Act.08









/1


 夜霧を引き裂く白銀の風が吹き抜ける。

 住宅街でのアサシンの足止めを突破し、雑木林を文字通りに飛び越えながら、セイバーは遥か遠方に聳える威容を見て取った。

「っ……なんだ、あれは……!」

 裕に数百メートル以上離れていてなお感じる強大な魔力の波。身を凍らせる夜気を熱砂舞う砂漠の風に変えるほどの濃密な魔の気配。
 常軌を逸し、それ故に異常。あんな化け物がその姿を現しては神秘の隠蔽も何もない。幾ら人気のない真夜中とはいえ、完全な無人ではないのだから。

 そしてあれほどの魔の恩恵に、何一つ知らない一般人が中てられたらどんな結果を齎すか分からない程の愚か者が、分かっていながら行える狂人がこの聖杯戦争に紛れ込んでいるらしい。

 これまで出逢ってきたサーヴァントではない。ならばあの怪物を使役しているのは未だ見ぬ敵──キャスターに他ならない。

 あれは倒すべき敵だ。このまま野放しにして済むような危機ではない。人目に付くだけでは飽き足らず、あれはいずれ街を呑み込む。
 キャスターがどれだけ大量の魔力を内包していたとしても、一人の魔術師だけで到底維持できる規模の怪物ではない。

 腹が空けば手当たり次第に魔力の源を求めて動き出す。倒すのなら今。この手にある聖剣の輝きを以ってすれば、あの怪物とて一撃の下に消し去ってしまえよう。

「しかし──まずは……」

 マスターとの合流を果たさねば。如何に切嗣がこれまでセイバーとの交流を断ってきたとはいえ、あんなものが顕現した以上は是非もない。必要があるのならこちらから幾つかの提案も辞さない。

 幸いにしてセイバーの最大の危惧であった、自身が足止めをされていた間にマスターが窮地に陥ったという事態はなかったようだ。火急を告げるシグナルもなければ、今現在もマスターの存在を知覚出来る。

 故にまずは合流を。そして然る後に対策を立てなければ。

 跳躍というよりも飛翔というべき時間を空で過ごし、見事な着地と共にセイバーは海浜公園へと帰還した。

「これは……」

 しかしその場にマスターの姿は既になく、戦闘を行った痕跡として焼け焦げた大地だけがその凄惨さを晒していた。

 これほどの戦いを経てなお切嗣が無事であった事は安堵すべき事だが、ならば彼は何処に消えた。

 それほど遠くない場所に気配を感じていても、その詳細な場所までは掴めない。闇雲にマスターを捜す為に駆け回るか、マスターの判断を仰がず単身であの怪物の下へ向かうか。その決断を決めあぐねている間に、

 ────ソレは、いつの間にか其処に存在していた。

「…………ッ!? 貴様は……!」

 闇。そうとしか形容できない、されど人の形。溢れる魔力の渦は正体を包み隠し、僅かに垣間見れるのは黒い甲冑と爛々と輝く赤いスリットのみ。セイバーの剣を覆う風王結界と同等かそれ以上の隠蔽を為す不詳の能力。

 加えてこのサーヴァントには本来バーサーカーには備わらない筈の技巧を有している。アーチャーを相手に撃ち出された宝具を掴み取り奪い、自身のものとする異能を以って拮抗した。

 それだけならばまだ救いはあった。狂戦士として異常の枠にあっても、それだけならばまだ如何様にも対処法はあった。

 だがこのサーヴァントは……
 バーサーカーの剣技は……
 この男の正体は……

「……口の利けぬ輩に問うのは無意味ではあるが、あえて言わせて貰おう。今、この場で私達が戦う事はあの怪物を見てなお優先されるものと言えるのか」

 未遠川上流に聳える大怪物。その出現から既に数分、もしかしたら既に一般の市民の目に留まっているかも知れない。セイバーが海魔を危惧したのと同様、他のマスターやサーヴァントも同じく怪物を最優先討伐の対象に据えている筈だ。

 しかしこの理性なき狂戦士だけがあの威容よりもセイバーを討つべくこうして立ちはだかっている。

「私の言葉を解すだけの理性が御身に残っているのなら、どうかこの場は引いてくれ。まずはあの敵をこそ討つべきだ」

 それは英霊として正しい形。この一時に限っては聖杯を賭けた死闘という名の戦争もまた形を失している。大海魔はこの戦いの根底を揺るがしかねないもの。明確な悪と断じられる存在。

 ならば世界に祀り上げられた英雄の一騎として、その矜持に則り世界を侵すあの悪意を打倒しなければならない。

 そう口にしてセイバーは自嘲の笑みを釣り上げる。
 この私が、誇りを蔑ろにしてでも叶えたい願いを持つこの私が、そんな上辺だけの綺麗事を口にした事自体が嘲笑に足る。

 その綺麗事の底に蟠る闇は何だ。目を背けている汚泥の正体は何だ。決まっている──セイバーは、このサーヴァントと戦いたくないのだ。

「ァァァァァァァアアアアアアアアア……!!」

 走る狂気の具現。セイバーの言葉になど耳を貸さず、花壇を囲う鉄柵を引き千切り、自らの宝具に変えて疾走する。
 対するセイバーもまたこの強力なサーヴァントの目を盗み大海魔の下へ向かう事は困難と判断し、迫る暴風を迎撃する為剣を構えた。

「アァ────!」

「────はぁ!」

 弾け飛ぶ火花。
 夜の闇を焦がして幾重もの火の花が咲き誇る。

 アインツベルンの森での戦いでは気圧されたが今は違う。如何に強力な能力を持ち、他を圧倒するステータス値を誇ろうとも、それが『見知った』相手の剣戟ならば、捌けぬ道理がない。

 森で不覚を取ったのはその事実が逆に作用した為。この狂気がセイバーの良く知る騎士であって欲しくないという無様な嘆願ゆえの失態だ。

 そんな愚にも付かない願望は既に捨て去った。最後の希望を込めた先の言葉も、狂乱の檻に囚われたこの騎士には届かなかった。
 ただ負の想念を鎧に満たし、自らの憎悪を覆い隠すもの。剣戟に込められた復讐の狂気は辛辣な重さとなってセイバーに降りかかるが、それでもこの剣を折るには値しない。

 十、二十と剣を重ね、それでなお共に致命に至る一撃は被らないし与えられない。互いの手の内を知っている。何処から剣が来るか身体の芯が理解する。生前より速くとも軌跡が同じなら対処は容易。見えぬ剣とて意味を為さず。

「……そのような闇で己を覆い尽くすとは、貴公らしくもない」

 剣と剣とがぶつかり合う狭間、覚悟を決めたセイバーは敵に向けて言葉を発する。

「かつての清廉な剣戟はどうした。最強を謳った剣の冴えが濁っているぞ。あの威風を纏いながらに涼やかだった面持ちを、何故隠す。
 そのような闇に隠れず、己が心を打ち明けてみせよ──湖の騎士(サー・ランスロット)!!」

 繰り出された一撃を全力で撃ち払った直後の大上段から必殺の太刀が闇を払う。
 間一髪、身体の軸を後方にずらした狂戦士の身体には傷はつかず、けれど風の刃が素顔を覆い隠す兜に亀裂を刻んだ。

「それは貴方も同じだ無謬の王(キング・アーサー)。貴方の剣もまた、迷いが見える──!」

「…………っ!?」

 セイバーの驚愕は底知れないものだった。狂気に侵されたが故の狂化能力。それは理性を剥奪し言語を失う代償に力を得る筈のもの。それが今、心に渦巻く闇に囚われながら、この狂戦士は言葉を解し、そして発したのだ。

 あまつさえ繰り出された一撃は最強の一振り。宝具化していた鉄柵を放り捨て、自らを覆う闇をその右手に集め束ねて一振りの剣と為した。

 当代最強の剣士のみが振るう事を許された剣。セイバーの担う聖剣と同じく湖の貴婦人より賜れた神造兵装。彼の聖剣が星の輝きを束ねた剣ならば、この剣こそは水面に映える月の雫を凝縮した剣。

 その軌跡は鮮やかに。
 決して毀れる事のない、月の輝きを束ねた聖なる剣……

 ──其の名を無毀なる湖光(アロンダイト)

 今は憎悪に焼かれた担い手に呼応するかの如き魔性を帯び、聖剣としての格を失し魔剣として顕在していても、その切れ味には微塵の衰えもなく。

「くっ……!」

 狂戦士が言葉を発した事に対する一瞬の驚愕、そして狼狽を衝くが如く振るわれた魔性の剣。必死の後退を以ってしても完全には避けきれず、セイバーはその頬を僅かに血で染められた。

 同時、バーサーカーの面貌を覆っていた兜が割れ地に落ちた。その貌にかつて遍く女性を虜にした甘いマスクは見る影もなく、狂気と復讐、負の想念によって歪められた赫怒の色が宿っていた。

「お久しぶりです我が王よ。幽世の果て、時の彼方にてこうして巡り会えた事、真に光栄の極み」

「……ランスロット……貴方は……」

「ああ、狂化していながら理性を保っている事が不思議ですか? それは恐らく召喚の際の不手際……いえ、こうなる事を狙って行われたもの。故に私にはその理由など分かりませんし、実のところどうでもいい」

「…………」

「どうしても問い質したいのなら我がマスターに問うて欲しいところですが、彼は既に私の中で息衝くのみ。その声を聞き届ける事すら叶いませぬ。
 ただ私はこの状況を喜ばしく思います。狂化しながら理性を保てた事。御身がこの戦に招かれた事。その全てが私にとっては至福なのです」

 胸に渦巻く狂気に囚われながら、こうして生前仕えた王に──復讐の対象と言葉を交わせる事が嬉しいと、完璧と謳われた騎士は口にする。
 そこに彼の生前の生き様を見る事が出来ない。遍く騎士達の理想の権化、崇拝にも等しい礼賛を浴びた男の影など何処にもなかった。

「狂化せねば為し得なかった復讐……なれどただ暴力で押し潰してしまっては余りにも呆気がなさ過ぎる。故に王よ、どうか我が祈りを聞き届けて欲しい」

 今の彼は後世、汚名を被り侮蔑の対象となった裏切りの騎士そのものだ。

 王の妃と不義を交わし、円卓に連なる者達を斬殺してまで一人の女を救おうとした背徳の騎士。理想の王の治世に修復出来ない亀裂を刻み込んだ、円卓を引き裂いたにも等しい堕天の騎士。

「恥を忍んで申し上げる──我が王よ、どうか御身の剣で我が罪を裁いて欲しい」

「なっ……!?」

 幾度目の驚愕だろうか、セイバーにはもう分からない。

 何故この騎士はそんな事を口にする。その身が復讐という狂気の表れであるのなら、その言葉は真逆だろう。罪を裁くのは汝の剣であり、裁かれるべきはこの不肖の王だ。この男にはそれを為すだけの理由があり、為していい権利がある。

 セイバーとて簡単に胸に秘めた祈りを折る事は出来ないが、それでも復讐という名の後悔を受け止める腹積もりであったのに。

 狂気に囚われてまで復讐を果たしたかった筈だ。かつての涼やかな佇まいを金繰り捨ててまで渇望した筈の呪詛の如き怨念だった筈だ。それをこの身は受け止めなければならないと覚悟したというのに。

「何故だ……何故貴方はそんな事を言うのだ? 貴方の復讐の対象は私だろう、ならばその剣を突き立てるべきは我が胸だろう!? それを……!」

「ただ狂気に囚われていたのなら、あるいはそうだったかもしれませぬ。しかし今、この身には刹那にも等しい時間と言えど理性が灯っている。
 それにこれは充分に貴方に対する復讐でありましょう。何せ理想の王である事を望まれた貴方に、私情で剣を振れと強要しているのですから」

「…………っ」

「しかしそれでは貴方の心も晴れはしないでしょう。どうせこの身は器の壊れた砂時計。今も我がマスターの肉体は悲鳴を上げ、苦痛に苛まれている。
 故に残された限りある時間、どうか手合わせをして欲しい。この命尽き果てるその時まで貴方と語らいたい」

 ──それが私に残った最期の祈りです。

 そう告げて、裏切りの騎士は手にした魔剣を構えた。

「サー・ランスロット……貴方は……」

 そのような身に堕ちてまで、なお心の奥底に清純なる輝きを灯しているのか。理性がなければ身を任せられた狂気になお抗い続けるのか。

 それは復讐と呼ぶには余りに狂おしく、そして切ない祈り。たった一欠片残った理性を握り締め、憎悪の形を歪めている。
 その影にチラつくのは理想と謳われた騎士の姿。王の傍らに常に在り続けた理想の騎士の姿だ。

「……いいだろう」

 今この時、この場でこの男を超えねばセイバーの理想は遂げられない。この男の闇から目を背けては、この先常に胸に痛みが蟠る。

 頭の片隅に燻っていた遠く聳える威容の姿を完全に消し去り目の前の敵手にだけ意識を向ける。他の何かに囚われて、越えられるほど楽な壁ではない。
 眼前の敵手はセイバーが知る限りにおいて最強の剣士。太陽の加護を得た彼の騎士(サー・ガウェイン)とすら真っ向から拮抗出来る馬鹿げた実力の持ち主だ。

 円卓最強。王を差し置いてその名を欲しいままにした騎士が、更に狂化されているとすればその実力たるや考えるだに恐ろしい。
 それでも超えなければならない壁である。生前に残した悔いの一つが、こうして亡霊となってまで立ちはだかったのだから。

「ランスロット。ならば私も貴方の剣に王として応えよう。それがこの身に許された、王としての責務であると受け取った」

 鋼の心を再び纏う。揺るがぬ意思、鋼鉄の決断力で国を治めていた理想の王が此処に具現する。ただ一振りの剣ではこの男の迷いを断ち切れない。
 騎士がその胸に刃を突き立てて欲しいのは、セイバーではなく王であるアルトリアだろうから。

「王としての責務……なるほど、それが御身の剣に感じられた迷いか」

 ならば当然にして応えるのは狂戦士ではなく理想であり裏切りの騎士の剣。生前語り尽くせなかった言葉をただ剣に乗せて語らおうと、黒き刃を突きつける。

「……少し変わられましたか王よ。生前の貴方から感じられなかったものを感じます」

「自分では分からない。ただ一振りの剣である事を望まれたから、そう振舞っているだけなのかもしれない」

 王としての頑なさは形を潜め、主の意に沿う為の剣となった。それが変化と呼べないほどの微々たるものであったとしても、生前を知る彼から見れば何かが違って見えたのかもしれない。

「──では我が王よ」

「ああ、来いランスロット。御身の負の想念、我が身一つで受け止めてみせる──!」

 聖剣と魔剣がその魔力の高鳴りをより強大なものへと変えていく。

 降り頻る雨。
 しかし消せない熱を帯びた二人の前に、雨粒など視界にすら入っていない。

 此処に理想の王と理想の騎士とが激突する。
 生前果たされなかった想いを、共に剣に乗せてぶつけ合う為に────


/2


「……こりゃまたどえらいのが出てきたな」

 未遠川遥か高空。

 神威の戦車を駆る征服王イスカンダルとそのマスターであるウェイバー・ベルベットは突如川面に現れた威容に目を奪われていた。

「な、な、何なんだよあれっ!? あんな怪獣がこんな街中に居座ってちゃ神秘の秘匿も何もあったもんじゃないだろっ!?」

「キャスターか。ちっ、もう一足早ければこんな所業を止められたというのに」

「…………」

「ん? おお、別段貴様を貶めておるわけではない。むしろ良くやった方だろう。キャスターの根城を潰し捕らえられていた幼子達を救出し、監督役に通報した。充分に誇るべき成果であろうよ」

 キャスター討伐令が出された今朝方よりウェイバーはこの奔放な王を御する為の追加令呪を欲し、調査を行っていた。

 街の中心部を流れる川の水に試薬を用い、魔力の痕跡を探り出す。ウェイバー曰く下策であるその手段で、確かにキャスターの根城であった上流に位置する下水道内の工房を発見する事が出来たのだ。

 ただタイミングが悪かったらしく、工房の中には犇く海魔と弄ばれた幼子達の亡骸。そして牢の中で震えていた数名の無事だった子供らだけであった。

 工房の主もそのマスターの姿も影も形もなく、捕らえられてなお生き延びていた幼子達を見捨てるわけにもいかず、監督役に通報する事で無事に保護する事が出来た。

 赤毛の王が言うとおりそれは充分に誇るべき成果、大金星だ。キャスターを放置し他のマスターを罠に掛けていた切嗣の所業を思えば魔術師として真っ当なのは間違いなくウェイバーである。

 ただそれでも悔しさは止められない。もう少し早く敵の拠点を突き止められていれば、自分に力があればと歯を食い縛るしかなかった。

「失ったものを数えるな、救ったものの数をこそ数えよ」

「え……?」

「坊主は確かにあの幼子達を救ったのだ。もし余らが工房をぶち壊さなければ、今頃あの子らもまたその犠牲になっておったやもしれんのだ」

「…………」

「胸を張れ。自らが掴み取ったものをこそ見よ。余は坊主がマスターであった事、真に誇りに思っておるよ」

「……うん」

「そしてなお誇りを得たいのならば、まずはあのデカブツをどうにかせねばなぁ。でなきゃかつてないほどの被害が出るぞ」

 キャスターがこれまで手に掛けた命など、あの大海魔の振るう触手の一薙ぎで簡単に上回ってしまうだろう。
 その暴虐を止めようというのなら、この場で確実に仕留めなければならない。今はまだ川面の上だが、あれが街に上陸してしまえばそれこそ全てが終わってしまう。

「ああ、今はあれを止めよう。で、おまえあれを止められるのか?」

「うーむ……ま、とりあえずはやってみるか」

「なんでそんな自信なさげなんだよ……」

「何でも何もありゃちぃとばかしデカすぎる。
 余の宝具たる神威の車輪(ゴルディアス・ホイール)の全力走法を以ってなお完全に仕留め切れる自信はない。それでもま、やるだけはやって見ようぞ────!」

 強く手綱を引いて戦車を率いる神牛に喝を込める。遥か高み、雲間を突き破る空の彼方より降る雷神の槌。その体言の如く、神威の戦車は稲光を纏って大海魔の横っ腹へと突っ込んだ。

「いざ馳せよ──遥かなる蹂躙制覇(ヴィア・エクスプグナティオ)……!」

 雷神の戦車最強の蹂躙走法を以っての吶喊。
 それは蠢き犇く大海魔の横っ腹に風穴を開け、開けた空へと今一度舞い戻る曲芸走破を成し遂げた。

 しかし……

「なんなんだよ……あれは……あんなのありかよ」

 ウェイバーの独白よりも速く再生を開始する大海魔。戦車による蹂躙と雷撃による二重ダメージをいとも容易く再生させている。
 それも空中で反転してからの次撃を見舞うよりもなお速い超速再生。神威の車輪が高空に舞い上がった時、既に風穴の大部分が修復されていた。

「こりゃ本格的に拙いかもな。デカイだけでも厄介だと言うのにあの再生能力。それこそあの巨体を纏めて一撃で吹き飛ばすほどの威力がなければ倒せん」

 更にはダメージを与えただけ大海魔は魔力を消費し再生する。それは無闇な攻撃は逆に上陸を早めかねないという事実を内包している。

 手を出さねば止められず、手を出してもより上陸を早めるだけ。神威の車輪ではあの異形を止める事は難しい。
 いや……足を止めるだけならば策はある。しかしそれも根本的な解決には至らない。

「どうした征服王、それが貴様の全力か?」

「おぅ?」

 遥か高空の更に上。雷光渦巻く積乱雲を背にその黄金の船はそこにあった。その中心にある玉座に優雅に腰掛けた王者は、同じ王を名乗りながらに苦戦を強いられているイスカンダルを嘲笑った。

「おう金ぴか。わざわざ余よりも更に上の高みからの御登場とは、そんなにも天辺が好きなのか」

「当然だろう、この我は天に仰ぎ見るべき存在よ。それにしても随分とあの汚物に梃子摺っているようだな」

「まぁな。そういう貴様は高みの見物をしに来ただけか? その口ぶりならあのデカブツを仕留める手段くらいは持ってそうだというのに」

「無論だとも。あの程度の小物など、かつて我が見えた獣と比べれば小さいにも程がある」

 天より遣わされた雄牛。

 夜空に輝く星座をそのまま地上に降ろすという神の御業によって遣わされた雄牛に比べれば、橋の標高を越す巨大さを誇る大海魔も霞んで見える。
 如何な超速再生も一撃でその総体を吹き飛ばされては再生する暇もあるまい。黄金の王の手の中には、それを為す至宝の剣がある。

「ならさっさと何とかせんか。あれを野放しにしてはどうなるか、分からぬ貴様ではあるまいて」

「それは貴様の言う覇道の理屈だろう。我は我だけの道を征く者。なぁ征服王、この世には雑多な塵が多すぎる──そうは思わんか?」

 黄金が君臨した世界に比べ、今の世界の在り様は変わり果てすぎている。かつては奴隷の一人でさえ貴重なものであったというのに、今の世では履いて捨てるほど人間が犇き蠢いている。

 その気色の悪さは眼窩の大海魔と何ら違いなどありはしない。人か異形か、そのどちらであってもこの黄金にとっては、

「多い──それはただ、それだけで気色が悪い」

 世界という形を歪めるほどに増殖した人間。セイバーを妻として迎え、今一度この世に君臨する事を考えるのなら、多すぎる人間は間引かれるべきであろう。

 王の統治下で生を許されるのは必要充分な数で良い。五十億も六十億も世界に犇いていては、王の眼に塵が映り過ぎてしまう。
 故に海魔が人を食い魔力を得、更により多くの人間を喰らい尽くしてくれるのならばそれもまた一興だと、黄金は謳い上げた。

「貴様……それでも英雄の端くれか」

「そう怖い顔をするなよ征服王。それにこの我を指して端くれとは随分な物言いだ。既に語った筈だぞ、我は天に仰ぎ見るべき存在だと」

 英雄達ですら見上げるべき存在──それをこそが英雄の頂点。遍く英霊達の先を征く者。

「まあ我とてアレに全てを喰らい尽くさせるつもりはない。アレが暴れ尽くしては聖杯が現れる前に戦いそのものが瓦解しかねんからな」

 かつては意義を見出せなかった聖杯も戦いも、セイバーとの出逢いにより確かに意味を得ている。聖杯に有用性があり、ならばそれを邪魔立てする海魔を野放しにしておく道理はない。

「それに────」

『令呪を以って奉る──英雄王よ、御身の至宝を用いてキャスターを誅罰せよ』

 聞こえる筈のない声を、この黄金のみが聞き届ける。

 遥か遠方、何処かからこの戦場を俯瞰しているのだろう遠坂時臣がその令呪に訴えアーチャーに絶対遵守の命を下した。

「気に食わぬな時臣よ。一度ならず二度までも……諫言ならばいざ知らず、今度は我を顎で使うとは────ハッ」

 しかしそれを良しとして、黄金は玉座より重い腰を上げた。

「ああ……これが貴様の末期の祈りであるのなら、受け入れてやるも吝かではない。貴様の臣下の礼に報いる我の下賜を噛み締め、そして死ぬが良い」

 黄金の泉が一つ、アーチャーの背後に生まれる。その泉より湧き出すは、およそ剣とも呼べぬ奇怪な刀身を持った一振りの剣。
 異様としか形容出来ないその剣を手にした直後、刀身である三つの円柱が互い違いに回転を始め、遥か高空の冷たい風を巻き込んでいく。

「なぁ……!?」

「ぬぅ……! 坊主、しっかりと掴まっておれよ!」

 足場なき無空を踏み締める神牛、そして強壮な戦車自体をも揺るがすほどの暴風。それがあの一振りの剣によって引き起こされているという事実に、ウェイバーとそしてイスカンダルが驚愕する。

「巻き込まれたくなければ離れておけよ征服王。まあもっとも、我はこれで貴様が死んだとしても一向に構わんがな」

「ふざけた事を──ええい、ちょいと荒っぽいが離れるぞ! このまま此処にいては巻き添えを食いかねん!」

 そんな無様な終わりは認められないと、赤毛の王は神牛の手綱を繰り戦線を離脱する。黄金の手にする覇者の剣の圧倒的な暴威から逃れる為に。

「さあ起きろエアよ。我自身おまえの出番などないと思っていたが、どうやらそうでもなかったらしいぞ」

 何処までも回転数を上げ、天空の雷雲をすらその刀身に巻き込み、より脅威なる死の風を吹き荒らす至宝の剣。

 それをこそが英雄王ギルガメッシュが持つ覇王の剣──名をエア。

 無銘ばかりが溢れる王の蔵にあって、たった二つだけ名を与えられた宝具の一つ。かつて世界を天と地に分けた風。神の名を冠する他を寄せ付けぬ、最強をすら凌駕する絶対の剣の名だ。

 それが今、眼窩を蠢く大海魔を消し去る為だけに振るわれようとしている。

「知っているかキャスターよ。肥大化した怪物の終わりを。いつの世も等しく、化物は英雄の手によって討たれるのだと────!」

 天が絶叫し地が鳴動する。
 かつて自らを分けた原初の風に世界が軋みの声を上げている。

 そして今再び──天地創造の伝説が、この冬木の地に具現化する。

「微塵に消え去れ、天地乖離す開闢の星(エヌマ・エリシュ)────!」

 死を運び地獄を謳う創生の風が、その真なる名の解放と共に空と大地を貫いた。


/3


「すげぇ……マジスゲェよ旦那……!」

 大海魔の生誕より数分。未遠川沿いの川縁には無数の人影があった。その誰もが天を衝く威容を見上げ、目の前の存在が信じられぬと凝視していた。
 逃げ出す者、喚き散らす者、現実逃避を始める者。皆それぞれに違いはあれど、誰もに共通しているのは、自らの目が、頭がおかしくなったのではないかと言う焦燥だ。

 だってそうだろう、彼らの日常(にんしき)にこんなモノはいなかった。居たとしてもそれは画面の向こう、銀幕の彼方、作り話の中だけだ。
 現実に、目の前に。突如としてこんな巨大で何とも知れぬモノが現れたなどと、普通の人間がすぐさま理解も納得も出来るわけがない。

 故に結論は簡単だ。己は今、夢を見ているのだ。

 そう認識を狂わせなければ彼らは誰一人として立っていられない。自らの傍らに聳える死の具現を、望む事さえ叶わない。

 そんな恐慌に駆られる人々の中、唯一人──雨生龍之介だけが興奮に目を見開いていた。

「流石だ旦那ァ! こんなの俺今まで見た事ねぇよ! もっと……もっとだ! 神さまだって見てるんだからさァ! ダンナァ! もっとド派手にやっちまえぇ──!」

 こんな現実が見たかったんだ。銀幕の中で見られる紛い物じゃないスペクタクル。

 周りの奴らを見てみろよ、何が起こったのか分からないって顔してやがる。これが現実なんだ、おまえらの知らない現実なんだ。
 神さまのオモチャ箱には、こんなにもおぞましい色が紛れている。それを探して探してようやくこの場所で見つけたんだ。

 ああ、きっとこの向こうに龍之介の望む色がある。血よりも紅く赤い色。この世でもっとも美しいと信じられる色が、この現実の向こうに待っている。

「さぁ殺してくれ! ぶち殺してくれよ旦那ァ! 殺して殺して殺し尽くして、俺の探す赤色を見つけ出してくれ!」

 歩みを始めた大海魔。
 その先に待つのは血の詰まった無数の肉袋。
 その中身をぶちまけて、紅くて赤い色を見せてくれ。
 この街を、美しい赤で染め上げてくれ。

 目くるめく殺戮と血の饗宴が、今此処に開かれたのだ。

「雨生龍之介──キャスターのマスターだな」

「え……?」

 ずん、と龍之介の胸元と貫く極大の衝撃。声を掛けられ振り仰いだ瞬間、狙い違わず大口径の魔銃より、心臓を吹き飛ばす魔弾が撃ち出された。

「ぁ…………」

 声にならない音を発し、膝から崩れ落ちる龍之介。霞んで行く視界の中で、探し求めた色の名残りを幻視した。
 待ってくれ、後少し、後少しだけでいいんだ。そうすれば探し求めた色が見られる。ずっとずっと知りたかった色が、今この手を染めている。

 しかし無情にも撃ち出される二発目の弾丸。それは龍之介の頭蓋を吹き飛ばし、思考も視界も──そして探し求めた色さえも消し飛ばした。

「…………」

 周囲より上がる悲鳴。未だ聳える大海魔よりも、彼らにとっては目の前の惨劇の方が刺激が強かったらしい。
 しかしそれも次の瞬間、天より降り注いだ赤い稲妻──エアの放った世界を分かつ断層の風が大海魔を貫く光景に、その場の全ての人間が目を奪われた。

 既に死亡した雨生龍之介と、その加害者である衛宮切嗣を除いて。

 遥か天空からの大斬撃を背に、切嗣は人知れず戦地を去る。
 この場に居合わせた人間の全てには後日何らかの対処が為される筈だ。神秘の秘匿を原則とするのなら、目撃者は一人たりとも逃すわけにはいかないのだから。

 その過程において、切嗣の所業もまた闇に葬られる。

 雨生龍之介の死亡は公表されるかもしれないが、元よりこの男は猟奇快楽殺人者。一般の市民からすれば生きていられるよりも死んでくれる方が都合の良い類の人間だ。そしてそんな記憶もいずれ風化する。

「これで残りは……後二人」

 懐から煙草を取り出し火を灯す。灰を満たす紫煙を吐き出し、風に流れ行く様を見やりながら、切嗣は迫る決戦の時へと思いを馳せた。

 後少し。ほんの少しで聖杯に手が届く。これまで犠牲にした全てのものに報いる事が出来るのだ。
 残る敵は強大だが、その全てを踏み越えて奇跡の峰へと駆け上がる。その為にこの手を血で染め抜く事も厭いはしない。

 戦場を去る男の背に灯る決意の炎は、揺るがぬ意思をも宿していた。


+++


 天より降る紅の稲妻。その風に身を切り裂かれながら、キャスターことジル・ド・レェは思った。

 これをこそが神の雷槌。
 古代、人々が恐れを抱いた神鳴だ。

 神への挑戦だと書き上げた稚拙な台本。しかし至高の役者が舞台に上がれば、それで全てを覆せると信じていた。
 なんという楽観。どうしようもないほどの茶番。役者に頼った拙い演出ならば、当然にして役者が舞台に上がらなければ意味を為さない。

 彼が求めた至高の光は、未だその姿を舞台上に現す事無く。このジルとの邂逅をすら果たせていない。

 我が愛しの乙女は何をなさっておいでか。このジルの作り上げた芸術程度では、御身の心を震わせる事すら出来ないのか。
 そんな嘆きも遂には届かず。光は彼を見ていない。彼は光を見誤っている事にすら気付いていない。

 自らの内部を渦巻き裁断していく断層の風。巨大な海魔の肉を微塵に砕きながら、その風は大地を目指し駆け下りていく。

 なんという機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)。認めた台本の全てをただの一撃で無為に落とす、まさに神の鉄槌。全てをなかった事にせしめる、無情の陣風。

 ────ああ、なるほど。神は私の脚本を、御気に召さなかったか。

 役者が良ければ芝居は至高。

 しかして神は自らを至高の役者と謳う道化であるのなら、彼にとってこの結末は誇らしい終わりであり。ジルにとっては嘆きに咽ぶ他のない終わりであった。

 神が真のエンターテイナーであるのなら、御自ら舞台に上がる事を、想定すらしなかったこの不肖の身の破滅は最初から決定付けられていたも同然だったのだ。

「ああ……せめて……」

 せめてこの身を貫いていく風が、彼女の光であったのなら。
 私はその終わりを愛する事が出来たというのに。

 そう、ジル・ド・レェは神への復讐ではなく、乙女との再会でもないものをこそ望んでいた。

 かつて彼女と出逢った日──宮廷で初めて彼女の尊顔を仰いだ瞬間、この心は焼き尽くされた。余りの輝きに。これまで怠惰に過ごしてきた自らの生を恥じ入らねば顔を向ける事すら出来ない、その光に。

 その時より決めたのだ。この身は彼女にだけ尽くすと。我が生涯は彼女と共にある事こそが誇りであると。

 オルレアンでの戦い。領土の奪還。ランスでの戴冠式。アルス・ノヴァの奏べと共にステンドグラスより降り注ぐ淡い光。白く輝き降り注ぐ福音──その中でさえ、私は彼女を見つめていた。

 私は彼女に恋をした。
 叶わぬ恋慕を抱いていた。

 そう──私はただ、あの彼女(ひかり)に、この身を抱き締めて(やきつくして)欲しかったのだ。

 その最期に。
 自らの求めたものを見つけ、そして終ぞ叶わなかったその祈りを胸に秘めたまま、救国の英雄──ジル・ド・レェは原初の風の中に消え去った。


/4


「何故貴方はあの時、この身を裁いてはくれなかった!」

 慟哭を乗せた斬撃。心の内より湧き出る嘆きを言葉と剣とに込め、湖の騎士ランスロットは問い質した。

「裁く理由がなかったからだ。あの時既に円卓には亀裂が走っていた。国を守る為、民を守る為、内に敵を抱え込むくらいならば、貴方と共に出奔してくれる方が良いと判断した。それだけの事だ」

 それに答えるのは無情の声。そこに人らしい感情はなく、ただ国を利する為の選択だけを行う王という名の機構だけがあった。

 元より彼女は望まれて王となったわけではない。前王の実子なれど、その身は婦女子。王の選定を行う際も未だ年若い少女に過ぎなかった。

 誰も抜けなかった選定の剣を引き抜き、王権を手に入れた。それでも騎士達は認めなかった。たかだか剣を抜いただけの者に、王が務まるものかと誰もが思った。魔術師の支援を受け玉座に着いた後も騎士達の疑惑は払拭されなかった。

 だから彼女は私情を殺した。誰もが認めざるを得ない完璧な王、理想の王である事を自身に課した。

 幾度の戦いを経て不敗。老いる事のない神秘を宿す少年王。国を守り、民を守り続ける限りにおいて、騎士達も渋々ではあれど王を認めていた。

 されど些細な行き違いは徐々にその溝を大きくしていった。募る内心の不満は、彼の裏切りの騎士の誕生と共に炸裂した。

 目に見えてはいても誰もが目を逸らし続けた王と騎士との行き違い。その間に横たわる認識の齟齬。騎士は民を犠牲にせずとも国を守る事など易いと言い、王は万全を期す為に最小の犠牲を是とした。

 私情を殺し王として振舞う彼女と、私情を圧し王に忠誠を誓う騎士。

 軋轢は当然で、犠牲もまた同様。王が完璧であるが故に、人でしかなかった彼の騎士は吼えなければならなかったのだ。

「では王よ、この身を朋友と呼んだ事すら、ならば国政の為の空言と謳うのですか……!」

 熾烈を極める黒の斬撃。受ける白刃は逆巻く風の防壁を以ってすら凌ぎ難いとぎちぎちと軋む。

「王の為、国の為と自らの身を差し出した彼女の犠牲を、その影で流れた涙を当然と受け入れられるのですか……!」

「無論だランスロット! 王は国の為にあり、騎士もまた国を守る為の礎。ならば王妃とて同様。理想の王の傍らには理想の妃が必要で、そうであれと望まれるのならばそれは必要な犠牲だッ!」

「アーサー王ッ!」

 鍔競り合う聖剣と魔剣。
 清廉なる風と黒く淀む霧。
 手にする二人の面貌もまた対照的だ。

 王は無情に剣を握り、騎士は私情で剣を執る。

「彼女一人の涙で民が理想とする王の形が完成するのであれば、それは必要な犠牲だ。それでも私は王として彼女を愛そうとしたし、愛していた。王と王妃という形でしかなかったかもしれないが、その言葉には偽りはない」

「…………」

「彼女を壊したのは他ならぬ貴方だろうランスロット。理想と理念という細い糸で繋がれていた我らを引き裂いたのは貴方の愛だ。身を焦がすほどの熱情を知りもしなかった彼女に人並の感情と愛情を教えたのは貴方だ」

 王妃ギネヴィアは幼少時より自らを省みない人生観を培われ育ち、自身が女である事や男女の性差などに関心を持つような人ではなかった。
 ただ単純にアルトリアの在り方を崇拝し、敬愛し、憧憬しその生き方に倣おうと務めた。

 しかし彼女はそれでも人だった。アルトリアのように民に望まれる完璧な存在にはなれなかったのだ。

 そうして涙に暮れる彼女に恋をした騎士がいた。理想と謳われ、騎士道の体現者と賞賛され、多くの騎士達の夢として存在した完璧なる騎士。

 王の理想に賛同し、国を守る為に身を粉にし、自身もまた騎士の理想で在り続けた男。それでも彼もまた人だった。騎士という生き方に縛られながら王妃を愛してしまったのは、偏に彼の弱さゆえだ。

「どれだけ多くの民を守れようと、国の平穏を維持出来ようと、愛した女一人救えなかった私が理想などと謳われる資格がない。故にこの身は裏切りの騎士。王の理想を砕き、彼女の涙さえも止められなかった唯一人の愚者だ」

 それゆえに狂気に身を委ねようとした。騎士としてでも男としてでも人ですらなく、獣としてならば王に牙を向けられると。

 それが何の間違いか、狂気に侵されながら理性を灯していた。今にも消えそうな火でありながら、それでも煌々と燃えている。それはさながら、蝋燭が燃え尽きる最後に見せる火花のように。

「……やはり貴方は王なのですね。その強固な意思と何物にも動じない鋼の心で、国を導いた」

「…………」

「だから私は、今一度貴方にこう言いましょう──アーサー王は、人の気持ちが分からないッ!」

 セイバーは全霊を込めた斬撃を受け止め、地滑りするほどの衝撃に耐え抜く。

「私の心と彼女の想いを、そんな理屈で語らないで頂きたい! 誰もが貴方のように完璧だったわけじゃない……理想と謳われたこの身でさえ、一皮剥けばこのように、おぞましい憎悪を渦巻かせている!」

 ランスロットの身体より溢れ出すは憎悪の形。黒い魔力の霧は行き場をなくして周囲を漂い、やがて彼の手にする剣へと呑みこまれて行く。

「貴方には人の苦悩が分からない……行き場のない想いをぶつけたいという憎しみ。全てを金繰り捨ててでも手に入れたいという願い。誰かを想う心を、御身は宿していないと言われるのですか」

「……ああ。個人を想う事、それは王の仕業ではない。王は国を想い、民を想う。ただそれだけでいい。誰か一人を想ってしまえば、王という機構は瓦解する」

 王は理想であり民にとっての偶像。平穏を維持し国を守るだけの防衛機構。その中に生きる民一人一人を想う気持ちはない。それら全てを想ってしまえば、王は王としての機能を果たせなくなる。

 だから必要のないものを削ぎ落とす。国に仇名す者ならば、たとえそれが朋友と呼んだ者であっても斬り捨てる。湖の騎士を斬り捨てなかったのは先にも述べたように彼の離反で円卓の膿を切り取れると判断したからだ。

 王妃と騎士の不義を暴き、円卓を乱した者。王の玉座を簒奪しようと汚点を暴こうとしたその時点で、既に円卓には消えない亀裂が刻まれていたのだ。

「ランスロット。貴方の離反は確かに決定的な亀裂を刻んだのかもしれない。しかしそれより以前から、既に国の崩壊の芽は芽吹いていた。国を維持する為の王という機構でしかなかった私は、それから目を背けていただけだ」

 望まれぬ王。ならばその終わりは必然として決定付けられていたもの。どれだけ完璧であろうと、完全であろうと、真実として望まれていなければ──そんな王は、最初から必要なかったのだ。

「貴方の憎しみは理解した。彼女の涙の為に剣を執る貴方を責める事は出来ない。それは今も昔も変わらない」

「王……」

「だがそれでもこの身には譲れぬ祈りがある。このような時の彼方に迷い込んでまで、果たさなければならない王としての最後の責務がある」

 突きつけられる星の聖剣。
 胸に秘めた願いの為、憎悪に身を狂わせた理想の騎士を断つと、理想の王は宣言する。

「だから私は貴方を超えていく。その亡骸を踏み越えて、聖杯の下に辿り着く」

「…………」

 黒騎士の胸に去来する痛み。無情に非情に采配を振るい、国を守り続けてきた王。私情を殺し心を殺し、民の為に尽くして来た王。
 ならばその行いに報いるものは何なのか。カムランの丘での終わりが、彼女に衝き付けられた報酬であったとしたら、それは余りに救われない。

 故に彼女は求めている。聖杯を。生前幾度も探索を行いながら、終ぞ手に入れられなかった聖杯を、この遥か時の向こうで掴み取る為に剣を握っている。その手を血で染める事を厭わず、犠牲となる全てのものを踏み越えて。

「さあ、剣を構えろランスロット。その身の復讐を果たしたいと欲するのならば、剣を執り私にぶつけて見せろ!」

 しかし湖の騎士は剣を構えず、儚げに微笑んだ。

「……申し訳ない、我が王よ。どうやらその願い、果たせそうにはありません」

 掻き消えていく憎悪の波。揺らめく黒き魔力は霧散し、彼の手に握られていた魔剣は地に落ちた。からん、と音を立てた後、湖の騎士はその膝を折った。

「ランスロット……!?」

 その異常が罠であるなどとは思いもせず、セイバーは駆け寄り仰臥した騎士をその腕に抱いた。

「これは……」

「ええ。とうに限界など過ぎていたのです。英霊の魂をその身に宿すには、我がマスターは脆弱に過ぎた」

 蟲に嬲られ仮初めの魔の業を手に入れた代償は余りに大きすぎた。一月程しか残らなかった余命を、たった三度の戦いで使い切るほどに酷使し過ぎた。
 特に先のあの黄金との戦いが尾を引いた。まさに死力を尽くした筈の命。湖の騎士がこうして戦えた事自体が、既に奇跡にも等しい偶然だったのだ。

「ああ……こんな終わりとは情けない。貴方の剣に応えたかった。この胸を、貴方の剣で貫いて欲しかった」

 求め欲したのは贖罪と赦し。理想の王の治世を破滅へと追い込んだこの身を、彼女の涙を盾に王に憎悪したこの身を切り刻んで欲しかった。
 報いを受けろと。罪を償えと。そうすれば、彼も……そして彼女も、もっと別の道を模索出来ていたかもしれないのに。

「既に詮無き夢だ……貴方の剣に背き続けた私には、そんな赦しを請う事自体が罪だったのです」

 アーサー王の死の間際になってようやくその決心がついたのだ。それももう一人の朋友の手に阻まれ叶わなかったが、なればそれをこそ報いと言うのだろう。

「王よ……最後に一つだけ聞かせて頂きたい。貴方は聖杯を掴み、何を願うのです」

 この身はこの王の事を誰よりも知っている。英霊となり、それでも彼女が王であり続けるのなら、その願いは王としての願いに他ならない。彼女個人の意思はそこにはない。彼女の祈りは、有り得ないのだ。

「決まっている。この身は国に身命を捧げたもの。故に願いは唯一つだけ──祖国の救済だけだ。あの選定の剣を引き抜いたのが私でなかったのなら、きっとあんな結末にはならなかった筈だ」

 だからもう一度やり直す。誰にも望まれなかった王ではなく、誰もの羨望を集める王ならば、アルトリアよりも上手く国を治めるだろう。カムランの丘での悲劇は無く、国は二つに割れる事無く、滅びの道もまた無かった筈だからだ。

 そして腕の中で死に往く男の悲劇もまた、なかった事に出来るだろう。

「ああ────」

 それは余りにも美しい自己犠牲。他の国を治めた暴君達から見れば狂気の沙汰としか思えない、そんな歪な祈りの形。

「ランスロット……何故貴方は泣くのだ……何を想い、その涙を流すのだ」

 人の心が分からない王には、騎士が涙する理由もまた分からない。理想と謳われた騎士は今、王の為に慟哭の涙を零している。彼女の祈りが余りにも痛々しくて、涙せずにはいられなかった。

 彼女は皆が言うほど完璧な王などではなかった。心を殺さなければ王として振舞えなかったのだ。真に理想の王であるのなら、そもそも心すらあるまい。彼女の理想とする王はそれこそ統治の為の歯車だ。

 しかし彼女はそこまで完全にはなれなかった。人の心が分からないのは、そんな余裕などなかったからだ。自身を王という機構に造り替えそれに殉じるには、そんな余分を抱えていられる余裕など微塵たりともなかったのだ。

 それでも彼女には心がある。民を想い、騎士を朋友と呼んだ心があったのだ。

 ──ああ、今更になってそんな事に気付くなんて、遅すぎる。何もかもが、遅すぎた。

 もしきちんと言葉を交わせていたら。
 王と向き合えていたら。
 円卓は、今なお永遠に語られる、絆で結ばれた朋友の集いであったかもしれない。

「王は……そんな悲しい生き方を、今なお貫こうと言うのですか」

「貴方がその最期まで騎士である事に殉じたように、私も王である事に殉じるまで。そこに否はないし、誰にも口を挟ませはしない。
 私は祖国を救い、王であった私を消し去り、この世から消え去ろう」

「貴方は私とは違います……私は騎士である事を捨てられず、王妃の涙を見捨てられず、王の朋友である事すらも捨てられなかった、そんな強欲な騎士なのです。
 貴方はただ一つの祈りを、最初に抱いた想いをずっと胸に秘め続けている。その在りようは羨ましく、そして同時に眩し過ぎた」

 理想の王の背に焦がれ、この身は理想の騎士として在り続けた。その眩さに目を焼かれながら、同時に疎んでもいたのだ。
 人である事を簡単に捨ててしまえる王が憎いと。そうまで理想に殉じられる王が羨ましいと。

 人であり男であり騎士であった彼にとって、王である事だけを望み続けた彼女は憧憬と憎悪の対象だったのだ。
 そんな強さが自分にあったら、彼女の涙を止められたかもしれないのに、と。

 それこそが狂気の具現。形振り構わずぶつけたかった、この騎士の本心だ。

 しかしそれも今や霧散した。この王の在り方を、その末期の祈りを聞いた今、どうして憎悪など出来ようか。どうして敵意を向けられるだろうか。

 彼女はその最期まで国に尽くしていた。奔放で気ままな騎士達を纏め上げ、噴出する不満を戦果によって抑え込み、ただ民の理想とする王で在り続けた。
 なぜ我らは彼女を助けられなかったのか。何故その力になろうとすらしなかったのか。円卓は、その為にあったのではないのか。

 誰も彼もがバラバラだった。王が余りに高潔すぎて、人であった騎士達から見れば襲い来る異民族と何ら変わらないものに見えていたのかもしれない。畏怖の対象、理解の出来ない存在だと。

 誰も王の心を知ろうとはしなかった。

 王は人の心が分からない──ならば同様に、騎士もまた王の心を解してなどいなかったのだ。

 今更になって王の真意を知った。知ってしまった。無念と後悔が胸で渦巻き、それでも声を上げる力すら、もうこの身体には残っていない。

 この身にまだ力が残っていれば、諌めの言葉を掛けたいのに。
 それは駄目だと。
 その祈りは間違っていると。

 王として生き、王として死んだ貴方は、ならばその誇りを胸に抱いて眠るべきだと──

「王よ……どうか……」

 願わくば、彼女の迷いを断ち切る者が現れますように。
 この身では叶わぬ願いを叶えてくれる者よ。
 どうか、彼女を救って上げて欲しい。

 ────その心に、誇り(ひかり)を……

 搾り出した声は後に続かず、総身を覆っていた黒き魔力は吹き荒ぶ風に攫われ、後に残ったのは死に体にも等しい間桐雁夜の肉体だけだった。

「ランスロット……」

 その最期まで騎士の本心を知る事無く、王と呼ばれた少女は腕の中で息絶えた朋友を見送った。

 腕に抱いていた雁夜を横たえる。未だ息はあるようだが、もはや戦える……否、生きられる身体ではない。
 数分もしない内に息を引き取るだろう。死者に鞭打つ趣味は無い。

「さあ……行こう」

 剣を支えに立ち上がる。折れぬ意思がこの身に宿り続ける限り、アルトリア・ペンドラゴンは止まらない。止まる事を赦されない。

 無辜の人々を犠牲にし、自らの祈りを叶える為に、同じく聖杯に祈りを託す者達を踏み越えてきた。今もまた、かつての朋友をその轍の一つとした。
 ならばどうして止まれようか。どうして歩みを止められようか。せめてこれまでの犠牲に報いる為に、聖杯を是が非でも掴み取らなければ。

 遠望の彼方に既に大海魔の威容は無い。ランスロットとの戦いに全力を傾けた結果、その消滅を見過ごしてしまったが、構わない。
 残っているサーヴァントから考えるのなら黄金の王か赤銅の王のどちらかの仕業であり、そしてこれより踏み越えなければならない強大な敵である。

 後少し……後少しで聖杯に手が届く。

 ならば行こう、その先へ。
 全てを叶える、星の下へ────


+++


 セイバーが戦場を去った後、間桐雁夜は意識を取り戻した。バーサーカーに肉体を捧げていた間の記憶はない。ただこうして自意識が戻ったという事は、身に宿した英霊は敗れたという事だけは理解出来た。

「はっ……、ぁ──」

 声にならない声。視界は虚ろ、音もまた聞こえない。身体中を這い回っていた刻印蟲は既に全て死滅している。バーサーカーに魔力だけでなくその身すらを食い潰され、雁夜の肉をも食い荒らされた結果だ。

 それだけの犠牲を払ってこの手に残ったものは何も無い。愛した女は別の誰かを庇って死に、助けたかった少女はそんな女の涙の為でしかなかった。

「ごめ、んな……さく、ら……ちゃ──」

 忘れていた名前が胸に戻る。ああ、あの子の名前をまだ思い出せた。それだけが、雁夜にとって救いになった。

 一年の間、蟲倉で修練を共にし、苦痛を分け合った。この身以上の苦痛に苛まれている彼女を救い出したくて、命を捧げる覚悟をした。

 ならばそれはきっと嘘じゃない。最初は確かに誰かの涙の為だったかもしれないが、いつしかその理由も変わっていた。いや……桜を救う事も、雁夜を衝き動かす確かな力となったのだ。

 一つの願いでしか動けないなんて、そんな道理は何処にもない。
 雁夜はずっと好きだった葵の涙を止めたくて、そしてその涙の原因となった桜をも救いたかった。

 ならこの胸に残った彼女達の名前だけが、雁夜にとっての救いの形。天に手を伸ばしても何をも掴めぬ掌で、拭いたかった涙の理由。

「ああ……」

 枯れ落ちていく命の音を聞きながら、雁夜は静かに瞼を閉じた。

 伸ばした掌で掴めなかったものを幻視しながら……。
 拭い去りたかった涙の理由を、その胸に抱きながら……。


/5


『令呪を以って奉る──英雄王よ、御身の至宝を用いてキャスターを誅罰せよ』

 その命令を下し、遥か未遠川にて天から降り注いだ至宝の一撃によってキャスターが消滅した事を見届けた後、時臣は自宅への帰路に着いていた。

 あんな怪物が出現し、アーチャーの一撃で更なる衆目を集めた以上、今夜の戦闘続行は不可能だ。それは今を生き残る誰しもが理解している筈であり、あの衛宮切嗣さえも例外ではない。

 歩みを進める時臣の腕の中には葵の遺体はない。魔術師の妻となる事を覚悟した以上、一般人と同じように墓の下に入れるとは思ってはならない。

 魔術師の肉体は魔術刻印を剥奪されてなお格好の実験素体に成り得る。故に墓の下に入るとしても骨すら残されず焼き尽くされるか、そもそも墓になど入らない。

 葵は魔術師ではないが、その身体の特異性──魔術師の子を宿す最適な母体であるという事を、もし他の魔術師に知られてしまえば死してなお誰かの慰み者にされかねない。それを嫌った時臣は、自らの炎で葵の遺体を焼き尽くした。

 灰も残さず塵も残さず、ただこの胸の中で生き続ける事を望み、誰かに玩弄される事を何よりも嫌悪した。

 葵は時臣の妻だ。それを他人に触らせるなど我慢ならない。実験に使われる事などあっては、魔術師としてのルールを逸脱してでも、弄んだ誰かを殺し尽くしてしまいたくなるだろう。

 ────永遠の眠りを、我が(ほのお)の中で……

 それが時臣が葵に送る、一つ目の祈り。

「…………凛?」

 自宅へと帰りついた時臣を迎えたのは、玄関の扉の前で膝を抱えている凛だった。

「お父さま!」

「……何故おまえが此処に……いや、それよりも何故こんなところにいる? 中に入っていればいいものを」

「慌てて出てきてしまったので、鍵を忘れて……」

「…………」

 普段はしっかりしているくせに、ここ一番でポカをする凛らしいと言えば凛らしい失態だが、この呪いめいた体質がこの子の未来に致命的な災いを齎さないか、それだけが心配だった。

「とりあえずは中へ入ろう。今夜は冷える。どれだけの間待っていたか知らないが、こんなにも手を冷たくしてはいけない」

「あっ……」

 娘の手をとってその冷たさに驚き、そして手を取られた事に驚いた凛を見て、もう一度驚いた。

 ……そうか。私はこの子の手を握った事など、数えるほどしかなかった。

 父親が娘に行う親愛表現をどれだけ怠ってきたか、今更になってようやく知った。


+++


 凛を自宅に招き入れ、暖めたリビングで温かな紅茶を啜る。猫舌なのか必死に冷ましながらこくりこくりとカップを傾ける様は、我が娘ながらに愛らしかった。

 一息ついた後、時臣は凛に自宅前にいた理由を問い質した。曰く葵の残した書き置きを見つけ、その後を追いかけてきたらしい。大体が時臣の予想通りではあったが、それは魔術師としては不始末だ。

 今この街がどのような状況下にあるか、凛も知っている筈だ。それを知るからこそ母を捜して街を彷徨う事無く自宅前で膝を抱えていたのだとしても、やはりそれは許容出来る事ではない。

 下手をすれば戦いに巻き込まれていたかもしれない。戦う力も術もない凛では、抗う事無くその命を散らしていただろう。巻き込まれなかったのはただの幸運。結果論で話してはいけないと、凛を諫めた。

「……はい、申し訳ありませんお父さま」

「いや、済まない。私も少し気が立っていてね、辛辣な物言いになってしまった」

 そして凛は忙しなく周囲を窺っている。その理由は無論、葵を捜してのものだろう。母を追って冬木に来たというのに、巡り会えたのは父親だけ。ならば母を何処にいると、言外に凛は告げている。

「凛──良く聞いて欲しい。葵は戦いに巻き込まれ、そして私を庇いその命を失った」

「え…………」

 隠し立てする事に意味は無い。どうせすぐにもバレてしまう事なのだ。そして聡明な凛ならば、その意味を受け入れてくれるだろう。

「そう……ですか」

 目に見える落胆。納得など決して出来ていない返答。当然だ、幾ら魔術の薫陶を既にその身に宿しているとはいえ、まだ十にも満たない子供なのだ。母親が死んだ、だから受け入れろで済む話ではない。

「凛。これが戦いであり、魔術師というものだ。自らだけでなく、周囲をも傷付けかねない茨の道」

「…………」

「私とて葵の死を悔いている。私がもう少し気を配っておけば……そもそも禅城ではない何処か別の住処を用意しておけば……」

 くしゃりと髪を掻き、尽きない後悔を口にする。大切なものならば手元に置くべきだったのか。より遠ざけるべきだったのか。今となっては、中途半端な対応を行った事が悔やまれる。

 衛宮切嗣の悪辣さを侮った、この時臣のミスだ。無念は尽きる事がない。

「……お父さま。お母さまは、最期に笑っていましたか?」

「……凛?」

「もし笑っていたのなら、きっとお母さまは、今のお父さまを見て怒っていると思います」

 愛した夫を守り、死んでいった妻。ならばその死を悔いている時臣を見て、葵は怒っているだろう。その死は悔やむべきものではない。ただ悼んでくれればそれでいい。半身が欠け落ちてしまった事を、悲しんでくれればそれでいいと。

「だからお父さまは胸を張るべきです。お母さまはきっと、そんなお父さまが大好きだったから」

「……ああ、そうか」

 まさか娘に諭されるとは、時臣自身思いもしなかった。時臣と同等か、それ以上の悲しみに胸を貫かれながら、それでも気丈に振舞っている少女。
 時臣が教え説いてきた家訓に従い、涙を見せる事すらしない強さ。その心の在り様は、既に時臣をすら凌駕している。

「ありがとう、凛。少しだけ、気が楽になった」

 そして胸の底にあった決意もまた、確固たる形を得た。

「凛、忙しなくて済まないが、私はこれからもう一度外に出る。禅城へ戻るのは明日にしておけ。綺礼には事前に伝えておくから、勝手に出歩く事はしないように」

「はい、お父さま」

 この凛にも葵と同等の時臣に対する人質の価値がある。衛宮切嗣が執拗に時臣を狙うのならば、凛にまでその魔手は伸びかねない。

 ……いや、それはない。凛に人質としての価値は無い。衛宮切嗣は、もう私を狙わない。

 そんな確信を胸に秘め、時臣は立ち上がり玄関へと向かった。見送る為か、その後をついて凛もまた立ち上がった。

 靴を履き、見上げてくる娘を見下ろす。膝を折り、その髪をくしゃりと撫でた。娘の頭を撫でた事などこれが初めてなのだ、力加減が分からなくても許して欲しい。

「それでは行くが。後の事は分かっているな」

「はい」

 行儀の良い返事に頷きを返し、手を離し立ち上がる。

「成人するまでは協会に貸しを作っておけ。それ以後の判断はおまえに任せる。おまえならば、独りでもやっていけるだろう」

 そう言いつつも、これまで語らなかった諸々についてを矢次早に話していく。娘へ託す為に魔力を込めておいた宝石や、大師父から伝えられた宝石に関する事。地下工房の管理についてもそうだ。

 それは次代への継承を意味する遺言。
 遠坂時臣が遠坂凛に送る、魔術師としての最期の言葉だ。

 この聡明な娘ならば、既に気が付いているだろう。

 時臣は────これからその命を落とすだろうという事を。
 死を覚悟して、戦いに臨むのだろうという事を。

 これより向かう戦いは聖杯を賭けた戦いではない。
 一族の悲願の為の戦いではない。

 時臣がこれより臨むのは、妻の最期の祈りを叶える為の私闘に他ならない。

 令呪の二つを既に失い、アーチャーとの関係も良好とは言えない。
 それでも戦い抜く事は出来るかもしれないが、それ以前の話として、時臣はその身に致命傷を受けている。

 葵がその身を呈し庇ったものの、切嗣の放った弾丸は戦車の装甲でもなければ防げない威力を秘めていた。対象を殺害する上で最大の威力を携行する為の選択。装弾数一発というリスクを冒してまで欲した必殺の弾丸。

 その死神の魔弾は葵の身体を吹き飛ばし、時臣の腹をも貫いた。

 騙し騙しでこの屋敷にまで辿り着きはしたものの、もう長くはない事は時臣自身が誰よりも理解していた。見上げてくる瞳を誤魔化してはいても、そういつまでも隠し通せるものではない。

 それでも凛の前で弱さを見せる訳にはいかない。彼女にとっての理想の父であり魔術師として、その最期まで振舞いたい。
 そして葵のお陰で即死を免れた命であるのなら、ならばその残り火は彼女の祈りを叶える為にこそ使いたいと思うのだ。

 それが時臣が葵に送る、二つ目の祈り。

「凛、いずれ聖杯は現れる。アレを手に入れるのは遠坂の義務であり、何より──魔術師であろうとするのなら、避けては通れない道だ」

 だから自らでは叶えられないその悲願を、我が子に託す。
 最期に残せる父親らしい事が頭を撫でる事だけなのが心残りではあるが、後は上手くやるだろう。

「行ってらっしゃいませ、お父さま」

 娘の見送りの言葉を背中に聞く。
 その声が涙に滲んでいる事を、父は確かに聞き届けて──


+++


 降り頻る雨を焦がす業火が猛る。間桐の門構えが見えた瞬間、時臣は死力を尽くした大紅蓮で以ってその塀ごと破壊した。

 魔術師の家だ、緊急時に作動する遮音の結界は既に起動している。
 後は何の憂いも無く、この屋敷に巣食う悪鬼を燃やし尽くし、奈落に落とされた我が子を救い出す。

 庭に踏み込んだ瞬間、周囲に闇より湧き出す無数の蟲。大小様々な甲虫は、数えるのも馬鹿らしいほどの群れを為している。

「邪魔をするもの、その悉くを燃やし尽くす。今夜の私は少しばかり辛辣だ──手加減など期待するなッ!」

 荒れ狂う業火。開かれた火龍の顎門は一噛みで百の蟲をその身の炎で灰燼に帰す。竜巻の如く燃え盛る炎は風を巻き込みその規模を巨大化し、群れる蟲を丸ごと呑み込んだ。

「っ──、はぁ……!」

 穿たれた腹より滲む血がスーツにまでその色合いを侵食する。濁々と溢れる血を塞き止める事すらせず、火力の限りの炎を踊らせ続ける。

 庭に現れた千にも届く蟲の大群の全てを焼き払った後、次はその標的を屋敷へと向けようとした矢先──

「これ以上屋敷を荒らされては困るでの。そこらで一旦手を休めては貰えんか、遠坂の」

「……ようやくお出ましか、間桐臓硯」

「呵々、これは大層あらぶっておるの。家訓とやらはどうしたのじゃ」

「黙れ外道。貴様などに掛ける情けはない──!」

 繰り出す炎の槍。それは寸分違わず臓硯を貫こうとして──

「…………っ!?」

 その背より這い出したかのように現れた、少女の姿を見咎めて、時臣は無理矢理炎を捻じ曲げた。結果、炎の矛先は修繕途中の屋敷にぶつかりより凄惨な瓦礫と化した。

「おうおう……雁夜に破壊されて惨憺たる様だった屋敷がなお酷い惨状になっておるではないか。どうしてくれる?」

「くっ……貴様……桜を────!」

 黒かった髪は色素が抜けたのか青みが掛かっており、瞳の色さえも変わり果てている。それでも確信がある。あれは桜だ。間桐での一年の修練が、苦痛が、絶望が、彼女をあんな姿に貶めた。

「今宵の一戦、儂も過分に聞き及んでおるが、お主も相当に痛んでおるようだ。そんな身体を圧してまで桜を救いたいと欲するか? それとも今でなければ拙いほど、その身体は手酷い傷を負ったか」

「…………っ」

 臓硯が桜をその傍に侍らせている以上、時臣には手が出せない。最悪この老獪は自分が生き延びる為に桜を捨て駒にしかねないし、それでなくとも時臣の火力では桜を巻き込んでしまう。

 ならば……

「桜……聞こえているのなら、返事をして欲しい。私はおまえを連れ戻しに来た」

 けれど桜からの返答は無い。虚ろな瞳には光がなく、何処を見ているかも分からない。それでも問いかけ続ければ反応があるものと期待して、声を掛け続ける。

「今更になってこんな事を言うのもおこがましいと思うが、私はずっとおまえの身を案じてきた。我が子の未来に幸あれと願い、桜の未来を祈り、魔道の薫陶を受けられる間桐に養子に出した」

「────」

「ただ私は知ったのだ、間桐における凄惨を。雁夜を覚えているか……? 奴が教えてくれたよ、桜の悲痛を、絶望を。あの男は敵ではあったが、その事だけは感謝している。おまえをこうして、助けに赴けた」

 答えはない。反応も無い。まるで人形に語り掛けているようだ。

「この地獄に突き落としたにも等しい私が言えた義理ではないと思う。それでも言わせて欲しい。
 桜──帰って来い。おまえはこんなところに居てはいけないんだ」

「無駄じゃよ」

 時臣の必死の問いかけを一刀両断する臓硯の声。

「今日は少々躾を厳しくし過ぎての。桜の強靭な心を以ってしても、どうやら耐えられなんだらしい。ああ、安心せい。一日もすれば元に戻ろう。戻らねば戻すまでよ。可愛い可愛い孫なのじゃ、そう簡単に壊れてしまっては勿体無かろう」

「ぎっ…………、間桐臓硯──貴様ァ……!」

 時臣が炎の腕を振り上げ、渾身の操作を以って臓硯だけを撃ち抜こうとしたその、刹那──

「あ、…………ぇ?」

 ずぶりと自らの胸より突き出る白銀の刃。
 それは投擲に特化した形と重心を持つ黒鍵と呼ばれる概念武装。
 教会の代行者が好んで使う礼装だ。

「なっ……きれ、い……」

 振り仰いだ先に立つ、厚く信頼を寄せていた弟子。
 彼の手は黒鍵を抜き放った形のまま固定されており、綺礼が時臣を背後から強襲したという事実だけを、示していた。

「な、ぜ……」

 弟子の心の真意を知らぬまま。
 助けたいと願った娘を救えぬまま。
 愛した妻の願いを果たせぬままに──

 ──遠坂時臣は、失意の内にその意識を手放した。


+++


「間桐臓硯……」

 その人物については時臣から聞き及んでいた。気を許してはならない相手。賢しく振舞ってもそれすらも掌の上とする老獪。
 これが初顔合わせであっても身体の芯が理解する。これは化生──人の生き血を啜り蠢く人の形をした別のなにかだ。

「ほぅ……お主が綺礼……あの言峰璃正めの胤から生まれた男じゃと?
  呵々、これは良い! あんな信仰の塊とも言うべき堅物から、こんなにも歪なモノが生まれるか!」

 無表情のままに綺礼は黒鍵を抜き放ち、対する臓硯は如何なる業によってか、まるで瞬間移動でもしたかのようにその立ち位置をずらし回避した。大地を深く抉った十字架は、誰かに捧げられた墓標のようだった。

「おお、怖いのう。流石は師を背後から撃ち抜くだけの事はある」

「私がやらねば、貴様が時臣師を殺していただろう」

 如何に決死の覚悟で戦いに望んでいようと、救うべき人質ごとを殺せない時臣では無傷の臓硯を倒せない。
 二百年の時を生きる妖怪を相手に真正面から戦いを挑んだ事が無謀であり、そうするだけの時間しか残されていなかった時臣に勝ち目などなかった。

「それとお主の行動には関係があるまい?」

「大いにある。アレは──私の獲物だった」

 横たわる時臣に視線を向ける綺礼。本来ならばもう少し趣向を凝らしてみたかった。父の死に際の嘆きも甘かったが、この男を絶望させた後に手に掛ける事が出来ていれば、より甘美な愉悦があった筈なのに。

 見習い修了の証として渡されたアゾット剣。あれでその胸を貫く事を、夢見ていたというのに──

 真実、綺礼がこの場に馳せ参じたのは時臣に利する為だ。自らの手で壊したいと願ったものを、他人に横取りされるのは我慢がならない。
 それ故に時臣から連絡を受けた直後に行動を開始し、全力でこの場へと駆けつけた。

 だが戦いは既に始まっており、状況は切迫していた。いつ時臣が殺されてもおかしくはない状況だった。あの攻撃を止めなければ、臓硯は己と桜の身を守る為に時臣を殺していただろう。

 故に思考の前に剣を抜いた。
 誰かに奪われるくらいならば、この手でその死を遣わすと。

「カッ、そう言われてもの。こちらとしても被害者よ。牙を剥かれたのなら対処せざるを得まい? 見てみるが良い、この惨状を。不可侵の約定を破った遠坂に相応の請求を行う事も考えねばな」

「…………」

 手には死の感触が残っている。投擲ではあっても確かにその背後から信頼を貫いたという実感はある。でもこの程度では物足りない。より甘い蜜がありながら、それを横取りされたにも等しいのだから、胸の空虚は拭い去れない。

 しかしこれは既に終わった事。
 せめて自身の手で事を成せたことを悦んでおくべきか。

 臓硯の言葉を無視しながら、自らの感慨に耽る綺礼の貌を見やり、臓硯は得心したとばかりに頷いた。

「成る程の……お主、儂と趣向が似ておるな」

「吐き気がする物言いだ。貴様のような下種な趣味と私のそれとを同列に扱うな」

「変わらんよ。お主が星の光を食べるのなら、儂は夜の闇をこそ好む。見上げるものが同じなら、ほれ、儂とお主は同類よ」

 返答の変わりに黒鍵を放つ。敵意だけを込めた投擲は、当然のように躱された。

「まぁ良いわ。で、どうする言峰綺礼とやら。まさか儂を相手に立ち回るか?」

 戯言を謳わないのならまだ会話の余地はある。綺礼は周囲と現状を考察し、静かな声で告げた。

「いや、貴様と事を構える意味は無い。ただし時臣師の遺体は預かっていくが」

「好きにせい。今更その男に価値はない。桜をより従順に仕上げる為に一役買うかとも思ったが、些かタイミングが悪すぎた。
 この夜の出来事は桜の記憶には残るまい。父が如何にして死んだかを知らず、助けに来た事をすら覚えていない」

 ──憐れじゃのう、遠坂時臣。

 そう言い残し、間桐臓硯は火の海を渡り桜と共に屋敷に消えた。

「…………」

 胸に沸いたこの感情を同属嫌悪と言い表すのなら、ならば切嗣に馳せるこの想いは何と表現するべきか。
 そんな愚につかない事を思いながら、綺礼は時臣の遺体から黒鍵を引き抜き、担ぎ上げて間桐邸を後にした。


+++


 綺礼が観測する限りのこの夜の戦いにおける戦死者は三人。

 雨生龍之介。
 間桐雁夜。
 そして遠坂時臣。

 残存するマスターとサーヴァントは三組と一騎。

 衛宮切嗣とセイバー。
 言峰綺礼とアサシン。
 ウェイバー・ベルベットとライダー。
 そして時臣が死に、未契約状態ながら高い単独行動スキルにより存命中のアーチャーだ。

 戦死者については時臣の妻である葵や切嗣の片腕らしき女も入るが、マスターに限定する限りは三人だ。
 これにロード・エルメロイを含め四人。過半数が脱落した計算になり、最終戦に向けた舞台は徐々に整いつつある。

 後は邪魔なウェイバーとライダーを仕留めさえすれば、綺礼の思い描く戦場が完成する。
 心待ちにした逢瀬の時が、もうすぐそこまで迫っている。

「おまえも同じものを感じているだろう、衛宮切嗣。ならばまずは、邪魔者をこそ排除しようではないか」

 響き渡るサイレンと。
 夜霧を焦がす炎を背に。
 傘も差さず冷たい雨に打たれながら求道者は夜を往く。

 戦いの終わりは近い。
 もうすぐそこまで、決着の時は近づいていた。













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