闘争は完全な決着を見た。

「葵……」

 炎が炸裂した衝撃に乗じ、葵を抱えて戦場から離脱した時臣は、自らの腕の中でぐったりと横たわる妻の顔を見た。
 蒼白な色。血の気というものが薄れ、生の鼓動が感じられない。命の灯火の小ささを表すかのように、全ての色が失われていっていた。

「ぁ……あな、た……」

「葵!」

「無事で、なにより、です……」

「なにを……何を馬鹿な事を……」

 この身が何故死を賭したと思っている。誰の為に命を懸けたと思っている。全ては葵の為だ。彼女を救う為に、時臣は魔術師殺しに立ち向かったのだ。
 それがこの結果だ。愛した女一人を守れず、それどころか庇われたとあっては立つ瀬がない。

 守りたかったものに守られた。守られてしまったのだと、その姿が胸を打つ。

「泣かないで、ください……あなたはあの子達の、父親ではありませんか……」

 零れる涙は止め処なく。葵の頬を濡らしていく。その涙こそが彼の愛の証。腕に抱いた妻に対する偽りのない心の在り処だ。

「ほら……しゃんと、して、ください。えりが、曲がっていますよ……」

 伸ばされた腕に力はない。頼りなく揺れる腕は時臣の首下に届く事無く崩れ落ち、それを止めたのは他ならない時臣だ。妻の手を握り、その身を抱きしめながら、言葉にならない思いを吐露していく。

「なぜだ……なぜ君は、そうまでして私を守ったのだ……?」

「そんな、もの……決まっているじゃありませんか……私はあなた、の妻で、あなたはわたしの夫だから、ですよ……」

 ──貴方が私を守りたいと思ったように、私もそう想ったのです。

 そう、震える唇で伝えて、葵は口元より血を零す。

「葵ッ!」

 時臣の治癒魔術は決してレベルが高くない。死に往く女を救ってやれるほどの効果は望めない。せいぜいが痛みを軽減してやる程度。幾許もない余命を、ほんの少し引き伸ばせるに過ぎない。

 消えていく命。
 救えない祈り。
 もはや避けようのない別離を前に、時臣は葵に問いかけた。

「葵……何か、何か望みはあるか。なんでもいい、私に出来る事なら叶えて見せよう」

 この身は葵によって救われた命だ。ならば彼女の最期の願いを聞き届ける義務がある。いや、そうしたいのだ。そうしてやりたいのだ。
 これまで献身を尽くして来た葵に対し、時臣は決して立派な夫であったとは自分自身思っていない。彼女を悲しませた。凛を、桜を悲しませた。

 愛する者達に涙させる男など、碌なものではない。

 だからこそ、せめて最期にその祈りに報いたい。彼女の為に出来る事をしたいのだ。

「なにも……こうして、あなたの腕の中で、あなたに看取られて、死ねる、のなら……わたしはそれで、満足です……」

 ただ──と、

「本当に、願いを叶えて貰えるのなら……ああ、あの子に、桜に、もう一度だけ、会いたかった────」

 それをこそが遠坂葵の純真無垢な祈り。魔術師の妻としてではなく、唯一人の母として願った叶わぬ願い。

「時臣さん────」

 吐く息は白く。
 空より零れ落ちる雫が、雨となって降り始めた水粒が、死に往く女の頬を滑る。

「愛しています────いつまでも……ずっと」

「ああ。私もだ、葵。わたしはいつまでも君を愛している」

 その言葉に偽りはなく。
 二人は最期の愛を唇で交わし、女は愛した男の腕の中でその息を引き取った。

「…………ああ」

 男は天を仰ぎ見る。失ったものの大きさに、ぽっかりと胸の中心に穴が開いてしまったよう。
 降り頻る雨もこの心を癒してはくれない。ただ無情に肌を冷たく打つだけだ。

 凍えるほどの寒い夜に、男は一人涙する。

 愛した女を強く腕の中で抱きしめながら。
 行き場を亡くした慟哭を、嗚咽に変えて────


+++


「何故、僕を庇った」

 切嗣は炎に焼かれた舞弥を腕の中に抱きながら、そんな疑問を投げ掛けた。

 久宇舞弥は機械だ。切嗣の命令なくして動く事のない人形だ。彼女に人並の情など一欠片もなく、ただ任務を遂行するだけのもの。

 そのように彼女を造った。切嗣が造り替えたのだ。

 戦場を未だ横行していた際に拾った子供。
 安価な爆弾代わりに使われていた少女を拾い、育てた。何故そうしようと思ったのかは切嗣自身もう思い出せない。

 ただこの拾った少女の命一つで、より多くの命を救える時が来たのなら、死んで貰うつもりだった事だけは覚えている。

 それがこの様だ。
 舞弥はその命で救ったものはただ一つ。
 切嗣自身の命だけだ。

 いや────

「今の僕の性能なら、あの炎の中ですら生き残れた筈だ。それを、おまえも知っていた筈なのに──」

「勝手に……身体が動いたのです……」

「……舞弥」

 か細い息。喉を焼かれたのか、声はただの音に成り下がっている。腕の中にいるから聞こえる程度の声量で、それでも舞弥はそう確かに呟いた。

 それは舞弥の在り方を思えば異常な行動だ。

 戦場に常に身を置いていた切嗣と共に行動するに至り、少女は機械である事を余儀なくされた。たかが爆発で怯えたり、銃声で混乱に陥っては使えない。そうなれば捨てていくと言い、捨てられる事を恐れた少女は自らの心を殺す事で道を共にした。

 喜怒哀楽を学ぶよりも先に人の殺し方を覚え、感情を理解する前に銃の扱いを覚えた。そうしなければ生きていけなかったと言えばそれまでだが、それでも彼女は切嗣が思うよりも常軌を逸し過ぎた。

 切嗣が今のようになったのが物心ついた後であるのに対し、舞弥は物心つく前から戦場にいた。
 一人の人間を戦士に育てるよりも子供に銃を持たせて突撃させる方がコストが安い──それに気付いた権力者の捨て駒として彼女は戦場に放り込まれた。

 同時期に攫われ銃を持たされた子供達。彼らが死んでいく傍ら、舞弥は生き抜いた。その心を既に壊されていた彼女は、人を殺すことに感慨も躊躇もなく忠実に戦果だけを上げていった。

 それは主が切嗣に変わっても変わらなかった。やっている事は同じ。引き金を引き、標的の頭蓋を撃ち抜くだけ。より凄惨に、悪辣に、人を殺す機械として完成した。彼女の精神性は切嗣をすら凌駕する。

 だからこそ不可解だ。切嗣の命令がなくば動かない人形が、何故勝手に動く。人を殺す事しか知らない機械が、何故人を助ける真似をした。

 ──ああ、そうか。

 この女は、死に場所を探していたのだと、切嗣は思った。

 誰かの為になる事。それがきっと、彼女が宿した唯一の願い。血で濡れ、消せない咎を烙印された掌で、誰かの為となりたかった。
 どれだけ心を凍て付かせようと氷にはなれない。どれだけ機械だと思い込んでも、人は本物の機械になどなれないのだ。

 彼女の心の奥底に残っていた人としての想い。彼女自身理解出来てなどいなかったであろうその感情が、あの時舞弥を衝き動かしたのだ。

「──良くやった」

 だから掛けてやるべきは労いの言葉。この身の為に生涯を費やした彼女に、せめてもの夢を見せてあげなければ。

「舞弥のお陰で僕は無事だ。これからも続く戦いに、何の支障もありはしない」

「はい……」

「だからもう休むといい。もう僕の無茶な計画に付き合う必要はないんだから」

「そっか……うん、でもそれは……悲しい、のかな……」

 衛宮切嗣の部品となった少女。その末路は身を呈して本体を守り抜いた。その事実に間違いはなく、そしてこの別離は彼女との出会いから、決定付けられていたものだ。

 初恋の少女を殺し、師と仰いだ人を殺した。そして今、片腕とした少女をも、自らの理想の犠牲とする。
 それに罪悪感を覚えない。覚える事は許されない。ただその死と罪だけを背負い、果てのない荒野を歩いていく──それが切嗣に許された贖いだ。

「私は……きりつぐの役に、立てたかな……?」

「ああ」

「そっか……ああ、うれしい、な────」

 その最期に。
 人としての感情を手にして、少女はその双眸を深く閉じた。

「…………」

 また一つ命を犠牲にした。
 理想を叶える為の轍とした。

 それに感慨を覚える事はない。
 決まっていた結末が、思いの外長い時間持っただけの話だ。

 だってほら、この身は涙さえ流せない。もっとも長く傍に置いた女を失ってすら、何の悲しみも覚えていない。
 ただ一抹の後悔があるとすれば、彼女を犠牲にして救えたものが、余りに少なかったという寂寞だけ。

 なんという無情。度し難いほどの無感情。自らを天秤に見立てた切嗣にとって、片方の皿に載せる命の多寡に、貴賎も感情も差し挟まない。
 だから今失ったのはただ一つの命。それ以上でも以下でもない、厳然とした命の一つを失っただけに過ぎない。

 それでも腕の中にあるぬくもり。
 消えていく温かさが、彼女が今まで生きていたのだと伝えていた。

 降り出した雨。
 肩を打つ雨音。

 そして遠く──遠雷のように轟く狂獣の慟哭。
 その遥か彼方には、山の如き居様さえも見えている。

「まだ戦いは終わっていない。僕はまだ、何一つ犠牲に報いていない」

 失ったものに報いる為には、この歩みを止める事など許されない。
 どれほどの過酷だろうと、踏破しなければ意味がない。

 ならばこの戦いを終わらせよう。
 その果てに輝く奇跡に手を伸ばそう。

 心を硬く鉄に変える。
 何処までも硬く。
 何よりも堅固に。
 揺るぎのない意思の力で、全ての敵を殺し尽くす。

 間もなくセイバーも戻るだろう。
 戦いの二幕は既に始まっている。

 戦場へと歩みを進める。
 止める事の出来ない歩みを、何処までも続けていこう────


/2


「ァァァァアア……!」

 迫る死の予感を渾身の一撃で弾き飛ばす。二撃目を後退で回避し、大地を抉った槍を撓りを利用し振り上げる。迫る三撃目と四撃目を同時に撃墜し、五挺同時の爆撃を、両手に担った得物で切り払う。

「ぁ……あぁ────!」

 もはや言葉は声にならず、過剰に酷使された腕からは血が滲み出している。足には力が入っているのかさえ分からない。それでも痛みを感じない。内から湧き出す黒い情念が全ての痛みを覆い尽くす。

「生き意地が汚いな狂犬よ。そうまでして……そんな無様を晒してまでどうして貴様は剣を握る?」

 それは賞賛にも等しい疑問の投げ掛け。真に興味のないものならこの黄金は即座に殺し尽くしている。王の財に手を出す不敬は許し難いが、これまで耐え凌いだその強靭な意志には興味が沸いた。

 それ故の問い。人の身でありながら英霊の魂を宿してまで求め欲するものとは何か。そうまでして叶えたい祈りとは何なのか。
 憎悪に身を焦がしてまで手を伸ばすその無様──人の業を愛でる王者にとって、それは寵愛に足る滑稽なのかもしれない。

「貴様は賢しいだけの夢を見る屑よりは幾分マシだ。そして人の手では掴めぬ星──それに手を伸ばすのならば良い。
 だが貴様はそうではない。貴様は何を夢見る? その血に染まった手で何を掴みたいと欲するのだ」

「…………」

 自らが何を求めてこの戦いに臨んだか……そんな記憶などとうの昔に欠落している。
 灼熱する腕を振るい、憎悪に心を焼かれる事は、雁夜自身の命を消費しているにも等しい愚挙。

 この黄金に拮抗するにはそれ以外の道がなかった。ただ魔力を消費し憎悪に焦がれているだけでは届かぬ高み。英霊の頂点に手を掛けるにはその峰は余りに高く、間桐雁夜の全てを擲ってようやく指を掛けられた。

 されどそれも既に限界。雁夜の身体の内からはパズルのピースの如く多量の欠片が欠落している。この戦いに挑む以前の記憶を一番に捧げ、無用な連中の名前が削げ落ち、仇敵とした男の名とその男への嫉妬すらも力へと変え消し去った。

 この胸に宿るのは最後の残光。欠片にも満たない小さな灯火だ。救いたかった女の子がいる。手を取りたかった女の子がいる。
 彼女の為だけに──名前さえもう思い出せない彼女の為だけに、それでもこの身は戦いの果てまで疾走を止めない。

「それは、本当か────?」

 弛まぬ覚悟で剣を支えに立つ雁夜へと投げ掛けられる王の声。愉悦を浮かべた口元を隠そうとすらせず、雁夜自身さえも忘却した深淵を覗き込む。

「貴様が命を擲ってまで戦うその祈り。果たしてそれは、本当にその娘とやらの為か?」

「何が……ッ、言いたい……」

 僅かに残った理性を総動員し、未だ背後に無数の剣群を従える王者を見る。裕に二百は捌いた筈の財宝。けれどその底は未だ見えず、雁夜は既に満身創痍。
 立っているのが不思議なくらいの自壊の規模。王の財の直撃を被ったのは後にも先にも一度きり。後の傷の全ては剣を振るう度に入る亀裂によって創られた自傷だ。

 英霊の修復力を上回る程の酷使を以ってなお、この黄金には届かない。
 然り──英霊である限りその王たる者に勝てぬのならば、初めからこの戦いこそが無謀であったのだ。

「思い出すがいい狂犬──いや、英霊をその身に宿した人間よ。貴様の原初を思い出せ。この戦いに臨むと決めた、その初めの想いを思い出せ。
 何、消えてはおらんさ。消えている筈がない。何故なら貴様は──と或る少女の為と謳いながら、その本心では別のナニカの為に剣を執ったのだからな」

「────」

 一体この黄金は何を言っている。雁夜さえ忘れたものを、何故貴様が知っている。そんな疑問には意味がない。きっとこの黄金には他者に見えない何かが見えているのだろう。そういうものだと理解する以外にない。

 その上での疑惑。黄金の言う雁夜の原初。少女の為にこれまで剣を振るい続けてきた。彼女を陽の当たる道に連れ戻してやりたくて、こんな無様を受け入れた。
 どこまでも愚かしい自己欺瞞。少女の絶望を笠に着て、恩着せがましくも正当性を謳い上げた。

 黄金の言う原初とはそうするに至った理由──少女を今一度陽だまりに戻してやりたいと願った理由に他ならない。最初から少女を救いたかったわけではない。彼女の置かれた境遇を知り、そしてその子の為に全てを捧げる覚悟をした。

 その以前……少女の悲痛を知るに至った理由。
 少女の身を案じていた誰かの姿。

 零れた涙を止めたくて、俺は────

「…………っ、あおい、さん」

 そう、彼女こそが雁夜の原点。彼女の涙を止めたくて、悲痛に歪むその顔を見ていられなくて、男はその手に剣を執った。
 好きだった人。ずっと昔から焦がれ続けていた人。その夫に対する嫉妬も、娘に対する愛情も、全ては手に入れられなかった彼女への恋慕の残滓に他ならない。

 彼女の幸せを願い身を引いた。その結果に零れ落ちたものが愛した女の涙なら、他に剣を執る理由など必要ない。
 この身を賭して戦う事に、他に何の理由が必要か。

「思い出したか? 自らが戦う理由を。この我を前にして譲れぬ祈りを」

 彼女の夫のサーヴァント。それは許せる筈がないものだ。彼女に涙を零させた男の従者を前に譲れる事など有り得ない。
 それが敵わないと知ってなお必死で食い下がった理由。今なお剣を支えに立ち続ける覚悟だ。

「ああ、良いぞその目。ただの狂犬には出来ぬ目だ。意思の力を宿し、命の炎を燃やし尽くす事でしか輝かせる事叶わぬ色だ」

 ガラス細工よりもなお精巧で美しい輝き。
 世に遍く宝石と比してなお尊いと確信出来る、凍れる炎の如き不条理。

 しかしその脆さもまた、この王者は知っており──人の業を愛でる黄金は、人の身の破滅をこそ愛している。

「その輝きで見るがいい。貴様の後ろ、遥か彼方で起こった悲劇の結末をな」

 未遠川沿いに広がる海浜公園。今の雁夜とアーチャーの戦場は最初のそれより随分と逸れている。黄金の言う雁夜の後方──そこにあるのは最初の戦場。そして今なお時臣と切嗣が戦っている戦地。

「…………」

 見てはいけない。
 そんな確信が胸に広がる。

 振り返ってはならない。
 そこにあるのは二度とは戻れぬ道への転落。

 そして同時に──見なければならないという強迫観念さえもその心に内在している。
 今振り返らなければ、きっと後悔すると。

 この瞬間を逃せば決して見られないものがあり、そしてそれは雁夜の心に残った灯火を消し去るに等しい絶望を与えるだろう。
 それでも振り返らなければならない。振り返り、そしてこの目に焼き付けなければ後悔さえも出来ない。

 愛した女の終わりを見届けなければ、間桐雁夜はその疾走を止められないのだ。

「────、ぁ……」

 そうして雁夜は振り仰ぐ。絶望が待つ深淵の底を自らの意思で覗き込む。英霊化による視覚聴覚の鋭敏化。黄金に抗する為に全てを傾けてきたその能力を、振り返った先へと集中する。

「あっ────」

 夜霧を染めて猛る炎の嵐。揺るがぬ死を向ける魔銃の銃口。交錯は刹那。互いに死を賭した必殺の攻防は、

「ああ……っ!」

 男を守り炎の中に身を投げた女と。
 夫を庇って撃たれた妻の死を以って。

 戦いは誰にも救いを与えぬ決着を見た。

「あああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁ……!!」

 天を貫く狂獣の咆哮。愛した女性が憎き夫を庇い死んでいく様を見て、間桐雁夜は完全に自壊した。彼女の涙を止めたかった。その雫を掬い取りたかった。だがそれはもはや叶わぬ願い。

 雁夜の想いに気付かぬまま、葵は愛する夫の腕の中で息絶えるだろう。
 君の涙を拭い去る為だけに、こうして命を懸けた男の結末を知らぬままに────

 剣を支えに立っていた膝は折れ、腕はその衝撃であらぬ方に折れ曲がる。間桐雁夜の身を衝き動かしていた狂気の源泉が枯れ果てた。湧き出る事のない泉に意味はなく、ならば当然にしてこれは定められた帰結。

 後はその身に宿った英霊に血の一滴までもを喰らい尽くされて、絶望の中に死んでいくだけ。

「ふむ……思ったよりは、詰まらぬ結末であったな」

 自ら雁夜の破滅を導きながら、それでも黄金にとっては足りぬという。雁夜程度の絶望では、黄金の王の心を満たす事は出来ないと。

「やはり我を満足させられるのはセイバーだけか。ああ、それがいい。今なお我に歯向かうのなら、あの顔を苦痛と絶望で歪め、然る後にこの世の全てを与えよう」

 妻とする女の駄々に応えてやるも夫の務め。
 ただしこの我の躾は少々厳しいぞ──

 この戦いの結末にある邂逅を心待ちにする王者。その恍惚に水を差すかのように、その咆哮は放たれた。

「Arrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrrr……!!」

 死に体となった雁夜の身体から噴き出すは黒き憎悪の霧。枯渇した筈の魔力の泉の底を穿ち、内なる獣が遂にその真の姿を現す。

 未だ存命の雁夜は狂獣に持っていかれた狂気の代わりに冷静を取り戻す。既に雁夜には力がない。何を成す為の意志の力が欠けている。
 その身に行動理由がある限り、消えぬ復讐の火が燃え続ける限り、決して折れる事のない力を宿しながらに膝を屈した。

 行動すべき理由を失った。守りたかった女を守れなかった。彼女の為だけに剣を執ったのなら、手放すのも当然だ。

 だが……雁夜に宿る英霊には未だ消えぬ意志がある。復讐の炎を燃やす理由がある。だから猛り吼え上げる。そこをどけ。貴様がこの身体をいらぬというのなら、この私が貰い受けると──

「はっ──あぁ……、っ……いいぜ」

 こんな身体で良ければくれてやる。
 復讐の炎に身を焦がせばいいと、雁夜は内なる声を受け入れた。

 此処に主従は逆転する。

 一つの身体に二つの魂。その異様な在り方ゆえに反発しあってきた二つの意思は今此処に一つに混ざり合う。
 間桐雁夜の自意識が薄れ、英霊の意識が表面化する。今まで狂気でしか訴える事のなかった獣は、主の理性を借り受け真の魔人へと変貌する。

 元より高いステータス値を狂化によって底上げしながら、別の所で理性が存在するその矛盾。
 自己の魔力による自己の維持という無限円環。止まる事のない疾走の理は、際限なくその速度を増していく。

「ァァ…………」

 黒い霧が逆巻き天へと猛る。影に覆われたその向こう──間桐雁夜だった肉体に宿る英霊の肉。全てを覆い尽くす漆黒の鎧。赤い眼光煌くスリット以外を覆い隠したフルフェイスヘルム。

「ァァァァァ……」

 黒い風にたなびく無数のライン。狂戦士は屈した膝を大地に着け、折れ曲がった筈の手を支えに立ち上がる。
 スリットの奥に輝く眼光は、目の前に立つ黄金の王者ではなく──

「アァァァァァァサァァァァァ……!!」

 ────遥か彼方より来る清廉な風、自らの仕えた王をこそ見据えていた。

「……ほう」

 闇の甲冑を身に纏い立つ復讐の魔人を眇めながら、黄金は嘯いた。

「貴様の名を知っているぞ狂犬。なるほど、貴様セイバーの昔馴染みか。ああ、ならばじゃれ合うが良い。
 そうして心を折られれば、我への恭順の心も芽生えるやもしれぬ」

 黄金など眼中にないと走り去るバーサーカー、そしてアーチャーもまた自らを無視した魔人への関心の一切を捨て、強大な魔力の胎動と共に生まれた、山の如き威容を遥か彼方に見る。

「異界より我の庭に異物を持ち込む事、度し難いと言った筈だぞ雑種。これが我を遇する為の贄ならば、貴様は何一つをすら見えていない」

 直後、振り上げた腕の先に生まれる巨大な黄金の泉。数々の剣群を生み出した源泉より現れたるは、黄金の船。空を翔る翼持つ古代遺物だ。その中心に鎮座する玉座へと至り、王は見えない舵を切った。

「奴の目的が我を越えた先のセイバーにあるのなら、それは少しばかり面倒だ。
 なあキャスター、今は躾の最中だ。無粋な横槍を入れるつもりであるのなら、この我自ら相手をするぞ?」

 王は黄金の船を駆り空を往く。
 有象無象を間引き、その果てに待つ逢瀬を心待ちにしながら────


/3


 時を遡る事約一日。
 話はアインツベルンの森での戦いを終えた頃に戻る。

「ん〜、なんだかなぁ。ちょっと違うんだよなぁ、これじゃないんだよなぁ……」

 深くヘドロのような闇の底。纏わりつく闇に頓着する事無く雨生龍之介は手にしたメスをくるくると回す。刃先にべっとりとついた赤い血の色が頬に掛かった事も厭わず、空いた左手でがりがりと後頭部を掻いた。

 青髭を名乗ったキャスター……龍之介のサーヴァントの戦いを水晶球で観戦した後、その熱情に中てられてメスを執った。

 キャスターの心情を思えばそれは敗戦であり屈辱に塗れたもの。しかし龍之介にとってはそれが紛れもない現実であり、スクリーンの中ですら見れないと思っていた本物の輝きであった事は疑いようもなく。

 日常に耐えられず非日常に手を染めた青年にとってそれは感涙に咽ぶに足る感動。生で見れない事だけが悔しかった。

 そして彼がメスを手に執ったもう一つの理由、間もなく帰って来るキャスターに自分も負けない作品を見せたかったからだ。

 あれほどのスペクタクルを、エンターテインメントを見せられたのだ、ならば同志としてはただ呆けて見ていましたと告げるのでは芸がない。
 青髭が驚嘆するような作品を作ってみたい──そう思い、キャスターが残していった幼子の腸を掻っ捌いて色々と試行錯誤して見たものの、どうにも上手くいかない。

 死なないように呪を施されているので、青髭と出会う以前、壊さないように愉しんでいた自分ひとりでは思いつきもしなかった、思いついても試せなかった諸々についても試みてみたものの、やはりしっくりと来ない。

 腹の上を滑る白銀。ぱくりと割れた先に望む臓腑の色。心臓の鼓動に合わせて蠢く命の煌き。その輝かしさは素晴らしくはあっても、いや、素晴らしいからこそ勝てないと、そう結論するしかなかった。

 これは既に芸術品。他人の手を加えてどうこう出来るものではない。完成した絵の上に素人が筆を重ねては、それは単なる冒涜だ。
 龍之介が知恵を巡らし技巧を加えてなお、この完成した芸術に勝るものを生み出せない。

「そりゃそうだ。こちとら足がけ数年程度の殺人鬼。
 向こうさんはそれこそ億年の時をずっと筆を走らせ続けている大先輩だ。ああ、そりゃ勝てねえ……そりゃ無理だよ」

 まさしく匙を投げるが如く手にしたメスを後方へと放り、からんと大地を滑った後、闇より湧き出たかのような威容の足元で止まった。

「ああ、旦那。おかえ……り?」

 ぬう、と身を乗り出して龍之介の隣へと歩み出たキャスターの双眸、ぎょろりとしたその瞳が憎々しげに、忌々しいものを見てしまったと歪んでいた。そしてその奥底には、かつて求めたものと遂に出逢えたという歓喜もまた綯い交ぜになっていた。

「……旦那? どしたの?」

 遠見の水晶球では音までを拾えない。故にキャスターと黄金のサーヴァントのやりとりについて龍之介は関知するところではなかった。

「リュウノスケ……」

「ちょ、旦那顔近いって!?」

 がしりと肩を掴まれ瞳の奥を覗き込むように間近に顔を寄せられて流石の龍之介も動揺する。そしてその動揺を更に揺さぶるかのように、青髭は滂沱の涙を零し始めた。

「リュウノスケ……おお……おお……私は遂に巡り会った……どれだけの悪徳を積み重ねてなお我が前に現れなかった彼奴が、遂にその姿を現したのですッ!」

「え、ええと……その言い方じゃあ旦那の彼女じゃないんだよな……えー、じゃあどこのどちら様?」

「神ですッ!」

「え……?」

「疑うのも無理はない。信仰の薄れたこのような世界だ、貴方もまた神の存在など信じてはいないのでしょう」

「いや旦那、神さまはいるでしょ?」

「え?」

「え?」

「…………」

「…………」

 互いの間に横たわる認識の齟齬について、青髭は僅かに首を捻った後、こう言った。

「生前、私は貴方が行って来た悪徳など及びもしない涜心を積み重ねた。我が聖女の信仰を、敬虔を、まるで無にした神に問う為に。
 罪に罪を重ね、悪に悪を上塗れば、いつかその暴挙を見兼ねて我が前に現れるものと」

「…………」

「しかし神は終ぞ私の前には現れなかった。我が大罪に裁きを下したのは人間の欲得……私の悪逆を善性により止める為ではなく、私の所有していた富を奪う為に、彼らは私を捕らえたのです。
 私はその時確信した。この世に神などいない。故に彼女は神に見捨てられ、人の悪意により殺されたのだと」

 それでも心の何処かでは信じていたのだ。
 神は在って欲しい。
 神は在らなければならない。
 でなければ──その信仰に身を焼かれた彼女こそが救われない、と。

「そして私は遂に見つけた。あれは神の如きものではあっても神そのものではないのかもしれない。しかし私と愛しの乙女との邂逅を阻むそれを神の試練と呼ぶのならば、あれこそが神の使徒に違いないと」

 聖杯に約束された聖処女の復活。
 我が身との邂逅を果たす為の永劫の時を超えた逢瀬。
 その巡り会いを邪魔するものが、神の試練でなければなんだと言うのか。

 故に神は在る。
 かつて存在しないと断言したものは、今此処にその姿を現したのだと。

 このジル・ド・レェとジャンヌ・ダルクの邂逅を阻む為に。
 青髭の唯一の願いを、今一度踏み躙る為に。

「その上で問いましょうリュウノスケ。何故貴方は神の存在を信じるのです? 信仰もなく奇跡も知らぬ貴方が、何故そのように迷いなく神の存在を肯定できるのです?」

「そんなのは簡単だよ旦那。だって神さまってのはこの世界を作った奴の事でしょ? ならそいつは確実にいるし、今も俺達を何処かで見てるよ。
 自分の造った箱庭で起こる喜劇と悲劇。感動と慟哭に溢れたスペクタクルなストーリーをずっとずっと見続けているんだ」

 銀幕の中ですら起こりえない、この世界にだけ溢れる奇なるもの。それが人の采配では為し得ない、神の御業と呼ぶべきものなら、ならば当然神はいる。
 そして自分の造った世界の中で起こるヒューマンドラマを百年、千年、万年の間見続けている。

「だってそれにほら、見てくれよ。この血の鮮やかさ、決して人に出せる色使いじゃないだろ?
 神さまの仕業さ。人間が血や腸に惹かれるのだってそりゃ仕方ないよ。こんな色──俺は人の血を見るまで、あるなんて知らなかったんだ」

 龍之介が快楽殺人に走った事の発端はその鮮やかさを知ってしまった事に尽きる。もっと色鮮やかな血が見たい。もっともっと。血色よりもなお血玉の如き赤を探して、龍之介は人の中身を覗いてきた。

 神の造り出した芸術。人の手の入る余地のない至玉。

 ああ、ならば神さまはきっと最高のストーリーテラー。
 喜劇も悲劇も感動も慟哭も、全てを自ら手掛ける超一流のエンターテイナー。

 人の数だけ物語があり、その全てに少しずつ、神さまの色が宿っている。
 世界の全てが人の手では為し得ない奇跡で描かれ、同じように色鮮やか。

 ──だからきっと、この世界は神さまの愛に満ち溢れている。

「旦那が神様の試練を見つけたんなら、こっちも見返してやろうぜ。エンターテイナーはアンタだけじゃないんだって。
 自らを至高だと信じて疑わないマス掻き野郎に一泡吹かせてやろうぜっ!」

「……リュウノスケ」

 それは神という至高の存在を認めながら愚者と同列に置くという矛盾。崇拝も礼賛も悪逆も冒涜もまた同じ。全ては神様への祈りであり反逆。神の悪辣さを認めながら、その崇高さをも認めている。

 青髭にとって龍之介の信仰はまさに瞠目に足るものだった。己が神を憎むのも、同時に神の存在を願ったのも、全てはその掌の上。神は青髭を道化と笑い、そして青髭もまた神を道化と笑うべきだ。そう龍之介は言ったのだ。

「クク……クハハ……クハハハハハハハハハ…………!!」

 これ以上はないという大声を響かせ、腹を抱えて哄笑する青髭。

「ああ……ああ……なんと素晴らしい事かリュウノスケ。流石は我がマスター、この不肖の身では考え付きもしなかったその信仰の形……恐れ入った」

「いやぁ、そんな大層なもんでもないけどね」

「この青髭、ならば我がマスターの信仰に沿い、神への反逆を行うとしよう。無論それはただの悪逆では詰まらない。
 何処までも鮮やかに。何処までも華やかに。世界の全てを睥睨する神が、私だけに注目する──そんなオペラをご覧頂こう」

「お、旦那ッ! 今度はもっとスゲェでかい事やるんだね!?」

「ええ。何か要望があれば賜りますよ? 私では思いも浮かばぬアイディアがあれば是非賜りたい」

「うーん……」

 そう言われて頭を悩ませても龍之介には思いつかない。つい先程神さまへの敗北宣言を行ったばかりの身だ、それに対抗しようなんて案は当然にして浮かばない。

「アイディアつーか要望っつーか……お願いみたいなもんでもいい?」

「ええ。私の心に光を齎してくれたリュウノスケの願いを叶えるに否はありませんとも」

「じゃあさ、俺は──この世でもっとも鮮やかな色が見たい」

 それが龍之介の心よりの祈り。この世界でもっとも美しいと尊べる色。誰もが知らぬその彩を知りたいと、龍之介は口にした。

「ま、漠然とし過ぎたお願いだからそこまで気にしなくていいよ。旦那が魅せるオペラにも期待してるからさ」

「ふむ……もっとも鮮やかな色、ですか」

 この青髭にとってもっとも美しい色とは、聖処女の身を覆うあの鮮烈なる輝きだ。あの輝きに目を焼かれ、一生を捧げる覚悟をした。あの光をもう一度見たい──その為だけにこの身は聖杯戦争に馳せ参じたのだから。

「貴方の言うもっとも鮮やかな色が私のそれと同じであるのなら……可能かもしれません」

「ホント!? 旦那ってばマジクールだぜ!」

「私はあの輝きよりも鮮やかな色を知らない。仮にリュウノスケにとっての一番ではなくとも、一度は見ておくべき光には違いない。
 ですがまずは我が舞台を演出しましょう。神の試練を超えなければ、その光を垣間見る事さえ出来ないのでね」

 その前祝に、少しばかり愉しみましょう──そう言って、二人は腹を掻っ捌かれたまま放置されていた幼子へと視線を移す。

 此処に狂気は結実した。
 神を遇する歓待を以って、その試練を踏み越えよう────


+++


 そして現在。

 闇に没する未遠川上流。街の明かりの届かない川面の中心で、己が宝具を開帳してキャスターは術式の構築を進めていた。

 周囲をさざめく戦の気配。遠く冬木大橋の向こう側で既に戦端が切られている事を知っている。しかしその場に乱入するのは芸がない。神を魅せようというのであれば、まずはこの戦いに招かれた英霊どもを魅せなければなるまい。

 誰もが目を離せぬ歌劇の舞台。それを作り上げてしまえば、後は勝手に役者が集おう。そしてその舞台の上でこの身は最上の悪役を演じるのだ。
 神を貶し、貶め、足蹴にするも等しい悪逆を尽くす化身として。ならば当然にして敵方は正義の味方。悪を討つべく闇夜を斬り裂く光だろう。

 ああ、それは素晴らしい。
 神に仇名す闇色を、神の走狗たる光が相手取る。

 古代より使い古された勧善懲悪。
 故に王道たる物語。

 しかしそれでは芸がない。それだけでは、天上で我らを見つめる神の心を鷲づかみにするには些か足りない。

 ならば当然にしてその常道を外さねば。神の走狗は光ではなく、真の光と闇が出逢う邪魔をする悪意。神の名を騙った偽者だ。

 そんな偽者を駆逐して、闇は遂に光と再び巡り会う。
 彼女の前で、この膝を折るのだ。

 ──お迎えに上がりました、我が姫よ。

 そう傅き、彼女の手をとって口付けをするのだ。

「ああ、そうとも。この程度の台本ではまだまだ稚拙。神の眼を釘付けにするには物足りない。しかし──」

 役者が至高。

 たった一人──聖処女ジャンヌ・ダルクの輝き一つで、その舞台は絢爛豪華な歌劇場へと変貌する。

 それほどの光。それほどの輝き。このジル・ド・レェが死してなお恋焦がれる光であるのなら、神もまた直視せざるを得まい。
 そして泣き咽べ。己が如何に美しい光を見捨てたのかを。彼女の信仰を無為に落としたその下賎を悔いながら、神もまた彼女に平伏するがいい──

 キャスターの総身を覆っていく魔力の渦。異界より招かれし怪魔共が渦巻き蠢きその肢体を覆い尽くしていく。
 彼の手にする強大な魔力炉であり独自の術式を行使するスペルブックの能力を最大限に引き出し、その制御をすら厭わず異界の邪神を喚び招く。

 やがて未遠川に聳え立つは、かつてこの川に調伏された筈の龍神の如き威容。冬木大橋の高度を裕に越える巨大さを誇る大海魔。

 それは既にキャスターの手を離れた怪物。キャスターからの魔力供給で今なお現界を保っていても、これほどの規模、巨大さを維持しきるのは相当の困難だ。
 いずれ限界に達し、自力で餌を求めて街を彷徨い始める事だろう。既にこの地に集う英霊達も大海魔の存在に気が付いている筈。

 ならば後は時間との勝負。
 この怪物が街一つ飲み込むのが早いか。
 英霊達がこの身を討つのが早いか。

 微かに残った理性を総動員し、キャスターは開幕を告げる歌を言祝いだ。

「さあ──これより物語るは、と或る一人の騎士と聖女の物語……彼と彼女が、死したその後に再び巡り逢う恋物語」

 篤と御照覧あれ。

 













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