Act.09









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 明け方。

 言峰綺礼は関係各所に電話を掛け連絡を取り次いでいた。

 未遠川に現れた威容──異界より招かれし大海魔。その出現によって漏れ掛けた神秘の隠匿の為、アレを目撃したであろう市民に対するケアという名の洗脳暗示が施される事が決定した。

 目撃者全てを殺し事実自体をなかった事にするにはその数は多く、そんな規模の神隠しを実行に移せば聖杯戦争が立ち行かなくなる。
 故に暗示という消極的な手段であれ、出来る限りの真実を闇に葬り、戦争を継続する為の手法が選ばれた。

 何度かに分けて行われるであろう暗示はその深度の分だけ効力を増す。他の記憶に対する障害も否めなくはないが、双方のキョウカイにとっては神秘の秘匿こそが大前提。
 口封じとしては手緩い手段を取るのだから、その程度の過失は受け入れて欲しい、とそういうところだ。

 今日の朝刊の一面辺りには、関係者より偽の事実として捻じ込まれた事件内容が掲載される事になるだろう。それに不安を抱く市民もいるだろうが、この街はとうの昔に戦地。ただそれを今まで知らなかったというだけだ。

 じきに戦いは終わる。いずれ記憶も風化する。そんな事もあったな、と笑い飛ばせる日が来る。
 全てを記憶し語り継げるのは、真実を知る戦いの勝者だけ。唯一人──聖杯の縁に侍る事を許された者だけだ。

「……これで一応は、片がついたか」

 最後の連絡を伝え終え、綺礼は目元を強く押した。

 間桐邸での一件からこっち、不眠での作業を強いられたのだ。眠らない事はそれほどの苦痛ではなくとも、余りに処理する雑事が多すぎた。
 璃正ならもっと上手くこなせたのだろうが、綺礼が引き継いだのは一日前。それで夜明けまでに全ての処理を終えたことは充分に驚嘆に値しよう。

 背負った荷物をようやく降ろせた綺礼はソファーに重い腰を落とし、天を仰いだ。

「後は……凛を禅城の邸宅に送るぐらいか」

 監督役としての雑務は終わっても、綺礼の仕事は終わらない。時臣が間桐邸に強襲をかける直前にアサシンを介し凛の処遇についてを伝え聞いた。

『綺礼、どうか凛を助けてやって欲しい。君の父を犠牲にしてしまった私が頼めることではないが、君以上に信頼を置ける者がいなかった。
 故に頼む。もし私の願いを聞き届けてくれるのならば、いつか私の書斎を尋ねてくれ。そこに全てを記した書簡を置いてある』

 ────後は頼む。君の勝利を、祈っている。

 そう言い残し、時臣は魔術師としてではなく父として娘の救出に向かい、厚い信頼を寄せていた弟子に背後から刺されて絶命した。

 彼は今際の際に何を見たのだろうか。信頼していた弟子に裏切られた絶望か。娘を救えなかった悔恨か。不条理な終わりに対する、慟哭か。

「……加害者である私がそれを知りたいと求めるのは、余りに趣味が悪い」

 そう理解していながら、その在り方が歪である事を知りながら、もはやそうする事しか出来ない自分に失笑する。
 罪の甘さを知ってしまった。涙の味を覚えてしまった。怨嗟の声は、どんな音楽よりも心地良い。

 こんな愉悦を知ってしまったら、他の全てが色褪せて見える。より甘い味を知りたい。より美しい色が見たい。ああ、それはならば正常な形。求めるものが真逆なだけで、その想いは世界に肯定されている。

 この身は遂に、赦しを得たのだ。
 自らを許す事を、赦されたのた。

「それでもまだ……答えには辿り着いていない」

 赦しを得る事と答えを得る事は違う。自らの歪が存在する事を認められても、何故そんな歪が生れ落ちたのか──それをまだ、知ってはいない。
 そこには必ず理由がある。全てのものに価値はなくとも、必ず意味は存在する筈だ。

 その答えを知る為に、聖杯を求める者達を踏み越えて、あの男との邂逅を夢見ている……

「その貌は、どうやら愉悦の味を識ったようだな言峰綺礼」

 揺らめく風。蝋燭の明かりが消え、差し込む太陽の光さえも駆逐する、黄金の輝きが部屋を染める。

「アーチャーか」

 黄金は虚空より具現化し、此処が自分の部屋であるかのように寛いだ。

「言峰。まずはこの目障りな殺気を何とかしろ。でなければ全てを滅ぼしてしまうぞ?」

「────アサシン」

 主の呼び声に応じ具現化する黒。その数は五つ。以前賊の侵入を許してから強固になった警戒は、この黄金の王をすら侵入者として捉えている。
 綺礼が黄金の存在を当然と受け入れているから刃は持ち出さないが、その心には猜疑の念が湧き出している。

「アーチャーのマスターである時臣師は亡くなり、この男は現在マスター不在のサーヴァントだ。
 故に私は彼を客として遇している。共に戦いの終わりを目指す協力者としてな」

「……何故ですか。我らがありながら、何故そのサーヴァントを召抱えられる?」

「召抱えたつもりなどない。私のサーヴァントはおまえ達だけであるし、おまえ達がある限り契約を行うつもりもない。
 彼は我らが陣営に不足している対サーヴァント能力に秀でている。故にその力を貸して貰っているだけの協力者だよ」

 残る敵はセイバーとライダー。どちらも正攻法での戦いを得手とするサーヴァントだ。敵の背後を衝くアサシンでは分が悪い。ウェイバーはライダーの傍を離れないし、切嗣はアサシンの存在を知り余計に背中を警戒している。

 ここでアサシンを使うという事は、使い潰す覚悟がいるという事だ。

「おまえ達にはまだやって貰う事がある。故にどちらか一騎のサーヴァントが消えるまでは無用な酷使をしたくはない。聖杯に掛ける願いを持つおまえ達も、こんなところで犬死にはなりたくあるまい?」

「…………」

「その為の協力者だ。彼には残りの一騎を打倒して貰う。その対価として、楔なき身では叶わない魔力の提供を行うつもりだ」

 今現在、冬木教会にはキャスターの手を逃れ保護された数人の幼子が地下に監禁されている。彼らの血と魔力を糧にアーチャーは存在を維持する、という算段だ。
 如何に高い単独行動のスキルを持っているとはいえ、宝具を使用する戦闘行為に及んでは魔力がどうしても足りなくなる。

 それ故の協定。アーチャーは戦力の提供を。綺礼は魔力の提供を。二人の利害は、こうして一致している。

「…………」

 それでもアサシンの不満は払拭されない。協力者。それはいい。しかしこの黄金もまたアサシンでは抗し得ない実力者。敵の一騎を打倒した先にあるのは何だ。その先に本当に、この身が願う聖杯はあるのか……?

「安心するがいい。聖杯はお前達が手に入れる。手に入れなければならない。その為に今は私に協力して欲しい」

「……分かりました」

 主からの嘆願を聞いては首を縦に振るしかない。どの道アサシンにはこれ以上抗するものがない。綺礼をマスターと仰ぐ以上はその指示に従うしかないのだ。

「ああ。その上で命令だ、今からアーチャーと内密の相談がある。万が一にも漏れてはいけない類のものだ。故におまえ達は教会の外の警戒に当たれ──全員でな」

「…………」

 アサシン達はそれに答えることなく姿を消した。程なく全ての気配が教会外に散った事を確認した後、綺礼は口を開いた。

「暗殺者に疑うなというのも難しいか」

「それはそうだろうさ。猜疑が形を持ったような連中だ。奴らも内心では分かっているのではないか? おまえは嘘は吐かなくとも、真実を覆い隠しているとな」

「さて……何の事やら。私は今の事実を述べただけであるし、これより先の目論見を語ったに過ぎない。そこに推測を持ち込むのは勝手だが、期待までを混ぜ込まれては少々勝手が過ぎるというものだろう」

「どの口がそんな空言を謳うのやら……まあ良い。おまえはおまえで好きに動けば良い。我も我で勝手にさせて貰う。その為の協力関係だろう?」

「ああ。私は衛宮を、おまえはセイバーを求めている。ならば共通の敵を倒すという利害はこの上なく一致している」

 ウェイバー・ベルベットと征服王イスカンダル。

 未だ能力の底を見せていない気配のあるライダーは警戒に余りある。今を生き残っているのがたとえ幸運の産物だとしても、赤銅の王の実力は本物だろう。

 そしてそれは衛宮切嗣も同じ。言峰綺礼を敵視している以上、まずは彼らを排除しようと動く。綺礼が何もせずとも切嗣がウェイバーに対処してくれるだろう。

 綺礼は決戦に向けた下準備を行うつもりだ。後は切嗣と協力者であるアーチャーに任せておけば抜かりない。

「ではな言峰。次に逢うのは、聖杯の前やもな」

 透けていく黄金。残滓を振り撒きながら、その気配を霧散させた。

「では私は私の些事を行うか」

 凛を禅城の邸宅に送り届ける事。そして時臣の遺した書簡の確認だ。

 遺言の内容についてはある程度察している。時臣の最期の言葉を思えば綺礼への信頼が形になったものだろう。

 その遺志を酌んだわけではないが、時臣の遺体は丁重に安置されている。腐敗の進行も食い止めてあるし、少なくとも数日の間にどうこうなるものでもない。

 彼の身体に刻まれたままの魔術刻印は凛に引き継がれるべきもの。それを失わせたくなかったから、間桐の翁の手に渡したくはなかったから綺礼は拙速とも取れる暴挙に出たのかもしれない。

「師の信頼に死を以って応えた私が、今更その上に胡坐を掻くのは許されまいが……それでも貴方の遺志は承りました。
 凛が一人で歩けるようになるまで、自立するその時まで、この身は助けとなる事を此処に誓いましょう」

 胸に提げたロザリオを握り、師への黙祷に代える。

 自らの手でその命を奪っておきながら、その死を悼む破綻した聖職者。
 言峰綺礼の視線は既に、戦いの先をこそ見通していた。


/2


 ウェイバー・ベルベットは起床してからずっと椅子に腰掛け空の向こうを仰いでいた。昨夜の雨は晴れ、快晴を告げる青が一面に広がっている。流れ行く雲を、ただ呆けて見上げていた。

「どうした坊主。心此処に在らずといった面持ちだな。よもや貴様、ホームシックにでも罹ったか?」

「……そんなわけないだろこのバカ。ボクはずっと昨日の戦いについて考えてるんだよ」

 それは嘘だった。確かに昨夜の戦いは思い返して余りあるが、考察の為に思考を回していたのではない。あの夜を貫いた赤い極光。世界を分かつ風を見せられて、ウェイバーは現実から逃避していた。

 なんてデタラメ。あんな一撃を容易く行えるサーヴァントがいる。これから自分達の前に立ちはだかって来る。その恐怖は、戦場を克服した歴戦の兵士であっても拭い去れるものではない。

 それほどの脅威。理解すら及ばない暴威。アレは人の業ではない。神の業だ。ちっぽけな人間一人が抗うには、その壁は余りに厚く高すぎる。

 ウェイバーと同じようにあの一撃を目に焼き付けておきながら、以前と何ら変わらない様子の己がサーヴァントに苛立ちを覚え、つい訊いてしまった。

「おまえ……アーチャーに勝てるのかよ?」

「無理だな」

「はぁ!?!?」

 剛毅であり不遜なこのサーヴァントならばそんな弱音を吐いたマスターの額を渾身の力で弾き飛ばし、怒鳴るくらいはするかと思っていた。そうして欲しいと期待していた。しかしその返答は否。アレには勝てんとのたまった。

「ああ、勘違いするなよ坊主。あの剣を抜かれてしまったら勝てんと、そう言いたかったのだ」

「……大して違わないだろそれ」

「勝ちの目が残っているだけ充分マシだろう。まあ彼奴が様子見も慢心もなく、最初からあの剣を抜き全力で掛かって来られたら、その時は諦めろ」

 人が人である限り自然現象に抗えない。その暴威から逃げる事や去った後の後始末は出来ても、災害そのものを消し去る事は出来ないし、意を決し立ち向かった先に待つのは無残な死だ。

 あの黄金は、人には逆らえない暴風も同じ。決して抗えない死の具現。

「あれはまさに英霊殺し。どのような格の英霊が相手でも、それが英霊では奴には勝てん」

「……そう確信してるくせに、おまえは聖杯を諦めないんだろ」

「当然だ。それに見てみたくはないか? 最強である自負を持ち、事実無敵に近い能力を有していながら、その足元を掬われ敗北する時の奴の顔をな」

「趣味が悪いぞおまえ……」

「何を言う。征服こそが余の覇道。強者の鼻を圧し折ってやるのも大好きさ。無論、辱めはせん。その強大な力に敬意を払い、余の幕下に従えるまでよ」

 何処までが本気か分からなかったが、それでもウェイバーの心は大分楽になった。自らが従えるサーヴァントは何一つを諦めていない。聖杯に託すちっぽけな願いと、その後にある自らで描く夢を今なお見続けている。

 ……なら僕も、それに相応しい行いをしなければならない。

 これまでこの奔放な王者に振り回されてきた。全く以ってデタラメだ。何処の世界に勝手に通販を使ったり履いてないまま外を出歩こうとするサーヴァントがいる。
 マスターの言う事は全然聞かないし、何度も弾き飛ばされた額には痕が残っているんじゃないかと錯覚すらしている。

 でもまだウェイバーは生きている。散っていった者達が既にいる戦場で、今もこうして仮初めの平穏に身を埋められている。
 それは認めたくなくてもこの王の力。この王の傍に在り続けたからこそ、ウェイバーは今なお生き永らえている。

 戦場の恐怖を知り、死の痛みを知り、救えないものの嘆きを知り、その度に大きな掌が頭を撫でた。その温かさを、忘れぬように噛み締める。

 ここから先を勝ち抜く為には、ウェイバーの力も必要だ。これまでのように王の背中に守られ続けているだけでは、ただの足手纏いでしかない。
 この身は魔術師。非力で何の取り柄もない凡庸の極みだ。それでも頭がある。思考を回す事が出来る。

 ならば考えろ。この王と共に聖杯の頂へ駆け上がる方法を。あの黄金を打倒し、この王と共に勝者となる夢を果たす為に。

「実際、おまえの見てる勝率はどのくらいだ?」

「そうさなぁ……彼奴は最強であるが故、その余裕を崩しはせん。事実あの剣を抜いたのは昨夜が初めてだ。それも令呪に従わされた結果であるのなら、余程追い詰められなければ抜かんだろう」

 あの剣を容易く使う事をアーチャー自身が好んでいない。あれはあの黄金にとっての切り札だ。湯水の如く溢れ出る宝具の一斉掃射だけで並の英霊が相手であれば充分に捻じ伏せられる。

「至宝の剣を抜く事──それ自体がアーチャーにとっての失態に近い。奴自身の意思で抜くのならば問題はないが、追い詰められた結果に抜かされたという事実に我慢ならん性質だなあの金ぴかは」

「じゃあ、あの剣を使わせずに勝つって事は、アイツが追い詰められていると認識する前に倒さなきゃいけないのか」

 言ってその難しさに辟易とした。

 どんな相手だろうと追い詰められれば切り札を切る。あの黄金はその切り札が他を寄せ付けない絶対のジョーカーだという点が違うだけだ。
 相手に切り札を切らせないままに勝つ──それを為すには、

「……奇襲がもっとも簡単だろうけど」

 それもまた難しいだろう。アーチャーであるからなのか、あの男の視野は極端に広い。いや、視界外のものをすら把握しているのではないかと思えるほどに、あの紅蓮の双眸は全てを見通している。

 何もかもがデタラメで、その全てが反則級。付け入る隙は最強ゆえの慢心だけ。ジョーカーを切られた瞬間負けの確定するデスゲーム。

「……やっぱり単騎じゃ勝てないか」

「ま、結局はそこに行き着くよな」

 赤毛の王も分かっていたのか、ウェイバーの言葉に賛同する。

「余の最終宝具を以ってしても宝具掃射ならいざ知らず、あの剣は抑え切れん。故に抜かせぬ事が大前提。しかし仮に追い詰めてしまえば必ず抜くし、追い詰めなければ勝ちの目はない
 ──それが余一人であったのならばな」

「二人掛かりなら相手の警戒心も増すかもしれないけど、単騎で勝ち目の薄い戦いに望むよりはまだマシ……かもしれない」

「手を組むのならセイバーだな。アサシンとランサー、キャスターは消え、恐らくバーサーカーももうおらん。残っているのは王を称する三人のみ。ならば最優の剣と手を組む他あるまい」

「……何でバーサーカーは消えたと思うんだ?」

「昨夜あれだけの威容を見せたキャスターの下にセイバーは姿を現さなかった。ならば奴はバーサーカーと戦っておったのだろうよ。
 アレはセイバーに執着していたようだし、アレが相手ではたとえセイバーでもキャスターを気にする余裕などなかっただろう」

「セイバーが負けたとは思わないのか?」

「ああ。英霊との融合などという暴挙を行った以上はたださえ制御の難しいバーサーカーを抑えきれるとは思えん。時間切れか、セイバーに断たれたか……そこまでは分からんが、バーサーカーの敗北は必定よ」

 それが事実であれば既に残りは三組。後一組脱落すれば、唯一人の勝者を待たずして聖杯はその姿を現すだろう。

 あくまでライダーの言葉の全てを鵜呑みにすればの話であり、推測の混じったものを確定のものとして行動を起こすのは危険だが、それでも現状、アーチャーを倒す為に手を組むというのは悪い策ではない。

「とりあえずはそれで行ってみるか……まずはセイバーとそのマスターに接触しないとな」

「ところで坊主。今日の貴様なにやら変ではないか? 何か余にはマスターらしいマスターに見えるんだが」

「ボクは最初からおまえのマスターだっ!」

「むふん、良い良い。貴様にも覇道の兆しが芽生えてきたと見える。良い兆候だ。今の坊主は身長を伸ばしたいだの言っていたあの頃とは随分変わっておる」

「……身長を伸ばしたいだなんて、一言も言った覚えないからな」

「細かいところを気にするのは変わっておらんなぁ。もう少し大らかに生きられんか。懐が狭いと婦女子にモテんぞ」

「大きなお世話だッ! あと、オマエが大らか過ぎるンだよっ!」

 ギャーギャーと益体もない会話を交わし笑いあう。迫る決戦の時、もうこうして共に笑い合える時間はないのかもしれない。いや……笑い続けるために、勝利を掴む為に戦いに赴くのだ。

「あぁ……そう言えば聞き忘れてた。オマエ、それだけアーチャーの剣を警戒してるって事は、アイツの正体にも心当たりあるんだろう?」

「無論。余と同等かそれ以上の不遜。本来一つの筈の英霊のシンボルたる宝具を湯水の如く所持している者。そして世界創生を謳う剣。
 符号では結べんが、これだけの要素を全て兼ねられる英霊など一人しか思い浮かばん。即ち────」

 黄金の王の真名を告げようとした時、タイミングも悪く階下より響き渡る電子音。それは来客を告げる音だった。

「そういや今日、二人は出掛けてるんだったか」

「うむ。マーサ夫人は買い物に、グレン翁は町内会の寄り合いとかいう会合だったかな」

 アレクセイの名でウェイバーのイギリスでの友人を騙り寄生しているライダーもこの家の家主であるマッケンジー夫妻とは面識がある。美味い飯を食わせてくれる、仲の良い老夫婦であると思っている。

 一応はこの家の家主の孫という扱いになっているウェイバーだから居留守を使うのは上手くない。暗示が解けないようにする為にも、出来る限り乗っ取った孫というペルソナの動きをトレースしておくべきだ。

 こんな事でいらぬ疑いは持たれたくない。その思いでウェイバーは重い腰を上げた。

「待て坊主」

「何だよ。まさかまた通販でなんか買ったとか言い出すんじゃないだろうな」

「そうであればまだ良かっただろうよ。この気配……少し拙いかもしれん」

 先程までの陽気はなりを潜め、赤毛の王の顔に浮かぶのは険しい色。この来客が、ただならぬ者だと告げていた。


/3


 衛宮切嗣は昨夜の戦いからこれまで、セイバーの召喚を行った屋敷に身を潜めていた。

 舞弥に持ち込ませていた備品を使い、来る決戦の時に向けて愛銃の整備に余念がない。粗方の掃除を終え、汚れを拭いて動作をチェックする。リロードも同時に確かめ、自身の腕に一切の鈍りもない事を確認した。

「…………」

 視線だけを傾け、見通せない襖の裏側を見る。薄い戸板を挟んだ向こうにはセイバーがいる。

 切嗣とセイバーを繋いでいた中継役──久宇舞弥の死によって二人はその作戦行動を共有する事が出来なくなった。別段、切嗣が己の口を介しセイバーに告げれば済む話なのだが彼はそれを極端に嫌った。

 この男にとって、セイバーは手にする魔銃と何ら変わらない道具。敵を討ち滅ぼす為の武器でしかない。
 無機質な鉄の塊に声を掛ける馬鹿はいない。愛着を持てばより性能を高められると錯覚する阿呆もいるが、そんなおかしな話はない。

 仮にあったとしても切嗣はそんな妄言を信じるわけがないし、目の当たりにしたところで行わない。ただの道具に愛着を抱くと言う事は、それを捨てなければならなくなった時に苦悩を抱く事になる。

 そんな余分は必要ない。武器は性能通りの効力を発揮すればいい。道具は道具。そう割り切る。自分自身さえも命を量る天秤に代えて、ただ無情に敵を討つ。

 それ故に切嗣は語らない。出逢いの夜より一度として会話を交わしていない。もし会話を行うとすればそれは必要に駆られた時。この手の令呪に訴えなければならなくなった時だけだ。

 対する彼女──セイバーは舞弥からの通信が完全に途絶えた後、彼女の死を目撃していないとはいえあの夜の戦いで命を落としたのだろうと推察し、マスターの気配を追いこの屋敷に舞い戻った。

 切嗣がセイバーと話す気がない事を承知している。それゆえ襖一枚隔てた場所に身を置いている。

 本来ならばもっと離れておく方が精神衛生上、双方にとって都合が良いのだろうが、今の冬木にはアサシンが跳梁している。斬り捨てた筈の影は存命しており、あまつさえ異常な能力を所有している。

 マスターの守護を第一の命としなければならない現状において、セイバーは切嗣の傍を離れる事は出来ない。切嗣もそれを承知しているのだろう、無闇にセイバーを邪険にはしていない。ただし、干渉も一切ないが。

 切嗣は全ての作業を終え、持て余した時間を刻む時計を見上げる。カチカチと音を刻み続ける古惚けたそれは、もう一時間ほどで中天を指そうとしていた。

 戦いから半日。
 充分に身体を休める事が出来た。
 準備も万端、不備はない。

 ならば行こう──残る敵を刈り取る為に。最後の敵と見える前の、肩慣らしだ。


+++


 とは言うものの、切嗣には未だにウェイバーとライダーの拠点の正確な位置が掴めていなかった。
 使い魔の追跡を悠々と振り切る雷神の戦車の機動力により、その着地点を最後まで見る事が叶わなかった。

 街中に張り巡らせていた舞弥の目が生きていれば今頃とうに掴めていたのだろうが、それも早々に言峰綺礼によって潰されてしまった以上は是非もない。

 それでもこれまでの数度の追跡でどうやら奴らの拠点は深山町にある事までは突き止めている。ならば虱潰しだ。

 マスターはマスター同士を、サーヴァントはサーヴァント同士を知覚出来る。
 日の高いこの時間、もし彼の主従が拠点に身を隠しているのなら、ある程度まで近づけば捕捉出来る。

 日中とはいえ無用心に背中を晒すのは上手くない。それでも切嗣はこの作戦がベターであると判断した。

 切嗣が推測する限り、アサシンの強襲はない。綺礼が切嗣との邂逅を望んでいる以上、相対する事無く背後より一撃とは行くまい。
 ライダー組にしてもそうだ。こちらが気付くよりも先に感付き、奇襲を行うという策は行わない。そんな気性ではない事は、森での一戦で把握している。

 警戒すべきは存命中であろうアーチャーだが、こちらも対策はある。
 切嗣が今こうして探索を行っている後方、五メートル当たりをセイバーが付かず離れずで同道している。

 綺礼の真意を知らないセイバーからすれば、アサシンが生存している以上はマスターの守護を務めるのが常道だ。最優の剣士の判断は正しい。

 ここで余計な干渉でもしてくれば別だが、話しかけるでもなく歩調をも合わせていないのは、切嗣の意を汲んでのものなのだろう。そして切嗣もセイバーの意を汲み、同行を許している。

 無言の肯定。勝利の為の最低限のコミュニケーション。今の状態が最良である事を、どちらともなく了解していた。

 深山町は大きく分けて二つの顔を持っている。一つは日本式家屋の立ち並ぶ区域。切嗣らの拠点もこちらにある。もう一つが洋館街。遠坂や間桐が軒を連ねる区域だ。

 舞弥が遺した調査結果によれば、洋館街の方が確率が高そうだった。深山町で消息を絶ったという以上の情報はなく、これは舞弥の私見を多分に含んだ憶測でしかない。
 それでも切嗣はその憶測を信用してみる事にした。どうせ手当たり次第に探すつもりであったのだから、少しでもより確率の高い方から当たって見るべきだ。

 そうして二つの区域を分かつ十字路に差し掛かったとき──

「おや……?」

 思いも寄らぬところから、声を掛けられた。

「…………」

 警戒も露に視線を向ける。この町に切嗣の知り合いなど居ない。居るのは討ち取るべき敵か無関係な一般人のみ。

「ああ、申し訳ない。もしやと思い声を掛けさせて貰ったのじゃが……私は電車で相席させて貰った者ですが……お忘れですかな?」

「……っ! ああ……」

 相手の顔を見て、ようやく得心がいった。切嗣がこの街に乗り込む前、とある電車の中で相席していた老紳士──それが今、目の前にいる者だった。

 ……そう言えば、あの列車は冬木も通過駅だったか。

 もしもの追跡を避ける為に迂遠な侵入手段を取ったが為、わざわざ直通の列車から乗り換え回り道をして冬木へと入ったのだ。
 思わぬところで思わぬ人物と出くわした。だからと言って切嗣には感慨など何もない。ああ、そういえばそうだったな──それだけで終い。足早に立ち去るだけだ。

「その節はどうも。こちらにお住まいでしたか」

 しかし今回に限っては、このご老人から何か引き出せるものがあるかと会話を続ける事にした。

「ええ。私もまさかこんなところで偶然にも再会出来るとは思いませなんだ。別の列車に乗り換えておられましたから、まさかこの冬木で巡り会うとは」

「少し寄り道をしていましたのでね。最終的な目的地は冬木(ここ)だったんですよ」

「そうでしたか。ああ、お引止めしてしまったのなら申し訳ない」

「いえ、少し人を探していた最中でして。地理に疎いもので迷っていました」

「おお、そうでしたか。何ならご案内しましょうか?」

「よろしいのですか?」

「ええ。丁度家に戻ろうと思っておったところです。
 急ぐ家路でもない。これも何か縁だ、儂にわかる事ならばお答えしますし、場所が分かっているのならご案内しましょう」

「いえ、それが場所が分からないのです。知人を訪ねて来たのですが、どうにもこの辺りの家でご厄介になっているらしいのですが」

「ほう……? して、その方の風貌などは?」

「一人は小柄な少年で、もう一人は赤毛の大男です。一目見れば分かるちぐはぐな組み合わせですので、見掛けた事があれば記憶にあるかもしれません。覚えはありませんか?」

 切嗣の問い掛けに、老紳士は快活に笑い、

「ええ、その二人ならようく知っております。何せ、うちで寝起きしておりますのでな」

 核心へと至る、そんな事を口にした。


+++


「なるほど。ウェイバーのご友人の方でしたか。
 いやぁ、アレクセイさんも良き御仁でしたが、貴方のような方とまで知己とは、我が孫ながら不思議な縁を持っておるものです」

 彼の名はグレン・マッケンジーという。

 ウェイバーとアレクセイと名乗るライダーが身を隠している彼の御仁の家に向かう道すがら、それとなく聞き出したところによるとウェイバーは暗示を用い自身をグレン翁の孫と偽っているらしい。

 なるほど、それは切嗣をして盲点だった。聖杯戦争に臨む魔術師ならば自らの拠点は堅固なものにしておきたいと思うもの。遠坂や間桐然り。そしてケイネスもまた然り。アインツベルンとて同様だ。

 未熟なウェイバーならば当然にしてそうするものだと考えていた。

 その前提で考えれば見ず知らずの他人の家に寄生し、あまつさえ工房化する事無く一般人と偽装して身を潜めるというやり方は慮外のもの。それはどちらかと言えば切嗣のやり方に近い。

 魔術師殺し──ああ、その異名に囚われていたのは切嗣も同じ。魔術師という固定概念に先入観を持ち、その外側に身を置く者……自身と同様の存在足りえる者の事を考えてすらいなかった。

 間違いなく切嗣の失態であり、失策だ。いや、逆にそんな背中を晒すにも等しい真似をしてのけたウェイバー・ベルベットの胆力こそを賞賛するべきか。

 何れにせよ拠点が割れた以上、最早是非もない。晒された背中を撃ち抜くだけだ。

「……ところで、後ろのご婦人は?」

 後方五メートル。付かず離れず変わらず後を追ってくるセイバーを訝しみ、グレン翁はそう訊いた。

「彼女は僕の仕事関係の連れです、お気遣いなく」

「ああ、例の……」

 列車での別れ際、切嗣は世界を救うと憚った。それが自分に課せられた仕事だと。為さねばならない義務であると。
 無論グレン翁はそれを鵜呑みにしていない。こんな何処にでもあるような街で、一体どうやって世界を救うというのか。彼なりの冗句、一期一会の別れに添える花だったとグレン翁は思っていた。

 昨今俄かに町全体が騒がしくはなっているが、それと切嗣の関連性を結び付けられるほどこの二人の事を知らない。だがら冗談めかして問いかけた。

「お仕事の方は順調ですかな?」

「そうですね。あと数日程か……早ければ今日にも達成出来そうですよ」

「それはそれは。ではようやくご家族とゆっくり出来ますな」

「ええ……本当に、長かった」

 この冬木での出来事だけを切り取ればそう長い時間ではない。しかし切嗣にとってこの戦いの終端で成される祈りの成就は、幼少の頃からの悲願だ。
 踏み躙って来たもの、手に掛けてきたもの。血で染められ屍の山で出来あった道のりの終わりがようやく見えてきたのだ。

 その為にこのご老人を利用する事に躊躇はない。ウェイバーとライダーに対する有効性が考えられるのなら、使い潰すまで。
 翁からの話題振りにそれとなく返しつつ、切嗣の心は静かに冷えていく。その双眸は色を失い、目的だけを見つめていた。

「ここです」

 老紳士が足を止めたのは何処にでもある一軒家。洋館街らしく洋風の佇まいだが、別段異常は見受けられない。魔術的保護もない、まさしく一般人の住む家だ。

「儂が家を出た時はまだウェイバーもアレクセイさんもおりましたが、最近よく出歩いておるようでしてな、今日もまだいるかどうか──」

「ああ、すみません。少し待ってください」

「…………え?」

 切嗣の制止に振り向いたグレン翁の額に突きつけられる、鉄の銃口。何の音沙汰もなく突如そんなものを取り出され、突きつけられた老紳士は当然にして当惑した。

「そのまま動かないで頂ければ、少なくとも今すぐ死ぬ事はありません。くれぐれも、妙な動きをしないように。誤って引き金を引いてしまうかもしれませんので」

 無感情にそう言い、グレン翁の困惑などまるで意に返すことなく切嗣はインターホンを押した。すぐに人質の腕を後ろに取って拘束し、その背中に銃口を押し付ける。
 仮に近隣住民に後ろから見られても銃を突きつけているようには見えまい。切嗣の身体が遮蔽物となっているし、その後方にはセイバーが控えている。

 セイバーが切嗣の悪逆な行いに如何なる感情を抱いているか、それは知る由もないが、真実として彼女は現状を看過していた。

 ────そして程なく。内側より扉が開く。

 玄関口に立っていたのは矮躯と巨躯。ウェイバーとライダーに他ならない。彼らの顔に滲むのは怒気か焦燥か。何れにせよこちらの訪問は知られていた筈。こちらがこの家に近づいた事で相手を感知できたように、向こうも知覚出来た筈なのだから。

「おうセイバー、こっちから訪ねようと思っておった矢先の訪問だ。歓迎したいところではあるが、なぁセイバーのマスターよ。その御仁は無関係な一般人だ、手を離してやってはくれんか」

「だろうな。おまえ達にとってもただ身を隠す上で都合の良かった隠れ蓑に過ぎないのだろう。しかし、今こうしておまえ達が静観に徹せざるを得ない状況を考えれば、一応の札にはなり得るようだ」

 つまりそれはグレン翁を離す気はないという事。交渉の席において使える手札であると判明した以上、無益に手放す意味はない。時臣に対する葵のような決定的な切り札にはなり得ないが、それでも充分なアドバンテージである。

「ウェ、ウェイバー……これは一体どういう事だ……?」

「ごめん、おじいさん。でも、すぐ助ける!」

「マスター! 上ですッ!」

 ウェイバーの強い語気に重なるセイバーの怒声。セイバーが踏み込むと同時、切嗣もグレン翁を掴んでいた腕と銃口をすぐさま外し、渾身の横っ飛びでその場を離脱する。

 武装を召喚する暇さえ惜しかったのか、セイバーは不可視の剣だけを手繰り寄せ、切嗣の居た場所へと踏み込み頭上より降る『人影』より繰り出された斬撃を迎撃し、返す刃で着地しようとするそれを斬り裂いた。

「なっ……サーヴァント!?」

 斬り捨てておきながら、それでもその衝撃が胸を貫く。今刹那においてセイバーが斬って捨てた影。それは確かにサーヴァントだった。聖杯に招かれた七騎の何れでもない、未だ見ぬ八人目のサーヴァント。

 ……いや、有り得るわけがない。ならば今のは、ライダーの宝具か?

 飛び退いた切嗣、そしてセイバー。二人は同時にその思考に至り、未だ玄関口に不遜にも佇む赤銅の王者を見やった。

「如何にも。今のは余の宝具の一端である。しかし流石はセイバーよ。奇襲に加えそれなりに名を馳せた者であった筈なのだがな、今の奴は。
 いずれにせよ、これで人質は返して貰ったぞセイバー、そしてそのマスターよ」

「つかオマエ……やりすぎだろっ!? おじいさん気絶してるじゃないか!」

「そこは許せ坊主。余とて今の一瞬では手加減するほど余裕がなかったのだ。それに御仁は気を失っておる方が安全だろうよ。後の処理はまた後で考えろ。今はこやつ等を何とかせねばな」

 セイバーと切嗣の隙を見計らい家の中にグレン翁を引き摺り込んだライダーの判断力。そしてこの策を事前に仕込んでいたからこその出迎え。
 切嗣からすれば一杯食わされた形だが、元々降って湧いた幸運が手から零れ落ちたに過ぎない。

 ウェイバー達の拠点が割れた。こうして面と向かい合った。それだけで充分過ぎるほどの収穫だ。

「さて……こんな真似をしくさってくれた奴らに話を持ち掛けるのは正直気に食わんところなのだが、背に腹は変えられん。セイバー、余と手を組まんか」

「なに……?」

「貴様とてあのアーチャーの脅威性は直に剣を交わし感じ取った筈だろう? あれは少々桁が違う。まともに戦りあうのははっきり言って分が悪い」

 征服王をして、そう言わしめる黄金。確かにあの湯水の如く溢れる古今東西無尽の剣群は脅威に値する。特に白兵戦に特化するセイバーからすれば、まず近づく事すら難しい。そして近づいたら今度は不可思議な能力を持った剣で迎え撃たれる。

 正直な話、未だ突破の方法を掴めない難敵ではある。

「今残るは既に余と貴様、そしてアーチャーの三人だ。ここで我らが争えば、結果利するのはあの金ぴかよ。故にまずはあやつを打倒し、その後に我らの雌雄を決するというのはどうだ?」

「──論外だな」

 征服王の提案を斬って捨てたのはセイバーではなく切嗣だった。

「如何なる敵であろうとも、立ちふさがる者は全て殺す。邪魔する悉くを捻じ伏せる。たとえあのアーチャーがいかに強大な敵であろうとそれは変わらない。手を組むなど論外だ」

「……ならば貴様には、あの金ぴかに抗し得るだけの策があると?」

「当然だ。無策で勝ち誇るのは馬鹿の所業だ。僕達は単独で充分に聖杯を獲得し得る。故におまえ達と組むメリットなど何一つとしてない」

 それはセイバーをして初耳の切嗣の宣誓だった。セイバー自身、アーチャーは強敵だと認識しているし、倒すつもりではいた。しかしその方策が見えなかった。
 けれど切嗣は言った。手はあると。切嗣とセイバーだけであのアーチャーを打倒出来るだけの策略があると。

「マスターがこう言う以上は私の出る幕はない。ライダー、その提案は受け入れられない」

「ふーむ……」

 セイバーは恐らくあの剣──乖離剣エアの威力を見ていない。見ていれば、そんな楽観は口に出来ないからだ。不可思議なのはマスターの方。この男の言には確信がある。何かしらの根拠があって今の発言をしたように見える。

 それが何なのかまでは流石に分からないが、それが恐らく──この男にとっての切り札に違いない。

「とは言われてもなぁ、余としてはその気であったゆえ今更駄々を捏ねられたところで如何ともし難い。つーかセイバー、余は貴様を幕下に加える気満々だったのだぞ? この行き場のない気持ち、どうしてくれる」

「……駄々を捏ねているのは貴様だ征服王」

 余りにも奔放な言動に辟易としたセイバーは頭を振った。

「……ならば征服王、一つ賭けでもする気はないか」

「賭けだと?」

「今夜冬木大橋で待つ。そこでおまえはセイバーと戦え。貴様が勝てばセイバーの身柄は好きにすればいい。その代わり、こちらが勝てば潔く死んで貰うがな」

「ほう……」

 それは賭けという言葉を使っただけの挑戦状であり果たし状だ。勝者は全てを手に入れ敗者は無残な死を晒す。単純明快この上のない決闘への招待状だ。

 切嗣がそう言ったのには勿論ちゃんとした理由がある。この場で争う事は簡単だが、流石に日が高すぎる。犠牲の多寡に気を払わずとも、神秘の露見に抵触しかねない。何よりこんな住宅の密集地ではセイバーは全力を出せないだろう。

 言峰綺礼、アサシンそしてアーチャーと見える前の試金石。セイバーという駒の最大戦力を把握し、そして一つの罠を仕掛ける為の戦い。

「そいつはいい。余の願いが全て叶うとあらば断るだけの理由はない。なあ坊主。構わんよな?」

「え……? あ、ああ……」

 これまでずっと蚊帳の外だったウェイバーは向けられた声にただ頷くばかりだった。

「だとさ。ではなセイバー、貴様との勝負楽しみにさせて貰う」

「ああ、首を洗って待っておくがいい」

 そして背を向けた切嗣とセイバーに掛けられる、征服王の声。

「なあセイバー。貴様がどのような祈りをその胸に抱いているのかは知らんし、その為に手を汚す事を厭わないでいる事も咎める気はない」

「…………」

「だがなセイバー、貴様のような小娘は、誰かの背に憧れを抱いているべきだ。その背に重荷を背負い続ける事はない。
 余がその重責から解放してやる。そして我が旗印の下、その剣と花を存分に咲き誇らせるがいい」

「戯言だなライダー。私が背負ったものは私自身が背負うと覚悟したもの。他人にとやかく言われる筋合いはない。
 それにそんな妄言は、私に勝ってからにするがいい。私は負けない。誰にも、何にも──聖杯は、我々が手に入れる」

 揺るがぬ意思を語り、セイバーは去る。その背を見つめる王の瞳に映るのは、如何なる感情であったのだろうか。


/4


 黄昏行く空。
 昇り来る月。

 一番星が夕焼け空に煌いて、遥か彼方からは忍び寄る暗雲の影。それはまさにこれから巻き起こるであろう闘争を予期させる、風雲急の気配であった。

 切嗣とセイバーの訪問時に巻き込まれ、気を失ったグレン翁は今なお床に伏している。命に別状はなく、ウェイバーが記憶の改竄と眠りの魔術を施したせいだ。
 ウェイバーの手腕では完全な改竄が行なわれたかどうかは不透明ながら、実際に神秘を見られたわけでもない以上は捨て置いても問題はない。

 それでもなお術を施したのはウェイバーなりの謝罪だ。これまで暗示により騙し続けた事と、巻き込んでしまった事への。
 どうせもうすぐ戦いは終わる。そうすれば二度とこの家には訪れない。それでも出来る限りの恩は返したかったのだ。

 この夜を越えて、もう一度戻れるのなら、ちゃんと謝ろう。そう決めて、その場凌ぎの施術を行なった。

「……そろそろか」

 ウェイバーの自室でホメロスの詩集を読み耽っていた赤毛の王はぱたりと本を閉じ、窓より空の彼方を見上げる。遠く、まるで故郷を思うかのような眼差しを見つめて、ウェイバーは口を開いた。

「行くのか」

「おう。宵闇にはちと早いが、それでも充分に日は暮れておる。男児たるもの婦女子を待たせるのは好ましくはない。故に先に出向いて待つとしよう」

 瞬間、吹き荒れる魔力の風。ライダーの総身を覆っていく風は実体を得、戦装束──鎧と真紅の外套へと転じた。そして窓を開き風を浴びる。

「……良い風だ。戦を待ち侘びる余の滾る心に染み入っていく風よ。なあ坊主、余には予感があるのだ。この夜が、最後の戦いであると」

「……まさかおまえが死んで終わる、そんな最期の夜だって言うつもりじゃないよな」

「当然よ。セイバーを下し、配下に加え、その後にアーチャーを打倒し聖杯を掴む。そこでようやくスタート地点なのだぞ? 余は確固たる己だけの肉の身体を得て、この身一つで天下にケンカを売りに行くのだ」

 マントのはためく背を見つめて、ウェイバーは思う。この男の背に憧れた者達は、何をその胸に抱いたのか。淡い希望か。無垢なる夢か。はたまた王の玉座を自らが取るという野望か。

 いずれにしろこの赤の王者はそれを良しと言うだろう。自らの首を狙いに来る者さえも肯定し、その覇気を賛嘆し自らの幕下に加えていく。東へ東へ。世界の東端を目指した王の軍勢は、日に日にその勢力を拡大していった。

 この男の背中はそれだけで大きい。世に名立たる兵共が畏敬を抱くに足る王者の中の王者だ。そんな男の隣にずっと座していた。何食わぬ顔で座り続けた。その厚顔が、今更になって胸を締め付ける。

 結局ウェイバーはこの時に至るまで何一つ出来なかった。ライダーに振り回され続けただけの、下らない道化だ。

「何を暗い顔をしておるか。さっさと貴様も支度をせんか」

「……何でだ」

「あん?」

「これから最後の戦いに臨むんだろう。それこそこれまでの戦いとは比べ物にならないくらい激しい戦いが起こるんだろう。そんな戦いに僕を連れて行くのか? いざって時に邪魔になるだけだぞ?」

「なんだ貴様、余と一緒に来たくないのか?」

「行きたいさッ! 行きたいけど、行けないだろ……」

 ウェイバーは身の程を充分に心得ている。自らがライダーの足枷にしかならない事を、誰よりも痛感している。だから行けない。着いて行きたくても行けないのだ。行けば必ず足を引く。

 セイバーにアーチャー、どちらも全力で死力を尽くしてなお勝てるかどうか分からない相手だ。そんな強者を相手に足手纏いを連れて行けば、敗北は確定的。

「ボクだって、おまえが勝つところを見ていたい……聖杯を手にする瞬間を共にしたい。でも……どう考えても邪魔でしかないだろ。そんなの、おまえだって分かってるだろ?」

「…………」

「だから置いてけよ。マスターだとか、そんなのもう関係ない。おまえが勝つ為の最善を行う為に、ボクなんか放っていってくれよ!」

 それはウェイバーなりに考えた最善だった。自らが此処に残る事が、ライダーが勝ち抜く上でもっとも勝率が高いと計算したのだ。
 森での戦いにしろ海魔との戦いにしろ、ライダーは常に全力を出し切っていない。隣にいたウェイバーを常に気遣っていたのだから。

 その枷を外してやれば、剣の英霊にも弓の英霊にも劣らない。魔力不足ゆえの能力劣化は否めなくとも、在りし日の征服王の姿が現代に蘇る事は必定だ。だから見送ると決めた。此処で待つと覚悟したのだ。

「ふむ……ならば余は、主の命に従い最善を尽くそう」

「…………っ」

「故に来いウェイバー。余には貴様の力が必要だ」

「──────え?」

 別れの言葉を告げられるものと覚悟していたウェイバーにとって、それは全くの慮外の勧誘だった。頭が正常に回らない。口が渇いて言葉が出ない。それでも瞳は、見下ろし手を差し出す王の姿を捉えていた。

「これよりの戦い、確かに貴様の言うように熾烈を極めるだろう。坊主が傍におっては危険が及ぶかもしれん。それでも余に最善を尽くせと命じるのなら、坊主も最善を尽くすべきではないか?」

「だからっ、ここに残るって……!」

「その手に輝く三つの印。使い残しておくには惜しいだろう」

「あ────……」

 そこでようやく、ウェイバーは令呪の存在に気が付いた。これまで温存していた三画の絶対命令権。未だ未使用の切り札。

「おっと、ここで詰まらぬ命令に使うなんて事、考えてくれるなよ? 貴様は余と共に同乗し、その切り札を使う瞬間を窺え。貴様が好機だと、危機だと判じた時に躊躇なく使ってくれ。
 これより見えるはそれほどの強敵よ。一画たりとも惜しむ事はない。全てを使い切り、余と貴様の二人でこの夜を突破するぞ」

「ぁ………………」

 王の言葉に心が震える。声が漏れそうになる。眦から零れ落ちる涙を受け止めるように背中を丸め、右手の甲を握り締める。
 まだ出来る事がある。この王の力になる事が出来る。それが必要だと言ってくれた。この身の力が必要だと言ってくれた。それだけで、ウェイバーは嬉しかったのだ。

「はは……全部使えって……なんだよそれ、そうしたらボクは、おまえを御せないじゃないか……」

「御す必要があるか? そんなものがなければ、共に肩を並べる事さえ叶わぬか? 違うだろう、余と貴様は既に朋友であるが故」

「こんなボクが……おまえの朋友で、良いのかよ……?」

「無論だ。余は貴様を認めておる。自らの矮小さを理解し、戦場の恐れを知り、それでなおこれまでずっと余と共に戦場を駆け抜けて来たのだぞ? それが朋友でなくて何だと言うのか。
 まあ酒を酌み交わせんのがちと惜しいが、それは後の楽しみに取っておくとしようか」

 そうして今一度差し出される王の掌。幾度となくウェイバーの頭を撫でた、大きな手。差し伸べられたその手を、ウェイバーは取った。

「ボクがいたから負けたなんて言わせない。ボクのお陰で勝てたって、そう言わせてみせるからな!」

「はっは! おう、期待しておるぞ──!」

 無空を蹴り上げ戦車を率いる神牛が嘶く。
 その背に乗せる二人の主を称えるように。

 絆で結ばれた主従が今──共にこの夜を越える為に空を翔る。


+++


「切嗣、そろそろ時間ですが」

 仮初めの拠点としていた武家屋敷の一室に、ウェイバー達との遭遇、宣誓からこれまで籠もり続けていた切嗣の背に掛けられるセイバーの声。それは戦いへと誘う角笛の高鳴りに似ていた。

「……それは」

 切嗣の背中越しにセイバーは光を見る。暗闇に没する室内を輝きに染め上げる、黄金の煌き。意匠の限りを尽くした荘厳。それこそが切嗣が自らの手で北欧に居を構えるアインツベルンの本拠地より持ち込んだ聖なる杯。

 今回の聖杯戦争において聖杯降臨の依り代となる黄金の杯だった。

 未だ取り込まれた魂の数は三つ。杯には半分程の(みず)しか満ちていない。それでもなおこの輝き。見る者の目を焼く至高の光輝だった。

 聖杯の状態を確認した切嗣は、今一度厳重に封を施し立ち上がる。武装は既に済ませている。後は聖杯を内包した木箱を今回の降臨の霊地──新都にある冬木市民会館へと運ぶだけだ。

 通常ならばこの四回目、元より三箇所あった霊地を巡り、最初の基点である柳洞寺に戻るものと思われていたが、聖杯戦争の為に手を加えられたせいで霊脈が乱れ、新たに瘤となって仮初めの霊地化し四つ目の基点が発生した。

 そしてその四つ目に今回は聖杯を降ろすに足るだけの魔力が蓄積されており、その場所がたとえ聖杯を降ろすのに相応しくない新都の中心部であったとしても、他の霊地で儀式を行なえない以上は冬木市民会館で執り行うしかなかった。

 幸いであったのは未だ市民会館は建造途中であり夜も深まれば無人になるであろう事。これがもし夜でも人が大勢いる場所であったのなら、より面倒な些事に煩わされる事になっていたのだろうが、不幸中の幸いと言えるだろう。

 しかし切嗣にとってはそんな些事はまさしく些事。聖杯を成す為に邪魔になるのなら無関係な人々とて殺し尽くすし、そこに戸惑いはない。

 もはや彼の歩みは誰にも止められない。
 終わりの見えた道のり、あとは死力を尽くし走りきるまで。

「令呪を以って我がサーヴァントに命ず──セイバー、死力を尽くし戦え」

 きぃん、と音と光を発しセイバーの身に呪縛となって降り注ぐ絶対命令。

「貴方はまた……そんな無為な命令を……」

 令呪の能力を最大限に発揮させる為には極刹那的なものほど効果の上昇を望める。逆に言えば長期的なもの、曖昧なものは効果がそれだけ薄くなる。
 切嗣の命令は後者。時期を限定していないし、命令の内容も漠然としたもの。これではセイバーの能力を嵩増しするには足りないし、縛るにしても些か弱い。

 何より、

「そのような事、言われるまでもない。私とて予感があります。この夜が最後の戦いになるだろうという予感が」

 恐らく、今を生き残る誰もがそれを痛感している筈。心の奥底で、この冬木を覆い尽くしていく不穏な空気を敏感に感じ取っている筈だ。
 故にどうせ命令を下すのならもっと有用なものであって欲しかった。死力を尽くした刹那において、相手を上回る後押しが欲しかったと思わないでもなかった。

「いえ……分かりました。私は貴方のその命令(いのり)に応えましょう。この夜を生き残る他のサーヴァントの悉くを、死力を尽くし斬り捨てると」

 片手に木箱を提げて切嗣がセイバーに向き直る。視線を交わすのはこれで二度目。初めて出逢った夜以来だ。

「ここまで来れば作戦は必要ない。おまえは持てる力の限りを尽くせ。周囲への被害など考えるな。全て僕がサポートする」

「はい」

「この手に提げた聖杯を、本物の杯とし祈りを叶える。その為に、ライダー、アサシン、そしてアーチャーを倒せ」

「はい」

 セイバーにとって切嗣は未だ底の知れない男だ。その明確な祈りを知らず、手を汚す理由を知らない。それでもこの男の覚悟と意思だけは本物だ。これまでの全てが、そう語っている。

 だから疑いなど必要ない。猜疑など以っての他。聖杯を掴む為に手段を選ばないだけの強さがあり、どうしても叶えなければならない祈りがある。それだけ分かっていれば充分に事足りる。

 故に背中の心配はない。この男に後の全てを任せ、己は向かい来る敵の全てを打ち倒す事だけに集中する。

 先の命令がセイバーを縛るのではなく後押しする。元より万全に近い身体状況をより完全へと押し上げる。それは微々たる支援。余程の接戦にでもならなければ分からないくらいの差異。

 しかしその想いを確かに受け取った。その願いを聞き届けた。ならばこの身は、彼の剣として遺憾なくその力を振るうのみ。

 ──貴方が私のマスターで良かった。貴方にもまた、私がサーヴァントで良かったと、この戦いの終わりで想って貰えれば、この身はただそれだけ救われよう。

 聖杯で祈りを叶えるという事はセイバーの消滅を意味する。在りし日の聖剣を引き抜く前の自分と今の自分は別人だ。前者がたとえ少女としても生を全うしようとも、王として生きた己は願いの成就と共に消え去るのみ。

 その先の事はセイバーにも分からない。真実として消えるのか、世界との契約により守護者として囚われるのか。

 いずれにせよ王としての最後の責務さえ果たせればセイバーはそれでいい。それで充分だと思っている。
 後のことは、後になってから考えるべきだ。今はただ、剣として戦うのみ。

 切嗣もまた同じく、ただ前だけを見据えている。
 残る強敵を打ち倒し、聖杯の前で希う。

 争いの根絶を。
 恒久の平和を。
 人の変革を。

 この目に焼きついた地獄とも煉獄とも思える阿鼻叫喚を、この世から消し去る。
 ただ穏やかに生きられる世界が欲しい。
 この手で救えなかった人々が、望んでいた世界を掴み取る。

 死徒化し、殺してくれと懇願する初恋の少女を殺せなかったばかりに、島一つを犠牲にした。
 その犠牲に報いる為に、この身は天秤の守り手となった。

 死徒の蠢く旅客機内で、最後まで生きる事を諦めなかった師を殺した。
 もし着陸を許していれば、より被害が大きくなっていたかもしれないからだ。

 可能性の芽は摘み取る。最小の犠牲で済む方法を、愛した人、大切な人でさえも貴賎のない命として天秤に載せ続ける。
 事実として命を奪ってきた。切嗣の傍にいた誰もを、この手で殺してきた。

 戦場で拾った子供を機械に造り替え、その身をただの犠牲にさえ貶めても。
 この身は涙さえ流せない。

 後戻り出来る道などない。往く道は過酷。しかし後ろには断崖絶壁しかないのなら、光の先を目指して屍山血河を走り続けるしかない。

 後少し……後少しで手が届く。
 ならば往こう。
 非道に堕ち、外道に手を染め、誰に非難を浴びせられようとも。

 唯一つ目指した光の彼方へ。

「────行くぞ」

「はい────!」

 孤独を糧に(けん)を執る。
 血と硝煙の匂いに身を包んで、約束を果たしに行こう。













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